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ブリュートナー 『クイーン・ヴィクトリア』
108話
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だが、この事態に慌てる男がいる。
「え? おい、聴いていかないのか?」
と、さもサロメが言うから仕方なく、という体で、あのヴェロニカ・ミューエの演奏が聴けると思っていたランベール。キョロキョロとあたりを見回し、状況を確認。いていい雰囲気じゃなさそう。
「……いいの。早く帰るよ」
サロメにしては珍しく、落ち着いた様子で現場をあとにする。いつもならここから食事が始まったりするのだが。
「……?」
むしろその後ろ姿からは、少し寂しそうな印象すらランベールは感じた。結局最初から最後までよくわからないまま終わったが、とりあえずは完了ということでいいのだろうか。うーん、と立ち止まり悩む。
そんな姿を見かねて、ヴェロニカが先に声をかけた。
「サロメさん、ランベールさん、どうもありがとう」
今から消えてしまうかのように、儚く。
「え、いや、あの——」
「……あの約束、三年は待ってやるわ」
混乱するランベールの腕を掴み、サロメは大広間を出ていく。
「……」
約束。昨夜のことを思い出しながら、ユーリは徐々に息を整える。今、優先すべきものはなんだろうか。まだ、どうしたらいいのかわからないけど。『あなたを黙らせる演奏』。できるのかわからないけど。
「……ひとつ聞いていいですか……?」
母と子だけになった空間で、静かに尋ねる。
「なにかしら?」
ヴェロニカは調律の終わった二台のピアノを見つめる。輝きを放つ『モデル1』。対して、艶消ししてある『クイーン・ヴィクトリア』。艶がないほうが、音に軽やかさが増している気がする。逆に艶があるピアノは、重厚な厚み。好みの問題だ。なんで今思い出すかな。
「……いえ、楽しそうですね」
ピアノを凝視していた母が、なにか思い出して笑っているように見えたユーリは、言葉を変えた。聞きたいことはきっと、返ってこない。どこを目指せばいいかなんて、他人に任せるのはもう、やめにしよう。
「さて、せっかくですから、弾きましょう。二台ありますし、ラヴェルの『鐘の鳴る中で』、いけますね?」
ピアノまで移動し、ヴェロニカはイスに座る。そして鍵盤蓋を開けると、なにもしていなくても勝手に手が初期位置へ。
「どうしました? この曲は二台のピアノのための曲です。ひとりでは弾けません。そちらでお願いします」
手でユーリを『モデル1』のほうへ促す。曲が始まったら、覚えている通りに腕を動かすだけ。それで充分、きっとこの子には伝わる。
なぜ最後がラヴェルなんだろうか。ピアノ・デュオならショパンやモーツァルトだってある。ラヴェルである理由。そして『鐘の鳴る中で』。そこでひとつ、ユーリは閃く。
「……まさか!」
「私の音をよく、覚えていてください。そして、いつか忘れてください。私の音ではなく、私の目指した音をあなたが作り上げる、それを楽しみにしています」
それが師匠にできる最後の仕事。ヴェロニカはおそらく、生涯で一番の演奏が今できる、と確信した。それを聴くことは自分では叶わないけど。日に日に悪化する失音楽症。言語野にも障害がくるのだろう。ピアノを認識することもできなくなるかもしれない。最後にあの調律師の子と会えてよかった。
「……」
モーリス・ラヴェルの晩年。それともし同じだとしたら。自分が求めてきたことは、母を苦しませるだけだったのではないだろうか。そんな苦悩を抱えるが、母はきっと、自分よりも辛いはず。なら、ユーリ・ラヴェルができることはひとつ。
「……やりましょう。お願いします」
最後。きっともう、自分の音が母に届くことはないのだけれど。せめてこのピアノの『鐘』の音が。ささやかな幸せが続きますように。
「え? おい、聴いていかないのか?」
と、さもサロメが言うから仕方なく、という体で、あのヴェロニカ・ミューエの演奏が聴けると思っていたランベール。キョロキョロとあたりを見回し、状況を確認。いていい雰囲気じゃなさそう。
「……いいの。早く帰るよ」
サロメにしては珍しく、落ち着いた様子で現場をあとにする。いつもならここから食事が始まったりするのだが。
「……?」
むしろその後ろ姿からは、少し寂しそうな印象すらランベールは感じた。結局最初から最後までよくわからないまま終わったが、とりあえずは完了ということでいいのだろうか。うーん、と立ち止まり悩む。
そんな姿を見かねて、ヴェロニカが先に声をかけた。
「サロメさん、ランベールさん、どうもありがとう」
今から消えてしまうかのように、儚く。
「え、いや、あの——」
「……あの約束、三年は待ってやるわ」
混乱するランベールの腕を掴み、サロメは大広間を出ていく。
「……」
約束。昨夜のことを思い出しながら、ユーリは徐々に息を整える。今、優先すべきものはなんだろうか。まだ、どうしたらいいのかわからないけど。『あなたを黙らせる演奏』。できるのかわからないけど。
「……ひとつ聞いていいですか……?」
母と子だけになった空間で、静かに尋ねる。
「なにかしら?」
ヴェロニカは調律の終わった二台のピアノを見つめる。輝きを放つ『モデル1』。対して、艶消ししてある『クイーン・ヴィクトリア』。艶がないほうが、音に軽やかさが増している気がする。逆に艶があるピアノは、重厚な厚み。好みの問題だ。なんで今思い出すかな。
「……いえ、楽しそうですね」
ピアノを凝視していた母が、なにか思い出して笑っているように見えたユーリは、言葉を変えた。聞きたいことはきっと、返ってこない。どこを目指せばいいかなんて、他人に任せるのはもう、やめにしよう。
「さて、せっかくですから、弾きましょう。二台ありますし、ラヴェルの『鐘の鳴る中で』、いけますね?」
ピアノまで移動し、ヴェロニカはイスに座る。そして鍵盤蓋を開けると、なにもしていなくても勝手に手が初期位置へ。
「どうしました? この曲は二台のピアノのための曲です。ひとりでは弾けません。そちらでお願いします」
手でユーリを『モデル1』のほうへ促す。曲が始まったら、覚えている通りに腕を動かすだけ。それで充分、きっとこの子には伝わる。
なぜ最後がラヴェルなんだろうか。ピアノ・デュオならショパンやモーツァルトだってある。ラヴェルである理由。そして『鐘の鳴る中で』。そこでひとつ、ユーリは閃く。
「……まさか!」
「私の音をよく、覚えていてください。そして、いつか忘れてください。私の音ではなく、私の目指した音をあなたが作り上げる、それを楽しみにしています」
それが師匠にできる最後の仕事。ヴェロニカはおそらく、生涯で一番の演奏が今できる、と確信した。それを聴くことは自分では叶わないけど。日に日に悪化する失音楽症。言語野にも障害がくるのだろう。ピアノを認識することもできなくなるかもしれない。最後にあの調律師の子と会えてよかった。
「……」
モーリス・ラヴェルの晩年。それともし同じだとしたら。自分が求めてきたことは、母を苦しませるだけだったのではないだろうか。そんな苦悩を抱えるが、母はきっと、自分よりも辛いはず。なら、ユーリ・ラヴェルができることはひとつ。
「……やりましょう。お願いします」
最後。きっともう、自分の音が母に届くことはないのだけれど。せめてこのピアノの『鐘』の音が。ささやかな幸せが続きますように。
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