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第二部 ジェノサイド

第31話 迷宮に潜む魔物 第六の犠牲者

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 残り時間――4時間21分  

 残りデストラップ――6個

 残り生存者――14名     
  
 死亡者――5名        

 ――――――――――――――――


 先ほどからずっと同じような景色が続いていた。

 木で作られた壁と、その間に出来た道──たったふたつだけで構成された空間。

 スタート地点から入って、とにかくあの男から逃げることだけを考えて慧登は走り続けた。最初の内はこんな子供ダマシの『巨大迷宮』なんて、10分もあれば楽に抜けられる、そう甘く考えていた。

 しかし実際のところは、ゴールはおろか、今自分がどの辺りにいるのかすら見当が付かない状態だった。

 迷宮の中は想像以上に広く、そして、想像以上に道が複雑に入り組んで作られていたのだ。


 いや、待てよ。そうか、別にクソ真面目に出口を探す必要はないんだよな。ズルしっちゃえばいいんだよな。誰かに見咎められるってわけじゃないからな。


 慧登は立ち止まると、木で出来た壁の表面に手のひらを当ててみた。壁の厚さは分からなかったが、試す価値はありそうに思えた。

「俺の拳で──いや、拳よりも足の方がパワーが出るな」

 壁から少しだけ距離をとると、体を半身にして、壁を蹴り付ける体勢をとった。

「ひび割れ程度の傷が付けば、そこから力尽くで壁を壊せるんだけどな。──とにかく、ものは試しだ。やってみるか」

 一回息を吐いて、呼吸を整える。

「うりゃああああっ!」

 声を張り上げて、壁に右足の蹴りを入れた。


 ボゴンッ。


 なんとも間の抜けた音があがった。しかも、壁には傷ひとつ付いていない。逆に慧登は足を負傷してしまった。足の指を突き指してしまい、鈍痛が足元から這い上がってくる。

「痛っ……ぐぐぅ……」

 しゃがみ込んで、手で足の指先を強く押さえる。

「これで俺の蹴りぐらいじゃ、この壁はびくともしないってことだけは分かったぜ」

 悔し紛れに、負け惜しみを言う。

「でも、この壁が壊せないとなると……」

 しゃがんだ姿勢のまま、頭上を見上げた。

 壁の高さは有に2・5メートル近くある。ジャンプしても手は届きそうにない。つまり、この壁を乗り越えて、迷宮の外に出ることは出来ないということだ。

「ふんっ、ここまで頑丈に作られているとなると、もはやこの迷宮自体がデストラップみたいなもんだよな」

 愚痴をこぼしながら立ち上がる。結局、自分の足と頭を頼りに迷宮を攻略するしかないらしい。しかし、このまま闇雲に走ってばかりいても、出口には到底たどり着けそうにない。ただ体力だけを消耗するのは目に見えている。

 もっとも、条件は相手も同じである。あの男のことはヤクザだということ以外詳しくは知らないが、少なくとも特技が迷宮の出口を探すこと、ということはないだろう。


 こうなったら気合で出口を探すしかないのか?


 そんな投げやりな考えが頭の中にもたげてくる。


 いや、それはダメだ。ここは冷静になって、しっかり考えて行動しないと。


 頭を左右に振って、自分の考えをすぐに改める。そのとき、不意に脳裏に思い浮かんだことがあった。


 そういえば、この巨大迷宮の中にはデストラップは設置されているのか?


 それは何をおいても一番に考えなくてはならない最重要事項だった。あの男から逃げることばかり考えていて、すっかり忘れていたのだ。

 ゴーカートのサーキットコース上で発動した凶悪なデストラップのことを、まざまざと思い出す。

 さっきは春元とスオウの2人がいたおかげで、命からがら間一髪のところで助かったが、今は助けてくれる人はいない。全部、自分で判断しないとならないのだ。

 急にひとりでいるのが怖くなってきた。改めて、周囲に警戒の目を向ける。

 だが、視界に入ってくるのは、木で出来た同じような壁だけである。そこにデストラップの前兆を感じさせるものは一切ない。だからこそ慧登は余計に恐怖を感じてしまった。


 こんな似たような景色ばかりの空間で、どうやってデストラップの前兆を探せっていうんだよ?


 迷宮の出口を探せないばかりか、デストラップの前兆に気付くことも難しいそうである。
 
 このままデストラップの恐怖に震えながら前へ進むべきか。或いは、一旦ここで立ち止まって、この状況を打破するだけの手立てを先に考え、それから安全を確保した上で前へ進むべきか。

 しかし、後者を選んだ場合は、今度は追ってくる男のことも考えなくてはならない。あの男はデストラップと同じくらい恐ろしい存在なのだ。もしも見付かったら、容赦なく暴力を振るってくるであろうことは想像に難くない。

 頭に浮かんだ二択の設問。どちらを選ぶべきか──。

「前に進むのも地獄ならば、ここに留まるのも地獄か……。まったく、どっちを選べばいいんだよ……」

 慧登は強張った表情のまま、決断を出来ずにいた。そうして妙案が浮かばないまま、いたずらに時間だけが過ぎていった。それはつまり、追ってくる男との距離が縮まりつつあるということでもあった。


 ――――――――――――――――

 
 慧登を追いかける男は余裕をもって『巨大迷宮』の中に入って行った。相手は何の取り柄もないただのクズ人間である。すぐに追い付くと考えていた。しかし、五分もしない内に、己の考えの甘さを悟った。

 迷宮の中はどこも似たような作りで、生半可な思考能力では、到底ゴールに辿り着けそうにないと悟ったのだ。

「これじゃ、あの男に追いつく前に、こっちが疲れ果てちまうな。何か対策を考えた方が良さそうだぜ」

 その場で立ち止まって思案し続けること10分──。

「――良い手がひとつあることはあるな」

 男の目に鋭い光が走った。

「オレオレ詐欺の手伝いに簡単に手を貸すぐらいの男だからな。頭の中身は推して知るべしだろう 。きっと、こっちの考えには気付きはしないさ。まあとにかく、試すだけの価値はあるだろう」

 男はふっと口元に笑みを浮かせた。ここには居ない相手を見下す笑みである。

「それはそうと、あの男を追うように命令した連中は、いったいどこで何をしてるんだ? あの男を捕まえたら、あいつらも少し説教しないとならないな。やれやれ、これじゃ不良生徒に生活指導する教師みたいなもんだぜ」

 左右に首を振る男の顔には、しかし、凶悪な表情がしっかりと浮いていた。男にとって今のこの状況は楽しみでしかないのだ。

「あいつらは武器を用意していたみたいだが、ちょうどいい、俺も『自慢の武器』を試してみるか。あの男が少しは骨のあるやつだといいんだが」

 男は両拳を強く握り締めた。肩から肘まで伸びた筋肉の繊維が、うねるように隆起する。男はヤクザらしからぬ、強靭な体つきをしていたのだった。


 ――――――――――――――――


 玲子は『巨大迷宮』に向かう分かれ道の前まで戻ってきた。ここで慧登と分かれてから、すでに10分以上が経過している。今から追いかけたところで追いつくかどうか分からないが、玲子に出来ることはこれしかなかった。

「大丈夫。きっと大丈夫」

 自分自身に言い聞かせた。

「いざとなったら春元さんから貰ったこのナイフを使えばいいんだし」

 手元のナイフにチラッと視線を向けた。出来れば荒事は避けたいが、そうはいかないことは、ここまでのゲーム経過の中で嫌と言うくらいに思い知らされた。

「こうなったら出たとこ勝負しかないか」

 玲子が気合を入れ直して『巨大迷宮』に向かおうしたとき、少し先の道をとぼとぼとやってくる男の姿が視界に入った。

「あれって……ヒカリ、かな……?」

 ゲームの開始当初にチームを組んでいた参加者のことを思い出した。途中から勝手に単独行動に移ったが、もしかしたら単独行動は止めて、誰か参加者を捜しているのかと考えた。だとしたら声を掛けて、仲間になってもらうのが得策だ。

 近付いてくる男の方に足を向けるのと同時に、風にのって玲子の耳に陰鬱な男の声が届いてきた。

「殺してやる……切り刻んでやる……ぶっ殺してやる……絶対に許さねえからな……」

 誰かに呪いを掛けるような、憎悪に満ちた低いつぶやき声である。玲子が知っている陽気で短気なヒカリの発する声とはかけ離れていた。

「違う! 別人だ!」

 玲子は音を立てずに木の陰にするりと移ると、静かにしゃがみ込んで身を隠した。

「殺す……殺す……殺す……殺す……殺す……殺す……」

 玲子のすぐ目の前を男が通過して行く。その男の顔に見覚えがあった。芝生広場で追ってきた男に違いない。まだ懲りずに追ってきているらしい。男は怪我しているようで、右足を少し引き摺るようにして歩いていた。

 男の向かう先には『アトラクション乗り場』がある。そこには春元たちが居る。

 しかも恐ろしいことに、男は右手に物騒な物を握っていた。玲子が手にしたナイフと形状こそ似ているが、その大きさが異なっていた。明らかに戦闘に特化した思われる大振りのナイフを持っていたのだ。


 なんなのよ、あのナイフは! ひとりで戦争でもする気なの?


 春元たちの顔が脳裏に浮かぶ。春元たちがこの男と遭遇したら危険極まりない。春元は自らを守る武器を玲子にくれたのだ。きっと他の武器は持ち合わせていないだろう。あの男の凶悪なナイフと立ち向かう術はないのだ。


 あたしなんかにナイフをくれたせいで……。


 しかし、ここで悔やんでいても始まらない。玲子は必死に頭を働かせた。だが、焦るばかりで妙案はなかなか浮かんでこない。

 春元たちは自分を助けてくれた仲間である。なんとしてでも、春元たちにこの男の存在を伝えたかった。この男の存在を知れば、後手に回ることだけは避けられるはずである。

 あるいは、男にバレないように脇道を抜けて、春元たちに直接連絡をしに行こうかと考えてもみたが、今度は慧登のことが頭をよぎった。慧登もまた玲子のことを助けてくれた仲間である。しかも、慧登は現在追われている身である。ここで慧登のことを放っておくわけにはいかない。

「もうどうすればいいのよ……」

 その場で頭を抱えたくなった。詐欺活動をしていたときにもピンチに陥ったことは何度もあったが、どれも命に関わるようなことはなかった。しかし、今は慧登と春元たちの命が懸かっている。両者とも玲子にとっては命の恩人といってもいい存在である。どちらかだけを選ぶことなど絶対に出来ない。

「どうしよう……どうしよう……どうし──あっ、そうか。良い方法があった! さっきの『アレ』を使えばいいんだ! 慧登くんを助けに行くのが少し遅れるけれど、春元さんたちのことも見捨てる訳にはいかないからね。『アレ』を使わせてもらおう!」

 すぐさま玲子は行動を起こした。『巨大迷宮』とは逆方向に向かって走り出す。

「慧登君、すぐに戻ってくるから、それまでの間、捕まらずに逃げ続けていてよ。お願いだから!」

 今はただ神に祈るしかなかった。


 ――――――――――――――――


 突然鳴り響いたスマホの着信音に体がすくみあがった。ただでさえ緊張状態にあったので、より大きく驚いてしまった。

「くそっ! 誰だよ、こんなときに」

 だがスマホを見て、慧登の背筋にぶるっと震えが走り抜けた。

 スマホの画面には、自分を追ってくる男の名前があったのだ。電話に出るかどうか一瞬悩んだが、ここで弱い所をみせたくなかった。ヤクザはこちらが少しでも弱い所を見せると、とことんそこを突いてくるのだ。それはオレオレ詐欺をしていたときに学んだことでもある。

 だから、慧登は敢えて電話に出ることにした。

「な、な、なんだよ……」

 威勢よく声を出したつもりだったが、実際のところは糸のようにか細い声になってしまった。

「おいおい、なんだとはこっちのセリフだろうが。キサマ、いつまでそうやって逃げ続けるつもりなんだ?」

 あの男の声は相変わらず非常に落ち着き払っていた。

「…………」

「キサマにいいことをひとつ教えてやるよ。今若い衆を呼んだ。さすがにこんな巨大な迷宮は、俺ひとりではどうにもならないからな。だが若い衆が来て、人海戦術でいけば、キサマをすぐに見つけることが出来るぜ。悪いことはいわねえから、今すぐ入り口まで戻って来い。そうすれば、痛めつけるのだけはやめといてやる。キサマにとってはいい提案だと思うんだがな」

「ふ、ふ、ふざけんなよ! お前の話になんか、の、の、のらねえからなっ!」

 男の話にのったところでどうなるかは、火を見るよりも明らかである。一度ヤクザを裏切った人間のことを、ヤクザがみすみす許すはずがないのだ。

「せっかくキサマのことを思って言ってやったのにな。まあ、勝手にすればいいさ。いったいどこまで痩せ我慢ができるか見物だな」

 唐突に通話が途切れた。

「バカにしやがって! こうなったら絶対にあの男より先に、この迷宮から抜け出して出てやるからな!」

 慧登はスマホを仕舞うと、再び同じ景色が続く迷宮の中を走り出した。何かしらの案があるわけではない。とにかく、走って走って出口を目指すまでだ。残念ながら慧登の頭脳では、それ以外の名案は思い浮かばなかったのである。

 10分もしない内に、またスマホの着信音が鳴った。確認するまでもない。あの男からだろう。

「どうした? 若い衆が集まらなくて困っているのか?」

 立ち止まらずに、走りながら通話に出た。呼吸があがって興奮状態にあるせいか、今度はヤクザ相手に軽口を叩くことが出来た。

「さっきと違って随分と余裕があるみたいだな。どうせ走るしか脳がねえんだろうが」

 男が鋭く指摘してくる。

「…………」

「黙っちまったってことは、ひょっとして正解だったのか? 悪いな、キサマのヤル気を潰しちまったみたいだな」

「う、う、うるせいっ!」

 余裕綽々の男の言葉に対して、子供染みた反論しか出来ない慧登だった。

「こっちの若い衆が集まるのが先か、それともキサマの体力が尽きるのが先か。面白い賭けになりそうだな」

「おれは……ま、ま、負けないからな! お前になんかに捕まってたまるかよっ!」

「まあせいぜい俺のことを楽しませてくれよ」

 通話が切れる。

 慧登は再び走りに戻った。

 迷宮内に慧登の荒い息遣いと、走る足音だけが響き渡る。幸いにして、近くから別の足音は聞こえてこない。あの男はまだ入り口付近に居て、若い衆が来るのを待っているのだろう。

 さらに五分後、また軽快な着信音が鳴った。

 しかし慧登はそれを無視した。電話に出たところで、あの男の余裕ぶった声を聞かされるだけである。今は話しているときではない。逃げるのが先決だった。

 目の前に分かれ道が迫ってきた。左右どちらが出口に近付く正解の道なのか見当も付かないので、勘を頼りにして右の道を行こうとした。そのとき──。

「キサマが想像通りのバカで助かったぜ」

 右の道の先から男がひとり姿を見せた。ダークスーツを見にまとった男。まだ入り口付近で右往左往しているはずの男。それがなぜ今自分の目の前にいるのか、慧登には理解の外であった。

「お、お、おまえ……な、な、なんでここに……」

「だから、お前はオレオレ詐欺の手伝いぐらいしか出来ねえんだよ。さっきから、自分で自分の居場所を教えていたのに気付かねえくらいのバカだからな! 本当にお目出度い男だよ、キサマは!」

 男が右手に持ったスマホを慧登の方に見せつけてきた。

「スマホが何だって言うんだ? ……そうか! スマホの着信音か!」

 慧登は自分が仕出かした致命的なミスに気付いた。男は入り口付近で若い衆を待っていると思わせておいて、その実、スマホの着信音を頼りにして、慧登の居場所を捜していたのだ。そして、上手く気配を隠しながら慧登に近付いてきたのだろう。慧登はまんまと男の罠にはまってしまったのである。

「さてと、さっきはずいぶんと威勢よく話してくれたが、こうして面と向かった状態でも、その威勢の良さは見せてくれるのか?」

「いや、それは……その……」

「どうした? 急に怖気づいたのか? 声が小さ過ぎて聞き取れねえんだけどな」

「あの……そういうわけじゃ……。とにかく、俺の話を聞いてく──いや、聞いてください!」

「突然話し方を変えてどうしたんだ? 生憎と、もう遅すぎなんだよ!」

「そんな……違うんです……。誤解なんです……。お願いします、俺の、俺の話を聞いて下さい……牛頭ごずさん……」

「誤解も何も、あの刑事も金の行方を知らねえみたいだからな。となると、あの金を持っているのはキサマ以外有りえないんだよ」

「刑事……? どうして刑事の話なんか……」

「ちぇっ。キサマのせいで、言わなくてもいい事を言っちまったな。──とにかく、キサマからたっぷりと事情を聞かせてもらうぜ。だがその前に、まずはきっちりと落とし前をつけてもらわないとな。話を聞くのはそれからだ」

 男──牛頭は首を左右に軽く回す。運動の前の軽い準備体操みたいなものなのだろう。もっとも、これからするのはただの運動ではないことくらい、慧登でも察せられた。ヤクザによる容赦のない一方的な暴力なのだ。

「じゃあ、そろそろ始めるとするか」

 牛頭がニヤリと凄みのある笑みを浮かべた。見た者全員が絶望を感じるような、そんな笑みだった。


 ――――――――――――――――


 スオウはしばらくの間、玲子が消えた道の方を見つめていた。玲子の気持ちは痛いほど分かったが、危険であることに変わりはないのだ。出来れば元気な姿をまた見たかった。

「さあ、オレたちも先を急ごう」

「はい、分かりました……」

 春元に促されるようにして、スオウは玲子への思いを断ち切った。

「それでアタシたちはこれからどこに向かうの?」

 ヴァニラは辺りをキョロキョロと見回している。

「そうだな──」

 春元が例によって園内マップを広げる。

「どの乗り物もアトラクションもデストラップの危険がありそうだからな……」

「どこか安全地帯になりそうな場所はないですか?」

 イツカが話に加わる。

「いや、どこも危険だな。特に乗り物に乗ったら最後、降車するまで何も出来ないからな。デストラップの格好の的になっちまう。それらを踏まえて考えると──」

 さすがの知恵者の春元も思い悩んでいると、園内によく知る声が響き渡った。


『春元さんたちに緊急連絡します! 男がひとり、そちらに向かっています! 手に凶器を持っています! 気を付けて下さい!』


 イツカが慧登たちに呼び掛けた、あのときの園内放送と同じである。

「これって玲子さんの声だよ! 何かあったのかも!」

 イツカの顔に緊張が走った。

「いや、これは玲子さんからの警告だ! こちらに警戒するように言ってるんだ! みんな、周りに注意するんだ!」

 春元は皆にそう説明しながらも、すでに周囲に視線を振り向けている。

「凶器を持った男って……。でも、いったいどこから来るっていうんだ?」

 凶器という単語に恐怖を感じたが、スオウもとにかく周囲に警戒の視線を飛ばした。

「春元さん! 男がこっちの方に向かってきています!」

 スオウの視線の先に男の姿が見えた。間違いない。ゴーカートのサーキットコースで見た、あの2人組みの内のひとりである。

「メールに書いてあったみたいに、デストラップに掛かったのはひとりだけで、残りのひとりはやっぱり無事だったんだ!」

「スオウ君、男との距離はあとどれくらいある?」

「今、男は『アトラクション乗り場』の入り口から10メートルくらい歩いてきた位置にいます!」

 春元の質問に対して、すぐさま的確に答えるスオウ。

「分かった。ここで立ち止まっていても仕方ない。こっちも移動するぞ。走りながら次の行動を考えよう!」

「分かりました!」

 スオウはイツカを伴って『アトラクション乗り場』の奥に向かって走り出した。春元、ヴァニラ、美佳も続けて走り出す。

 スオウたち一行が向かう先には──ジェットコースター、フリーフォール、メリーゴーラウンド、コーヒーカップ、お化け屋敷……デストラップが仕掛けられていそうなアトラクションばかりが設置されている。

 しかし今のスオウたちには、そこ以外に逃げ場所は無かったのである。


 ――――――――――――――――


 最初の一撃は腹にきた。顔を狙ってきたと思ったので両手を挙げてガードしたら、がら空きになった腹部に重いパンチをぶち込まれた。

「うぐえっ……」

 慧登の喉から呻き声が漏れ出た。

「あいつらは武器を準備していたみたいだが、俺にとっての武器は『コレ』なんでな。──ほら、次もいくぜっ!」

 言うなり、また牛頭の右拳が空を走る。牛頭の拳が慧登の右頬にきれいに打ち込まれる。

 辛うじて倒れずに踏みとどまった慧登だったが、間髪入れずに牛頭の拳が今度は左頬に襲いかかってきた。慧登の体が左右に大きくぐらつく。地面に倒れこみそうになる。

 牛頭の目が妖しく光った。次の瞬間、勢いの乗った牛頭のアッパーが、慧登の顎をクリーンヒットした。

「ぶぐっ……ぐええっ……」

 慧登は堪らず腰から砕けるようにして、その場に崩折れた。

「おいおい、ダウンするのが早いんじゃないのか? これじゃ、ウォーミングアップにもならねえよ。もっともっと楽しませてもらうからな。それじゃ、次は俺の足技を見せてやるよ!」

 牛頭がサッカー選手のように、大きく右足を振り上げた。そのまま凄まじいスピードを伴ったキックが、慧登の脇腹目掛けて走った。牛頭の革靴の先の尖った部分が、慧登の脇腹に文字通り、深く抉るようにして突き刺さる。

「ごぼっ、ごぶっ……」

 慧登は腹を押さえて、地面の上をのたうち回った。

 しかし、それで牛頭の攻撃が止まることはなかった。容赦なく牛頭の足が何度も慧登の体に打ち込まれる。

 脇腹、太もも、臀部、肩、二の腕──。

 致命傷を与えかねない顔と頭以外の部分を、執拗に攻撃してくる。牛頭は完全に暴力を楽しんでいた。死なない程度に慧登を痛めつけようとしているのだ。


 ぐぎっ。


 慧登の脇から、耳障りな鈍い篭もった音がした。慧登の肋骨が折れた音である。

「うぐぎゃああああ!」

 あまりの痛みに、喉の奥から絶叫が迸った。慧登の頭が朦朧としてくる。精神が彷徨いだす。現状が上手く把握出来ない。ただ殴られ、蹴られ続けているのだけは理解出来た。


 もしかしたら、俺はこのまま死んでいくんじゃ──。


 そんな思いに囚われる。深い絶望の淵に落ちていきそうになる。


 ミノタウロス。


 なぜか分からないが、不意にその単語が頭に思い浮かんだ。


 そうか! この迷宮に入る前に見た、案内板にあったんだ! あそこに『迷宮に潜むモンスター』って書かれていたよな……。だから、ミノタウロスが思い浮かんだのか……。


 死地にあった慧登の脳ミソがフル稼働する。


 ミノタウロス――クレタ島の迷宮に住み着いた怪物。その姿は──『頭は牛で体は人間』──牛頭人身の怪物である。


 ああ……そうか……。そういうことだったのか……。


 自分を今痛めつけているこの男の名前は『牛頭』。つまり――。


 この男こそ、この迷宮に住み着いたモンスターだったんだ! この男の存在そのものが、この迷宮のデストラップだったんだ!


 今更ながらに、案内板に書かれていた『迷宮に潜むモンスター』という言葉の本当の意味を悟った。あの案内板はデストラップの前兆だったのだ。

 あの言葉をしっかり読み解いてさえいれば、このデストラップに掛かることはなかったかもしれない。

 しかし、今さらそのことを悔やんでも、もう遅い。なぜならば、今の慧登にはもう牛頭と戦うだけの体力が尽きていたのだ。

 そのとき──。

 微かに、本当に微かに、玲子の声が耳に届いた気がした。もちろん、玲子がこの場にいないことぐらい分かっている。きっと目の前の痛みから逃げる為に、脳が勝手に玲子の声を作り出したのだろう。多分、幻聴を聞いたに過ぎない。それでも──。


 そうだ、まだ……死ぬわけには、いかないんだ……。玲子さんに……玲子さんに……もう一度会って……。


 慧登の頭にはその思いだけがあった。

「さっきまで死にそうなツラをしてたくせに、急に笑い始めやがったぜ。気持ち悪い男だ。それとも、いよいよ激痛のせいで頭が狂ったのか? それりゃそうだろう。骨が何本も折れたんだからな。でも、安心しな。まだ折れてない骨はいっぱいあるからな」

 牛頭の顔には愉悦の表情が浮いていた。絶対的な力の差がある中で、相手を徹底的に痛めつける歪んだ喜びに浸っているのだ。

「キサマみたいな負け犬はどんなに頑張っても、所詮、負け犬でしかねえんだよっ! それともヒーローにでもなれると勘違いしてたのかっ! 笑わせるんじゃねえよっ! 負け犬は人間にすらなれねえんだよっ! いいか、負け犬ごときが、ご主人様に逆らってんじゃねえよっ!」

 牛頭の重い足蹴りが、慧登の鳩尾の中心に吸い込まれた。

「うぐっ……ぐぐぎゅるぅぅ……」

 腹の奥から込み上げてくるものがあった。堪えようとしたがダメだった。たまらず慧登は地面に嘔吐した。嘔吐物の中に赤黒い血液が混じっていた。折れた骨が内臓を傷付けたに違いない。しかし、今の慧登に出来ることはなかった。ただただ、激痛に耐えるしかない。

「まったく汚ねえ男だぜ。いや、キサマは犬だから、地面に吐いちまうのは仕方ねえか。ちょうどいい。自分の反吐の中で、そのまま悶え死にやがれっ!」

 牛頭は慧登の頭を無造作に掴むと、鼻血で真っ赤に染まった慧登の顔を、反吐の中に押し付けた。

「ぐっ……ぐるぅ……ごえっ……ごびゅっ……」

 自分の反吐の中に口と鼻が埋まって、呼吸が上手く出来ない。呻き声だけが漏れ続ける。

「どうだ分かったか? 一般人がヤクザに逆らうとこうなるんだよ! 骨身に染みて理解しただろうが! はあ? なんだって? ちゃんと日本語をしゃべれよ! 呻き声ばかりじゃ、理解出来ねんだよっ! それともこのまま本当に息の根を止めてやろうか? キサマだって、これ以上もう苦しみたくはないだろう? ほら、なんとか言ったらどうだ! はあ? なんだって? だから何を言ってるか分からね──」

 唐突に、牛頭の言葉が途切れた。慧登の頭を掴んでいないほうの手を、ふらふらと自分の背中に伸ばす。その部分を何度か擦るようにして、再び手を前面に戻すと、自分の顔の高さまでもってくる。

「なんだこれ?」

 牛頭の口から、この場に似つかわしくない困惑げな声がこぼれた。牛頭の右手は手のひらから指先まで、なぜか真っ赤に染まっていた。

「慧登君、ごめんね……。道が混んでいて……来るのが、遅くなっちゃった……」

 牛頭の背後から姿を見せたのは、ナイフを握り締めた玲子だった。ナイフの刃先からは、今も真っ赤な鮮血が滴っている。

 最前まで興奮状態にあった牛頭の表情から抜け落ちたものがある。狂気と生気である。顔面は蒼白だった。血の気がまったく感じられない。そして──。

 牛頭の体がごとりと地面に倒れ落ちた。そのまま、ぴくりとも動かない。呻き声すら聞こえない。

 牛頭の着たスーツの背中には、真っ赤な染みが大きく広がっていた。それが致命傷になったのだ。

「ただ突き刺しただけなのに……。なんだか、一撃必殺だったみたい……」

 他人事のような顔で玲子は牛頭の背中の血を茫然と見つめている。

 そのとき、スマホからメール着信音が鳴り響いた。慧登はその音をなんだか久しぶりに聞いたような気がした。


『 ゲーム退場者――1名 牛頭


  残り時間――4時間02分  

  残りデストラップ――5個

  残り生存者――13名     
  
  死亡者――6名        』
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