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第二部
第十一章 椿、凛として咲く 其の四
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「今年の歌留多会はいかがであったのじゃ?」
力強い焼き締めの割り山椒に盛られた白和えに手を出し、秀忠は大姥局に訊く。
「今年も藤が一番でございました。」
大姥局の答えに、藤が恭しく礼をした。
「そうか。向かうところ敵なしか。」
藤を見て頷き、秀忠は蕨が盛られた優しげな志野の浅鉢を手に取る。
「いえ、来年は意外な伏兵が現れるやも知れませぬ。」
ニンマリとした大姥局の言葉に、藤も浅茅も微笑みながらチラリと静を見た。
「ほう、静が伏兵か?」
「ええ、暇があれば百人一首集を読んでおりまする。真似ての手習いも熱心ですゆえ、ずいぶん上達いたしました。」
大姥局は、空になった湯飲みに茶を差しながら、静を誉め、藤に声をかけた。
「来年はまこと危ういやも知れぬのう、藤?」
「まだ負けぬつもりでございまするが、確かに静は熱心でございますゆえ。」
大きな体に貫禄の微笑みを見せながらも、藤は本音を語る。
「なにせ、暇を作るために、これまで以上に体を動かして働きまする。」
フフフと笑いながら、大姥局は目をかけている部屋子の自慢話をした。
「そうも夢中になっておるのか。」
箸を動かしながら、興味深そうに聞いていた秀忠が赤楽の飯碗を持ったまま尋ねた。
「歌留多会の時に、由良が和歌の講釈をいたしまして、それ以来、和歌の奥深さに目覚めたようにございます。」
乳母の言葉を聞きながら、秀忠はひとつのことを考えていた。
「そうか。由良には私もよう教えて貰うた。静、和歌はそうも面白いか。」
「はい、楽しゅうございます。」
いつもの笑顔よりさらに顔をほころばせた静の言葉を聞き、秀忠は学問所の成功を確信した。
(しかし、そのためには……)
「上様、おかわりをお入れいたしましょう。」
ぼんやりした秀忠と、空になりそうな茶碗を見て、大姥局は声をかける。
「ああ、あと半分でよい。」
秀忠は、心をどこかに置いたような返事をする。
「それでよろしいのですか?お力をつけませんと。」
考え込む養い子を心配して、乳母は昔のように世話を焼く。
久しぶりの乳母のお小言に秀忠は考え事をやめた。『若様、召し上がる時は考え事などなさらず、きちんと食べられるものの命と向き合いなされませ』とよく叱られたのを思い出したのである。
「書状を見てばかりで体を動かさぬゆえな、あまり腹が減らぬ。」
弓はおろか、木刀を振ることも、庭を歩くことさえあまりしていない。
「それはいけませぬ。美味しゅう食べてやりませんと、百姓にも海士にも申し訳ありませぬぞ。」
口調こそゆっくりになったが、変わらず達者な大姥局の言葉を聞き、秀忠は嬉しく思う。
(まだまだ長生きしてくれそうじゃ。)
「そうじゃな。国松が治ったら相撲の相手をしようと思う。江に『そう伝えよ』というたのじゃ。竹千代ともども相撲をとってみよう。」
優しい父の顔で秀忠は飯茶碗を取った。
「まぁ、それでは国松さまも早うご回復なさるでしょう。竹千代さまもお喜びになるはず。」
そう言うと、大姥局はなにかを思い出したように「フ、フフフフ」と口許を袖で押さえて笑った。
箸も茶碗も持ったままの秀忠が怪訝な顔をする。
「いかがした?」
「申し訳ござりませぬ。あのほんにお小さかった若様が、ご立派な父上になられたのが嬉しゅうて……」
大姥局は口元の皺を深め、満面の笑みを見せる。その目尻には僅かに涙が浮かんでいた。
「よい父親のう……したが、この頃は子供たちともあまり会うておらぬぞ。」
「それは、致し方ございませぬ。天下の政を担っていらっしゃるのですから。上様はお務めに精進なされませ。お子さま方にはお心が通じまする。」
(そうだろうか、親父の気持ちは私には分からぬが……)と思いながら、(確かに親父の考えていることは多少はわかるか。
)と秀忠は思う。
「勝姫さまは、姉姫君らしくお美しくなっていらっしゃいましたし、松姫様も愛らしくお健やかで、見ているこちらも年若うなる気がいたしまする。大御所様が市姫さまを側からお離しにならぬのがようわかりまする。」
ホホホと大姥局は笑う。
「そうじゃ。子は達者であるのが一番じゃ。国松も早う治ればよいが……」
「治りまするとも。御台様が御自ら看ておられるのですから。上様も早うおやすみになって、お疲れをお取りくださいませ。」
大姥局は秀忠の不安を取り除くように、老女らしからず力強く語気を強める。
「うむ。そうしよう。」
秀忠は乳母の思いを汲み、素直に頷いた。
静は、控えて秀忠と大姥局のやりとりをずっと見聞きしていた。
江が秀忠を思う心に感動していたが、秀忠が子供たちをとても愛しているのも心に染みた。
そしてなにより、大姥局と秀忠の絆に心揺さぶられた。
大姥局は、秀忠をきちんと認め、敬いながらもしっかり諭し励ます。秀忠は秀忠で、年老いた乳母を労りながらも、話にはきちんと耳を傾けている。
由良に教えてもらった「敬愛」という言葉が、静の頭に浮かんだ。そんな太く揺るぎない絆が羨ましい。
(いつか、私にもそのような人ができるかしら……)
静は漠然と考えた。乳母になるには子を生まないといけないなどは考え至っていない。秀忠と大姥局の絆そのものが、ただただ羨ましかったのである。
「旨かった。」
秀忠は大姥局が新しく入れたお茶を締めくくりに飲み、手を合わせた。 グッと腕を伸ばして、立ち上がる。
「どちらへ?」
「仏間じゃ。」
「お気持ちはわかりますが、今日はお控えなされませ。」
ゆっくりと、しかしピシャリと大姥局が言い渡す。
秀忠は大姥局を見下ろし、ふ~むという、拗ねたような困ったような顔をした。
「上様の分も、今日は私が御仏にお祈りいたしましょう。早う休めるときは、早くおやすみなされませ。疲れて風邪を召されては、御台様が悲しまれまするぞ。」
大姥局はきりりと伝家の宝刀を抜いた。その一言で秀忠を簡単に説得できるのを、大姥局も利勝もよく知っている。案の定、秀忠は素直に乳母の言葉に従った。
国松と江を心配しつつも、実際は充分に疲れている秀忠は、早々に奥の部屋へと入り、すでに準備されていた褥に横になる。
(国松、負けてはならぬぞ。母上、国松をどうぞお守りください。)
目を閉じて母に祈り、江に(無理をするな)と心で語りかけたところで、将軍は眠りへと落ちてしまった。
[第十一章 椿、凛として咲く 了]
*****
【焼き締め】釉薬をかけず、長時間かけて火で強く焼き締めた器。自然釉で景色が変わる。
【割山椒】山椒の実が開いたような、丸くて上の方が3~5弁に開いた鉢。
【志野】美濃で焼かれる暖かみのある白の焼き物。使い込むうちに茶渋などが入り込み、独特の景色を作る。
【赤楽】楽焼の一種。京の楽家、またはその脇窯で焼かれた陶器。低火度で焼いた軟質陶器で、抹茶茶碗が多い。手びねりで作るため、味のある形をしている。柔らかな赤茶色の器。
力強い焼き締めの割り山椒に盛られた白和えに手を出し、秀忠は大姥局に訊く。
「今年も藤が一番でございました。」
大姥局の答えに、藤が恭しく礼をした。
「そうか。向かうところ敵なしか。」
藤を見て頷き、秀忠は蕨が盛られた優しげな志野の浅鉢を手に取る。
「いえ、来年は意外な伏兵が現れるやも知れませぬ。」
ニンマリとした大姥局の言葉に、藤も浅茅も微笑みながらチラリと静を見た。
「ほう、静が伏兵か?」
「ええ、暇があれば百人一首集を読んでおりまする。真似ての手習いも熱心ですゆえ、ずいぶん上達いたしました。」
大姥局は、空になった湯飲みに茶を差しながら、静を誉め、藤に声をかけた。
「来年はまこと危ういやも知れぬのう、藤?」
「まだ負けぬつもりでございまするが、確かに静は熱心でございますゆえ。」
大きな体に貫禄の微笑みを見せながらも、藤は本音を語る。
「なにせ、暇を作るために、これまで以上に体を動かして働きまする。」
フフフと笑いながら、大姥局は目をかけている部屋子の自慢話をした。
「そうも夢中になっておるのか。」
箸を動かしながら、興味深そうに聞いていた秀忠が赤楽の飯碗を持ったまま尋ねた。
「歌留多会の時に、由良が和歌の講釈をいたしまして、それ以来、和歌の奥深さに目覚めたようにございます。」
乳母の言葉を聞きながら、秀忠はひとつのことを考えていた。
「そうか。由良には私もよう教えて貰うた。静、和歌はそうも面白いか。」
「はい、楽しゅうございます。」
いつもの笑顔よりさらに顔をほころばせた静の言葉を聞き、秀忠は学問所の成功を確信した。
(しかし、そのためには……)
「上様、おかわりをお入れいたしましょう。」
ぼんやりした秀忠と、空になりそうな茶碗を見て、大姥局は声をかける。
「ああ、あと半分でよい。」
秀忠は、心をどこかに置いたような返事をする。
「それでよろしいのですか?お力をつけませんと。」
考え込む養い子を心配して、乳母は昔のように世話を焼く。
久しぶりの乳母のお小言に秀忠は考え事をやめた。『若様、召し上がる時は考え事などなさらず、きちんと食べられるものの命と向き合いなされませ』とよく叱られたのを思い出したのである。
「書状を見てばかりで体を動かさぬゆえな、あまり腹が減らぬ。」
弓はおろか、木刀を振ることも、庭を歩くことさえあまりしていない。
「それはいけませぬ。美味しゅう食べてやりませんと、百姓にも海士にも申し訳ありませぬぞ。」
口調こそゆっくりになったが、変わらず達者な大姥局の言葉を聞き、秀忠は嬉しく思う。
(まだまだ長生きしてくれそうじゃ。)
「そうじゃな。国松が治ったら相撲の相手をしようと思う。江に『そう伝えよ』というたのじゃ。竹千代ともども相撲をとってみよう。」
優しい父の顔で秀忠は飯茶碗を取った。
「まぁ、それでは国松さまも早うご回復なさるでしょう。竹千代さまもお喜びになるはず。」
そう言うと、大姥局はなにかを思い出したように「フ、フフフフ」と口許を袖で押さえて笑った。
箸も茶碗も持ったままの秀忠が怪訝な顔をする。
「いかがした?」
「申し訳ござりませぬ。あのほんにお小さかった若様が、ご立派な父上になられたのが嬉しゅうて……」
大姥局は口元の皺を深め、満面の笑みを見せる。その目尻には僅かに涙が浮かんでいた。
「よい父親のう……したが、この頃は子供たちともあまり会うておらぬぞ。」
「それは、致し方ございませぬ。天下の政を担っていらっしゃるのですから。上様はお務めに精進なされませ。お子さま方にはお心が通じまする。」
(そうだろうか、親父の気持ちは私には分からぬが……)と思いながら、(確かに親父の考えていることは多少はわかるか。
)と秀忠は思う。
「勝姫さまは、姉姫君らしくお美しくなっていらっしゃいましたし、松姫様も愛らしくお健やかで、見ているこちらも年若うなる気がいたしまする。大御所様が市姫さまを側からお離しにならぬのがようわかりまする。」
ホホホと大姥局は笑う。
「そうじゃ。子は達者であるのが一番じゃ。国松も早う治ればよいが……」
「治りまするとも。御台様が御自ら看ておられるのですから。上様も早うおやすみになって、お疲れをお取りくださいませ。」
大姥局は秀忠の不安を取り除くように、老女らしからず力強く語気を強める。
「うむ。そうしよう。」
秀忠は乳母の思いを汲み、素直に頷いた。
静は、控えて秀忠と大姥局のやりとりをずっと見聞きしていた。
江が秀忠を思う心に感動していたが、秀忠が子供たちをとても愛しているのも心に染みた。
そしてなにより、大姥局と秀忠の絆に心揺さぶられた。
大姥局は、秀忠をきちんと認め、敬いながらもしっかり諭し励ます。秀忠は秀忠で、年老いた乳母を労りながらも、話にはきちんと耳を傾けている。
由良に教えてもらった「敬愛」という言葉が、静の頭に浮かんだ。そんな太く揺るぎない絆が羨ましい。
(いつか、私にもそのような人ができるかしら……)
静は漠然と考えた。乳母になるには子を生まないといけないなどは考え至っていない。秀忠と大姥局の絆そのものが、ただただ羨ましかったのである。
「旨かった。」
秀忠は大姥局が新しく入れたお茶を締めくくりに飲み、手を合わせた。 グッと腕を伸ばして、立ち上がる。
「どちらへ?」
「仏間じゃ。」
「お気持ちはわかりますが、今日はお控えなされませ。」
ゆっくりと、しかしピシャリと大姥局が言い渡す。
秀忠は大姥局を見下ろし、ふ~むという、拗ねたような困ったような顔をした。
「上様の分も、今日は私が御仏にお祈りいたしましょう。早う休めるときは、早くおやすみなされませ。疲れて風邪を召されては、御台様が悲しまれまするぞ。」
大姥局はきりりと伝家の宝刀を抜いた。その一言で秀忠を簡単に説得できるのを、大姥局も利勝もよく知っている。案の定、秀忠は素直に乳母の言葉に従った。
国松と江を心配しつつも、実際は充分に疲れている秀忠は、早々に奥の部屋へと入り、すでに準備されていた褥に横になる。
(国松、負けてはならぬぞ。母上、国松をどうぞお守りください。)
目を閉じて母に祈り、江に(無理をするな)と心で語りかけたところで、将軍は眠りへと落ちてしまった。
[第十一章 椿、凛として咲く 了]
*****
【焼き締め】釉薬をかけず、長時間かけて火で強く焼き締めた器。自然釉で景色が変わる。
【割山椒】山椒の実が開いたような、丸くて上の方が3~5弁に開いた鉢。
【志野】美濃で焼かれる暖かみのある白の焼き物。使い込むうちに茶渋などが入り込み、独特の景色を作る。
【赤楽】楽焼の一種。京の楽家、またはその脇窯で焼かれた陶器。低火度で焼いた軟質陶器で、抹茶茶碗が多い。手びねりで作るため、味のある形をしている。柔らかな赤茶色の器。
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