205 / 232
第一章 炎の記憶
第一節 緑色の世界
しおりを挟む
明石雅人が眼を覚ました時、世界は緑色に染まっていた。
ぼんやりと光を放つ緑色の世界で、雅人は自分の全身が失われた錯覚に襲われた。
地に足が着いていない。それまでの生活を鑑みるに自分には相応しい表現であるが、物理的に地面と身体との距離が遠いのである。
又、全身に空気よりも重いものが張り付いて、閉所に押し込まれているようであった。
とは言え肌の上に感じる圧迫感を、雅人は肉体的に感じられたのではなかった。
寧ろあらゆる感覚が奪い取られており、明石雅人という意識だけが、緑色の世界に放り込まれてしまった気分になったのである。
夢を見ているのに近い状態……なのかもしれない。
雅人は眼の前にぷつぷつと浮かび上がる、小さな気泡を眺めた。
気泡?
それが水の中に発生する空気の塊であるのなら、これは世界そのものではない。
少なくとも、水がある。水と区別される空気がある。ならば自分も亦、水と空気とは区別されるべきであり、そして自分は今、水の中にいる筈なのだ。
雅人の脳が急速に覚醒し、自分が水に浮かんでいる状態であると察した。
どうしてそんな事になっているのかは分からないが、ともあれ、そうした状態にあるのである。
海に沈められてしまったのか。
それとも川に飛び込んだのか。
プールで泳いでいる最中だったか、それとも温泉で溺れたのか。
溺れているのなら、助かろうとしなければいけない。
雅人は腕を持ち上げようとした。それで自分の身体を圧迫する液体が流動し、表面の気泡が潰れてゆく。
ひたりと、右手が何かに触れた。水とは異なる、硬質な感触は……ガラスだろうか。
しかし分厚い掌は、長い間、液体に浸されていた所為か、触覚としての能力を酷く弱めていた。
正座から立ち上がった直後、足が痺れているのにも似ている。だが痛みはない。厚手のゴム手袋を二枚も三枚も装着して、ものに触った時のようだ。
すると掌が触れたもの……ガラスの壁に見る見る亀裂が生じてゆく。上下左右に走った、元は一つであったガラスを二つ以上に切り分ける境界線が生まれ、そして砕け散った。
雅人の掌がガラスを砕いていたのである。液体が外へ吹き出してゆき、雅人の世界は緑色から紺色の薄暗がりへと変化した。
水分が抜けた場所に、外側から空気が入り込む。眼球の余分な水分が乾き、雅人は何度か瞬きをして、水を払い除けた。
頭に、ずっしりと重みがある。肩や背中に張り付く、不快な筋が幾つもあった。
振り向いて取り払おうとすると、それは肩甲骨の下まで伸びた赤い髪であった。
この時、顔の横にゴム管らしきものが引っ掛かった。どうやら、自分の顔に、天井から伸びているらしい。正確には、鼻から顎までを覆ったレギュレータのようなものに、だ。
雅人はガラスを砕いた右手を引き戻し、口元にやった。液体に浸かっていながらも平気でいられたのはそれのお陰のようだったが、雅人が指先で触れると小枝の手折れる音を発して砕けてしまった。
機械を通じて送られる純粋な酸素から、雑多な物質を交えた空気を口と鼻に吸い込み、雅人は軽く咳き込んだ。
自分にとって、咳に衝撃も何もない筈なのだが、雅人はくらくらと身体が倒れてゆくのを感じた。
雅人は、掌が開けた孔以外は無事だったガラスの壁を、身体の正面で突き破ってしまった。
全身にガラスの破片を突き刺しながら、水のばら撒かれた床に倒れる。
しかし痛いとは感じなかった。
自分らしかぬざま……受け身一つ取れないで胸から倒れたのだ。しかも、水とガラスの混じった地面である。咄嗟に首をひねる事しか出来ず、そうであっても、頬には透明の破片がめり込んでいる。
だのに雅人は痛みはおろか、自分が倒れている床の感触すら薄かったのである。
ぼんやりと光を孕んでいた緑色から、薄暗い紺色に変わった世界が、又も色を変えた。今度は、赤い光が不愉快なブザーの連鎖と共に明滅している。
そして、雅人の脳は、自分に対して何者かが近付いて来るのを感じた。
姿が見えたのではない。
足音が聞こえたのでもない。
ただ、自分に近付くものがあるという事に、雅人は気付いたのである。
──立ち上がれ。
頭の中でアラートが鳴り響く。不思議な事に、光の明滅に伴うものとは別の、音ではない警告音が、雅人の中でがなり立てていたのだ。
ぼんやりと光を放つ緑色の世界で、雅人は自分の全身が失われた錯覚に襲われた。
地に足が着いていない。それまでの生活を鑑みるに自分には相応しい表現であるが、物理的に地面と身体との距離が遠いのである。
又、全身に空気よりも重いものが張り付いて、閉所に押し込まれているようであった。
とは言え肌の上に感じる圧迫感を、雅人は肉体的に感じられたのではなかった。
寧ろあらゆる感覚が奪い取られており、明石雅人という意識だけが、緑色の世界に放り込まれてしまった気分になったのである。
夢を見ているのに近い状態……なのかもしれない。
雅人は眼の前にぷつぷつと浮かび上がる、小さな気泡を眺めた。
気泡?
それが水の中に発生する空気の塊であるのなら、これは世界そのものではない。
少なくとも、水がある。水と区別される空気がある。ならば自分も亦、水と空気とは区別されるべきであり、そして自分は今、水の中にいる筈なのだ。
雅人の脳が急速に覚醒し、自分が水に浮かんでいる状態であると察した。
どうしてそんな事になっているのかは分からないが、ともあれ、そうした状態にあるのである。
海に沈められてしまったのか。
それとも川に飛び込んだのか。
プールで泳いでいる最中だったか、それとも温泉で溺れたのか。
溺れているのなら、助かろうとしなければいけない。
雅人は腕を持ち上げようとした。それで自分の身体を圧迫する液体が流動し、表面の気泡が潰れてゆく。
ひたりと、右手が何かに触れた。水とは異なる、硬質な感触は……ガラスだろうか。
しかし分厚い掌は、長い間、液体に浸されていた所為か、触覚としての能力を酷く弱めていた。
正座から立ち上がった直後、足が痺れているのにも似ている。だが痛みはない。厚手のゴム手袋を二枚も三枚も装着して、ものに触った時のようだ。
すると掌が触れたもの……ガラスの壁に見る見る亀裂が生じてゆく。上下左右に走った、元は一つであったガラスを二つ以上に切り分ける境界線が生まれ、そして砕け散った。
雅人の掌がガラスを砕いていたのである。液体が外へ吹き出してゆき、雅人の世界は緑色から紺色の薄暗がりへと変化した。
水分が抜けた場所に、外側から空気が入り込む。眼球の余分な水分が乾き、雅人は何度か瞬きをして、水を払い除けた。
頭に、ずっしりと重みがある。肩や背中に張り付く、不快な筋が幾つもあった。
振り向いて取り払おうとすると、それは肩甲骨の下まで伸びた赤い髪であった。
この時、顔の横にゴム管らしきものが引っ掛かった。どうやら、自分の顔に、天井から伸びているらしい。正確には、鼻から顎までを覆ったレギュレータのようなものに、だ。
雅人はガラスを砕いた右手を引き戻し、口元にやった。液体に浸かっていながらも平気でいられたのはそれのお陰のようだったが、雅人が指先で触れると小枝の手折れる音を発して砕けてしまった。
機械を通じて送られる純粋な酸素から、雑多な物質を交えた空気を口と鼻に吸い込み、雅人は軽く咳き込んだ。
自分にとって、咳に衝撃も何もない筈なのだが、雅人はくらくらと身体が倒れてゆくのを感じた。
雅人は、掌が開けた孔以外は無事だったガラスの壁を、身体の正面で突き破ってしまった。
全身にガラスの破片を突き刺しながら、水のばら撒かれた床に倒れる。
しかし痛いとは感じなかった。
自分らしかぬざま……受け身一つ取れないで胸から倒れたのだ。しかも、水とガラスの混じった地面である。咄嗟に首をひねる事しか出来ず、そうであっても、頬には透明の破片がめり込んでいる。
だのに雅人は痛みはおろか、自分が倒れている床の感触すら薄かったのである。
ぼんやりと光を孕んでいた緑色から、薄暗い紺色に変わった世界が、又も色を変えた。今度は、赤い光が不愉快なブザーの連鎖と共に明滅している。
そして、雅人の脳は、自分に対して何者かが近付いて来るのを感じた。
姿が見えたのではない。
足音が聞こえたのでもない。
ただ、自分に近付くものがあるという事に、雅人は気付いたのである。
──立ち上がれ。
頭の中でアラートが鳴り響く。不思議な事に、光の明滅に伴うものとは別の、音ではない警告音が、雅人の中でがなり立てていたのだ。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
マッサージ
えぼりゅういち
恋愛
いつからか疎遠になっていた女友達が、ある日突然僕の家にやってきた。
背中のマッサージをするように言われ、大人しく従うものの、しばらく見ないうちにすっかり成長していたからだに触れて、興奮が止まらなくなってしまう。
僕たちはただの友達……。そう思いながらも、彼女の身体の感触が、冷静になることを許さない。
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる