砂の地に囚われて

丸井竹

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25.消えた魂

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意識を取り戻したアスタは、冷たい水の感触に驚いた。
目の前には透明なガラス板があり、薄暗いその向こうには不思議なものが漂っている。

海藻のように宙をなびく黒髪だ。
髪の主がゆっくりアスタを振り返った。
見知らぬ男がガラス越しにアスタを見下ろしている。

不思議と恐ろしくはなかった。
すぐに透明なガラスが消え、男の腕がアスタを抱き起こした。

何かが口に押し付けられ、苦い液体が喉を伝い落ちる。
突然、アスタの脳にあらゆる記憶が戻ってきた。

「あ……」

そこは海底の洞窟にある、まじない屋だった。
王を探していたアスタは、陸にあがりたいとまじない屋に相談したのだ。
目の前にいる男は、もう見知らぬ男ではなかった。

「カートス……。私、戻ってきたの?どうして?」

黒髪を海藻のようになびかせた男は、棚に置かれている瓶を取ってアスタに見せた。

「魂が肉体を離れてしまったのだ。いや、むしろ魂を守るために、意識を緊急避難させたと表現した方が適切だ。君の心は限界だった。これ以上、肉体に留まれば魂が消えてしまう」

「な、ならばもう一度、おまじないをかけて!」

「陸の生活は幸せなものではなかったはずだ。少し魂を休める必要がある。この緑色の液体は君の魂が苦痛を感じ続けた証拠だ。まぁ、これもまじないの材料になるのだから無駄ではないが」

「でも、もう一度生き直したら、王を見失うかもしれない。やっと王を見つけたのに……。それに王とも約束をした。王の言葉に従わなくてはいけないの」

尾ひれで水をかき、アスタは水中をうろうろと泳いだ。
水色の髪が海藻のように揺れ、紫色の鱗で覆われた尾が優雅にゆらめく。

白い豊かな胸には何も巻いていなかった。
手には水かきがあり、耳は尖っていて青い宝石を嵌めている。

アスタの魂は、マーリー・ヴァランという名の人に近い形に進化した魔物の体に戻っていた。
マーリーは群れで暮らす魔物であり、昔はもっと原始的な姿をしていた。
少しずつ進化を続け、姿を変えて陸にあがり水の民になった。

しかしマーリーヴァランの全てが陸にあがったわけではない。
水に残ったマーリーヴァランもまた、そこで独自の進化を続けてきたのだ。

海に残ったマーリー達も、陸にあがった水の民のように、群れのリーダーになる雄を一頭の選ばれた雌が選ぶ。
原種の持っていたその習性は、進化を重ねても失われることはなかった。

陸と海に別れマーリーヴァランはそれぞれ進化を続けたが、海のマーリーヴァランはアスタを残し全滅してしまった。雄が見つからず困っていたアスタに、近縁種である水の民のもとでなら、王を探せるかもしれないとまじない屋のカートスが助言したのだ。

「ここにいても……誰もいないじゃない。もう一度、陸にあがりたい」

カートスは新しい瓶を棚から取り出した。

「しかし同じ肉体に魂を戻すことは難しい。新しい肉体を得て、生まれ変わるのが一番確実だ」

「そ、そんな!それじゃ困る……。王を見失ってしまう。それに、イハとフィアに会えなくなる……」

その言葉は尻すぼみになり消えてしまう。
もうイハもフィアも母を必要とする歳でもない。
そこに執着しているのはアスタだけだ。

それに、戻ればダヤと他の女性が並んでいる姿を見なければならなくなる。
子供も産めない王妃が、公務をこれ以上休めば、ハカスに忘れ去られてしまうかもしれない。
肉体はかりそめの物。
辛い体験が続けば、魂は現実から逃げようと肉体からはがれてしまう。

「君は本能的につがいになる雄を選ぶ。だから一度選べば、他の雄はもう選べない。生殖行為は出来るかもしれないが、何人子供を産んでも君の生物としての飢えは満たされないだろう。ここで……しばらく暮らしてもいいのでは?」

ハカスの子供達を、アスタは愛しく思ってきたが、アスタの孤独を埋める存在にはならなかった。
ダヤの子供を生むまで、きっとこの悲しみは続くのだ。
しかしもうダヤの子供を産む雌は決まっている。

ハカスを夫として考えるべきだと思うが、アスタにはどうしてもそれが出来ない。

努力はしたが、本能が拒否した相手とはどうしても心が馴染まなかった。
こうなっては、真っ暗な海の底で、一人ぼっちで朽ちていくしかない。
知能と心を手に入れてしまった魔物は、もう独りには戻れないのに。

「どうしてこんなに中途半端な存在なの?陸にも上がれず、海でも暮らせない。だから滅びるのね……。進化なんてしなければよかった」

「知恵を授けたのは私だ。滅びゆく君を助けたいと思ったからだ。しかし君にとっては、地上の暮らしの方がここより大変だったはずだ。選んだ雄が死ぬまで待ってもいいのでは?」

そうすれば、また選び直せる。
涙が真珠のように溢れ、水中をきらきらと輝きながら流れていく。

「いいえ……。彼が死んだあとの世界なんて、それこそ戻りたくない。やっと見つけた愛だったのに。あの体に戻して」

「それは難しい……。あそこまで魂を運ぶのは大変だ。魂が離れた肉体も壊れやすくなる。
誰かの体に入って、すぐに向かうとしても、膨大な記憶に耐えきれず脳が壊れてしまう。一度記憶の封印が解けたら、また封じるということは不可能だ。
少しずつ解放し、体になじませていく必要があるし、既存の記憶が邪魔をすれば、人格が混ざる危険性もある。
死にかけた体があれば……そこに入り込むことは可能かもしれないが、危険な行為であるし、しかも砂の地では距離が遠すぎる」

「どうすればいい?方法はあるでしょう?なんでもするから!」

滅びかけている孤独な種を前に、カートスは憐れむようによわよわしく微笑んだ。




――


水の宮殿に駆け付けたハカスは、青ざめながらも気丈に父を待っていた息子を見て、無言でうなずいてみせた。
イハはすぐに母親の眠る寝台から一歩離れ、父親のために場所を空けた。

寝台には意識を失ったアスタの姿があった。
呼吸もしているし、心臓も動いているが、呼びかけには一切反応がない。

「アスタ、アスタ……」

その体を優しくゆすり、ハカスは耳もとで名前を呼んだ。
大切な存在だと口に出していえるほど愛を意識したことはないが、失いたくはないのだ。
この感情をどう表現していいか、ハカスにはまだわからない。

「一体、いつからこんな状態なのだ」

医術師を振り返り、ハカスが鋭く問いかける。
しかしそれより早く、イハが答えた。

「私が来た時、お母様は不自然な姿勢で寝台の上に倒れていました。すぐに抱き上げて頭を枕のところに戻しましたが、全く反応がなくて……眠っているとも思えなくて、すぐに医術師を呼んだのです」

「最後にこの部屋に入ったのは誰だ?」

侍女達が一斉にハカスに視線を向けた。
ハカスはアスタに愛人に子供を産ませると知らせたことを思い出した。
その直後に、アスタは倒れたのだ。

そしてイハが発見した。

「俺か……」

戦場でも感じたことのない、途方もない恐怖が襲い掛かる。

ハカスは体の震えをなんとか抑え込んだ。
死の世界にアスタを奪われたら、さすがのハカスといえども取り戻しにはいけない。

愛とは無縁に生きてきて、アスタの固執するダヤへの愛を粉々に砕き、いつそれが完全に消滅するのかと、面白半分に眺めてきた。
残忍な遊びだが気に入っていた。アスタがダヤを諦め、ハカスを受け入れようと努力を始めた時も、愛のある夫婦ごっこをしているようで楽しめた。

すがるもののない無力な女だけが、愛に固執するのだと思っていた。
だけどその愛が消えたら、女がどうなってしまうのか、あまり考えたことがなかった。

大抵の人間は壊れる前に心を逃がすものだ。
諦めて現状を受け入れ、ハカスに媚びるしかないのだと気づき、地に這いつくばる。

アスタは命を断とうとした。
窓を落ちていくアスタを見た時の、恐怖をまだ覚えている。

子供が足かせとなり、アスタは生きるしかなくなった。
そう思っていたが、流産が続き、産んだ子も一人国を離れることに決まった。
アスタはこの砂の地で、一人ぼっちになってしまったのだ。

「弱いな……。こんなにもろいものか?こんなことで……」

アスタはまるで死んでいるかのように動かない。

「少し……食欲が落ちているようだったので、心配はしておりました」

医術師がぼそぼそと言い訳をした。
流産のたびにアスタは体重を落とし、泣いて暮らすようになっていた。
イハが時々顔を出していたが、その時は息子を抱きしめ微笑んでいたと、ハカスは侍女達から報告を受けていた。

「後宮を閉鎖する。セシアも他の女達も解任だ」

それは王が側室にした女達の全てを殺すことを意味していた。

「し、しかし……セシア様は……」

王の子供を既にみごもっていると噂になっている。
本当にそんなことをしてもいいのかと、部下達は動揺した。

「子供は産ませるな。抵抗するなら殺して捨てろ」

砂の王らしい残忍さで、ハカスは命令を下した。
王に従い、部下達は部屋を出ていった。

「お父様……。それは危険です。王には子供が必要だと仰っていました」

「イハ、王の言葉だ。立場をわきまえろ」

王に、二言はない。

イハは口を閉ざしたが、すぐに部屋の外に誰もいないか確認し戻ってきた。

「王が感情に左右されてはいけないと、お父様から教わりました……」

迷いながらも勇気をもって発せられた息子の言葉を完全に無視し、ハカスは短く命じた。

「ダヤ王のもとに赴き、来月の交流会を延期したいと知らせよ。期日は王妃の意識が戻り次第だ」

王の命令が下ったのだ。それ以上の意見はできない。

「ダヤ王に……そのように伝えます」

イハが出て行くと、ハカスは寝台の横に椅子を引き寄せ、腰を落とした。

今度こそ、あの男の本心がわかるだろうとハカスは考えたが、それはまさにその通りの展開になった。
ようやくハカスの望んだ形で、ダヤがパール国に来ることになったのだ。

イハが水の国に出立した翌日には、王妃を見舞いたいと王の使者が飛んできた。
それはダヤがアスタをこの上なく心配している証拠だった。

ハカスは意識のないアスタの隣から離れなかった。

「歓迎すると伝えてくれ」

それからきっちり十日後、招かれたその日に、ダヤはアスタの眠る寝室にやってきた。

その十日間は、本心ではダヤに会わせたくない、ハカスの精一杯の抵抗だった。

しかしそれ以上に、アスタを助けたい気持ちが勝ったのだ。
出迎えたハカスは、ダヤを自らアスタの眠る寝室まで案内した。

「もう十日目だ。三度流産し、次の子は他の女に産ませると告げたばかりだった」

ダヤはいつにもまして険しい表情で、静かに寝台に近づいた。
用意されていた椅子に座り、死んだように横たわるアスタの顔を見下ろす。

ハカスは寝台を挟み、反対側に立った。

夫のハカスが見守る前で、ダヤはアスタの手をそっと持ち上げた。

「アスタ……起きられないのか?なぜ……目を閉じた。与えられた運命に生きろと言ったはずだ。まだお前の運命は終わっていない」

静かに、しかし力強くダヤは語り掛けた。
その瞬間、アスタの瞼がぴくりと動いた。
同時に指もかすかに震え出す。

「アスタ!」

ハカスも身を乗り出し呼びかけた。
しかしアスタの体に反応はない。

意識はないが、体に染みこんだ愛の記憶が、ダヤの声に反応したのだ。

「アスタ……」

ダヤの呼びかけだけに反応するアスタの姿に、ハカスはなんとも言い難い複雑な表情になった。
愛がないのだから、嫉妬する必要もない。
それなのに深い悲しみと、失望、それから同時に希望と、喜びまで沸き上がる。

アスタが目を覚ましてくれたら、それだけで良いと思えるような希望だ。
こんな男ではなかったはずだと、ハカスは自身に問いかける。

アスタを愛しているわけがない。アスタはハカスを愛そうと努力していたが、そんなものは望んでいなかった。
物に対する執着のようなものだと思い込んできた。

従順な妻と優秀な子供たち。それで十分だったはずだ。

ハカスは立ち上がり、二人を残し部屋を出た。
通路には見張りの兵士達が、ずらりと並んでいる。

感情を完璧に抑制し、置物のように動かない。

「隣の部屋にいる。ダヤ王が出てきたら俺を呼べ」

ハカスは彼らの前を横切り、隣室に姿を消した。



寝室に残ったダヤは、じっとアスタを見下ろしていた。
その左手にはやせ細ったアスタの小さな手が乗せられている。
右手で、アスタの額をそっと撫でる。

「君を……取り返すことを諦めたわけじゃない。時間がかかると悟った。それだけだ。
アスタ……妻になり母となった君は重い鎖で幾重にも縛られている。
愛情深い君が子供を捨てられなくなることはわかっていた。
俺を生かすために、大きな犠牲を払った君だから、自分の人生は二の次にしてしまう。
だから、君の傍にいるために形式上の王妃を置いた。
あれは……実はマールという男の戦士が女装している。
王妃がいると見せかけただけだ。子供が出来たというのも嘘だ。
君に未練がないとハカス王に見せつけるための王妃だ。
俺はずっと恐れていた。君がハカスを本気で愛してしまったらどうしようかと。
しかし、今はそれでも良いと思っている。俺の片思いになったとしても、君が……幸せでいてくれる方が大切だ。残忍で愛を知らないハカスは、君を傍においたせいで愛を学び始めている。
いつか、君の愛があの男を動かす。そう信じている。
俺がそうだったように。アスタ……愛を求める君だからこそ、出来る戦い方だ」

ダヤの声に反応し、瞼や指先は動くがそれ以上の反応は現れない。

「アスタ、目を開けてくれ」

瞼がわずかに持ち上がる。
しかしそれもまた体に残された愛の記憶の成したことであり、魂がない体が目覚めることはない。

「アスタ……俺を置いていくのか?」

全ての感情を押し殺してきたダヤは、ついにアスタの手を握りしめ、その手の甲に熱い滴りを落とした。

それが最後の瞬間であっても、必ずアスタをこの腕に取り戻すと決めていた。
ダヤには耐えきれる年月も、アスタには無理だったのだ。ダヤはそう思った。

ひんやりとしたアスタの肌に触れながら、ダヤは再び感情を消していった。
目元の涙は引き、苦痛を刻んだ表情は、気難しい王の顔に変わる。

「君を……返してもらえるよう交渉してみよう。あの様子では難しそうだな……」

アスタの手の甲に唇を押し付け、それを寝台の上に戻す。
立ち上がり、椅子をもとの位置に戻すと、ダヤはアスタに背を向け部屋を出て行った。


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