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14 万彩
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「来週の水曜に3人? いけるけど、めぎつねは?」
晶は茶葉の入ったポットにゆっくり湯を注ぎながら、言った。晴也は駅前のケーキ屋で買ったタルトを小皿に乗せ、フォークを添えた。
「床清掃が入るから1時間早く閉店するんだ」
「なるほど……ああ、ハルさんが初めてルーチェに来てくれた夜もそうだったんだよね」
晶は柔らかく微笑む。あれから4ヶ月、沢山のことが起きた。晴也を取り巻くいろいろなものが変わり、晴也自身も変わった、と思う。
昨夜は予約で既に満席で、晴也と美智生はショーを観ることができなかった。美智生は悔しがったが、まあ仕方がないと、晴也は自宅でのんびり過ごした。
「最近客の入りが良すぎるんだって? ミチルさんがたまに弾かれるって嘆いてた」
「そうなんだ、お客さんが増えるのは嬉しいんだけど、メンバーがそれぞれ忙しいから公演回数は増やせないんだよなぁ……」
今日は駅前の貸しレッスン室を使いに来た晶と合流した。昼ご飯を食べ、食後のデザートを買って晴也の家に戻ったところである。
晶は、この間晴也が一度返したスペアキーにクラゲのキーホルダーをつけて、あらためて手渡してくれた。今日は彼が、晴也の部屋のスペアキーに、色違いのキーホルダーをつけて持って来ている。こういうのが恋人同士のやり取りなのかなと思って、晴也は照れる。
晶は高田馬場の駅前の貸しレッスン室を気に入っているらしい。ドルフィン・ファイブの合わせで5人でも使いたいと話した。
「ショウさんにとっていい部屋の条件って何なんだ?」
「まず床かな、あとは窓の数と位置……湿度が高すぎず低すぎないのも大事」
湿度なんかわかるのか? 晴也は感心しつつ、ストレートの紅茶に口をつける。
「あの部屋いいよ、ハルさんに俺ん家に引っ越して来てもらいたいけど、あそこが使いやすいから俺がこっちに来ようかな」
晶は楽しげに言い、タルトにフォークを入れた。何故一緒に暮らす話になっているのだろう?
「ここは単身用だ、この辺は学生が多いからショウさんとこに比べたらうるさいぞ」
「でも安くて美味しそうな店が多いよ、やっぱり」
晶は口をもぐもぐさせてから、晴也をじっと見つめる。
「一緒に暮らしてくれるの?」
晴也は返事に困る。少し前からあり得ない、とはねつけただろうに。
晴也は自分の気持ちの変化に戸惑っていた。晶と暮らすとなれば、家賃や光熱費の分担、住民票の移動を伴う同居にするかどうかなど、決めるべきことが沢山ある。そんな面倒なことをして、いざ一緒に暮らし始めて喧嘩ばかりになったらどうするんだと思っていた。しかしこのところ、ふと晶の顔が見たくなったり、今何をしているのだろうと思ったりすることが増えて、一緒に暮らせばもっと一緒に居られるんだなと考えてしまう。
「……まだ出会って4ヶ月だよ」
「トニーとマリアは出会って2日で一緒に生きていこうと決めた」
「だからそれはフィクション」
晴也はフォークでタルトをつつきながら、言った。晶はくすくす笑う。
「俺とハルさんは足して2で割るとちょうどいいんだ、たぶん」
「……だよな、俺もそんな気がしてきた」
晴也が同居にやや前向きなそぶりを見せただけで、晶は満足したらしく、水曜は誰と来るのかと訊いてきた。
「ミチルさんとね、ナツミちゃん」
「おおっ、みんな女装して来る?」
「いや、ナツミちゃんは休みだし……あ、でも聞いてみる、彼のめぎつね卒業イベントの一環だから」
「ナツミちゃんの意向で決まるんだな」
晶は楽しげに言った。晴也はナツミが木曜に、目を腫らして客に心配されながら働いた話をすることはできなかった。
ナツミはめぎつねを卒業する前に、晶のダンスをルーチェで見たいと言った。夜中のショーパブは学生にはハードルが高いので、晴也と美智生が付き添い、自宅の方向が一緒の美智生がタクシーでナツミを送るところまで段取りしている。
木曜は遅い目の時間に、藤田と牧野が久々にめぎつねにやって来て、4月になったら金曜に一緒に行こうねとナツミに話していた。
「ナツミちゃんの最終出勤日は?」
「19日の土曜日」
晶はああ、と眉の裾を下げた。吉岡バレエスタジオの発表会のリハーサルがあるらしい。
「土曜日はたぶん混むからさ、その週の木曜に来てあげてよ」
「そうだな、そうする」
晴也は小さく頷いた。そんな晴也の表情に何か感じたのか、晶は紅茶に口をつけてから、覗き込んで来る。
「どうした、ナツミちゃんの卒業で何か困ったことでもあるのか?」
「あ、いや……新しい人来週から来るんだ」
晶は晴也と目が合うと、ちょっと笑った。
「ハルさんも先輩になるんだな、化粧もしっかり教えてあげて……発表会の日はどう? 昼過ぎに来れそう?」
晴也は吉岡バレエスタジオの発表会当日、メイクのスタッフとして楽屋に入ることになってしまった。晶のクラスの生徒とその親たちが、当日ハルさんに手伝ってもらえないかと頼んで来たらしい。晶に交通費と謝礼を出すとまで言われて、断る訳にもいかなくなった。
「俺はホールに10時には行かなきゃいけないから、行きは乗せてあげられないんだけど」
晴也は晶が朝からホールで準備があると聞いて、思わず言った。
「大変だなあ、本番って14時からだろ?」
「舞台はどんなものでも本番は一日仕事だよ」
「ふうん……」
出演者もたった10分ほどの本番のために、何ヶ月もかけて練習する。職人が試行錯誤しながら火薬を緻密に調合して、花開くと一瞬で燃え尽きる、打ち上げ花火を連想した。皆その一瞬に賭けて、観客はそれを心に刻みつけるのだ。
晶の指先が頬に触れたので、晴也はぱっと顔を上げる。彼の顔を見ていると、ナツミのことを黙っておくのが辛くなってきた。
「あの……こんな話しても誰得って気はするんだけど」
「うん、何? とりあえず聞こっか」
「ナツミちゃん、ガチでショウさんのこと好きなんだって」
晴也の言葉に、晶は目を丸くした。晴也は続ける。
「それでわざと、ショウさんがロンドンに行ったらもう帰ってこないかもね的に俺に言ったことを謝って来たんだけど、ナツミちゃんが俺に謝る意味がわからなくて」
晶は苦笑した。
「ナツミちゃんがそれでハルさんに意地悪したつもりってのが可愛いし、ハルさんに通じてないのも笑える」
晶は茶葉の入ったポットにゆっくり湯を注ぎながら、言った。晴也は駅前のケーキ屋で買ったタルトを小皿に乗せ、フォークを添えた。
「床清掃が入るから1時間早く閉店するんだ」
「なるほど……ああ、ハルさんが初めてルーチェに来てくれた夜もそうだったんだよね」
晶は柔らかく微笑む。あれから4ヶ月、沢山のことが起きた。晴也を取り巻くいろいろなものが変わり、晴也自身も変わった、と思う。
昨夜は予約で既に満席で、晴也と美智生はショーを観ることができなかった。美智生は悔しがったが、まあ仕方がないと、晴也は自宅でのんびり過ごした。
「最近客の入りが良すぎるんだって? ミチルさんがたまに弾かれるって嘆いてた」
「そうなんだ、お客さんが増えるのは嬉しいんだけど、メンバーがそれぞれ忙しいから公演回数は増やせないんだよなぁ……」
今日は駅前の貸しレッスン室を使いに来た晶と合流した。昼ご飯を食べ、食後のデザートを買って晴也の家に戻ったところである。
晶は、この間晴也が一度返したスペアキーにクラゲのキーホルダーをつけて、あらためて手渡してくれた。今日は彼が、晴也の部屋のスペアキーに、色違いのキーホルダーをつけて持って来ている。こういうのが恋人同士のやり取りなのかなと思って、晴也は照れる。
晶は高田馬場の駅前の貸しレッスン室を気に入っているらしい。ドルフィン・ファイブの合わせで5人でも使いたいと話した。
「ショウさんにとっていい部屋の条件って何なんだ?」
「まず床かな、あとは窓の数と位置……湿度が高すぎず低すぎないのも大事」
湿度なんかわかるのか? 晴也は感心しつつ、ストレートの紅茶に口をつける。
「あの部屋いいよ、ハルさんに俺ん家に引っ越して来てもらいたいけど、あそこが使いやすいから俺がこっちに来ようかな」
晶は楽しげに言い、タルトにフォークを入れた。何故一緒に暮らす話になっているのだろう?
「ここは単身用だ、この辺は学生が多いからショウさんとこに比べたらうるさいぞ」
「でも安くて美味しそうな店が多いよ、やっぱり」
晶は口をもぐもぐさせてから、晴也をじっと見つめる。
「一緒に暮らしてくれるの?」
晴也は返事に困る。少し前からあり得ない、とはねつけただろうに。
晴也は自分の気持ちの変化に戸惑っていた。晶と暮らすとなれば、家賃や光熱費の分担、住民票の移動を伴う同居にするかどうかなど、決めるべきことが沢山ある。そんな面倒なことをして、いざ一緒に暮らし始めて喧嘩ばかりになったらどうするんだと思っていた。しかしこのところ、ふと晶の顔が見たくなったり、今何をしているのだろうと思ったりすることが増えて、一緒に暮らせばもっと一緒に居られるんだなと考えてしまう。
「……まだ出会って4ヶ月だよ」
「トニーとマリアは出会って2日で一緒に生きていこうと決めた」
「だからそれはフィクション」
晴也はフォークでタルトをつつきながら、言った。晶はくすくす笑う。
「俺とハルさんは足して2で割るとちょうどいいんだ、たぶん」
「……だよな、俺もそんな気がしてきた」
晴也が同居にやや前向きなそぶりを見せただけで、晶は満足したらしく、水曜は誰と来るのかと訊いてきた。
「ミチルさんとね、ナツミちゃん」
「おおっ、みんな女装して来る?」
「いや、ナツミちゃんは休みだし……あ、でも聞いてみる、彼のめぎつね卒業イベントの一環だから」
「ナツミちゃんの意向で決まるんだな」
晶は楽しげに言った。晴也はナツミが木曜に、目を腫らして客に心配されながら働いた話をすることはできなかった。
ナツミはめぎつねを卒業する前に、晶のダンスをルーチェで見たいと言った。夜中のショーパブは学生にはハードルが高いので、晴也と美智生が付き添い、自宅の方向が一緒の美智生がタクシーでナツミを送るところまで段取りしている。
木曜は遅い目の時間に、藤田と牧野が久々にめぎつねにやって来て、4月になったら金曜に一緒に行こうねとナツミに話していた。
「ナツミちゃんの最終出勤日は?」
「19日の土曜日」
晶はああ、と眉の裾を下げた。吉岡バレエスタジオの発表会のリハーサルがあるらしい。
「土曜日はたぶん混むからさ、その週の木曜に来てあげてよ」
「そうだな、そうする」
晴也は小さく頷いた。そんな晴也の表情に何か感じたのか、晶は紅茶に口をつけてから、覗き込んで来る。
「どうした、ナツミちゃんの卒業で何か困ったことでもあるのか?」
「あ、いや……新しい人来週から来るんだ」
晶は晴也と目が合うと、ちょっと笑った。
「ハルさんも先輩になるんだな、化粧もしっかり教えてあげて……発表会の日はどう? 昼過ぎに来れそう?」
晴也は吉岡バレエスタジオの発表会当日、メイクのスタッフとして楽屋に入ることになってしまった。晶のクラスの生徒とその親たちが、当日ハルさんに手伝ってもらえないかと頼んで来たらしい。晶に交通費と謝礼を出すとまで言われて、断る訳にもいかなくなった。
「俺はホールに10時には行かなきゃいけないから、行きは乗せてあげられないんだけど」
晴也は晶が朝からホールで準備があると聞いて、思わず言った。
「大変だなあ、本番って14時からだろ?」
「舞台はどんなものでも本番は一日仕事だよ」
「ふうん……」
出演者もたった10分ほどの本番のために、何ヶ月もかけて練習する。職人が試行錯誤しながら火薬を緻密に調合して、花開くと一瞬で燃え尽きる、打ち上げ花火を連想した。皆その一瞬に賭けて、観客はそれを心に刻みつけるのだ。
晶の指先が頬に触れたので、晴也はぱっと顔を上げる。彼の顔を見ていると、ナツミのことを黙っておくのが辛くなってきた。
「あの……こんな話しても誰得って気はするんだけど」
「うん、何? とりあえず聞こっか」
「ナツミちゃん、ガチでショウさんのこと好きなんだって」
晴也の言葉に、晶は目を丸くした。晴也は続ける。
「それでわざと、ショウさんがロンドンに行ったらもう帰ってこないかもね的に俺に言ったことを謝って来たんだけど、ナツミちゃんが俺に謝る意味がわからなくて」
晶は苦笑した。
「ナツミちゃんがそれでハルさんに意地悪したつもりってのが可愛いし、ハルさんに通じてないのも笑える」
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