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第3章

アニス、灰都へ行く③

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『ハイイロウサギ』を騙った徒党は、とっくに姿を消していた。
「逃げ足だけは早いな。脱兎とはよく言ったものだ」
「ほんと、あーいうの困りますよね」
 アニスが目を覚まして最初に耳に飛び込んできたのは、バンダナの男と少年の会話だった。 
  
 ここは、どこか工場の事務所のようだ。寝かされているのは三人がけの使い込まれた革ばりのソファで、毛玉だらけだが自分にはあたたかいブランケットもかけてある。
 とりあえず、さっきのようなたちの悪い連中とは違うようだった。
 助かった、とアニスはひとまず安心した。起き上がると、包帯が巻かれた額の傷が少し疼く。

「痛……」
「あっ、気がついた?」
 少年がうれしそうに、水の入ったコップを持ってやって来た。
 陽に灼けた肌に光る黒曜石のような大きな瞳が、こちらを無邪気にのぞいている。動くたび、さらさらの短い髪がゆれるかわいらしい子だ。
 最後に口にしたものと言えば、サービスエリアで食べたソフトクリームのみだったので、コップ一杯の水でもありがたかった。飲み干すと、意識がだんだんともどって来る。

「あの、リクドウさんは……」
「連れは医務室」
 男がキャンディの棒で奥の別館を指す。
「ぶ、無事なんですか?」
「ま、頑丈なやつだよ。アオイ、案内してやれ」
 アニスは急いで立ち上がると、アオイと呼ばれた少年について行った。
 
 ツバキは古い簡易ベッドの上で、わきに立つ巨漢の男と口論の最中だった。
 天井から片足を吊るされ、至る箇所包帯でぐるぐる巻きと見るからに重傷ではあったが、息巻く元気はあるようでアニスはほっとした。
「だから、動けるって言ってるだろ! はずせよ、この拘束具!」
「だめだ、お前は全治一ヶ月と診断された。勝手に動くならそのままでいてもらう」
「おれは仕事があるんだよ!」
 部屋の入り口に立つアニスに気づき、なおも言い立てる。
「あっ! アニス博士も言ってくれよ、おれたちは急ぐんだってことをよ」
「やれやれ、麻酔が切れたら騒がしいもんだ」
 応酬を遮るように、バンダナの男が入って来る。
「それにしても、わざわざ危険な旧市街で寝泊まりするとは、世間知らずなやつだな」
 
 いかがわしい歓楽街よりはマシかと思った先が犯罪組織の温床だったと知り、ツバキはぐっと言葉をつまらせた。男は説教するように責めて来る。
「しかも、女ひとり護れないとは情けない」
「お、おれは身を呈してこいつの下敷きになったんだぞ」
「おれならまず頭部を護る」
「あ、あのー、わたしどこもなんともありませんから」 
 見かねてアニスが口を挿むと、アオイが呆れた口調で入り口から顔を出した。
「アカザさま、ふたりを交えてみんなに話があるんでしょ。ぼくもヒマじゃないんです、早くして下さいよ」
 
 男──アカザはきまり悪そうにアオイを睨むと、アニスとツバキに向き直って腕を組んだ。いつの間にか医務室の外には、十数人の男たちが集まっていた。
「さて、成りゆき上、お前たちをこうして拾ったわけだが──」
「なんだと? ひとを犬か猫みてェに」
 ぎりりと睨むツバキに、アニスが目配せをする。
「リクドウさん、このひと、ゆうべ路上で寝ちゃってたひとですよ」
「あ!?」
 確かに、よく見ると自分たちが灰の中起こしたあの酔っ払いだ。灰だらけだった栗色の髪は、今日は無造作に後ろでまとめられている。

「おい、オッサン」
 とたんにぴきぴきとアカザの額が筋走るが、ツバキはしたり顔で身を乗り出した。
「おれたちゃ、あんたの命の恩人なんだぜ。わかってんだろうな。さっさとコミューンへ帰してもらおうか」
「アカザさま、飲みに行くときは気をつけて下さいって、いつも言ってるでしょ」
 小姑のようなアオイの小言を躱し、アカザは大仰な仕草でツバキを見下ろす。
「おお、その節は世話になった。だからこそこうやって、仲間全員でお前を助けた」
「だから! さっさとここから出せって言ってるだろ、オッサン!」
「今度言ったら殺す。カシ、その馬鹿を黙らせろ」
 
 アカザが凄みのある一瞥をツバキに送ると、大男がベッドの足をドンと蹴った。振動にかはっと息を吐くツバキの額には、うっすら脂汗が浮いている。
「平気なふりをしているが、相当痛むはずだ。片脚は骨折、肋骨も二本イカレているからな。ああ、やっとまともに話ができるな。アニス──といったか?」
 アカザが腰に手を当て、ベッドの横に怖々と控えていたアニスを見下ろす。

「不本意かもしれんが、『灰都ハイト』へようこそ、お嬢ちゃん。さっきの話にもどるが、我々はお前たちの面倒を見ることになった」
 黙ってうなずくアニスに満足したように、アカザは微笑んで続けた。
「さて、ここ灰都ではみんなが働き者だ。だがお前さんの連れを看病する間、ウチは業務が滞る。お前に、その穴埋めができるかな?」
「お前らの仕事を手伝えって言うのか? 冗談じゃないぞ、なんか白い粉を砂糖と偽って運ばせたりするんだろうが!」
 とたんに飛んできた声に、アカザが呆れながらカシに目配せをする。

「ほんっと馬鹿だな、お前は。ビルから落ちて頭のネジもイカレたか?」
「ぼくら、そんなことしないよう」
 アオイも不満そうに口を尖らせる。
 唐突な提案に、アニスは戸惑った。ずっと寄宿舎と学院を往復して生きてきた自分は、当然一度も働いたことなどない。経験のある仕事といえば、せいぜい当番で回って来る、掃除や皿洗いくらいだ。
 本音を言えば、こんなところにいるより早くレイチョウ少佐の城へ向かいたかった。
 しかしツバキのあの様子──カシにまたベッドの足を小突かれ、痛さに躰を折っている──では、どのみちしばらくここから動くことはできない。

「わ、わかりました。わたしにお手伝いできることなら」
「おい、アニス博──」
「アニス、こっちだよ!」
 アオイに手を引かれ病室を出て行くアニスを、ツバキは呆然と見送った。

 早速次の日から、アニスは持ち場に配属された。
「ぼくたちの仕事は、降った灰を除去することだよ。道路清掃車ロードスイーパーが入れないような道や、工場の中を掃除するんだ」
 周りを見ると、年齢も性別もわからないほど完全防備の作業員たちが灰をせっせと掃き、専用のゴミ袋につめている。アオイが、箒とマスクをアニスにわたす。アニスは分厚く固いマスクを翳し、しげしげと観察した。

「このマスク、学院の売店で売ってるものとは違うみたい」
「そりゃそうさ。コミューンで売ってる、あんな風邪ひき対策みたいな薄っぺらなものじゃ、ここでは役に立たないよ。正規の降灰用を買わなきゃ。でも、上等なものだと、逆に狩られちゃうから気をつけてね。息が苦しくなったら、すぐに中のフィルターを交換するんだ。あっ、コンタクトとかしてない? 灰が目に入ったら半端なく痛いよ。ゴーグルも必ずつけて。それから髪は……」
 よどみなく続く助言に、アニスは面食らって訊いた。

「ここはどこなの? コミューンではないのね?」
「お嬢ちゃん、なんにも知らないんだな。ここは排気と石粉の工業地帯、スクラップだ」
 アカザが、額にバンダナを巻きながら工場へ入って来る。
「スクラップ、ここが……」
 地理の授業で、一度習っただけの階層区名。労働者街、貧民街とカテゴライズされている。地下にはり巡らされた下水道で暮らす、まつろわぬ民と呼ばれる無法者たちもおり、警察軍も手を焼いているという。
 実際、足を踏み入れるのは初めてだ。アニスは、改めて曇った空を見上げた。
 
 いったい、いつから灰は降り続けているのか。湾奥の火山活動で、世界最大級のカルデラができたのはおよそ三万年前。その窪地の縁にあるあけノ島は、それから約四千年後に噴火を始めたと言われている。
 火山ガスと火砕流で灰桜カイオウ国の人類と文明を一度は滅ぼしたという大噴火、『あけノ島大変』から数百年。
 そして現在に至るまで、降灰禍は変わらず国民をじわじわと脅かしてきた。くり返す農産業への打撃に国は防砂事業を立ち上げたが、それでひとびとの生活から不安が消えたわけではない。あけノ島の風下は、壊滅的な被害を被うこともあった。
 
 当然、そんな土地にひとは住みたがらない。逆に風上は灰がふいて来ないため、人気があった。資産階級がものを言うのは世の理の通りである。王族貴族たちは、こぞって風上の土地を買い漁った。   
 そうしてできた階層が、グレーター、コミューン、スクラップである。

「ここの降灰量に驚いたか? 神の加護のないこの国でも、特に灰都は最悪だからな」
 アカザが、灰にけぶるあけノ島を仰ぐ。
「灰が降る街だから、誰ともなく『灰都』と呼ぶようになった。ま、『丘』の対義語みたいなもんだ」
 だがそう語るアカザの口調は開放的で、少しも悲嘆に暮れたところはない。むしろ、ここの生活を楽しんでいるように見える。
 
 アカザはサンドバイクが無造作に並んだ工場の入り口をくぐると、ブリキのバケツをガンガンと鳴らした。むさくるしい男だらけの作業員の視線がいっせいにこちらに集まり、アニスはびくんと固まる。
「いいかみんな、新しいお仲間だ、いろいろ指導してやれ。コミューンでは教わらないことをな!」
 そしてアニスに食べかけの棒つきキャンディを向け、哀れみを込めたまなざしで口の端を上げる。
「お前は走るメロスのようなものだ。怠けてスピードが落ちるようなら、あの超絶馬鹿なセリヌンティウスの回復は保証できない。いったんハイイロウサギの巣に紛れ込んだら、ただで帰すわけにはいかないからな」
「もう、アカザさま、意地悪なんだから」
 アオイがベェとアカザに舌を出したが、アニスの額にはたらりと一滴、汗が伝った。
 助かったとは、とても思えなかった。
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