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第二章 牙を研ぐ夜
第十三節 パンドラの箱
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里美は、翌日、水門大学病院へ向かった。
あの後――玲子から連絡を受けて、警察署へ椿姫を引き取りに行って、“こんぴら”で食事をしてから、里美は家に戻り、ゼミのレポートを纏めた。
講義ごとに課せられる調べ物が、そのまま卒業論文になる教授のゼミを取っているので、同じ学科の他の人間からは少しばかり羨ましがられている。他のゼミでは、卒論の資料集めとは別に、自分たちの学部の研究をしなければならないらしく、里美は却ってそちらの方が驚いた。
“こんぴら”には、午後三時頃までいた。店の掃除や片付けを手伝ってコーヒーを貰い、ふらりと立ち寄った一組の男女に食事を出し、それくらいの時間に帰宅した。
レポートを二時間ばかりやった後、町の古書店へ向かい、何かそれらしい資料はないかと探してから、ふと思い立って映画を観に行った。
最近流行りの恋愛小説を実写化したものだ。
恋愛小説を特に好むという訳ではないし、出演している俳優のファンという訳でもない。ただ、レポートの事とか、堀田姉妹の事とか、自分の精神に掛かった重圧を解きほぐすのに、没入出来る何かが欲しかった。
内容は、良くあるラブストーリーだ。
クールなヒロインに惚れた主人公が、あの手この手でアプローチを掛け、ヒロインはそれを躱してゆく。次第に二人は惹かれ合って、友達以上恋人未満の関係にはなるものの、ヒロインは事故に遭って記憶を失くしてしまう。その失くした記憶を取り戻すのが、メインテーマであるらしかった。
最終的に、ヒロインの記憶は戻らなかった。しかしいつか戻る事を信じながらも、現状のままでも相手を好きだという事は変わらないという主人公の一途な告白で、エンドロールが始まった。
里美は、エンドロールが終わり、館内に明かりが戻るまで座っているタイプだ。下から上へ流れてゆくスタッフロールを眺めながら、流行りのメロディに乗った流行りの歌手の歌を聞いている。
テーマ曲が、映画の内容に合っていないような気がした。恋愛がテーマという点では共通しているし、歌そのものは悪くない。けれどその映画が示している恋愛観とは、ちょっとずれがあるような気がした。
それに映画の方も、原作小説とは切り口が違っているようであった。原作の方は、失われた記憶を取り戻す事への引き絞るような欲求が感じられ、読了後には虚無感と共に清涼感が残った。映画の方では、記憶を取り戻すよりも新しい思い出を作る事に終始し、ラストシーンを下手に原作に寄せているからか、全体的に朗らかさはあったものの主人公の無力感が伝わって来なかった。
悪い所ばかり探してしまうが、こういう映画にしては監督が巧く舵を取っているように見えたし、主人公やヒロインの友人、医者、学校の先生などを演技力の高いベテランで固めてくれたのでシーンが安定していたという事もある。演出家にアニメや特撮ドラマを主な活動の場とする人間を引っ張って来ていたので、漫画チックな表現もチープではあっても違和感はなく仕上げられていた。
原作のファンは、あのシーンがない、ここはそういう意図じゃない、と、プラスの意見は少なくなるかもしれないが、単体で観ると、里美には悪くない出来であったように思う。
帰りにパンフレットを買って、ファミレスでハンバーグステーキを食べて、帰った。
風呂に入った後、髪を乾かしながら古書店で購入した本をぺらぺらと捲り、参考になりそうな部分に付箋を貼って本を閉じた。テレビを付けて適当なバラエティを、温めたミルクのツマミ程度に見て、布団に入った。
朝早くに眼を覚ますと、本の内容を今度はじっくりと読み進め、日が昇って来る頃に朝食を採る。
マーガリンを塗り、ハムとケチャップを乗せ、チーズを上に置いたパンをオーブントースターで二枚焼き、インスタントコーヒーを淹れ、コンビニのサラダを食べた。
天気予報をチェックしてここ一週間、雨がないのを見ると、レポートを少しやり、出掛ける準備をした。
七分丈のパンツに、白いブラウス、その上に淡い色のカーディガンを羽織った。
財布などはウェストポーチに入れている。
自転車で、病院へ向かった。
少しずつ気温が上がって来て、病院に着く頃には身体が温まって、背中に少し汗を掻いた。
受付で堀田百合の名前を出すと、面会用のネームカードを渡された。消毒液で手を洗った里美がエレベータで向かったのは、最上階の特別個室だ。
三年半、百合はそこで昏睡状態のままであった。
里美は、百合の病室の入り口でいつも躊躇いを覚える。
今日も、あの姿を見なければいけないのだろうか。
それとも今日は、眼を覚ましていたりするのではないか。
この病室の扉は、里美にとってパンドラの箱のようなものであった。但し、最後に残るという希望には未だ手が届かない。
特別個室ではあるが、部屋の中にあるのはベッドと椅子だけだ。
テレビやトイレなどはない。
ベッドに、百合の身体は横たえられ、点滴を受け、人工呼吸器を取り付けられていた。
その点滴の注射針を刺し込まれた腕が、身体に掛けられたシーツから外に出ている。
里美は百合の腕を見るたびに、痛ましい気分になった。
彼女の肘から下は、分厚い体毛で覆われていた。
女性に、腕や脛の毛がないというのは幻想である。しかし、皮膚の色が見えなくなるまでに大量の、硬質な毛が、獣の如く生え揃う事は、殆どない。
獣毛と呼んで差し支えないものに覆われた百合の腕は、しかも、上腕と比べてやたらと太かった。その部分だけ太腿を移植したのではないかと思われるくらいだ。
掌などは、まるで遊園地マスコットの着ぐるみみたいに肥大化している。
指の先端に、鮫の牙のような爪が生えている。
見えているのは腕だけだ。しかしシーツに隠されている部分にも、奇怪な変化は発現していた。
脚や胴体にも同質の獣毛が生え、所によっては鱗のようなものを作り出している。
池田組から購入した麻薬“アンリミテッド”の過剰摂取によって、百合は昏睡状態に陥った。この時になって初めて、里美は百合の身体にそのような現象が発生していた事を知った。
意識を失って病院に運ばれてからも、この現象は止まらなかった。初めは医師による獣毛や鱗の摘出手術も行なわれたのだが、術後暫くすると前よりも強靭な体毛となって再生してしまう。その為に点滴だけを投与していたのだが、放置して様子を見ていても、現象は止まる事を知らなかった。
現代の医学では、百合の身体を回復させる事は出来ないようであった。
いや、他のもっと大きな病院へ移れば、新しい方法を試せるのかもしれない。しかし勝義会がなくなり、水門市の裏の支配権を手にした池田組が常に病院を監視して、それをさせなかった。
里美は悔しさに歯噛みしながら、百合の傍にい続けた。
あの後――玲子から連絡を受けて、警察署へ椿姫を引き取りに行って、“こんぴら”で食事をしてから、里美は家に戻り、ゼミのレポートを纏めた。
講義ごとに課せられる調べ物が、そのまま卒業論文になる教授のゼミを取っているので、同じ学科の他の人間からは少しばかり羨ましがられている。他のゼミでは、卒論の資料集めとは別に、自分たちの学部の研究をしなければならないらしく、里美は却ってそちらの方が驚いた。
“こんぴら”には、午後三時頃までいた。店の掃除や片付けを手伝ってコーヒーを貰い、ふらりと立ち寄った一組の男女に食事を出し、それくらいの時間に帰宅した。
レポートを二時間ばかりやった後、町の古書店へ向かい、何かそれらしい資料はないかと探してから、ふと思い立って映画を観に行った。
最近流行りの恋愛小説を実写化したものだ。
恋愛小説を特に好むという訳ではないし、出演している俳優のファンという訳でもない。ただ、レポートの事とか、堀田姉妹の事とか、自分の精神に掛かった重圧を解きほぐすのに、没入出来る何かが欲しかった。
内容は、良くあるラブストーリーだ。
クールなヒロインに惚れた主人公が、あの手この手でアプローチを掛け、ヒロインはそれを躱してゆく。次第に二人は惹かれ合って、友達以上恋人未満の関係にはなるものの、ヒロインは事故に遭って記憶を失くしてしまう。その失くした記憶を取り戻すのが、メインテーマであるらしかった。
最終的に、ヒロインの記憶は戻らなかった。しかしいつか戻る事を信じながらも、現状のままでも相手を好きだという事は変わらないという主人公の一途な告白で、エンドロールが始まった。
里美は、エンドロールが終わり、館内に明かりが戻るまで座っているタイプだ。下から上へ流れてゆくスタッフロールを眺めながら、流行りのメロディに乗った流行りの歌手の歌を聞いている。
テーマ曲が、映画の内容に合っていないような気がした。恋愛がテーマという点では共通しているし、歌そのものは悪くない。けれどその映画が示している恋愛観とは、ちょっとずれがあるような気がした。
それに映画の方も、原作小説とは切り口が違っているようであった。原作の方は、失われた記憶を取り戻す事への引き絞るような欲求が感じられ、読了後には虚無感と共に清涼感が残った。映画の方では、記憶を取り戻すよりも新しい思い出を作る事に終始し、ラストシーンを下手に原作に寄せているからか、全体的に朗らかさはあったものの主人公の無力感が伝わって来なかった。
悪い所ばかり探してしまうが、こういう映画にしては監督が巧く舵を取っているように見えたし、主人公やヒロインの友人、医者、学校の先生などを演技力の高いベテランで固めてくれたのでシーンが安定していたという事もある。演出家にアニメや特撮ドラマを主な活動の場とする人間を引っ張って来ていたので、漫画チックな表現もチープではあっても違和感はなく仕上げられていた。
原作のファンは、あのシーンがない、ここはそういう意図じゃない、と、プラスの意見は少なくなるかもしれないが、単体で観ると、里美には悪くない出来であったように思う。
帰りにパンフレットを買って、ファミレスでハンバーグステーキを食べて、帰った。
風呂に入った後、髪を乾かしながら古書店で購入した本をぺらぺらと捲り、参考になりそうな部分に付箋を貼って本を閉じた。テレビを付けて適当なバラエティを、温めたミルクのツマミ程度に見て、布団に入った。
朝早くに眼を覚ますと、本の内容を今度はじっくりと読み進め、日が昇って来る頃に朝食を採る。
マーガリンを塗り、ハムとケチャップを乗せ、チーズを上に置いたパンをオーブントースターで二枚焼き、インスタントコーヒーを淹れ、コンビニのサラダを食べた。
天気予報をチェックしてここ一週間、雨がないのを見ると、レポートを少しやり、出掛ける準備をした。
七分丈のパンツに、白いブラウス、その上に淡い色のカーディガンを羽織った。
財布などはウェストポーチに入れている。
自転車で、病院へ向かった。
少しずつ気温が上がって来て、病院に着く頃には身体が温まって、背中に少し汗を掻いた。
受付で堀田百合の名前を出すと、面会用のネームカードを渡された。消毒液で手を洗った里美がエレベータで向かったのは、最上階の特別個室だ。
三年半、百合はそこで昏睡状態のままであった。
里美は、百合の病室の入り口でいつも躊躇いを覚える。
今日も、あの姿を見なければいけないのだろうか。
それとも今日は、眼を覚ましていたりするのではないか。
この病室の扉は、里美にとってパンドラの箱のようなものであった。但し、最後に残るという希望には未だ手が届かない。
特別個室ではあるが、部屋の中にあるのはベッドと椅子だけだ。
テレビやトイレなどはない。
ベッドに、百合の身体は横たえられ、点滴を受け、人工呼吸器を取り付けられていた。
その点滴の注射針を刺し込まれた腕が、身体に掛けられたシーツから外に出ている。
里美は百合の腕を見るたびに、痛ましい気分になった。
彼女の肘から下は、分厚い体毛で覆われていた。
女性に、腕や脛の毛がないというのは幻想である。しかし、皮膚の色が見えなくなるまでに大量の、硬質な毛が、獣の如く生え揃う事は、殆どない。
獣毛と呼んで差し支えないものに覆われた百合の腕は、しかも、上腕と比べてやたらと太かった。その部分だけ太腿を移植したのではないかと思われるくらいだ。
掌などは、まるで遊園地マスコットの着ぐるみみたいに肥大化している。
指の先端に、鮫の牙のような爪が生えている。
見えているのは腕だけだ。しかしシーツに隠されている部分にも、奇怪な変化は発現していた。
脚や胴体にも同質の獣毛が生え、所によっては鱗のようなものを作り出している。
池田組から購入した麻薬“アンリミテッド”の過剰摂取によって、百合は昏睡状態に陥った。この時になって初めて、里美は百合の身体にそのような現象が発生していた事を知った。
意識を失って病院に運ばれてからも、この現象は止まらなかった。初めは医師による獣毛や鱗の摘出手術も行なわれたのだが、術後暫くすると前よりも強靭な体毛となって再生してしまう。その為に点滴だけを投与していたのだが、放置して様子を見ていても、現象は止まる事を知らなかった。
現代の医学では、百合の身体を回復させる事は出来ないようであった。
いや、他のもっと大きな病院へ移れば、新しい方法を試せるのかもしれない。しかし勝義会がなくなり、水門市の裏の支配権を手にした池田組が常に病院を監視して、それをさせなかった。
里美は悔しさに歯噛みしながら、百合の傍にい続けた。
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