5 / 33
5.太太《奥様》は女優
しおりを挟む
さて。桜子ちゃん。
ママは葉鳳、と言う名前でした。
いかにも女優と言うその宣材写真にサインが書いてあるでしょう。
鳳姐、鳳姉さん、と皆は呼びました。
私の名前、私は、怜月といいます。
英語名ですか?
もう誰も呼びませんけどね。小さい頃は教会の神父様は私をダイアナと呼びました。
神戸の小さなお友達は、私を月子ちゃんだと思っていて。
皆、つうちゃんと私を呼びましたよ。
私のパパは、こういったお茶やティーカップ、絹の布、その他いろんなものを貿易する会社の社長さんでした。
私のママは、私が五つになった年に、女優を引退して、香港から神戸に移り住んだんです。
ママは日本語が話せませんけど、パパのことが大好きだったから。
昔、世界中が戦争をしていたことがありました。日本と中国も。
日本は大きな爆弾が落ちて、たくさんの人が亡くなりましたね。悲しいことです。
中国でもたくさんの人が、アメリカもヨーロッパもたくさんの人が死にました。かわいそうなことです。
私は十歳まで神戸にいました。
神戸を離れる時、お友達と別れるのが辛かった。
神戸にはいろんな国の子供たちがいて、皆日本語・・・ふふ、神戸の言葉、と私たちは言っていましたが、関西弁ですね。
子供たちは、皆、関西弁で話していましたよ。
近所の子供達が話す言葉がとってもすてきだと私たちは思ったのね。
おうちにあるお菓子や小さなおもちゃなんかをあげて、近所の子供達にいろんな言葉を教えて貰っていました。
大人達は日本語の家庭教師を子供たちにつけているから、外国人である子供同士の私たちが話しているのを日本語の正式なしかも山手の言葉だと思っていた。
でも私たちは、関西弁で話していたってわけ。
大人は日本語がわかりませんから。
どうして香港に戻って来たかって?
私の母は、子供の前でも大人の事情を開けっぴろげに話す人でした。
広東語がわかるのが家では私と不在がちの夫しかいないから、どうしてもそうなってしまう。
私の十歳の誕生日、突然ママが泣きながら私がピアノのレッスンをしているお部屋に飛び込んできた。
モーツァルトの子犬のワルツのおさらいでした。
私のピアノの教師だった当時音大生だった着物屋さんの娘さんはびっくりして、ぺこりと頭を下げて帰ってしまったの。
ほら、ママは女優でしょう?
普段は割とぼんやりしているけど、何かあるとね、喜怒哀楽の表現が、とってもお芝居っぽいの。
「私の可愛いお月様。あなたのパパは奥さんがいるんですって!」
何を言っているのかわからなかった。
そして、ママは私にもまるでお芝居のような言い回しを要求するの。
「・・・私の優しいお母さん。でもパパの大切なワイフはママでしょう」
「・・・・そうよ。そう。でも違ったの。ずっと、違ったんですって」
そう言って、わあわあと泣き出してしまった。
そこから、悲しい歌や昔の物語に出てくる不運な女性の人生の物語が始まってしまう。
ねえ、このお姫様のお話可哀想よね。
でも私も負けずにとっても可哀想。ねえ、だって・・・。って具合にね。
え?おかしい?・・・まあ、桜子ちゃん。・・・今の子ははっきり言うのね。
そう、確かにねぇ。仕方ないの。だってママは女優だから。
話を聞くと、どうやら私のパパは日本にいる女性とずっと結婚をしていたようなのね。だからそちらが奥様なわけよね。
でも、香港で出会ったママに独身だと言って、結婚状態にいたようなの。
・・・昔ですからね、そういう情報は結構確認できないのよね。パパはいろんな外国と日本を行き来していたし。
つまり、ママはすっかり騙されていたの。
だって香港の大きなレストランで結婚式もしたんだから。
それで戦争が終わって。私が産まれて、ママは離れ離れの生活に耐えられなくなって神戸に行ったの。
ママはそれからまた思い出したように泣いたりしていたけれど、メイドの用意したおいしいご飯をたらふく食べてからまた思い出したように「こんなのってないわ、私の可愛い小さなお月さま。・・・なんだか様子がおかしいって前から思ってはいたの。パパにはどこかに愛人でもいるんじゃないかって。そしたら、こっちが愛人だったなんて!」
そう言ったママに、私は吹き出してしまった。
「・・・・まあ、ひどいわ。笑うなんて・・・」
でも、ママもつられて笑い始めて。
「・・・ふふ。そうね。おかしいわよね。私が浮気相手だったなんて。しかも、十年も!こんな間抜けな役、聞いた事ないわ!」
ママは自分の不幸や不運に全く執着のない人でした。
驚いた事に、最初の一年はパパがお金を用意してくれたんだけど、その後は全てママが女優の時代に稼いだお金で生活していたそうなの。
それからママはすぐにどこかに電話して、手紙を二通書いたの。
ママに言われて、私も、すみっこに猫の絵を描いた。
数日後、ママの東京のお友達だというきれいな女の人が息子を連れて来たの。
その女性は私が見たこともないすてきな深い青のスーツを着ていた。
日本人だと言ったけど、ママと、私のわからない言葉で話していた。
激昂して怒ったり泣いたり歌ったりして話すママに比べて、お友達はとっても落ち着いて紅茶を飲みながらお菓子をつまんで、たまに何かコメントをするだけ。
北京官話だと息子だという男の子が教えてくれたの。
中国大陸はとっても広いから、方言がまるで別の国の言葉みたいなの。
でも昔のお役人は皇帝陛下に言われてあちこちに転勤しなければならないのね。
その時に困らないように、彼らが話したのが、北京官話。
なんと言っているか教えて、と言うと彼は困ったような顔をした。
ちょっと女性の前では話せないな。なんて言うのよ。
東京の子って、なんて気取った物言いするの!
「うっとこのママもあんたのママも女やんか!」そう怒鳴りつけると、彼はびっくりしたような顔をしていたっけ。
「・・・・ええと。・・・多分、君は、香港に戻る事になると思う。・・・君のママと」
彼は同時通訳はできないからと母親達の話す内容だけを簡単に説明してくれた。
彼は突然、襟ぐりを後ろから捕まれ、ぐえっと男の子が悲鳴をあげた。
「・・・レディの話を盗み聞きなんていけないことよ」
「だって、マミィ・・・」
マミィ。この男の子はおかあちゃんなんて呼ぶの。とおかしくなりました。
彼女はじっと私を見ると、にっこりと微笑みました。
彼女は、ちょっと不思議な広東語で私に話しかけた。
「こんにちは。可愛い小さなお月さま。私は暁子。アナタのママの友達ね。さて、飛行機にする?船にする?」
ああ、私は香港に帰るんだな、と思いました。
「やめて!飛行機なんて、とんでもない!」
ママが体をぶるぶる震わせて叫びました。
「あら。早くて快適だったわよ。うるさいけど」
暁子は商売相手の米軍の将校の飛行機に同乗してきたらしいの。
道理で、ママから電話をもらってすぐに駆けつけられたはずよね。
「暁子は自分が飛行機乗りだから気にならないのよ。あんな鉄が浮かぶなんておかしいわ。おまけに油を燃やして飛んでるのよ!」
それからママは、暁子が用意したルイ・ヴィトンのまるで箪笥のように大きなトランクにドレスや宝石、大好きなセーブル陶磁器なんかをシルクのショールや狐の毛皮で包んで詰め込みました。
暁子は、私にもヴィトンのトランクをひとつ渡しました。ママの半分の半分の大きさの同じもの。
「さ。小さなお月さま。貴女も自分のものをこれに入れて頂戴。残りは、私が後で船便で送るから。とりあえず大切なものと、必要なものだけ入れてね」
大切なものと、必要なもの。
「・・・本当に後で送ってくれる?」
「ええ。ちょっと時間はかかるけど。クリスマスまでには着くようにね」
私は着替えを少しと、それから、ピアノの家庭教師からプレゼントされたお雛様の描いてある友禅のハンカチにしまっていたお金を包んだ。
「なら、私はこれだけでいいからこんな大きなカバンはいりません」
それを見て、暁子は仕立てのいいネイビーブルーのスーツのポケットに手を突っ込んで大笑いしました。
「ちょっと、聞いた!?この子ったらなんて賢いの!」
ママは困ったように微笑んだ。
「お月さま、でも、これじゃ・・・。女の子は身の回りのものがたくさん必要なのよ?」
ママのトランクはぎゅうぎゅうで、引き出しのあちこちからアコヤ真珠のマチネーネックレスがはみ出していたり、大きなエメラルドで出来たインコのブローチが金具に引っかかっていた。
「いいじゃないの。アンタとはまた違うタイプね。まあ、アンタの欲深い事ったら。間違いなく小さなつづらより大きなつづらを選ぶタイプね」
知ってる?スズメのお宿のお話、と言いながら、自分の左手の小指につけていた指輪を引き抜いた。
よく見ると、彼女の左手にはあと二つ、大きな真珠とサファイヤの指輪が輝いていた。
そして、手首には昔の中国の貴婦人が好んでしていた、翡翠の腕輪。
いつ見ても目がくらむ程の翡翠だわ。とママは呟いた。
後でママが言っていましたが、暁子のあの腕輪は神戸のお屋敷をふたつ売っても買えない代物らしいの。
「そして、とてもとても謂れのある宝物なのよ。お姫様が、お父様に当たる王子様に頂いたものなの」
「じゃ、暁子はお姫様?」
イメージとはだいぶ違うけれど。
「いいえ。暁子はお姫様の、不肖の弟子よ」そう言って、ママは笑って。
「お月さま。新しい旅立ちの記念に差し上げますわ。・・・グランサンク、ショーメのダイヤ。ハイクラスの2カラット」
私は驚いて恭しくその指輪を受け取りました。
ダイヤモンドがキラキラして、本当にお星様のようだったの。
流れ星が、突然私の手の中に落ちてきたような、不思議な気分でした。
「これねえ。どうも私にしっくり来なくて。でもなんとなくつけていたけれど。おチビちゃんにあげる為だったのかもね」
なんて彼女は嬉しそうでした。
高価なダイヤをポンと子供にくれてやって、にこにこしているなんておかしな人だなあと思いました。
「あらだって。良い品物が正しい持ち主に届くのを見ると、私は満足なの」
暁子の息子は、我々の様子にも全く興味がない様子で、テーブルの上のチョコレートを次々食べていました。
男の子なんて、宝石よりもチョコレートですよねえ。
「夫はどうする?この屋敷はどうするの?」
暁子に尋ねられてママは本当に悲しそうな顔をしました。
夫に裏切られて悲痛な心境で嘆きに沈む女の表情をして。
今にもはらはらと泣き出しそうで。
「・・・はいはい。いいからそういうの」
と暁子に言われると、ママは途端に憮然とした顔になり。
「私、女優よ。いいじゃないのよ。・・・・あの人は。ちょっととっちめてやって」
了解、と暁子は頷いた。
「この屋敷はどうする?」
「気に入ってたのにね。・・・いいわ。暁子に任せるわ。どうせ暁子が全部用意してくれたんですもん。私はお金を出しだけだわ。・・・そうね、うまいこと高く売れたら。半分を、夫の奥さんと息子さんにくれてやって。最初の一年だけだけど、それでも私たちに随分散財させてしまったみたいだから」
「わかったわ。どうしようかしらねえ。レストランにでもしたらすてきかしらね。ああ、ボウズったら、全部食べちゃって」
大皿のチョコレートをほぼ平らげてしまった息子を暁子は呆れた様子で見ました。
「子供は皆お菓子が大好きじゃないの。太郎ちゃん、クッキーもまだあるから好きなだけ食べるといいわ。おいしいものは体に良いんだから。・・・さあ。今日は皆でレストランでお食事をして早く寝ましょう!明後日は船に乗るんだから!」
ママがうきうきとそう言いました。
そして、私とママは快晴の神戸港から香港へと向かう客船に乗船しました。
ママは今までより一番のおしゃれをして船に乗り込みました。
皆が、驚きと憧れと好奇の目で見るのを、ママはすっかり気に入ったようで。
「あら、ごきげんよう。いいお天気ですわね」
と素晴らしく見事なイングリッシュですれ違う人に挨拶をしました。
それから、色とりどりのテープとけたたましい銅鑼の音と、港の人々に見送られて船は出航しました。
「ふふ、すごい音。舞台みたいね」
港で暁子と太郎が手を振っていました。
太郎は色とりどりのテープを楽しげに振っていました。
沖に船が出て、見渡す周りが全部海という風景。
大洋とはこんなに広いのか、空と同じくらい広いのか、と子供の私は本当に驚きました。
ママはデッキのチェアで、シャンパンを傾けながらうっとりと風を浴びていました。
「ああ、早く香港につかないかしら。・・・ねえ、小さなお月さま。私、貴方と半島酒店で午後のお茶を頂きたいのよ」
昨夜の神戸のお夕食の席では暁子が「来る時はあれほど旦那に執着して大騒ぎで日本に来たのに、戻る時は随分薄情ねえ」と笑いました。
神戸でも一番のレスランのフレンチはとってもおいしかったわ。
意外な事に、太郎も上手にナイフとフォークを使って食事をしていました。
殻付きの手長海老に苦戦している私を見かねて、きれいに身を取ってくれたの。
「薄情ではないの。切替よ。だって。私、次の演目がもうオファーされたのよね」
「へえ!なんの役よ?」
「それはまだ未定。でも、主演は私なのよ」
二人は少女のように笑いました。
ママは舞台でいろんな役をやったから、もしかしたらあっさり次の人生に移れるものなのかもしれないですね。
あの出航の銅鑼の音は、ママがまた舞台に戻った、そんな合図だったのかもしれません。
ママは葉鳳、と言う名前でした。
いかにも女優と言うその宣材写真にサインが書いてあるでしょう。
鳳姐、鳳姉さん、と皆は呼びました。
私の名前、私は、怜月といいます。
英語名ですか?
もう誰も呼びませんけどね。小さい頃は教会の神父様は私をダイアナと呼びました。
神戸の小さなお友達は、私を月子ちゃんだと思っていて。
皆、つうちゃんと私を呼びましたよ。
私のパパは、こういったお茶やティーカップ、絹の布、その他いろんなものを貿易する会社の社長さんでした。
私のママは、私が五つになった年に、女優を引退して、香港から神戸に移り住んだんです。
ママは日本語が話せませんけど、パパのことが大好きだったから。
昔、世界中が戦争をしていたことがありました。日本と中国も。
日本は大きな爆弾が落ちて、たくさんの人が亡くなりましたね。悲しいことです。
中国でもたくさんの人が、アメリカもヨーロッパもたくさんの人が死にました。かわいそうなことです。
私は十歳まで神戸にいました。
神戸を離れる時、お友達と別れるのが辛かった。
神戸にはいろんな国の子供たちがいて、皆日本語・・・ふふ、神戸の言葉、と私たちは言っていましたが、関西弁ですね。
子供たちは、皆、関西弁で話していましたよ。
近所の子供達が話す言葉がとってもすてきだと私たちは思ったのね。
おうちにあるお菓子や小さなおもちゃなんかをあげて、近所の子供達にいろんな言葉を教えて貰っていました。
大人達は日本語の家庭教師を子供たちにつけているから、外国人である子供同士の私たちが話しているのを日本語の正式なしかも山手の言葉だと思っていた。
でも私たちは、関西弁で話していたってわけ。
大人は日本語がわかりませんから。
どうして香港に戻って来たかって?
私の母は、子供の前でも大人の事情を開けっぴろげに話す人でした。
広東語がわかるのが家では私と不在がちの夫しかいないから、どうしてもそうなってしまう。
私の十歳の誕生日、突然ママが泣きながら私がピアノのレッスンをしているお部屋に飛び込んできた。
モーツァルトの子犬のワルツのおさらいでした。
私のピアノの教師だった当時音大生だった着物屋さんの娘さんはびっくりして、ぺこりと頭を下げて帰ってしまったの。
ほら、ママは女優でしょう?
普段は割とぼんやりしているけど、何かあるとね、喜怒哀楽の表現が、とってもお芝居っぽいの。
「私の可愛いお月様。あなたのパパは奥さんがいるんですって!」
何を言っているのかわからなかった。
そして、ママは私にもまるでお芝居のような言い回しを要求するの。
「・・・私の優しいお母さん。でもパパの大切なワイフはママでしょう」
「・・・・そうよ。そう。でも違ったの。ずっと、違ったんですって」
そう言って、わあわあと泣き出してしまった。
そこから、悲しい歌や昔の物語に出てくる不運な女性の人生の物語が始まってしまう。
ねえ、このお姫様のお話可哀想よね。
でも私も負けずにとっても可哀想。ねえ、だって・・・。って具合にね。
え?おかしい?・・・まあ、桜子ちゃん。・・・今の子ははっきり言うのね。
そう、確かにねぇ。仕方ないの。だってママは女優だから。
話を聞くと、どうやら私のパパは日本にいる女性とずっと結婚をしていたようなのね。だからそちらが奥様なわけよね。
でも、香港で出会ったママに独身だと言って、結婚状態にいたようなの。
・・・昔ですからね、そういう情報は結構確認できないのよね。パパはいろんな外国と日本を行き来していたし。
つまり、ママはすっかり騙されていたの。
だって香港の大きなレストランで結婚式もしたんだから。
それで戦争が終わって。私が産まれて、ママは離れ離れの生活に耐えられなくなって神戸に行ったの。
ママはそれからまた思い出したように泣いたりしていたけれど、メイドの用意したおいしいご飯をたらふく食べてからまた思い出したように「こんなのってないわ、私の可愛い小さなお月さま。・・・なんだか様子がおかしいって前から思ってはいたの。パパにはどこかに愛人でもいるんじゃないかって。そしたら、こっちが愛人だったなんて!」
そう言ったママに、私は吹き出してしまった。
「・・・・まあ、ひどいわ。笑うなんて・・・」
でも、ママもつられて笑い始めて。
「・・・ふふ。そうね。おかしいわよね。私が浮気相手だったなんて。しかも、十年も!こんな間抜けな役、聞いた事ないわ!」
ママは自分の不幸や不運に全く執着のない人でした。
驚いた事に、最初の一年はパパがお金を用意してくれたんだけど、その後は全てママが女優の時代に稼いだお金で生活していたそうなの。
それからママはすぐにどこかに電話して、手紙を二通書いたの。
ママに言われて、私も、すみっこに猫の絵を描いた。
数日後、ママの東京のお友達だというきれいな女の人が息子を連れて来たの。
その女性は私が見たこともないすてきな深い青のスーツを着ていた。
日本人だと言ったけど、ママと、私のわからない言葉で話していた。
激昂して怒ったり泣いたり歌ったりして話すママに比べて、お友達はとっても落ち着いて紅茶を飲みながらお菓子をつまんで、たまに何かコメントをするだけ。
北京官話だと息子だという男の子が教えてくれたの。
中国大陸はとっても広いから、方言がまるで別の国の言葉みたいなの。
でも昔のお役人は皇帝陛下に言われてあちこちに転勤しなければならないのね。
その時に困らないように、彼らが話したのが、北京官話。
なんと言っているか教えて、と言うと彼は困ったような顔をした。
ちょっと女性の前では話せないな。なんて言うのよ。
東京の子って、なんて気取った物言いするの!
「うっとこのママもあんたのママも女やんか!」そう怒鳴りつけると、彼はびっくりしたような顔をしていたっけ。
「・・・・ええと。・・・多分、君は、香港に戻る事になると思う。・・・君のママと」
彼は同時通訳はできないからと母親達の話す内容だけを簡単に説明してくれた。
彼は突然、襟ぐりを後ろから捕まれ、ぐえっと男の子が悲鳴をあげた。
「・・・レディの話を盗み聞きなんていけないことよ」
「だって、マミィ・・・」
マミィ。この男の子はおかあちゃんなんて呼ぶの。とおかしくなりました。
彼女はじっと私を見ると、にっこりと微笑みました。
彼女は、ちょっと不思議な広東語で私に話しかけた。
「こんにちは。可愛い小さなお月さま。私は暁子。アナタのママの友達ね。さて、飛行機にする?船にする?」
ああ、私は香港に帰るんだな、と思いました。
「やめて!飛行機なんて、とんでもない!」
ママが体をぶるぶる震わせて叫びました。
「あら。早くて快適だったわよ。うるさいけど」
暁子は商売相手の米軍の将校の飛行機に同乗してきたらしいの。
道理で、ママから電話をもらってすぐに駆けつけられたはずよね。
「暁子は自分が飛行機乗りだから気にならないのよ。あんな鉄が浮かぶなんておかしいわ。おまけに油を燃やして飛んでるのよ!」
それからママは、暁子が用意したルイ・ヴィトンのまるで箪笥のように大きなトランクにドレスや宝石、大好きなセーブル陶磁器なんかをシルクのショールや狐の毛皮で包んで詰め込みました。
暁子は、私にもヴィトンのトランクをひとつ渡しました。ママの半分の半分の大きさの同じもの。
「さ。小さなお月さま。貴女も自分のものをこれに入れて頂戴。残りは、私が後で船便で送るから。とりあえず大切なものと、必要なものだけ入れてね」
大切なものと、必要なもの。
「・・・本当に後で送ってくれる?」
「ええ。ちょっと時間はかかるけど。クリスマスまでには着くようにね」
私は着替えを少しと、それから、ピアノの家庭教師からプレゼントされたお雛様の描いてある友禅のハンカチにしまっていたお金を包んだ。
「なら、私はこれだけでいいからこんな大きなカバンはいりません」
それを見て、暁子は仕立てのいいネイビーブルーのスーツのポケットに手を突っ込んで大笑いしました。
「ちょっと、聞いた!?この子ったらなんて賢いの!」
ママは困ったように微笑んだ。
「お月さま、でも、これじゃ・・・。女の子は身の回りのものがたくさん必要なのよ?」
ママのトランクはぎゅうぎゅうで、引き出しのあちこちからアコヤ真珠のマチネーネックレスがはみ出していたり、大きなエメラルドで出来たインコのブローチが金具に引っかかっていた。
「いいじゃないの。アンタとはまた違うタイプね。まあ、アンタの欲深い事ったら。間違いなく小さなつづらより大きなつづらを選ぶタイプね」
知ってる?スズメのお宿のお話、と言いながら、自分の左手の小指につけていた指輪を引き抜いた。
よく見ると、彼女の左手にはあと二つ、大きな真珠とサファイヤの指輪が輝いていた。
そして、手首には昔の中国の貴婦人が好んでしていた、翡翠の腕輪。
いつ見ても目がくらむ程の翡翠だわ。とママは呟いた。
後でママが言っていましたが、暁子のあの腕輪は神戸のお屋敷をふたつ売っても買えない代物らしいの。
「そして、とてもとても謂れのある宝物なのよ。お姫様が、お父様に当たる王子様に頂いたものなの」
「じゃ、暁子はお姫様?」
イメージとはだいぶ違うけれど。
「いいえ。暁子はお姫様の、不肖の弟子よ」そう言って、ママは笑って。
「お月さま。新しい旅立ちの記念に差し上げますわ。・・・グランサンク、ショーメのダイヤ。ハイクラスの2カラット」
私は驚いて恭しくその指輪を受け取りました。
ダイヤモンドがキラキラして、本当にお星様のようだったの。
流れ星が、突然私の手の中に落ちてきたような、不思議な気分でした。
「これねえ。どうも私にしっくり来なくて。でもなんとなくつけていたけれど。おチビちゃんにあげる為だったのかもね」
なんて彼女は嬉しそうでした。
高価なダイヤをポンと子供にくれてやって、にこにこしているなんておかしな人だなあと思いました。
「あらだって。良い品物が正しい持ち主に届くのを見ると、私は満足なの」
暁子の息子は、我々の様子にも全く興味がない様子で、テーブルの上のチョコレートを次々食べていました。
男の子なんて、宝石よりもチョコレートですよねえ。
「夫はどうする?この屋敷はどうするの?」
暁子に尋ねられてママは本当に悲しそうな顔をしました。
夫に裏切られて悲痛な心境で嘆きに沈む女の表情をして。
今にもはらはらと泣き出しそうで。
「・・・はいはい。いいからそういうの」
と暁子に言われると、ママは途端に憮然とした顔になり。
「私、女優よ。いいじゃないのよ。・・・・あの人は。ちょっととっちめてやって」
了解、と暁子は頷いた。
「この屋敷はどうする?」
「気に入ってたのにね。・・・いいわ。暁子に任せるわ。どうせ暁子が全部用意してくれたんですもん。私はお金を出しだけだわ。・・・そうね、うまいこと高く売れたら。半分を、夫の奥さんと息子さんにくれてやって。最初の一年だけだけど、それでも私たちに随分散財させてしまったみたいだから」
「わかったわ。どうしようかしらねえ。レストランにでもしたらすてきかしらね。ああ、ボウズったら、全部食べちゃって」
大皿のチョコレートをほぼ平らげてしまった息子を暁子は呆れた様子で見ました。
「子供は皆お菓子が大好きじゃないの。太郎ちゃん、クッキーもまだあるから好きなだけ食べるといいわ。おいしいものは体に良いんだから。・・・さあ。今日は皆でレストランでお食事をして早く寝ましょう!明後日は船に乗るんだから!」
ママがうきうきとそう言いました。
そして、私とママは快晴の神戸港から香港へと向かう客船に乗船しました。
ママは今までより一番のおしゃれをして船に乗り込みました。
皆が、驚きと憧れと好奇の目で見るのを、ママはすっかり気に入ったようで。
「あら、ごきげんよう。いいお天気ですわね」
と素晴らしく見事なイングリッシュですれ違う人に挨拶をしました。
それから、色とりどりのテープとけたたましい銅鑼の音と、港の人々に見送られて船は出航しました。
「ふふ、すごい音。舞台みたいね」
港で暁子と太郎が手を振っていました。
太郎は色とりどりのテープを楽しげに振っていました。
沖に船が出て、見渡す周りが全部海という風景。
大洋とはこんなに広いのか、空と同じくらい広いのか、と子供の私は本当に驚きました。
ママはデッキのチェアで、シャンパンを傾けながらうっとりと風を浴びていました。
「ああ、早く香港につかないかしら。・・・ねえ、小さなお月さま。私、貴方と半島酒店で午後のお茶を頂きたいのよ」
昨夜の神戸のお夕食の席では暁子が「来る時はあれほど旦那に執着して大騒ぎで日本に来たのに、戻る時は随分薄情ねえ」と笑いました。
神戸でも一番のレスランのフレンチはとってもおいしかったわ。
意外な事に、太郎も上手にナイフとフォークを使って食事をしていました。
殻付きの手長海老に苦戦している私を見かねて、きれいに身を取ってくれたの。
「薄情ではないの。切替よ。だって。私、次の演目がもうオファーされたのよね」
「へえ!なんの役よ?」
「それはまだ未定。でも、主演は私なのよ」
二人は少女のように笑いました。
ママは舞台でいろんな役をやったから、もしかしたらあっさり次の人生に移れるものなのかもしれないですね。
あの出航の銅鑼の音は、ママがまた舞台に戻った、そんな合図だったのかもしれません。
1
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説



どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
【ショートショート】おやすみ
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠
・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。
その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる