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ろくろくろく

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夏ってこんなんだったっけ?

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好きという感情がわからない。
好きだと言ってもらえるのは嬉しいが好かれる要素はどこにも無いと思える。

黒江との関係をクリスに話してしまった事は後悔してもし切れない。
あんな話を聞いたクリスはどう思ったかを考えると身がすくむ程恐ろしい。
自分の中には見えない堰があるのだ。
何かを境にどうでも良くなる。
腹の底にうずめく濁った欲を簡単に受け入れてしまう自分が嫌だった。

もしもあの時クリスと最後まで進んでいたらと思うとゾッと胃の辺りが凍る。

1人っきりだった頃は何も考えていなかったが、誰かに話しかけられ、誰かに話しかけると自分の中身がサラサラと溶け出して何もかもが丸出しになるような気がする。

指紋や手垢で汚れたスマホの画面を見るとまるで自分のようだと思う。
対して、露出系の痴漢行為を含むあんな事やこんな事をやらかしても凹む事も無く、恥入る事も無く、やってやった感に胸を張るという堂々たる変態のくせにクリスには綺麗な印象しか無いのはなぜなのか。

「俺なら死ねる……」

自慰行為なんて見られた時点で潔く自決する。
「やっちまった」では済まないのは当たり前と言っていいくらい一般的な反応じゃ無いかと思うのだが……どうなのだろう。

長いまつ毛を伏せてノートを見ている綺麗な顔をマジマジと見ていると、少し色の薄い瞳がチラリと動いてまた元に戻る。

「やる時はやる、ほら、手が止まってるよ」

「……はい」

机は端っこのガムテープが浮いている段ボール2つ。(ビールケースの方がマシ)
広げた教科書と参考文献の為の本2冊、ノートも2冊。

クリスのベッドで目覚めた時は、恥ずかしさと、嫌われたかもしれないという心配で中々起き上がることが出来なかった。

しかし、そんな気後れは必要無かったらしい。
眠るのが遅く、起きるのは早いクリスは朝一番にコンビニに行って来たと、何も無かったよにウキウキとしながら蜂蜜と練乳を並べて「ほら」と見せてくる。

クリスの中では何かと何かが繋がっているらしいが、用意が出来ていた朝ごはんはシャケと味噌汁だった。いつか食べるんだろうなと冷蔵庫に入れたらムッと横を向いた。

その後だ。
勉強するから座れと言われて、教科書を眺めるクリスを眺めている。

夏休み前に立ちはだかる大きな関門が近いのはわかっていた。
それは学生には付き物の学期末試験なのだが、この時ほどクリスと知り合いになってよかったと思った事は無い。

例え、美味しい食べ物を用意してくれたとしても、ふわふわのパジャマを貰うよりも、頭がボ~っとするようなキスよりも………言っては何だが役にたった。

クリスには全く関係無い科目なのに同じ試験を受けるのかと思える程勉強して、間違いなく優を取るんだろうというくらい理解していた。
実は、延々とついて回っていたドイツ語もクリスが解決してしまった。
単語だけを徹底的に覚えろと言われて何とか頭に入れた後、まるで答え合わせをするようにヒヤリングしたら突然全てが鮮明になった。
「蓮にはこの方法が合うと思った」と笑ったクリスはもう会話も出来るじゃ無いか?と思えるレベルだったが、ドイツ語なんて履修した事も無いと聞いて萎えた事を除けば感謝しかない。

そして、迎えた夏休みはいつもよりも随分と暑くてウザくて忙しかった。

海に行くか、山に行くか。
「夏休み」というワードから出て来る発想は拍手を送りたいくらい昭和でベタだ。

クリスの思い浮かべる海は地中海に浮かぶ美しい島やヨットハーバーなのかもしれない。
ラグジュアリーなグランピングが山なのかもしれない。

しかし、一般的な庶民が思い浮かべるのは日陰もない砂浜でジリジリと日焼けしながら黒緑の波を見つめるか、虫と格闘しながら汗に塗れて急斜面を登るか、どちらかを選べと言われるのと同じだった。
何よりも、小さい頃に海に連れ行ってくれた両親が「何故遊ばないのか」とガッカリしている顔が忘れられない、そんな奴と一緒に行ってもつまらない思いをさせるだけだと思う。

しかし、いつ行くのかという話になればそんな暇は無いのが現実だった。

学祭の実行委員をやってて良かったと初めて思ったたのがこの時だ。
二重三重に役割を持つクリスは傍目にも忙しそうだった。
頻繁に出掛けたりしているらしいが、いないと思って安心していると連絡も無しに部屋に上がり込み、古い体操服を着こんで寝ていたりする。
つまりは未だに不法取得した鍵を取り戻せていないって事なのだがもうそれでいいと思っていた。

例年に無く暑い夏だった。
化石燃料や森林の減少、温暖化や二酸化炭素問題などSDGsに関連する議題が多い生命環境科学部特有の刷り込みが影響しているのか、気温と体温と人との距離が酷く気になるようになっている。

そして生きて来た20年分全部をたしても足りないくらいよく喋っている夏でもある。

栗栖さんは来ないのかと真城が聞いた。
普段を見ているのだから当然の質問なのだが、何故いつもペアになっているかは聞いて来ない。
待ち合わせて機材のレンタルを見に行く電車の中だった。

「…練乳と蜂蜜の置き場所を色々変えるのが忙しいんじゃ無いかな」
「何それ?何の話をしてんの?」
「え?……あ……何でもない」

電車の奏でるリズムに気を取られていたから変な事を言った。真城に慣れて来たせいか現実を離れる癖が出ている。

「何でもない、あの人は働いてるし執行部でも色々担っているだろ?勉強もあるから忙しいんだと思う」
「暇そうに見えるんだけどな」
「そう…見えるよね」

「何でもいいけど」と白けた顔をする真城は身構えていた割に話しやすい人だった。
サバサバと明るい上、物怖じをしない真っ直ぐな瞳が先々と立ち回り、例え応えに窮しても代わりに言葉を継いでくれる始末だ。
電車を降りてからもスマホの地図を頼りに淀みなく歩いて行く後ろ姿にただ付いて行くだけになっていた。

「あ…ここじゃ無いか?」
「そうかな?」

やって来たのはイベント用品を纏めて取り扱うレンタル屋だった。
ネットでの受付が事業の大半を閉め、取り扱うレンタル用品は倉庫が別にあるのか思っていたよりも小さくて事務的だ、看板は表札と言ってよかった。

「入りにくな…」
「何で?直接来たのは何が必要かわからないから話を聞く為だろう、実物を見たってどうせわからないんだからいいじゃん」

出来るならもう少し細かく相談してから乗り込みたいのに、わからない事は聞けばいいと言い切る真城は小さな躊躇も無く店舗兼事務所に入っていく。
アルミ冊子のドアを開けると、事務机から「何か御用ですか?」と言って立ち上がった中年の女性はパート感丸出しだった。

「イベントステージのレンタルをお願いしたいのですが何が必要か分かってません、予算はあんまり無いのですが何とかなりますか?」

真城の問い掛けはあまりにも丸投げだった。
しかし、パートさんはちゃんと事業内容を把握しているらしい、座れと言ってパイプ椅子を進めてからパンフレットのようなファイルを出して来た。話すのは勿論だが真城だ。

「さっき言いましたがイベントの機材を纏めて借りたいのです」
「イベントの規模と用途をお聞きしていいですか?」
「音楽ライブを開催するんですが予定の敷地は野外で1000㎠くらいです」
「学生さん達を含む素人さんの演奏発表会と捉えて構いませんか?」

「言い方が失礼だったら申し訳ない」と付け加えてパラパラとページを捲る。

「かなり広い敷地になるので高さ45センチのステージを2つ設置されてはいかがですか?、結構広いですよ」

これか、これと指で差された写真を見る限り立派なステージだ。

「あ、この写真には簡易の屋根が付いていますが別料金になります、屋根の設置は少し高いのでお勧めしません、それから…」

パートさんはプロだった。
商売っ気よりもイベント主催者視点から見て必要な物や進行をテキパキと揃えていく。

ドラムセットは持ち込みを希望されても固定にした方がいい。下置きライトは値段の割に効果が高いからお勧め。アンプやスピーカーの質。
雨天の対策。レンタル価格のバリエーションはあっという間に3タイプが揃った。
「蓮はどう思う?」と聞かれても答えは「何でもいい」しか無い。

「俺は1番いい機材を揃えたいな」
「でもさ、どんな物でもいいからステージ前に柵を作れと…」

そこまで言いかけた時に「柵なんていらない」と真城に遮られた。
しかし、これはクリスが必ずと念を押して来たのだ。

「クリスが柵は必要だって言ってたんだけど」
「栗栖さんが?そんなの有名アーティストが出るわけじゃ無いから要らないだろ」
「でも……」

そんな会話をしているうちに有能なパートさんはさっと席を立ちあっという間に新しい見積もりを出して来た。
提案してくれたのは自立棒に鎖を繋ぐだけの柵だ、しかも上積みは2000円だ。

「いい?これで?予算的には何とかなると思うんだけど」
「俺は必要無いと思うけど栗栖さんがいいって言うならいいんじゃ無い?」

納得したのか諦めたのかどうでもいいのか、音が聞こえるくらいスパッと切り替えた真城はすぐに値切り交渉に入った。
パートさんもそこは心得ているようで難航する事なく端数を切ってしまう。
後は真城が一人で搬入や時間の打ち合わせをしてさっさとカタを付けてしまった。
それはいいのだが、レンタル用品屋を出てからすぐに貰ったのは「役立たず」って言葉だ。

「ごめん」
「もっとクレバーなイメージだったけどな、それなりに音楽をやってるならライブの設定とか練習場所の確保とかあるだろ」
「そんなのやった事ない」

「はあ?」と口を開けた真城は呆れたように肩を上げた。しかし事実なのだから言い訳など無かった。

「みんなそこまでやってるんだね」
「当たり前だろ、まあそれぞれだからいいけどな、所でお前さ、ドラムセットとアンプに当てがあるって言ってたけどどうするつもりだ、誰かから借りるんだろ?思ったよりも早く済んだし今から頭を下げに行くか?」
「いや、それはいいよ、俺から頼んでおくから大丈夫」

借りる宛は勿論だが黒江だ。
もしもライブをやるとなればプロである黒江には機材には拘りもあるだろうし、何よりも素人では持ち得ない大容量の機材を揃えている。

そこの辺りを真城には説明できないから付いて来られても困る上に、今…この瞬間に見てはいけないものが目に入った。
何でもいいから、とにかく、速攻で真城とは別れなければならない理由が湧いて出た。

「あの、あのさ、俺はこの後に練習があるから行ってもいいかな?」
「いいけど今日は空いてたんじゃないの?」
「空いてたんじゃなくて実はサボってたんだ」

実のところこれは事実だった。
黒江に呼び出されていたが学祭の準備にかこつけて断っていた。

「嘘ついてごめん」
「そんなら仕方ないな、こっちも蓮の事情をよく聞かないで誘って悪かったよ」
「いや、俺がどっちつかずではっきりしないから悪かったんだ」
「モジモジモタモタビクビクすんのはいつもだから慣れて来た」

「もじもじ…もたもた…びくびく…」

……では、真城に相応しい擬音は「ズバズバ」だ。
 
「気をつけるよ」
「そうしろ、じゃあ俺はこれから大学に行って機材を搬入する場所を確保しておくわ」
「ごめん、一旦抜けるけどひと声掛けたら追いつくよ」

「また後で」と手を振り歩き出した背中に「終わったら飲もう」との誘いが背中を追いかけて来た。

しかし、返事するより何よりも真城と距離を取る事を優先した。手近な角を曲がってから来た道を覗き見ると………やはり見間違えなどでは無い、電柱の影に隠れているクリスはそれでも潜んでいるつもりなのかと笑いそうになるくらい光っている。
幸いな事にスマホを見ながらすれ違っている真城が何も気付かず通り過ぎてくれたのは良かった。
長い足が少し歩を速めて来るから待ち受けてやった。

「金輪際こんな事はやめてください」
「え?……」
「その顔、いい加減見慣れたんですけど?」
「たまたま……そう、たまたま通りがかっただけだ、何か文句ある?」

いつも柔らかく話すくせしてこんな時だけ男らしい。

「嘘つき」
「じゃあ言い換えよう、これは僕の使命だ、趣味だ、習慣だ、ライフワークだ!」

「………暇なんですか?」
「僕は佐竹に騙されたんだ、学祭までの間は嫌になる程一緒にいられるって言うから蓮を引き込んだのに結局別々だろ」
「騙した訳じゃないと思うけど…」

サブステージの実施に2回生二人だけではと監視役兼補助としてクリスが付いていたのだが、経験豊富な真城には必要無かっただけだ。

その証拠に今連絡が入ったLINEによると、「さっき取り決めた搬入時間は大型ステージのトラックと被るらしいから変更を検討」と書いてある。
つまり、別れた直後に執行部まで連絡を飛ばし返答を貰っている。

「何を見てるの?俺よりも大事?」
「え?うん、真城から連絡が来てて…え?何その顔」

綺麗な筈の顔が驚きに目を剥き、叫ぶ形で開いた大きな口は劇画調だった。

「クリス?」
「俺よりも大事?……だと?」

「ちょっと殺して来る」と言って踵を返そうとする顔は真剣だ。
どこまでが本気なのかはわからないが余計な事を言われたくないのだ。全力で止めた代わりにこの後に予定していた真城との再合流に連れて行かざるを得なかった。


 
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