上 下
29 / 31

不正のトライアングル

しおりを挟む
 九月六日に八月の月次決算の集計が終了した。国内は夏枯れとお盆休みで、予算通りに売上は低調だし、EU(欧州)も夏休みが長いので、これまた低調。よって、八月度は見通し通りの単月赤字である。
 しかし、受注についてみると、南米が好調。というか、ほぼ一年の予算の八割を受けている。向こうで言えば冬場の八月に展示会(ビジネスショー)がおこなわれ、そこで一年の殆どの商談がまとまる。出荷すれば売上が建つが、カネ払いは来年二月の『カーニバル』の頃だそうだ。《作者注:これは2017年の話なので、出荷基準で売上が建つと発言してますが、その後会計基準が変更されて、出荷では売上になりません。》

 七日午前の決算常務会に月次決算報告を終えると、篠崎はセイジ社長のS20型クラウンの助手席に納まり、高速道路を県庁所在地に向かった。
 シンメカに役員車というものはなく、社長だろうが会長だろうが、自家用車で外回りをする。一応篠崎が運転すると申し出たのだが、自分の車を他人に任すのが嫌いらしく、固辞された。篠崎のコンパクトカー利用は、総務部の秘書グループに、「危ないからダメ」と却下されている。

 高速道路の車中で、特命調査室の仕事の進捗状況を説明した。今日、社長と共に向かっている先は、今回の調査でも重要な証拠を握っている。

 高速のジャンクションを過ぎてまもなく、県庁の南のインターで降りる。一本道で到着した先は、耶蘇銀行本店である。一階は洒落た画廊で、絵画やオブジェが展示されている。仕切られたところには、一応ATMコーナーが設置されていた。

 昔のデパートガールのようなエンジ色の丸い帽子と制服の受付嬢に来意を告げる。先週予約を取ったシンメカの社長であると。二階の応接に上がるように指示された。

 古い建物なので、シンメカのようにパーテーション丸出しではない。古き良き昭和の社長シリーズに出るような、重厚な壁の応接で待つ。

 やあやあ、と右手を振りながら入ってきたのは、以前シンメカ担当の田上支店長を務めていた左近允(さこんじょう)だった。今は本店営業部長になり、常務取締役の座が見えてきた。
 セイジ社長が社長になる前からの付き合いであるが、まさか社長に就任するとは思っていなかった、などと雑談の後、セイジ社長が切り出す。

「実はお恥ずかしい話なんですが、税務調査がありまして。海外送金のファイルを見せていたところ、『これで全部じゃないでしょう』と国税局の方から指摘されまして。それでこの経理部長に調べさせたら、本店営業部から海外送金があったんです。先代の経理部長の頃に、口座を作って送金していたそうです。うちの会社の書庫を探し回りましたが、どうにも出てきません。お手数かけて申し訳ないが、これまでの送金依頼書を、全部コピーしてもらえないでしょうか? これまたお手数なんですけど、エビデンスも含めて」

「それは大変だ。国税局相手じゃ、出さないわけにはいかないね。先代の経理部長、ああ、私の先輩の吉崎さんだが、田上支店以外とも取引していたんだ。知らなかったよ。ところで、口座の情報はあるのかな?」

「これです。三年前に吉崎前経理部長が開設していました」

 篠崎は先日本店営業部から取り寄せたばかりの、口座開設依頼書のコピーを左近允に手渡した。

「承知した。すぐに手配して、今日中に宅配便で送るよ。税務署を待たせると怖いからね」


「あんなので良かったですかね?」

 セイジ社長は帰りの車中でハンドルを切りながら疑問を口にした。いつもの丁寧語である。

「十分です。国税局と聞いたら、隠すわけにもいかないでしょう」

 篠崎は帰社すると、ネシアオフサイト調査の最終段階に取り掛かった。月次決算にかまけてネシアからの直接情報収集がストップしている。ケイコとともに、九月稼働日三日分のネシアのメール・FAX・パソコン印刷・コピーの精査に入った。

 既に月初までの調査で、異常な取引のパターンは概ね見えている。そのパターンの検証と、さらに他のパターンの有無、そして不正の全貌と、企業利益に与える影響額を算定しなければならない。

 先週末以来開けていなかったストリーミング画面と複合機のFAXや印刷物のチェックを、ケイコと手分けして行う。

 ネットバンクでパラワン銀行の裏口座の直近の入手金明細を取る。予期していなかった、Himekiからの米ドル送金が五万ドル入っている。七億近いインドネシアルピアとして記録され、すぐさま六億ルピアを、ムルデカ銀行のシンメカ隠し口座に振込処理。ということは、FAXでそこから海外送金というパターンだ。

 FAX送受信記録でこれを探す。前回も見たムルデカ銀行宛の海外送金依頼FAXが出ている。送金の宛先は前回と同じで宇佐金剛銀行シンガポール。口座番号が違う。口座名義はシンメカでは無い、Sailplane PTという会社である。送金エビデンスは、コンサルタント・フィーとある。Himeki関係の流れは全く見当がつかないので、ペンディング。



 ケイコと資料を追っていき、なんとかネシア行きの前週末には一通りの事前調査を終え、ネシアの不正内容を概ね掴むことができた。
 
 来週からネシアに乗り込むという金曜二十二時。すでに事務棟は人影が消え、蛍光灯照明がついているのは、経理部の半分、会計グループだけである。だだっ広い管理部門スペースで、そこだけが白く浮かび上がらせたケイコと篠崎が作業している。

「部長、今回のネシア不正で、どうしてもわからないことがあります」

 ネシアに持参する資料をコンパクトにまとめ、三泊用のキャリーバッグ底部に納まる程度にしているケイコが言う。

「なんだい?」
 次々と不明点を明らかにしていくケイコでも、まだわからないことがあるのだろうか。
 手荷物に追加料金をとられそうな量の資料を抱えた篠崎が答えた。

「『不正のトライアングル』ですけど、『動機』が釈然としません」



「不正のトライアングル」とは、アメリカの犯罪学者クレッシーの仮説である。
 横領などの職業上の犯罪者が、なぜ不正を実行したのかという理論を三角形に図解している。
 不正の実行者には、必ず「他人とは共有できない経済的問題(返済期日の迫った借金、地位を失う事への恐れ)」といった『不正の動機』がある。

 それだけでは不正は実行されることはなく、「バレずに実行できる」という『不正の機会の認識』と、「自分の給料は職務に見合わないほど低い。その分取り返して何が悪い」というような『不正の正当化』の、三つが揃って不正実行者は不正に手を染めるというものである。

「比良坂が社長になってすぐ好成績上げようと思ったのが動機じゃないか?」

「いえ、架空売上の方はいいんですけど、不正送金です。どう見ても比良坂社長単独じゃ不可能だし、耶蘇銀本店が絡んだとしたら、とんでもない不祥事になります。リスク高すぎて、とても実行に至る動機にはならないと思います」

「動機が無いと駄目なのか? 『動機なき殺人』なんて言うじゃないか」

「ブチョー、『公認不正検査士』でしょう? 不正検査マニュアルにもあることなのに、なに昭和な発言しているんですか」

「不正は些細なことに始まって、時に破滅的な結末を迎える。九州のS銀行もそうだったけど、引くに引けないところまで行ってしまったのじゃないだろうか?」

 S銀行事件とは、頭取がハニートラップを掛けられ揺すられたところを、反社会勢力に解決を依頼したら、逆に骨の髄までしゃぶられて破綻したものである。

 同様に、政界の裏工作に利用した反社会勢力から、際限の無い債務保証と融資を求められた末に破綻したのが、55年体制の終焉を招いた東京S急便事件(闇献金事件)である。闇勢力を利用した結果、引っ込みのつかない泥沼の不正にはまり込んだのであるが、政界の方は与野党ともに疑惑は藪の中、真相は明らかになっていない。

「つまみだしたらやめられなくなったという意味で『えびせん型不正』と言うべきかな。こっちで詮索しても始まらないよ。現地でもっと証拠を掴まないとね」

「ブチョー、昭和なフレーズ、中年丸出しですよ。ところでこの件、どうなんでしょう? 耶蘇銀行が知ったら、傘にかかってきませんか?」

「そこまでやったらバカ丸出しだよ。海外送金依頼書を押さえてあるんだ。シンメカ社員の筆跡は皆無だったろ」

 六日にセイジ社長と行った耶蘇本店営業部は、ちゃんと口座開設以来の送金依頼書とエビデンスをコピーして送ってきた。エビデンスはシンメカ・ネシアからのインボイスである。ちゃんとしたシステムから出したのなら、『偽造』では無いのだろうが、『不正』なものであることには変わりない。なにしろ、取引に実在性が無いのだから。

「とにかく、週末はしっかり休養して、ネシア行きに備えよう。きみは東南アジアは初めてだね。特にネシアはドラッグに厳しい。入国カードにも書いてあるけど、持ち込むと死刑だからね。バゲージには鍵をかけて、不用意にドラッグを仕込まれないようにする必要があるよ。警官と売人がグルになって、日本人の荷物にドラッグを仕込むことがあるんだ。鍵をかけるだけじゃなく、ゲートから出る前にも荷物チェックをした方がいい」

「ブチョー、神経質すぎます。そこまでやりませんよ」

「一応、そこまで気を遣うべきだ。万一警官に言いがかりをつけられたら、カネで解決することだ。不用意に正義感を出すと、そのままブタ箱行になって、下手すれば死刑だ。決して警官を投げ飛ばすんじゃないよ。射殺される」

「開拓時代の西部じゃあるまいし・・・・」

 ケイコは、篠崎のこのような用心深さを見たことが無いので、笑うよりも戸惑った。もしかしたら、ネシアで嫌な目に遭ったのかもしれない。
しおりを挟む

処理中です...