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第二部

第十五章 うつせみ割れる 其の二

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 そぼ降る雨の中、美しさを競った紫陽花あじさいの花も終わりに近づき、いつの間にか今年も蝉が仲間を求めて鳴き始めた。 
 あの日から四月よつき、高次が死去して一月ひとつきになる。 
 この一月ひとつき、太陽の光が届くことは稀で、いねの生育状況が今一つだという報告が、将軍主従の心配の種を増やした。 
 そして秀忠は、今日届いた家康からの書状に目を通して、「う~む」と小さく声を漏らし、舌打ちした。 

「いかがされました?」 
 筆を走らせながらも、大御所の書状を秀忠がどのような顔で読むかチラチラ見ていた利勝が声をかける。 
 渋い顔をした秀忠は、答える代わりに書状を片手で利勝に差し出した。 
「拝見つかまつります。」 
 利勝は、両手でうやうやしく書状を取ると、スィと拡げて目を落とした。 
「これはこれは……。勝姫さんのひめ様と忠直えちぜん様のご縁組み……。おめでとうござります。」 
 利勝は書状を見ながら言い、書状を畳んで眉間に皺を寄せた秀忠に言う。 
「御懸念は、御台様ですかな?」 
「まあな。」 
 扇子をパチパチ鳴らしながら、秀忠が言う。 
 (またか……) 
 利勝は辟易へきえきしながらも、自分の役目を果たすために口を開いた。 
「越前は前田をはじめ、北への抑え。したが、亡き秀康ひでやす様が元々豊臣の御養子であったことからも、親豊臣の家来も多く残っておるようでございますな。」 
「ああ。」 
忠直えちぜんさまは確かまだ十四。かといって、まったくの子供でもない。いろいろとあやううございましょう。勝姫さんのひめ様がお輿入こしいれすれば、忠直えちぜんさまに上様の後ろ楯ができまする。上様の後ろ楯ができるということは、大御所様のお力も届くということ。」 
「そうじゃ。」 
「まして、お二人はお従兄妹いとこ同士。このときに徳川の結束を固めるためにも、よき縁組みかと。」 
「わかっておる。」 
 秀忠は煙たい顔をした。 

 越前北之庄えちぜんきたのしょうの若い当主忠直は、秀忠の腹違いの次兄、秀康ひでやすの子である。
 本来なら長兄の信康のぶやすが切腹させられたあと、秀康が嫡子となってもおかしくはなかった。
 ところが、父、家康の考えで、秀康は秀吉の養子となり、さらに秀吉に結城家に養子へ出され、二年前の春、松平の姓に戻ることなく亡くなっていた。その後を忠直が十二歳で継ぎ、その際に松平姓に戻るのを大御所は許した。 
 自分の父が将軍の兄でありながら他家の一大名でしかなかったこと、松平に戻ったとはいえ自分も大名に過ぎないことを、若くして当主となった忠直は理不尽に感じていた。正義を振りかざしたい年頃でもある。 
 しかしそれでは、徳川は内から崩れてしまう。大御所の懸念はそこにあった。そして秀忠もその懸念はよく解った。 
 秀忠は目を閉じ、腕組みをすると、小さくフゥと息を吐いた。 
 まだ小さい頃に会った素直な忠直仙千代が頭によみがる。
 (手練れの家臣なら踊らせるのも容易たやすかろう。)

「『徳川の結束を固める』ということが、今の御台様にお辛かろうとも。」 
 秀忠の溜め息に、きりりと将軍を見据え、利勝は低く静かにあるじの懸念をした。 
「……わかっておる……。が、今しばらく伏せる。」 
 目を閉じたまま秀忠が答えた。江になんと伝えればよいか……、父のこの一手がどういう意味を持つか、秀忠には江が心配する以上によく分かっていた。 
 またひとつ、父が動いたのである。 
 (初殿にご相談する間はないやもしれぬのぅ……) 
 眉間に皺を寄せた秀忠の頭は、様々なことをぐるぐるとうずまいていた。 
「先延ばしなさっても同じと存じまするが。」 
「どうせ断れぬのじゃ。輿入れの時期まで決めてからでもよかろう。」 
 利勝の遠慮のない忠告に、秀忠はゆっくり目を開いた。 
「では、その間に充分ご機嫌をお取りになっておくことですな。」 
 秀忠の心の奥を見透かすように利勝はニンマリとし、再び筆を取った。秀忠は返事をする代わりに、またパチリパチリと扇子を鳴らした。 
 (大事ない。江は解ってくれる。解るはずじゃ) 
 秀忠は心の中で自分に言い聞かせるように、強く繰り返した。 

 二年前、秀忠は同母弟の忠吉ただよしも亡くしている。弥生やよい上巳じょうしの節供が終わってすぐに届いた悲報であった。
 秀忠にとって、同じ母の兄弟は忠吉ただよししかおらず、唯一無二の兄弟を亡くした嘆きは深かった。その原因が関ヶ原の戦いの傷であるのが、秀忠をさらにさいなんだ。 
 それから二ヶ月後、うるう四月に入って追い討ちをかけるように届いたのが、秀康ひでやす死去のしらせであった。 
 (忠吉の時はつわりで苦しみながら、兄上の時はふっくらし始めたお腹を抱えて、江は私を慰め、支えてくれた。大事ない。解ってくれる。) 
 秀忠は扇子の音をもう一度、パチンと大きく鳴らすと政務へと戻った。 

◇◆

 静は先日、見性院の元から柔らかな笑顔で帰ってきていた。それは、今までの無邪気な笑顔といくらか違えど、充分に人を安心させる穏やかな笑みであった。その笑みを見て、大姥局は見性院に心の中で礼をいい、ありがたさに手を合わせた。 
 静は哀しみは哀しみとして受け入れることとした。人を思う気持ちは恥じなくてよい。そう思うと、「結ばれなかったゆえにこの城に来ている」と見えてくる。 
 誰かに「今、幸せか?」と聞かれれば、迷うことなく「幸せにございます。」と答えるであろう。ならば、それでよいではないか。静はそう思っていた。 
 和歌わかを見つめると、片恋かたこいの男の笑顔が浮かぶようになった。
 心の火照りが止まらないときは、自分で自分を慰める。ただ、それは以前のように罪悪感にかられる時間ではなく、静にとって結ばれなかった片恋の人との逢瀬であった。まさに「人に知られでくるよしもがな」の逢瀬であった。
 哀しみがないと言えば嘘になる。しかし、片恋の殿方に拒絶されずに思いを遂げられる。それはそれで静は幸せであった。 


 穏やかな笑みを浮かべ、静はくるくると働いていた。ただ、雨を切らさぬ空は仕事を減らし、静は侍女仲間と共に大姥局や由良から、生け花や香合わせなどを教わる日が続いた。 
 そして将軍家は将軍家で、それなりに穏やかであった。 
 高次死去の報が入って以来、秀忠は夕餉を必ず江と取り、なるべく早く政務を終わらせては寝所へ向かう。 
 江は、江らしい美しい笑顔が戻っているとはいえ、やはり時おり、ふと塞ぎ込むことがあった。姉の初のみならず、やはり豊臣の淀の方や千がなにより気になっているのであろう。 
 そんな江を見ていると、世子の話を面と向かってできず、秀忠は息子たちの様子を見、妻の様子をうかがいながら、あれこれと悩んでいた。 
 江はといえば、心に姉たちの思いを抱え、福との間にはまだ大きなわだかまりがあるが、勝姫に生け花や刺繍を教えたり、秀忠と若君たちが相撲を取るのを見たりして、比較的なごやかな日々を御台所として過ごしていた。  
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