蟲公主と金色の蝶

沖田弥子

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第三章

翡翠の謎 1

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 車輪は呻りを上げる。
 息を、詰めた。

「結蘭!」

 気を取られた黒狼に隙が生じた。男は大きく振り被り、渾身の一撃を食らわせる。
 台車に跳ね飛ばされる寸前、結蘭は跳んだ。
 永遠のような一瞬の後、剣が石畳を打つ乾いた音が響く。
 月明かりを浴びた双手剣は、黒狼の姿と共に、燦然と刀身を煌めかせた。男は手首を押さえてよろめく。血の匂いが辺りに立ち込めた。

「結蘭、しっかりしろ!」
「平気。掌を擦っただけ」

 駆け寄った黒狼に抱き起こされる。
 転んだだけで済んで幸いだった。黒狼にも怪我はないようだ。もちろん彼の剣の腕は信頼しているのだけれど。結蘭は、ふうと息をついた。
 その隙に男は叩き落された剣を素早く拾い、闇のなかに消えた。
 裏路は静寂に包まれる。一連の出来事が夢ではないと、路に滴る血痕が教えていた。

「ん? あれは……」

 仄かに輝くそれを、結蘭は拾い上げた。翡翠の珠鐶には、真新しい血飛沫が付着している。

「これは、新月さまの珠鐶?」

 まさかという驚きに顔を上げる。
 永寧宮の門扉からこちらの様子を窺っていた女官は、目が合うと姿を隠す。裏路の先にある永寧宮は、台車がやってきた方角だった。
 結蘭は月明かりに鈍く光る珠鐶を布に包むと、剣を鞘に収めた黒狼と共にその場を後にした。



 翌朝、重い瞼を擦りながら深夜に外出した咎を朱里に説教された結蘭は、大きく伸びをする。
 朝餉の膳を下げる朱里の後姿を見送り、ようやくお説教から解放されたと一息ついたのも束の間。

「だから俺だけ行くと言ったんだ。奇跡的に軽傷で済んだから良かったものの、何かあったらどうするつもりだ」

 お説教第二陣の開幕に、結蘭はうんざりと肘掛に凭れた。普段は無口なくせに、こんなときだけ饒舌になるのはやめてほしいんですけど。
 怒りの冷めやらぬ黒狼は延々と、いかに結蘭の身が大事かと説く。頃合を見計らって、結蘭は神妙に頷いた。

「わかった。今後は自重するね」
「何がわかったんだ。まったくわかっていないだろう。そもそもな……」
「それより、問題はこれじゃない?」

 果てなく続きそうな説教を打ち切るべく、白布に包んだ翡翠の珠鐶を取り出す。
 陽射しの元に翳して改めて眺める。やはり、以前兵営で目にした新月の手首を飾っていたものと同一の細工だ。高価な代物なので同じものはふたつとないだろう。

「あの人は、まさか新月さまだったのかしら?」
「まさかも何もない。珠鐶が奴のものなら、そうなんだろう」

 光禄勲を奴呼ばわりとは、黒狼は新月を相当嫌っているらしい。
 あの慇懃な麗人が賊だなんて到底思えない。仮にそうだとしても、何か理由があるのではないだろうか。

「行くぞ」

 黒狼は刀を押さえて立ち上がった。

「どこへ?」
「軍府に決まってる」
「どうして?」

 もしや新月に直接問い質すつもりなのか。眉をひそめた結蘭の推測は的中した。

「さっさと奴に返せ。珠鐶を物憂げに眺められると苛々する」

 吐き捨てる黒狼の後ろから、肩を竦めて結蘭は付いていった。



 軍府の官房へ案内されると、新月はすぐに入室してきた。

「おはようございます、結蘭公主。何かありましたか?」

 外朝での拝謁はこれから始まるというのに、新月は嫌な顔ひとつせず出迎えて椅子を勧めてくれる。爽やかな微笑には、昨夜凶行を演じた影は見当たらない。

「朝早くから訪ねて申し訳ありません。実は、これを……」

 卓に布から取り出した珠鐶を乗せる。血糊の付いた翡翠は禍々しくも荘厳な存在感を示している。
 新月はわずかに目を瞠った。

「これは私の珠鐶です。失くしたと思い、探していました。どこで見つけたのですか?」

 思わず黒狼と顔を見合わせてしまう。さすがに賊が落としたとは言い辛い。
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