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第一部

第一章 春嵐吹く 其の一

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 小正月となり、一連の新年の行事も、やっと一段落する頃である。日差しは春めいているが、今日も冷たい風の中にチラホラと名残の風花かざばなが舞っていた。

「今日は、また一段と冷えるのう……」
 冷たい風に打たれながら、どんより曇った空を恨めしそうに見上げ、土井どい利勝としかつは江戸城の奥の回廊を歩いていた。
「おばばさま、お呼びでござるか?」
「おぉ、利勝殿。よう来てくだされた。寒かろう、ささ、こちらへ。」
 暖まっていた火鉢の傍で大姥局おおばのつぼねが手招きし、利勝を呼び寄せる。
「もうお加減はよろしいのですか。」
「いつまでも臥せっていては周りに示しがつきませぬ。五の姫さまのお食い初めも控えておりますしの。」
 大股で近づきながら問う利勝に、大姥局は微笑みながら凛とした顔で答えた。
 (達者な婆さまじゃ。)
 隙のない男の顔が、ふっと緩む。
「ご無理はなさらぬがよろしいぞ。」
 火鉢の前にあぐらをかきながら、秀忠の傅役もりやくとして育った利勝が母を思いやるように言った。
「まぁ、利勝殿からそのようなお優しい言葉が聞けるとは……。長生きはしてみるものじゃな。」
 大姥局はコロコロと笑う。年に似合わぬかわいい笑い声に、利勝も苦笑いを浮かべた。
「まだまだ内も外も憂えることが多い。大姥殿には今しばらくしっかりと手綱を握っていただかないと困りますゆえ。」
「そうじゃの。」
 老中としての溜息をつきそうな利勝に、大姥局も真顔になる。そのまま周りの侍女に合図をすると、侍女たちが一礼して部屋から全員下がった。
 火鉢の火を整えた大姥局が、姿勢を改め、利勝の前で手をついた。
「利勝殿、いや、大炊頭おおいのかみ殿、お願いがございます。」
「なんでございましょう。改まって。」
 ゴクリと唾を飲み込みそうになりながら、利勝が訊ねる。
「侍女を探してくれませぬか?」
 手をついたまま利勝を見、大姥局は切り出した。
「侍女? 大姥殿の侍女は足りておるのでは……」
「いや、上様のお相手をさせる侍女じゃ。」
「上様の?」
 ひそやかな老婆の声に、利勝は、がぜん興味がわいたが、平静を装って軽く言葉を流す。
 大姥局が少し利勝の元へ、にじり寄ったあと、小声でささやいた。
「御台様のことは聞き及んでおろう?」
「再び子を産んだら命の保証はしないと御殿医ごてんいに言われたことですか?」
 利勝は、秀忠が溜め息をつきながら話したのを、よく覚えていた。(当たり前じゃ。何を今さら……)と思いながら聞いたせいもある。
「そうじゃ。産後の肥立ちもお悪うて、上様も大変ご心痛であった。」
 老乳母の悲しそうな顔に、利勝は師走頃のあるじの情けない様子を思い出し、黙ってうなづく。大姥局が声を低めて続けた。
「以来、上様は御台様にあまりお触れにならぬらしい。」
 利勝がきょろりと大きな目を動かし、小さな溜息を吐いた。
「まぁ、そうでしょうな。それがしとてまだ枯れぬのですから、上様など、御台様に触れるが最後……」
「そうじゃ。上様がおかわいそうであろう?」
 大姥局が利勝に挑むように、再びにじり寄った。利勝がおもわず、後ずさりするように体を反らせる。
「それは、まぁ……。しかし、上様は『側室へやは持たぬ』と仰せになったのでは。」
 面白いことになってきたと思いつつ、秀忠の気性も考え、利勝は冷静に投げかけてみた。
側室おへやではない。私の侍女じゃ。」
 大姥局が間髪を入れず、キッとした声で反論する。
「しかし、その……子ができたときには……」
「そのおりは私が差配さはいする。」
 ヒソヒソと小声で話しているが、こうと決めたときの大姥局の迫力は、相変わらず利勝を圧倒した。
 (やはり上様の乳母殿じゃ)。
 利勝は妙なことを感心していた。
 火鉢の中で炭がパチリと跳ねる。
「……解りました。では、どのような女子おなごを……」
 内心これほどもなく心躍らせながらも、利勝はしおらしく指示を仰ぐ。
「そうじゃな……、まずは上様のお目にかなわねばならぬゆえ、御台様に似ていること。」
 大姥局が背筋を伸ばし、小声ながら、きっぱりと言った。
「ふーむ、そうですな……したが……、あのようにうるわしい方は、そうおられますまい。」
(いくらわしの情報網が広いというても……)と、利勝は額に手を当てる。
「そこが、大炊頭殿の腕の見せ所ではないか。」
「ふーむ……」
気色けしきでよいのじゃ。お若い頃の御台様に似ている女子がよい。」
 攻め込むような勢いで老乳母が叱咤激励する。
「…お若い頃の御台様…」
 そう呟いた利勝の顔に、ふっと微笑みが浮かぶ。
「承知。」
 利勝はそれを不敵な笑みに変え、低い声で了承した。
「さらに、しもの者がよい。身分があるとそれなりに扱わねばならぬゆえの。行儀はこの私がしつける。」
「承知。」
「そして、徳川からも豊臣からも離れた女子じゃ。福のようであっては困る。」
 大姥局の眉間に、より深いシワが寄った。
「なるほど。承知。」
 利勝は返事をしながら、大姥局の言葉を頭の中で反芻した。
(さすがは、おばばさまじゃ)。
 大姥局は三つの条件を出すとやっと一息つき、ゆっくりと話し出した。
「そう急がずともよい。ただ気にかけてくれれば……。私が探しに行ければよいのじゃが、体がついていかぬ。」
 心底残念そうに言う大姥局に、利勝が目を輝かせながら、また優しく声をかけた。
「案ぜず、ゆるりと待っておられるがよい。某が必ず探してまいりましょう。」
「頼みまするぞ。大炊頭殿。」
「承知つかまつった。では、これにて。」
 再び大股で去って行く利勝を見送りながら、(これが最後のご奉公になるやもしれぬ。頼みまするぞ、甚三郎じんざぶろう……)と、大姥局は手を合わせた。


 風花はいつしか止み、どんよりとした雲の隙間から、おだやかな春の陽の光がかすかに射していた。
 しかし、思い出したように吹く風は冷たく、武士もののふの身をも縮ませる。利勝は肩をすくませながら、秀忠のいる中奥なかおくへの回廊を渡っていった。
(確かに、おばばさまの言うとおりじゃな。あの堅物の上様をその気にさせるには、御台様に似た感じがよいか……。これまでわしの好みというか、たおやかな女子を備えたゆえ、上様は喰いつかなんだのか……? お若い頃の御台様のぅ……。じゃじゃ馬……ふーむ……それでいてそこそこの見目……。うーむ、難しいのう……。したが、確かに儂の腕の見せ所じゃ。胸が躍るのぅ……)


 大姥局の部屋を出てから、利勝は頭の中で「御台様に似た女子」を探していた。まつりごとを行う将軍の元に戻ってきても視線はどこか明後日あさっての方向を向いている。

「利勝? 利勝っ! いかがした! 大姥の用向きはなんであった?」
 政務の部屋であるじの姿を捉えていない利勝に、秀忠が語気を強めて訊いた。
「あ、いえ。」
 利勝はハッと我に返った。(まずいまずい。感づかれては……)
 肩を軽く上下させ、利勝は秀忠の前に姿勢を正して座る。
「上様、某、明日より市中を見回ってから城へ上がってよろしいでしょうか。」
「いかがした。」
池上本門寺いけがみほんもんじの塔の完成が近いゆえ観てきてくれと大姥殿が。ついでに今年の春はことさら寒いゆえ、下々の者がなにか困っておらぬか見てまいろうかと。」
 生真面目な顔で、老中は将軍に願い出る。
「ほぅ、そなた、いつからそのように大姥に優しゅうなった?」
 ニヤリと、いたずらっぽい笑みを浮かべて、秀忠が訊いた。
「某は弱き女人にょにんには、いつでも、優しゅうございまする。」
 しれっとした顔の利勝に、秀忠はハハハッと笑った。
「そうであったな。分かった。市中の様子もしっかり見てきてくれ。」
御意ぎょい
 心の中でニンマリと笑いながら、利勝は将軍に恭しく礼をした。



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【小正月】1月15日 この年は西暦で3月2日に当たる
【風花】風に舞う花びらのような雪
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