10 / 36
10.喉から手が出るほど欲しいのに
しおりを挟む「悪い、ちょっと外す」
そう言って突然立ち上がった丹原に庭野は目を丸くしたが、彼に止められる前にドスドスとトイレに向かう。
がちゃりと戸を閉めた丹原は、勢いそのままに手洗い場でごしごしと顔を洗った。
(……ったく。俺は一体、何に熱くなってるんだか)
冷たい水を浴びたおかげで、ようやく頭が冷えてくる。ポケットから取り出したハンカチで滴る水を拭いながら、丹原は深く息を吐いた。
たまたま同じ会社・同じ部署であることが発覚したが、あくまで庭野は後輩であり、ポニーさんは推し作家さんだ。自分がファンであることを今更告げる気もないし、先輩・ファンというそれぞれの境界線は個々に守っていくつもりだ。
(だから俺が、『庭野』に対して、『ポニーさん』のことをアレコレ言うつもりもないのに)
勝手に心配にして、勝手に安堵して。そういうファンとしての機微を、推しに伝えるつもりはない。だというのに、よりによって庭野本人にぶつけてどうする。
だめだ。どうにもここ最近の自分はよろしくない。庭野、もといポニーさんとの距離が近づいていくのをいいことに、己で敷いた境界を踏み越えてしまいそうになっている。
(いいな。俺は一読者。清き正しいファンとして、公式からの供給を有難く享受し、美味しくいただくだけの存在。わかったな)
己の矜持として、丹原は自分にそう言い聞かせる。
そして、改めて姉と後輩の待つ個室へと戻った。
「悪い、戻った……あ??」
一言詫びを入れてから、しれっと席に戻ろうとする。けれどもその途中で、丹原はびしりと固まった。
「きゃあああああああッ! ポニーさんのサイン~~~!」
「あ、おかえりなさい、先輩」
ごろごろ床を転がる姉に、照れくさそうにこちらを見上げる庭野。
大方予想のつく展開に、丹原はひくりと唇を引きつらせた。
「一応、確認してやる。……何があった?」
「聞いてー! 聞いてよ、千秋! 見て! ポニーさんにサイン貰った!!」
庭野が答えるより先に、夏美がずいと何かを丹原に突き出す。
それは、言うまでもなく庭野の記念すべき書籍化作品『転生聖女の恋わずらい』。その表紙裏に、ちょっぴり拙い字でサインがしてある。
だいぶデフォルメされていたり、馬のイラストが描かれたりしているが、おそらくそれはポニーと読むようだ。
「サイン欲しいってお願いしたら、庭野くんが書いてくれたの! きゃー! ポニーさんの生サイン、嬉しいー!」
「練習中だから下手くそなんですけど、喜んでもらえてよかったです」
嬉しそうにくねくねする姉と、恥ずかしそうにしつつも満更でもなさそうな庭野。そんな幸せ空間の中にあって、丹原だけがフルフルと拳を握りしめていた。
(ポニーさんのサイン、俺も欲しいんですけど!?)
姉貴め。なぜ今なのだ。
なぜ、丹原が席を立ったこのタイミングでサインを強請ったのだ!?
ポニーさんのサイン。それは、丹原が庭野に欲しいと何度か言いかけては、これまでもらうのを我慢してきた代物だ。
しつこいようだが、丹原は『転生聖女の恋わずらい』――略称:てんこいの熱心な読者であり、作者であるポニーさんのファンだ。その記念すべき書籍化とあって、是が非にでもポニーさんのサインが欲しい。
けれどもポニーさんの正体である庭野には、自分が彼のファンであることを言っていない。意地と矜持からこの先も事実を明かすつもりがない丹原は、下手に庭野にサインを強請れないのだ。
だが、同じくファンである姉が頼んだとあれば話は違ってくる。そこに同席していたならば、姉を嗜めつつ、自然な流れでサインを頼めたはずなのだ。
あくまでついでとして。あくまで、話の流れとして。
だというのに。
(なんで、このタイミングで貰っちまったんだよ!!)
幸せそうに「てんこい」に頬ずりする夏美に、丹原はぎりぎりと歯を食いしばる。
突如として不穏な空気を纏い始めた丹原に、敏感に察知した庭野も「せ、先輩?」と戸惑っている。
ついに悔しさが限界突破したとき、丹原はばっと後輩を振り返った。
「おい、庭野!!」
「は、はい!」
「飲むぞ!!!!」
「はい????」
クエスチョンマークを人懐っこい顔いっぱいに乗せた庭野。けれども、そんな後輩を放っておいて、丹原は廊下を通りかかった店員に勢いよく声を掛けた。
「すみません!! 生二つ! ジョッキで!」
「え、先輩、今から!?」
「あとこれ。やみつきキムチください」
「おつまみまで!?」
悲鳴をあげる後輩をよそに、丹原はまだ残っていたジョッキをぐいと一気飲みしたのだった。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
子ども扱いしないでください! 幼女化しちゃった完璧淑女は、騎士団長に甘やかされる
佐崎咲
恋愛
旧題:完璧すぎる君は一人でも生きていけると婚約破棄されたけど、騎士団長が即日プロポーズに来た上に甘やかしてきます
「君は完璧だ。一人でも生きていける。でも、彼女には私が必要なんだ」
なんだか聞いたことのある台詞だけれど、まさか現実で、しかも貴族社会に生きる人間からそれを聞くことになるとは思ってもいなかった。
彼の言う通り、私ロゼ=リンゼンハイムは『完璧な淑女』などと称されているけれど、それは努力のたまものであって、本質ではない。
私は幼い時に我儘な姉に追い出され、開き直って自然溢れる領地でそれはもうのびのびと、野を駆け山を駆け回っていたのだから。
それが、今度は跡継ぎ教育に嫌気がさした姉が自称病弱設定を作り出し、代わりに私がこの家を継ぐことになったから、王都に移って血反吐を吐くような努力を重ねたのだ。
そして今度は腐れ縁ともいうべき幼馴染みの友人に婚約者を横取りされたわけだけれど、それはまあ別にどうぞ差し上げますよというところなのだが。
ただ。
婚約破棄を告げられたばかりの私をその日訪ねた人が、もう一人いた。
切れ長の紺色の瞳に、長い金髪を一つに束ね、男女問わず目をひく美しい彼は、『微笑みの貴公子』と呼ばれる第二騎士団長のユアン=クラディス様。
彼はいつもとは違う、改まった口調で言った。
「どうか、私と結婚してください」
「お返事は急ぎません。先程リンゼンハイム伯爵には手紙を出させていただきました。許可が得られましたらまた改めさせていただきますが、まずはロゼ嬢に私の気持ちを知っておいていただきたかったのです」
私の戸惑いたるや、婚約破棄を告げられた時の比ではなかった。
彼のことはよく知っている。
彼もまた、私のことをよく知っている。
でも彼は『それ』が私だとは知らない。
まったくの別人に見えているはずなのだから。
なのに、何故私にプロポーズを?
しかもやたらと甘やかそうとしてくるんですけど。
どういうこと?
============
番外編は思いついたら追加していく予定です。
<レジーナ公式サイト番外編>
「番外編 相変わらずな日常」
レジーナ公式サイトにてアンケートに答えていただくと、書き下ろしweb番外編をお読みいただけます。
いつも攻め込まれてばかりのロゼが居眠り中のユアンを見つけ、この機会に……という話です。
※転載・複写はお断りいたします。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
拾った宰相閣下に溺愛されまして。~残念イケメンの執着が重すぎます!
枢 呂紅
恋愛
「わたしにだって、限界があるんですよ……」
そんな風に泣きながら、べろべろに酔いつぶれて行き倒れていたイケメンを拾ってしまったフィアナ。そのまま道端に放っておくのも忍びなくて、仏心をみせて拾ってやったのがすべての間違いの始まりだった――。
「天使で、女神で、マイスウィートハニーなフィアナさん。どうか私の愛を受け入れてください!」
「気持ち悪いし重いんで絶対嫌です」
外見だけは最強だが中身は残念なイケメン宰相と、そんな宰相に好かれてしまった庶民ムスメの、温度差しかない身分差×年の差溺愛ストーリー、ここに開幕!
※小説家になろう様にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる