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第二部

第十五章 うつせみ割れる 其の三

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 水無月の半ばを迎える頃には、雨に変わって照りつけるような日差しが降り注ぐようになり、将軍はホッと胸を撫で下ろしていた。 
 (あとは、日照りと野分のわきじゃな。) 
 近いうちに自分で見回りにいってみよう。蝉時雨を聞きながら、秀忠はそう思った。 

 今朝は幾日ぶりかの激しい雨であったが、昼には止み、まだ明るさを残している東の空に小望月こもちづきが白く浮かんでいる。 
 このところ夕餉ゆうげを済ませたあとも秀忠は政務に戻らず、秀忠は江と一緒にいた。夕涼みと称して庭に出たり、今日のように縁側からのさやふく風を受けながら、好きな書物を読み、部屋でごろごろしてたりしていた。 

 秀忠は本草書に目を落としながら、口を開く。 
「江、北之庄きたのしょうの雪どけはいつ頃じゃ。」 
 小さな布に一目ずつ針を刺していた江が、夫の突然の問いに顔をあげた。 
「越前の北之庄でございますか?」 
「そうじゃ。」 
 腕枕をして自分の方を向く夫を見ながら、江が頭の中の遠い記憶を手繰る。今、刺している手元の刺繍を見つめ、ささやかに微笑んだ。 
弥生やよいなかばの頃でしょうか。」
 暗さを増してきた外を見つめ、遠い目をして江が言う。
「雪がまだ所々に残っておりますが、白かった山が緑立ち、太陽の光も皆の顔もそれは明るうなりまする。」 
 微笑んだまま自分を見つめた美しい妻の目に、秀忠はかすかなかげりを見つけていた。 
「さようか。」 
 返事をした秀忠は、ゴロンと寝っ転がる。 
「いかがなさいました?突然。」 
 江が再び針を手にし、布に向かい合って訊いた。その妻の様子をチロリと横目で一度見て、秀忠はむくりと起き上がる。 
「勝を忠直殿に嫁がせる。雪どけを待って輿入こしいれじゃ。北之庄はそなたも居ったゆえ解っておろう。充分支度を整えてやれ。」 
 秀忠は一息で言うと、再び本を手にして寝転んだ。 
 実は、家康からは「なるべく早く」との命があったが、秀忠は、支度と雪山にかこつけ、来年の雪どけを待ってというところで大御所に了解させたのであった。 
 秀忠が家康の命を素直に聞き入れなかったのには理由がある。第一は、冬に向かう北国にいきなり娘をやるのが忍びなかったこと。そしてもうひとつ、父の一手を少しでも遅らせ、その間に自分の手を打とうという思いもあった。

「勝を……忠直殿の嫁に?」 
 布に目を落としたまま、気が抜けたように江は繰り返した。 
「そうじゃ。」 
何故なにゆえでございますか?」 
 気楽な返事をする夫をハタと見据え、江は理由を問う。 
「ん?従兄妹いとこじゃゆえ、よかろう?」 
 秀忠は本を見たまま、いたってのんびりと返事をした。 
「なにゆえ今このときに徳川の縁にやるのです?なにゆえ豊臣方ではないのですか?」 
 咳き込むような早口で、江は秀忠に訊く。この程度の反論は秀忠も想定していた。小さなあくびをしながら妻の方へ寝返りし、あくまでのんびりと答える。 
「豊臣には秀頼殿しかおるまい。釣り合う家臣もおらぬ。」 
「したが!」 
 夫の態度に苛立ち、手元の布を思わず握りしめた江の手を針が刺した。 
「つっ!」 
 江の小さな悲鳴に秀忠が素早く起き上がる。江の手を取ると、ぷっつりと赤い血が出ている指を夫は口に含んだ。妻は黙って、夫の横顔を見ていた。 
「気をつけぬか。」 
「大事のうございます。放っておけば治りまする。」 
 江は秀忠が含んだ指を、自分の口でまたそっと含んだ。 
 秀忠は、江の前にどっかりと座り直す。 
「江、そなたが義姉上あねうえ方を思うのを見ていると、私が兄弟に薄情なのを思い知らされた。しかし、兄上はもうい。…存じておろう。兄なのに他家へ養子へ出され、跡取りを弟である私に取られた。母の身分の差というが、同じ側室おへやの子。悔しゅうあられたであろう。それゆえ、剛毅であったのに、酒に溺れ、女に逃げたのやもしれぬ。そのご無念にむくいるために、勝を嫁にやるのじゃ。兄上にも、忠吉ただよしにもなにもしてやれなんだゆえ、せめて、忠直殿の後ろ楯にはなってやりたい。そなたも忠吉ただよしや兄上が亡うなった時、『できることがあれば……』と言うてくれたではないか。」 
 秀忠は珍しく情に訴えた。それは、秀忠が心から秀康に申し訳ないと思っている証であった。 
 と、同時に、二人が亡くなったときに自分と一緒に泣いてくれた江は、それで納得してくれるだろうとも思っていた。 
 しかし、江から返って来たのは意外な言葉である。 

「……国松どのが……」 
 江が小さな声で呟く。 
「なに?」 
「国松殿がおりまする。」 
 指先の痛みが江の心の痛みを口に押しやった。大きな黒い目でまっすぐに秀忠を捕らえ、固い顔で江は言った。 
「兄上の子をないがしろにしろと?」   
「いえ……」 
 秀忠おっとの冷ややかな目に捉えられた江は、美しいまつげを伏せ、小さく返事をする。 
 解ってくれるものと思い込んでいた秀忠の落胆は大きかった。ここで江を納得させねば、己の志は叶わない。秀忠は苛立つのをなんとかこらえながら、江を説き伏せにかかった。 

「越前は前田への重要な抑えじゃ。当主が若いと城内も乱れやすい。前田や伊達と結び付いてみよ。再び、戦乱の世に戻るやもしれぬ。」 
「前田にはたまがおりまする。」 
 江は間髪をいれず、夫に反論する。 
「珠が前田に行ったは、今の松と同じくらいの年じゃ。前田で生きた方がすでに長い。もう、前田の姫となっておろう。」 
 秀忠は少し溜め息混じりに、畳の目を見る。 
「そんな……では松を。」 
 江は口許を袖で押さえ、呆然としながら小声を絞り出した。秀忠の目が一度大きく見開いて、江を捉える。肩を落とした男の声は、哀しみを含んでいた。 
「そなたからそのような言葉が出るとは……。娘をまつりごとの道具にするのは嫌なのではなかったのか。」 

 江は目を伏せたまま黙ってしまった。指の痛みはズキズキと江を責める。江は傷口を今一度そっと口に含み、秀忠の温かさを思い出そうとしていた。 
 コロコロという気の早い一匹の虫の音が、縁の下から聞こえる。 
 ひととき、江を咎めるようにじっと見つめていた秀忠が、呟くように口を開いた。 


*****
【水無月なかば】6月半ば。1609年7月17日ごろ

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