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3章:
侵入者 1
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倉庫の前で待ち構えていたのは、おでこにガーゼを貼り付けたアレックスだった。どうやらここへ向かう途中、キアンが魔術を使ってアレックスに連絡をしていたらしい。
到着するや否や、私はキアンに抱えられたまま奥の工房部分へと連行され、大きな作業台に乗せられた。
「時間はどれくらい経ってる?」
「あれを追い払った後すぐにお前に情報を伝送したから、そうだな……5分もかかっていないと思う」
「なるほど。それならまだ手がかりが残っているかもしれないが、たぶん私の目だけでは無理だ。測定器は?」
「確かいつもの棚に――いや待て、そう言えば昨日簡易テストをする前に使ったから……」
深刻な様子でやり取りをする2人。リュカはちゃんと寝たのかを聞こうと思っていたけれど、口を挟める雰囲気ではなさそうだ。手持無沙汰になった私は仕方なく、作業台の上に座ったまま首だけを動かしてあたりをぐるりと見渡した。
レンガ造りの壁に張り付く形で設置された四角い大きな鉄製の箱が、低い音で唸っている。スチームビークルから聞こえていたものと同じ種類の音だけれど、あれよりはずいぶん静かだ。そこから突き出した幾本ものパイプは壁伝いに張り巡らされ、そのほとんどがこの部屋の外へとつながっているようだった。
横に倒したミルク缶のようなものから飛び出す長いゴムチューブが、蛇みたいに床にとぐろを巻いている様子、その近くに無造作に散らばる工具や大小さまざまな何かの部品、棚に適当に並べられた形の不揃いなオイル缶らしきもの。ここで目にする何もかもが私が見たことがないものばかりなこと、そして何より、この室内にあるものを、今が夜であるにも関わらずすべてはっきり視認できるくらいの強い灯りに、私は驚きを隠せなかった。光源は、天井からぶら下がっているいくつかの大きな傘みたいなものだということは分かったけれど、光の強さや色合いはガス灯とはまるで違っていて、その正体が何なのかはさっぱり見当もつかなかった。
「ニナ、痛みはどうだ?」
「え、あ、えーと……痛いっちゃ痛いけど、我慢できないほどじゃないよ。さっきキアンにも言ったけど、走れるくらいには平気」
とつぜん声を掛けられ、そう答えながら慌てて視線をアレックスの方へと戻す。
サイズの大きなアトリエコートを、スタンドカラーにあご下をうずめるように着込み、髪を高い位置で無造作にまとめているその姿は、やっぱり女の子にしか見えないな、とぼんやり思った。まあ、今顔面の上半分を覆っている、フレームしかないおかしなゴーグルを着けていなければ、の話だけれど。
「ふむ。ではじっくり見てみようか」
靴を脱がされ、くるぶしの上あたりに手が添えられる。思ったよりも冷たい指先に意図せず足がピクリと跳ね上がり、アレックスはそれを制するように私の膝を押さえた。動くな、と言わんばかりに鋭い視線を向けられ、私が委縮しながら小さく何度かうなずいてそれに答えると、アレックスは木箱に乱雑に入れられている突起のついたレンズを一つ選び出し、ゴーグルのフレームの上部分からそれを差し込んだ。
「スピアレフリードの噛み跡だな」
レンズを替えて傷口を観察する、という動きを何度か繰り返した後、おでこのガーゼをよけるようにゴーグルを上にあげながら、アレックスがため息交じりに呟いた。
「間違いないか」
「間違いない。十中八九どころか確定でヤツの仕業だ」
アレックスのやや食い気味の返答を受けて、キアンの眉間に深いしわが刻まれる。
「私、ムカデに噛まれたんじゃないの?」
キアンの険しい表情と、スピアレフリード、という聞き慣れない謎の単語に強く不安を掻き立てられ、震える声でそう尋ねると、アレックスは首を横に振った。
「姿かたちはムカデとほぼ同じだが、スピアレフリードにはいわゆる毒というやつはないからね。見たところ腫れはないようだし、しびれとかかゆみなんかの症状もないんだろう?」
「うん、まあ……」
「キアンからの情報、そして傷口の形状を鑑みても、これはスピアレフリード――偵察型魔獣の仕業だ」
魔獣、という言葉に、心臓が大きく嫌な音を立てた。
アレックスのその見立ては、長年魔獣と相対してきたキアンが否定しないところを見る限り、たぶん間違いないんだろう。でも、ここはフランメル王国だ。バルジーナ皇国で最強の魔術兵団が食い止めているはずの魔獣が、皇都どころか国境を突破するなんて、さっきのアシュリンの話を聞いた後ではどうしたって信じられなかった。
「スピアレフリードは攻撃や防御の魔術は使えないが、逃げ隠れするのはうまくてね。詳細は解明されていないが特殊な魔力を持っているらしく、ヤツらを感知するのはとても難しいのだよ」
私が思っていたことを見透かしたかのように、アレックスがそう言った。
「基本姿を現すことはなく、たとえ目視できたとしても動きが速すぎて攻撃も捕獲もままならない。皇国のあちこちに張られている魔力感知の防衛網もすり抜けるから、皇国最強の魔術兵団の力をもってしても排除することができない唯一の魔獣だと言われているのさ」
戦闘を交えるとなると最弱、でも生存能力においては最強ということらしい。何を目的にしているのかは不明だけれど、この最弱で最強の魔獣、スピアレフリードは生物に取り付いて血液を採取する習性があるのだという。採取量はほんのわずか、雨粒の一滴にも満たない程度で、噛みつく前に催眠効果のある魔術をかけるため、本人は血を抜かれたことはおろか、噛みつかれたことにさえ気付かないのだそうだ。
「景色に紛れて対象の人間のサークシャート孔に働きかけ、自身の姿を感知できなくしてから人に取り付くんだ。催眠の効果で本来痛みは感じないはずなんだが、君に魔術は効かないからな。ヤツに噛みつかれて即気付いたのは、この世界でも君一人ぐらいなんじゃないか」
キアンは私を褒めたか、そうでないなら慰めてくれたんだろうけれど、正直嬉しくないどころか更にマイナス方向へと気分は落ち込んだ。もしスピアレフリードの催眠が私にちゃんとかかっていれば、ムカデ状のものに足を噛みつかれた、なんていう、トラウマレベルの事実が私の思い出の一ページに加わることなんてなかったはずで、今日ほど魔力なしであることを呪ったことはないと思った。
「おそらく血は採られただろうが、害はほぼないと思う。だがニナ、君のような特異体質の人間は何があるか分からないからね。経過観察は念のためしておいた方がいいだろう」
「経過観察?」
「心配することはない。ただひと晩データを取るだけさ」
アレックスはそう言って、一瞬不気味な笑みを浮かべて私を見やってから、オイル缶らしきものが並ぶ棚の方へ向かった。
「データって、まさかまた変な機械を取り付けたりするんじゃ」
「大丈夫、至って普通の……ああ、あった、こういうものしか取り付けないから」
棚の最下段から取り出された謎の機械。それは、アレックスが持ち上げた時の体勢や台車に置いた時の音からして、それなりに重量のあるもののように思えた。大きさや形は普段リュカの机に置いているテーブルランプのようだけれど、スチームビークルの運転席近くにあった時計みたいなものが2つと、船の舵を小さくしたみたいな何かが付いていたり、じゃばらのパイプがカーブを描いてつながっていたりしていて、その装置の用途がテーブルランプとはかけ離れているものであることは明らかだった。
「ニナ、作業台から降ろすからじっとしていたまえよ」
「い、いや待って、私自分で」
「下手に体を動かさないでもらいたいのだよ、今の状態でデータを正確に取りたいから……と、んん、ああそうか。私では役不足だと言いたいのだな」
アレックスは意味ありげに口の端を上げると、キアンの方に視線を移した。
「キアン、姫君を私の部屋にお連れしてくれたまえ」
「分かった。お前の部屋だな」
「慎重にな。繊細なガラス細工を扱うがごとく、優しくだぞ」
「分かってる」
違うそうじゃない、と、開きかけた口がその言葉をかたどろうとした瞬間、自分の視点が急激に上昇した。
崩れたバランスを安定させようと、条件反射的にキアンの首に手を回しかけてハッと手を止める。慌てて腕を交差させて自分の胸元に抱え込んだ私に、キアンは不思議そうな表情を浮かべた。
「掴まっていなくて大丈夫か」
「い、いいよ。落としたりなんてしないでしょ」
「それはまあ……だが、今から棺桶に入れる死体を抱えてるみたいでちょっと嫌なんだが」
今日はやたら近い距離で何度も触れ合っているから、これ以上密着するのはどうしても避けたい。死体だと思ってくれるならそちらの方が気安いと、私はそれ以上何も言わずに顔を明後日の方へ向けた。
手持無沙汰と沈黙を誤魔化すように、赤いレンガの壁から天井へと目をやる。やはりそこにもさっき工房で見た謎の光源が等間隔でぶら下がっていて、私は、いつかこれがブランモワ邸、いや領内のあちこちで見られる未来が来るのはそう遠くないのではないかとぼんやり考えた。
「そう言えば」
先導するように私たちの前を歩いていたアレックスが、歩みを止めないままわずかにこちらを振り返った。
「フランメル王国の人間は、夏場になるとほぼ毎日水浴びをして体を洗うと聞いたのだけれど、あれは本当かい?」
「ああ、うん、まあ……。と言うか、夏場じゃなくても体は毎日洗うよ」
「年がら年中毎日だと! 我が国では考えられない習慣だな!」
わずかしか見えないはずのその表情が、驚愕の色で染まるのが分かるくらいの声音でアレックスは言った。
エジンファレス王国は、あまり一年を通して気温が高くなることはない。労働者階級の人間は別として、ほぼ体を動かさない金持ち商人や貴族は汗をかかないこともあって、体を洗うのは週に1度か2度ほどしかないと聞いたことはあるけれど……。
「……ねえ、アレックスはさ」
「フランメル王国民である君には耐えがたいかもしれないが、今日は水浴びはするなよ。化粧を落とすのも自分ではしないように」
「うそ、冗談でしょ? そこまで徹底して安静にしなきゃダメなの?」
「うん、安静にしなきゃダメだし、できるだけ感情の変動も抑えてほしい。体や心を動かすことによって分泌される神経伝達物質が与える影響は、魔力のそれに似通ったところがあるのだよ。すなわち、君の中で起こっている体調の変化がその神経伝達物質によるものなのか、それともスピアレフリードの特殊な魔力によるものなのか、というところの線引きをするのは非常に困難であるわけだ。たとえば……」
納得できない私の心情を察知したのか、アレックスはその“安静にしなきゃダメ”な理由を早口で、かつ難解な専門用語を交えて説明し始めた。私が理解できるとでも思っているのか、と言いそうになったけれど、アレックスは理解させるつもりなんてそもそもなくて、ただ難しい言葉を並べるという行為によって私を黙らせることだけにフォーカスしていることに気付いたので、
「分かった、分かったからもうその訳の分からない言葉をまくし立てるのやめて。頭がおかしくなりそう」
いろいろと諦め、大人しくされるがままになることを選択した。
到着するや否や、私はキアンに抱えられたまま奥の工房部分へと連行され、大きな作業台に乗せられた。
「時間はどれくらい経ってる?」
「あれを追い払った後すぐにお前に情報を伝送したから、そうだな……5分もかかっていないと思う」
「なるほど。それならまだ手がかりが残っているかもしれないが、たぶん私の目だけでは無理だ。測定器は?」
「確かいつもの棚に――いや待て、そう言えば昨日簡易テストをする前に使ったから……」
深刻な様子でやり取りをする2人。リュカはちゃんと寝たのかを聞こうと思っていたけれど、口を挟める雰囲気ではなさそうだ。手持無沙汰になった私は仕方なく、作業台の上に座ったまま首だけを動かしてあたりをぐるりと見渡した。
レンガ造りの壁に張り付く形で設置された四角い大きな鉄製の箱が、低い音で唸っている。スチームビークルから聞こえていたものと同じ種類の音だけれど、あれよりはずいぶん静かだ。そこから突き出した幾本ものパイプは壁伝いに張り巡らされ、そのほとんどがこの部屋の外へとつながっているようだった。
横に倒したミルク缶のようなものから飛び出す長いゴムチューブが、蛇みたいに床にとぐろを巻いている様子、その近くに無造作に散らばる工具や大小さまざまな何かの部品、棚に適当に並べられた形の不揃いなオイル缶らしきもの。ここで目にする何もかもが私が見たことがないものばかりなこと、そして何より、この室内にあるものを、今が夜であるにも関わらずすべてはっきり視認できるくらいの強い灯りに、私は驚きを隠せなかった。光源は、天井からぶら下がっているいくつかの大きな傘みたいなものだということは分かったけれど、光の強さや色合いはガス灯とはまるで違っていて、その正体が何なのかはさっぱり見当もつかなかった。
「ニナ、痛みはどうだ?」
「え、あ、えーと……痛いっちゃ痛いけど、我慢できないほどじゃないよ。さっきキアンにも言ったけど、走れるくらいには平気」
とつぜん声を掛けられ、そう答えながら慌てて視線をアレックスの方へと戻す。
サイズの大きなアトリエコートを、スタンドカラーにあご下をうずめるように着込み、髪を高い位置で無造作にまとめているその姿は、やっぱり女の子にしか見えないな、とぼんやり思った。まあ、今顔面の上半分を覆っている、フレームしかないおかしなゴーグルを着けていなければ、の話だけれど。
「ふむ。ではじっくり見てみようか」
靴を脱がされ、くるぶしの上あたりに手が添えられる。思ったよりも冷たい指先に意図せず足がピクリと跳ね上がり、アレックスはそれを制するように私の膝を押さえた。動くな、と言わんばかりに鋭い視線を向けられ、私が委縮しながら小さく何度かうなずいてそれに答えると、アレックスは木箱に乱雑に入れられている突起のついたレンズを一つ選び出し、ゴーグルのフレームの上部分からそれを差し込んだ。
「スピアレフリードの噛み跡だな」
レンズを替えて傷口を観察する、という動きを何度か繰り返した後、おでこのガーゼをよけるようにゴーグルを上にあげながら、アレックスがため息交じりに呟いた。
「間違いないか」
「間違いない。十中八九どころか確定でヤツの仕業だ」
アレックスのやや食い気味の返答を受けて、キアンの眉間に深いしわが刻まれる。
「私、ムカデに噛まれたんじゃないの?」
キアンの険しい表情と、スピアレフリード、という聞き慣れない謎の単語に強く不安を掻き立てられ、震える声でそう尋ねると、アレックスは首を横に振った。
「姿かたちはムカデとほぼ同じだが、スピアレフリードにはいわゆる毒というやつはないからね。見たところ腫れはないようだし、しびれとかかゆみなんかの症状もないんだろう?」
「うん、まあ……」
「キアンからの情報、そして傷口の形状を鑑みても、これはスピアレフリード――偵察型魔獣の仕業だ」
魔獣、という言葉に、心臓が大きく嫌な音を立てた。
アレックスのその見立ては、長年魔獣と相対してきたキアンが否定しないところを見る限り、たぶん間違いないんだろう。でも、ここはフランメル王国だ。バルジーナ皇国で最強の魔術兵団が食い止めているはずの魔獣が、皇都どころか国境を突破するなんて、さっきのアシュリンの話を聞いた後ではどうしたって信じられなかった。
「スピアレフリードは攻撃や防御の魔術は使えないが、逃げ隠れするのはうまくてね。詳細は解明されていないが特殊な魔力を持っているらしく、ヤツらを感知するのはとても難しいのだよ」
私が思っていたことを見透かしたかのように、アレックスがそう言った。
「基本姿を現すことはなく、たとえ目視できたとしても動きが速すぎて攻撃も捕獲もままならない。皇国のあちこちに張られている魔力感知の防衛網もすり抜けるから、皇国最強の魔術兵団の力をもってしても排除することができない唯一の魔獣だと言われているのさ」
戦闘を交えるとなると最弱、でも生存能力においては最強ということらしい。何を目的にしているのかは不明だけれど、この最弱で最強の魔獣、スピアレフリードは生物に取り付いて血液を採取する習性があるのだという。採取量はほんのわずか、雨粒の一滴にも満たない程度で、噛みつく前に催眠効果のある魔術をかけるため、本人は血を抜かれたことはおろか、噛みつかれたことにさえ気付かないのだそうだ。
「景色に紛れて対象の人間のサークシャート孔に働きかけ、自身の姿を感知できなくしてから人に取り付くんだ。催眠の効果で本来痛みは感じないはずなんだが、君に魔術は効かないからな。ヤツに噛みつかれて即気付いたのは、この世界でも君一人ぐらいなんじゃないか」
キアンは私を褒めたか、そうでないなら慰めてくれたんだろうけれど、正直嬉しくないどころか更にマイナス方向へと気分は落ち込んだ。もしスピアレフリードの催眠が私にちゃんとかかっていれば、ムカデ状のものに足を噛みつかれた、なんていう、トラウマレベルの事実が私の思い出の一ページに加わることなんてなかったはずで、今日ほど魔力なしであることを呪ったことはないと思った。
「おそらく血は採られただろうが、害はほぼないと思う。だがニナ、君のような特異体質の人間は何があるか分からないからね。経過観察は念のためしておいた方がいいだろう」
「経過観察?」
「心配することはない。ただひと晩データを取るだけさ」
アレックスはそう言って、一瞬不気味な笑みを浮かべて私を見やってから、オイル缶らしきものが並ぶ棚の方へ向かった。
「データって、まさかまた変な機械を取り付けたりするんじゃ」
「大丈夫、至って普通の……ああ、あった、こういうものしか取り付けないから」
棚の最下段から取り出された謎の機械。それは、アレックスが持ち上げた時の体勢や台車に置いた時の音からして、それなりに重量のあるもののように思えた。大きさや形は普段リュカの机に置いているテーブルランプのようだけれど、スチームビークルの運転席近くにあった時計みたいなものが2つと、船の舵を小さくしたみたいな何かが付いていたり、じゃばらのパイプがカーブを描いてつながっていたりしていて、その装置の用途がテーブルランプとはかけ離れているものであることは明らかだった。
「ニナ、作業台から降ろすからじっとしていたまえよ」
「い、いや待って、私自分で」
「下手に体を動かさないでもらいたいのだよ、今の状態でデータを正確に取りたいから……と、んん、ああそうか。私では役不足だと言いたいのだな」
アレックスは意味ありげに口の端を上げると、キアンの方に視線を移した。
「キアン、姫君を私の部屋にお連れしてくれたまえ」
「分かった。お前の部屋だな」
「慎重にな。繊細なガラス細工を扱うがごとく、優しくだぞ」
「分かってる」
違うそうじゃない、と、開きかけた口がその言葉をかたどろうとした瞬間、自分の視点が急激に上昇した。
崩れたバランスを安定させようと、条件反射的にキアンの首に手を回しかけてハッと手を止める。慌てて腕を交差させて自分の胸元に抱え込んだ私に、キアンは不思議そうな表情を浮かべた。
「掴まっていなくて大丈夫か」
「い、いいよ。落としたりなんてしないでしょ」
「それはまあ……だが、今から棺桶に入れる死体を抱えてるみたいでちょっと嫌なんだが」
今日はやたら近い距離で何度も触れ合っているから、これ以上密着するのはどうしても避けたい。死体だと思ってくれるならそちらの方が気安いと、私はそれ以上何も言わずに顔を明後日の方へ向けた。
手持無沙汰と沈黙を誤魔化すように、赤いレンガの壁から天井へと目をやる。やはりそこにもさっき工房で見た謎の光源が等間隔でぶら下がっていて、私は、いつかこれがブランモワ邸、いや領内のあちこちで見られる未来が来るのはそう遠くないのではないかとぼんやり考えた。
「そう言えば」
先導するように私たちの前を歩いていたアレックスが、歩みを止めないままわずかにこちらを振り返った。
「フランメル王国の人間は、夏場になるとほぼ毎日水浴びをして体を洗うと聞いたのだけれど、あれは本当かい?」
「ああ、うん、まあ……。と言うか、夏場じゃなくても体は毎日洗うよ」
「年がら年中毎日だと! 我が国では考えられない習慣だな!」
わずかしか見えないはずのその表情が、驚愕の色で染まるのが分かるくらいの声音でアレックスは言った。
エジンファレス王国は、あまり一年を通して気温が高くなることはない。労働者階級の人間は別として、ほぼ体を動かさない金持ち商人や貴族は汗をかかないこともあって、体を洗うのは週に1度か2度ほどしかないと聞いたことはあるけれど……。
「……ねえ、アレックスはさ」
「フランメル王国民である君には耐えがたいかもしれないが、今日は水浴びはするなよ。化粧を落とすのも自分ではしないように」
「うそ、冗談でしょ? そこまで徹底して安静にしなきゃダメなの?」
「うん、安静にしなきゃダメだし、できるだけ感情の変動も抑えてほしい。体や心を動かすことによって分泌される神経伝達物質が与える影響は、魔力のそれに似通ったところがあるのだよ。すなわち、君の中で起こっている体調の変化がその神経伝達物質によるものなのか、それともスピアレフリードの特殊な魔力によるものなのか、というところの線引きをするのは非常に困難であるわけだ。たとえば……」
納得できない私の心情を察知したのか、アレックスはその“安静にしなきゃダメ”な理由を早口で、かつ難解な専門用語を交えて説明し始めた。私が理解できるとでも思っているのか、と言いそうになったけれど、アレックスは理解させるつもりなんてそもそもなくて、ただ難しい言葉を並べるという行為によって私を黙らせることだけにフォーカスしていることに気付いたので、
「分かった、分かったからもうその訳の分からない言葉をまくし立てるのやめて。頭がおかしくなりそう」
いろいろと諦め、大人しくされるがままになることを選択した。
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