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レアな従業員の擬態の試み
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「住野さん……」
声をかけてきたのは、ぬくもりぬいぐるみ病院の大西千種だった。彼の涼やかな目を眼鏡越しに見た亜希は仰天して、サービスカウンターの中で後退りそうになる。待って、何でこの人、私の名前知ってるのよ!
「先週は返す返すもお世話になりました、おかげで良い食事会になりました」
普段着の大西はぺこりと頭を下げた。阪口が彼を興味津々の体で見つめている。マスクをしていてもイケメンな若い客は、食料品スーパーでは目立つのだ。
「いえ、とんでもないです……あ、先週の木曜日に配達に行ったぬいぐるみ病院のかたなの」
亜希は前半を大西に、後半を阪口に言った。阪口はそうなんですね、と興味を隠さない声を上げる。このままだと彼女がいつまでも自分から離れなさそうなので、事務所に戻って金庫の最終確認をするように指示した。
阪口がバックヤードに戻っていくと、大西はやや声を落として言った。
「明日またメールさせていただきますけど、姪御さんがももさんの入院に前向きでいらっしゃるなら、気になる場所の写真をスマホで撮って送っていただけると助かります」
亜希は大西の言葉に目を剥いた。心臓がどくどくして、不整脈が起きたかと思った。
「いやその、どうして私が、そちらの病院に……問い合わせたとわかったんでしょうか……」
亜希のしどろもどろの質問に、大西はマスクの上の目をふっと細めた。いい男だなとちらっと思う。
「だって住野さんって、そんなによくお見かけする名前じゃないですから」
「……私この間名乗りましたかね?」
「名札を拝見しましたよ」
あっ。亜希はようやく合点する。領収書に名前を入れた時、胸ポケットのボールペンを使った。その時、羽織っていたコートから名札がチラ見えしたのだ。
大西はにこやかに続ける。
「先週のお礼も言いたかったので、ちょうど良かったです」
首からかけた鍵をベストのポケットに直しながら、華村がサービスカウンターに戻って来た。大西の顔をしっかりチェックしてから、いらっしゃいませ、と笑いかける。
ではまた、と会釈して、大西はエコバッグ片手に出口に向かった。近所に住んでいるのだろうか。彼の背中を見送ると、華村が感心したような口調で訊いてくる。
「あの人と知り合い?」
「先週の配達先のかたです」
そうなんだぁ、と華村は大仰に言った。不思議に思って亜希が彼女の顔を見ると、彼女は笑った。
「週末の夕方によくいらっしゃるのよ、バイトの女子たちが騒ぐお客さんのうちの一人」
亜希も笑ってしまった。スーパーマーケットだけではないのだろうが、来店客の年齢層の上昇が顕著な昨今、目を引く容姿の若い常連客がいると、男性でも女性でもすぐに従業員に顔を覚えられてしまう。
「ちゃんと自炊してるんだって、先月パートさんまで言ってた」
カゴの中身をチェックされていると、大西に言ったほうがいいだろうか。亜希は苦笑した。
「住野チーフが親しくなったらしいってみんなに言いふらしとくわ」
「親しいって、私がここにいたから配達のお礼をおっしゃっただけですよ」
「ではまたって言って帰ったじゃない」
「普段見ない従業員が珍しかったからじゃないですか?」
亜希は半ば冗談にしながら、サービスカウンターを辞した。事務所に戻る道すがら、少し気分が良くなっていることを自覚する。
身バレしたなら仕方がない、堂々としよう。ももちゃんが姪の大切にしているぬいぐるみだという設定は、維持だ。
大西がこの近所に住んでいるとしたら、あの朝公園で会ったのは、彼が出勤前に立ち寄っていたということだろう。ぬくもりぬいぐるみ病院は、あの公園から徒歩圏内だ。
いつもハッピーストアを大西が使っていて、弁当を依頼することになったのならば、普段から彼がこのスーパーの弁当を評価してくれていることになる。それは一従業員として、喜ばしいことだと思う。
しかし、と亜希はふと考える。大西の自宅がここに近く、自分の自宅が大西の勤務先に近いというのは、どういう巡り合わせなのだろうか……あちらはどうでもいいだろうが……まあ亜希だって、ももちゃんの持ち主だということさえバレなければ、特にどうということもないのだが。
従業員が常連客の顔を覚えている以上に、客は従業員の姿を記憶している。レジの繁忙時以外は事務所から出ない亜希は、客にとって「普段見ない従業員」である。それがこうして大西に面割れして覚えられてしまったのだから、ややレアケースだ。レジのアルバイトたちに妬まれたら嫌だなと、真剣に考えた。
声をかけてきたのは、ぬくもりぬいぐるみ病院の大西千種だった。彼の涼やかな目を眼鏡越しに見た亜希は仰天して、サービスカウンターの中で後退りそうになる。待って、何でこの人、私の名前知ってるのよ!
「先週は返す返すもお世話になりました、おかげで良い食事会になりました」
普段着の大西はぺこりと頭を下げた。阪口が彼を興味津々の体で見つめている。マスクをしていてもイケメンな若い客は、食料品スーパーでは目立つのだ。
「いえ、とんでもないです……あ、先週の木曜日に配達に行ったぬいぐるみ病院のかたなの」
亜希は前半を大西に、後半を阪口に言った。阪口はそうなんですね、と興味を隠さない声を上げる。このままだと彼女がいつまでも自分から離れなさそうなので、事務所に戻って金庫の最終確認をするように指示した。
阪口がバックヤードに戻っていくと、大西はやや声を落として言った。
「明日またメールさせていただきますけど、姪御さんがももさんの入院に前向きでいらっしゃるなら、気になる場所の写真をスマホで撮って送っていただけると助かります」
亜希は大西の言葉に目を剥いた。心臓がどくどくして、不整脈が起きたかと思った。
「いやその、どうして私が、そちらの病院に……問い合わせたとわかったんでしょうか……」
亜希のしどろもどろの質問に、大西はマスクの上の目をふっと細めた。いい男だなとちらっと思う。
「だって住野さんって、そんなによくお見かけする名前じゃないですから」
「……私この間名乗りましたかね?」
「名札を拝見しましたよ」
あっ。亜希はようやく合点する。領収書に名前を入れた時、胸ポケットのボールペンを使った。その時、羽織っていたコートから名札がチラ見えしたのだ。
大西はにこやかに続ける。
「先週のお礼も言いたかったので、ちょうど良かったです」
首からかけた鍵をベストのポケットに直しながら、華村がサービスカウンターに戻って来た。大西の顔をしっかりチェックしてから、いらっしゃいませ、と笑いかける。
ではまた、と会釈して、大西はエコバッグ片手に出口に向かった。近所に住んでいるのだろうか。彼の背中を見送ると、華村が感心したような口調で訊いてくる。
「あの人と知り合い?」
「先週の配達先のかたです」
そうなんだぁ、と華村は大仰に言った。不思議に思って亜希が彼女の顔を見ると、彼女は笑った。
「週末の夕方によくいらっしゃるのよ、バイトの女子たちが騒ぐお客さんのうちの一人」
亜希も笑ってしまった。スーパーマーケットだけではないのだろうが、来店客の年齢層の上昇が顕著な昨今、目を引く容姿の若い常連客がいると、男性でも女性でもすぐに従業員に顔を覚えられてしまう。
「ちゃんと自炊してるんだって、先月パートさんまで言ってた」
カゴの中身をチェックされていると、大西に言ったほうがいいだろうか。亜希は苦笑した。
「住野チーフが親しくなったらしいってみんなに言いふらしとくわ」
「親しいって、私がここにいたから配達のお礼をおっしゃっただけですよ」
「ではまたって言って帰ったじゃない」
「普段見ない従業員が珍しかったからじゃないですか?」
亜希は半ば冗談にしながら、サービスカウンターを辞した。事務所に戻る道すがら、少し気分が良くなっていることを自覚する。
身バレしたなら仕方がない、堂々としよう。ももちゃんが姪の大切にしているぬいぐるみだという設定は、維持だ。
大西がこの近所に住んでいるとしたら、あの朝公園で会ったのは、彼が出勤前に立ち寄っていたということだろう。ぬくもりぬいぐるみ病院は、あの公園から徒歩圏内だ。
いつもハッピーストアを大西が使っていて、弁当を依頼することになったのならば、普段から彼がこのスーパーの弁当を評価してくれていることになる。それは一従業員として、喜ばしいことだと思う。
しかし、と亜希はふと考える。大西の自宅がここに近く、自分の自宅が大西の勤務先に近いというのは、どういう巡り合わせなのだろうか……あちらはどうでもいいだろうが……まあ亜希だって、ももちゃんの持ち主だということさえバレなければ、特にどうということもないのだが。
従業員が常連客の顔を覚えている以上に、客は従業員の姿を記憶している。レジの繁忙時以外は事務所から出ない亜希は、客にとって「普段見ない従業員」である。それがこうして大西に面割れして覚えられてしまったのだから、ややレアケースだ。レジのアルバイトたちに妬まれたら嫌だなと、真剣に考えた。
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