Réglage 【レグラージュ】

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ザウター 『オメガ220』

69話

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 緊張はよくないもの。ずっとそう思いこんできた。いや、実際にいい方に転んだことはない。思い返すと、こめかみ辺りが痛くなってくる。

 (まーた、社長の変な講座が始まった。他人のフリ、他人のフリ)

 なにやら若い子を洗脳でもしようとしているのかわからないが、サロメは知らんぷりをして、社長との繋がりを断ち切る。

 だが、色々な経験をしてきたルノーの講座は熱を帯びる。

「緊張しないことがいいこととは思わないからね。実際にしちゃうし。だから、緊張すること前提で『緊張すればするほど私は力が出る』と自分に言い聞かせるんだ」

「緊張することで……」

 自身に深く刻み込み、糧としようとするブリジット。もうここまできたら、なんでもやる。

 (いやいやいや)

 聞き耳だけは立てているサロメだが、そもそも自分は緊張しないのでよくわからない。それでうまくいくようになったら、ルノーはブリジットにお金を要求していい、と真に受けない。

「ほら、やってみな」

 目を瞑って、先に例としてルノーは実践する。自分に緊張しろ、と言い聞かせ、心拍数を上げる。

 それを真似て、ブリジットも声に出してあとに続く。

「……緊張しろ……もっと緊張しろ、私……!」

 ブリジットはそのまま、ルノーは説明を付け足す。

「人間の心理でね、『するな』って言われると逆に意識してしまう、心理的リアクタンスというものがあるんだよ。『カリギュラ効果』とも言われてるね。ならいっそ、辛いことは認めてしまうほうが、心理的に楽になるんだ」

 それを聞いているのかわからないが、ブリジットは止める気配がない。

「もっと、緊張しろ!」

「まぁ、人によるから効果はわかんないけど」

 チラッと視線をサロメに向けるルノー。つまらなそうに天井を見ているが、きっとなにか気づいてくれるだろう。自分の出番はそろそろ終わりだ。

「もっと、もっと緊張しろ! もっと!」

「……それくらいでいいんじゃない?」

 止めるまでやり続けそうなブリジットの行動を制し、ルノーは次のステップへ。なにか若い子達に見せられるとしたら、技術ではない。

 ルノーの読み通り、呆けながらもサロメは、自分に言われているようだ、と少し気が変わる。自分はどこにたどり着くのか。この先、調律したピアノを思い返し、なにを思う。

 (辛いことを認める、か)

 まるで父親みたいなことを。なんであなたが。

 目線を下げて見えるルノーの横顔。心なしか楽しそうに見える。

 そしてルノーから最後の講釈。というよりも人生論。

「プロを目指すなら、色々な人と触れ合うことが必要だよ。コンクールで優勝を目指すことより、四、五○代になったときに、魅力的なプロ生活を送れていることを想像する。そのために今、先んじて緊張を経験することは、とても重要なことなんだ」

「……プロ」
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