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Ⅰ
プロローグ
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その日は随分と寒い日だったはずだし、外の気温は多分0度を下回っていた。だけど、力なく横たわっているわたしには寒いのかどうかもよくわからなかった。強いて言うならずっと寒い。体が上手く動かなくて、横たわっていた。
「アリーちゃんともう一度会いたいのに、こんなところで倒れてる場合じゃ……」
誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
ぼんやりとした視界の中では、投げ出された腕の上に雪が降り積もっていた。最後にご飯を食べたのはいつだったろうか。こんなことなら家出なんてしなければ良かったと激しく後悔をしたけれど、もう遅かった。
「……けたわ」
ほとんど意識が無くなりかけているせいで、初めは呼びかけには全然気づけなかった。
「……えてるの?」
ぼんやりと眺めたまま、目の前にブーツを履いた女性が立っていることにも気が付かなかった。
続いて、体が揺すられた。
「おーい、聞こえてるの?」
「へ?」
間の抜けた声を出したわたしの声を聞いて、女性がさらにわたしの肩の辺りを触って力強く揺らした。
「こんなところで寝てたら凍えちゃうわよ?」
「……動けないんです」
「ごめん、よく聞こえないわ」
女性がしゃがみ込んで、横たわっているわたしの方に耳を近づけた。寒さのせいでほんのり赤らんでいる耳元に向かって、わたしはなんとか声を振り絞った。
「なんでも良いんです……。食べ物をください……」
「お腹空いてるの?」
はい……、と途切れそうな声を出す。
「なら、こういうのが欲しいわけ?」
女性が洋服の袖の下から、チーズケーキを一欠片取り出した。どうしてチーズケーキをそんなところから取り出したのかわからなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。大事なのは、目の前に食べ物があるということ。
「あなたに選択肢を2つあげるわ」
「え……?」
「一つは、このチーズケーキをあなたにあげるわ」
そう言いながら、女性は手づかみで持ったチーズケーキを一口、また一口と自分の口に運んで行く。美味しそうに大きな口でパクパク放り込んでいく姿に見惚れてしまっていた。甘くて美味しそうなチーズケーキを見て、わたしの体が、最後の水分を出し切るみたいに唾液を分泌していた。
「そして、もう一つ……」
女性がペロリと唇を舐めた頃には、すでにチーズケーキは残り3分の1程になっていた。どうして自分で食べてしまっているのだろうか、という質問もできずにただぼんやりと、しゃがんだままチーズケーキを食べ続ける彼女のことを見上げていた。
「あなたに提案してあげられる選択肢は、貴族令嬢の元で、メイドとして働くこと」
「え、でも……」
「気にしてるんでしょ? メイド学校にも通ったこともなければ、家事だってほとんどやったことが無いって」
わたしの言いたいことを概ね言ってくれたおかげで、ただ頷くだけで意思疎通ができた。
彼女がグッとわたしの顎を持って、無理やり顔を女性の方に向けさせた。正面から見つめているはずなのに、女性の前髪が鼻先まであることや、そもそもわたしの焦点がよく合っていないせいで、彼女の顔が全然認識できなかった。
「可愛らしいし、合格ね。気に入ったわ。あなたなら、きっとお嬢様も満足してくれると思う」
自分が可愛いというカテゴリーに入るのかはよくわからなかった。というより、そもそもメイドなら可愛さよりも家事スキルが大事なのではないだろうかと思う。
「ねえ、もう一度聞くわ。あなたが欲しいのは、今目の前にあるわたしがほとんど食べた最後の一口のチーズケーキ? それともお嬢様の元で働いて、毎日たっぷりの美味しいご飯を食べること?」
「そんなの……」
選択肢ですらない……。と言いたいところだけど、わたしはもう動けないくらいお腹が空いているのだ。たった一口のチーズケーキでも良いから食べないと、あと数時間後に目を開けているのかも怪しい。
「何を悩むことがあるのかしら?」
「だって……」
「わかったわ。お嬢様の家に行くのなら、チーズケーキもセットでつけてあげる」
「え?」
それでは2択の体を成していないけど良いのだろうかと思っていると、女性が答える。
「当たり前でしょ? お嬢様の元で働くのなら、わたしの同僚になるわけだし、面倒を見る義務も発生するわ」
それなら、悩む理由もなくなる。
「来てくれるわよね?」
少し圧を感じる笑顔を向けられる。ほとんど1択しか選べない2択でなくても、彼女の欲しい答えを選ばなければならないような力強さも感じる。表情が見えない中、真っ赤なルージュだけがやたらと強調されていた。とはいえ、選ぶべき選択肢は欲しいものが一気に手に入るものである以上、もはや断る理由もなく、わたしは頷いた。
「よかったわ。じゃあ、約束のチーズケーキね」
また女性はパクッと自分の口の中に放り込んでしまった。最後の一口が彼女の口の中に消えていってしまった。
「あ……」と困惑するわたしに向かって微笑んだかと思うと、女性はそのまま口づけをしてきた。一体何のつもりだろうか、早くチーズケーキを食べさせて欲しいのに……。
そんなことを思っていると、口の中に温かい液体が流れ込んできた。続いて、甘みが流れ込んでくる。口移しだ。初対面の女性から口移しでチーズケーキを分けてもらうことになるなんて、きっと平時なら抵抗があったとは思う。
だけど、限界をとっくに超えた空腹の中、わたしは口いっぱいに広がる甘さに幸せを感じていた。どろりと口の中で溶けていくチーズケーキとともに、わたしも溶けてしまっているような気になる。
「一口で充分ね。目が覚めたらきっと今よりも素晴らしい世界が待っているわ。また、会いましょうね」
どこか含みのある言葉を聞きながら、気づけばわたしはそのまま目を閉じてしまっていた。
「大丈夫、ちゃんと温めてあげるから、あなたはゆっくり眠ったらいいわ」
目の前の妖しい女性をどこまで信用して良いのかはわからなかった。だけど、我慢できないような睡魔に襲われてしまったわたしは、ただ本能に従って眠るしかない。
眠りかけた、夢現の状態の時に、わたしはとても温かいものに包まれた。上下から温かい何かに包まれて、体全体に響く心音。まるで生まれる前に体内にいたときのような心地よさに包まれていた。この数週間は、安眠できなかったから、本当に久しぶりに心地良い眠りにつけていた。
この温かみの正体が何であるのかは、眠っているわたしには考えることもできなかった。
「アリーちゃんともう一度会いたいのに、こんなところで倒れてる場合じゃ……」
誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
ぼんやりとした視界の中では、投げ出された腕の上に雪が降り積もっていた。最後にご飯を食べたのはいつだったろうか。こんなことなら家出なんてしなければ良かったと激しく後悔をしたけれど、もう遅かった。
「……けたわ」
ほとんど意識が無くなりかけているせいで、初めは呼びかけには全然気づけなかった。
「……えてるの?」
ぼんやりと眺めたまま、目の前にブーツを履いた女性が立っていることにも気が付かなかった。
続いて、体が揺すられた。
「おーい、聞こえてるの?」
「へ?」
間の抜けた声を出したわたしの声を聞いて、女性がさらにわたしの肩の辺りを触って力強く揺らした。
「こんなところで寝てたら凍えちゃうわよ?」
「……動けないんです」
「ごめん、よく聞こえないわ」
女性がしゃがみ込んで、横たわっているわたしの方に耳を近づけた。寒さのせいでほんのり赤らんでいる耳元に向かって、わたしはなんとか声を振り絞った。
「なんでも良いんです……。食べ物をください……」
「お腹空いてるの?」
はい……、と途切れそうな声を出す。
「なら、こういうのが欲しいわけ?」
女性が洋服の袖の下から、チーズケーキを一欠片取り出した。どうしてチーズケーキをそんなところから取り出したのかわからなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。大事なのは、目の前に食べ物があるということ。
「あなたに選択肢を2つあげるわ」
「え……?」
「一つは、このチーズケーキをあなたにあげるわ」
そう言いながら、女性は手づかみで持ったチーズケーキを一口、また一口と自分の口に運んで行く。美味しそうに大きな口でパクパク放り込んでいく姿に見惚れてしまっていた。甘くて美味しそうなチーズケーキを見て、わたしの体が、最後の水分を出し切るみたいに唾液を分泌していた。
「そして、もう一つ……」
女性がペロリと唇を舐めた頃には、すでにチーズケーキは残り3分の1程になっていた。どうして自分で食べてしまっているのだろうか、という質問もできずにただぼんやりと、しゃがんだままチーズケーキを食べ続ける彼女のことを見上げていた。
「あなたに提案してあげられる選択肢は、貴族令嬢の元で、メイドとして働くこと」
「え、でも……」
「気にしてるんでしょ? メイド学校にも通ったこともなければ、家事だってほとんどやったことが無いって」
わたしの言いたいことを概ね言ってくれたおかげで、ただ頷くだけで意思疎通ができた。
彼女がグッとわたしの顎を持って、無理やり顔を女性の方に向けさせた。正面から見つめているはずなのに、女性の前髪が鼻先まであることや、そもそもわたしの焦点がよく合っていないせいで、彼女の顔が全然認識できなかった。
「可愛らしいし、合格ね。気に入ったわ。あなたなら、きっとお嬢様も満足してくれると思う」
自分が可愛いというカテゴリーに入るのかはよくわからなかった。というより、そもそもメイドなら可愛さよりも家事スキルが大事なのではないだろうかと思う。
「ねえ、もう一度聞くわ。あなたが欲しいのは、今目の前にあるわたしがほとんど食べた最後の一口のチーズケーキ? それともお嬢様の元で働いて、毎日たっぷりの美味しいご飯を食べること?」
「そんなの……」
選択肢ですらない……。と言いたいところだけど、わたしはもう動けないくらいお腹が空いているのだ。たった一口のチーズケーキでも良いから食べないと、あと数時間後に目を開けているのかも怪しい。
「何を悩むことがあるのかしら?」
「だって……」
「わかったわ。お嬢様の家に行くのなら、チーズケーキもセットでつけてあげる」
「え?」
それでは2択の体を成していないけど良いのだろうかと思っていると、女性が答える。
「当たり前でしょ? お嬢様の元で働くのなら、わたしの同僚になるわけだし、面倒を見る義務も発生するわ」
それなら、悩む理由もなくなる。
「来てくれるわよね?」
少し圧を感じる笑顔を向けられる。ほとんど1択しか選べない2択でなくても、彼女の欲しい答えを選ばなければならないような力強さも感じる。表情が見えない中、真っ赤なルージュだけがやたらと強調されていた。とはいえ、選ぶべき選択肢は欲しいものが一気に手に入るものである以上、もはや断る理由もなく、わたしは頷いた。
「よかったわ。じゃあ、約束のチーズケーキね」
また女性はパクッと自分の口の中に放り込んでしまった。最後の一口が彼女の口の中に消えていってしまった。
「あ……」と困惑するわたしに向かって微笑んだかと思うと、女性はそのまま口づけをしてきた。一体何のつもりだろうか、早くチーズケーキを食べさせて欲しいのに……。
そんなことを思っていると、口の中に温かい液体が流れ込んできた。続いて、甘みが流れ込んでくる。口移しだ。初対面の女性から口移しでチーズケーキを分けてもらうことになるなんて、きっと平時なら抵抗があったとは思う。
だけど、限界をとっくに超えた空腹の中、わたしは口いっぱいに広がる甘さに幸せを感じていた。どろりと口の中で溶けていくチーズケーキとともに、わたしも溶けてしまっているような気になる。
「一口で充分ね。目が覚めたらきっと今よりも素晴らしい世界が待っているわ。また、会いましょうね」
どこか含みのある言葉を聞きながら、気づけばわたしはそのまま目を閉じてしまっていた。
「大丈夫、ちゃんと温めてあげるから、あなたはゆっくり眠ったらいいわ」
目の前の妖しい女性をどこまで信用して良いのかはわからなかった。だけど、我慢できないような睡魔に襲われてしまったわたしは、ただ本能に従って眠るしかない。
眠りかけた、夢現の状態の時に、わたしはとても温かいものに包まれた。上下から温かい何かに包まれて、体全体に響く心音。まるで生まれる前に体内にいたときのような心地よさに包まれていた。この数週間は、安眠できなかったから、本当に久しぶりに心地良い眠りにつけていた。
この温かみの正体が何であるのかは、眠っているわたしには考えることもできなかった。
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