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女王が愛するうさぎを手放すとき

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 特に問題もなく1日の業務を終えた亜希は、急いで帰宅した。19時を過ぎたところだったが、大西の残業の邪魔をすることになるので、コートも脱がないままで寝室に入る。
 ベッドに寝ているももちゃんをそっと取り上げ、その黒い目を見つめる。

「ももちゃん、しばらくお別れだけど、大西さんに綺麗にしてもらおうね」

 私は大丈夫、亜希こそしっかりね、とももちゃんに言われた気がした。彼女の後頭部を軽く撫でて、いつものトートバッグに足からそっと入れる。他には何も持っていかなくていいのに、亜希は部屋から出るのに躊躇した。
 よし、と気合いを入れて、玄関を出る。ぬくもりぬいぐるみ病院まで10分弱、亜希はなるべく他のことを考えるようにしながら歩いた。ももちゃんとの別れは、長いものではないとわかっていても、純粋に悲しい。
 病院の看板が見えたところで、亜希は大西にメッセージを送った。すぐに暗くなっていた正面玄関に明かりが入り、扉が開いたのが見えて、亜希は歩調を早めた。

「住野さん、お待ちしておりました」

 医師の制服を着た大西が、にこやかに出迎えてくれた。心なしかほっとする。

「こんばんは、閉店というか、閉院後なのにすみません」
「いえ、私の都合で仕事の後に来ていただいて、こちらこそ申し訳ないです」

 大西にうながされて、亜希は暖房がまだ効いている場所に入った。彼は受付のカウンターの中から、数枚の紙を出した。

「ももさんの治療計画案と、こちらは預かり証です……最短で全治3週間なんですが、この間見せていただいた時に、両腕のつけ根の生地がだいぶ弱ってるように思えたんですよ」

 亜希は言われて、トートバッグからももちゃんを出した。カウンターの上に乗せると、大西はももちゃんをそっと手に取り、話した箇所を示す。

「肩と脇って言っていいのかな、ここ……解いて綿を詰め直して縫合したら、すぐに破れてしまいそうかなと」

 傷んでも仕方のない箇所だった。小学生の頃は、よくももちゃんの手を持ち、ぶら下げて歩いたからだ。

「だからこの周辺だけ、新しい生地を使うかもしれないです……ほぼ同じ生地がうちにあるので、追加料金は必要ないんですけど、お日にちが少し増すかも」
「はい、お任せします」

 亜希は答えたが、つい力の無い声になってしまった。大西は声に心配の色を混ぜる。

「大丈夫ですか? 明後日大阪に行ったら、新しい代ぬいの買い出しにつき合う予定なんです、住野さん好みの子が見つかったら手に入れてきます」
「あ……いえ、私のことはお気になさらず……」
「気にしない訳にはいかないでしょう?」

 強くはなかったが、きっぱりとした声が降ってきて、亜希は顔を上げた。大西はももちゃんを抱いたまま、こちらを見つめている。ああ、本当に申し訳ない。亜希は今の気持ちを上手く言葉にできなかった。
 大西はカウンターの中からこちら側に回ってきた。やはり右手にももちゃんを抱いて正面に立つので、何事かと亜希は思わず彼を見上げた。
 次の瞬間、ふわりと温かいものに包まれた。頬に触れたやや毛羽だった布の感触には馴染みがあるが、自分を取り囲む温もりや匂いは、初めてのものだった。そして、背中にそっと触れた手は、あの恐怖の夜にも、ずっと肩を支えてくれていたと思い出す。
 亜希はももちゃんごと大西に緩く抱かれて、一瞬緊張した。しかし5秒ほどそのままでいると、ほっと肩や首から力が抜けたのを自覚した。

「3日だけ我慢してください、その後はできる限りそばにいるようにします」

 右耳の近くで聴こえる声に、どきりとする。いや、あの、と言いかけたが、もう何も返さないでおこうと思い直した。この人は、私がどうしてこんなに不安なのかを理解してくれる、唯一の人だから……。

「ももさんを責任持って預かります、退院するまで丁重に扱いますから心配しないでください」

 そう言ってから、大西は左腕を解いた。

「1人で帰れますか?」

 亜希は涙をこらえ、彼の顔を見ずに頷く。

「……大丈夫です」

 数枚の紙にサインをして、ファイルに入れたコピーを渡されると、亜希は大西の腕の中のももちゃんを再度見つめてから、彼に頭を下げてその場を辞した。後悔はしていないが、ただ別れが悲しい。
 でも、ももちゃんとは必ず再会できるから。亜希は自分に言い聞かせて、冷たい風の中、家路を急いだ。
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