砂の地に囚われて

丸井竹

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6.生死を賭けた戦い

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闘技場に立つダヤは、後方に退き、姿勢を低く保ったまま武器を構えている。
その額にはさすがに玉のような汗が浮かんでいる。
乾いた唇を舌で舐め、巨大な敵を見上げた。

これは明確なハカスの殺意だった。
アスタを一晩貸し出してはみたものの、やはり気に入りの奴隷を抱いたダヤを許せなくなったのかもしれない。
だとしたら、ハカスはアスタにある程度の愛着を抱いているのだ。
悪いことではないとダヤは考えた。

ハカスがアスタを守ろうとするのであれば、この国でアスタは生きていけるだろう。
もしダヤが戻れなかったとしても、アスタには生きて欲しい。
昨夜のまじないのことがちらりと頭に過ったが、ダヤはただの気休めのまじないだと思い込んだ。

手首に青い印が刻まれただけであるし、アスタの言葉に特別な力があるのなら、こんなことにはなっていないはずだ。

長く巨大な体がうねるように空に向かって伸びて行き、地上を見下ろし獲物を見つけた。
横に長い楕円の目がダヤの姿を捉え、左右に開かれた牙が獲物の大きさを計るように小刻みに動いた。

地上に向けて一気に下りてきたその頭を避けようと、ダヤは左に走り出す。
しかし足場は砂であり、砂輪虫の移動速度も思った以上のものだった。

鋭い牙がダヤの胸をかすめ、血しぶきが飛び散った。
胸に長い傷が走る。

その瞬間、ダヤの手首に刻まれた青い印が光った。
胸に開いた傷が、瞬く間に消えていく。

何が起きたのか、考える暇もなくダヤは次の攻撃に備えて走り出す。

そんなダヤを観客席から見ていたアスタが、ばたりと倒れた。
その胸には血の染みが広がっている。

「うっ……」

痛みに胸を押さえ、アスタは目を閉ざす。

「アスタ!」

ハカスは血に濡れたアスタを助け起こしながら、曲者がいると叫んだ。
しかしハカスの周辺を守っていた兵士達は戸惑ったように顔を見合わせた。

「殿下、誰もおりません。武器は?どんな武器の傷ですか?」

部下達が疑われては困ると両手を上に向け、武器を手にした者はいないと示して見せる。

「まさか、ならば誰にやられた?」

アスタの服を切り裂き、ハカスはその傷跡を確かめた。
短剣でも剣でもない。

砂輪虫の牙の形そのままに、胸に鋭く傷が刻まれている。
驚愕の表情で、ハカスは闘技場を振り返る。
ダヤは砂輪虫の攻撃をかわしながら、闘技場の中を走り回っている。

先ほど、牙がかすめたはずなのに、体には傷一つ見当たらない。
飛び散った血の跡もいつの間にか消えている。

「アスタ、一体何が起きている!」

腕に抱いたアスタを見下ろし、ハカスが叫んだ。
うっすらと目を開けたアスタは、少しだけ微笑んで見えた。

「彼が死ねば私も死ぬ。私の故郷には生涯に一度しか使えない、そんなまじない言葉があるのです。昨夜、私は彼の命と私の命を結び付けました。
彼がこれから負う傷の全ては私が引き受けることになります」

ダヤを殺すつもりで対戦相手を選んだ。
つまり、ダヤに向けた殺意はそのままアスタに向かうのだ。

「なぜ、そこまで」

命をかけた愛を見せつけられ、ハカスは絶句した。

奴隷には未来がない。
金と権力を持っている男相手に、自分の未来を賭けることは考えられても、ただの奴隷の男に、王子の寵愛を受けていながら命を捧げるなど、とても考えられることではない。

「彼は私を一度も道具として扱わなかった。妻として、最も大切な存在として傍においてくれた。彼に救われた命です。彼のために使います」

「お前を切れば、あの男も死ぬのか?」

アスタはうっすらと笑った。

「いいえ。これは一方的なもの。彼は今、私の命を盾に戦っています」

ダヤのもとに援軍を送り込むべきかハカスは迷った。
しかし王子でありながら、奴隷を助けるような真似を観衆の前で見せるわけにはいかない。

「くそっ。俺の子を殺すつもりか?」

最初から、産ませる気も無かったのに、ハカスはそんな言葉を吐いていた。
アスタの目を見れば、産む気がないことは明白だ。
夫以外の子を無理やり孕まされ、夫の命を弄ばれている。

従順に命令に従いながらも、その目は常に反抗的で苦痛と悲しみに耐えている。

ハカスはすぐにアスタを抱き上げ、王族席を離れた。
宮殿に向かいながら部下に命じ、医術師を呼ばせる。

そうしている間にも、ダヤが受けたと思われる細かい傷がアスタの全身に刻まれ、身に着けているドレスは血に染まっていく。

寝室まで戻っている暇もなく、近くの客間に飛び込み、ハカスはアスタを寝台に横たえた。
ドレスを脱がせてみれば、そのほっそりとした全身には無数の血を滲ませた傷があった。
どれも致命傷とまでいかない傷だが、それはダヤがなんとか敵の攻撃を避けているからだ。

慌ただしく連れてこられた医術師が、頭を下げて寝台に近づく。

「死なせるな。腹の子も女も助けろ」

ハカスは短くそう命じ、マントを翻すと寝室を飛び出した。

全速力で通路を駆け抜け、闘技場に引き返す。
剣闘士が出入りする頑丈な鉄の扉付近まで、観客席を飛び越え下りていく。

そこは奴隷に追加で武器を与える時、あるいは元気のなくなってきた魔獣に安全に餌を与える時に使用される場所であり、一般の観客はいない。
声を聴かれることがないよう念のため、兵士達を周囲に配置し、人の出入りを禁じるとハカスは眼下にダヤの姿を探す。

闘技場の縁には脱走防止の杭がぐるりと設置されている。
ハカスはその突き立った杭の隙間から身を乗り出し、攻撃する隙を見つけられないでいるダヤに向かって叫んだ。

「ダヤ!なんとしても勝て!お前が受けるはずの傷の全てをアスタが受けている!お前にかけられたまじないが、彼女の体を盾にしている!」

砂輪虫は体をうねらせ、天高く立ち上がり再び獲物を探し始めるところであり、ダヤも動きを止め、砂輪虫の頭が下りて来る音に耳を澄ませていた。
そこに、ハカスの声が飛び込んできたのだ。

振り返るまでの余裕はなかったが、ダヤはちらりと手首を見た。
不思議な青い印が青く光りながら浮かび上がっている。

傷を受けたと思った次の瞬間には、傷は消え、血さえも止まってしまう。
痛みもなく、おかしいとは思っていたが、深く考える余裕もなかった。

あの不思議なまじないが本物だとすれば、今日がアスタの命日となってしまう。
巨大な砂輪虫の頭が再びダヤの頭上に迫ってきた。

最初の一撃をひらりと避け、すぐに砂地に転がると、迫ってくる砂輪虫の鋭い牙を剣でつっかえ棒のようにして食い止めた。
左右の牙がダヤの体を輪切りにしようと迫ってくる。

その前に、ダヤは鋭い牙をくぐりぬけ、砂輪虫の口内に飛び込んだ。
外殻は固く、剣を突き立てることは難しい。
繋ぎ目に剣を刺したとしても致命傷にするには、武器が弱すぎる。

しかし体内に入ってしまえば、容易に心臓を貫くことが出来る。
息を止めて飛び込んだが、苦しさも痛みも感じない。

苦痛の全てはアスタが引き受けているのだ。
そうとなれば、もたもたしてはいられない。
悪臭のする狭い体内を抜けながら、ダヤは剣を肉に突き立てた。
激しくうねり、逃げ惑う砂輪虫の抵抗を体に感じるが、砂魚の舌の上で耐えた三日間に比べたら、たいしたこともない。

息が続くうちに素早く内臓を切り裂き、心臓を探す。

じわじわとにじみ出る毒液のせいで肌が焼けるような痛みを感じたが、それもすぐに消えてしまう。

汗だくになり、ダヤは懸命に砂輪虫の体に剣を突き立てた。




勝利の歓声に背を向け、ハカスは通路を戻り、アスタのいる寝室に飛び込んだ。
医術師が一人から五人に増えていた。
その周りには侍女たちの姿もあり、血だらけの包帯が桶の上に積み上げられている。

「殿下……」

医術師の一人がハカスの入室に気づき、急いで姿勢を正して頭を下げる。
他の者達がそれに従おうとするところをハカスは鋭く制した。

「俺にかまうな!アスタの容態はどうなった」

寝台を見下ろし、ハカスは息を飲んだ。
全身が火傷をしたように赤く腫れ、体中にまきつけられた包帯からは血が滲んでいる。
その顔は生気がなく、血を失い過ぎていることが一目瞭然だった。

「出血は止まっておりますが、次々に新しい症状が現れ、対処が追い付きませんでした。先ほどまで呼吸が止まっておりましたが、今、息を吹き返したところです」

全員が冷や汗を拭い、安堵の表情だった。
アスタが死んでいれば、治療に当たった全員が責任を取って処刑されていたかもしれない。

「治るのか?」

「これ以上、何も起こらなければ治ります」

老齢の医術師が断言し、他の四人も同意するように頭を下げた。

「子供は?」

「まだ流れてはいませんが、油断は出来ない状況です」

医術師達はすぐに治療を再開し、ハカスは傍に椅子を置いてその様子を見守った。
結局ダヤは内臓を突き破り、砂輪虫に勝利した。
砂輪虫の紫の血に染まって体内から飛び出したダヤの姿を見届けてすぐに、ハカスはアスタのもとに急いだのだ。

もうこれ以上の傷は負わないだろうと思った直後に、ハカスはまた椅子から立ち上がった。
牢番が奴隷を牢に入れるときに、ダヤを気まぐれに鞭打つかもしれない。
奴隷に落ち度がなくても、それぐらいの仕打ちは日常茶飯事だ。

「くそっ」

奴隷の男を大切に扱うように命じなければならないことに苛立ったが、背に腹は代えられない。
ハカスは部下を呼び、牢番のもとに走らせると、それを追って自らも奴隷用の牢に向かって歩き出した。



いつもの牢に戻されたダヤの手に、武器が戻された。
アスタのことが心配で気が狂いそうだったが、ダヤに出来ることは何もない。

次の試合に向け、いつもしているように剣の鍛錬を始めながらも、アスタとの最後のやりとりについて思いだす。

命を繋げるとは聞いたが、あのまじないが一方的なものである可能性について考えもしなかった。
ましてや実際に、傷や痛みをアスタが受け続けることになると知っていれば、断固として拒否していた。

まじないとは、心を安定させるためのちょっとした儀式というものではなかったのだ。
ダヤが奴隷になったことに、アスタは責任を感じていたのだから、よく考えればアスタの意図に気づけたかもしれない。

しかしそんなすごい力があるなら、なぜその力で自分の身を守れないのか。
自分の命より、ダヤを守ろうとしたのだとわかるだけに、ダヤはそれに気づけず、アスタに犠牲を背負わせた自分を不甲斐なく思った。

それからもっと早く、アスタの故郷について話を聞くべきだったとも後悔した。
言葉一つで傷を入れ替えることが出来るそんな人々が住む国が存在している。

ここでは珍しい水女も、故郷ではきっと餌にされることなく、安全に暮らせるに違いない。
話を聞いておけば、何か方法を考えることが出来たかもしれない。

心は乱れ、訓練にも身が入らない。
足を止め、真っすぐに突き出した剣をくるりと回し腰に戻す。

牢を見下ろす位置にある鉄扉が動き出した。
ダヤは平静を装い、ゆっくりと振り返る。

ハカスの兵士達が入ってくる。
すぐに牢番を呼びつけ、何かを命じる。

指示を受けた牢番がダヤの牢にやってきて、武器を出すようにと促した。
ダヤは素直に腰から剣を抜き、くるりと回して鉄格子の隙間から柄の部分を突き出した。

牢番が武器を取り上げ、そのまま廊下の奥に姿を消す。
鉄扉の前に立った兵士が、脇にどいて扉を開ける。

そこにハカスが入ってきた。
無言で階段を下りてくる後ろで、扉を守っていた兵士達が速やかに外に出ていく。

牢番もハカスの兵士達も消え、そこにはハカスとダヤしかいない。
通路に置かれた蝋燭の炎がゆらめき、靴音が迫る。

ハカスが牢の前で足を止めた。

昨夜のように、ダヤは服従の姿勢をとらなかった。
ただ真っすぐにその場に立ち、ハカスの出方を待った。





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