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第二部

第十一章  椿、凛として咲く  其の三

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 西の空が赤く染まり、いつもなら一日の終わりにどこか長閑のどかな空気が流れている頃である。
 ところが今日は、なにやらピリピリとしたものが漂っていた。 

 秀忠がいぶかりながら部屋に入ろうとすると、江が回廊かいろうを走るようにせかせかと戻って来る。 
「いかがした? なにかあったのか?」 
 勢いづいた江の足を抱き止めるように止め、その青白い顔を見て秀忠は尋ねた。 
「国松が……」 
「国松がいかがした。」 
「高い熱を出して苦しそうにしておりまする。」 
 一瞬にして緊張した面持ちの夫に、江はまつげを伏せながら報告する。 
「なに? 医師には。」 
風邪ふうじゃ……、あるいは風疫ふうえきやもしれぬと。」 
 唇をきつく噛み締めながら、やっとのことでいう江を秀忠はそっと抱き寄せ、背中をポンポンと叩いた。 
「では、私も見舞おう。」 
 秀忠が歩き出すと同時に、江が夫の腕を掴んだ。 
「なりませぬ!あなたさまにうつると大事にございます。医師殿からも『くれぐれも近づけぬように』と言われましたゆえ、それをお伝えに戻って参ったのです。」 
 目の奥に不安をたたえながらも、江戸城の女主人として、きりっと江は秀忠に言い渡す。 
「大事ない。」 
 江の心細さを見てとった秀忠は、妻を安心させるように微笑み、わざとのんびり言う。 
「いえ、なりませぬ。今、あなたさまは大事なときではありませぬか。豊臣とのことも、あなたさまのお力が、なにより要り用のはず。どうぞお聞き届けくださいませ。あなたさまの分まで、私が傍についてやりますゆえ。」 
 江はかぶりを振り、がんとして譲らなかった。そこには、秀忠を守る妻としての思いと、まつりごとを滞りなく進めて欲しいという御台所としての気概が感じられた。 
「そうか。」 
 秀忠は、江の気持ちを感じとり、おとなしく従う。 
「これが風疫なら大事になりまする。それゆえ、火鉢にやかんをかけ、なるべく部屋より出ないように皆に言い渡してございます。ことに、松や大姥おおばたちは部屋から出さないように言うております。あなたさまも本日よりしばらく、ご自分の部屋でお休みくださいませ。」 
 江は、淡々とさらに命令した。 
「寝所でのうてか?」 
「あちらの方が、子どもたちの部屋ところからは遠うございましょう? それに私は国松の看病をいたしましたゆえ、万が一うつっておるやも知れませぬ。」 
 がっかりしたような秀忠の声に愛しさを感じながらも、江は国松の方が気にかかっていた。 
「そなたこそ無理をするでないぞ。気を付けよ。」 
 江の両肩に手を置き、言い出したら脇目もふらずまっすぐに進む妻に、秀忠は言い聞かせる。心配なのだ。 
「ありがとうございまする。では、私は。」 
 江がわずかに微笑みを作り、再び国松の部屋へ向かおうと身をひるがえした。 

「待て、江。」 
 秀忠が進もうとする妻を呼び止めた。なにごとかと振り返った江に、秀忠は懐から取り出した錦織にしきおりの小さな巾着袋を握らせる。 
「これを国松のところへ持ってまいれ。母上の形見の守り仏じゃ。『早う治して相撲すもうをとるぞ』と伝えてくれ。」 
 秀忠は、父親としてしてやれる精一杯を江に託す。しかし、それは秀忠が思う以上に江に心強さを与えていた。 
「はいっ。」 
 夫の優しさに、江は嬉しさにうっすらと涙を浮かべ、にっこりと美しい笑みを見せた。 
「よい香りがいたしまする。」 
 受け取った錦の袋からは、夫の体臭の中にほのかに感じる白檀びゃくだんの匂いがした。 
「母上は目が悪いゆえ、親父が香木で作らせたそうじゃ。」 
 なるべくさらっと秀忠は言う。 
「では、義父上ちちうえ様のご加護もありましょう。国松にそう伝えまする。」 
 江は嬉しそうな笑顔でうやうやしく巾着をおしいただくと、自分の胸元へそっとしまった。 
「では。」 
「ああ。くれぐれも気を付けるのじゃぞ。」 
「はい。」 
 しっかりした母の顔で返事をし、江は民部卿を従え、再び回廊を戻っていった。 

 (世子せいしの話は国松が治ってからじゃな。)
 秀忠は頭をかきながら、自分の居間へと向かった。途中、抹香まっこうの匂いが漂って来る。香りをたどると大姥局おおばのつぼねの部屋へと着いた。 
「大姥、風邪などもろうておらぬか?」 
 侍女たちが平伏した入り口で立ち止まらず、秀忠は乳母めのとの様子を見に中へ入っていく。
 持仏に向かって一心に念じていた大姥局は、その声に驚いて振り向いた。 
「えっ!ああ、これは、上様。気づきませず、失礼いたしました。」 
 上座を秀忠に勧め、大姥局は横に下がった。 
「変わりはないか。」 
「はい。私はなんとか。国松にのわかさまの熱が高いと聞き及びましたゆえ、お早い平癒へいゆを願うておりました」 
「そうか。気を病ませるな。」 
 秀忠は、乳母に感謝を込めて頭を下げた。 
「なにを仰せです。そのように水くさいこと。私が代わって差し上げたいほどでございます。もう、充分すぎるほど生きましたゆえ。」 
「まだおってもらわねば困る。」 
 のんびりとした乳母の言葉に、養い子ひでただは間髪入れず渋い顔をする。 
「もう、奥のことは御台様にまかせておけば十分でございまする。今回とて、御医師殿の指示を隅々まで伝えておられました。」 
「そうじゃな。それゆえ、私もしばらくはこちらで過ごすように言われた。寝所から追い出されたわ。」 
 自嘲するように秀忠が訴えた。大姥局が誉めるほどの江の成長は嬉しい。が、江の側で眠れないのは寂しい。 
 大姥局には、その思いがよく分かっていた。 
「御台様は、上様が病になられるのを一番恐れておいでです。この間、『近頃は倒れるようにお休みになる』と案じられておりました。」 
「そうか。」 
 柔らかな微笑みを口許に浮かべながらいう大姥局の言葉に、秀忠は神妙な顔をした。
 いつも江は笑顔で迎えてくれて体を揉んでくれた。そのように心配をかけているなどとは、ついぞ思っていなかった。 

「今が踏ん張りどころなのでございましょう?大炊頭おおいのかみ殿から聞いておりまする。」 
「まぁな。」 
 (どのような話がいっているのやら)と秀忠は思う。 
「御台様のお許しが出るまで、こちらでお過ごしくださいませ。また私がお世話いたしまする。」 
 皺の増えた顔にさらに皺を浮かべて、嬉しそうに老乳母は笑った。 
「ああ、頼む。だが、無理はするな。」 
 秀忠にとって大姥局はもはや、母代わり……いや、母と言っても過言ではない。居てくれるだけでいいのだ。そう思った瞬間、江にとっては淀の方様が母代わりと思い至り、胸が痛む。 
 (なんとかせねば……) 
 秀忠が、気を落ち着けるように目を閉じた。それを見逃す大姥局ではない。 
「今日もお疲れなのでございましょう? すぐに夕餉ゆうげを準備させますゆえ、召し上がっておやすみなされませ。」 
「うむ。そうしてくれるか。」 
「かしこまりましてございます。」 
 秀忠が立ち上がると自分の部屋へ向けて歩を進めた。 

◇◆

 秀忠の居間の火鉢にも鉄瓶がかけられ、ほどよく湯が沸いていた。藤が煎茶の道具を運び、大姥局がお茶を入れ始めた。 
 いつもなら、お膳部の御次おつぎが膳を捧げて部屋まで持ってくるが、今日は浅茅あさじが膳を、静がおひつを、回廊の先で受け取り部屋へ入ってきた。城内、ことに秀忠の周りで多くの人が動き回らぬようにと、これも江の指図である。 

 将軍とはいえ、徳川の家風そのままに普段の食事はつつましい。一汁三菜が基本である。
 今宵の菜は、菜の花と蕗の薹ふきのとうの味噌汁、蒲公英たんぽぽの白和え、焼きさわらわらびの酢の物。それに、今日は特別に椿つばきの天ぷらが添えてあった。 
 織部釉おりべゆうの艶のある深緑の皿に、深みを増した赤の花が膳の上で主張している。 

「おっ、椿の天ぷらか。」 
 庭の椿の一枝を切り取ったような皿に、秀忠は口許をほころばせた。 
「御台様のお言いつけでござりまする。上様が椿を愛でるお暇がないご様子ゆえ、せめて膳の上にでもと仰せになられたと。」 
 大姥局がお茶を膳に置きながら、おだやかに報告した。
 共に夕餉を取れない秀忠が寂しくないようにとの江の心配りを、大姥局はよく解っていた。そしてそれは、皿を見るだけで秀忠にも伝わっている。 
「そうか。共に食べたかったの。」 
 椿の花を箸でつまみ上げ、塩をわずかにつけてパクリとかじる。さくっとした衣に、もっちりした食感が心地よい。江の優しさを嬉しく思いつつ、楽しみを分かち合えないのを秀忠はやはり寂しく思う。 
「うむ。旨い。」 
 秀忠は心底ホッとしたような笑顔を見せた。 

 (御台様はなんとお優しいのだろう。) 
 秀忠の笑顔を見ながら、静は感動していた。 
 (御身も奥のことでお忙しいのに、上様のことをよくご覧遊ばされて、上様のお疲れがとれるように、かくも心を砕いていらっしゃる。) 
 静は江を心から尊敬した。自分も今まで以上に精進しなければと思う。 
 (旦那様にしっかりお仕えしたら、御台様のお役にも立てるかしら……) 
 静は、江の役に立てることを心から望んでいた。


*******
【風疫】インフルエンザ
【織部釉】織部焼の特徴のひとつ。鮮やかな緑の焼き物になる。ちょうどこの物語の頃、古田織部の好みで、美濃で焼き始められた。なので、とても斬新な焼き物。 
【椿の天ぷら】八重椿の天ぷらは美味しい
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