高貴なる人質 〜ステュムパーリデスの鳥〜

ましら佳

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⌘1章 雲母の水底 《きららのみなぞこ》

23.山猫

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 「ご婦人」「先程」「帰られました」。
部下が報告した単語だけ耳が拾った瞬間に十一じゅういちは慌てて基地を飛び出した。
わかったと言わない自分に痺れを切らしたか見切りをつけて、残雪ざんせつが出て行ったのだ。
とんでもない女だ、冗談じゃない、何考えてるんだ、逮捕されて収監してもらえ。
四輪の全地形対応車クアッドを走らせて、十一じゅういちが毒付いた。
極北に春はまだ遠く、雪が降り続いている。
自然保護条約が締結されている地区は確かに非交戦地域ではある。
だが、もし演習中の兵や、脱走兵や兵隊崩れに遭遇すればどうなる。
戦場で何らかの正しさは存在しても、理性等無いに等しい。
加えて、自然保護地区になる程なのだから、自然が豊か、つまり暴力的なまでに圧倒的なのだ。
大型の野生動物も多く、この土地では常に彼らが正義だ。
人間等、ほふられても当然とばかりに。
ふと、獣の気配がした。
風に乗って狼が何かを知らせる遠吠えが聞こえた。
十一じゅういちが東北東にハンドルを切った。

 前方で、馬上の残雪ざんせつと、狼の群れが対峙しているのが見えた。
飢えた狼は人間の女と馬はリスクの少ない良い狩りとなると判断したのだろう。
背後から十一じゅういちが近付いたと気付いた残雪ざんせつが手で制した。
駆逐くちくするな、刺激するなと言う事か。
訝しげにしていると、残雪ざんせつが馬から降りた。
何をしているんだと叫びたくなったが、堪える。
怯えた馬の顔に、自分が着ていたケープを掛けて目を隠して、何度か撫でてやる。
馬は落ちつき、静かになった。
残雪ざんせつが馬よりも前に出て銃を構えた。
他の個体より一回り大きい一匹にピタリと銃口を向けていた。
狼は群れで動く。
あれが、大将トップか。
残雪ざんせつはどれがリーダーが見定めたのか。
しかし、距離がありすぎる。
当たらなければ、他が次々と向かって来るだろう。
狩りにおいてその才能は、人間は獣以下だ。
しかし十一じゅういちは残雪ざんせつに近づき、驚いた。
猫のように瞳が動き、きゅっと瞳孔が小さくなって、目の色が明るくなり世界を反射したように見える。
普通、こういう状況であれば、交感神経が働きアドレナリンが放出されて呼吸数が増えて、心拍数が上がり、瞳孔が開く。
体温が上がり、興奮した人間独特の体臭がするものだ。
今、残雪は鎮静しているのか。
いや、なぎというより、集中か。
十一じゅういちは獣の群れに背を向けて、自分の肩を手で示した。
残雪ざんせつは意図を悟って、十一じゅういちの胸に潜り込んで、肩越しに銃口を向けて腿に自分の膝を立てた。
多少安定が悪いと残雪ざんせつが不満そうに小さく声を出したのに、十一じゅういち残雪のざんせつ腰を支えた。
残雪の心臓の音が聞こえた。
心拍数が下がって行くのを感じた。
この状況で、心拍数まで下がるのか、と十一じゅういちは驚いた。
「・・・外すなよ、よく狙え」
残雪ざんせつはゆっくり浅く息を吐いたのと同時にトリガーを迷いなく素早く引いた。

 帰途につきながら、十一じゅういちが説教を続けていた。
「野生動物は、オオカミやハイイログマだけじゃない。オオヤマネコとか、猫科の大型獣だっている!」
狼の群れは、残雪ざんせつの放った銃弾に倒れた大将リーダーの死を確認すると去って行った。
勝負がついたのだ。
群れと言うのは現実的に出来ているものだ。
死をもたらす女神の腕から逃れ、もはや自ら破滅には近づかないだろう。
たおれた仲間に別れの挨拶か、仲間を殺した者に呪いのつもりか、遠くで狼が遠吠えをした。
それが遠くなり聞こえなくなると、腕の中の残雪ざんせつの体温と心拍数が徐々に上がり始めたのを感じた。
彼女はするりと十一じゅういちの腕から抜け出すと、「いやぁ、よかったよかった」と言い、ねぇ?と呑気に同意を求めた。
それに十一じゅういちは雷を落としたわけだ。
こんなバカはまだ年端も行かない弟妹弟子でも見た試しがない。
しかし、残雪ざんせつは更に呑気なもので。
「ヤマネコって何?ウミネコとは違う?」
と尋ねる始末。
「初めて聞いた。どんな生き物?」と驚いた顔をしている。
十一じゅういちは舌打ちした。
鳥と猫の違いの話ではなく、それだけ危険だと言ったつもりが全く響かない。
「君みたいなやつのことだ!猫だ!大きな猫!」
また怒鳴られて残雪ざんせつが膨れた。
「こんな寒い場所に猫なんかいるわけないじゃない。猫はあったかい場所が原産なのよ。確か、エジプトよ?・・・大体、私、命の恩人なのになんで怒られるの?あのままだったら二人とも今頃おいしく食べられてたとこよ?!」
「・・・そんな状況にしたの、誰ですかね?」
残雪ざんせつは馬に角砂糖をあげながら自分も何個もかじっている。
「そうね。十一じゅういちが、早く言うこと聞いてくれたらこんなことならなかったものね」
十一じゅういちはさすがに唖然とした。
そのふさがらない開いた口に、残雪ざんせつが角砂糖を放り込んだ。
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