聖なる衣

丸井竹

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18.心の一端

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 泣くほど悲しむのならば、なぜ娘を手放したのか、なぜ男を頼らなかったのか。
なぜ愛はないようなふりをし続けるのか。
疑問だらけだったが、女の心の一端に触れ、男は何か大きなものを見落としているような気がしていた。

土を踏む足音に、男は振り返った。
小屋から出てきた息子が、上目遣いでおどおどと立っていた。

父親の責めるような眼差しを受け、息子は唾を飲み込み、もう一歩前に出た。

「ご……ごめんなさい。勝手に持って行ってしまって……」

「俺が、時々あそこにある金を使っていたから、良いと思ったのだ。仕事が少しうまくいかなくなったから」

息子を庇うような発言を男は被せた。
途端に、女はぴたりと泣き止み、くるりと振り返ると二人の横を通り過ぎ家に戻って行った。
それをまた追いかけた男の前に、奥から戻ってきた女が何かを押し付けた。

重たい感触に、男は手元を確認した。
袋に相当な金額が入っている。

「使わないから……あげる。これで、もうここにはお金はない。欲しいものがあるなら全部持っていって良い」

墓を出ない女にお金は必要ない。この世界の楽しみの全てを排除したようなそんな生活を十年以上も送っているのだ。
息子は女の声を初めて聴いて驚いていた。

ぼさぼさの髪で男物のシャツやズボンばかり着ているから気づかなかったが、それは思ったよりも若い女性の声だった。
か細く、いまにも折れてしまいそうな弱々しい印象だった。

息子は、父親が手元の金を抱え、俯いているその横顔を後ろから覗き見た。
思いつめたような暗い眼差しで何かを堪えるように奥歯を噛みしめている。
女は奥に消え、扉の音が聞こえたと思うと、しばらくして隣の作業小屋に灯りが入った。

心を鎮めるかのように棺を削る音が真夜中の墓地に響きだした。
女の心に触れることが出来たのは一瞬で、垣間見えたその姿はあまりにも物悲しいものだった。

「前に話しただろう?俺がお前を彼女から引き離したと」

男はおもむろに話だし、息子は耳を傾けた。

「同意も得ず、彼女に二人も子供を産ませた」

二人と聞いて息子は驚いた。

「俺は、それを手助けしなかった。お腹が大きくなって苦しい時期もあったし、きっと食欲がない時だってあった。仕事をするのが大変な時期だってあっただろう。全てを一人で乗り越え、痛みに耐えて子供を産んだ。俺は何もしなかったし、傍にもいなかった。
一人では育てられず、彼女は子供を手放した。
お前のことも、彼女が育てられないと判断され、一時、乳児院の預かりになっていた。
あの小袋は、娘を手放した時に彼女が受け取ったものだ。
たった一つの、娘のいた証だ。
俺が、町の女と結婚し、妻を気遣っている間に一人で産んだ。その結末は知っているだろう?
俺の子供を産もうと苦しんでいた彼女を放置して、他人の子を大切に育てた。
子供には罪がないし、フェミリアは可愛く、俺はそれでも家族であろうとしたが……。
彼女には何もしなかった。労わることさえ、優しい言葉も、愛も伝えなかった。
そして、彼女が命がけでこの世に残したものを俺が全て取り上げた。
俺は……今、そんな気持ちだ。ルカ……彼女を嫌うようなことだけはしないでくれ。
愛を拒まれた俺には、もう彼女の犠牲に払えるものは何もない」

金も、子供も、穏やかな暮らしさえ女には残っていない。
あるのは、日々の仕事だけだ。
棺を削る音がまるで泣いているかのように聞こえてくる。

「父さんは……あの人が好きなの?」

素朴な疑問だった。

「長い時間をかけて……それに気づいたが……一番大切なのはお前だ、ルカ。お前を生んでくれた彼女に感謝をしているし、好きだと思っているが……」

男の愛は受け取ってもらえなかった。
そう男は感じていた。

「お前を傷つける女性は傍には置けない。彼女は子供を愛せない」

愛せないわけではないのだろうが、その心は外に向かない。
子供は親を選べないのだから、最優先で守らなければならないのは子供の方だ。
男は黙り込み、女と出会ってからの十年の歳月を考えた。
最初から無口だったが、その心は頑なに閉ざされていた。

「彼女は母親に愛されたことがない。きっと愛し方を知らないのだ」

ヴィーナを思い出し、男は諦めたように締めくくった。

二人は家に入り、女がひっくり返し、散らかしたものを出来る限り片付けた。
食器のほとんどは割れ、木製の皿ばかりが残った。
小袋を探していたというよりも、感情のままに全てを破壊してしまったといった様子だった。

そんな痕跡を男は不思議なことに愛おしく感じた。
家の荒れ具合は、どんなに恋焦がれても触れることのできなかった、女の心の表れなのだ。

割れた皿を拾い上げ、男はそれを抱きしめたくなった。
悲しみと、苦しみを外に吐き出した彼女の気持ちがそこにある。
その背中を抱きしめ、慰めることがなぜ出来ないのか、男はそれがわからず苦しんだ。

息子は複雑な気持ちだった。
子供を失う痛みはまだよくわからない。ただ、妹がいたのに、今はいないという事実は少し悲しかった。
自分は父親に愛され、守られているのに、妹はどこにいるのかわからないし、実の父親に抱きしめてもらうこともないのだ。
自分ばかりが恵まれている現状に、息子は初めて少し気が付いた。

子供が親に愛され、守られることを当たり前のように思ってきたが、それは少しも当たり前ではなかった。

家が片付くと、男は裏庭に出て菜園を確かめた。
収穫されたものは箱に入れられ、やはり底の方のものは萎びている。
女は自分のために育て、収穫しているわけではないのだ。

男と息子のためなのか、それとも何か他の考えがあるのか、男にはわからなかった。

棺を作る音を後ろに聞きながら、二人は墓地を去った。


 男は女にもらった大金で高価な馬を購入し、それを高値で売るとさらに利益を増やした。
来年に向け、仲間達の協力を得て新たな牧場で緑トカゲの調教を始めた。
大会のおかげで町は潤い、乗合馬車に護衛を雇ったことで長距離客の確保に繋がり、収入もまた安定し始めた。
息子に不安を与えない暮らしが出来るようになったことに男は安堵したが、女に感謝を伝える術は思いつかなかった。


 夏も盛りを終えた頃、男は一人で酒場に立ち寄った。
郊外に近い、地元の人間しかいかないような小さな店だった。
接待女がふらりとやってきて、男のテーブルについた。

そういうものはいらないと、男は手を振ろうとしたが、目の前に座った女の顔に見覚えがあった。
険しい表情をした男に、接待女は赤い口紅を舐めながら笑った。

「覚えている?私のこと」

酒場を出ようかと男は考えたが、ちょうどそこに酒が運ばれてきた。
なみなみと注がれた酒に、サービスの小皿がついている。
不機嫌な顔で、男はグラスに口を付けた。

「離れてくれ、ヴィーナ」

それは、一度墓に押しかけて来たことがあるエリンの母親だった。
男はグラスを置くと、ヴィーナを追い払おうとした。
どうせ狙いは金だろうと、男は小銭をテーブルに置いた。
ヴィーナはそれにちらりと視線を向けたが、取ろうとはしなかった。

「あんた、あの子から逃げ出したのね。あの子の正体がやっとわかったの?」

男を寝取られたと浅ましく騒いでいたヴィーナの姿を思い出し、またもや男は嫌な顔をした。

「あの子はね……」

嫌らしい笑みが引っ込み、不意に、ヴィーナは遠くをみるような暗い目つきになった。

「自慢の可愛い娘だったのよ……」

思いがけない発言に、男は黙ってヴィーナを見つめた。

「夫が目に入れても痛くないほど可愛がった。あの子は覚えていないかもしれないけど、あの子は良く笑って、おひさまみたいだった。花を摘んでくれたり、踊ってみせてくれたり、きらきらして真っ白で、本当に宝石みたいだった……」

一筋の涙がヴィーナの頬を伝って落ちた。

「夫が死んで、何もかもが真っ黒になった。笑っていたあの子の顔はいつも暗く沈んでいた。
墓の男が私達を助けてくれた。あの子は笑うようになって、可愛い声で歌を歌った。
墓の男なんて好きじゃなかった。ただ、助けてほしかっただけよ。何もかも失って、まだ私は若くてきれいだったのに、娘を連れて再婚だって難しい。
町で華やかに暮らしたかった。自慢の夫ときらきらした宝石みたいな娘、元の生活が欲しかった。取り戻したかっただけよ。なのに、あの人が大切にしたものを壊された。
あんたは癪に障る。偉そうで、間違いを犯さない。子供を守るために鞭を受け、財産を投げうったそうね。ご立派な話を耳にして吐き気がしたわ。
お前だって、あの子を壊した男の一人じゃない。壊して傷つけて見捨てたのよ。
あんたの正しさだって人を傷つけている。全然立派なんかじゃないわ。
あの子がずっと憎かったけど、あんたの方が今は憎い。
あんたは悪魔で鬼畜よ。人の物に傷をつけ汚して捨てたんだから!」

淡々と語っていたヴィーナは突然激高し、たちあがった。
酒場の空気がしんと静まった。

ぴたりと口を閉じ、ヴィーナはまるで地獄の底をみるように男を見おろした。
どこか正気を失ったような恐ろしい表情で、ヴィーナは微笑んだ。

「金をもらっても、あんたの相手なんて御免だわ」

手のひらでテーブルを力いっぱい叩きつけ、ヴィーナは男を睨みつけると、ふらりと背を向け酒場を出て行った。
グラスになみなみと注がれていた酒は、テーブルを叩かれた衝撃でかなりの量が飛び散ってこぼれていた。置いた小銭が跳ね上がり回転すると、ちゃりんと音を立てて動きを止めた。

酒場の人間が腰を下げて近づいてきてテーブルを拭き、小銭を戻し、新たなグラスを置いた。
地元の客を頼りに細々と商売をするこの店の店主は、小さな声で男に謝った。

「すみません。たまに変な女が来て客を取ろうとするんです。これは店のおごりです」

男はグラスを握りしめ、店主の好意に軽く頭を下げた。


 秋がきて、冬がきた。
男が町におりてあっという間に一年が過ぎた。
騎士達が去った夏からもなんとか商売は続き、馬を増やしてやめてもらった従業員に戻って来てもらうことが出来た。
菜園の収穫物をルカが運び、市場で売った。
世話をする女と顔を合わせないようにルカは気を付けた。


 雪に閉ざされ、半日が休業状態になると、男は息子に内緒で墓に足を運んだ。
女の住む家に近づき、棺桶を作る音が聞こえてくると足を止め、その音に耳を傾けた。
ある日、そこにロベルが現れた。

ロベルは男に深々と頭を下げ、男に近づいた。

「顔を見てはいかないのですか?」

「彼女は喜ばないでしょう……」

男の返答に、ロベルはなんともいえない複雑な表情をした。

「そうかもしれません。でも……あなたにしか彼女は救えない。私にはそう思えてならないいのです……。私たちは皆、過ちを犯す。それでも過去に戻ることはできない。
起きてしまった悲劇を乗り越えて明るい未来を掴む人もいます。教会の奥にある女性のための棟には今、一人だけ入っています。頼る者のいない若い女性です。
あなたは、彼女を救うべきだと思いますか?それとも子供を?」

「子供です。子供は親を選べない」

「女性にも選べない運命があったとしたら、どうしますか?望まれない子供を産むのは彼女の罪ですか?」

「子供は世話が無ければ生きていけない」

「そうですね……ならば、大人になった救われなかった子供は……見捨てられなければなりませんね」

背を向け、ロベルは去った。
男にもわかっていた。
棺を黙々と作り続ける女は、まだ若く、子供を産むには相応しい年齢ではなかったのかもしれない。
子供を産んだ途端に親になり、守ってもらえない存在になった。
二人は抱えきれない。自分の子供を守る以外に道はない。

両親に愛を注がれて育てられた男は、同じものを子供に与えたいと望んでしまう。
何かが間違えている気がするが、それはもうわからない。
目の前の生活と、日々成長する息子を見守るだけで精いっぱいだ。

女は母親として金を出した。それに菜園の世話もしてくれた。
望まぬ子どもを二人も生んで、最低限の義務も果たしている。
これ以上は何も要求は出来ないし、何か欲しいものがあるのなら恩を返したいが、言葉を交わせなければわからない。

白い息を吐きながら、男は灯りの漏れる作業小屋の窓をしばらくの間見つめていた。

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