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19.作品作り
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春になり、男は騎獣を取り扱うために国に審査の申請をした。
息子は菜園作りのため、また教会に通うようになっていた。
寮や町での生活も経験したが、父親と暮らした墓地での生活の方がやはり強く記憶に残り、息子にとってそこは庭のような感覚だった。
生みの母親と暮らした数年間の記憶はあまり良いものではなかったが、日々が過ぎればそれはよくわからない感情に飲まれていく。
怒りや恐怖を覚えた瞬間もあったが、今の息子の目から見たら、女はそれほど恐ろしい存在でもなく、嫌いだというわけでもなかった。
菜園の手入れや収穫を黙ってこなし、息子がお金を無断で持っていったことも怒らなかった。
大切な袋が無くなったことも責めてこなかったし、地面に丸くなって震えて泣いていた姿は、まるで小さな子供のようだった。
普通ではないが、それが自分の母親なのだと息子は少しずつ受け入れていた。
冬の終わりに、一度母親と再び同居をするかもしれないといった話が持ち上がった。
息子が春先の菜園の準備のために教会に行った時だった。
突然、作業小屋から聞こえていた棺を作る音が止まったのだ。
息子はすぐに父親に知らせに行った。
男が教会に駆け付けた時、女はすでに神官長のロベルによって保護されていた。
過労と長年の無理がたたったため、左の腕が動かなくなったようだとロベルは説明し、男は女を引き取るべきか考えた。
息子は黙っていた。墓地を離れた直後であれば、反対したと思うが、その時はどちらでもいい気がしていた。
躊躇ったあげく、男はロベルに女が回復するまで町の家で引き取っても良いと告げた。
すると、意外なことにロベルはその必要はないときっぱりと答えた。
「私が面倒をみましょう」
息子の気持ちを考えて、ロベルが反対したのだと思い、男はロベルの前で息子に確認した。
「彼女を家に連れ帰り、看病してもいいか?」
「いいよ」
息子は答えたが、ロベルは再度「その必要はない」と告げた。
男はショックを受けた様子で黙り込み、息子の母親のために「よろしくお願いします」と頭を下げた。
夫でもなく、恋人でもない。
ただ息子を生んでくれた女性というだけの関係で、それ以上でしゃばることも出来なかった。
教会で女が新しいことを始めたと男と息子が知ったのは、男が騎獣の取り扱い許可を得るために国に申請書を出す直前のことだった。
女は墓地の家で療養しながら、ちょっとした細工品を作り始めた。
棺に刻むことなく、小さな木切れや、柔らかな石を削り、形ある芸術品に仕上げた。
そのうちの一つを、ロベルが町の露店で出品した。
たった一点しかなかったその作品は、その精巧さからすぐに人目をひき、あっという間に売れて転売されていった。
とんでもない金額で同じ物を買いたいと人が押し寄せ、女はまた一つ作った。
それは小さな木切れを刻んで作った鳥籠で、中には小鳥まで入っていた。
木の継ぎ目も無しに、ただ削りだして作られた小鳥が入った鳥籠は愛らしく、まるで眺めているだけで小鳥のさえずりが聞こえてくるようだった。
春先の大会に向けて騎士達がまたこの西の町にやってくると、その作品は話題を呼び、高貴な女性が買い求めた。
驚くような金額で売れ、女の作品を王都で売らないかと王都の商人までやってきた。
そこに欲深い女がやってきた。
女の母親であるヴィーナだった。
金の無心にやってきたヴィーナは、その話を聞きつけ、自分が町で売ると言い出した。
女は何も言わなかった。
ロベルは出入りを禁止し、出て行けと言ったが、女は細工物をヴィーナに渡した。
その様子を目にして、ロベルは複雑な表情で黙った。
金目的であっても、女の身内と呼べる存在は、もうこの母親しかいないのだ。
しかしロベルは心配だった。
仕方なく、ロベルは再び町に足を運んだ。
男は騎獣を扱うための国の審査に申し込みをした直後で、それに備えて神経質にもなっていた。
全ての個体の毒が抜けているか確認し、人に危害を加えないか何度も訓練場で確かめた。
西の郊外にある厩舎にいた男は、町を抜けてやってくるロベルの姿に驚いた。
大門近くの店に男がいなかったため、ロベルは従業員に場所を聞いて自宅の方までやってきたのだ。
「一体何が?」
やはり無関心でいることもできず、男はロベルを家に入れた。
お茶を出し、向かい合って座るとロベルは浮かない顔で切り出した。
「エリンが冬に体を壊し、小さな細工物を作り始めた話はご存じだと思いますが」
その美しい木の鳥籠の評判は、町の大門前で商売をしている男の耳にもすぐに入ってきた。
最初は女の作品だと知らず、男も見学にいったのだ。
それは教会主催の特設販売所に飾られていた。
教会の聖職者たちが冬の間に作った手仕事の品が売られており、何人もの人がその鳥籠は売らないのかと声をかけていた。
そのうち、値段を交渉する人が現れ、あっという間に値段はあがり、最終的に誰かが買っていった。
二点目が出た時、騎士達が作成者の名前を聞き、エリンの名前が出た。
作者の名前はあっという間に広まった。
男は驚いたが、エリンの腕ならば出来るだろうとも思ったのだ。
「作品が良い値段で売れるようになり、母親がやってきました」
嫌な顔をした男に同意するようにロベルも頷いた。
「ヴィーナは彼女の代わりに販売を担当するといって彼女の作品を持っていってしまうのです」
「売り上げはどうなるのです?」
「彼女が全部自分の物にしてしまうので、エリンの手元には何も残りません。あなたが……販売を担当してくださいませんか?」
「なぜ俺が……」
「ヴィーナよりは、エリンのことを考えて下さると思うからです」
エリンに拒絶されたこと、息子を傷つけられたこと、娘を売られたこと。
過去の傷がしこりとなり、男は臆病になっていた。
さらについ先日、ロベルには女の看病を申し出て、断られている。
「彼女のことは、もう抱えきれません。他を当たってください。大事な審査も控えているし、息子も母親の無関心さに傷つけられることなく、元気に過ごせています」
その時、ロベルは少し不思議な顔をした。
口を開いたのに、言葉が出なかったのだ。
一度外に発した言葉はもう元に戻せない。
それを恐れ、迷うように目を彷徨わせ、口をあわあわと動かした。
苦痛と、悲しみ、それから、戸惑い。
様々な感情を飲み込み、ロベルは全てを諦めたように肩を落とした。
「わかりました……。私がやってみましょう……」
ロベルは、男が愛ゆえに女を助けにきてくれることを願ったのだ。
しかし距離も時間も空いてしまえば、情も薄れる。
未来を見通す力もなければ、人の心を変える力もない。
どれほど思慮深くあろうとしても、ロベルには明るい未来に繋がる正解の道が見えなかった。
ロベルが去ると、男はテーブルに置いた両手を見おろし、ロベルとの会話について考え込んだ。
もし息子がいなければ迷わず、女の所に駆け付けたかもしれない。
その手に抱いた感触も、愛しさも残っている。
男の子供はいらないといわれ、産んだ息子は愛せないと告げられた。
これ以上何が出来るだろう。
子供を言い訳にして、またふられることを恐れ、女を諦めたふりをしたいだけかもしれない。
白い小袋を抱きしめて泣いた女の心に、もう少し触れることが出来たら、新しい道が開けるかもしれない。
小さな希望は心に浮かぶのに、もう無理だと心が告げていた。
無力感に打ちのめされ、男は肩を落とした。
ロベルの訪問から三日後、そんな男の心を震わせる大きな変化が訪れた。
大門に現れたのは、息を飲むほど美しい女性だった。
着ているドレスは豪華ではないが、白と青地の清楚なもので、女の雰囲気によく似合っていた。豊かな栗毛を良質な白と青の編紐で結わえ、ふんわりと縛って背中に垂らしている。
首には一目で特別なものだと分かる、手の込んだ細工の首飾りがかかっている。
その手には小さな箱を抱え、女は教会の僧侶に手を引かれて歩いてきた。
紺の聖衣をまとった僧侶が足を止め、女が店の前で棒立ちになっている男に近づいた。
「あ、あの……ロベル様から、あなたが私の作品を売ってくださると聞いて、持ってきたの。その、最初の一回目は自分でお願いしたくて。お礼と……あの、引き受けてくださり、ありがとうございます」
頬を薔薇色に染め、青みがかった灰色の瞳に男を写し、女は不思議そうに呆然とする男を見上げた。
無口で何も語らない女のあまりの変わりように、言葉を失いかけていた男はやっと口を動かした。
「エリン……本当に?君が……」
「違った?」
ロベルから、今度から作品はヴィーナではなく男が売ることになったと聞かされてきた女は、男の反応を見て、まだこの話を引き受けてくれたわけではないのだと思い、顔を赤くして逃げようとした。
その手を男は咄嗟に掴んだ。
とても棺桶を作っているとは思えないほど、か細い感触に、男はすぐに力を緩めた。
「いや、引き受けた。ロベル様から話は聞いている」
大嘘だったが、この機会を逃す気はなかった。
女が自分から歩み寄ってくれる日をずっと願っていた男は、ふわふわする気持ちを抑え込み、震える手を差し出した。
「そ、それに作品が?」
「ええ……。新しく始めたもので、その、腕が動かない間、技術が落ちないようにと作り始めて、値段がつくとは思わなかったのだけど……」
日にほとんど当たらない肌は透けるように白く、手だけが傷だらけだった。
その手に大切に抱えられた箱が男の手に渡る。
「ありがとう。売り上げは、どうでもいいの。好きに売って……。その……子供の養育にでも……」
寂しそうに微笑み、女は背を向けようとした。
「エリン!次から、取りにいっても?」
会話を繋げようと男は急いで問いかけた。
不安そうに女の目が揺れた。
「ロベル様が……運んでくれると思う……決めていないけど……」
しなやかに女は手を引き、待っている僧侶のところに戻り、一緒に門を出て行った。
その背中を見つめ、男は手元の箱を大切に抱きしめた。
そんな二人の様子を、息子も目を丸くして厩舎の陰から見つめていた。
西の厩舎から二頭の緑トカゲを連れて戻って来た息子は、見慣れぬ美女が店の前で足を止めた様子を見て、もっと近くで見ようと店の裏に回った。
父親の新しい恋人になるかもしれないとも心に過った。
店の前にいる父親のすぐ後ろに迫った時、息子の腕をウィルがひっぱり、息子を物陰に座らせた。
か細い女の声が聞こえ、父親の口から「エリン」という名前が飛び出した。
息子は驚き、美女の顔をまじまじと見つめた。
墓地にいた母親は、いつもぼさぼさの髪で、覇気のない顔つきだった。
身なりにも気を遣わず、いつも同じ男物のシャツとズボンを身につけていた。
よく見れば、確かに母親だが、別人のようだった。
不安そうな眼差しと、おどおどとした物腰は変わらないが、女性物の服を身につけた姿は初めて見たし、その表情もかなり明るくなっていた。
女がさっさと帰ると、残された父親に息子は視線を向けた。
父親は耳まで赤くして、ただ箱を抱きしめ立ち尽くしていた。
まだ恋を知らない息子にも、父親の感情は筒抜けだった。
父親はどうしてもあの女が好きなのだ。
だけど、息子のためにその恋を諦めた。
「なんだか……悪者になっているみたいだ……」
落ち込む息子の肩をウィルが軽く叩いた。
「お前が気にすることじゃない」
客が店の前で足を止めたのを見て、ウィルは急いで表に出ていったが、息子は動けなかった。
箱を抱きしめた父親は、目元を赤くしながらこそこそと裏に回って見えなくなった。
翌日、無事に騎獣の取り扱い許可証が男の手に渡り、本格的に騎獣屋を始めることになった。
信頼が失墜してからの商売で、うまくいくか不安だったが、その軒先で売られ始めた女の作品が人を呼び込んだ。
とにかく繊細な作品の数々で、薄い板を紙のように削って切り絵にしたしおりや、果実の外観の中に部屋や家具を置いた妖精の家、さらに尻尾に少年が座っている竜といった、見るだけで楽しくなるようなものばかりだった。
全て人の手仕事とは思えない精巧さで一塊の木から作られており、買えないまでも一目見たいと大勢の人が押しかけたのだ。
販売はせず、三日間それを展示し、四日目から販売を開始した。
初日は競売のような状態になり、とにかく高い値段がついた。
裕福な身なりの商人だけでなく、恋人や妻を残してきた騎士や、観戦にきた貴族の召使たちまで押しかけた。
商品の受け渡し時には、教会の印が入った小袋が使われ、まるでそこが教会の支持を得て運営されているかのような印象を人々に与えた。
国の審査も通り教会の支持もある。
人々は安心して騎獣を借り、または購入し、馬車を預けた。
数日後の朝、男は作品の売り上げを届けに教会に行くと息子に告げた。
緊張した面持ちで、新品のシャツに袖を通し始めた父親の姿を息子が朝食を食べながら見上げていた。
教会に行く前から顔を赤くし、髭の剃り残しを気にしている。
大きく深呼吸し、馬に乗って行こうとする男に息子が不満げな声をあげた。
「馬は高価だから私用では使っちゃだめだと教わったけど?」
湯気が出そうなほど赤くなった父親は、財布を胸元のポケットに入れ、もっともらしく背筋を伸ばした。
「これは乗馬用じゃない。荷馬用に今日店に出すつもりだ。ついでに乗っていくだけだ。お前も早く支度をしろ」
照れ隠しをするように、少し怖い声を出した男は大きく深呼吸をすると、やっと出ていこうとしたが、また戻って来て鏡の前で今度は髪形を気にし始めた。
息子はその様子を見ながら、皿の上の最後のパンを口に放り込んだ。
息子は菜園作りのため、また教会に通うようになっていた。
寮や町での生活も経験したが、父親と暮らした墓地での生活の方がやはり強く記憶に残り、息子にとってそこは庭のような感覚だった。
生みの母親と暮らした数年間の記憶はあまり良いものではなかったが、日々が過ぎればそれはよくわからない感情に飲まれていく。
怒りや恐怖を覚えた瞬間もあったが、今の息子の目から見たら、女はそれほど恐ろしい存在でもなく、嫌いだというわけでもなかった。
菜園の手入れや収穫を黙ってこなし、息子がお金を無断で持っていったことも怒らなかった。
大切な袋が無くなったことも責めてこなかったし、地面に丸くなって震えて泣いていた姿は、まるで小さな子供のようだった。
普通ではないが、それが自分の母親なのだと息子は少しずつ受け入れていた。
冬の終わりに、一度母親と再び同居をするかもしれないといった話が持ち上がった。
息子が春先の菜園の準備のために教会に行った時だった。
突然、作業小屋から聞こえていた棺を作る音が止まったのだ。
息子はすぐに父親に知らせに行った。
男が教会に駆け付けた時、女はすでに神官長のロベルによって保護されていた。
過労と長年の無理がたたったため、左の腕が動かなくなったようだとロベルは説明し、男は女を引き取るべきか考えた。
息子は黙っていた。墓地を離れた直後であれば、反対したと思うが、その時はどちらでもいい気がしていた。
躊躇ったあげく、男はロベルに女が回復するまで町の家で引き取っても良いと告げた。
すると、意外なことにロベルはその必要はないときっぱりと答えた。
「私が面倒をみましょう」
息子の気持ちを考えて、ロベルが反対したのだと思い、男はロベルの前で息子に確認した。
「彼女を家に連れ帰り、看病してもいいか?」
「いいよ」
息子は答えたが、ロベルは再度「その必要はない」と告げた。
男はショックを受けた様子で黙り込み、息子の母親のために「よろしくお願いします」と頭を下げた。
夫でもなく、恋人でもない。
ただ息子を生んでくれた女性というだけの関係で、それ以上でしゃばることも出来なかった。
教会で女が新しいことを始めたと男と息子が知ったのは、男が騎獣の取り扱い許可を得るために国に申請書を出す直前のことだった。
女は墓地の家で療養しながら、ちょっとした細工品を作り始めた。
棺に刻むことなく、小さな木切れや、柔らかな石を削り、形ある芸術品に仕上げた。
そのうちの一つを、ロベルが町の露店で出品した。
たった一点しかなかったその作品は、その精巧さからすぐに人目をひき、あっという間に売れて転売されていった。
とんでもない金額で同じ物を買いたいと人が押し寄せ、女はまた一つ作った。
それは小さな木切れを刻んで作った鳥籠で、中には小鳥まで入っていた。
木の継ぎ目も無しに、ただ削りだして作られた小鳥が入った鳥籠は愛らしく、まるで眺めているだけで小鳥のさえずりが聞こえてくるようだった。
春先の大会に向けて騎士達がまたこの西の町にやってくると、その作品は話題を呼び、高貴な女性が買い求めた。
驚くような金額で売れ、女の作品を王都で売らないかと王都の商人までやってきた。
そこに欲深い女がやってきた。
女の母親であるヴィーナだった。
金の無心にやってきたヴィーナは、その話を聞きつけ、自分が町で売ると言い出した。
女は何も言わなかった。
ロベルは出入りを禁止し、出て行けと言ったが、女は細工物をヴィーナに渡した。
その様子を目にして、ロベルは複雑な表情で黙った。
金目的であっても、女の身内と呼べる存在は、もうこの母親しかいないのだ。
しかしロベルは心配だった。
仕方なく、ロベルは再び町に足を運んだ。
男は騎獣を扱うための国の審査に申し込みをした直後で、それに備えて神経質にもなっていた。
全ての個体の毒が抜けているか確認し、人に危害を加えないか何度も訓練場で確かめた。
西の郊外にある厩舎にいた男は、町を抜けてやってくるロベルの姿に驚いた。
大門近くの店に男がいなかったため、ロベルは従業員に場所を聞いて自宅の方までやってきたのだ。
「一体何が?」
やはり無関心でいることもできず、男はロベルを家に入れた。
お茶を出し、向かい合って座るとロベルは浮かない顔で切り出した。
「エリンが冬に体を壊し、小さな細工物を作り始めた話はご存じだと思いますが」
その美しい木の鳥籠の評判は、町の大門前で商売をしている男の耳にもすぐに入ってきた。
最初は女の作品だと知らず、男も見学にいったのだ。
それは教会主催の特設販売所に飾られていた。
教会の聖職者たちが冬の間に作った手仕事の品が売られており、何人もの人がその鳥籠は売らないのかと声をかけていた。
そのうち、値段を交渉する人が現れ、あっという間に値段はあがり、最終的に誰かが買っていった。
二点目が出た時、騎士達が作成者の名前を聞き、エリンの名前が出た。
作者の名前はあっという間に広まった。
男は驚いたが、エリンの腕ならば出来るだろうとも思ったのだ。
「作品が良い値段で売れるようになり、母親がやってきました」
嫌な顔をした男に同意するようにロベルも頷いた。
「ヴィーナは彼女の代わりに販売を担当するといって彼女の作品を持っていってしまうのです」
「売り上げはどうなるのです?」
「彼女が全部自分の物にしてしまうので、エリンの手元には何も残りません。あなたが……販売を担当してくださいませんか?」
「なぜ俺が……」
「ヴィーナよりは、エリンのことを考えて下さると思うからです」
エリンに拒絶されたこと、息子を傷つけられたこと、娘を売られたこと。
過去の傷がしこりとなり、男は臆病になっていた。
さらについ先日、ロベルには女の看病を申し出て、断られている。
「彼女のことは、もう抱えきれません。他を当たってください。大事な審査も控えているし、息子も母親の無関心さに傷つけられることなく、元気に過ごせています」
その時、ロベルは少し不思議な顔をした。
口を開いたのに、言葉が出なかったのだ。
一度外に発した言葉はもう元に戻せない。
それを恐れ、迷うように目を彷徨わせ、口をあわあわと動かした。
苦痛と、悲しみ、それから、戸惑い。
様々な感情を飲み込み、ロベルは全てを諦めたように肩を落とした。
「わかりました……。私がやってみましょう……」
ロベルは、男が愛ゆえに女を助けにきてくれることを願ったのだ。
しかし距離も時間も空いてしまえば、情も薄れる。
未来を見通す力もなければ、人の心を変える力もない。
どれほど思慮深くあろうとしても、ロベルには明るい未来に繋がる正解の道が見えなかった。
ロベルが去ると、男はテーブルに置いた両手を見おろし、ロベルとの会話について考え込んだ。
もし息子がいなければ迷わず、女の所に駆け付けたかもしれない。
その手に抱いた感触も、愛しさも残っている。
男の子供はいらないといわれ、産んだ息子は愛せないと告げられた。
これ以上何が出来るだろう。
子供を言い訳にして、またふられることを恐れ、女を諦めたふりをしたいだけかもしれない。
白い小袋を抱きしめて泣いた女の心に、もう少し触れることが出来たら、新しい道が開けるかもしれない。
小さな希望は心に浮かぶのに、もう無理だと心が告げていた。
無力感に打ちのめされ、男は肩を落とした。
ロベルの訪問から三日後、そんな男の心を震わせる大きな変化が訪れた。
大門に現れたのは、息を飲むほど美しい女性だった。
着ているドレスは豪華ではないが、白と青地の清楚なもので、女の雰囲気によく似合っていた。豊かな栗毛を良質な白と青の編紐で結わえ、ふんわりと縛って背中に垂らしている。
首には一目で特別なものだと分かる、手の込んだ細工の首飾りがかかっている。
その手には小さな箱を抱え、女は教会の僧侶に手を引かれて歩いてきた。
紺の聖衣をまとった僧侶が足を止め、女が店の前で棒立ちになっている男に近づいた。
「あ、あの……ロベル様から、あなたが私の作品を売ってくださると聞いて、持ってきたの。その、最初の一回目は自分でお願いしたくて。お礼と……あの、引き受けてくださり、ありがとうございます」
頬を薔薇色に染め、青みがかった灰色の瞳に男を写し、女は不思議そうに呆然とする男を見上げた。
無口で何も語らない女のあまりの変わりように、言葉を失いかけていた男はやっと口を動かした。
「エリン……本当に?君が……」
「違った?」
ロベルから、今度から作品はヴィーナではなく男が売ることになったと聞かされてきた女は、男の反応を見て、まだこの話を引き受けてくれたわけではないのだと思い、顔を赤くして逃げようとした。
その手を男は咄嗟に掴んだ。
とても棺桶を作っているとは思えないほど、か細い感触に、男はすぐに力を緩めた。
「いや、引き受けた。ロベル様から話は聞いている」
大嘘だったが、この機会を逃す気はなかった。
女が自分から歩み寄ってくれる日をずっと願っていた男は、ふわふわする気持ちを抑え込み、震える手を差し出した。
「そ、それに作品が?」
「ええ……。新しく始めたもので、その、腕が動かない間、技術が落ちないようにと作り始めて、値段がつくとは思わなかったのだけど……」
日にほとんど当たらない肌は透けるように白く、手だけが傷だらけだった。
その手に大切に抱えられた箱が男の手に渡る。
「ありがとう。売り上げは、どうでもいいの。好きに売って……。その……子供の養育にでも……」
寂しそうに微笑み、女は背を向けようとした。
「エリン!次から、取りにいっても?」
会話を繋げようと男は急いで問いかけた。
不安そうに女の目が揺れた。
「ロベル様が……運んでくれると思う……決めていないけど……」
しなやかに女は手を引き、待っている僧侶のところに戻り、一緒に門を出て行った。
その背中を見つめ、男は手元の箱を大切に抱きしめた。
そんな二人の様子を、息子も目を丸くして厩舎の陰から見つめていた。
西の厩舎から二頭の緑トカゲを連れて戻って来た息子は、見慣れぬ美女が店の前で足を止めた様子を見て、もっと近くで見ようと店の裏に回った。
父親の新しい恋人になるかもしれないとも心に過った。
店の前にいる父親のすぐ後ろに迫った時、息子の腕をウィルがひっぱり、息子を物陰に座らせた。
か細い女の声が聞こえ、父親の口から「エリン」という名前が飛び出した。
息子は驚き、美女の顔をまじまじと見つめた。
墓地にいた母親は、いつもぼさぼさの髪で、覇気のない顔つきだった。
身なりにも気を遣わず、いつも同じ男物のシャツとズボンを身につけていた。
よく見れば、確かに母親だが、別人のようだった。
不安そうな眼差しと、おどおどとした物腰は変わらないが、女性物の服を身につけた姿は初めて見たし、その表情もかなり明るくなっていた。
女がさっさと帰ると、残された父親に息子は視線を向けた。
父親は耳まで赤くして、ただ箱を抱きしめ立ち尽くしていた。
まだ恋を知らない息子にも、父親の感情は筒抜けだった。
父親はどうしてもあの女が好きなのだ。
だけど、息子のためにその恋を諦めた。
「なんだか……悪者になっているみたいだ……」
落ち込む息子の肩をウィルが軽く叩いた。
「お前が気にすることじゃない」
客が店の前で足を止めたのを見て、ウィルは急いで表に出ていったが、息子は動けなかった。
箱を抱きしめた父親は、目元を赤くしながらこそこそと裏に回って見えなくなった。
翌日、無事に騎獣の取り扱い許可証が男の手に渡り、本格的に騎獣屋を始めることになった。
信頼が失墜してからの商売で、うまくいくか不安だったが、その軒先で売られ始めた女の作品が人を呼び込んだ。
とにかく繊細な作品の数々で、薄い板を紙のように削って切り絵にしたしおりや、果実の外観の中に部屋や家具を置いた妖精の家、さらに尻尾に少年が座っている竜といった、見るだけで楽しくなるようなものばかりだった。
全て人の手仕事とは思えない精巧さで一塊の木から作られており、買えないまでも一目見たいと大勢の人が押しかけたのだ。
販売はせず、三日間それを展示し、四日目から販売を開始した。
初日は競売のような状態になり、とにかく高い値段がついた。
裕福な身なりの商人だけでなく、恋人や妻を残してきた騎士や、観戦にきた貴族の召使たちまで押しかけた。
商品の受け渡し時には、教会の印が入った小袋が使われ、まるでそこが教会の支持を得て運営されているかのような印象を人々に与えた。
国の審査も通り教会の支持もある。
人々は安心して騎獣を借り、または購入し、馬車を預けた。
数日後の朝、男は作品の売り上げを届けに教会に行くと息子に告げた。
緊張した面持ちで、新品のシャツに袖を通し始めた父親の姿を息子が朝食を食べながら見上げていた。
教会に行く前から顔を赤くし、髭の剃り残しを気にしている。
大きく深呼吸し、馬に乗って行こうとする男に息子が不満げな声をあげた。
「馬は高価だから私用では使っちゃだめだと教わったけど?」
湯気が出そうなほど赤くなった父親は、財布を胸元のポケットに入れ、もっともらしく背筋を伸ばした。
「これは乗馬用じゃない。荷馬用に今日店に出すつもりだ。ついでに乗っていくだけだ。お前も早く支度をしろ」
照れ隠しをするように、少し怖い声を出した男は大きく深呼吸をすると、やっと出ていこうとしたが、また戻って来て鏡の前で今度は髪形を気にし始めた。
息子はその様子を見ながら、皿の上の最後のパンを口に放り込んだ。
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