Réglage 【レグラージュ】

文字の大きさ
上 下
72 / 152
ザウター 『オメガ220』

72話

しおりを挟む
 急いで立ち上がり、向かおうとしたブリジットだったが、一瞬思い詰め、サロメのほうへ向き直る。これから先、プロになれたとして。自分の『音』を追い求めるとして。その姿を想像する。その時、どんな音を響かせているか。

「……強いて言えば……もう少し倍音を効かせたい……かな。ショパンなら、やっぱり歌うような響きのある感じで弾いて——」

「あなたはどうしたいの?」

「え?」

 自分の理想とするのは、ショパンをより美しく。だが、このサロメという少女は、それは違うという。勇気を出して要求をしたブリジットだったが、なにか間違えたのか、と目が点になる。

 こういうことでしょ、とサロメは目でルノーに合図を送った。

「ショパンの正しい弾き方はショパンにやらせればいい。コンヴァトの講師は、今の段階だと楽譜通り弾けるよりも、未来の可能性を感じる子にレッスンをつけることが多い。それにこの残響。真面目に弾くより、もっと遊びなよ」

 大きく手を広げて、教会全体をサロメは示す。本当のあなたの音はどれ? あたしなら、全てを叶えることができる。ショパンなら、じゃない。あなたなら、この譜面をどう弾きたい? そもそもショパンとは楽器そのものが違う。

「……」

 押し黙るブリジットだが、ひとつの事象が頭をよぎる。それもショパン。

 えてして、独自の解釈というものに賛否が巻き起こるのは、自明の理である。かつて、世界で最大といって過言ではないショパンコンクールにて、大事件が起きた。

 イーヴォ・ポゴレリッチ。

 この名前に反応する人も多い。技術だけでいえば、おそらく世界でも一〇の指には入るであろう実力者。だが、あまりにもショパンの曲をアレンジしすぎて、コンクール向きではない、の烙印を押された男。だが不思議と、彼のピアノには惹きつけられるものがある。

 まるで『天使が舞い降りた』とも称される、弱音の心地よさ。音の柔らかさや響きも極上。だが、ピアニッシモをフォルテッシモに、レガートをアパッシオナートになど、時折真逆の演奏する独自の解釈。それを良しとしない審査員が、予選で落としたのだ。

 それに対し、当時同じく審査員を務めていたアルゲリッチが、彼の実力を正しく評価できない他の審査員に激怒し、降板した、通称『ポゴレリッチ事件』。コンクールとなると、吉と出るか凶と出るか、運によるところが大きい。

 だが、未来の自分を想像したブリジットは、覚悟を決めて賭けに出る。
 
「……ソコロフみたいな、キレが欲しい。この残響に負けないためには、歯切れのよさが必要」

 グレゴリー・ソコロフ。『神』『幻』とまで崇める人もいるほど、その音の粒立ちはまるで真珠のように力強く、それでいて柔らかい。二〇世紀を代表するピアニストのひとりだ。

 受け止め、サロメは笑う。

「あれは真似できるフォルテッシモじゃないんだけどね。ま、となるとアクションをいじるか」

 またもキャリーケースを開け、針を取り出す。弦を叩くアクションハンマーの弾力や固さを調整するものだ。調律だけのつもりだったが、整音、つまりアクション部分を改善することで、さらに望み通りのタッチに近づける。当然、時間はかかる。

 残り時間を腕時計で確認したブリジットは、驚き慌てる。

「今から? もうあと少しで始まるのに?」

 あと三〇分もない。軽く弾いて感触を確かめる時間を考えると、二〇分ほど。調律に詳しいわけではないが、そんな急ピッチで変えていいものか、気が気ではない。

 だが、当のサロメは気にせず、頭の中で構築し直す。時間のせいにして調律をサボろうとするなら、その人は調律師なんて職業は辞めたほうがいい。そう考える。

「全く……」

 ソコロフのようなスタッカート。鍵盤のレスポンス。倍音や和音の響き。全て頭に入っている。ショパンを一度崩し、さらに再構築する。そのためのピアノ。

「誰に向かって言ってんの?」
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

Sonora 【ソノラ】

キャラ文芸 / 連載中 24h.ポイント:221pt お気に入り:0

異世界転生したけどチートもないし、マイペースに生きていこうと思います。

児童書・童話 / 連載中 24h.ポイント:12,055pt お気に入り:1,186

継母の心得

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:37,346pt お気に入り:24,757

【完結】君たちへの処方箋

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:22

処理中です...