拝啓、隣の作者さま

枢 呂紅

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10.喉から手が出るほど欲しいのに

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「悪い、ちょっと外す」

 そう言って突然立ち上がった丹原に庭野は目を丸くしたが、彼に止められる前にドスドスとトイレに向かう。

 がちゃりと戸を閉めた丹原は、勢いそのままに手洗い場でごしごしと顔を洗った。

(……ったく。俺は一体、何に熱くなってるんだか)

 冷たい水を浴びたおかげで、ようやく頭が冷えてくる。ポケットから取り出したハンカチで滴る水を拭いながら、丹原は深く息を吐いた。

 たまたま同じ会社・同じ部署であることが発覚したが、あくまで庭野は後輩であり、ポニーさんは推し作家さんだ。自分がファンであることを今更告げる気もないし、先輩・ファンというそれぞれの境界線は個々に守っていくつもりだ。

(だから俺が、『庭野』に対して、『ポニーさん』のことをアレコレ言うつもりもないのに)

 勝手に心配にして、勝手に安堵して。そういうファンとしての機微を、推しに伝えるつもりはない。だというのに、よりによって庭野本人にぶつけてどうする。

 だめだ。どうにもここ最近の自分はよろしくない。庭野、もといポニーさんとの距離が近づいていくのをいいことに、己で敷いた境界を踏み越えてしまいそうになっている。

(いいな。俺は一読者。清き正しいファンとして、公式からの供給を有難く享受し、美味しくいただくだけの存在。わかったな)

 己の矜持として、丹原は自分にそう言い聞かせる。

 そして、改めて姉と後輩の待つ個室へと戻った。

「悪い、戻った……あ??」

 一言詫びを入れてから、しれっと席に戻ろうとする。けれどもその途中で、丹原はびしりと固まった。

「きゃあああああああッ! ポニーさんのサイン~~~!」

「あ、おかえりなさい、先輩」

 ごろごろ床を転がる姉に、照れくさそうにこちらを見上げる庭野。

 大方予想のつく展開に、丹原はひくりと唇を引きつらせた。

「一応、確認してやる。……何があった?」

「聞いてー! 聞いてよ、千秋! 見て! ポニーさんにサイン貰った!!」

 庭野が答えるより先に、夏美がずいと何かを丹原に突き出す。

 それは、言うまでもなく庭野の記念すべき書籍化作品『転生聖女の恋わずらい』。その表紙裏に、ちょっぴり拙い字でサインがしてある。

 だいぶデフォルメされていたり、馬のイラストが描かれたりしているが、おそらくそれはポニーと読むようだ。

「サイン欲しいってお願いしたら、庭野くんが書いてくれたの! きゃー! ポニーさんの生サイン、嬉しいー!」

「練習中だから下手くそなんですけど、喜んでもらえてよかったです」

 嬉しそうにくねくねする姉と、恥ずかしそうにしつつも満更でもなさそうな庭野。そんな幸せ空間の中にあって、丹原だけがフルフルと拳を握りしめていた。

(ポニーさんのサイン、俺も欲しいんですけど!?)

 姉貴め。なぜ今なのだ。

 なぜ、丹原が席を立ったこのタイミングでサインを強請ったのだ!?

 ポニーさんのサイン。それは、丹原が庭野に欲しいと何度か言いかけては、これまでもらうのを我慢してきた代物だ。

 しつこいようだが、丹原は『転生聖女の恋わずらい』――略称:てんこいの熱心な読者であり、作者であるポニーさんのファンだ。その記念すべき書籍化とあって、是が非にでもポニーさんのサインが欲しい。

 けれどもポニーさんの正体である庭野には、自分が彼のファンであることを言っていない。意地と矜持からこの先も事実を明かすつもりがない丹原は、下手に庭野にサインを強請れないのだ。

 だが、同じくファンである姉が頼んだとあれば話は違ってくる。そこに同席していたならば、姉を嗜めつつ、自然な流れでサインを頼めたはずなのだ。

 あくまでついでとして。あくまで、話の流れとして。

 だというのに。

(なんで、このタイミングで貰っちまったんだよ!!)

 幸せそうに「てんこい」に頬ずりする夏美に、丹原はぎりぎりと歯を食いしばる。

 突如として不穏な空気を纏い始めた丹原に、敏感に察知した庭野も「せ、先輩?」と戸惑っている。

 ついに悔しさが限界突破したとき、丹原はばっと後輩を振り返った。

「おい、庭野!!」

「は、はい!」

「飲むぞ!!!!」

「はい????」

 クエスチョンマークを人懐っこい顔いっぱいに乗せた庭野。けれども、そんな後輩を放っておいて、丹原は廊下を通りかかった店員に勢いよく声を掛けた。

「すみません!! 生二つ! ジョッキで!」

「え、先輩、今から!?」

「あとこれ。やみつきキムチください」

「おつまみまで!?」

 悲鳴をあげる後輩をよそに、丹原はまだ残っていたジョッキをぐいと一気飲みしたのだった。


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