42 / 278
42. 華やかな迷路へ (4)
しおりを挟む
.
名作「まほろば藤」
稀代の天才着物作家、藤原匠真がつくった一点物の振袖。
美しい幻想世界を閉じ込めた名品。
展示のみの非売品。
「藤原さんの次男さんが作った着物よ。着物としての評価も最高だけど、特にこの絵、"着物に描かれた絵画"としても評価が高いの」
楓さんの説明に、藤原さんは正座し小物を揃えていた手を止めて、次男の匠真さんの話をしてくれた。
「元々は油絵画家でございましたが、突然何も描けなくなりまして・・、筆を折ろうとしておりました。ある方から着物に描いたらどうかと言われたのがきっかけになって、着物作りに携わるようになったのでございます。おかげさまでいまも描き続けることが出来ております。着物に携わるきっかけをくださった方には本当にいまも心から感謝しております」
藤原さんは、『まほろば藤』をみつめながらにこやかに話すが、画家が筆を折ろうとするなんて、次男さんの絶望はどれだけ深かったか。そして、親として、藤原さんもどれだけ苦しかったかわからない。
いつの間にかわたしの真横に来ていた組長先生も言う。
「人間の繋がりってのは不思議なもんだ・・。苦しんで苦しんでもがいて何もかもどうでもよくなった時に、救いの手がひょいと差しのべられたりするんだ。だが、本人が救いの手に気づかなきゃどうにもなんねえ。気づける人間で在ることが大切なのかもしれねえな。な?嬢ちゃん」
組長先生はわたしの頭にぽんと手を置く。わたしに言っているのかと思わせる仕草だった。
「俺は間近で観るのはこれで二度めだが、どうも前回観たときと感じが違うんだ。前回はやたらと近づきがたい神域の美しさを感じたが、今回は柔らかで優しい、天女が現れそうな美しさを感じる」
「それも『まほろば藤』の特徴のようでございます。なにやら皆様同じように観る度に違うおっしゃって、まほろば藤は連作なのかとおっしゃる方もおられます」
「自分が変わったから違うように感じるのよ。自身の変化には自分では気づけないのよね。何か起きないと」
楓さんが苦笑いして言った。
「そうだな。たまにはいいこと言うじゃねえか楓」
「あら、あたしはいつだっていいことしか言わないわよ」
組長先生が大笑いし、わたしの方を向きなおした。
「嬢ちゃんも今日感じた『まほろば藤』を覚えておくんだぞ。次にこの着物に出逢う時、どんな風に自分が変わったのかを知ることが出来るはずだ」
まるで小さな子供に言い聞かせるみたいに、組長先生はわたしの頭を撫でながら言った。
わたしは「はい」と答え、そんな名品をじっくり間近で観れたことを思うと、感動で胸が熱くなった。
同時に、心に影がよぎった。
『次はもうないだろ?』と、違う自分が囁いていた。
ただ、この素晴らしさは忘れまい。
お父さんの見た世界は本当はこんな風だったんだろうと。
ベッドで夢の中の世界を話していた時の、あの幸せそうな笑みがやっと理解できた気がする。
わたしが物思いに耽っていると、組長先生が、
「嬢ちゃん、そろそろ着てみせてくれや」と言った。
藤原さんは躊躇なく「ではお嬢様、」と『まほろば藤』を手にする。
わたしは慌てて、
「着れませんっっそんなすごい着物っっ無理無理無理無理無理っっっっ」
両手をブンブンと振り、強い遠慮の意向を思いっ切り示した。
天才が作ったそんな名作と呼ばれる着物を着るなんてまじめに無理!非売品だよ?!
試着させてもらってた着物だって心臓バクバクだっていうのに。
スーパーの3900円のTシャツを買うかどうかを悩む人間にこれ以上無茶はさせないでほしい。
「おいおい嬢ちゃん、何もそんなに」
言いかけてる言葉にかぶせるようにわたしは、
「無理ですぅぅぅぅぅぅっっ」
と、最後は泣き落としで決着をつけた。
結局、お昼もごちそうになり、午後は色無地と訪問着を試着し選び、終わったのは午後二時を過ぎていた。
わたしは振袖を二枚、訪問着を二枚、色無地を一枚選ばせてもらい、その日はおいとました。
松田さんのお茶会はあさって。当日の天気も見て、どれにすればいいか決めるとなったのだ。この場合のどれかというのはもちろん二枚の振袖のどちらかだ。
組長先生と楓さんは、どうせなら夕飯も食べて泊まっていけばいいのにと言ったが、遠慮した。
楽しかったけど、その分疲れたのだった。家に帰りたかった。
だから、明日は家でゆっくりしよう。朝からダラダラして過ごそう。
古くて小さい家だけど、やっぱり自分の家が一番落ち着く。
自分の唯一の居場所。素でいられる場所。
帰りに本橋さんが、朝に収穫したブルーベリーと、3時に出す予定だったとお菓子を手渡してくれた。
お屋敷の門まで、組長先生と楓さんが見送りについて来てくれた。
いつも庭や通りを掃除してくれている若い男性が、自転車を道路まで出してくれた。
わたしが「いつもありがとうございます」と言うと、「お気をつけて」と言ってくれた。
わたしは自転車のかごに、着替えの入ったバッグを置いて、その上にブルーベリーとお菓子をのせ、
「今日はありがとうございました。あさってまた来ます」と二人に向かって挨拶をした。
組長先生は自転車のハンドルを掴んでいるわたしのすぐ側まで来て
「気ぃつけて帰るんだぜ?なんかあったらすぐ電話しろよ、嬢ちゃん。嬢ちゃんはもっともっと甘えていいんだぞ」と、また、わたしの頭を撫でた。
「・・はい!ありがとうございます」
わたしは二人にお礼のお辞儀をし、自転車に乗って家路についた。
『もっともっと甘えていいんだぞ』
組長先生の優しさが、
わたしは嬉しくも辛かった。
「会長、少しよろしいでしょうか?」
着物の居並ぶ静かな和室で、呉服屋藤原の当主・藤原央己は神妙な面持ちで会長の惣領貴之に声をかけた。
「なんだ?何か問題でもあったのか?」
「『まほろば藤』のことでございますが」
「まほろば藤?」
「会長、この『まほろば藤』、あのお嬢様にお譲りしたく思いますので、どうかお力添えいただけませんか」
藤原央己は両手をつき、懇願するかのように頭を低く下げていた。
名作「まほろば藤」
稀代の天才着物作家、藤原匠真がつくった一点物の振袖。
美しい幻想世界を閉じ込めた名品。
展示のみの非売品。
「藤原さんの次男さんが作った着物よ。着物としての評価も最高だけど、特にこの絵、"着物に描かれた絵画"としても評価が高いの」
楓さんの説明に、藤原さんは正座し小物を揃えていた手を止めて、次男の匠真さんの話をしてくれた。
「元々は油絵画家でございましたが、突然何も描けなくなりまして・・、筆を折ろうとしておりました。ある方から着物に描いたらどうかと言われたのがきっかけになって、着物作りに携わるようになったのでございます。おかげさまでいまも描き続けることが出来ております。着物に携わるきっかけをくださった方には本当にいまも心から感謝しております」
藤原さんは、『まほろば藤』をみつめながらにこやかに話すが、画家が筆を折ろうとするなんて、次男さんの絶望はどれだけ深かったか。そして、親として、藤原さんもどれだけ苦しかったかわからない。
いつの間にかわたしの真横に来ていた組長先生も言う。
「人間の繋がりってのは不思議なもんだ・・。苦しんで苦しんでもがいて何もかもどうでもよくなった時に、救いの手がひょいと差しのべられたりするんだ。だが、本人が救いの手に気づかなきゃどうにもなんねえ。気づける人間で在ることが大切なのかもしれねえな。な?嬢ちゃん」
組長先生はわたしの頭にぽんと手を置く。わたしに言っているのかと思わせる仕草だった。
「俺は間近で観るのはこれで二度めだが、どうも前回観たときと感じが違うんだ。前回はやたらと近づきがたい神域の美しさを感じたが、今回は柔らかで優しい、天女が現れそうな美しさを感じる」
「それも『まほろば藤』の特徴のようでございます。なにやら皆様同じように観る度に違うおっしゃって、まほろば藤は連作なのかとおっしゃる方もおられます」
「自分が変わったから違うように感じるのよ。自身の変化には自分では気づけないのよね。何か起きないと」
楓さんが苦笑いして言った。
「そうだな。たまにはいいこと言うじゃねえか楓」
「あら、あたしはいつだっていいことしか言わないわよ」
組長先生が大笑いし、わたしの方を向きなおした。
「嬢ちゃんも今日感じた『まほろば藤』を覚えておくんだぞ。次にこの着物に出逢う時、どんな風に自分が変わったのかを知ることが出来るはずだ」
まるで小さな子供に言い聞かせるみたいに、組長先生はわたしの頭を撫でながら言った。
わたしは「はい」と答え、そんな名品をじっくり間近で観れたことを思うと、感動で胸が熱くなった。
同時に、心に影がよぎった。
『次はもうないだろ?』と、違う自分が囁いていた。
ただ、この素晴らしさは忘れまい。
お父さんの見た世界は本当はこんな風だったんだろうと。
ベッドで夢の中の世界を話していた時の、あの幸せそうな笑みがやっと理解できた気がする。
わたしが物思いに耽っていると、組長先生が、
「嬢ちゃん、そろそろ着てみせてくれや」と言った。
藤原さんは躊躇なく「ではお嬢様、」と『まほろば藤』を手にする。
わたしは慌てて、
「着れませんっっそんなすごい着物っっ無理無理無理無理無理っっっっ」
両手をブンブンと振り、強い遠慮の意向を思いっ切り示した。
天才が作ったそんな名作と呼ばれる着物を着るなんてまじめに無理!非売品だよ?!
試着させてもらってた着物だって心臓バクバクだっていうのに。
スーパーの3900円のTシャツを買うかどうかを悩む人間にこれ以上無茶はさせないでほしい。
「おいおい嬢ちゃん、何もそんなに」
言いかけてる言葉にかぶせるようにわたしは、
「無理ですぅぅぅぅぅぅっっ」
と、最後は泣き落としで決着をつけた。
結局、お昼もごちそうになり、午後は色無地と訪問着を試着し選び、終わったのは午後二時を過ぎていた。
わたしは振袖を二枚、訪問着を二枚、色無地を一枚選ばせてもらい、その日はおいとました。
松田さんのお茶会はあさって。当日の天気も見て、どれにすればいいか決めるとなったのだ。この場合のどれかというのはもちろん二枚の振袖のどちらかだ。
組長先生と楓さんは、どうせなら夕飯も食べて泊まっていけばいいのにと言ったが、遠慮した。
楽しかったけど、その分疲れたのだった。家に帰りたかった。
だから、明日は家でゆっくりしよう。朝からダラダラして過ごそう。
古くて小さい家だけど、やっぱり自分の家が一番落ち着く。
自分の唯一の居場所。素でいられる場所。
帰りに本橋さんが、朝に収穫したブルーベリーと、3時に出す予定だったとお菓子を手渡してくれた。
お屋敷の門まで、組長先生と楓さんが見送りについて来てくれた。
いつも庭や通りを掃除してくれている若い男性が、自転車を道路まで出してくれた。
わたしが「いつもありがとうございます」と言うと、「お気をつけて」と言ってくれた。
わたしは自転車のかごに、着替えの入ったバッグを置いて、その上にブルーベリーとお菓子をのせ、
「今日はありがとうございました。あさってまた来ます」と二人に向かって挨拶をした。
組長先生は自転車のハンドルを掴んでいるわたしのすぐ側まで来て
「気ぃつけて帰るんだぜ?なんかあったらすぐ電話しろよ、嬢ちゃん。嬢ちゃんはもっともっと甘えていいんだぞ」と、また、わたしの頭を撫でた。
「・・はい!ありがとうございます」
わたしは二人にお礼のお辞儀をし、自転車に乗って家路についた。
『もっともっと甘えていいんだぞ』
組長先生の優しさが、
わたしは嬉しくも辛かった。
「会長、少しよろしいでしょうか?」
着物の居並ぶ静かな和室で、呉服屋藤原の当主・藤原央己は神妙な面持ちで会長の惣領貴之に声をかけた。
「なんだ?何か問題でもあったのか?」
「『まほろば藤』のことでございますが」
「まほろば藤?」
「会長、この『まほろば藤』、あのお嬢様にお譲りしたく思いますので、どうかお力添えいただけませんか」
藤原央己は両手をつき、懇願するかのように頭を低く下げていた。
10
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
