夏の扉が開かない

穂祥 舞

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「俺のせいなんか?」

 井上いのうえ旭陽あさひの声は震えていた。泰生たいきの心臓がどくんと嫌な音を立てたが、聞こえなかったことにする。

「何のことや、関係無いわ……しんどいだけや、伏見からこっち来てまた大阪まで帰らなあかんから」

 泰生は、先月4回生たちに話した通りに旭陽に説明する。上級生たちは低音パートを受け持つ泰生が抜けることを惜しんだが、通学の事情を持ち出されると強く引きとめることはできない。泰生はそれを知っていた。京都市内にキャンパスを2つ持つこの大学において、3回生以降に利用するキャンパスの変更がある学部の学生は、課外活動を卒業まで続けられないことも珍しくないのだ。
 旭陽は縋るような声音になった。

「そんなん、1回の時からわかってたやん……4回まで頑張る言うてたやろ」

 肌の色も髪の色も明るく、やや女性的に整った容貌の旭陽がこんな悲痛な顔をすると、ついほだされそうになる。これまではそうだったが、泰生は同情に気持ちが揺れそうになるのを抑えつけた。

「1回の時はそのつもりでおったわ、でも実際やってみたらちょっとしんどい」

 泰生の気持ちは固まっていた。伏見キャンパスで授業を終えてから、楽器の練習のためだけに下京キャンパスに移動するのは、きつい。2つのキャンパスのあいだを往き来するスクールバスは18時台までしか無く、吹奏楽部は19時まで練習があるため、帰りの交通費は自腹を切ることになった。正直言って、そこまで吹奏楽を愛している訳ではない。
 後期になれば就職活動も始まる。もう、音楽生活は終わりだ。
 しかし旭陽は、低音セクションでこれまで一緒に演奏してきて、学部が違うのに親しくなった泰生に対して、明らかな未練を見せた。

長谷川はせがわがおらんくなったら、寂しい」

 泰生は舌打ちをしそうになった。
 あの時以来態度変えたんは、おまえやろが。おまえに会いたくないのもあるからクラブ辞めるって、言うてほしいんか。
 口から出そうになるのを、堪える。

「……今生の別れちゃうやろ、大げさやな」
「でもクラブ無かったら、会おうと思わな会われへんやん、キャンパスも別なんやし」

 その旭陽の言い方が、軽く癇に障った。泰生は言い返す。

「時間作って会おうと思わへんのやったら、そこまでってことやろ?」

 旭陽ははっとしたような顔になる。自分が発したのが、やや失言だったことに気づいたようだった。

「そういう意味と違う」
「どういう意味でももうええわ」

 口にしてみると、本当にどうでもよくなってきた。もう部活動の集合時間が近いので、泰生は話を打ち切ることにする。

「まあそういうことで、あと2週間よろしく……サマーコンサートの合奏にはもう出えへんけどな」

 言い捨てる形になってしまった。泰生は旭陽の顔を見ず、彼を待つこともせずに音楽練習場に向かう。一旦校舎の外に出ると、じわっと湿度がむき出しの腕に襲いかかってきた。



 そして最終出席日の今日、泰生は吹奏楽部の部員たちの前で、退部の挨拶をした。

「2年と3ヶ月、ほんまにお世話になりました……自分としても残念なんですが、やっぱり3回になってからちょっときつくなりました、皆さんはこれからも頑張ってください」

 泰生がぺこりと頭を下げると、ぱらぱらと拍手が起こった。4回生がちょっとばかり引きとめてくれたことを思うと、あっさりとした幕切れだった。ちらっと右手を見ると、旭陽は足許に置いた銀色の大きな楽器に視線を落としたまま、手を叩いていた。
 部長が明日の練習予定を確認し、練習の終了を告げた。お疲れさまでした、と全員で挨拶して、各々が楽器を片づけ始める。泰生は2年と少し弾き続けた、自分より少し背の高い大きな弦楽器を最後に丁寧に拭くべく、2枚のクロスを鞄から出した。
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