瓶詰めの神

東城夜月

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第二十二話 裏切り者の記憶②

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 どうやら母親は宗教に嵌まったらしいということには、中学校に入ってから気づいた。
 わざわざ夜逃げ同然に故郷を去ってまで入学させられた比名川ひながわ学園中等部は、退屈の塊だった。なにせあらゆる娯楽を禁止された上、毎週末には「祈り」と称した集会に参加しなければならなくなったからだ。故郷では無制限に娯楽を与えられた生活をしていたため、これは辛かった。
 退屈を紛らわせるために、今まで経験したことのなかった自転車競技部に入ってみただが、元々運動は苦手ではないし、昔からコツを掴めばすぐに何事もこなしてしまう性であったから、簡単に大会メンバーの座を手に入れてしまった。尤も、皆宗教というものに倦んでいて、やる気を失っていたからかもしれない。運動部は、教団を宣伝するための広告塔でしかなかったからだ。
 そして予想外だったのが、学園でも生徒達から遠巻きにされることだった。妾の子という出生がバレたからではない。思春期特有の、くだらない理由だった。
 最初は小さな違和感から始まった。必要に迫られて他の生徒達に話しかけても、皆やけによそよそしいのだ。最初は自分がいわゆる「余所者」だからかと思った。だが、いつまで経っても自分だけ周囲と距離が遠かった。理由を知ったのは、部活中に森山と交わした、何気ない会話からだった。
「お前、本当に人気あるよな」
「そんなことないですけど」
 休憩中に森山にそう言われ、最初は意味がわからなかった。寧ろ遠巻きにされているくらいだと言うのに。
「わざわざ部活動を覗きに来る女子がいて、そんなことない、はねえだろ」
「覗きに?」
「お前、気づいてなかったのか」
 森山が指差した方向を見ると、丁度女子生徒二人組が背を見せて立ち去るところだった。咎められると思ったのだろう。
「今の、お前目当てだぞ」
「知りませんでした」
「マジかよ、毎日色んな奴が覗きに来てたのに?」
「寧ろ、嫌われとると思ってました。自分、クラスに馴染めてないんで。なんか、遠巻きにされとる感じで」
「男女両方にか」
「はい」
 そう答えると、森山は合点がいったというように頷いた。
「多分、女子は誰も抜け駆けしないように牽制し合ってるんじゃないか」
「そんなことあります?」
「女子の世界は厳しいぞ。それで、男子はお前が女子に人気なのが気に入らないんだろ」
 そう言われて、湊はあの夜に言われたことを思い出した。
 ちょっと顔がええからって、調子に乗って澄ました顔しとるから──。
 どうやら、生徒達は自分の顔を見ただけで勝手に牽制し合い、勝手に遠巻きにしているらしい。自分のことを、何一つ知らないくせに。
 他人に何も期待することはなかったので、悲しくはなかった。ただ、馬鹿だな、という感想しか湧いてこなかった。
 そんな退屈な日常は、二年目で一変した。
「今日は、まず新入部員を紹介する」
 三年生になり、自転車競技部の部長となった森山がミーティングが始まるなりそう言った。春と夏のこの中途半端な時期に新入部員なんて、と誰もが首を捻っていた。
 姿を現したのは、陰鬱な雰囲気の少年だった。
「二年の永友裕矢ながとも ゆうや。親の都合で比名川に編入しました、以後よろしく」
 全身を使って、不満だ、と訴えているかのようだった。恐らく、親が封斗教ほうときょうに嵌まって、無理矢理連れてこられたのだろう。
「湊、同じ二年だろ。色々教えてやってくれ」
森山に言われ、はい、と返事はしたが、内心は面倒だった。この全身で不機嫌さを表明している彼の相手は、骨が折れそうだと思った。
 永友は口数の多い方ではなかった。いつも無愛想で、練習も雑用も無言でこなした。お目付役としては、無駄に話しかけられることがないので楽だった。
 彼が来てから一ヶ月ほど経った頃、全国大会に向かうレギュラーを決める部内レースが開かれた。教団の広告塔である運動部は、常に結果を求められる。無様な成績に終わろうものなら、最悪部活そのものが取り潰されかねない。そんな事情があって、レギュラーはほとんど三年生で固まっていた。残り一つの席が、下級生に残されていた。
 片田舎にあるこの学園では、走る場所には事欠かない。学園の周りを走るだけで、激しい起伏に晒される。レースは、学園を取り囲む山道を規定の回数分、一番速く周回した者を勝者とする、というルールであった。
 まあ、今回も自分がレギュラーを取るだろう、と湊は思っていた。全力で走る必要もないだろうと漫然と走っていると、後ろに気配を感じた。裕矢が、自分に食い付いてきている。自転車競技の経験は無いと言っていたはずだ。一ヶ月程度の練習で自分についてこれるほどの実力をつけていたなど、予想だにしなかった。
 結局レースの間、抜かれることはなかったもののずっと後ろに食らい付かれ、いつの間にか湊も全力で走らざるを得なくなった。
 ゴールしたと同時に、裕矢は崩れ落ちるように自転車から降りて、倒れ込んだ。それを森山達三年生が介抱してやっている。
「次は俺が獲るからな」
 様子を見に来た湊に気づくと、裕矢は一言そう言った。ぼろぼろの体で、息も絶え絶えであるにも関わらず。
 どうして自分はわざわざ全力を出して走ったのだろう。別にレギュラーの座に執着はない。彼に取らせてもよかったはずだ。彼が食い付いてくる姿につられて、思わず全力を出してしまったとしか言いようがない。
 思えば、こんな風に対等な目線で食ってかかられたのは初めてだった。故郷では難癖をつけられるとき、決まって「妾の子」と蔑まれたからだ。
 自分を妾の子と見下げることもなく、女を取られるというくだらない理由で遠巻きにせず、真正面からぶつかってくる相手。そんな存在は、彼だけだ。そう理解した瞬間、今までに無い胸の昂ぶりに襲われた。心臓のあたりがぞわぞわして、落ち着かない。こんな感覚は、生まれて初めてだった。
 もしかして、これが「楽しい」という感情なのかもしれない。
 未知の感情を求めて、湊は真剣に練習に取り組むようになった。裕矢の成長は著しい。手を抜いていてはすぐに追い抜かれて失望されるだろうことは容易に予想できた。
 レギュラー争い以外にも、あらゆるところで裕矢は必ずつっかかってきた。企業や自治体主催のレース、イベントへの遠征──順位が出ることであれば、彼は必ず湊よりも上を狙ってきた。
 初めて裕矢に順位で負けたとき、何故か彼は湊に食ってかかってきた。
「お前、手抜いただろ」
「抜いてないよ」
「じゃあ、なんで俺に負けてへらへらしてんだ」
 それは負けたから笑っているのではない、と弁解するべきか迷ったが、彼相手に「競い合うのが楽しいから」などと言おう物なら怒りに油を注ぐことになるのは目に見えていたので、困惑している振りをした。
「澄ました顔しやがって、俺の一人相撲かよ。馬鹿みてえ」
 昔言われた嫌味と同じことを言われるとは思わなかった。自分は本当に取り澄ました顔をしているのだなと思って、また笑いそうになった。
 彼と競い合うことだけを考えていれば、退屈になる暇などなかった。このまま高等部に上がれば全寮制の生活になる。以前はただでさえ退屈な生活が酷くなるのかと暗澹とした気分になったものだが、今は彼がいる。彼さえいれば、退屈とは無縁の生活でいられるに違いない。湊は、そう信じていた。
 高等部、二年生の春に、それは崩れ去った。
 永友が入学したばかりの外部生に絡んだらしい、という話はすぐ学年中に広まった。
 嫌な予感がした。確かに彼は教団に反抗的で、問題児扱いされているが、意味も無く他者に喧嘩を売るような人間ではない。つまりその行動は、その外部生が裕矢のなんらかの関係者であることを意味していた。
 更に、入学式を境に裕矢のパフォーマンスが著しく低下した。もはや心ここにあらず、といった様子なのは明らかだった。
 だから、彼と森山が練習を抜け出して話し込んでいるのを立ち聞きしてしまったのだ。
「部活なんかやってる場合じゃない」
 眩暈がした。こんな急に、どうして体調不良など起こしたのだろうと思った。水分も、補給食も足りていたはずなのに。
 ふと手に持ったままのボトルを見ると、大きなヒビが入っていた。それを掴んでいる自分の手は、爪の先まで真っ白だった。いつの間にか、力一杯ボトルを握りしめていたのだ。
 湊はようやく思い出した。これは絶望だ。なにも期待しない人生を送ってきたために、すっかり忘れていた。こんなにも苦しい感情があったということを。
 やっと対等に見てくれる相手ができたと思ったのに、彼は自分との闘争を放り出して、女のことに苦心している。そんなこと、許せるはずがなかった。
 そんな女、消えれば良いのに。

 冬休みを潰してまで行われた、馬鹿馬鹿しい儀式とやらも二日目になった。有希と二人で息を潜めていた教室の窓から、裕矢と女──武村和たけむら なごみが中庭を横切っていくのが見えた。あの女、都丸とまるの餌にしたというのにしぶとく生き残っていたらしい。
 後を追う、と有希に告げると、彼女は何の反対もせずについてきた。子供の頃、今日はこれで遊ぶ、と言った湊に何の意見もせず従っていた彼女と、なにも変わっていなかった。
 二木にきと出くわしたのは全くの偶然だった。昇降口に出たとき、外に出ようとしていた彼女と鉢合わせしてしまったのだ。
 彼女が儀式の開始からずっと、校舎中をせわしなく動き回っていたのは湊も感じていた。できれば出くわしたくない人間ではあったが、恐れていたことが起きてしまった。
 こちらが二人なのを見て不利と判断したのか、二木は逃げる素振りをしながら何かを投げてきた。傍らにいた有希を引き寄せ、盾にしたのは、意図してのことではなかった。咄嗟に、反射的にやったことだ。
 破裂音がして、有希が血を吐き出した。彼女の体には深々と金属片が刺さっていた。金属片の質感を見るに、アルミ缶と洗剤の化学反応を利用したものだろう。
「せ、ん、ぱい」
 ごぼごぼと血を吐き出す有希が、真っ白な顔で、目を見開いて縋るように湊を見ていた。盾にされたことを理解し、信じられない、とでも言いたげな表情だった。湊さえ生きていれば、自分の生死は問わないなどと大見得を切っていたくせに。
 どうしようか、と考える。このまま放置すれば彼女は死ぬだろう。
 そう言えば、武村和と彼女は友人だった。あの女を殺すための、撒き餌にできないだろうか──そう考えて、ふと思いつく。
 自分を、死んだことにできないだろうか。全員を欺くことができれば、何をするにせよ動きやすくなる。なにせ、都丸のような厄介者を撒きながらあの女を殺そうとするのは骨が折れる。一日くらい死んだ振りをしていれば、何人かは気づくだろう。
 そう思って、湊は支給されたナイフを取り出し、有希の喉を真一文字に切り裂いた。
 絞め殺される直前の鶏のような、奇妙な声を上げたきり、彼女は廊下に倒れて動かなくなった。まともに血飛沫を浴びたが、偽装するなら好都合だ。
 血を啜ってでも生き残りたいわけではない。生き残ったところで、また目標も感情もない、植物のような人生が戻ってくるだけだ。一度昂ぶる気持ちを知ってしまった今、そんな生活に耐えられる気はしない。きっと、行き着く先は自殺だろう。
 だから、生き残らなくて良い。ただ、武村和をこの手で殺すことができれば、それだけでいいのだ。後のことは、何も知らない。
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