ほつれた心も縫い留めて ~三十路の女王は紳士な針子にぬいぐるみごと愛でられる~

穂祥 舞

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血は水よりも濃いのかもしれない

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 千種から聞いていた通り、フロイデハウスの専用駐車場を含むパーキングエリアには、電灯が増やされていた。まだ明るいので効果のほどはわからないが、良いことだと思う。
 亜希が後部座席のドアを開けると、節分の時と同じように、制服の女性が台車を押してやってきた。確か山川さんだったかな、と亜希は記憶を辿る。

「あっ、先日はありがとうございました、あの後大変なことになられたって聞いて……」

 山川にもフロイデハウスにも罪は無いのだが、やはり彼女は亜希の顔を覚えていて、一番に謝ってきた。駐車場に明かりを増やすよう、母団体の法人が土地のオーナーに働きかけたと山川は話す。

「そうですか……しばらく車は怖かったんですけど、私はもう大丈夫です」

 亜希は明るく話すよう努める。そして荷物を台車に下ろしながら考えた。さて、この人は何か知ってるのかな。あのSNSの、フロイデハウスの中の人は誰なんだろう。新しく来た女性についてこの人に訊いたら手っ取り早いけど、スーパーの店員に入居者の個人情報を簡単に晒してはくれないだろう。
 惣菜の袋を両手に持った亜希は、台車をガラガラいわせながら押す山川に、思いきって切り出した。

「あの、フロイデハウスって、写真投稿のSNSやってらっしゃいますよね?」

 山川は亜希の顔をちらっと見て、はい、と答えた。

「入居者さんたちが撮った写真も上げてるんです、スマホ使ってる人には頭の体操にもなるので、加工してから送信してもらったりして」
「へぇ、皆さんスマホでそんなこともされるんですか」

 ももちゃんの写真をほとんど加工しないでアップする亜希は、かなり驚く。

「自分のアカウントを作ってる人もいますよ、毎日投稿する人も見る専の人もいて」
「そうなんですね……フロイデハウスのアカウントは職員さんが管理してるんですか?」

 亜希は緊張して山川に問いかけたが、彼女は拍子抜けするくらいあっけなく答えた。

「はい、主に私です、たまに施設長も触るかな?」

 えっ、ともう少しで謎の叫びを上げてしまいそうだった。もう建物の入り口が見えている。もしかするとこの中に、入ってすぐに置かれているソファに、おばあちゃんが座っているかもしれない……?
 足を止めた亜希を、山川は振り返った。

「どうかしましたか?」
「あの、私……私が、もものかいぬしです」

 山川も立ち止まって、えっ! と言った。台車の先で自動ドアが開く。

「先日いただいたメッセージにあった入居者の女性、もしかしたら私の母の母かもしれないんです」

 山川は台車の手摺りを掴んだまま、亜希の告白にほとんどあ然となっていた。そりゃそうだろうと亜希も思う。無視されることを覚悟して送ったDMの宛て先本人が、直接乗り込んでくるとは思うまい。しかも、多少顔を知っている人間だ。
 沈黙は数秒だったが、山川が出方を迷っているのが伝わってきたので、亜希は現実的に話を運んだ。

「あ、この話はあらためて……商品を皆さん待ってらっしゃるでしょうし、私もすぐに店に戻らないといけなくて」

 山川は亜希の言葉に、躊躇いがちにはい、と答えて、台車を押して建物の中に入った。ロビーには誰もおらず、亜希を奥の廊下のほうまで導きつつ、山川はゆっくりと台車を押して話す。

「いきなり長々と唐突なメッセージを送って、すみませんでした」
「いえ……こちらこそ返事をしなくてごめんなさい、心が決まらなくて……今も正直、迷うというか何というか」
「そうですよね、全く連絡を取ってらっしゃらないなら尚更です」

 亜希はどきどきしながら、山川について行った。談話室と書かれた扉の前に立つと、山川は亜希を振り返る。

「あの、お伝えした女性は今この中にはいません、彼女とあと2人は高田馬場のケーキ屋さんにケーキを取りに出たばかりで」

 拍子抜けした亜希は、あ、そうですか、と間の抜けた声を出した。がっかりするよりも、ほっとする気持ちのほうが大きかった。

「その女性は歩くのが少し遅いくらいでとてもお元気で、もの忘れなんかもほぼ見られません」

 祖母かもしれない女性が元気だという山川の説明に、やはり亜希は安心感を覚えた。ただ、それならなぜ、グループホームを使う決心をしたのだろうかと思う。
 談話室には、見覚えのある人も含めた老人たちが待機していて、亜希に口々に礼を言いながら商品をテーブルに運んだ。
 台車が空になると亜希は部屋を出て、山川に見送られた。身分を証明するものを持ってこなかったのは失敗だったと亜希は思った。店舗勤務のスーパーの社員は、必要がないので名刺を持たない。

「私、住野と申します……住野亜希です、名刺も無くてごめんなさい……そのかたがももちゃんを覚えていてくださっているなら、私の名前も覚えているかと」

 亜希がこれ以上話を進めないつもりなのを察したのだろう、マスクの上の山川の目が静かに笑った。

「はい、もちろんそうだと思います……伝えますね、私の職場のアドレスをお渡しします」

 山川が名刺を出してくれた。亜希は小さな紙を両手で受け取り、彼女に礼を言って建物を出る。ひとつ息をつくと身体の力が抜けて、よろめきそうになった。知らない間に、異様に緊張していたのだった。
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