蟲公主と金色の蝶

沖田弥子

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第三章

翡翠の謎 2

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「その……後宮で拾ったのです。昨夜……」
「昨夜? 賊が出たと報告がありましたが、結蘭さまは夜中に出歩いて何をしておいでだったのです?」

 逆に詰問されてしまい答えに窮する。黒狼に助け舟を求めようとちらりと見遣ると、彼は新月の袖口に視線を注いでいた。

「昨夜、俺は賊と斬り合い、手負いを負わせた。手首を斬りつけたときに珠鐶が落ちた」
「ほう。それで?」
「その血は貴様の血じゃないのか」

 不遜な物言いに、結蘭は内心慌てた。黒狼は禁軍の校尉であり、光禄勲は上官なのだ。皇帝の右腕を賊と決めつけては官位剥奪や投獄も免れない。

「違います」

 涼しい顔で即答する新月に、黒狼は追い討ちをかける。

「手首を見せろ。俺が斬った傷があるはずだ」

 上衣の袖は、手首をすっぽりと覆っていた。玲瓏な双眸をすっと眇め、新月は薄い笑みを浮かべる。

「私をお疑いのようですね」
「当然だ」
「もし傷がない場合、黒狼校尉を不敬罪で投獄しなければなりません。それでも見たいですか?」
「さっさと見せろ」

 官房付きの衛士が剣柄に手を掛け、一歩踏み出した。結蘭は堪らず間に割って入る。

「やめて、黒狼! 新月さま、申し訳ありません。どうか、ご容赦を」

 土下座しようと床に膝を着くと、それを避けるように新月は椅子から立ち上がった。血の付いたままの珠鐶を、するりと手首に嵌める。

「構いません。では、外朝へ出向く時刻ですので、これで」

 衛士の前を通り過ぎ、新月は副官を伴って官房から出ていった。



 朝陽が目に痛い。軍府から続く石畳に濃い影を落とす強烈な陽射しでも、気まずい空気が漂うのを拭えない。
 結局、賊が新月なのか確証は得られなかった。

「あいつに決まっている」

 朝から不機嫌が持続したままの黒狼は断定する。しかし、珠鐶だけで決めつけるのは性急ではないだろうか。
 結蘭は昨夜の様子を、ゆっくりと脳裏に呼び起こした。
 賊は全員、黒装束を纏い黒頭巾で顔を覆っていた。台車を引いていた者たちは屈強だが、黒狼と戦った賊は幾分華奢だったように思う。

「賊の剣は何だったか覚えてる?」
「倭刀だ。新月のも倭刀だ」
「まったく同じ剣かな?」
「それは並べてみないとわからない」

 同一の剣は並べることができないんですけどね。
 華奢な身体、倭刀。何から何まで新月が賊であると物語っているように思えてくる。

「戦ってみた感じはどうだった? 新月さまと太刀筋は似てるの?」

 意外なことに、黒狼は首を捻った。

「わからない。新月は誰とも手合わせしたことがないからな」
「え? だって、訓練に顔を出すでしょ?」
「いつも見ているだけだ」

 光禄勲となれば兵の育成は師範任せだろうが、剣士ならば鍛錬を積まないということは有り得ない。
黒狼は思い出すように間を置いた。

「あの賊は正式な構えだった。その辺の侠客崩れとは違う。どこかで習っているな。だが青い。人を斬ることに躊躇いがある」
「新月さまの剣は、そういう剣なのかしら?」
「あいつに決まっている」

 堂々巡りに落ち着いたところで、後宮に続く門へ到着する。黒狼はこれから兵営に向かうため、そこで別れる。

「気になることがあるの。夕餉の前に、もう一度出かけよう」

 黒衣の背に呼びかけると、了承代わりに軽く手が挙がった。
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