砂の地に囚われて

丸井竹

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7.男の決断と女の覚悟

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妻を奪われ、奴隷の身に落とされてさえ、ダヤは惨めな男には見えなかった。
自身の状況を真っ向から受け入れ、それならばここから這い上がってやるという揺るがない強い意思を秘め、堂々とハカスの前に立っている。
やはり、身分ある男だったのではないかとハカスは考えた。

牢内に武器がないこと、扉に鍵がかかっていることを確かめ、ハカスはさらに牢に近づいた。
ハカスの手にはランプが無く、通路に設置された小さな蝋燭の炎だけが二人の間をほの暗く照らしている。

「アスタはお前に何をした?」

「全て見ていたはずだ」

天井に備え付けられている、奇妙な装置にダヤは気づいていた。

「全てが見えないように、そのでかい図体で彼女の姿を隠していたではないか」

不遜な態度のダヤを前に、ハカスはもし対等な立場で戦うことになれば、この男に勝てるだろうかと考えた。
アスタを巡り、武器を取り合い戦うことになれば、ハカスに勝ち目はない。
砂輪虫を単独で倒してしまうような男なのだ。

「話す気はないか。ならばアスタの意識が戻った時に聞くしかない」

ダヤが多少は動揺するのではないかと思ったが、ダヤは表情一つ変えなかった。
やはり気に入らない男だとハカスは考えた。

「お前は俺の奴隷だ。それ故、俺はお前に命じさえすればいいことだが、今回のことはそう簡単なことではない。
お前を従えるために鞭を使えば、アスタに傷と痛みを与えることになる。
アスタは命をかけてお前を守りたいようだが、俺にも守りたいものがある」

忌々しいことに、夫婦の間に割り込んでいるのはハカスであり、二人にとってハカスは邪魔な存在でしかない。
それを十分に理解したうえで、ハカスは覚悟を決めた。

「アスタの腹に俺の子がいる」

表情こそ変えなかったが、さすがにダヤの太いのどが大きく動いた。
刃のように鋭い目の奥には、殺意と怒りが静かに燃えている。

「無事に子供を産んでもらわなければならない。お前が怪我をするたびに、母体が危険にさらされては困る。それはお前にとっても本位ではないだろう。彼女を説得し、その呪いを解いてもらいたい」

あまりにも身勝手な話だった。
権力に物を言わせ、夫のいる人妻を身ごもらせ、その夫に身を引けと迫っている。
奴隷の身分に慣れていない男であれば、その屈辱に耐えがたい怒りを感じるはずだ。

ダヤはもう一度喉を大きく動かし、鼻から深く息を吐きだした。

「出産を終えたら、アスタはどうなる?」

自身の屈辱を軽々と乗り越え、アスタのために考えを切り替えたダヤの言葉に、ハカスは密かに感動すら覚えていた。

「飽きるまで傍に置くつもりだ」

親子の絆も夫婦の絆も、ハカスの周囲にあるそうした関係は、あまりにも脆く、憎悪に満ちたものが多かった。
それなのに、この二人は自分の命さえままならないのに、相手のことを守ろうと容易に自身の持つすべてを投げうって見せる。

「話にならない。彼女は俺の妻だ。奴隷となってもそれは変わらない。彼女の体を道具として使われることも我慢ならないのに、大切にすることもせず捨てるというのか。
彼女が俺にかけたまじないが、一方通行でありお前がそれに困っているというのであれば、不本意だがこのまじないを解くわけにはいかない」

「取引が出来る立場だとでも思っているのか?他国の人間は、流れ着いたその時から奴隷だ。
お前の国でも同じだろう?俺の情けが無ければ、アスタに触れることさえ出来ない。それを理解しているからこそ、お前は今生きている。お前も彼女も俺のものだ」

それは砂の国の掟であり、ダヤにも理解出来る話だった。
しかしダヤも引くわけにはいかない。

「にもかかわらず、俺にものを頼みに来た。お前が俺達を道具のように使おうとも、その心までは思い通りに動かすことが出来ないとわかっているからだろう。俺を拷問し、欲しい答えを取り出してみるか?」

挑発と脅し文句を並べる割には、表情は穏やかなものになり、その声音も淡々としたものになった。
それは、この会話の行きつく先が見えているからこその落ち着きだった。

その胸中は複雑ではあったが、考えるべきことは定まっていた。
アスタを奪われた苦痛、さらに他の男の子供を身ごもった衝撃、耐え難い事実がその心を押しつぶしていたが、ダヤはアスタの身の安全だけを考えた。

ハカスは思った以上にアスタに執着している。
でなければ、アスタのために奴隷にものを頼みに来るはずがない。
それに、ダヤを殺すために仕組んだ試合中に、アスタのために勝てとまで言いに来たのだ。

それほどに強く、アスタを死なせたくないと思っている証拠だ。

母親がアスタでなければ、子供を産ませようとも思わなかったかもしれない。
高貴な身分の人間は、奴隷に子供を産ませることを好まない。

この男なら、アスタを死なせないかもしれないとダヤは考えた。
冷酷なハカスにその未来のすべてを託すのは危険だとわかっているが、子供を生むまでアスタは生き延びることが出来る。

アスタの心の苦痛を考えないわけではなかったが、アスタもまた、ダヤと一緒になれる未来を信じているのであれば、この男を怒らせるような真似は極力しないはずだ。

そこまで考え、ダヤは静かに目を上げた。
ハカスは苛々と奥歯を噛みしめ、落ち着かない様子で右足のつま先で床を叩いている。

「お前に捨てられたら、アスタはどうなる?水女の運命は餌として砂上に出され、失敗すれば砂魚に食べられ連れ去られてしまう。俺の国ではそうしたものだった。
俺は彼女を大切に匿い、彼女に人としての人生を与えたいと願った。
しかし彼女の存在は役人に見つかり、ここに流された。
お前の言う通り、俺達は奴隷であり、それがどんな存在か理解している。
だからといって二人の未来を諦めているわけじゃない。俺の望みは彼女の幸せだ。
俺が彼女を守れず、幸せに出来ないのであれば、俺はそれを誰かに託さなければならない。
この国では、お前がもっとも強い力を持っている。その力でアスタを守り幸せにするというのならば、俺は彼女から身を引くことを考える。
しかし、飽きたら道具のように捨てるというならば、俺は彼女の命を盾に共に生き、共に死ぬ未来を選ぶ」

淡々と語られたダヤの言葉に、ハカスはまたもや大きな感動を受けていた。
しかしその言葉の全てを信じたわけではなかった。
何も持たない道具扱いの奴隷が、唯一誇れるものはそうした精神的な結びつきだけだ。

権力や金を持てばこの男も、アスタをただの、王子の寵愛を受けている金蔓と思うようになるかもしれない。
そうしたものに、愛は容易に濁ってしまう。
それ故、ハカスのような立場の人間が、純粋な愛を見つけることは、砂魚の腹から水女を見つけることより難しい。

「飽きたらお前にアスタを返してやる」

どうせそれまで愛は続かないとハカスは強引に考えた。

「奴隷が妻を持っても意味はない」

ダヤは言い返した。
奴隷の夫婦では、またすぐに誰かに奪われる。

「ならば……お前を自由の身にしてやる。この国で兵士の身分をあたえてやろう。いつか俺がアスタに飽きた時、真っ先にお前に声をかけてやる。
奴隷として使い古され、俺の子供まで産んだ女を、まだお前が待っていられたならば、その時は、お前の国でも出来なかったように、アスタを堂々と手に入れたら良い。兵士として出世していれば、アスタに俺ほどではないにしろ、そこそこ良い暮らしをさせてやれるだろう」

「口約束では動けないな」

もはやハカスはダヤを奴隷とは思っていなかった。
アスタを巡るこの男との攻防では、常にハカスが負けている。
身分の上下ではなく、アスタの心を軸にして考えれば、ハカスには最初から勝ち目がない。

この国でのハカスの身分と権力は、絶対的な力を持つが、一人の男としてアスタを前にしたらその権力は意味のないものだ。

「今すぐに奴隷の身分から解放してやる。この国の兵士としての地位を与えよう。今回の試合結果を見れば、当然の褒美として世間は納得するだろう。
使い古した女であっても、俺の愛人だった女を得るには相応に出世してもらわなければならない。そこまでは自力で這い上がれ。俺が譲歩できるのはここまでだ」

それは、奴隷から一歩前進したことを意味する。
自由の身になれば、上の身分も狙える。ダヤは希望を抱いたが、やはりその感情は内に秘めた。

「ならば今すぐ、証明してみせろ」

ダヤの前で、ハカスは壁に立てかけてあった奴隷用の剣を掴み取り、それを無造作に牢の中に放り投げた。
門番を呼び、牢の扉を開けるように命じる。

ダヤの力ならばハカスを人質にとり、アスタを取り戻すことも可能かもしれないが、残念ながらここは砂上の王国であり、水も無しに国を出て逃げることは出来ない。

アスタを安全に外に連れ出すためには、やはり焦りは禁物だった。
十分それを理解出来る男だと知って、ハカスもまたダヤの牢に武器を投げ入れたのだ。

ダヤは奴隷用の剣を拾い上げ、腰のベルトに差し込むと、扉をくぐって外に出た。

「兵士用の宿舎に案内しよう」

ハカスが先に立って歩きだし、部下達がハカスの命令に従い、奴隷解放の手続きに走った。
奴隷階級から一段上がったダヤは、ハカスの背を追い、悠然と歩きだした。




目を覚ましたアスタは、体の痛みに呻き、何があったのか思い出そうとした。

すぐに死闘を繰り広げるダヤの姿が蘇り、心臓がどくんどくんと鳴りだした。
心配で心は押しつぶされそうなのに、その体は鉛のように動かない。

全身にはまだずきずきした痛みがあり、体中に包帯が巻かれている。
何とか腕を持ち上げてみれば、肘の部分にまで包帯があり、関節さえ曲がらない。

それを見て、アスタはほっとしたように微笑んだ。
自分が生きているということは、ダヤも死んでいないし、傷も負っていないということだ。
こんな運命にダヤを巻き込んだ以上、その苦痛の全ては自分が受けるべきだとアスタは覚悟を決めていた。

ダヤはアスタにとって人生でただ一人と決めた王なのだ。
まだ力の入らない指を持ち上げ、アスタは自分の腕に巻かれている包帯を解き始めた。
白い肌に醜い傷がいくつも残っている。

まだ血のにじむその傷を見て、アスタは愛しそうにその傷に頬をすりつけた。
夫がいながら、ハカスに抱かれ、子供まで身ごもった。
ダヤのものであるアスタの体は、ハカスによって、淫らに醜く変えられていく。

しかし体に刻まれたこの傷は、間違いなくダヤのものであり、ハカスによって替えられた体の全てを上書きしてくれている。
少しだけ、自分の体を取り戻した気さえして、アスタは包帯に包まれた腕をうっとりと眺めた。
それはまるで間接的にダヤに触れているようだった。

その時、部屋の外から複数の足音が近づいてきた。
この傷までもハカスの物にされてしまうのだろうかと、アスタは溢れてきた涙を必死に飲み込んだ。

奴隷であるアスタに、何かを選択出来る権利はない。

あるいは、処刑されるのかもしれないとアスタは思った。
ダヤのために傷を受けた。
独占欲の強いハカスはそれを許さず、まじないを解かなければ殺すと脅してくるに違いない。

アスタが受ける拷問の傷はダヤには伝わらない。
だとしたら、死の瞬間まで苦痛を味わうのはアスタだけだ。

扉の向こうで足音が止まった。
死の覚悟を決め、アスタは扉の方に首を回す。

その瞬間、アスタの目から大粒の涙がこぼれた。
アスタにはそれが誰かわかったのだ。

その人物が入ってくるより早く、アスタは全身の痛みも忘れ、寝台から飛び出した。


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