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26.戻ってきた魂
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食料庫の隅で死にかけていた水の民の一人が、急に意識を取り戻した。
辺りを見渡し、樽のすきまから伸びあがる。
木箱に竜の刻印を見つけると、アスタは落胆した。
残念ながら、そこはオルトナ国だった。
自分の入った体を見下ろして、なぜこんなところで水の巫女が死にかけていたのかと考えた。
肉体の持ち主は、とうに魂を宙に飛ばし消えている。
この肉体を動かしているのはアスタの魂だけだった。
死んだ直後の空いた肉体に、なんとか入り込めたのだ。
急いで棚や樽を覗き、手当たりしだいに食べられそうなものを掴み取り、魔物の言葉で安全かどうか確かめる。
掴んでいた木の実が青い光に包まれ、ふっと消えた。
毒が入っていた証拠だ。
ここにあるものは全て毒入りなのだ。
構わずアスタは飢えた体が欲するだけ、食料を取り込んだ。
命尽きる前に、この肉体をパール国で眠るアスタのところに持っていき、魂を移し替えなければいけない。
指や腕が毒で変色し、吐き気まで込み上げてきたが、魔物の言葉で浄化する。
そこは地下であるらしく、出入り口は天井部分に取り付けられた扉だけだった。
鍵の開く音がして、扉が持ち上がった。
光が差し込み、アスタは樽の裏側に急いで逃げる。
階段が斜めに降りてきた。
「ここにある食料は全て毒に浸してある。数か月も前から用意していたものだから、調べたところで入手経路なんてもう追えない。これを使おう」
腕が伸びてきて、樽の一つを引っ張り上げる。
それは少し重く、すぐにアスタの前に戻された。
「滑車を持って来よう」
二人分の足音が遠ざかると、アスタは物陰から這い出し、なんとか食料庫を抜け出した。
男達が戻ってくる前に、アスタは通路の壁を覆うカーテンの裏に隠れた。
毒が貯蔵されているということは、誰かの命が狙われているということだ。
オルトナ国の王には敵が多い。
しかし最大の敵は大陸の国々をまとめあげた、ダヤ王に違いなかった。
まさかダヤが狙われているのではないかとアスタは心配になった。
契約により、砂の国と水の国、それから火の国は定期的に会談する場を設けている。
その場にダヤが招かれているのであれば、毒入りの食事が出される可能性はおおいにある。
アスタはふらつく体でカーテンの後ろを進んだ。
ガドル王の居城であっても、もうかつての城ではない。
もとの城は水の民の聖地の上に建てられていた。
そこをダヤが奪い返したのだから、ここは別の城ということになる。
なんとかアスタは召使用の粗末な通路に入り込み、適当な部屋から召使の服を手に入れ身に着けた。
砂の国と繋がる聖域の泉に向かうには、ダヤのいる城へ移る必要がある。
聖域の水があれば、この巫女の身体も治るはずだ。
その時、召使たちの話し声が聞こえてきた。
カーテンの裏に隠れ、耳を澄ませる。
「パール国とラバンド国の交流会が延期になったせいよ。水源が足りていないというのに迷惑なことよ」
「それでも王を呼び出し、話をするべきでしょう?あの王ではいつまでたっても問題は解決できない。臆病な王は不要よ」
火の民は気性も荒く、野心的だ。
さらに種族としてのプライドも高い。ダヤに頭を下げて水路を増やしたいと頼めない王を非難しても、誰かが代わりにダヤに頭を下げにいくこともしない。
召使たちがアスタの隠れているカーテンの前を通り過ぎた。
「お食事をお持ちしました」
扉が開く音がして、召使たちの足音が遠ざかる。
アスタはちらりとカーテンの隙間から廊下を覗き見た。
開いている扉から、食事を持って入ったはずの召使たちが、逃げるように出てきた。
普通は給仕に一人、二人残るものだが、そうではなかった。
人払いしたということは、やはり身分の高い者が招かれているのかもしれないとアスタは考えた。
会談相手がダヤであれば危険な状況だ。
召使達が遠ざかると、アスタはカーテンから飛び出し、先ほど食事が運ばれた部屋に飛び込んだ。
「申し訳ありません。お食事に……」
召使の帽子を深くかぶり、頭を下げながら、ちらりと室内を確かめる。
しかし、そこにダヤの姿はなかった。
「申し訳ありません。私の勘違いです」
すぐに出ていこうとドアノブに手をかける。
しかし扉はびくともしなかった。
ぞくりとして、アスタはゆっくり後ろを振り返る。
テーブルに食事を残したまま、ガドルが顔をあげた。
その表情は険しく、憎悪に満ちている。
反射的にアスタは身を縮ませる。
ガドル王には国の内外に敵がいる。
毒殺の標的はガドル王だったのだ。
熱を帯びた風が頬をかすめた。
アスタの被っていた帽子が後ろに吹き飛び、水の民特有の金色の髪がこぼれでた。
炎の矢を放ったガドルが目を細める。
「ほお。食料庫に逃げ込んだネズミが出てきたか?まだ生きていたとは驚きだ」
アスタはかっとしてガドルを睨んだ。
「残忍な男ね。知っていて放置していたの?あんな毒だらけの食料庫に?砂の檻に投げ捨てるより残酷よ」
「逃げ遅れた巫女をそっとしておいてやっただけだ。くくっ……」
先ほどまでの険しい表情を一変させ、ガドルは不気味に笑った。
「気の強い巫女だな。そんな巫女を一人知っているぞ」
どきっとして、アスタは話題を逸らそうと頭を働かせた。
「わ、私は水の巫女。だから、水源を増やす手伝いをしてもいい。だから、ここから自由にして」
「俺を相手に取引をするつもりか?……命乞いをする方が先じゃないのか?」
記憶を取り戻す前であれば、肉体を失うことを恐れ、甘んじて屈辱を受け入れたかもしれないが、今のアスタに肉体への愛着はなく、さらにそんなことに気を遣っている暇もない。
魂は不安定で、かりそめの肉体でもあるため、いつ分離してしまうかもわからない。
「命を狙われているのでしょう?あなたを毒殺したい人がいる。それに、水源を増やさないあなたに失望している民もいる」
ガドルは生意気な口をきく死にかけの水の巫女に迫った。
太い腕を伸ばし、その喉を掴んで持ち上げる。
首を締められながらも、アスタはガドルを睨みつけている。
「昔、反抗的な巫女がいた。俺に従わず、砂の檻に自ら飛び込んだ。お前は……似ているな。予言の巫女は王が存在している間は、もう生まれないはずだが」
「私を殺したら、水源を増やすためにダヤ王に頭を下げるしかなくなるのよ」
魔物の言葉を使えるアスタには水を引っ張る力がある。
喉を締め付けるガドルの手を引きはがそうともがきながら、アスタは叫んだ。
途端に喉を締め付けていたガドルの手が離れる。
床に落ちたアスタは、あまりにも細く壊れやすい肉体に怯えた。
死にかけていたのだから当然だが、これでは砂の地までたどり着けない。
だからといってガドルを味方に引き込むのは危険だ。
「アスタ」
反射的にアスタは顔をあげていた。
その瞬間、その名前で反応してしまったことに気が付き、逃げようと後ろの扉に飛びついた。
それより早く、ガドルの腕がアスタの腰をさらい、乱暴に担ぎ上げる。
「いやっ!放して!」
か弱い体で暴れ出したアスタを、ガドルはやすやすと隣室に運び、寝台に横たえるとその上に覆いかぶさった。
「あり得ない話ではない。先ほど、パール国の王妃が原因不明の病で意識不明だと知らせが入ったばかりだ。彼女の意識がここにあるのだとすれば、肉体が目覚めないことも不思議ではない」
アスタは青ざめ、首を横に振った。
優れた群れを作るため、アスタには最後の雌として、強い雄を見つけ出す力がある。
同時に、群れの頂点に立ちたいと望む雄は、アスタに選ばれたいと無意識に考えてしまう。
アスタに選ばれることが、王たる証のように感じてしまうのだ。
「お前がアスターリアでないならば、この体の名前は?なぜ食料庫にいたか説明が出来るか?」
体に残された記憶を呼び覚まそうとするが、それはうまくいかなかった。
カートスを急がせ過ぎたせいで、入る肉体を選べなかった。
「名前ですって?覚えたこともないくせに。あなたこそ、私の名前を知っていた?」
「アスターリア。水の巫女は全員同じ顔なのに、その名だけは忘れたことがない」
「同じ顔じゃない。全員違うわ。あなたが覚えようとしなかっただけ。私は水源を探せる。あなたが私の願いをかなえてくれるならね。嫌いな王に頭を下げるより、私と取引をしたようがましじゃない?」
「水の王を欺くのか?あの男を裏切ると?」
火の王に味方すれば、ダヤの敵に回ることになる。しかし果たしてそうだろうか。
一番の望みはダヤの傍に戻ることだ。
他の女と結婚し、夫婦生活を送るダヤを冷静に見ていられる自信はないが、アスタの心を支えてきたのは、やはりダヤの言葉だけだ。
王妃として生きろと言われたのだから、その言葉に従い、全てが終わったあとで彼の傍に行けばいい。
水の国に居場所を作ってもらい、ダヤの姿を遠くから眺めて暮らすだけでも良い。
他の女性と並び、楽しそうに会話をするダヤの姿を想像するだけで涙が溢れそうになるが、それでもやはりダヤを諦めるのは嫌だった。
一度は逃げ出してしまったが、辛くてもその姿を一年に一度だけでもいいから見ていたかった。
「私を助けてくれる水の民はいない。だから、私は自分の望みをかなえるために自分の力を使う」
厳密に言えば、アスタは水の民でもない。
どこまでいっても、アスタは陸上では孤独な種だ。
「水源か……。お前に見つけられるのか?水の王の意向を無視して、ここに水路を引けるのか?」
「水の王が妨害に来たらそれは負けてしまう。でもこっそり水路を引くぐらいならばれないわ」
それはアスタの魂に付随した能力だ。
「水の民の聖域にあるあの泉には太古の海の記憶が眠っている。その力を使えるのは私だけ」
「選ばれた王だけの力ではないのか?」
ガドルの認識は少し間違えている。
「予言の巫女にも記憶という力がある」
それは海で進化した、最後のマーリーヴァランだけが持つ能力だ。
「取引に応じてくれるなら、水を引き寄せてあげる」
生意気な口をきく水の巫女を組み敷き、ガドルはその反抗的な目を見返した。
姿形はアスターリアではないが、その目に宿る光は、やはりアスターリアのものに見える。
「抱かせろ。それが条件だ」
「水よりこの死にかけた体が良いの?」
やせ細り、今にも死んでしまいそうな体に価値があるとはとても思えない。
ガドルはにやりと笑い、見知らぬ女の青ざめた唇を乱暴に奪った。
辺りを見渡し、樽のすきまから伸びあがる。
木箱に竜の刻印を見つけると、アスタは落胆した。
残念ながら、そこはオルトナ国だった。
自分の入った体を見下ろして、なぜこんなところで水の巫女が死にかけていたのかと考えた。
肉体の持ち主は、とうに魂を宙に飛ばし消えている。
この肉体を動かしているのはアスタの魂だけだった。
死んだ直後の空いた肉体に、なんとか入り込めたのだ。
急いで棚や樽を覗き、手当たりしだいに食べられそうなものを掴み取り、魔物の言葉で安全かどうか確かめる。
掴んでいた木の実が青い光に包まれ、ふっと消えた。
毒が入っていた証拠だ。
ここにあるものは全て毒入りなのだ。
構わずアスタは飢えた体が欲するだけ、食料を取り込んだ。
命尽きる前に、この肉体をパール国で眠るアスタのところに持っていき、魂を移し替えなければいけない。
指や腕が毒で変色し、吐き気まで込み上げてきたが、魔物の言葉で浄化する。
そこは地下であるらしく、出入り口は天井部分に取り付けられた扉だけだった。
鍵の開く音がして、扉が持ち上がった。
光が差し込み、アスタは樽の裏側に急いで逃げる。
階段が斜めに降りてきた。
「ここにある食料は全て毒に浸してある。数か月も前から用意していたものだから、調べたところで入手経路なんてもう追えない。これを使おう」
腕が伸びてきて、樽の一つを引っ張り上げる。
それは少し重く、すぐにアスタの前に戻された。
「滑車を持って来よう」
二人分の足音が遠ざかると、アスタは物陰から這い出し、なんとか食料庫を抜け出した。
男達が戻ってくる前に、アスタは通路の壁を覆うカーテンの裏に隠れた。
毒が貯蔵されているということは、誰かの命が狙われているということだ。
オルトナ国の王には敵が多い。
しかし最大の敵は大陸の国々をまとめあげた、ダヤ王に違いなかった。
まさかダヤが狙われているのではないかとアスタは心配になった。
契約により、砂の国と水の国、それから火の国は定期的に会談する場を設けている。
その場にダヤが招かれているのであれば、毒入りの食事が出される可能性はおおいにある。
アスタはふらつく体でカーテンの後ろを進んだ。
ガドル王の居城であっても、もうかつての城ではない。
もとの城は水の民の聖地の上に建てられていた。
そこをダヤが奪い返したのだから、ここは別の城ということになる。
なんとかアスタは召使用の粗末な通路に入り込み、適当な部屋から召使の服を手に入れ身に着けた。
砂の国と繋がる聖域の泉に向かうには、ダヤのいる城へ移る必要がある。
聖域の水があれば、この巫女の身体も治るはずだ。
その時、召使たちの話し声が聞こえてきた。
カーテンの裏に隠れ、耳を澄ませる。
「パール国とラバンド国の交流会が延期になったせいよ。水源が足りていないというのに迷惑なことよ」
「それでも王を呼び出し、話をするべきでしょう?あの王ではいつまでたっても問題は解決できない。臆病な王は不要よ」
火の民は気性も荒く、野心的だ。
さらに種族としてのプライドも高い。ダヤに頭を下げて水路を増やしたいと頼めない王を非難しても、誰かが代わりにダヤに頭を下げにいくこともしない。
召使たちがアスタの隠れているカーテンの前を通り過ぎた。
「お食事をお持ちしました」
扉が開く音がして、召使たちの足音が遠ざかる。
アスタはちらりとカーテンの隙間から廊下を覗き見た。
開いている扉から、食事を持って入ったはずの召使たちが、逃げるように出てきた。
普通は給仕に一人、二人残るものだが、そうではなかった。
人払いしたということは、やはり身分の高い者が招かれているのかもしれないとアスタは考えた。
会談相手がダヤであれば危険な状況だ。
召使達が遠ざかると、アスタはカーテンから飛び出し、先ほど食事が運ばれた部屋に飛び込んだ。
「申し訳ありません。お食事に……」
召使の帽子を深くかぶり、頭を下げながら、ちらりと室内を確かめる。
しかし、そこにダヤの姿はなかった。
「申し訳ありません。私の勘違いです」
すぐに出ていこうとドアノブに手をかける。
しかし扉はびくともしなかった。
ぞくりとして、アスタはゆっくり後ろを振り返る。
テーブルに食事を残したまま、ガドルが顔をあげた。
その表情は険しく、憎悪に満ちている。
反射的にアスタは身を縮ませる。
ガドル王には国の内外に敵がいる。
毒殺の標的はガドル王だったのだ。
熱を帯びた風が頬をかすめた。
アスタの被っていた帽子が後ろに吹き飛び、水の民特有の金色の髪がこぼれでた。
炎の矢を放ったガドルが目を細める。
「ほお。食料庫に逃げ込んだネズミが出てきたか?まだ生きていたとは驚きだ」
アスタはかっとしてガドルを睨んだ。
「残忍な男ね。知っていて放置していたの?あんな毒だらけの食料庫に?砂の檻に投げ捨てるより残酷よ」
「逃げ遅れた巫女をそっとしておいてやっただけだ。くくっ……」
先ほどまでの険しい表情を一変させ、ガドルは不気味に笑った。
「気の強い巫女だな。そんな巫女を一人知っているぞ」
どきっとして、アスタは話題を逸らそうと頭を働かせた。
「わ、私は水の巫女。だから、水源を増やす手伝いをしてもいい。だから、ここから自由にして」
「俺を相手に取引をするつもりか?……命乞いをする方が先じゃないのか?」
記憶を取り戻す前であれば、肉体を失うことを恐れ、甘んじて屈辱を受け入れたかもしれないが、今のアスタに肉体への愛着はなく、さらにそんなことに気を遣っている暇もない。
魂は不安定で、かりそめの肉体でもあるため、いつ分離してしまうかもわからない。
「命を狙われているのでしょう?あなたを毒殺したい人がいる。それに、水源を増やさないあなたに失望している民もいる」
ガドルは生意気な口をきく死にかけの水の巫女に迫った。
太い腕を伸ばし、その喉を掴んで持ち上げる。
首を締められながらも、アスタはガドルを睨みつけている。
「昔、反抗的な巫女がいた。俺に従わず、砂の檻に自ら飛び込んだ。お前は……似ているな。予言の巫女は王が存在している間は、もう生まれないはずだが」
「私を殺したら、水源を増やすためにダヤ王に頭を下げるしかなくなるのよ」
魔物の言葉を使えるアスタには水を引っ張る力がある。
喉を締め付けるガドルの手を引きはがそうともがきながら、アスタは叫んだ。
途端に喉を締め付けていたガドルの手が離れる。
床に落ちたアスタは、あまりにも細く壊れやすい肉体に怯えた。
死にかけていたのだから当然だが、これでは砂の地までたどり着けない。
だからといってガドルを味方に引き込むのは危険だ。
「アスタ」
反射的にアスタは顔をあげていた。
その瞬間、その名前で反応してしまったことに気が付き、逃げようと後ろの扉に飛びついた。
それより早く、ガドルの腕がアスタの腰をさらい、乱暴に担ぎ上げる。
「いやっ!放して!」
か弱い体で暴れ出したアスタを、ガドルはやすやすと隣室に運び、寝台に横たえるとその上に覆いかぶさった。
「あり得ない話ではない。先ほど、パール国の王妃が原因不明の病で意識不明だと知らせが入ったばかりだ。彼女の意識がここにあるのだとすれば、肉体が目覚めないことも不思議ではない」
アスタは青ざめ、首を横に振った。
優れた群れを作るため、アスタには最後の雌として、強い雄を見つけ出す力がある。
同時に、群れの頂点に立ちたいと望む雄は、アスタに選ばれたいと無意識に考えてしまう。
アスタに選ばれることが、王たる証のように感じてしまうのだ。
「お前がアスターリアでないならば、この体の名前は?なぜ食料庫にいたか説明が出来るか?」
体に残された記憶を呼び覚まそうとするが、それはうまくいかなかった。
カートスを急がせ過ぎたせいで、入る肉体を選べなかった。
「名前ですって?覚えたこともないくせに。あなたこそ、私の名前を知っていた?」
「アスターリア。水の巫女は全員同じ顔なのに、その名だけは忘れたことがない」
「同じ顔じゃない。全員違うわ。あなたが覚えようとしなかっただけ。私は水源を探せる。あなたが私の願いをかなえてくれるならね。嫌いな王に頭を下げるより、私と取引をしたようがましじゃない?」
「水の王を欺くのか?あの男を裏切ると?」
火の王に味方すれば、ダヤの敵に回ることになる。しかし果たしてそうだろうか。
一番の望みはダヤの傍に戻ることだ。
他の女と結婚し、夫婦生活を送るダヤを冷静に見ていられる自信はないが、アスタの心を支えてきたのは、やはりダヤの言葉だけだ。
王妃として生きろと言われたのだから、その言葉に従い、全てが終わったあとで彼の傍に行けばいい。
水の国に居場所を作ってもらい、ダヤの姿を遠くから眺めて暮らすだけでも良い。
他の女性と並び、楽しそうに会話をするダヤの姿を想像するだけで涙が溢れそうになるが、それでもやはりダヤを諦めるのは嫌だった。
一度は逃げ出してしまったが、辛くてもその姿を一年に一度だけでもいいから見ていたかった。
「私を助けてくれる水の民はいない。だから、私は自分の望みをかなえるために自分の力を使う」
厳密に言えば、アスタは水の民でもない。
どこまでいっても、アスタは陸上では孤独な種だ。
「水源か……。お前に見つけられるのか?水の王の意向を無視して、ここに水路を引けるのか?」
「水の王が妨害に来たらそれは負けてしまう。でもこっそり水路を引くぐらいならばれないわ」
それはアスタの魂に付随した能力だ。
「水の民の聖域にあるあの泉には太古の海の記憶が眠っている。その力を使えるのは私だけ」
「選ばれた王だけの力ではないのか?」
ガドルの認識は少し間違えている。
「予言の巫女にも記憶という力がある」
それは海で進化した、最後のマーリーヴァランだけが持つ能力だ。
「取引に応じてくれるなら、水を引き寄せてあげる」
生意気な口をきく水の巫女を組み敷き、ガドルはその反抗的な目を見返した。
姿形はアスターリアではないが、その目に宿る光は、やはりアスターリアのものに見える。
「抱かせろ。それが条件だ」
「水よりこの死にかけた体が良いの?」
やせ細り、今にも死んでしまいそうな体に価値があるとはとても思えない。
ガドルはにやりと笑い、見知らぬ女の青ざめた唇を乱暴に奪った。
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