1 / 58
プロローグ
プロローグ
しおりを挟む
「俺のせいなんか?」
井上旭陽の声は震えていた。泰生の心臓がどくんと嫌な音を立てたが、聞こえなかったことにする。
「何のことや、関係無いわ……しんどいだけや、伏見からこっち来てまた大阪まで帰らなあかんから」
泰生は、先月4回生たちに話した通りに旭陽に説明する。上級生たちは低音パートを受け持つ泰生が抜けることを惜しんだが、通学の事情を持ち出されると強く引きとめることはできない。泰生はそれを知っていた。京都市内にキャンパスを2つ持つこの大学において、3回生以降に利用するキャンパスの変更がある学部の学生は、課外活動を卒業まで続けられないことも珍しくないのだ。
旭陽は縋るような声音になった。
「そんなん、1回の時からわかってたやん……4回まで頑張る言うてたやろ」
肌の色も髪の色も明るく、やや女性的に整った容貌の旭陽がこんな悲痛な顔をすると、ついほだされそうになる。これまではそうだったが、泰生は同情に気持ちが揺れそうになるのを抑えつけた。
「1回の時はそのつもりでおったわ、でも実際やってみたらちょっとしんどい」
泰生の気持ちは固まっていた。伏見キャンパスで授業を終えてから、楽器の練習のためだけに下京キャンパスに移動するのは、きつい。2つのキャンパスのあいだを往き来するスクールバスは18時台までしか無く、吹奏楽部は19時まで練習があるため、帰りの交通費は自腹を切ることになった。正直言って、そこまで吹奏楽を愛している訳ではない。
後期になれば就職活動も始まる。もう、音楽生活は終わりだ。
しかし旭陽は、低音セクションでこれまで一緒に演奏してきて、学部が違うのに親しくなった泰生に対して、明らかな未練を見せた。
「長谷川がおらんくなったら、寂しい」
泰生は舌打ちをしそうになった。
あの時以来態度変えたんは、おまえやろが。おまえに会いたくないのもあるからクラブ辞めるって、言うてほしいんか。
口から出そうになるのを、堪える。
「……今生の別れちゃうやろ、大げさやな」
「でもクラブ無かったら、会おうと思わな会われへんやん、キャンパスも別なんやし」
その旭陽の言い方が、軽く癇に障った。泰生は言い返す。
「時間作って会おうと思わへんのやったら、そこまでってことやろ?」
旭陽ははっとしたような顔になる。自分が発したのが、やや失言だったことに気づいたようだった。
「そういう意味と違う」
「どういう意味でももうええわ」
口にしてみると、本当にどうでもよくなってきた。もう部活動の集合時間が近いので、泰生は話を打ち切ることにする。
「まあそういうことで、あと2週間よろしく……サマーコンサートの合奏にはもう出えへんけどな」
言い捨てる形になってしまった。泰生は旭陽の顔を見ず、彼を待つこともせずに音楽練習場に向かう。一旦校舎の外に出ると、じわっと湿度がむき出しの腕に襲いかかってきた。
そして最終出席日の今日、泰生は吹奏楽部の部員たちの前で、退部の挨拶をした。
「2年と3ヶ月、ほんまにお世話になりました……自分としても残念なんですが、やっぱり3回になってからちょっときつくなりました、皆さんはこれからも頑張ってください」
泰生がぺこりと頭を下げると、ぱらぱらと拍手が起こった。4回生がちょっとばかり引きとめてくれたことを思うと、あっさりとした幕切れだった。ちらっと右手を見ると、旭陽は足許に置いた銀色の大きな楽器に視線を落としたまま、手を叩いていた。
部長が明日の練習予定を確認し、練習の終了を告げた。お疲れさまでした、と全員で挨拶して、各々が楽器を片づけ始める。泰生は2年と少し弾き続けた、自分より少し背の高い大きな弦楽器を最後に丁寧に拭くべく、2枚のクロスを鞄から出した。
井上旭陽の声は震えていた。泰生の心臓がどくんと嫌な音を立てたが、聞こえなかったことにする。
「何のことや、関係無いわ……しんどいだけや、伏見からこっち来てまた大阪まで帰らなあかんから」
泰生は、先月4回生たちに話した通りに旭陽に説明する。上級生たちは低音パートを受け持つ泰生が抜けることを惜しんだが、通学の事情を持ち出されると強く引きとめることはできない。泰生はそれを知っていた。京都市内にキャンパスを2つ持つこの大学において、3回生以降に利用するキャンパスの変更がある学部の学生は、課外活動を卒業まで続けられないことも珍しくないのだ。
旭陽は縋るような声音になった。
「そんなん、1回の時からわかってたやん……4回まで頑張る言うてたやろ」
肌の色も髪の色も明るく、やや女性的に整った容貌の旭陽がこんな悲痛な顔をすると、ついほだされそうになる。これまではそうだったが、泰生は同情に気持ちが揺れそうになるのを抑えつけた。
「1回の時はそのつもりでおったわ、でも実際やってみたらちょっとしんどい」
泰生の気持ちは固まっていた。伏見キャンパスで授業を終えてから、楽器の練習のためだけに下京キャンパスに移動するのは、きつい。2つのキャンパスのあいだを往き来するスクールバスは18時台までしか無く、吹奏楽部は19時まで練習があるため、帰りの交通費は自腹を切ることになった。正直言って、そこまで吹奏楽を愛している訳ではない。
後期になれば就職活動も始まる。もう、音楽生活は終わりだ。
しかし旭陽は、低音セクションでこれまで一緒に演奏してきて、学部が違うのに親しくなった泰生に対して、明らかな未練を見せた。
「長谷川がおらんくなったら、寂しい」
泰生は舌打ちをしそうになった。
あの時以来態度変えたんは、おまえやろが。おまえに会いたくないのもあるからクラブ辞めるって、言うてほしいんか。
口から出そうになるのを、堪える。
「……今生の別れちゃうやろ、大げさやな」
「でもクラブ無かったら、会おうと思わな会われへんやん、キャンパスも別なんやし」
その旭陽の言い方が、軽く癇に障った。泰生は言い返す。
「時間作って会おうと思わへんのやったら、そこまでってことやろ?」
旭陽ははっとしたような顔になる。自分が発したのが、やや失言だったことに気づいたようだった。
「そういう意味と違う」
「どういう意味でももうええわ」
口にしてみると、本当にどうでもよくなってきた。もう部活動の集合時間が近いので、泰生は話を打ち切ることにする。
「まあそういうことで、あと2週間よろしく……サマーコンサートの合奏にはもう出えへんけどな」
言い捨てる形になってしまった。泰生は旭陽の顔を見ず、彼を待つこともせずに音楽練習場に向かう。一旦校舎の外に出ると、じわっと湿度がむき出しの腕に襲いかかってきた。
そして最終出席日の今日、泰生は吹奏楽部の部員たちの前で、退部の挨拶をした。
「2年と3ヶ月、ほんまにお世話になりました……自分としても残念なんですが、やっぱり3回になってからちょっときつくなりました、皆さんはこれからも頑張ってください」
泰生がぺこりと頭を下げると、ぱらぱらと拍手が起こった。4回生がちょっとばかり引きとめてくれたことを思うと、あっさりとした幕切れだった。ちらっと右手を見ると、旭陽は足許に置いた銀色の大きな楽器に視線を落としたまま、手を叩いていた。
部長が明日の練習予定を確認し、練習の終了を告げた。お疲れさまでした、と全員で挨拶して、各々が楽器を片づけ始める。泰生は2年と少し弾き続けた、自分より少し背の高い大きな弦楽器を最後に丁寧に拭くべく、2枚のクロスを鞄から出した。
30
あなたにおすすめの小説
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
こじらせ女子の恋愛事情
あさの紅茶
恋愛
過去の恋愛の失敗を未だに引きずるこじらせアラサー女子の私、仁科真知(26)
そんな私のことをずっと好きだったと言う同期の宗田優くん(26)
いやいや、宗田くんには私なんかより、若くて可愛い可憐ちゃん(女子力高め)の方がお似合いだよ。
なんて自らまたこじらせる残念な私。
「俺はずっと好きだけど?」
「仁科の返事を待ってるんだよね」
宗田くんのまっすぐな瞳に耐えきれなくて逃げ出してしまった。
これ以上こじらせたくないから、神様どうか私に勇気をください。
*******************
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる