遠くて近い世界で

司書Y

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L's rule. Side Hisui.

断ち切りたいのは過去という鎖です 2

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 アキの姿に何かが重なる。

 無機質な天井の蛍光灯。
 ベッドの周りのカーテン。
 ベッドの白い金属パイプ。
 点滴のガートル台。
 薬品の匂い。

「……あ。」

 手錠。
 傷の痛み。
 荒い吐息。
 酷い倦怠感。
 吐き気のするような快楽。
 痛み。
 痛み。
 痛み。
 
 自分にのしかかるその男は……。

「……やだっ」

 思わず。スイはアキを両手で押しのけていた。その手がまるで他人のもののように見えた。

 手が震える。
 今、自分は何をした?

「……あ。ごめ……あの」

 アキを拒絶してしまった。大好きな、愛していると思っているその相手を。

「あ。悪い。やだった?」

 アキは隠そうとしてくれていたのだと思う。
 でも、ショックが隠し切れていなかった。
 笑いかけようとして、うまくいかなくて、戸惑っているのが分かる。

「ちが……っ。あの……」

 その顔に、酷いことをしてしまったと、怖くなる。
 身体が震えて、涙が溢れだすのを止められない。

「スイさん」

 アキの優しい手が、ベッドの上にスイを抱き起こして、抱きしめてくれる。
 その優しさが心に刺さる。
 この優しい人を、自分が傷つけたのだ。

 どうしよう……。嫌われる。

 どうしようもなく怖くて、謝りたくても声にならない。

「ごめん。怖い思いさせたな。もう、しないから、泣かないでよ?」

 大丈夫だと思った。思いこみたかった。
 5年も経ったのだ。そんな傷なんて忘れて、愛する人と幸せになれるのだと思いこみたかった。
 でも、違っていた。
 それは、忘れられるはずがない傷だった。愛する人を得たから、忘れられるのではなく、愛する人を得たから、余計にその傷は意味を持ってしまっていた。

「……き……ない……から……」

 自分は汚れているのだと、大切にしてもらう資格なんてないのだと、分かっていながら目を背けていた。ずっと独りでいれば気づかずに済んだのかもしれない。けれど、アキを欺いたまま愛されることを身体は拒否した。

「え?」
 
 スイの呟きを聞き取れなかったのか、アキが問い返す。

「アキ君が……わる……んじゃない……俺……大丈……夫だと……思ったのに……も……わす……れられてるって……」

 うまく息ができない。
 でも、今伝えないと。
 スイは思う。
 アキとこれからもずっと、一緒にいたい。
 たとえ、自分が汚れていたとしても、もう、離したくない。何度も、何度も、悩んで決めたのだ。
 だから、今、その気持ちを伝えないといけないと思う。

「……アキ……くんなら……きっと……だいじょ……ぶ……だって……も。やな……だ。あんな……ことに……いつまでも……し……ばられたく……ない……っ」

 伝えないといけないと、いう心とは裏腹に、言葉は、うまく出ては来なかった。
 でも、アキは背中を優しく撫でながら、ちゃんと聞いてくれた。覚束ないスイの言葉を我慢強く待っていてくれた。

「も、いいから。そんなに泣かないで。俺は大丈夫だから。スイさん。無理しないで」

 あんなに傷ついた顔をしていたのに、もう、いつもの優しい顔に戻って、アキが言う。まるで、何でもないようにスイの涙を拭って、まだ濡れている髪を撫でてくれた。
 でも、本当はそんな風に無理をしてほしくない。

「違う……アキ君。俺。アキ君と……したい。アキ君のものにしてほしい」

 だから、スイはアキの手を握って言った。
 今日がいい。
 今日でなければだめだ。
 きっと、今日でなければ後悔する。アキが望んでくれた時に。自分が望んだ時に。全部あげたいし、ほしいと思う。

「でも。うまく……できなくて。その……ちゃんと理由話すから……聞いてくれる?」

 やっぱり、逃げることはできないと思う。自分を大切なものだと思ってくれる人を欺くことはできないし、怖いからといって過去を話さないままでは先に進めない。そんなことでは、いつか、また、アキを傷つけてしまうことになる。

「スイさん。でも、きつくない? 大丈夫?」

 言いたくない。と、心は悲鳴が上げる。それを抑え込むように唇を噛んだ。
 恥ずかしくて、恐ろしくて、悲しくて、痛い過去。思い出すだけでも、吐き気がする。
 でも、きっと、アキがいてくれれば。そう思う。

「……怖いし……きついけど。俺、全部話して、やっぱりちゃんと、アキ君の恋人だって言えるようになりたい。も。心だけじゃ……足りないよ」

 怖い。とは思うけれど、精一杯の勇気を振り絞ってスイはアキを見つめた。

「わかった」

 そう言って、アキはスイをベッドの淵に座らせてくれた。それから、労わるように優しく肩を抱いてくれる。

「スイさんが話してくれるなら、俺はちゃんと聞くよ」

 顔を見ているのが辛くて、その肩に頭を預ける。
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