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番外編 こんにちは、赤ちゃん。(3)
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祝宴が終わり、片づけが始まった庭先で、貴之は月を仰いだ。
みふゆと京司朗はちょっと前に離れに帰った。
仲のいい夫婦になってくれて貴之は安心だ。
二人が並んで歩く後ろ姿を見送るたびに、一抹の寂しさが心をよぎるのも父親の役目。この寂しさも幸福の証の一つだ。
「黒岩、つきあえ」
貴之は黒岩に声をかけ、本橋信子に縁側に酒の準備をさせた。
月が綺麗に輝いている。
「月見酒と洒落込むぜ」
貴之が縁側に座った。
「男二人でですか」
黒岩正吾が笑った。
「いいじゃねえか。男にゃ男だけの世界がある」
貴之が笑った。
山を支配するように切り拓いてつくられた惣領家は空に近い。月も星も間近に観える。
「隆聖は泊まっていくのか?」
「はい。海斗達とオンラインゲームの話をしてましたから。海外勢と対戦するようです」
隆聖は松田の後継者として、海斗は大学に通いながら黒岩家の後継者としてそれぞれ学んでいる。
「ゲームか、時代は変わっちまったな。ゲームがスポーツの一種になっちまうとはな。こんな時代になるなんて若ぇ頃は思ってなかったなあ」
貴之はクイッと日本酒を飲みほした。
「黒岩」
「はい」
「俺はよ、弥生に子供ができたと聞かされた時、本当に嬉しかった。心の底から嬉しかった。だがな、あの時、もっともっと喜べばよかったと思ってる。もっともっと喜んで、弥生に、子供に、命の誕生に、喜びを伝えればよかった。あんなふうに早く失うなら、命がこの世にあるうちにもっともっと喜んで、愛して、幸せを伝えればよかった」
貴之は夜空に輝く月を眺めて静かに語った。
「・・明日、何があるかわからねぇ。生まれるまでの長い時間のなかで、何が起きるかわからねぇ。だから俺は━━━━━」
黒岩も忘れはしない。
主である惣領貴之と、弥生の兄・川原巧を復讐に走らせた悲劇を━━━━
貴之の妻・弥生と子供を守れなかった、父・黒岩大吾の苦しみを━━━━
「愛せるのはいつだって今この瞬間だけだ。だから“今”喜びたかったのさ。今日は特に思いっきりな」
奇しくも弥生と同じ二十五歳で新たな命を授かったみふゆ。
賑やかだった庭先の人の波も消え、祝宴の片づけがどんどんと進む。人影もまばらになってゆく。
貴之に挨拶をして去っていく従業員達の笑顔もまた、貴之は愛おしく思った。
翌朝。午前五時半過ぎ。
今日も晴れ渡る春の空がきれいだ。
みふゆはいつものように目が覚め、いつものように朝の散歩に出ようとした。昨日までの朝となんら変わりない行動だ。
しかし━━━━
京司朗がまっ先に、「散歩に出るのか?まだ休んでいたほうがいいんじゃないか?」と心配した。
次に父・貴之が「怠くねえか?そうだ、車椅子使うか?俺が押してやる」と言いだした。
妊娠している当事者よりも夫と父親がオロオロしているのがみふゆは面白かった。
昨夜は北海道に行っている胡蝶と夫の松田俊也からも電話があり、ふたりからお祝いの言葉をもらった。そして、
『橘が北海道の写真をたくさん撮ってくれたわよ。楽しみにしててね』
と、胡蝶が優しい声で言った。
たくさんの人から祝われることも、みふゆの人生のなかでは初めての経験だ。
みふゆは嬉しかった。ただただ嬉しかった。
だから、嬉しさに入りまじる不安は、初めての妊娠のせいだと思いこんだ。
散歩を早めに切り上げ、みふゆは京司朗とともに皆より先に朝食をとった。
京司朗は食事を終えたらすぐに空港に向かう。
プライベートジェットで関西国際空港に行き、インドへ渡る予定だ。
「インドの菊池によろしく言っといてくれ。次は中東に行く予定だろ?」
玄関先で京司朗を見送る貴之が言った。
「はい。ただ、一度日本に帰国させてから中東には行ってもらおうと考えています。菊池はここ半年ほど帰国できていませんから」
「それがいいな。家族も会いてえだろうしな。モニター越しじゃなくってな」
貴之は家族が離ればなれになるのを好まない。海外赴任も一ヶ月に一回は家族の元に帰れるように調整させているが、菊池の場合は仕事内容の難しさからなかなか帰国ができないでいた。
京司朗は貴之との話しが終わるとみふゆに手を差し伸べ、
「じゃあ、行ってくるよ」
と、みふゆの頬にキスをした。西洋式の挨拶になれないみふゆはキスを返す代わりに京司朗に抱きついた。
「いってらっしゃい」━━━行かないで
みふゆの心の片隅で声がする。
本当は行ってほしくない。そばにいてほしい。
気持ちを伝えれば京司朗はきっと行かないだろう。みふゆの願いを叶えてくれるだろう。
だからこそみふゆは素直な気持ちを伝えることができなかった。
京司朗の邪魔をしたくなかった。
祝宴が終わり、片づけが始まった庭先で、貴之は月を仰いだ。
みふゆと京司朗はちょっと前に離れに帰った。
仲のいい夫婦になってくれて貴之は安心だ。
二人が並んで歩く後ろ姿を見送るたびに、一抹の寂しさが心をよぎるのも父親の役目。この寂しさも幸福の証の一つだ。
「黒岩、つきあえ」
貴之は黒岩に声をかけ、本橋信子に縁側に酒の準備をさせた。
月が綺麗に輝いている。
「月見酒と洒落込むぜ」
貴之が縁側に座った。
「男二人でですか」
黒岩正吾が笑った。
「いいじゃねえか。男にゃ男だけの世界がある」
貴之が笑った。
山を支配するように切り拓いてつくられた惣領家は空に近い。月も星も間近に観える。
「隆聖は泊まっていくのか?」
「はい。海斗達とオンラインゲームの話をしてましたから。海外勢と対戦するようです」
隆聖は松田の後継者として、海斗は大学に通いながら黒岩家の後継者としてそれぞれ学んでいる。
「ゲームか、時代は変わっちまったな。ゲームがスポーツの一種になっちまうとはな。こんな時代になるなんて若ぇ頃は思ってなかったなあ」
貴之はクイッと日本酒を飲みほした。
「黒岩」
「はい」
「俺はよ、弥生に子供ができたと聞かされた時、本当に嬉しかった。心の底から嬉しかった。だがな、あの時、もっともっと喜べばよかったと思ってる。もっともっと喜んで、弥生に、子供に、命の誕生に、喜びを伝えればよかった。あんなふうに早く失うなら、命がこの世にあるうちにもっともっと喜んで、愛して、幸せを伝えればよかった」
貴之は夜空に輝く月を眺めて静かに語った。
「・・明日、何があるかわからねぇ。生まれるまでの長い時間のなかで、何が起きるかわからねぇ。だから俺は━━━━━」
黒岩も忘れはしない。
主である惣領貴之と、弥生の兄・川原巧を復讐に走らせた悲劇を━━━━
貴之の妻・弥生と子供を守れなかった、父・黒岩大吾の苦しみを━━━━
「愛せるのはいつだって今この瞬間だけだ。だから“今”喜びたかったのさ。今日は特に思いっきりな」
奇しくも弥生と同じ二十五歳で新たな命を授かったみふゆ。
賑やかだった庭先の人の波も消え、祝宴の片づけがどんどんと進む。人影もまばらになってゆく。
貴之に挨拶をして去っていく従業員達の笑顔もまた、貴之は愛おしく思った。
翌朝。午前五時半過ぎ。
今日も晴れ渡る春の空がきれいだ。
みふゆはいつものように目が覚め、いつものように朝の散歩に出ようとした。昨日までの朝となんら変わりない行動だ。
しかし━━━━
京司朗がまっ先に、「散歩に出るのか?まだ休んでいたほうがいいんじゃないか?」と心配した。
次に父・貴之が「怠くねえか?そうだ、車椅子使うか?俺が押してやる」と言いだした。
妊娠している当事者よりも夫と父親がオロオロしているのがみふゆは面白かった。
昨夜は北海道に行っている胡蝶と夫の松田俊也からも電話があり、ふたりからお祝いの言葉をもらった。そして、
『橘が北海道の写真をたくさん撮ってくれたわよ。楽しみにしててね』
と、胡蝶が優しい声で言った。
たくさんの人から祝われることも、みふゆの人生のなかでは初めての経験だ。
みふゆは嬉しかった。ただただ嬉しかった。
だから、嬉しさに入りまじる不安は、初めての妊娠のせいだと思いこんだ。
散歩を早めに切り上げ、みふゆは京司朗とともに皆より先に朝食をとった。
京司朗は食事を終えたらすぐに空港に向かう。
プライベートジェットで関西国際空港に行き、インドへ渡る予定だ。
「インドの菊池によろしく言っといてくれ。次は中東に行く予定だろ?」
玄関先で京司朗を見送る貴之が言った。
「はい。ただ、一度日本に帰国させてから中東には行ってもらおうと考えています。菊池はここ半年ほど帰国できていませんから」
「それがいいな。家族も会いてえだろうしな。モニター越しじゃなくってな」
貴之は家族が離ればなれになるのを好まない。海外赴任も一ヶ月に一回は家族の元に帰れるように調整させているが、菊池の場合は仕事内容の難しさからなかなか帰国ができないでいた。
京司朗は貴之との話しが終わるとみふゆに手を差し伸べ、
「じゃあ、行ってくるよ」
と、みふゆの頬にキスをした。西洋式の挨拶になれないみふゆはキスを返す代わりに京司朗に抱きついた。
「いってらっしゃい」━━━行かないで
みふゆの心の片隅で声がする。
本当は行ってほしくない。そばにいてほしい。
気持ちを伝えれば京司朗はきっと行かないだろう。みふゆの願いを叶えてくれるだろう。
だからこそみふゆは素直な気持ちを伝えることができなかった。
京司朗の邪魔をしたくなかった。
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