Réglage 【レグラージュ】

ザウター 『オメガ220』

71話

　ハイスピードで進めながらも、サロメは凝視してくるルノーに会話の権利を譲渡する。会話しながらでもこれくらいならできる。

　打ち切ったはずの会話だが、本人がいいというのでルノーは再開する。普通はそういうのも省きたいものだが。

「店のピアノ。まるでグロトリアンを意識したような調律。自分ひとりで仕上げたかったのかもしれないが、それを八つ当たりするのはよくないね」

　ホモジェナウンスサウンドボード。そしてクロマティカリー・レギュレーテッドスケール。この二つのグロトリアンの長所。それがあって初めて成り立つ。品質のいいピアノを揃えているとはいえ、その恩恵を受けることができるピアノはそれほどない。

「気のせいじゃないですかね。特にこうして、っていう指定がなければ自分の好みで仕上げてるだけですよ。店のピアノだけですけど。お客さんのピアノはちゃんとやってます」

　あたし、仕事に手は抜かないんで、とキレよくサロメは返す。以前、時間短縮のために、わざと低音部の調律をしなかったこともあるが、そういったものは棚に上げる。自分の都合のいいように世界を回す。

　そして、今回の目的のもうひとつを打ち明けながら、ルノーは今後の展望を語る。彼女ならできること。その意志さえあれば。

「これからはリサイタルやコンサート用のピアノも調律してもらうことになる。そのためには、弾き手と意思を疎通することが非常に重要だ。人生をかけて演奏会に臨む人達であるからね」

　リサイタルの出来で、その後様々な仕事が舞い込む。そのためには、ピアノで稼いでいくピアニストが全力で弾ける環境を作るのが調律師。

「そのためには、ピアニストの緊張をほぐすのも？」

　まだ小声で呟きながら、集中力を高めるブリジットにサロメは目線を移す。なんでそこまでせにゃいかんの？　と、鼻で笑う。

　ルノーは自分なりのやり方を指し示す。

「時には、ね。私は『結果的にいい演奏ができれば』それでいい、と思ってるよ。だから、プロを目指す目指さないは関係ない。たくさん会話をして、その人の望む音が出せるようにする。それがたまたま今回のようなこともあるかもね」

　ブリジットという少女は、本人には言いづらい話だが、偶然にもわかりやすい例となった。自分に自信がない。言いたいことも言えなさそう。きっと、今までも『それなりのピアノ』でやってきたのだろう。

　唇を尖らせたサロメが、社長に反論する。

「あたしはできてないと？」

　そうじゃない、とルノーは肩をすくめる。

「お前さんは、自分の音に自信があるし、おそらく聴衆にも一番いいのかもしれない。だが、音というものは曖昧だ。ピアニストの奏でたい本当の音は？　作曲家は？　倍音の具合は？　和音の構成はどうなる？　もしかしたら、次の日には好みが変わっているかもしれない」

　そして、その日の体調によっても音の聴こえは変わる。ひとつとして同じものはない水物。ゆえに面白い。

　祈るようにハンマーを握りしめたサロメは、目を瞑る。歩みを止めないこと。それこそが。
　
「……社長命令なら仕方ないですね。やるわ。だけど、忘れないでよ。あたしが調律をし続ける理由を」

　ルノーは手を上げて了承を伝える。やっとやる気になったか、とここまでの長い道のりを思い出すと、やはり従順なこの子は背筋が寒くなる。

　そして、ツカツカと歩き出したサロメは、呪文のように「……緊張しろ……」と唱えるブリジットの前に立つ。

「……？」

　俯くブリジットの目に、立ち止まったサロメの靴。なんだろう、と不思議に思い顔を上げる。そこには、明らかに機嫌の悪い女の子。たしか、サロメとか呼ばれていた。

「ほら、なんか注文ある？　早く言って。時間ないから」

　残り時間は三〇分ほど。サロメは右足の爪先でリズムを取る、否、催促をする。

　調律師さんの娘、もしくは孫かなにかだと思っていた人物から威圧を受け、ブリジットは緊張の波がまたうねり出す。

「え、ちゅ、注文？」

「ないの？　ないならいいよ、そのままでも充分いい音だ。さっさと軽く弾いて、本番に備えたら？」

　まさか全く指を動かさずにリサイタルなどないだろう。サロメはピアノのほうへ促す。