彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第4幕/おっさんフィガロとときめくピンカートン

第4場⑨

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 三喜雄がウイスキーまで常備しているとは思わず、今度は天音が引いた。

「ちょ、おまえ、それどうよ」
「昔美味しく作るコツを教えてもらったんだ、缶入りより全然いけるぞ」

 だからミックスナッツとチョコレートを買ったのかと、天音は納得して溜め息をついた。知らない間に三喜雄は、かなりの呑兵衛に成長していたようだ。
 三喜雄はまた新しいグラスを出し、わざわざ買っておいたらしいロックアイスを、2つのグラスの中にからからと落とした。

「『乾杯の歌』を歌うならまだ大丈夫だ」
「歌わねぇよ」

 天音は苦笑した。このマンションは夜9時まで音を出していいらしく、タイムリミットまであと10分あった。さっきから微かに聴こえてくるフルートの音は、駆け込み練習をしているのだろう。
 断ってはみたものの、明るい笛の音が天音の脳内に、馴染みのメロディを甦らせる。ヴェルディの「椿姫」の第一幕、ヒロインのヴィオレッタの家のパーティで歌われる有名な歌。歌い出しはヒロインに恋をする青年、アルフレードだ。

「『乾杯しよう、この美しく飾られた喜びあふれる盃で』……」

 天音は軽く口ずさんだ。三喜雄は歌に合わせて氷の上に澄んだ茶色の液体を注ぐ。さらに氷を足し、手慣れた様子でマドラーをくるっと1回だけ回した。
 続けて三喜雄は、ぱしゅっと音を立ててソーダ水の蓋を開けた。それなりに酔っているのか、彼は歌を督促する。

「続けろよ、こういう時ノリが大事だ」
「何だそれ、意味わかんね」

 言いつつも天音は、少し真面目に声を出した。

「『乾杯しよう、愛がもたらす甘美な身震いの中で……あの瞳が力強く私の心に向けられるから』」

 炭酸水は、グラスの縁からゆっくりと流れ落ちていく。ゆらりとウイスキーと溶け合い、香りが立った。銀のマドラーは、2つのグラスに1度ずつ差し込まれただけである。

「『乾杯しよう、この盃でその愛が熱い口づけを得ることができるよう』」

 三喜雄は合唱のパートを楽しげに歌いながら、出来上がったハイボールを天音に手渡した。互いにやや芝居がかってグラスを掲げ、笑いながら口をつける。その瞬間、炭酸がぱちぱち口腔内で弾け、木の香りが鼻から抜けた。

「うまっ!」
「ソーダを氷にぶつけたりぐりぐり混ぜたりしないのがポイント」

 天音が歓喜の声を上げたので、三喜雄は満足そうである。

「テノールがいないと決まらないんだけど、歌ってる奴が集まったら、これ盛り上がるんだよなぁ」
「おまえの大学って、いつも飲み会の時そんなノリなんだ……テノールがいない時は?」
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