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第二章 牙を研ぐ夜
第十四節 諍 い
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里美は病院を出た。
潔癖に隔離された空間から、自動ドアを潜って一歩外に出ただけで、空気が違う。
里美は大きく息を吐いた。病院にいる間中、ずっと息を止めていたような錯覚がある。百合の眠っている特別個室が、文字通りの特殊な雰囲気で充満しているというのはあるが、それを差し引いても白い巨塔――と言うには小振りだろうか――の、背筋を伸ばしていなければならない清潔さは、里美の好む所ではなかった。
自分にはどちらかと言えば、やはり、“こんぴら”のような雑多な空間が丁度良い。
学校では、生来の大人しい気質もあって、又、比較する対象のない美貌を持ち、その魅力によって誰の心をも妖しくさせる青波純のれっきとしたガールフレンドを続けられているという認識もあり、人から誤解される事が多い。
曰く、お淑やかでおおらかな、幻想的女性であるという評価だ。
玲子でさえ、そうした認識を持っているだろう。
しかし今はそのように見えるかもしれないが、もっと小さな頃は案外と奔放だったのだ。毎日、公園で泥だらけになって遊んでいたのである。
年齢を重ねるに連れて落ち着いて来ただけであって、元から良家のお嬢さまであるというような認識は、勘違いも甚だしいのであった。
里美は自転車に乗って、“こんぴら”へ向かった。その前に、スーパーで幾らかの食材を買ってゆく心算だった。
病院と“こんぴら”の、丁度中間くらいの場所にあるスーパーにやって来ると、駐輪場に自転車を停めて、買い物を済ませた。
ウェストポーチに、折り畳んだエコバッグを入れており、買い込んだ調味料や肉、野菜などをかごに乗せて、スーパーを後にした。
その途中で、店に置く週刊誌を買い忘れた事に気付いて、コンビニに寄った。
週刊誌を二冊買って、店を出ようとした所で、後ろから誰かにぶつかられて、駐車場に倒れ込んでしまった。その勢いで、肩から下げたエコバッグから、調味料の瓶などがこぼれ落ちてしまった。
「ンだよ、すっとろいなぁ」
立ち上がろうとした里美の頭上から、苛立った声がした。
見上げると、コンビニの袋を手に提げた若い男が、不機嫌そうな顔になっている。
「ユウジー、早くしなよぅ」
「何やってんだよぉ」
若者たちが、ワンボックスカーの窓から顔を出して、里美に背中からぶつかった男を呼んでいる。
「おう、悪ぃ」
ユウジと呼ばれた男は、自分がぶつかって転倒させた里美を気に掛けた様子もなく、仲間たちの待つ車へ足を向けている。
里美は、恐らくユウジが自分に向けているよりも強く苛立っていたが、事を荒立てるのを厭って黙っていた。
すると、そのユウジの前に滑り込んで来た男があった。
「謝れよ……」
「ケンゴ?」
「その人に謝れよッ」
ユウジと同じくらいの歳の若者……ケンゴは、ユウジの胸倉を掴んで怒鳴り付けると彼を押し退けて、里美の前にしゃがみ込んで荷物を拾うのを手伝った。
「大丈夫?」
「え、ええ……」
里美に手を貸して立ち上がらせてやるケンゴを見て、ユウジが唾を吐いた。
「良い子ちゃん振りやがってよぅ、ムカつくんだよ!」
ユウジはいきなり、ケンゴに殴り掛かった。
ケンゴは右手のパンチを左腕でガードすると、咄嗟に右の掌底を突き出していた。だが、ユウジが怯えて後退したのを見ると手を寸前で止めてしまう。
初めから当てる気がない、ケンゴの攻撃だった。
だがユウジは後方にたたらを踏んで、そのまま尻餅をついてしまう。
その拍子に、ユウジの服のポケットから箱のようなものが落下した。
「お前……こんなものにまで手を出したのか!」
ケンゴが、箱を取り上げようとする。その前にユウジが箱を握り、立ち上がりざまにケンゴに言った。
「正義の味方にでもなった心算かよ。てめぇだって前まではよぅ、俺たちとつるんで楽しい事をやっていたじゃねぇか。なぁ、ホームレス共をぶちのめすのは楽しかったよなぁ!?」
ユウジが眼を吊り上げてそう言うと、ケンゴは言葉に詰まってしまった。
その隙を突いて、ユウジがケンゴの顔を打撃した。ケンゴはよろめきながらも、倒れる事はなかった。
ユウジはもう一度唾を吐いて、仲間たちの待つ車へ向かった。
ユウジの乗った車が、駐車場から出てゆく。
「……糞ッ」
悪態を吐くケンゴ。
里美は恐る恐る、彼に話し掛けた。
「あの……顔、大丈夫ですか?」
「ん? ああ、平気だよ、これでもキックをやってるんでね、殴られるのも蹴られるのも慣れっこさ」
ケンゴはその場でアップライトに構えて、膝でリズムを刻んだ。キックボクシングの動きだ。
「それより、君こそ大丈夫? 何処か怪我は?」
「私も平気です」
「そっか。なら良かった。それじゃあ」
ケンゴはそう言うと、里美の前から走り去って行った。
里美は、直面した出来事に唖然としつつも、我に返り、自転車に乗って“こんぴら”へ向かうのだった。
潔癖に隔離された空間から、自動ドアを潜って一歩外に出ただけで、空気が違う。
里美は大きく息を吐いた。病院にいる間中、ずっと息を止めていたような錯覚がある。百合の眠っている特別個室が、文字通りの特殊な雰囲気で充満しているというのはあるが、それを差し引いても白い巨塔――と言うには小振りだろうか――の、背筋を伸ばしていなければならない清潔さは、里美の好む所ではなかった。
自分にはどちらかと言えば、やはり、“こんぴら”のような雑多な空間が丁度良い。
学校では、生来の大人しい気質もあって、又、比較する対象のない美貌を持ち、その魅力によって誰の心をも妖しくさせる青波純のれっきとしたガールフレンドを続けられているという認識もあり、人から誤解される事が多い。
曰く、お淑やかでおおらかな、幻想的女性であるという評価だ。
玲子でさえ、そうした認識を持っているだろう。
しかし今はそのように見えるかもしれないが、もっと小さな頃は案外と奔放だったのだ。毎日、公園で泥だらけになって遊んでいたのである。
年齢を重ねるに連れて落ち着いて来ただけであって、元から良家のお嬢さまであるというような認識は、勘違いも甚だしいのであった。
里美は自転車に乗って、“こんぴら”へ向かった。その前に、スーパーで幾らかの食材を買ってゆく心算だった。
病院と“こんぴら”の、丁度中間くらいの場所にあるスーパーにやって来ると、駐輪場に自転車を停めて、買い物を済ませた。
ウェストポーチに、折り畳んだエコバッグを入れており、買い込んだ調味料や肉、野菜などをかごに乗せて、スーパーを後にした。
その途中で、店に置く週刊誌を買い忘れた事に気付いて、コンビニに寄った。
週刊誌を二冊買って、店を出ようとした所で、後ろから誰かにぶつかられて、駐車場に倒れ込んでしまった。その勢いで、肩から下げたエコバッグから、調味料の瓶などがこぼれ落ちてしまった。
「ンだよ、すっとろいなぁ」
立ち上がろうとした里美の頭上から、苛立った声がした。
見上げると、コンビニの袋を手に提げた若い男が、不機嫌そうな顔になっている。
「ユウジー、早くしなよぅ」
「何やってんだよぉ」
若者たちが、ワンボックスカーの窓から顔を出して、里美に背中からぶつかった男を呼んでいる。
「おう、悪ぃ」
ユウジと呼ばれた男は、自分がぶつかって転倒させた里美を気に掛けた様子もなく、仲間たちの待つ車へ足を向けている。
里美は、恐らくユウジが自分に向けているよりも強く苛立っていたが、事を荒立てるのを厭って黙っていた。
すると、そのユウジの前に滑り込んで来た男があった。
「謝れよ……」
「ケンゴ?」
「その人に謝れよッ」
ユウジと同じくらいの歳の若者……ケンゴは、ユウジの胸倉を掴んで怒鳴り付けると彼を押し退けて、里美の前にしゃがみ込んで荷物を拾うのを手伝った。
「大丈夫?」
「え、ええ……」
里美に手を貸して立ち上がらせてやるケンゴを見て、ユウジが唾を吐いた。
「良い子ちゃん振りやがってよぅ、ムカつくんだよ!」
ユウジはいきなり、ケンゴに殴り掛かった。
ケンゴは右手のパンチを左腕でガードすると、咄嗟に右の掌底を突き出していた。だが、ユウジが怯えて後退したのを見ると手を寸前で止めてしまう。
初めから当てる気がない、ケンゴの攻撃だった。
だがユウジは後方にたたらを踏んで、そのまま尻餅をついてしまう。
その拍子に、ユウジの服のポケットから箱のようなものが落下した。
「お前……こんなものにまで手を出したのか!」
ケンゴが、箱を取り上げようとする。その前にユウジが箱を握り、立ち上がりざまにケンゴに言った。
「正義の味方にでもなった心算かよ。てめぇだって前まではよぅ、俺たちとつるんで楽しい事をやっていたじゃねぇか。なぁ、ホームレス共をぶちのめすのは楽しかったよなぁ!?」
ユウジが眼を吊り上げてそう言うと、ケンゴは言葉に詰まってしまった。
その隙を突いて、ユウジがケンゴの顔を打撃した。ケンゴはよろめきながらも、倒れる事はなかった。
ユウジはもう一度唾を吐いて、仲間たちの待つ車へ向かった。
ユウジの乗った車が、駐車場から出てゆく。
「……糞ッ」
悪態を吐くケンゴ。
里美は恐る恐る、彼に話し掛けた。
「あの……顔、大丈夫ですか?」
「ん? ああ、平気だよ、これでもキックをやってるんでね、殴られるのも蹴られるのも慣れっこさ」
ケンゴはその場でアップライトに構えて、膝でリズムを刻んだ。キックボクシングの動きだ。
「それより、君こそ大丈夫? 何処か怪我は?」
「私も平気です」
「そっか。なら良かった。それじゃあ」
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