12 / 13
運命の分岐点 〜前編〜
しおりを挟む
帰宅したレディを待ち受けていたのは、いかにも怪しげな男たちだった。黒ずくめのスーツにサングラス、おまけに腰には警棒らしきものを装備している。アパートの狭い通路を、ガッチリした肉体で封鎖するように立っていた。
「誰……あんたら」
レディはバッグの紐を握り締め、警戒を露わに彼らを睨み付ける。男の一人が、大股に歩み出た。
「レディさんですね?」
「……だったら何」
「お父上の使いです。お迎えに参りました」
鋭い眼差しを受けても、男は動じない。ずいと更に近付いてくると、黒服に包まれた太い腕を差し伸べてきた。レディは咄嗟に跳躍し、何メートルも後方にまで距離を取る。魔法により強化された、特別な身体能力の成せる業だ。
彼女の動きを見るなり、男たちはサングラス越しに目配せを交わした。
「ご不満のようですが、我らも命を受けておりますので、引き下がるわけにはいきません。どうか、一緒に来ていただきたい」
再び前に出た方が、口を開いた。
「嫌だ」
間髪容れずにレディは答える。彼らの願いなど、絶対に聞き入れたくなかった。
「あいつのところにはもう戻らない。そう決めたの。だからもう関わらないで」
彼女としては、何が何でも自分の意見を変えるつもりはなかった。あの男のもとで体験した日常は、到底我慢の出来ないものだったからだ。他人に支配され、いいように扱われる毎日に、一体誰が幸福を見出すだろう。
「そう仰るだろうと、お父上からも伺っております」
男の次の言葉を聞いて、彼女はゾッと戦慄した。あの男は自分の反応なんて、とっくに予測済みだったのだ。猛烈な恐怖感と嫌悪に、鳥肌が立つ。
「ですので、力づくでもお連れするようにと」
男たちは淡々と宣言し、レディの方へ詰め寄ってきた。朧げに分かってはいたことだが、彼らは彼女の意思を尊重するつもりなど、毛頭ないらしい。何をしてでも、彼女を無理矢理連れて行く気なのだ。あの、残虐な父親のところへ。
「触らないでっ!」
それだけは避けなければ。レディは反射的に拳を振るい、男の一方の鳩尾を強く殴り付けた。急所を打たれた彼は、低い呻き声を漏らし、その場に崩れ落ちる。レディは即座にもう一人へと体を向け、黒い革靴の爪先を思い切り踏みつけてやった。再び男の情けない苦悶が響き、彼女は隙を突いて駆け出す。少しでも身軽になるため、鞄を放り捨て階段を一気に駆け降りた。だがそこへ、立ち塞がるように別の黒服が現れる。あらかじめこうなることを想定して、どこかに潜んでいたのだろう。レディは苛立ち、手すりを掴むと自分の両足を持ち上げた。階段を登ってくる男の顔面目掛けて、飛び蹴りを食らわせる。男は口を開け、驚愕の表情を浮かべたまま、転倒した。同じくレディも地面に転がるが、上手く受け身を取って、ダメージを軽減する。急いで体を起こし、逃げ出そうと足を踏み出した。
その時だ。
背中に何か、小さな金属製の物体が二つ、命中する。BB弾のようなそれに接触した瞬間、凄まじい電流が彼女の肉体を貫いた。
「っ……!!」
あまりの衝撃に、声も出ない。全身に麻痺が広がり、筋肉が弛緩する。彼女はそのまま、乾いた埃っぽい砂の地面へうつ伏せに昏倒した。
彼女の背後には、四人目の男が佇んでいる。手にしたテーザー銃で、レディを感電させたのだ。電極に繋げられたワイヤーが、伸び切って風に吹かれ、間抜けに揺れている。
「……行くぞ」
男は銃を仕舞うと、気絶したレディの体をひょいと持ち上げた。まるで、重さなんて感じていないかのように。
促された他の男たちが、めいめい攻撃を受けた箇所を押さえつつ、彼に従う。彼らは連れ立ってアパートの敷地を出ると、車のキーを押した。
それまで何もなかったはずの空間から、突如黒色のワゴン車が姿を見せる。窓は完璧なスモークガラスになっていて、内部の様子は全く分からない。男の一人が後部のドアを開け、ぐったりとしたレディをシートに座らせた。そして自分たちも素早く乗り込み、車を発進させる。後には、レディが手放したお気に入りのバッグだけが、中身の散らばった状態で残されていた。
* * *
「ってのが~、おいらの見立て。どーだった?」
再生していた映像を止めてから、女が無邪気な声で尋ねる。トワイライトのデスクの周りに集まって、画面を凝視していた一同は、緊張の解けた吐息を漏らした。
「かな~り詳しく再現してると思うけどなー。その場に残存した魔力反応から、各者の動きを算出して映像にしたの」
女はふざけた口調で、忙しない動作と共に訴える。
「うむ、助かるよ、ミモザ」
実際、彼女の作成した映像は、とても精巧に出来ており非の打ち所がなかった。トワイライトは重々しく頷いて、彼女の仕事ぶりを賞賛する。
「ん、どういたしまして!お礼は倍でいいよ、トワぽんっ」
「ははは、容赦がないな……」
ミモザは嬉しそうに笑って、さらりと遠慮のない要求を突き付けてきた。慎みという概念を忘れてきたかのような言動に、トワイライトは苦笑する。
「「トワぽん……」」
エンヴィスとレンキは彼のあだ名の珍妙さに戸惑って、呆然と繰り返した。ミモザの放つ気さくで親しげな空気に、どこか置いて行かれたような感覚だったのだ。
「あの、この方は誰なんですか……?ミモザ、さん?」
「あー、そういう堅苦しいの嫌いだから、おいら」
カーリもまた、彼女との接し方が分からず、困惑していた。二人にひそひそと問うた途端、ミモザ本人がくるりと振り返り、話しかけてくる。囁き声しか出していなかったにも関わらず、敏感に聞き取られて、カーリは仰天した。
「え?そういうのって……」
「だーから!名前だよ、名前!」
意味がよく理解出来ずにいると、ミモザは両手を広げ、焦ったそうに喚く。
「ミモザは敬称をつけられるのが嫌いなようでね。分かってやってくれないか」
あまりの剣幕にカーリが萎縮しているのを見兼ね、トワイライトが口を挟んだ。
「あ、はい……よろしくお願いします、ミモザ……」
彼から説明されたことで、カーリも多少は落ち着きを取り戻す。いきなり呼び捨てにする違和感を堪えながら、おずおずと頭を下げた。
「うんうん、よっろしくねー、カーリちん!」
ミモザはもう既に笑顔に戻っている。
「か、カーリちん……」
早速珍妙なあだ名を付けられたことに、カーリは愕然と呟きを漏らした。
「彼女は鑑識部の悪魔でね。私が刑事部にいた頃からの知り合いなんだ。今回無理を言って、捜査資料を一部共有してもらっている」
トワイライトの紹介を受けて、ミモザは得意げに唇の端を上げた。糸目が薄く開き、金色の瞳が姿を覗かせる。豊かな長い髪は、紫がかった艶を放っている。玉ねぎヘアと三つ編みを組み合わせた、複雑な髪型をまとめる組紐には、小さな鈴がついていた。纏っているのは、グレーのチェック柄のベストと、黒いタイトスカート。レトロなデザインのリボンブラウスも同じ黒色だ。ありきたりなOL風の装いだが、上から白衣を重ねることで、自らの所属を表していた。
「聞こえのいい言い方しないでよ。そんなの、ただ横流しを強要してるだけじゃない!」
レンキが険悪な表情で、トワイライトに噛み付く。
「まーまー、落ち着いてよ。えっとぉ……誰だっけ?」
甲高い声で喚き立てるレンキに、ミモザは両の掌を向けて宥めた。ニコニコと口角を上げ続けている彼女は、まるで物語に出てくる笑う猫のようだ。
「レンキです!情報分析部のレンキ!!」
話を遮られたレンキは、苛立ちの滲む口調で名乗る。どっと突風が吹いたような勢いに、ミモザも一瞬だけ気圧されたような反応を取った。
「おぉう……すっごい剣幕。よろしくね、レン兄」
「レン兄!?」
だが、即座に笑顔を取り戻すと、親しげにレンキの肩を叩く。一方的に距離を詰められて、彼は驚愕に目を見開いた。
「あのさ、レン兄。おいらは別に、トワぽんに何かを強要させられてるわけじゃないんだよねー。おいらが自主的にやってることというかー」
風変わりな一人称を駆使しながら、レンキの非難は的外れだと指摘する。彼女の突飛な行動に飲まれかけていたレンキは、慌てて我に返り反駁した。
「信じられるわけないでしょ!」
「信じてもらわなくってもいいよー。おいらはただ、親友のレディっちのことが心配なだけだからさ」
ところがミモザも平然と、彼に言い返していた。頭の後ろに手を回した軽薄な振る舞いとは裏腹に、声音は真剣で真面目な色を含んでいる。どうやら彼女は彼女なりに、友人の身を案じているらしかった。当然のことだ。
レディが行方不明になってから、今日で一週間が経つ。ちょうど、ロザリオとの一件があった日のことだ。
最初は誰も、事件だとは思わなかった。だが、彼女はこれまで一度も欠勤をしたことがないし、連絡一つ寄越さないのも不審である。念のためにと、トワイライトが彼女の自宅に赴いた結果、そもそも帰宅すらしていないことが判明した。おまけに、玄関前には彼女のバッグが落ちており、明らかな事件性を漂わせていた。そうして刑事部による捜査が開始され、今に至るというわけだ。
「それで、進捗はどうなんだ?」
エンヴィスが腕を組んだ姿勢で、ぶっきらぼうに質問する。ミモザはくるっと彼の方に向き直り、疲れたように嘆息した。
「まーだ全然なんだよねー、それが。手がかりゼロ。この映像が出来たのだって、ついさっきのことだし」
腰に手を当て、反対の手で肩を揉みながら、彼女は空いていた椅子にどっかりと座る。徹夜で作業していたのか、よく見ると目の下には濃いくまが出来ていた。
「この男たちだが、随分と動きに無駄がないな。手慣れているように見える」
しばらく黙り、映像を見返していたトワイライトが、おもむろに口を開いた。確かに、言われてみればその通りかも知れないと、カーリも考える。彼らの動作には、何度も同じことを繰り返したからこそ生まれる、滑らかさのようなものがある気がした。
「あ、おいらも思ったよー。もしかして、そのスジの悪魔たちの仕業なのかなー?」
ミモザも同意し、首を傾げて誰にともなく疑問を投げかけた。そのスジというのはつまり、いわゆる裏社会の、非合法的な活動を生業とする悪魔たちのことだろうか。何故そんな連中に、レディが狙われるのか。カーリの胸に、一層の恐怖と混乱とが走る。
「バルドーなら、もう少し詳しい見解を示すだろう。捜査本部が今後どのような方針を取るのか、分かり次第教えてくれたまえ」
トワイライトが机の上で手を組み合わせ、思案げな調子で告げた。バルドーというのは、確か今回の捜査本部の指揮者だったはずだ。トワイライトにとっては、かつての同僚でもあるらしい。
「りょーかい!そんじゃ、おいらは一眠りしてくるよー。まったね~、トワぽん!」
ふざけた敬礼と共に、ミモザはあっさり彼の頼みを承諾した。颯爽と歩み去る足取りは、眠気に駆られているとは思えぬ軽快なものだ。
「……個性的な方、でしたね……ミモザさん」
白衣の背が見えなくなった頃、カーリは無理矢理、愛想に近い感想を絞り出した。
「レディの友達って感じだったね」
維持していた沈黙を破り、ボール・アイも共感した。端的だが、これ以上ないほどに明快で納得のいく言葉だった。本人に意図はなかっただろうが、結果的に助け舟を出してくれた彼のことを、カーリは感謝の気持ちで抱き締めた。
「ねぇ、腹黒」
二人のやり取りなど聞こえていなかったという風に、唐突にレンキが切り出す。呼びかけられたトワイライトは、訝しげな瞳を彼に向けた。
「……アンタ、まだ黙っているつもり?」
レンキは彼に、苛烈で容赦のない質問を浴びせかける。直截な尋ね方に、そばにいるカーリたちの方が思わず驚くほどだった。
「……何のことでしょう」
「とぼけないで!!」
トワイライトはたっぷり数秒、考え込む間を空けてから、不思議そうに問い返す。直後、レンキの悲鳴じみた絶叫が上がった。
「アンタ、いい加減にしなさいよ……!本当は全て知っているんでしょう!?あの子に何があったのかも、あの子が何者なのかも!」
「え!?」
彼の言い分を耳にするなり、カーリは反射的に声を発する。
「れ、レンキさん!」
「この男から聞いたよ……アンタたち、一体どういうつもりなの?こんなの、どう考えたっておかしい。まともじゃないでしょうが!」
エンヴィスが止めに入るが、レンキは意に介さない。トワイライトに指を突きつけ、彼を糾弾し続けている。ロザリオ邸で、うっかり打ち明けてしまった自分の過ちを、エンヴィスは呪った。
「信っじられない!!真実を隠して、虚偽の報告を上げるなんて!!」
「……トワイライトさん……」
一息に捲し立て、肩を上下させるレンキの傍で、カーリは困惑に眉を寄せていた。何が起きているのか、まるで理解が追いつかない。
「全部知ってるって……レディの正体って、何なの?」
ボール・アイまでもが、呆然とした声色で、彼に問いかけていた。
皆の視線が集中するのを感じても、トワイライトは唇を引き結んだまま。彼が今何を考えているのか、誰にも分からなかった。
「お前たち……あのな」
張り詰めた空気を和らげるためにか、エンヴィスが代わりに口を開く。だが、それをトワイライトは片手で遮った。
「いいさ、エンヴィスくん。私から説明しよう」
「トワイライトさん……」
「どの道、いずれ話さねばならぬ時が来るとは分かっていた……今が、その時なのだよ」
不安げな眼差しを注ぐ彼に、トワイライトは淡々と応じる。独り言のようにぼやいた声は重々しく、彼の深い思慮が織り込まれていた。
「だが、少々ややこしい話でね。理解してもらうために、まずは最初から始めようと思う……」
彼が語り出したのは、レディという悪魔との出会いのエピソード。そして現在に至るまでの、時系列に沿った記憶だった。
* * *
その日は、単独脱界者対策室が発足してからちょうど一年が経過した、記念すべき日だった。仕事を終えたトワイライトは、唯一の部下であるエンヴィスと共に、ちょっとした祝いの席を設けていた。といっても、たった二人しかいないチームなのだから、行事とも言えない。結局、いつも通りに愚痴を交わし合いながら、ただ酒と料理とを楽しむだけの時間だった。
店を出た後、先に気が付いたのは、一体どちらだっただろうか。車道を挟んで反対側に、数人の男女が屯している。正確には、男二人と女一人だ。三人とも若者らしい、派手な服装をしていた。どうやら男たちは、数の有利を活かして女に迫っているらしい。傍目にも分かるほど強烈に、揉め事の雰囲気を漂わせていた。通行人たちは、誰も止めない。この辺りは治安も悪く、比較的暴力沙汰が起こりやすいため、皆見て見ぬふりをしているのだ。
「エンヴィスくん」
「はっ」
指示されるまでもなく、エンヴィスは動き出していた。車と車の隙間を見つけ、素早く体を潜り込ませる。トワイライトも後を追おうとした。その時だ。
男の一人が、女の腕を掴んだ。スキンシップのような、軽い接触ではない。明らかに力任せな、乱暴な動作だ。
「おい!何やってんだ!!」
エンヴィスが咄嗟に、大声を出して彼らを恫喝する。行き交う車のエンジン音にも負けない怒号は、はっきりと男たちの耳に届いたようだ。驚いた様子で、女に近付いていた男がこちらを振り返る。直後、女が足を振り上げ、ハイヒールの踵で思い切り彼の股間を蹴った。もう一人の男にも、鳩尾に拳を叩き込む。瞬く間に、大の男二人が路上に寝転ぶこととなった。
「な……っ!?」
「えぇ……」
ようやく辿り着いたトワイライトとエンヴィスは、崩れ落ちた男たちの姿を見て、引き気味の音吐を漏らす。
「何、オジサンたち」
一人屹立する女が、ギロリと鋭い目つきで二人を睨め上げた。その手が未だ拳を握っているのに気付き、エンヴィスは内心で警戒を強める。
「君を助けようと思ったんだよ。何やらお困りのようだったからね……だが、必要なかったかな」
トワイライトがすかさず前に出て、剣呑な空気を纏う部下を女の視線から隠した。ちらりと一瞥だけ向けられた瞳には、抑えろと書いてあるかのようだ。
「別に。こいつらぐらい、簡単に蹴散らせるし。お節介なんてしないでよ、オジサン」
女はぷいっと顔を背けて、腕を組んだ。容易く心を開くつもりはないと体中で示している。
「お前なぁ、そういう言い方……」
「何?あんたたちこそ、助けるふりしてアタシのことナンパしようとしてたんじゃないの?」
見かねたエンヴィスが口を挟むが、彼女はそれすらも拒絶し、一層睨みを利かせてきた。
「はぁ!?そんなわけないだろ!」
「ふんっ、どーだか」
ただの善意で、他意はなかったにも関わらず、言いがかりを付けられる筋合いはない。彼女の無礼に、エンヴィスは鼻白み、不快感を表した。だが女は軽く鼻を鳴らしただけで、彼に取り合おうともしない。
「じゃあ証明してみせてよ。あんたらがこいつらと違うって証拠!出してみてよ」
それどころか顎を上げた高慢な調子で、指を突き付けられた。
「お前……!」
「ふむ。これでいいのかい?」
挑発に乗せられ、エンヴィスの思考がじわじわと怒りに染まっていく。トワイライトは機転を効かせて、彼を軽く肘で押し退けた。懐から取り出した職員証を女に見せる。魔界府中央庁舎所属、警察部門の文字列が、きちんと読めるように。
「……!」
途端に、女の顔色が変わった。青褪めた、というより病的な白さへ。
「どうかしたのかい?」
豹変を機敏に察知して、トワイライトは尋ねかける。彼女は答えない。その余裕もないのだろう。
「嘘でしょ……そんなとこまで……」
息を詰まらせ、冷や汗をかいて、何事かを呟いている。
これはただ事ではない。トワイライトほどの観察眼を持たない者でも、気付くはずだ。
「何か、あったのかな」
相手の顔を覗き込むようにしながら、トワイライトは一歩踏み出す。片腕をさりげなく伸ばし、女の背後に回した。セクハラかも知れないが、逃亡を阻止するためなら致し方ない。
「話、聞かせてくれる?」
そのまま肘でも掴もうかと思った矢先。女がいきなり体勢を変え、彼の手を振り払った。あまりの強い力に、トワイライトはかすかにバランスを崩す。女はその隙に彼の体を突き飛ばし、一目散に逃げていった。
「うっ……!」
「トワイライトさん!」
不意打ちを受けた彼は、後方のビルの壁へと衝突する。後頭部をぶつけ、ゴンと鈍い音が鳴った。エンヴィスが駆け寄ってこようとするのを、何とか押し留める。
「彼女を……」
ところが、彼女の姿はもはやどこにもなかった。周囲には、夜の暗闇があるばかりだ。
「すみません……大丈夫ですか?」
エンヴィスは申し訳なさそうに謝罪を紡ぐ。
「あぁ……問題ない。少々面食らっただけだよ」
トワイライトは頭をさすりながらも、平気だと応じた。しかしこれは、防御系魔法に長けたトワイライトだからこそ出来たことだ。女は恐らく、強化系魔法のかなりの手練れだ。あの逃げ足の速さについていくことはほぼ不可能だろうし、仮に追いかけたとしても、返り討ちに遭う可能性が高い。むしろ諦めた方が賢明だった。地面に伸びている二人の男には、救急車を呼ぶべきだろう。
「あの女、何者だったんでしょうかね……」
彼女の消えていったと思しき方角を眺め、エンヴィスが呟く。表通りからの光がかろうじて届く路地には、何か尖った物を強く打ち付けた跡が点々と刻まれていた。トワイライトの脳内には、あのヒールの女が高速で、ごみごみしたビル群を掻い潜っていく映像が生成される。
「さぁねぇ……だが案外、またどこかで出くわすかも知れないね」
ぼんやりとこぼした彼の言葉が実現したのは、早いことに翌日だった。
* * *
いつも通り出勤すると、トワイライトの耳に刑事部の悪魔たちの噂話が流れ込んできた。どうやら、昨日深夜に補導された少女が、ここ中央庁舎にまで回されてきたらしい。たかが通行人と喧嘩をしたくらいで、交番から案件が上がってくるなど、前代未聞の珍事だ。
興味を惹かれたトワイライトは、かつての職場、刑事部捜査一課に足を運んだ。部長になったシュハウゼンは、昔と変わらぬ態度で彼を迎えた。詳しい事情を聞いたトワイライトは、その少女とは、昨夜出会った悪魔であることを知る。
「じゃあさ、トワちゃん、取り調べやってみる?」
「……はいっ?」
彼の告白を聞いたシュハウゼンは、さも名案とばかりに目を輝かせて、提案した。トワイライトの驚きにも構わず、楽しそうに話し続ける。
「知り合いなんでしょ?あの子、名前も言わないんだよねー」
彼はともかく、基本的に悪魔というのは、自分たちのテリトリーに部外者が侵入することを嫌う傾向がある。既に刑事部を去って久しい自分が、今更取調室に立ち入るなど、まさしく逆鱗に触れる行為となるだろう。余計なトラブルを抱えたくないトワイライトは、どうにかして危機を回避しようとした。
「いえ、昨晩少し話しただけですし、知り合いというほどでは……」
「まぁま、そんなこと言わずにさ。助けてよ。トワちゃん、取り調べ得意だったもんね?」
だが、シュハウゼンがこちらの言い分に耳を傾けた試しはない。
「あの子さー、何聞いてもずっと黙秘ばっかりだし、突然キレて殴りかかってくるしで、厄介なんだよねー。正直、猫の手も借りたいくらい……優秀なトワちゃんだったら、何か聞き出せると思うんだよね!」
「あの、シュハウゼンさん」
「はいはい!そうと決まったら早速行動~!」
強引に肩を掴まれ、バシバシと叩かれる。横暴なシュハウゼンは彼に反論の時間を与えないどころか、その沈黙を肯定と見做した。トワイライトは彼に引き立てられて、無理矢理に取調室へと連れて行かれる。
取り調べ用の部屋が並ぶ廊下には、数人の悪魔たちが待機していた。彼らの視線が集中しているドアを通して、男の話し声が聞こえてくる。かと思えば、誰かが争っているような、騒々しい音が鳴り響いた。どうやら、突然キレるというのは本当のようだ。そしてそれは、かなりの頻度で起きているらしい。
「君たちどいたどいたー。選手交代するから、このトワちゃんに」
騒音の具合から、加勢しようかどうか図っている男たちを、シュハウゼンは鶴の一声で退けた。たちまちに、彼らの間にどよめきが広がり、無数の好奇の視線がトワイライトを貫く。彼は首を竦め、その場を立ち去りたい衝動に駆られた。しかし、肩に置かれたシュハウゼンの手が、邪魔をしていて動けない。どう言い訳すべきか思案している内に、彼は金属製の扉の向こうに放り込まれていた。
「じゃ、僕隣にいるから。頑張ってね~」
「シュハウゼンさん!」
慌てて振り返った時には、もう遅い。扉は外側から施錠され、トワイライトは閉じ込められてしまっていた。
「はぁ……」
相変わらず、話を聞かない悪魔だ。トワイライトは一つ溜め息をつき、改めて室内を見回した。
といっても、さして特別なところはない。普通の取調室である。奥の壁には格子の嵌まった小窓があり、左手の壁には巨大なマジックミラーが取り付けられている。シュハウゼンと他数人の悪魔たちが、今もこちらを窺っているはずだ。右手の壁には、記録係の座る椅子と机が置かれているが、二人きりでは使う機会もないだろう。部屋の中央には真四角のテーブルと、パイプ椅子が向かい合わせに配置されていた。窓側の席に、だらけた姿勢で少女が座っている。やはり、昨日見かけた悪魔だ。露出の多い派手な服装も変わっていない。あまりに抵抗するからだろうか。容疑者でもないはずなのに、彼女の手首には手錠がかけられていた。魔法の行使を封じるだけのアイテムで、拘束力には欠ける代物だ。逮捕状のない相手は拘束出来ないという法律があるから、皆苦戦しているのだろう。
「あんた……!」
トワイライトの顔を認めると、少女は驚愕した様子で目を見張った。天板の上に投げ出されていた腕が動き、取り付けられた手錠がかちゃりと音を立てた。
「やぁ……覚えていてくれたとは。光栄だね」
警戒を抱かせぬよう、トワイライトはあえてゆっくりとした歩みで進む。空いている方のパイプ椅子に、慎重に腰を下ろした。
「別に。昨日会ったばっかだし、忘れる方がおかしいでしょ。そのだっさい服も目立つし」
接近されたことに嫌悪を覚えたのか、女は椅子の背もたれに深く体重を預け、仰け反るような姿勢を取る。あからさまに視線を外す仕草は、昨夜と同じく、心を開くまいと躍起になっているようだった。新調したばかりのスーツを酷評されて、トワイライトは苦笑する。確かに、軍政部時代の栄光をこれ見よがしに飾った服は、自己顕示的ではあるだろう。
「ははは、それもそうだね……私も、まさかここまで早く再会出来るとは、思わなかったよ。偶然とは不思議なものだ」
罵倒を軽くあしらって、おもむろに足を組み替える。何気ない風を装いつつ、油断のない眼差しで相手を観察した。
一見するとごく凡庸な、いわゆるギャル的格好だ。肩より少し長いくらいの金髪に、謎の英字がプリントされた白いTシャツと、半袖の赤いパーカー。ベージュ色のホットパンツからはすらりとした長い足が伸び、赤いハイヒールを引き立てている。だが、そのどれもが泥や埃で汚れ、髪も酷く傷んでいた。素肌の部分には、かすり傷がついているところもある。もしや長い間、野宿生活でも送っていたのだろうか。
「……何」
存外に勘がいいらしい。見られていることを感じ取ったのか、少女が昨夜と同じ目つきで睨み付けてきた。視線から身を隠すように腕を組んだ際、パーカーが彼女の薄い肩を滑り落ち、上腕部を露わにさせる。襟ぐりの伸びたTシャツからは、下着のストラップがはみ出ていた。トワイライトは実に紳士的に、さりげなく目を逸らす。
「……オジサン、もしかしてアタシの体に興味あんの?」
ところが、この少女は本当は聡い悪魔だったようだ。機敏にトワイライトの行動の変化を察して、挑発するような声を投げかけてくる。それどころか、腕を体の前で交差させ、胸元を強調するポーズまで取って、腰をくねらせ始めた。
「勘弁してくれ……」
トワイライトは今度こそ体ごと向きを変え、深く息を吐き出した。
「あれ?どしたの?ホントに嫌そうじゃん」
がっくりと項垂れる彼を見て、レディは意外そうに首を傾げる。男を侮蔑したような物言いに、不快感を抱かないでもなかったが、彼は大人だ。感情をありのままに表に出すような、幼稚な行いは出来なかった。
「当たり前だろう?君はまだ子供だ。取り調べるべき相手でもある。そんな相手に、一体誰が愚かしい真似をすると?」
「ちょっと。アタシもう子供じゃないし。成人してるよ」
苦い声音で返すと、女は頬を膨らませ、文句をつけてくる。
悪魔たちの法では、50歳を超えたら成人であることが定められている。だがトワイライトには、眼前にいるこの少女が50歳以上だとは、とても思えないのだった。
「はっはっは、嘘はやめたまえ」
「嘘じゃないってば!」
あえて仰々しく笑い飛ばせば、彼女は声を荒げて言い返してきた。子供扱いされたことが、よほど癪だったらしい。彼女の眉間には皺が刻まれ、目尻は吊り上がっていた。
「ならば証明してくれ。君が成人であると示す証拠を出せばいい。身分証か何か、持っていないのかね?」
「むっ……」
トワイライトは片手を広げて、彼女に問う。少女は促されるままに、膝に乗せていた小さなバッグを取り出し、中身をゴソゴソと漁った。トワイライトは微笑ましさを堪えながら、彼女の動きを見守る。
突然、女がハッとした様子で手を止めた。
「オジサン……もしかして、アタシを誘導した?」
こちらを睨む瞳には、怒りの色が滲んでいる。トワイライトは何食わぬ顔で、肩を竦めた。
「おや。気が付かれてしまったか。残念だ」
その通りだ。わざと疑い、不満を煽れば、自ら身元を明かしてくれると踏んでいた。実に自然に導いたつもりだったが、頭のいい彼女には通用しなかったようだ。
「なっ!?」
罠を看破されても尚、ふてぶてしい態度を貫く彼に、少女は非難の視線をぶつける。
「馬鹿にしないでよ、オジサンのくせに!!」
彼女が勢いよく立ち上がると、その膝裏に押されたパイプ椅子が、けたたましい音を立てて倒れた。マジックミラー越しに、刑事部の悪魔たちがどよめいている気配が感じられる。しかしトワイライトはあくまでも冷静に、腰を下ろしたまま少女を見上げていた。
「……一つ言っておくが、私の名前はオジサンじゃない。トワイライトだ」
「そんなのどうでもいい。アタシをここから出して」
淡々とした訂正を、少女は簡単に一蹴する。彼女の声には意図した抑えが働いており、自制しようと必死になっていることが分かった。
「残念だが、それは無理だ」
「っ!どうして!?」
トワイライトの方は本心からの落ち着きで、彼女の要求を拒絶する。案の定、少女は即座に噛み付いてきた。
「相手の言い分も聞かないで、自分の望みだけ叶えようだなんて、都合が良過ぎるだろう?頭のいい君なら、分かるはずさ」
全てはギブアンドテイク、取引だということを、聡明な彼女が理解していないわけはない。そう言いたげに、信頼と評価を提示する形で呼びかける。これで宥められればと願ったが、作戦は失敗した。
「うるさい!いいから放っておいてよ!アタシに構わないで!!」
むしろ一層焦った調子で、金切り声を響かせる。
「アタシは、こんなとこにいられないの!早く行かなきゃ……!」
まるで自分の姿を隠そうとしているかのように、少女は自身の腕で頭を覆った。
「……ふむ」
トワイライトはテーブルに片肘をついたまま、じっと彼女を観察していた。
「な、何……」
興味深そうな呻きを漏らす彼に、少女は訝りの眼差しを向ける。空色の瞳が自分を捉えるのを待って、トワイライトは口を開く。
「君は、怯えているな?いや、怖がっていると言うべきか」
「!!」
びくりと、少女の体が震えた。というよりも、雷に打たれたかのように激しく痙攣する。
「な、何言ってんの、オジサン……」
慌てて普段通りに振る舞おうとしているが、上手くいっていない。取り繕っていることが、あまりにも明らかだ。
「何が君を脅かす?狙われているのか?誰かに命を……それとも、身柄か?」
動揺を表した相手に、トワイライトが慈悲をかけるはずがない。彼は更に鋭く切り込み、少女の最も触れられたくない話題に踏み込んだ。彼の口から短い問いかけが連続して放たれる。その度に彼女は、全身を強張らせて恐怖していた。
「……っ」
「君はどこかから逃げてきた。理由は分からないが、そこにいると君にとって良くないことがあるのだろう……そして、相手の目を掻い潜るため、何日もホームレス同然の生活を送っていた」
彼はゆっくりと立ち上がると、弧を描きながら室内を歩き回る。そうして自身の見解を述べつつ、少女の反応を窺った。
「……違うかな?」
確認という形での、とどめの一撃。少女の目を真っ直ぐに見据えて、最後の一手を指す。ここまで見事に図星を突かれ続けた後で、全てを否定する演技を保つというのは、案外難しいものだ。実際に少女も、視線を忙しなく左右に彷徨わせ、頬に冷や汗を伝わせていた。もう何もかもを話してしまおうかと、心の内で葛藤しているようだった。
「ち、違うっ!全然違うから!!」
しかし、ギリギリのところで誘惑を跳ね退け、首を打ち振った。彼女はやはり、相当の精神力の持ち主のようだ。
「勝手なこと言わないでよ!そんなの、全部ただの推測じゃん!!」
金髪を振り乱して叫び、握り締めた拳を強く叩き付ける。どんっと重い音と共に、トワイライトの胸部に衝撃が走った。だが、昨日のように、痛みに顔を歪めるほどではない。踵に多少重心を移すだけで、簡単に踏み留まることが出来た。あらかじめ彼女に手錠をかけておいてくれた、刑事部の悪魔たちに感謝する。
「あぁ、そうさ。真実は、君が語るまで分からない」
思ったよりトワイライトが平気そうにしているからか、少女は自らの拳を信じられないとでも言いたげに凝視している。そこに、トワイライトの沈着な声が投げかけられた。
「だが、無理に聞き出そうとも思わない。私は真実を知るために、ここにいるわけではないからね」
「えっ……」
優しく丁寧に語りかけると、少女は意外そうに目を丸くした。この部屋に来る悪魔たちは、皆無理矢理話をさせたいものと思い込んでいたらしい。事実、その考えも間違ってはいないのだが。
「私は、君を助けたいんだ。お嬢さん」
トワイライトは彼女に向かって、滑らかな仕草で手を差し伸べる。完全なる打算というわけではなかったが、今回は味方であることのアピールが得策だと判断した。
「君が何者であれ、困った状況に置かれているのなら、そこからの脱却を手助けしてやりたいと思っている。もちろん、君を追っている者たちに、君の情報を売るようなことは決してしない。君が望むなら、しかるべき施設での保護を手配することも出来る。我々警察部門とは、君たち市民を守るためにいるものだからね」
流暢に喋り続ける彼を、少女は口を半開きにしたまま見上げている。差し出されたこの手を取るべきか、否か、必死に悩んでいるようだ。相手を信じたいという思いと、疑心暗鬼とが脳内でぶつかり合い、拮抗していることが伝わってくる。
「無論、断りたければそれでも結構。全ては君次第だよ」
彼女の内心を見透かしたトワイライトは、次の段階に移行することにした。簡潔に言えば、飴と鞭。親身に寄り添う姿を見せた後、打って変わって突き放すのだ。圧力をかけることで、相手を焦燥させ決断を促すのである。
「我々と共にいれば、いつか必ず真実に向き合わねばならない時が来るだろう。それが嫌なら、大人しく家に帰るがいい。引き留めはしないよ。まぁ……その場合は、後で君の身に何が起ころうと、助けてやることも出来ないがね」
彼女は己の自由意志で決めなければならないのだと、表向きは親切に、しかし裏には狡猾な狙いを含ませる。ここで断り、彼らとの関係を絶ったら、彼女は一人だ。もしも彼女の想定する最悪の事態が起こった時、彼女は独力のみで対処することを迫られる。果たして、それだけの自信があるか。何にも信用を置けず、情緒の安定性を失っているこの少女に。
トワイライトは密かに、値踏みするような眼差しを彼女に注ぐ。少女は唇を噛んで俯き、その場に立ち尽くしていた。バサバサに傷んだ金髪が、前に垂れて彼女の汚れた顔を隠している。トワイライトは強いて追い打ちをかけることもなく、少女の決断をただ待っていた。
「……帰る家、なんて……もう……とっくにないよ……」
やがて、彼女の薄い唇がわずかに開く。大して機能していない空調機の駆動音にさえかき消されそうな、ごく小さな声が、こぼれ落ちる。
「そうか。なら、どうする?」
それを耳聡く拾ったトワイライトは、真顔を維持しつつ相槌を打った。腕組みをして、下を向いたままの彼女を覗き込もうとした途端。少女がばっと顔を上げる。
「助けて、オジサン!アタシを匿ってよ、あいつらから!」
彼女の眦には涙が浮かび、手はここではないどこかの誰かを誹るように指している。どうやら彼女は、誰をも信じず一人で戦い抜く道より、頼れる誰かに助けを求める方を選んだようだ。トワイライトは何も言わず、胸に縋り付き濡れた頬を押し付けてくる子供を、そうっと引き剥がす。彼女の姿からは、もはや警戒心も猜疑心も、一切感じられなかった。
「……分かったよ。そういうことなら、お任せあれ、だ。お嬢さん」
セクハラと誤解されないかヒヤヒヤしつつ、彼女の肩に手を置いて一つ頷く。見る者を安心させるような穏やかな笑みと、優しげな声音に、少女は心底安堵して息を吐いた。目元を乱暴に擦り涙を拭き取ってから、鼻声混じりの掠れ声で呟く。
「レディ」
「ん?」
「アタシはレディ!お嬢さんじゃないから」
小首を傾げ聞き返したトワイライトに、レディは胸を張って宣言する。堂々とした不遜な態度を取り戻し、さも当然のように手を伸ばしてきた。
「覚えておいて、トワイライト”オジサン”」
それはまるで大人同士の交流を見様見真似で再現しているような、滑稽さのある動作だった。さっきまで涙を落としていた割に、今は何事もなかった風に眉を吊り上げ勝気に笑っている。その子供じみた大胆さと挑戦的な表情に、トワイライトは思わず吹き出した。
「ふっ……よろしく頼むよ、レディくん」
好意の印とばかりに、胡散臭いと評判の笑顔を作り、応じる。硬い握手を交わす二人のもとに、ドアを開けて数人の刑事たちがやって来た。彼らはレディの手首から手錠を外し、彼女は晴れて自由の身となったのだった。
シュハウゼンに経緯を報告したトワイライトは、その足で彼女を警察部門の提携している病院へと送り届けた。保護など何らかの手続きを取るためには、まずは健康状態を確認しておかねばならないのだ。
エンヴィスに魔法で通信を飛ばし、現地で会うことを伝えてから、中央庁舎を出てタクシーを拾う。レディは窓に張り付いて、過ぎ行く景色や他の車の流れに、じっと見入っていた。
「しかしまぁ、良かった」
「何が?」
唐突に話しかけると、彼女は素早く振り向いて尋ねる。きょとんとした丸い瞳は、社会の暗闇を何も知らない無垢な少女そのものだ。トワイライトは窓枠に肘をついて、同じように周囲を眺めながら、答える。
「君が残ってくれて幸いだという意味だよ。あそこで帰ると言われていたら、私は君を勾留しなければならないところだったからねぇ……そんなの、面倒じゃないか」
「なっ!?」
彼のとんでもない自白を聞いたレディは、即座に目を見開き愕然とした。頭で考えるよりも先に、口から勝手に声が飛び出す。
「じゃあオジサン、最初からアタシを帰すつもりなんてなかったってこと!?」
「当然じゃないか。何も話そうとしない相手を、警察部門がタダで開放すると思ったかい?」
糾弾されても、トワイライトはまるで意に介さない。痛くも痒くもないと言うように、こちらを見つめ続けている。
「サイッテー!!」
「結果的にはそうならなかったんだから、いいじゃないか。君はここに残るんだろう?」
「そういう問題じゃないっ!!」
心からの罵倒をぶつけられても尚、適当な弁解を繰り返す彼に、レディは金切り声を上げた。そのままの勢いで再び窓の方を向き、不貞腐れる。
「騙すなんて酷いよ……オジサンのこと、少しは信じてあげようと思ったのに……!」
景色に気を取られているふりをして、顔を背けた状態で呟く。本当はただ、見られたくなかっただけだ。打ちひしがれ、悲しみに歪んでいるこの表情を。
裏切られたと感じ、強く心を痛めている彼女を、トワイライトはどこか穏やかさのある瞳で見遣る。
「そう簡単に、他人を信用する者ではないよ。特に、私のようなオジサンが相手なら、尚更ね」
口から飛び出した声音は想像より優しく、言い含めるようなニュアンスを持っていた。自身の意外な一面に驚くトワイライトだったが、当然レディには分からない。
「ハァ?何それ、嫌味?」
「ははははは!」
情け容赦なく睨みつけてくる彼女の気概に、彼は何故か胸を打たれ、タクシーの中で大きな笑い声を弾けさせた。
* * *
「はぁ、はぁっ……全く、何がどうなってんだ!」
魔法一つでいきなり呼び出されたエンヴィスは、走っていると認識されない速度で病院内を移動していた。事態をまるで把握出来ないことに対する苛立ちが、無意識に口からこぼれ落ちる。
エスカレーターを駆け上がり、受付係に指示された通りの道順を辿ると、曲がり角の先にトワイライトが立っていた。壁にもたれかかって腕組みをし、目の前のスライドドアを見つめている。室内には恐らく、例の少女がいるのだろう。
「トワイライトさんっ!」
エンヴィスが名を呼ぶと、彼はすぐに顔を上げ、片手を上げて合図を送ってきた。彼のもとに辿り着いたエンヴィスは、息を整えることもせず、単刀直入に尋ねる。
「どういうことですかっ。刑事部の連中と手を組んで、何をするつもりなんです?」
「おや、酷い言い草だねぇ、エンヴィスくん……まるで私が、何かを企んでいるようじゃないか」
詰問の色を機敏に感じ取ったトワイライトは、不敵な笑みを浮かべ、わざとらしくはぐらかした。いつもの、語りたがらない時の彼のやり口だ。意図的に相手への疑いを言葉にして射抜き、もったいつけた否定を乗せて突き返す。だが、もう何度もやられたその手段に、もう一度土をつけられるエンヴィスではない。
彼は肯定も否定もせず、じっとトワイライトを見据えた。この男と共に働く内、無言ことが何よりの返答になることも、圧力になることも学んでいる。舌戦になったら、絶対に自分が負けるだろうことも。
「……分かったよ。正直に話そう」
彼からの追及を逃れる術はないと気付いたのか、トワイライトは一度ぐるりと目を回し、肩を竦めて降参のポーズをする。そして、指を一本立てて、彼に向かって頷いた。
「ま、実際のところ、君の見解の半分程度は、当たりだ」
「どういうことですか?」
「彼女は何者かに狙われている。それも……かなり面倒な相手に」
再び問い返すエンヴィスに、低めた声音で端的に告げる。特に、間を置いてから放たれた一言に、彼は驚愕した。
「何ですって!?」
思わず大声を出してしまった直後、周囲から咎めるような眼差しが飛んでくる。エンヴィスは慌てて声量を落とし、だが決して語調は変えずに、トワイライトを非難した。
「ならどうして、そんな女を保護したんです!確かに、放っておくのは可哀想かも知れないが……だからって、私たちがガードマンを買って出る必要はないでしょう!」
仮にトワイライトの話が本当だとすれば、彼女に関わることは自分たちの危険にもなる。その面倒な相手とやらに目をつけられることとなるのだ。それが分かっていて、飛び込む理由はないと、エンヴィスは拒絶した。
「だがね、エンヴィスくん」
彼をどう説得したものかと、トワイライトは思案する。その時、レディのいる病室のドアが開き、中から医師と看護師が数人出てきた。エンヴィスが素早く彼らに歩み寄り、話を聞き出す。本心では反対しているくせに、こういうところでは率先して動いてくれるのだから、よく出来た部下である。
「健康状態は、全く問題ありませんでしたよ。怪我も通常の医療用ポーションで治癒出来ましたし。ただ、少し栄養が足りていないので、食事には気を遣っておきます」
「彼女に会って、話を聞くことは可能ですか?」
「えぇ、もちろんです。ですが、レディさんは強化系魔法にお強いようでして……力加減を上手く出来ないことがあります。近付く際は十分に注意なさってください」
主治医と思しき男は、口調こそ静かだったが、表情は引き攣っており、怯えの念が浮き出ていた。まるで彼女を、猛獣か何かだと捉えているように。
「分かりました。ありがとうございます……トワイライトさん、行きましょう」
無礼な態度に、エンヴィスは一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに平常を取り戻し、トワイライトに視線を遣った。
「何?まだ何かあんの?……って、オジサンじゃん!!」
彼と共に病室に入ると、即座にレディの声音が耳に飛び込んでくる。彼女はベッドに足を伸ばして座って、雑誌を読んでいた。薄青い入院着の上から、例の赤いパーカーを重ねている。医師たちが戻ってきたものと勘違いしたのか、初めは不満だったが、相手の姿を確認すると嬉しそうに破顔した。
「さっきぶりだね、レディくん」
トワイライトは彼女のそばまで歩み寄り、にこやかな笑顔で語りかけた。
「オジサンって……」
隣に立つエンヴィスは、対照的に不愉快そうにしている。昨夜のこともあって、元々レディに好印象は抱いていないのだろう。それに加えて遠慮のない呼び方をされたことが、一層苛立ちを煽っているようだった。
「オジサン、誰?こっちのオジサンは」
ところがレディは、エンヴィスの纏う険悪な雰囲気も気にせず、あっけらかんと尋ねかけた。
「オジサンって……!」
エンヴィスがまたもや、先ほどより若干強い調子で呟く。彼の瞳は怒りに揺らいでいた。
「紹介するよ。私の部下の、エンヴィスくんだ。君も、昨夜会っただろう?」
トワイライトは素早く片手を上げ彼を制してから、何食わぬ顔で口を開いた。
「へー、あん時のうっさいオジサンか……ってゆーか、意外。トワイライトオジサン、部下とかいたんだ」
レディは彼の言葉をさも興味なさそうに聞き流し、じろじろと二人を眺め回した。礼儀というものを全く知らない不躾な言動に、エンヴィスの我慢もとうとう限界を迎える。
「あのなぁ……!お前、いくら何でも失礼過ぎるぞ。大体、俺はまだオジサンって歳じゃ」
「お前じゃない」
「ない……って、はぁ?」
彼女に詰め寄り、説教を始めようとしたところで、レディの呟きが割り込んできた。エンヴィスは話を途切れさせて、彼女の顔を見つめる。
「アタシの名前はお前じゃない!オジサン、話聞いてなかったの?」
彼が口ごもったのをいいことに、レディは勢いよく目線を上げ、エンヴィスを睨み据えた。断固とした口調には、強い決意と憤懣とが込められている。
「な……っ!?」
ついでとばかりに、小馬鹿にするような質問を添えられ、エンヴィスは衝撃を受けた。まさかこんな少女に、罵倒されるとは思わなかったのだ。理不尽な現実に憤りが芽生えてきて、頭が煮え立ちそうだ。
「まぁまぁ、その辺にしておいてくれ、レディくん。彼も悪意があるわけじゃないんだ」
エンヴィスが何かを言う前に、トワイライトは実に滑らかな動作で、するりと二人の間に割って入る。両手を下に下ろすような仕草で宥めようとしたが、残念なことにあまり効果は生まれない。
「嫌だ。アタシ、このオジサン嫌い」
と言うのも、レディが無慈悲にエンヴィスを指差し、はっきり拒絶したからだ。
「何だとぉ!?」
当然、エンヴィスも応じて眉をキツく吊り上げる。
「は、はは……」
仲裁に失敗したトワイライトは、ただ苦笑いを浮かべて、傍観していることしか出来なかった。そうしている最中にも両者は、バチバチと火花が散って見えるほど、互いを敵視し合っている。
「やっほー、トワちゃーん」
己の限界を、半ば諦観でもって受け入れていたトワイライトのもとに、かつての上司からの間延びした合図が投げ込まれる。振り向くと、スライドドアの隙間に巨体を差し込み、シュハウゼンが手招きをしていた。普段は鬱陶しくてならない相手だが、今回ばかりは救世主のようにも感じられる。トワイライトはさっさと、廊下に滑り出た。
「助かりましたよ、シュハウゼン部長。あなたが来てくださらなければどうなっていたことか……」
人気のない場所を探し、非常階段にまで移動してから、トワイライトは話し始める。
「何だか凄いムードだったねー。あの二人、相性悪いんだ?」
シュハウゼンは階段の手すりに腕を乗せて、長い足を遊ばせながら、楽しげに問いかけてくる。トワイライトは呆れたように首を打ち振り、答えた。
「そのようですね……レディくんは物怖じしませんし、エンヴィスくんも似たところがある。それでいて二人は正反対なのですよ」
「だからこそ、なんじゃない?きっと……っていうかさ、二人っきりにしといちゃっても良かったわけ?」
「そこはまぁ、彼も賢明な悪魔です。過ちを犯すようなことはないかと」
多少感情的な部分はあるにしろ、エンヴィスは十分常識的で、理性的な悪魔だ。たとえ子供同然の女に生意気を言われ嘲笑されたとしても、暴力的な手段を取るとは思えなかった。その程度の判断もつかぬ男なら、わざわざトワイライトが部下にするわけもない。自らの上司としての力量を疑われたように感じて、トワイライトは密かに不服だった。
「違う違ーう。そっちじゃなくて。あの女の子の方が、彼を殴ったりとかは?ってこと」
だが、シュハウゼンは軽く手を振って、それを否定する。
「それは……確かに……あり得るかも知れませんね」
彼の懸念は、今度こそトワイライトを閉口させた。実際、考えられることだ。エンヴィスに対して信用は置けても、レディに同等のものを覚えるわけにはいかない。つまり、彼女が何らかの理由で逆上し、エンヴィスを攻撃する可能性はあるのだった。無論、エンヴィスならば少しくらいは持ち堪えてくれるだろうが。
「大変だね。それじゃ、手短にいこうか。まず初めにだけど……」
トワイライトがかすかに顔を強張らせたことに気が付いたのか、シュハウゼンは本題を切り出す。とはいえ彼の口ぶりからは未だ、自分には関係ないことだという空気が漏れ続けていた。
「レディという名前の悪魔は、この魔界に存在しない」
彼の言葉は端的で、それ故の驚愕をトワイライトにもたらした。彼は弾かれたように顔を上げ、高い位置にある緑の瞳を凝視する。
「どういうことですか?」
「戸籍がないんだ。魔界府が管理している戸籍データベースに、レディという女悪魔は登録されていない。少なくとも、生きている状態では」
質問に答えるシュハウゼンの語り口は、いつになく明瞭さを欠いていた。何とも言えない微妙な顔つきで、額の角の生え際を掻いている。その仕草からは、困惑がはっきりと伝わってきた。もちろん、トワイライトも同感だ。
「彼女は、無戸籍児だと?」
出生届が提出されなかったことにより、戸籍を持たずに生きる悪魔は、一定数存在する。虐待やその他何らかの事情によって、魔界府の手からこぼれ落ちた彼らは、その後公的なサービスを一切享受せずに暮らすことを余儀なくされる。しかしながら、現在では法的な救済が整備されており、戸籍を得ることも可能になったはずだ。レディほどの年齢になるまで、無戸籍のままでいる悪魔など、ほぼ実在しない。少なくとも、魔界府の発表する統計の上では、そうなっていた。
だが、例外がいたということなのだろうか。トワイライトもシュハウゼンも、信じ難い思いだった。
「恐らくね……もしかしたら、既に死亡扱いされてるのかも知れないけど。その辺は鋭意調査中だよ」
口ではそう発しつつ、シュハウゼンはまるで希望を抱いていないようだった。
「あるいは、彼女が偽名を名乗っている可能性もありますが……」
「それだったら、データから調べるのは無理だね。流石のボクもお手上げだよ」
「でしょうね……」
トワイライトは苦し紛れに別の仮説を提示するが、シュハウゼンは両手を広げ、首を左右に振るばかりだ。
「それにさ、トワちゃん。どの説が当たりだったとしても、生じる問題は変わらないでしょ?」
まさしく、その通りだった。
戸籍がない、または名前か生死を偽っている。そのどちらも、彼女がまず普通の悪魔ではないということの証明にしかならない。理由が何であれ、彼女は警察部門に正体を知られまいとしているのだ。真っ当な生き方をしている悪魔ならば、そのようなことはしないはずである。
「分かりました。後で探りを入れておきましょう……」
軽率に、随分と深い泥沼に突っ込んでしまったものだと、トワイライトは落胆する。調べるべき事柄の多さと煩雑さを思うと、気力がどんどんと削がれていくのを感じた。
「それと、さっき主治医から面白い話を聞いた」
追い打ちをかけるように、シュハウゼンが新たな話題を振ってくる。嫌な予感がふんだんにしていたが、聞かないという選択肢はなかった。トワイライトは渋々耳を傾ける。
「と、言いますと?」
「彼女は、突然変異個体だ」
”突然変異個体”とは、その名の通り突然変異を起こした悪魔の総称である。ここ近年盛んに確認されており、”星の異常”の発露ではないかと噂されている。だが、問題が長引き過ぎて、もはや異常こそが日常と捉えられるようになり、突然変異個体もさほど驚きなく受容される存在となった。だからトワイライトも、ただ興味を惹かれるだけであった。先程の話が爆弾だとしたら、これはほんの微風に過ぎないことだった。
「ほう。具体的にはどのような?」
「彼女の魔力量は、平均的な低級悪魔の基準値と変わりない。でも、特定の魔法、強化系魔法を使用した際、その出力エネルギーは平均を大きく上回る。計算式で導ける数値の、およそ二倍にまで膨れ上がるんだ。凄いことだよね」
シュハウゼンも彼の内心を理解していたのか、もったいつけることなく伝える。淡々とした調子を心がけているようだったが、その声色にはどこか興奮が含まれていた。
本来魔法を使う際には、組み上げた術式に応じて、消費する魔力量とそれに伴う効果の程度、つまり威力が決定される。それはそれぞれにおいて固有であり、固定のものだ。同一の術式は、別の人物が使用しても同一の結果が出る。そしてその結果は計算式で導き出せる。しかしレディの場合は、強化系魔法に限定されるものの、計算式に当てはまらない結果を出力することが出来た。一足す一が、二になるというわけだ。既存の理論を凌駕した、あるいは新たな理屈の礎となる力。あまりにも特異で、注目を集める力である。
「もしや彼女は、その力のせいで……?」
「かも知れないね」
従来より格段に効率のいい手法が編み出されれば、当然新技術を狙う者が現れる。仕組みを解明しようと意気込む研究団体。あるいは、彼女の力を犯罪に悪用しようと企む非合法組織。レディはそのような悪魔たちに、追い回されていたのかも知れない。戸籍が存在しない、もしくは偽名を名乗っているという説も、彼らの目を欺くためと考えれば納得出来る。帰る場所がないというのも、既に彼らに手によって味方を屠られているからかも知れなかった。
「でもトワちゃん、どうしてあの子をあんなに気にかけたの?」
突然、シュハウゼンが思い出したように問いかけてきた。体の向きを変え、手すりに背をもたれさせた姿勢は無気力だが、目つきは鋭い。
「君なら情報だけ抜き取って、追い返すことも出来たでしょ?っていうか、正直ボクはそうすると思ってた」
取り調べを完了させたと言えるだけの話を聞いて、それで追い返せば、済んだ話だ。仮に、彼女が何か隠していることに気付いたとしても、見て見ぬふりをすればいい。助ける理由もなければ、得られるメリットもないからだ。だが、トワイライトはそうしなかった。それが、シュハウゼンには疑問なのだ。
「あんなの、ただの家出少女だって、それで片付けられた。でしょ?なのにどうしてわざわざ、厄介事を抱え込むような真似を?」
トワイライトは、冷徹な悪魔だ。単なる同情や欲望に惑わされることはなく、常に利益を重んじる。彼の行動には全て何らかの目的があり、従って今回の一件にも、彼なりにメリットを見出しているはずだ。それはシュハウゼンにも看破出来ず、だからこそ好奇心を煽られるのだった。
「誰にも言わないからさ。教えてよ、トワちゃん。ボクと君との仲でしょ?」
「うーん……そうですねぇ……」
本心を見透かすような、緑色の輝きを見て、トワイライトは腕組みをして渋るような唸り声を発した。逡巡の後、話しても構わないと判断したのか、小さい嘆息と共に打ち明ける。
「別に、大したことではないのですよ。ただ少し、興味があるだけです。彼女の背後には、何があるのか……」
隠すほどのことではない些細な問題だと言うように、つまらなさそうに語っていたが、付き合いの長いシュハウゼンは気付いていた。いつもは漆黒に塗り潰され、決して感情を表さない彼の瞳に、妖しく危険な光がギラついていたことを。
* * *
「はぁ~~~……サイッアク!何であんたみたいなうるさいオジサンなんかと一緒にいなきゃなんないわけ!?」
トワイライトの後ろ姿を見送った後、レディはわざとらしく溜め息をついて、エンヴィスを詰った。ぼすんと勢いよく座ったせいで、ベッドのスプリングが軋んだ音を立てる。
「ハァ!?最悪はこっちの台詞だっての!何で俺が、お前みたいな無礼で軽薄な女のお守りをしなきゃなんねーんだよ!」
ストレートな暴言に、エンヴィスも眉間に皺を寄せて憤慨した。
「せめて敬語くらい使え!指を差すな!あと俺はおじさんじゃない!!」
「うっさい黙れ!アタシはお前じゃないって、何回も言ってんじゃん。まだ分かんないの?オジサンって耳遠いの?それともバカ?」
色々と論い、文句をぶつけても、レディは全く聞く耳を持たない。むしろエンヴィスの怒りを馬鹿にするように、冷ややかな蔑みを向けてくる。
「テメェ……!いい加減にしろよ。大人しく聞いてりゃ好き勝手言いやがって!」
当時はまだ若く、激しやすかったエンヴィスの忍耐力は、あっさりと途切れた。
「よくもそんな舐めた真似ばっか出来るな!?まともに口も効けねぇのか!?どういう教育受けてきてんだ!」
「小学校も卒業してないよ!父親に、あんな下らないところ行くなって、止められてたんだもん……!」
強い感情の爆発と共に、レディを見下ろし糾弾する。すると彼女も負けじと、立ち上がって抗弁してきた。
告げられた言葉は衝撃的なもので、エンヴィスは思わず息を飲み、口を閉じた。実の親に学校へ通うことを止められていただなんて、彼女も中々に複雑な環境を生き抜いていたようだ。無論、平穏な家庭で育ったのならば、今日こんなところにいるはずもないのだから、当たり前のことでもある。そのことに考えの及ばなかった自分への恥と罪悪感が、エンヴィスを襲った。
「でもそれが何!?勉強が出来るって、そんなに重要なこと!?いい学校に通って、いいところで働いて、高いお給料もらって……世間が羨ましがるエリートとしての生活?それってそんなに大事!?それが幸せなの!?」
しかしレディは未だ満足せず、エンヴィスを至近距離から睨み付けたまま、息せき切って捲し立てる。当てつけのような言い分は、彼女なりに自らの境遇を受け入れるための方便だ。そうやって、思い通りに生きることの出来なかった人生について、自分なりに納得のいく思考法を探していたのである。しかしかといって、全くの嘘偽りかと問われると、答えは否だった。
「アタシはあんたみたいに頭良くないよ。働いてないし、スーツも持ってない。でもね、心は絶対アタシの方がマシだって言える。だってあんたは、言葉遣いとかそんな下らないことでアタシを判断して、見下して罵るタイプのバカだけど、アタシは違うから!あんたみたいなエリートにならなくて、ホントに良かったって思ってる!」
学業でいい成績を残し、仕事において目覚ましい功績を挙げていても、人格の崩壊している悪魔は大勢いる。輝かしいキャリアを誇るにも関わらず、いやだからこそ、配慮を忘れる者たち。他者を貶めることでしか、生の喜びを感じられない者たちが。レディはそんな悪魔を心底軽蔑していた。自分も彼らと同じ存在になってしまうくらいならば、頭など良くなくとも構わない。自分の望む自分でいられるのならば、その他のことは二の次でよかった。
「あんたなんかには、アタシの気持ちは一生分からない。分かられたくもない!だからさっさと出てってよ、”エリートのオジサン”!!」
そして彼女からしてみればこのエンヴィスも、陰険で下らないエリート悪魔たちと変わらないように思えた。だから彼女は、彼を罵倒し、拒絶した。最後にエアクォーツをつけて思い切り皮肉めいた呼びかけをした後、彼の肩を突き飛ばし廊下へと追い出す。
「あっ、おい!」
エンヴィスが不満げな様子で何か話しかけてくるが、須く無視をしてドアを閉めた。スライド式のドアに指を挟まれそうになって、彼は慌てて手を引く。その隙に完全に締め出されてしまい、エンヴィスは苛立った。
「くそっ!なんて生意気な奴だ……!」
悔し紛れに、拳で壁を叩くものの、室内からは全く応答がない。舌の先に苦いものを感じたような気がして、エンヴィスは顔を歪めた。だが、もはやどうしようもない。レディが心を閉ざしてしまった以上、もうなす術はなかった。せめてトワイライトが来てくれさえすれば、この状況も変わるかも知れない。彼に残された選択肢は、祈りつつ待つという、それだけだった。
* * *
その夜のこと。レディは病室のベッドに寝転び、眠れぬ時を過ごしていた。
結局あの後エンヴィスとは、一言も口を効いていない。本人は気にしていたようだが、彼女が対話を拒絶したのだ。トワイライトとは少しだけ話したが、事務的な連絡事項ばかりで終わってしまった。あのそっけない態度が、彼女とエンヴィスとの間のことを察してのことなのか、それ以外の理由によるのかは分からない。だが、レディとしてはどことなく、期待を裏切られたような心持ちがしていた。あの男ならば、漂う険悪な雰囲気をすぐに察知して、取りなしてくれると思っていたのに。おかげで、関係修復の機会を失ってしまったではないか。尤も、そんな他力本願なやり方でなく、自分で歩み寄れば済むのだが。幼く未熟なままのレディには、難しい決断だった。
「ふぅ……ほんと、むっかつく」
寝返りを打ち、枕の下に手を差し込みながら、呟く。
あんな男のせいで、未だにモヤモヤし続けているだなんて、本当に腹立たしい。明日また会ったら、開口一番にでも文句を言ってやらねば気が済まない。そして上手いこと流れを作って、すっぱり謝ってしまうのだ。そうだ、そうしよう。
決意を固めたレディは、再び息を吐き、体勢を変える。掛け布団を握り締め、仰向けになると、ぐるりと首を回らし室内を見回した。
警察部門の病院といえど、内装は案外普通だ。一般の病院が警察部門に協力しているだけなのだから、当然のことではあるが。
一体、いつまでここにいることになるのだろう。
個室をあてがわれたのは嬉しいが、こんな風に何もない、殺風景な部屋でずっと何もしないでいると、ついネガティブなことを考えてしまう。
トワイライトは、絶対力になると言ってくれた。数日中に、もっと安全な別の場所へ移動することになるだろうとも。しかし、そんなところが本当にあるのだろうか?
追手はまだ潜んでいるはずだ。あの男が、そう簡単に諦めるわけがない。きっとどこまでも追いかけてくるし、邪魔者は排除しようとするに違いない。果たしてこの世界のどこかに、彼らの手の及ばない地があるのだろうか。警察部門は、どの程度助けになってくれるのだろう。それに、もし仮に安全な場所が見つかったとしても、そこは彼女にとって安らげる地ではないかも知れない。例えば今みたいに、扉の外に監視がつき、四六時中見張られている生活になるのかも。スライドドアのすりガラス越しに、パイプ椅子に座り見張りを務めている悪魔の、後ろ姿が透けて見える。縛られた人生から逃げ出しても、結局閉じ込められた不自由な暮らしを手に入れるだなんて、笑えない話だ。
考えれば考えるほど、不安は尽きないどころか大きくなっていく。
悶々とした気持ちを吹き飛ばせずにいる内に、気が付けば時刻は深夜を回っていた。
待ち望んでいた眠気がようやく訪れて、瞼が徐々に重くなっていく。うとうとと微睡み始めたレディだったが、それから少しも経たない間に、突如何か鈍い音が響いた。
「!!」
驚いて飛び起き、ドキドキと跳ねる心臓を宥めようとする。
(聞き間違いじゃ、ないよね……?)
夢の中の音かと一瞬思ったが、絶対にそうではないという確信がすぐに疑心を吹き消した。彼女はそっとベッドを降り、出来るだけ足音を殺して、閉ざされたスライドドアに忍び寄る。銀色の取手を掴み、廊下の様子を探ろうと試みたが、ドアはびくともしなかった。そういえば、消灯の際に外側から鍵をかけられていたことを思い出す。万が一の場合の逃走を防ぐためだろう。しかし反対に、外側から敵が襲ってきて警備の者を排除した時は、彼女は袋の鼠となる。
(どうしよう……どうすればいい……?どうにかしないと……!)
レディは必死で、寝起きの頭を働かせる。そして、思いついた。
窓がある。
ドアから見て正面の壁に取り付けられた窓。少し小さいが、レディならば十分に通り抜けられる。今の内にこっそりと脱出してしまおう。
彼女は決断し、身を屈めたまま、ゆっくりと踵を返す。
突然、ドアのすぐ近くで音が鳴った。金属が擦れ合うような、かすかな音だ。鍵が鍵穴に挿入され、回転する音。限りない慎重な動作で、ドアが開かれる。
レディは弾かれたように駆け出すと、ベッドに飛び乗り窓枠に手をかけた。下を見、飛び降りられる高さかを確認する。
ここは五階だ。もしも着地に失敗すれば、大きなダメージを受けるだろう。逃げるどころか、重傷を負った状態で捕まる。あるいは、最悪の場合死に至る。本来ならば、諦めるべきところだ。だが、もはやこの状況では迷っている暇もなかった。
ハンマーを携えた屈強な男が、室内に踏み入ってきた。黒いスーツは、もう何度も見かけたそれと同じだ。レディは躊躇を捨てた。
拳を振るい、窓ガラスを叩き割る。破片で指が傷付いたが、気にしてはいられない。ベッドのスプリングを利用して、勢いよく窓の外へ身を踊らせた。
夜風が頬に吹き付けてくる。その冷たさを知覚した直後、彼女の体は深緑に包まれた。植え込みに生えていた、小さくも沢山の葉を持った低木に突っ込んだのだ。尖った葉の縁に肌を引っ掻かれつつも、それらがクッションとなって落下の衝撃を吸収していく。
「あっ……うぅ……!」
バキボキと枝をへし折りながら、彼女はアスファルトの地面へと転がり出た。痛みを堪え、息を整えながら立ち上がる。体にはあちこち擦り傷がついていたが、所詮その程度だ。骨折も、起き上がれないほどの傷もない。
見上げると、男が割れた窓から顔を覗かせて、彼女を探していた。目が合うなり、男の顔に驚愕が浮かび、やがてその頭が引っ込む。すぐにここへ来ようとしているのだろう。追いつかれる前に、さっさと逃げ出すべきだ。
レディは裸足のまま、ゆっくりと歩き出した。着地の際に足首を捻ったようで、一歩進むごとにズキズキと沁みてくるような痛みが走ったが、しかし歩みを止めるわけにはいかない。彼女は足を引きずりながらも、出来るだけ早足で先を急いだ。剥き出しの足がアスファルトに擦れ、皮膚が剥けて血が流れ出しても、構わずに。
(ごめんね、オジサン……)
去り際に、彼女は一度だけ振り返り、背後に佇む病院へと視線を投げかけた。脳内はトワイライトへの罪悪感と、呵責で一杯だ。だが、あまり悠長にしていては、どちらの方角に向かったのか悟られてしまう。レディは決して足を止めることなく、夜の闇の中へと姿を消した。
* * *
「いなくなった!?あいつがですか!?」
明朝、エンヴィスが出勤するや否や、内線電話がけたたましく鳴った。受話器を取った彼は間もなく、頓狂な声をオフィス中に響き渡らせる。といっても、室内はさして広くもなく、彼の大声を聞くのもトワイライト一人だったが。
「えぇ……はい。はい……承知しました。すぐ向かいます」
唯一の上司が眼差しだけで問うてくるのを感じながら、彼は相手と数言交わし、通話を切る。そして、もったいつけずに告げた。
「トワイライトさん。レディが失踪したそうです。昨夜遅くに、何者かが病室に侵入したのだとか」
電話をかけてきたのは、エンヴィスたちとも面識のある刑事部職員だった。彼によると、レディの警護に当たっていた警察部門の職員が、鈍器のような物で殴られ昏倒させられていたらしい。室内にレディの姿はなく、現在でも行方は分かっていない。
「つまり、攫われたということか?」
衝撃的な報告を受けても、トワイライトは冷静だった。視線はデスク上のパソコンに据えられ、指は絶えずキーを叩いている。一瞥もくれようとしない彼を、エンヴィスは不審に思いつつも続けた。
「いえ、それが……自分で逃げ出したようです。ドアは外側から開けられており、室内は荒らされていたと。病室の真下の植え込みに、誰かが落下したような跡があったとも報告されています」
「なるほど。つまり、侵入者に気付き逃走を図ったと……」
「はい。恐らくですが」
「それで?彼女は今どこに?」
トワイライトの問いに、エンヴィスは首を振って答える。
「まだ判明していません。一応、交番の職員たちには捜索の命が出されているようですが……正直なところ、まともに探す悪魔がどれだけいるか」
レディはまだ、正式な保護対象ではない。分類上は、ただの一市民と同じということだ。発見しようがしまいが、責任を問われることもなく、手柄も得られない存在。そんな人物を、本気で捜索する職員は稀だろう。当然、刑事部とて本気で動くつもりはないようだった。連絡をくれた悪魔とて、取り立てて義務感や憂慮に駆られている様子はなかった。二人と知り合いだからというただの好意で、一報を入れてくれただけだ。
「ふむ……仕方のないことだな。現状、レディくんの身柄に関する責任の所在は、どこにもない。中途半端な状態なのだから」
彼の返事は淡々としていて、簡潔なものだった。平然として、顔色一つ変えない上司に、エンヴィスはまたもや引っかかりを覚える。というよりも、苛立っていたのだ。昨日あれだけ派手に喧嘩したにも関わらず、エンヴィスは彼女に対して情のようなものを抱き始めていた。
「私はとりあえず、現場に行ってきます。トワイライトさんはどうしますか?」
「君に任せる」
予想通りとはいえ、やはりあまりにも薄情だ。エンヴィスは手早く荷物を纏めながら、トワイライトを見遣る。心の中の憤懣が、伝わってしまわぬよう努めつつ。
「彼女が自分で決めたことなら、他にどうしようもないだろう。我々のもとに戻ってくるか、それとも捕まるか……どちらにせよ、現段階で我々に出来るのは、待つことだけだ」
「……承知しました」
椅子の背もたれに体重を預け、ぼんやりとしているトワイライトには、心配の思いなど微塵もないようだった。
無論、彼の言い分も尤もだ。自分たちの力だけでは、為せることにも限界がある。彼女の意思を尊重すべきだとも。もしも心底助けを必要としているなら、また現れるだろうとも。
トワイライトの理屈には、全て納得がいく。だが、だからこそ、時々不満を抑えきれない。
エンヴィスはムッとしながら、オフィスを後にする。彼の頭には混乱が、嵐のように荒れ狂い渦巻いていた。
(どういうことなんだ……?トワイライトさん、昨日とまるで態度が違う……意味が分からない)
あれだけ親身に寄り添って、不要なほど丁寧な対応をした彼が、何故今日になった途端、一切の興味を失ったような振る舞いをするのか。エンヴィスには理解出来ない。けれども何か嫌な予感らしきものが、胸の奥でざわついていることは確かだった。
* * *
「ひっく……ぐすっ」
誰もいない工場の片隅に、少女が一人蹲っている。薄汚れた入院着にパーカーを羽織って、裸足の足を抱えて泣いている。山と積まれた木箱の隙間から、啜り泣きが漏れる。
一体どれだけ、ここにいただろう。
少女は顔を上げ、辺りを見渡した。
つい先刻までは、夕暮れ時のオレンジ色が差し込んでいた気がするが、今となっては影も形もない。どこかの店の看板の、人工的なネオンサインが遠くで瞬くだけとなっている。繁華街の裏手に建つこの建物は、何年も前から放棄されており、誰かが立ち入った形跡はまるでない。だからこそ、彼女はここを隠れ家に選んだのだ。少しずつ蓄えたスナック菓子やインスタント食品を持ち込み、簡易的だがベッドも作った。だが、病院の環境と比べれば天と地の差だ。
しかし、仕方ない。多くの悪魔の目に触れる場所は、見つかる可能性も高くなる。安全性という面で言えば、広大で寂れた工場に一人隠れている方が、よほどマシなのだ。だから我慢するしかない。
彼女はまた一度鼻を啜り、抱えた膝の間に顔を埋める。
今回のことで分かったのは、追手は実に慈悲のない冷酷な連中だということだ。まさか、警察部門の職員を殴り倒してまで、迫ってくるとは思わなかった。あの職員は無事だろうか。ハンマーで殴られていたようだけれど。
彼らはきっと、他者の命を奪うことになっても、微塵も動じないのだろう。目的達成のためなら、どんな犠牲も厭わない、恐ろしい悪魔たちだ。
(一人で戦うしかないんだ……一人で、何とかしないと)
彼女に手を貸し、歯向かう者は悉く始末されてしまう。あの穏やかで優しいトワイライトなんか、すぐに殺されてしまうだろう。誰も危険に晒さないためには、自分で何もかも片付けるしかないのだ。
「ッ!!」
カツン、と何者かの足音が耳に飛び込んできた。レディは即座に姿勢を低め、木箱の陰に身を隠す。やってきた人物はゆったりと、余裕ある足取りで周囲を歩き回っていた。誰かを血眼で探しているようには思われないリズムだ。ただの散歩者か、それとも酔っ払って紛れ込んだのか。彼女を騙して誘い出すために、演技をしている可能性もある。レディはひたすら息を飲んで、相手の動向を窺うしかなかった。
そっと手を伸ばし、毛布の下に隠していた得物を指で引き寄せる。伝わってくるのは、冷たく硬い金属の感触。片方の先が曲がり、二股に分かれた巨大な釘抜きのような形状。バールだ。
レディはそれを握り締め、耳を澄ました。彼女の優れた魔法の力は、身体能力だけでなく五感をも強化させる。研ぎ澄まされた聴覚によって、靴の反響音を辿り相手の位置を割り出すことも可能だ。そうして狙いを定め、彼女は物陰から飛び出した。
「うぁあーーっ!」
「!おっと」
甲高い叫びを発しつつ、バールを振りかざして踊りかかる。視界に、黒いジャケットを着込んだ男の姿が映った。胸元に飾られたいくつかのメダルが、煌めきを放っている。
彼は素早く身を翻すと、彼女の攻撃を回避した。標的を失ったバールが、コンクリートの床をガツンと叩いた。衝撃でレディの腕は痺れ、一瞬動きが止まる。彼はその隙に、彼女の腕を掴み、関節を捻りあげるようにして固定した。レディは堪らず、痛みに顔を歪め悲鳴を上げる。
「いった!いたたた!何すんのオジサン、離してよっ!!」
彼の手をぺちぺち叩いて降参を表すと、すんなりと腕が解かれた。
「これはすまない。つい反射でね」
わざとらしい謝罪をする男を、レディは軽く睨み付けた。額の黒い角が、ネオンの青白い光を受けて輝いている。
「どうして分かったの?トワイライトオジサン」
「うん?あぁいや、気配で何となく、居場所を把握していたからね。もしかしたら、私だと察して出てきてくれるんじゃないかと期待したんだが……まさか、いきなり殴りかかられるとはね。流石に驚いた」
彼は何やら苦笑しながら、独り言ちるように喋っているが、その答えはレディの求めているものではなかった。
「そうじゃなくて!どうしてアタシがここにいるって分かったの!?」
今度は意味を勘違いされぬよう、大きな声で一語一語はっきり発音する。詰め寄られた彼は何故か行天した様子で、パチパチと目を瞬かせていた。
「なんだ、そんなことかい?君も案外鈍いところがあるんだな」
「何それ、どういう意味!?」
可笑しそうに、ふっと口角を持ち上げる彼に、無性に苛立ちレディは眉を吊り上げる。ところがトワイライトは意に介さず、おもむろに彼女の背後に回った。
「これだよ。君のパーカーに付けていた」
彼が指を伸ばし、レディの羽織っていたパーカーのフード部分を探る。まもなくその手が引っ込んだかと思うと、彼の指先には何かが摘まれていた。小さな赤いランプのついた、黒いボタンのような物体だ。
「もしかして、これって……!」
「そう。発信機だよ」
レディは顔を青褪めさせて、呆然とする。トワイライトは何でもないことのように、平然と頷いた。
「ここから発せられる微弱電波を携帯で受信して、地図と照合するという寸法さ。ほら」
ポケットから自身のスマートフォンを取り出して、何かのアプリを開く。画面中央に、ランプと同じタイミングで明滅する、赤い点が表示されていた。線で描かれた地図を見れば、ここが点の示す場所だとすぐに分かる。
まさか、病院から逃げ出して今に至るまで、ずっと彼には把握されていたのか。自分がどこにいて、何をしているのか。正確にとは言わないまでも、大雑把には見透かされていたわけだ。
レディはゾッとし、肌が粟立つような感覚を覚えた。
「魔導探知よりも、こうしたアナログ的やり方の方が、かえって安全だったりするのさ。もちろん、時と場合によるけどね」
しかしながら彼本人は、全くと言っていいほど彼女の心情を鑑みず、飄々と話し続けていた。そこにはかすかに、相手を出し抜いてやったという優越感と誇りのようなものが滲んでいるような気がする。
魔導技術の発達した悪魔社会では、必要とするもの全てを魔法で解決しようという、ある種の束縛された考え方が広がっている。だからこそ、盲点が生まれる。要するに、現代において魔法的手段を用いずに行動を起こす者がいようとは、誰も考えないのである。だからトワイライトは、魔力を使わずに扱える発信機をレディに仕掛けた。警察部門の他の悪魔たちにも、追手たちにも気付かれることなく、彼女と合流出来るように。
「しかし、君も随分と厄介な連中に気に入られているねぇ。まさか正面切って警護を排除されるとは……あぁ、安心したまえ。彼は無事だよ」
呑気な調子を保つ彼だが、その言葉は決して軽んじてはならないものだった。自分のせいで、誰かが傷付いたのだから。レディは罪悪感を覚え、胸が苦しくなって俯く。警護の悪魔が無事だったということが、せめてもの救いだ。
「だが、私には君が分からなくなった。君は、どうしたいんだ?」
直後、トワイライトの声音が変貌した。レディはびくりとして、身を竦ませる。どうしたい、だなんて自分が一番知りたいことだった。
「君が自主的に逃げ出したのだとしたら、深追いする必要はないかとも思った。我々の助けなどなくとも、自力で解決する気になったのだろうとね。しかし、一日待っても君は、精力的に移動しようとはしなかった。あるいは、途中で捕まりここに囚われているのかと来てみたが……どうやら違ったようだ」
彼の黒い瞳は、レディの本心を看破して、貫いているようだった。まるで体そのものが射抜かれたみたいに、硬直して動けない。
「それは……っ、だって」
「君の目的は、何だ?この薄汚い廃墟に篭って、一生使い潰すつもりか?」
下手なりにも言い訳をしようとしたら、機先を制された。レディは一度声を詰まらせ、それからまた口を開く。
「違う……!」
けれどその続きは言えなかった。
彼女だって、どうしたらいいのか分からないのだ。支配されたくはないけれど、一人で戦う勇気も出ない。矛盾している。自分の望みと現実とがぶつかって、雑音が鳴っている。
トワイライトが言葉を次いだ。
「君は、助けを求めた。我々に、人生を変えたいと、変わりたいと訴えたんだ。得体の知れない何者かに、追い回される生き方から脱却したいと……それは、偽りだったのかね?」
「違う!アタシは、もうこんなの嫌なの!誰かに支配されるのも、こそこそ隠れてるのも嫌!」
嘘なんかじゃないと、彼女は今度こそ勢い込んで反発する。
「だけど、じゃあ、どうすればいいの!?」
助けて欲しいのは、本心だった。どれだけ強がっても、平静を装っても、心の底では救いを願っている。しかし、そんなの幻想だ。叶うわけもない、夢幻。何故なら敵は強大で、それと戦ってくれるほど強く、頼もしい悪魔なんていないから。仮に助けてくれる者が現れたとしても、父に恐れをなして逃げられるか、無惨に殺されるだけ。そんな悲しみには、到底耐えられない。相手を大切に思うからこそ、危険に巻き込みたくない。だから、諦めてきた。自分しかいないと思い込んできた。そうして、自分をも守ってきたのだ。
「迷惑、ねぇ……」
ポツポツとレディが語るのを聞くと、トワイライトはのんびりと顎をさすり、遠くを見るような眼差しを投げかけた。半笑いに似た、奇妙な表情をしている。レディは怪訝に思い、彼を見上げた。その時。
「!!」
轟音と共に、爆風が彼女を襲った。軽い体は呆気なく宙を舞い、即座に床に叩き付けられる。痛みと衝撃とが、呼吸を奪った。
「ゴホッ!ゲホ……ッ!う、ぐ……っ!?」
あまりのダメージに、声も出ない。精一杯状況を把握しようと努めるのだが、視界を埋めるのは黒煙ばかりで、何も分からなかった。かろうじて認識出来るのは、恐らく爆発が起こったということだ。発生した炎がそこかしこに置かれた木箱に伝播して、今や工場の内部全体が火の手に包まれている。
「トワイライトオジサン……ッ!!」
呻きながらもどうにか起き上がり、彼を探そうとする。しかし熱風のせいで、上手く動けない。おまけに、飛散した何かの破片で切ってしまったのか、足の裏からは血が流れ出ていた。
「トワイライトオジサン!どこっ!?返事して……!」
息苦しさに耐えかね、レディは蹲ってしまう。何度も咳き込みながらも、懸命に彼の名前を呼び続けた。
と、消火器を噴射するような音がして、彼女を囲む炎が少しだけ力を弱める。舞い散った白い粉を蹴散らして、黒いスラックスの足が現れた。それは全く迷いのない足取りで、彼女に近付いてくる。
「トワイライトオジサン……?」
反射的に口にしてしまってから、気付いた。彼ではない。彼女を狙っている悪魔たちの一人だ。男は小脇に、誰かの両足のようなものを、まとめて掴んでいた。
「ッ!!オジサン……!」
考えるまでもなく、分かった。彼は気を失っているようで、男に引きずられていても微動だにしない。服は焦げ跡だらけで、髪は一部濡れたように固まり、束になっている。それが出血によるものであると、想像することは容易かった。
「お迎えに上がりました。レディ嬢……いえ、女王」
意外にも恭しい口調で、男が頭を下げる。レディはそれに応えることなく、苛烈な視線で男を睨んだ。
「あんた……!そのオジサンに、何をしたの!」
「具体的なことなど、女王は何一つ知らなくていいのです。瑣末な事柄は、全て我々が処理します故……」
男は怯まず、ゆっくりを首を横に振るばかりだ。
「うるさいっ!とにかく、オジサンをこれ以上傷付けないで!」
「いいえ。この男は、あなたを惑わし責務から逃れるよう唆した張本人。厳罰に処せと王から申しつかっております。残念ながら女王の命であっても、承服することは出来ません」
「アタシは唆されてなんかない!」
彼の淡々とした言説を、レディは甲高い叫びで遮る。思わず立ち上がって、両の拳を握り締め、男に詰め寄った。
「アタシは、自分の意思で逃げたの!だって、もうあんな男に支配されるのは耐えられないから……!」
「いいえ。唆されたのです。あるいは魔法によって、精神を操られていた……そういうことにしていただきたい」
けれどもやはり男は動じない。置き物のようにその場に突っ立ったまま、彼女の言葉を否定し続けている。そこには何の感情も、意図も見えなかった。瞳を隠すサングラスの黒いレンズに、辺りを這い回る炎の赤が映り込んでいる。
「我らが王は、冷酷です。あなたが一番よくご存知でしょう。裏切ったとあらば、たとえ実の娘であっても慈悲をかけぬはず……我々は、あなたにそんな目に遭ってほしくないのです、女王」
彼は、忠実な構成員として、彼女を相応に大切に思っている。君主の娘であり、いずれは未来の主人になる人物として、敬愛している。だからこそ、彼女の振る舞いにある種の同情に似た思いを抱き、彼女に寛大な対応をするよう、王に期待しているのだ。そのためには、今回の騒動は彼女自らの意思ではなく、何者かに指示されたことだと弁解することが必要だ。だから、手間をかけて彼女を捜索し、全てを穏便に済ませる方策を求め続けた。彼とても、善意とは言わぬが好意的な感情に基づいて行動しているのである。
「そんな、こと……!」
(出来るわけ、ないよ……)
男の提案は尤もらしく、何よりその必死さが、レディの心を強く揺さぶった。しかしながら、彼の意見を受け入れることは不可能だった。何故ならそれに従うということは、トワイライトを犠牲にするということなのだから。自分を助け、守ると約束してくれた男を、自身のために差し出すだなんて、彼女には到底決断出来ないことであった。
レディが躊躇うかすかな間に、業火に焼かれた倉庫の屋根がバランスを失い、轟音を立てて崩れ落ちた。もうあまり猶予がない。このまま建物全体が燃え尽きてしまうのも、時間の問題だ。男は焦った様子で、彼女に手を差し伸べてくる。
「さぁ、行きましょう。もうすぐここは焼け落ちます。早く逃げなければ」
「い、嫌だ!アタシは絶対戻らない!絶対に!!」
「心配ありません。この炎が、あなたがここにいたという痕跡を全て焼き尽くしてくれるでしょう」
「そんなことどうだって……!!」
「この男がどうなっても良いのですか?」
咄嗟に抵抗するレディだったが、男の行動を見るなり、すぐに息を飲み押し黙った。彼の手には銃が握られ、銃口がトワイライトの方に向けられている。未だ気絶している彼が、それを察知して逃げられるはずもない。引き金を引かれれば、きっと助からないだろう。嫌な想像が頭を駆け巡り、レディは冷や汗を浮かべてたじろいだ。
「っ……!!」
舞い上がった熱風が、周囲を吹き荒らし、彼女の金髪をはためかせる。限界が近いことを悟ったのか、男の手が素早く伸びてきて、腕を掴もうとした。
魔法を使いさえすれば簡単に逃げられるのに、もはや彼女に抗う気力は残されていなかった。囚われるという恐怖と、強引に力で押さえ付けられる行為へのトラウマ。そして人質を取られた状態への怯えが、一気に膨れ上がって彼女の胸を締め付ける。レディは、まるで身動きすることが出来ず、凍り付いたように固まってしまった。
「さぁ女王、こちらへ……ぐぅっ!?」
体を硬直させる彼女を、男は無理矢理引きずって行こうとする。だが、彼女を誘う声音は、途中で苦悶の呻きにすり替わった。
レディはハッと驚いて、何が起こったのかを確かめようとする。見ると、男の黒いスーツに包まれた肩に、銀のナイフが深々と突き立てられていた。
「なっ……何が……!?おぐぅ!」
痛みに顔を歪めながら、状況を把握しようとする男の脇腹に、黒い革靴が蹴りを入れる。バランスを崩した彼の片足を巻き込むようにして、床に引き倒した。レディはその隙を見逃さず、反撃を仕掛ける。男の鳩尾を殴り付け、彼を昏倒させた。
「いたたた……大丈夫かい?レディくん……」
彼に半分下敷きにされたトワイライトが、呻きながらもがいている。
「オジサンっ!大丈夫!?」
「あぁ……何とかね……」
レディは急いで男をどけると、彼を助け起こした。彼女の手を借りて、その場に座り込んだトワイライトは、疲れ果てた様子で嘆息する。体勢が変わったからか、額の傷口から血が一筋落ちてきて、彼の顔を汚した。
「オジサン、血が……!」
「ん?……あぁ、これか。別に、大したことじゃないよ。それより、これを切ってくれるかい?」
思わずレディが悲鳴じみた声を漏らすと、彼は指摘されて初めて思い出したとばかりに、目を丸くした。そして、体の向きを変え、後ろ手に拘束された両手首を差し出してくる。
「わ、分かった!」
慌てて辺りを見回し、使えそうな物を探す。気絶した男の肩に刺さったままのナイフを見つけると、引き抜いた。
「ふぅ……助かったよ。これで自由だ」
戒めを解かれたトワイライトは、少し赤くなってしまった手首をさすりながら、独り言のように漏らした。半ば無意識的な動作で立ち上がりかけて、ふらりとよろめく。
「っ……」
「オジサン」
レディは反射的に、彼の肘を掴み支えていた。トワイライトは眩暈を堪えているような表情で、首を左右に振っている。
「全く……やられたよ。ほぼ直撃を受けてね……流石に堪えた。防御殻も消し飛んだしね。やっぱり歳かな」
彼らを襲ったのは、特殊な魔法を込められた魔導弾だった。直前で察知した彼は、防御系魔法を展開したが、弾丸の威力は予想以上に高く、術式ごと吹き飛ばされてしまったのだ。そして頭を強く打ち付け、今の今まで朦朧とした状態にあったという。どうにか立ち上がれるまでには回復したらしいが、やはりその顔色は悪く、辛そうにしていた。
「オジサン……もしかして、アタシを庇ったの?だから代わりに……」
「はて、何のことかな?さぁ、早く行こう」
「う、うん、そうだね!ここはもうすぐ崩れるって言ってたし!」
ふとした思いつきをレディは口にするが、案の定というべきか、彼は認めない。彼の言葉で焦燥を思い出し、彼女はやたらと早口で一息に捲し立てた。よたよたと歩くトワイライトを引っ張り、出口へ向かっていく。
瞼の上から頬までを伝う血の滴の生ぬるさや、肌に張り付くような感覚が不快で、トワイライトはかすかに顔を顰めた。傷口に指で触れると、ピリリとした痛みが走り抜ける。垂れた血がコンクリートの床に、点々と染みを作る。
「もう少しだよ!しっかりして!」
「……あぁ、分かっている」
覚束ない足取りで進む彼を励まし、レディはどうにか倉庫からの脱出に成功した。炎に巻かれ、熱を帯びていた肢体に、涼やかな外の風が吹きつけてくる。緊張が解け、体の強張りが緩んでいく。彼女は思わず目を瞑り、深く息を吸った。パチパチと火が爆ぜる音と、外気の唸りだけが耳に届く。危機的な状況から間一髪で逃げ出したという安堵が、胸を満たした。
静寂を破るように、パンッと乾いた音が空気を切り裂く。重たい肉が倒れるような、くぐもった衝撃が響いた。精神の安寧をあっさりと打ち砕かれて、レディは振り向く。眼前に、血を流したトワイライトが倒れていた。
「トっ、トワイライトオジサン!!」
飛ぶように彼のもとへ駆け寄り、力をなくした体を仰向きに返す。銃弾は背中から彼の肉体を貫いていて、胸元の穴からポロリとこぼれ落ちた。血に濡れた小さな金属塊を指で摘み、レディは戦慄する。
「オジサン……!オジサンっ!」
肩を掴んで必死に揺さぶっても、先ほどとは違い、彼の目が開くことはなかった。だが、半開きになった唇の隙間からは、わずかな空気の出入りを感じ取ることが出来、それだけが彼女の不安を少しだけ慰める。
「女王……どうか観念していただきたい」
背後で、数人の足が下生えを踏む音がした。レディはそちらに目を遣ることもなく、淡々と答える。
「嫌だ……!アタシは絶対、帰らないから」
告げるのは、もう幾度となく繰り返し続けたそれ。断固とした決意が、細い背中から滲み出しているようだった。
「お父上から逃れることは不可能です。早く諦めてくださった方が、あなたも苦しまずに済むはず」
しかし、男たちも簡単に引き下がるつもりはないらしい。考えてみれば、分かることだ。彼らはあの父の手先で、王の命令を絶対的に信じている者たち。何があっても失敗を持ち帰らぬよう、万全を期しているはずだった。一人退けたくらいで、安心してはならなかったのだ。
「黙ってっ!アタシの居場所は、あんなところじゃない!ここなの!見つけたの!!だから絶対、絶対に……戻らないっ!!」
愚かな自分を反省しつつ、彼女は金切り声で叫ぶ。握り締めた拳が土を抉り、爪の間に細かな砂が入り込んだ。それでも彼女は言葉を止めず、考えを改めることもしない。
「な……っ!?」
その時だった。追手たちの内、一人が声を上げて崩れ落ちる。周りの男たちの顔中に、恐怖と怯えが走った。レディは訝しみ、後方に目を向けて眉を寄せた。
どこからか、メリメリと、怖気立つような音が聞こえてくる。聞く者の神経を掻き回し、パニックの底に突き落とすような、嫌な波長だ。
「あ……ぁ……!」
何かに気付いた様子で、周りの男たちがじりじりと後退りを始める。やがて何人かがその場に尻餅をついた。昏倒した男が取り落とした携帯電話が、爆風のせいで埃っぽくなった地面に落ちている。一体何をそれほど恐れているのだろう。疑問の正体は即座に判明した。
地に落ちた携帯端末。液晶部分を上にして転がったそれから、謎の物体が飛び出してくる。黒光りする硬い殻に包まれた、細く長い足のようなものだ。関節部分は節くれだって、先端は鋭く尖っている。それはまるでスマートフォンに足が生え、怪物と化したように見えた。
「ひぃ……っ!」
いよいよ恐怖が限界に達したのだろう。男たちの口から、声にならない悲鳴が漏れる。その音を聞きつけたのか、蜘蛛の足が瞬時に動き、彼らを襲った。鋭い刃のような爪に、体を切り付けられ突き刺されて、一人また一人と倒れていく。魔法によって強化された聴力を持つレディは、否が応でも全てを聞き取ってしまう。悲鳴と、肉が断たれる音、血が吹き出して溢れる音が、一つ一つ丁寧に鼓膜を刺激し、吐き気を催させる。あまりの恐ろしさに目を剥き、その場に立ち竦んでいるしか出来なかった。
数分も経たない間に、意識のある者はレディだけになった。トワイライトは死にかけていて、かろうじて呼気を感じ取れる程度だ。画面から突出した異形の足が、ぶらぶらと惰性に揺れている。未だ機能を果たしているスピーカーから、誰かの話し声のようなものが漏れ聞こえた。しかし、距離があるためかくぐもっていてよく分からない。ふと、怪物がこちらを認識して、一本足で器用に近付いてくる。
「オジサンっ!!」
レディはほとんど無意識的に、トワイライトを庇おうとした。だが、間に合わない。ほんの一瞬の差で、先を越されそうになる。
「駄目っ!!」
勝手に口から悲鳴が迸った。
迫る怪物の攻撃が、いよいよ彼の肉体を掠めようとした寸前。
「大丈夫か!?」
飛んできた火の球が、スマートフォンに直撃した。端末は勢いよく弾かれて、少し離れた地面に落下する。
何事かと瞠目するレディのそばに、眼鏡をかけた長い角の男が駆けてきた。長い杖のような物体を携えていて、恐らくそれで火を操ったようだった。
「っ!エンヴィスオジサン!」
何故だか涙が湧き上がってきて、レディは視界を滲ませながら彼の名を呼ぶ。バタンと音を立てて、彼が乗ってきたのだろうバイクが倒れた。
「トワイライトさん!!無事ですか!?」
おじさん扱いされることをあれだけ嫌がっていたというのに、今回ばかりは流石の彼も何も言わない。焦りからか頬に汗を浮かべて、倒れているトワイライトの横に膝をつく。
「ねぇ助けて!オジサンが……っ!トワイライトさんが危ないの!!」
「分かってる……!」
レディも彼の隣にしゃがみ込み、傷付いたトワイライトの姿を見下ろした。背中から胸にかけてを貫通した傷口は、未だに出血が続いている。彼の黒いスーツは血に濡れて、一層暗く染まっていた。
「まずいな……!」
どこか苛立ちを滲ませた調子で、エンヴィスが呟く。彼は懐から小さな小瓶を取り出すと、中に入っていた謎の液体を、トワイライトめがけてぶちまけた。
「うぇっ!?」
いきなり何をするのだろうと、レディは驚いて思わず奇妙な声を上げてしまう。ところがそこで、不思議なことが起こった。不気味な色をしたその液体を浴びた途端、トワイライトの胸の傷が見る間に塞がり始めたのだ。それと同時に、流れ続ける血の量も減っていき、苦痛に強張っていた彼の表情も、少しだけ和らいだものになる。
「回復用のポーションだ。といっても……ここまで重傷だと、大して効かねぇだろうがな」
エンヴィスに解説されるまでもなく、レディにも今行われた奇跡の正体が分かっていた。しかし、実際に目の当たりにするのはほとんど初めてで、驚嘆が消えない。けれどもそれ以上に、彼は助かるのだろうかという不安が立ち込めていた。
遠くから、救急車のサイレン音が近付いてくる。同時に、草むらの陰から再び蜘蛛足が覗いた。エンヴィスは舌打ち一つで魔法を使い、今度は三つの火の玉が一気にそれを襲う。バキッと何かが割れるような音がして、化け物の気配は消えた。
猛スピードで突っ込んできた救急車が、エンヴィスのバイクのすぐ近くで停止する。後部のハッチが開いて、ヘルメットを被った救急隊員たちが一斉に降りてきた。彼らは素早く、手にしていた担架にトワイライトを乗せる。レディとエンヴィスも追い立てられるようにして、同じ車両に詰め込まれた。入れ替わりとばかりに到着した警察部門の車両が、転がった男たちを収容していく。中にはまだ生きている者もいるらしく、新たに到着した隊員たちが救助していた。レディは救急車の荒い運転に振り回されながら、一心にトワイライトの無事を祈っていた。
* * *
耳元で、誰かが呼んでいる。
これは、誰だろうか。
一度として会ったのことのない実の両親。大学時代の恩師、あるいは友人。魔界府の上司や同僚。調停を終えたばかりの、かつての妻かも知れない。
頭の中で様々な人物の顔が像を結び、季節のように移り変わっていく。尤もこの魔界での四季など、人間界のそれとは違って、魔法で作られた人工的なものだが。
しかし現在聞こえているのは、候補の中の誰とも異なる声だった。鼻を啜り、堪えきれない涙をこぼす、少女の悲痛な音吐。
「う~……ん」
意識がゆっくりと浮上する。久々に長く眠った気分だ。どこか快ささえ覚えながら、彼はベッドに肘をついて起き上がった。
たったそれだけの動作でも、寝起きの体は負担を訴え、節々がばきりと嫌な音を立てる。ずっと同じ姿勢で固まっていたためか、凝りも酷い。いや、これは先刻散々な目に遭ったからか。あるいは、単に歳のせいだろうか。
「いてて……」
頭に鈍痛が走って、思わず呻いた。掌に、包帯のザラついた感触が伝わってくる。彼は上体を起こした姿勢で、しばし静止し痛みの過ぎ去るのを待った。
何というか、凄い苦痛だ。頭痛以外の痛みはないのだが、全身が重怠く、疲労が溜まっている。目を覚ましたばかりだというのに、早く自宅に帰って眠りたいと思った。
まるで、爆発か何かに巻き込まれ、吹き飛ばされた後のようだ。いや、実際そんな体験をしたのだった。まだ寝ぼけている思考は曖昧で、現実と夢との区別をつけられていないらしい。記憶もどことなく不鮮明で、さっきまで聞こえていたはずの泣き声がいつの、誰のものなのか、今一つ思い出せなかった。
「っ!?トワイライトさん!!」
突然、ドアがガラリと勢いよく開いた。同時に誰かが、驚いた調子で自分の名前を呼ぶ。トワイライトはぼんやりと、声のする方に視線を向けた。
「オジサンっ!!」
金髪の少女が飛んできて、彼のベッドに縋り付く。トワイライトはパチパチと瞬きを繰り返して、彼女の顔を確かめようとした。が、やはりまだ覚醒しきっていないのか、上手く焦点を結べず、視界が霞がかったようにぼやけている。
「ふー……っ」
彼は一つ、息を吐いて、ゆるゆると首を横に振った。そして、未だ残る眠気の残滓と、疲労感とを排出してしまう。軽く痒みを覚えた鼻頭を少し掻いて、それから顔を上げた。
「レディくん……無事で良かったよ」
再び頭痛が起きないよう、慎重な動きで彼女を見、微笑む。声音から判断はついていたから、迷うことはなかった。しばらく眠っていたため、掠れ気味の声しか出なかったが、仕方のないことだろう。
「トワさん……っ!!」
レディはそんなこと気にせず、目尻に涙をいっぱい溜めた表情で、彼に抱きついてきた。不意のことだったので咄嗟に避けられず、トワイライトはそのまま接触を許してしまう。いくら仕草は子供っぽくとも、彼女とて立派な女性だ。他者から見ればセクハラにしか思えない状況。かといって無理矢理に離れさせようとしても、結局触れることにはなってしまう。自分ではどうしようもない事態に、トワイライトは珍しく戸惑いの顔を晒し、体を硬直させた。変なあだ名で呼ばれたことなど、気が付きもしなかった。
「おい、レディ……やめてやれ」
見兼ねたエンヴィスが、後ろから割って入る。頃合いを見て、レディの肩を掴み、さりげなく引き剥がしてやると、トワイライトは若干恥ずかしそうに首の後ろを手で撫でた。
「すまない、エンヴィスくん……手間をかけたね」
その謝罪は、今の紳士らしからぬ振る舞いを指すのか、あるいはもっと以前の、ここに運ばれることになった経緯そのものに対してなのか。エンヴィスには分からなかった。一つ確かなのは、彼が無事だったということだ。
「全く……本当ですよ」
だが目の前のトワイライトは平然と、微笑みすら浮かべている。エンヴィスも自然と調子を合わせ、わざとらしく嘆いてみせた。
「弾が貫通していたからいいものの、体内に残っていたら、今頃はまだ集中治療室でしたよ、きっと」
彼の声音にかすかに含まれた感情を読み取り、こんな風にふざけた小芝居を繰り広げることが出来るのも、それなりに長い時間を共に過ごしているからだ。だからこそエンヴィスは、胸を撫で下ろしたいような気持ちを覚えた。
扉を開けてすぐに見えた彼の顔は、起きたばかりで寝ぼけていたからか、一切の感情というものを宿していないようだった。非常にのっぺりとしていて、不気味な様相を湛えていたのだ。だが、疲れた様子で俯いた彼が、再び頭を上げた時にはもう、それは消えていた。いつもの彼らしい、胡散臭く芝居がかった顔つきに、戻っていた。そんな姿が平常であること自体が、おかしくはあるのだけれど。
しかし、一度仮面に慣れてしまうと、それが剥がれ素顔が垣間見えた際に、何故かやたらとドキリとしてしまうのだ。
あの能面のような無表情が、真実の彼なのか?
偽りの奥の本当の彼という者を、知りたいようでいて、知りたくないような。自分でも割り切れぬ複雑で曖昧な感情を抱いてしまう。エンヴィスはまさにそんな思いに駆られたのだった。
同時に、驚きもした。
あのトワイライトがこんなにも、表情を取り繕い演技を保つことも出来ぬほどにも、追い詰められているのかと。それほどまでに、背中から胸にかけてを貫いた弾丸に、消耗させられたのかと。無論これもまた、当然の話ではあった。だがやはり相手がトワイライトとなると、エンヴィスの判断力は鈍ってしまうのだ。
だから今まで通り何ら変わりのない姿を見せる彼に、安堵してしまうのだ。エンヴィスのその気持ちを分かっているからこそ、トワイライトも自らを欺き続けているのだが。それは誰も知る由のないことであった。
「どうしてっ!」
しばらくの間、室内を包んでいた静寂を、女の甲高い声が引き裂く。エンヴィスに宥めすかされ、ベッド脇のスツールに押し込められていたレディが、突如立ち上がったのだ。彼女の膝裏に押された椅子の座面の縁が、近くに立っていたエンヴィスの向こう脛に思い切り衝突する。
「ぃっ……!!」
「どうしてアタシを庇ったの!?そんなことしなければっ……!そんなことしなければ、こんなことにならなかったじゃん!!」
レディはまるで気にすることなく、そもそも気が付いていない様子で、トワイライトを責め立ててきた。彼は視線だけでエンヴィスを案じるが、大丈夫そうなことを確認して、彼女に目を戻す。レディは再び目の端に涙を浮かび上がらせて、しかし拳を握り締めて怒ったような顔をしていた。
「他人を庇って、自分が死にかけるなんて馬鹿みたい!!」
「な……っ、お前!」
流石に不適切過ぎる言い分だ。エンヴィスは急所をぶつけた痛みも忘れ、彼女に食ってかかろうとする。ところがトワイライトは、さっと手を出して彼を制した。
「いいんだ、エンヴィスくん……彼女の気持ちも分かるからね」
「嘘だっ!分かるわけない!あんたなんかにアタシの気持ちがっ」
「聞いてくれ、レディくん」
「嫌だっ!聞きたくない!言い訳なんか……っ、もう沢山!」
トワイライトの眼差しは優しげで、口調は冷静だったが、しかしレディは全く聞き耳を持たない。むしろ彼を拒絶するように、耳を手で覆い隠して、床面に視線を落とした。
わざわざ危険を冒してまで自分を助けてくれた相手に、感謝するどころか非難をし、宥めすかすような言葉も受け入れない。
「言い訳だとっ!?お前、トワイライトさんがどういうつもりで」
「エンヴィスくん」
子供っぽいという表現では許容しきれない無礼な振る舞いに、エンヴィスは激怒し、再び彼女を怒鳴り付けようとする。トワイライトは今度は、少しだけ語調をきつくして、彼を黙らせた。ほんのわずか、一瞬だけ鋭い目つきで睨み付けられ、エンヴィスはたじろぎ口をつぐむ。彼が沈黙したのを見届けると、トワイライトはかすかに頷き、静かに話し出した。
「……すまなかった、レディくん」
「え!?」
「は!?」
流れるような動作で頭を下げられ、図らずもレディとエンヴィスは同時に驚きの声を発してしまう。
何故トワイライトが謝らねばならないのか。むしろ、彼は謝罪を要求していい立場のはずなのに。逆転が起こっていることに、二人とも動転し、反射的に罪悪感を抱いた。
「あれだけ大口を叩いておきながら、君を守り切れなかった。不安を抱かせてしまったな。それは、私の落ち度だ。本当にすまなかった」
「ち、違うよ、トワさん。元はと言えばアタシが……っ、アタシが、トワさんを巻き込んだの。危険な目に遭わせた。アタシに関わったから……っ!」
彼らの戸惑いを無視して、トワイライトは真摯に語り続ける。レディは懸命に否定したが、途中で言葉を詰まらせ、俯いてしまった。
本当に、その通りだ。彼女が助けを求めたから、彼は傷付いた。こんなことなら、自分一人だけが犠牲になれば良かったのに。
自分のしたことの責任が、彼女の背中に重くのしかかる。
沈黙する彼女の顔を覗き込み、トワイライトは唐突に言い放った。
「ならば一人で戦うか?」
「!」
レディがハッと目を見開いた。トワイライトは畳みかける。
「我々を巻き込むのが嫌なら、迷惑をかけたくないのなら、ここから出ていけばいい。全て一人で、解決すれば済む話だろう」
反論出来なかった。
まさに、その通りだったから。
レディは瞳を暗く閉ざし、下を見つめる。
「だが私は……君の独力には限界があると思うがね」
それもまた、図星であった。
組織から逃げ、父と戦い。全部を一人で解決出来るのなら、とっくにそうしていた。出来なかったのだ。父は強く、恐怖の対象だった。共に立ち向かう誰かがいなければ、敵わないと思った。けれどその誰かを作り、大事に感じるほど、傷付けたくないと思うのも事実だったのだ。
「じゃあ……じゃあ、どうすればいいの……っ?」
矛盾している。自分でも分かるくらいに、はっきりと。でも、どうすればいいのだろう。彼女はまだ、子供だ。大人に守られ、導かれ、成長することを必要とする、子供。二つのことに板挟みになると、頭の中が真っ白になって、これからどうすべきなのかが全く分からなくなってしまう、子供なのだ。
「分かんない……もう、分かんないよ……アタシ……どうすればいいの……?」
「!?」
ポロリと、涙がこぼれた。今後への不安、恐怖、言語化出来ない漠然とした思いが、彼女を飲み込み、押し潰す。
落涙するレディを見て、エンヴィスはぎょっとした。煩わしいほど賑やかで、気丈だった彼女がこんな一面を見せるとは。驚きと狼狽が込み上げて、彼は何も言えなくなった。トワイライトは反対に、穏やかな表情を保っている。
「君は優し過ぎる。誰かを頼ることに、罪悪感なんて覚えなくていいんだよ」
滲む視界の中で、誰かがスッと手を差し出した。レディは数度瞬きをして、目の前の光景を確かめる。
「君の居場所はここなんだろう?」
告げられた一言に、衝撃を受けた。
「……オジサン、聞いてたの……?」
たっぷり数十秒は時間を空けた後、おずおずと質問する。彼は何の反応も返さなかったけれど、その態度こそが、明確に答えを伝えていた。
『アタシの居場所は、あんなところじゃない!ここなの!』
あの時、追手たちに向けて自分が放った声が、鮮明に耳の奥に響いてくる。あれを、トワイライトも聞いていたのか。銃で撃たれ、瀕死の怪我を負いながらも、朦朧とした意識の中で聞くともなく聞いていた。彼女が心底、彼らを信頼し、慕っていることを。そばにいたいと強く願っていることを。
その思いを、彼は受け入れてくれたのか。
「レディくん、君を、我々警察部門の保護対象として認可する。受け入れ先は私、単独脱界者室長トワイライトだ」
彼女の疑念を、淡い期待を肯定するように、トワイライトは静かな調子で頷いた。
「同僚として、上司として。君を支え、導く……君が君らしく生きるための力と、場所を提供すると約束しよう。無論、また敵が来るのなら、共に戦い、守ってやる。これからはもっと安全な場所で、自由に暮らせるよ。私が保証する」
彼の言葉がまるで水のように、レディの脳に染み込み広がっていく。だがその意味を、彼女は即座に理解出来なかった。告げられた提案の素晴らしさに、己の幸運と彼らの好意への感謝に、思考がフリーズし体が固まった。
「と、トワイライトさん……!」
「すまないね、勝手なことをして。だが、彼女を放ってはおけないだろう?」
「ぐ……そりゃ、そうですが……」
事前の相談もなく、いきなりそんなことを言い始める彼を、エンヴィスは堪らず咎める。レディが返事どころか、身動ぎ一つせずに押し黙っていることなど、眼中にも入っていなかった。彼に険しい声を向けられたトワイライトは、しかし悪びれもせずに平然と答える。謝罪など形ばかりで、相手の意見をまるで気にかけない横暴さは、彼のかつての上司によく似ていた。
とはいえ、彼の言い分を否定するつもりがないことは、確かであった。他に行き場もない少女を簡単に放り出せるほど、エンヴィスは冷酷ではない。むしろ涙さえ見せた彼女のことを、不憫に思っていたのだ。自分たちのところに残ることで彼女が救われるのなら、拒絶する理由はない。トワイライトも彼の考えを読んでいたからこそ、大して詫びることもなかったのである。
「さて、そういうことだが……レディくん、どうする?」
後は全て彼女自身の意思次第だと、エンヴィスから視線を移して、トワイライトは問うた。レディは未だ唇を引き結んだまま、小難しい顔をして、じっと考え込んでいた。
「いい、の……?」
やがて、彼女はポツリと呟いた。かろうじて聞き取れる程度の、掠れた声を漏らして、おずおずと控え目にトワイライトを見上げる。相手を信じるべきか否か、葛藤している子供のような表情をしていた。そんな様子に、トワイライトはふっと微笑ましい感情を覚える。
「もちろんだとも。君がいてくれたら、我々としても非常に助かるからね」
柔らかい笑みを意識して形作って、滑らかな動作で手を差し出す。彼の骨ばった手の甲に目線を落として、レディは逡巡した。
彼らが本当にあの男に対抗出来るのか。それは分からないことだ。彼らを巻き込みたくないという気持ちも確かにある。けれども、今はただ、甘えていたかった。子供のままで、彼らに導いてほしかった。優しくしてくれ、守ってくれる彼らを、信じていたかった。彼らの好意と誓いを、受け止めたかった。
何より、嬉しかったのだ。こんな自分にも、居場所が与えられたことが。そしてそれは、自分自身の力で得たもの。もちろん、彼らが迎え入れてくれなければ不可能なことではあった。感謝もしている。しかし出会いの機会を掴み取ったのは、他ならぬ自らの努力の結果だ。あの男のもとから逃げ出して、街を彷徨わなければ叶わなかったことである。そのことが心底、嬉しかったのだ。
「……ありがとう!!トワさん!エンちゃん!!」
だから、彼女は自分でも知らずの内に、声を発していた。満面の笑みで、目尻には少しだけ涙を浮かべて、彼の手を握り返す。歓喜に膨れ上がった胸中を包み隠すことなく、堂々とぶちまける。つい口をついて出たのは、心の中だけで勝手につけていた、彼らへのあだ名だった。
「っハァ!?」
エンヴィスがすかさず、ふざけた呼び方をするなと眉を吊り上げる。だがレディは構わなかった。
もはや過去のことに囚われたくはなかった。いつか終わりが来ようとも、この時が幸せならばいいと思えた。彼らの仲間になれた今だけは、現実と向き合うことから逃れて、自由でいたかった。それがただの逃避や、怠慢であったとしても。彼女は全てを容認した。現在のこの瞬間だけを、刹那的に過ぎる時の中の一瞬のみに、傾注した。自分らしく、ただ楽しく、全力で。
そのツケがいずれ必ず回ってくるだろうことからも、目を逸らして。
* * *
「彼女は要するに、何者かから逃れて我々のもとにやってきたんだ。それを私が助け、半ば匿う形で、この部署に迎え入れた……そうすれば、守れると思った。実際、これまではそれなりに平穏だったわけだしね……」
トワイライトは椅子の上で背を軽く仰け反らし、天井の方へ視線をやりながら呟く。それは、過ぎ去った時への憐憫なのか、懐かしんでいるように思えた。
「だけど、今になって敵が動き出した……そういうことですか?」
その言わんとするところを察し、カーリは口を開く。トワイライトは未だ遠くを見つめたまま、ぼんやりと首肯した。
「あぁ、多分ね……」
「多分って……!アンタ、まだ隠すつもりなの!?」
緊迫感のまるでない彼の態度に、とうとう忍耐の限界が来たのだろう。レンキが声を荒げて詰問した。
「本当のことを言いなさいよ!アンタは全部知ってるんでしょう!?あの子の正体も、連れ去った連中が誰なのかも!知ってて黙ってるんでしょう!?いい加減にしてよ!包み隠さずに、全部話して!!」
彼からしてみれば、トワイライトの言動は、いかにも秘密主義で真実をはぐらかそうとしているものにしか見えなかった。だから、こんな風に問い詰めたのだ。頑なに口を閉ざす彼を、怒鳴り付けて喋らせようとした。
「単刀直入に言おう。レンキさん、私も、ほとんど何も知らないのですよ」
ところがそれは、彼の思い込みに過ぎない。反論するトワイライトの声音は、珍しく少しだけ感情が滲み出ているかのように、硬質だった。
「彼女は自分自身のことについて、全く話そうとしませんでした。だから私も聞かなかった。無理強いをしてまで吐かせるなんて、したくなかったのでね……」
一緒に働き出してからも、レディは相変わらず、自らの過去について何も語ろうとしなかった。トワイライトが探ろうとしても、聡い彼女はいつも機敏に察知して、巧みに逃げてしまっていた。あるいは、あからさまに顔を曇らせ、話したくないという気配を全面に押し出すのだ。だからトワイライトは、追及を止め、彼女が自分から打ち明けてくれる日を待つことにした。告白を強要して、彼女との関係を壊すことの方が、当時の彼にとっては危険なことに思えたのだ。結局、そのせいで現在このようなトラブルに巻き込まれているわけだが。
「彼女が何者なのかも、誰に追われているのかも、私には皆目見当もつかないんですよ」
「嘘!」
「嘘ではありません。だからこそ、私はあなたに協力し、ロザリオ邸にまで出向いたんだ」
反射のように叫ぶレンキを遮り、淡々と話し続ける。
ドゥーマの一件以来、彼女に危機が迫っていることには、気が付いていた。残された時間がいくらあるかも分からない状況で、ただ彼女が語り出すのを待っているだけというのは危険過ぎる。だから彼は、自分の手でも情報を集めようとしたのだ。つまり、より詳しい事情を知っていそうな人物から、話を聞くことにした。そして、ロザリオの”商売”に目をつけたのである。彼から情報を買えば、レディが語らなかった真実も分かるかも知れない。そう期待していた。しかし、ロザリオは取引に応じようとせず、ひたすらはぐらかして時を無駄にさせた。トワイライトとのやり取り以上に、見返りのある何かを握っていたのか、単に気が乗らなかったのか。何にせよ、彼は何一つとして有益なものをもたらしてくれなかった。その結果、間に合わなかった。ということだ。
「じゃあ……誰があいつを攫ったのか、何があったのかは全く分からないままだと?」
一通り話を聞き終えたエンヴィスが、苛立った調子で問いかけた。彼の眉間には深い皺が刻まれていて、その心中を如実に語っている。
「一つだけ……心当たりがないこともない」
トワイライトは、ゆっくりと首を左右に打ち振って、彼の疑問をやんわりと否定した。
「!?」
これには彼だけでなく、その場にいた全員が目を見開き、驚愕する。
「ど、どういうことなの、トワイライト!?」
「レディちゃんを誘拐した悪魔たちのこと、知ってるんですか!?」
「トワイライトさん、ご存知のことがあるのなら話してください!」
ほぼ同時に、ボール・アイ、カーリ、エンヴィスの声が響き渡った。彼ら三人に詰め寄られては、流石のトワイライトもたじたじとなって、焦燥の汗を伝わせる。
「いやっ、これはただの仮説で、私の勝手な憶測に過ぎないものだ……」
「いいから言いなさい!!」
珍しく歯切れの悪い物言いをする彼を、レンキが甲高く一喝した。今回ばかりはカーリたちもレンキに同意して、一斉に首を縦に振る。
「はぁ……分かったよ。降参だ」
コクコクと深く頷く彼らの圧力に耐えかねたのか、トワイライトは諸手を上げて負けを認めた。そしてもう一度息を吐くと、周囲を見回し、慎重に口を開く。どこからどう見ても、躊躇いの色が濃い仕草だった。
「……ボルファンティアグループ」
彼の発した声を耳にするなり、レンキとエンヴィスが息を飲み、戦慄するのが分かる。カーリとボール・アイはきょとんとした様子で、彼らとトワイライトを見比べていた。
「聞いたことがあるだろう?魔界で最も大きいと言われる、グループ企業だよ。専ら力を注いでいるのは、創薬事業らしいけどね」
説明されるまでもなく、その程度の知識は一般常識として頭に入っている。
魔界は、他の世界と異なり、政府の力が非常に強い世界として知られている。事実、魔界に生きる悪魔の半数以上が、魔界府に関係した仕事に就いているという統計すらあるほどだ。だがもちろん、そこに当てはまらない者たちも一定数はいるわけで。
要するに彼らは、魔界府とは一切関係を持たない、私企業に勤める悪魔たちだ。ボルファンティアグループは、そういった悪魔たちの就職先の代表例だった。
親会社である製薬会社、ボルファンティアホールディングスは、現社長でありCEOのボルファンティアが一代にして作り上げた、魔界に名だたる大企業の一つである。そしてその傘下には、無数の子会社、関連会社が連なっている。ボルファンティアは、その経営手腕や先を見通す慧眼、何より社員を引っ張るカリスマ性から、多くの悪魔たちに支持され、慕われている有名人だ。成功者、成り上がり者のセレブとして、メディアでも複数回取り上げられ、一躍その名を轟かせた。起業を望む者たちの間では、半ば神のように扱われさえしているという。彼に憧れる者たちの流入によって、最初期に会社の本拠地があった片田舎の小さな町は、再開発が為され名称まで変更された。社長にあやかって付けられた、ボルヘルムスというその名前は、今では最も多くの製薬会社が並ぶ都市として、市民に広く浸透している。
「あ、テレビで見たことあります。今時珍しく、一族経営なんですってね」
カーリがそこまで知っているのは、以前たまたまテレビで、彼のことを見かけたからである。ベンチャーから大手へと、一気に会社を飛躍させた優秀な経営者、起業家として、特集が組まれていた。インタビューに答える社長の、人工的に見えるほど鮮やかな金髪の彩りが、今も記憶に残っている。先天性の色素障害を患っているらしいが、ハンデとは思っていないと朗らかに語っていた。その時の笑顔の、清々しいまでの作り物っぽさにある種の感動さえ覚えたものだ。
的確に編集された映像の中で、最も鮮烈だったのが、インタビュアーから繰り出された一つの質問。今し方声に出して確認したことである。
親会社ボルファンティアホールディングスは、幹部陣が皆ボルファンティアの身内で構成されている。つまり、取締役員以上の肩書を持つ者は、全員血縁者、生物的な繋がりを持つ者同士ということだ。人間界においてはさして特異ではないが、魔界ではとても珍しい体制であると、インタビュアーは述べていた。事実、カーリもそれまで、魔界に一族経営の組織があるとは知らなかったために、驚いたものである。
そもそも悪魔たちは、束縛されることを好まない。血縁など、自らの選択の範疇外の要素に影響されるなんて、もってのほかだというのだろう。だから、完全な実力主義の社会システムを構築した。尤も、その実力は血筋に起因するもの故、彼らの世界は矛盾を孕んでもいるのだけれど。しかしだとしても、一族経営が疎まれがちな体制であることに変わりはない。人間界から流れてくる情報を鑑みれば、その性質に、互いの不正を庇い合ったり馴れ合ったりと、危険な面が含まれていることは明らかだった。人間よりも理性的で、冷徹な悪魔たちは、それらの面倒を避けられる形での企業運営を望んだのである。
彼らの考え方に背く、例外的な体制を誇示するボルファンティアグループが、悪魔たちからの注目を集めるのは必然だったというわけだ。
「いや、正確には少し違うな……あそこの連中は、ちょっと特殊なんだ」
と、テレビ番組を通して得た知識を披露するカーリだったが、エンヴィスは首を横に振って訂正した。
「グループ総帥、CEOのボルファンティアは、自分の養子にしか幹部の座を渡さない。だがそれは、子供に地位を与えてやりたいってことじゃないのさ。要は、養子となることが出世の条件なんだ」
つまり、厳密に言えば、一族経営ではないのだ。赤の他人を、養子として迎え入れているに過ぎない。そうやって、彼らを統率しているのだろう。あるいは、支配か。反乱を起こされないためなのだろうが、どうもやり口が奇妙である。テレビなどでは絶対に語れぬ話だ。とはいえ、エンヴィスのように少し事情に通じる者なら、誰でも知っていることではあるのだが。
「何だか、変な会社だね……」
「ちょっと、気持ち悪いですね……」
その異様さが理解出来たのだろう。ボール・アイとカーリの顔は、わずかながら引き攣っていた。法律上の子供に固執するボルファンティアにも、他人の養子になってまで、地位や権力を欲する経営陣にも、得体の知れない不気味な感情を覚える。一体何故そんなことを、と問いたい気持ちで一杯だった。
「そのせいかは知らんが、ボルファンティアには黒い噂が絶えない。例えば、実の娘を縊り殺した、とかな……」
「え!?」
どんな人物であれ、その栄光の背後には必ず陰がある。巷でよく囁かれる話だが、案外間違ってもいない理屈だ。むしろ一定数の真実を孕むからこそ、多くの者の間で共有されてきたのだろう。もちろん、例外も存在するが。
しかしながらボルファンティアは、彼らの言う”摂理”にしっかりと当てはまる男だった。多くの悪魔に、カリスマ的指導者として知られる彼だが、実はその周囲に、無数の恐ろしい評判を抱えているのである。
不当な解雇、書類の改竄、パワハラセクハラなどは序の口。脅迫や、非合法的な組織を利用した地上げ、中には殺人の容疑などを尤もらしく書き立てる記事もある。恐らくは大半が、ただの妬みや、やっかみから生まれたデマだろう。だが、警察部門の目を通して見れば、そこにはいくらかの真実も含まれているということが、理解出来るのだった。
そうとは知らなかったカーリは、目を見開き声を裏返らせて、エンヴィスを凝視する。
「正確には、行方不明なのだよ」
トワイライトが口を挟み、より正確性のある情報を伝えた。
「その証拠に、ほら。これが当時警察部門に提出された、捜索願だ」
彼がデスクトップパソコンの画面をこちらに向けると、そこには一枚の紙をスキャンした画像が映し出されていた。いかにも複雑そうな書類に、随分と綺麗な字体が、びっしりと書き込まれている。
「その愛娘殿が生きているとするならば……年は大体レディくんと同じくらいのはずだ」
「生きてればって……!生死も分かってないんですか?」
淡々と告げられた言葉に戦慄し、カーリは顔を引き攣らせる。まるで感情を見せない彼を、冷酷だと責めるような口調だった。
「ボルファンティアグループは、本当に黒い組織なの。今も、警察部門や検察部門の、複数のチームが張り付いてるはずだよ……娘の失踪だって、本当のことだか分からない」
珍しくレンキが割って入り、やんわりと彼女を宥めようとする。結果としてトワイライトを庇うことになってでも、事実を教えたかったのだ。ボルファンティアには簡単に触れてはならないという、暗黙の事実を。
「ど、どういうこと?」
「殺害を誤魔化すために、捜索願を出したんじゃないかってこと」
今度はボール・アイが、困惑した様子で問いかける。レンキは冷静なまま、鳥肌の立つような仮説を述べてきた。
「父親のボルファンティアは、もう何年も娘のことなんて口にしてない。そもそも当時だって、あまり話題にならなかったし……一応は、私財を注ぎ込んで探し出すって言ってたみたいだけど、まともに探したことなんて、あるのかどうかって感じ」
CEOの娘が行方不明になったというニュースは、一応は報じられ、市民たちに知らされた。しかし、あくまでも形式的な報道に過ぎず、ボルファンティアほどの大人物の身内の絡む事件にしては、随分と扱いが軽かったことを、当時のレンキは訝しんだものだ。ボルファンティア自身もさほど大事とは捉えていないらしく、記者からの問いかけに適当にしか応じていなかった。やがて時が経つと共に、事件は忘れ去られていく。今となっては、彼に娘がいたことさえ、覚えていない悪魔もいるだろう。
だがこれは、単に未解決事件が忘却されたという、悲劇的な話では終わらない。ボルファンティアの抱える闇の、一端が大きく露出した契機かも知れないのだ。
彼が娘を本気で案じていないことは、過去や現在の態度を見れば明らか。そこから考えられる答えは二つ。本当に娘に関心がないか、もしくは彼女の行方を知っているか。だが仮に後者だとすれば、わざわざ警察部門に捜索を頼む必要がなくなってくる。家出や夜逃げならば、自分たちだけで探せばいいだろう。行方不明という事実を公表し、世間に周知する理由は何か。最も嫌な可能性は、レンキの言った通り、殺人を秘匿するためだ。娘が失踪したのにも関わらず、何の手立ても打たないでいれば、誰かに必ず不審がられる。それを避けるための、小細工というわけである。
無論、所詮は予想に過ぎない話だ。少々穿った見方でもある。だが、彼に付き纏う種々の悪評、警察部門だからこそ一部事実と認められるそれを勘案すると、あながち偏見とも言えなくなる。
世間では噂に過ぎないけれど、彼らは知っているのだ。ボルファンティアの裏の顔、成功者の仮面の陰に隠した、恐るべき本性を。
「ボルファンティアはね、マフィアの親玉なんだよ」
裏社会を牛耳る、いくつかの非合法的組織の内、最も勢力が強いとされるグループの一つ。その支配者が、ボルファンティアなのである。
主たる商売は、違法薬物の開発と売買。製薬会社の片隅で行えるからなのかも知れないし、あるいは反対に、そういったスキルがあったからこそ会社を興せたのかも知れなかった。どちらが先なのかは分からない。確かなのは、彼は犯罪の世界と根強い結びつきを持っているということだけ。現在も、彼と彼の手がける闇の事業は、魔界府の多くの部門が関わって捜査を続けている。
「警察部門も、下手に彼らに関わって、泥沼に引き摺り込まれることを恐れた。裏の社会の存在は、知ってはいてもある程度黙認するという慣習が、根付いてしまっているからね……」
しかし、相手がそれなりに力のあるマフィアとなると、迂闊な行動は許されない。たった一つの失敗が、大々的な抗争を巻き起こすかも知れないのだ。そうなれば、多くの市民にも被害が及ぶ。街を平和に保つためには、見て見ぬふりも必要だった。恐らく、ボルファンティアもその結末が分かっていたから、大胆にも捜索願を提出したのだろう。職員たちは渋々と、この件から手を引いた。いつか未来の捜査員たちが、彼らに制裁を下し、全てを明るみに出すことを期待して。
「えっと、じゃあ……つまり、レディちゃんがそのボルファンティアさんの娘で、行方不明とされてる悪魔、ってことですか……?」
カーリはポカンとしたまま、確認の問いを投げかける。トワイライトの締め括った話は壮大過ぎて、今一つ自分のこととして受け止めきれていなかった。当たり前だろう。誰もが知る大企業のリーダーが実はマフィアで、友人がその娘だなんて。まるで映画そのものの展開だ。到底信じられるはずがない。
「その可能性は、なくはない」
「ですが、流石に根拠が乏し過ぎますよ。年齢が同じくらいというだけでは……本当に、ただ偶然なのでは?金のある連中なら、依頼して誘拐を仕掛けることも可能でしょう。何らかの目的のために、無差別に選んだのが奴だった」
鷹揚に頷くトワイライトに、今度はエンヴィスが反駁した。まさに同感だと、カーリも強く首を振る。
ボルファンティアの正体などは、この際どうでもいい。警察部門の彼らが言うことならば多分事実なのだろうが、今はさして重要なことではなかった。問題は、レディだ。行方不明になっている悪魔と同年代の娘なんて、広い魔界にいくらでもいる。その中で彼女こそがボルファンティアの実子であるという証拠は、何一つなかった。同様に、レディの誘拐事件と彼女の出自に関係があるのかも、不明だ。
「その通りだ。だが、関係がないとも言い切れないだろう?それに、いくら金があったとしても、その筋の者たちと繋がりを得ることは相応に困難だ。特に、相手の腕がいいのなら尚更」
彼らの意見にトワイライトは一旦は理解を示したものの、再び自説を持ち出してくる。しかし次は、容易に反論の出来る話題ではなかった。むしろ、納得すらし得るものだ。再現映像に映っていた悪魔たちは、明らかに経験豊富な玄人だった。たとえ大金を積んでも、容易には知り合えないだろう。
「彼らのような悪魔と関わりを持つことが出来、彼女と同じ年頃の女性を執拗に付け狙う理由のある人物……果たして、魔界に何人いるかな?」
彼らが雇われのプロフェッショナルなのか、直属の手下なのかは分からない。だが、ああいう手合いと接触出来る者は、限られてくるものだ。そしてレディを襲い続けた、幾多のトラブル。あれは偏執の域を超えている。そうまでして彼女に固執するからには、よほどの根拠がなければ理屈が通らない。つまり、全てを総合的に鑑み、可能性の高い人物から順に並べていくと、最上に来るのがボルファンティア、というわけである。
「……トワイライトさんは本当に、彼が本命だと……?」
「さてね。それはまだ分からない。あくまで予想だと言っただろう?」
彼の考えを疑うように、エンヴィスが控えめな声を上げたが、トワイライトはまともに答えず、首を傾けてはぐらかしてしまう。しかし恐らくこれは本気だろうと、長い付き合いのエンヴィスには察せられた。
「だけど……私は協力出来ない」
同じ結論に達した様子のレンキが、暗い顔をしてそんなことを呟いた。
「危険過ぎる。ボルファンティアはそこらの脱界者とは違う。本物のマフィアなんだよ!?迂闊に関われば、どんな目に遭うか知れたもんじゃない……アンタだって分かってるでしょう!?」
ボルファンティアの経営手腕は、表の事業だけでなく、マフィアとしての活動においても素晴らしい実力を発揮した。彼らは既に、違法薬物の製造販売以外にも、多数の裏の商売で成功を収めている。人身売買や闇の医療技術、脱界の提供。殺人や拷問の依頼を請け負ったり、残酷な賭けの出来る賭場を所有していたりもするそうだ。無論、全てが事実というわけではないかも知れないが、それでも危険なことには変わりがない。探りを入れるだけでも、相当の注意を払わねば、かえってこちらの安全が脅かされることだろう。
「えぇ、分かっていますよ」
レンキの懸念を、トワイライトは平然と笑顔で受け止めた。その上で、彼を靡かせるための演技を始める。
「だが、このまま手を拱いているだけというのも、許容し難くてねぇ……」
レディのことが心配で心配でならないのだと、憔悴した様子で、どこか焦りを滲ませながら喋る。これならばレンキも、少しくらい絆されてくれるのではないかと期待したが。
「そんなこと、どうしようもないでしょ!?」
彼はぴしゃりと、甲高い声で跳ねつけた。
「私だって、あの子のことは心配してる!でも、今回ばかりは私たちが手を出していい相手じゃない……少なくとも私は、関われないから」
彼とて、守るべき部下や同僚のいる身だ。誰かを助けるためとはいえ、おいそれと危険に踏み込むことは許されない。万が一、周囲を巻き込んでしまったら、取り返しのつかないことになる。慎重に判断を下す必要があるのだ。
「レンキさん……」
「レンキ……」
手を貸すことは出来ないと、にべもなく拒絶した彼を、カーリとボール・アイが追い縋るような眼差しで凝視する。すると、良心が痛んだのか、レンキは一瞬顔をくしゃりと歪めて葛藤を見せたが、理性の力で振り払った。
「大体、初めからアンタが……っ」
やり場のない憤りをぶつけるためか、再びトワイライトに向かって文句をぶつけようとして、思い留まる。流石に、いくら何でも酷過ぎる言だと気が付いたからだ。
「彼女の正体を推測しておきながら、長々とそばに居させた私にも責任がある、と?」
しかしながらトワイライトは容赦なく、彼が飲み込んだ言葉を予測して、自ら口にした。
レディがどんな悪魔と関わりがあったか判明した時点で、見捨てていれば。あるいは、そもそも最初から手を差し伸べなければ。今このようなトラブルに見舞われることはなかったのではないか。そういうことだ。
自身の考えの残酷さに、レンキは頬が引き攣るのを感じる。
「そんなこと言ってないでしょ!!!」
冷たい己を否定するように、彼は今日一番の大声を迸らせた。トワイライトは落ち着き払って、絶叫する彼の姿を眺めている。いつものように、何の感情も読み取れない顔つきで。
「っもういい!勝手にしなさい!!私は本当に、何も知らないからね!!」
彼の視線に耐えきれなくなったレンキは、捨て台詞を吐くと、逃げるように出口へと向かった。ドアを勢いよく引き開けて、ズンズンと大股に廊下を突き進む。
(私は悪くない……仕方なかったんだ……!)
彼の脳内には、薄情なことをする自分自身を、どうにかして正当化しようと試みるエゴイスティックな感情が渦巻いていた。
* * *
レンキが出ていってしまった後、残された面々はしばしポカンとしていた。彼の剣幕に気圧されたというよりも、ただ驚いて、圧倒されていたのである。
彼がいなくなったことで、これからのことに関する話し合いは、なし崩し的に終息した。依然として、レディのことは気がかりだったし、何か行動したいという思いは尽きなかったけれど、結局どうすべきかはまるで分からないままだった。答えを見つけるための機会を喪失した今となっては、通常業務に精を出すくらいしか、することがなかったのだ。
そして、無事一日の仕事を終えたエンヴィスは、帰宅すべく地下に向かっていた。魔界府中央庁舎の地下には、地上と同じくらい広大な、駐車場が作られている。その一角に、黒光りするバイクが停められていた。エンヴィスがいつも通勤に使っている、お気に入りだ。実家に立ち寄る時など、長距離移動の際は車を使うが、今日は予定していなかった。他に行くべきところもないから、さっさと帰ってしまおうと、彼は足早に愛車に歩み寄る。
小ぶりのリアバッグに、鞄を無造作に仕舞い込み、ヘルメットを手に取って、シートに跨ろうとした。
「!」
どこかで、かすかな、ほんのかすかな音がした。何か硬いものが、コンクリートの床を叩いたような、そんな音。
誰かいる。
エンヴィスは素早く顔を上げ、辺りを見回した。発生源は随分近いようだったが、どこからだろうかと、首を巡らしかけて、気が付く。
数メートル前方。緩衝材の取り付けられた、コンクリートの柱の影から、何者かが姿を覗かせる。カツンと、ハイヒールの踵が床を叩いた。明るい色の金髪を肩まで伸ばした、見覚えのある少女が、現れた。
「っ!?お前……レディ!?」
エンヴィスの体がびくりと跳ねる。驚愕に、声が裏返った。
そこにいるのは、間違いなくレディだった。だが、誰だかを理解するのに、一瞬の間が空いたのも事実だ。
今の彼女は、胸元の大きく開いた、赤いドレスを身に纏っている。いつもの軽快な服装とは随分雰囲気のことなる、セミフォーマルな装いだ。また、メイクもいつもと変えているのか、顔立ちも少し違って見えた。いや、それは表情の差だろうか。今の彼女はいつになく、思い詰めた様子の硬い顔をしていた。だからこそ、まるで別人に思えたのである。
しかし、まさか、こんなところで再開するとは。
驚きと混乱が頭の中で飛び交って、エンヴィスは中々平静を保てなかった。
「エンちゃん……」
瞠目したまま硬直している彼の名を、レディはおもむろに呼んだ。足を踏み出すと、履いた靴が硬質な足音を立てる。それによって我に返ったエンヴィスは、慌てて口を開いた。
「おっ、お前!今までどこ行ってたんだ!?無事なのか!?トワイライトさんも俺も、皆心配してたんだぞ!?」
矢継ぎ早に言いたいことをぶちまけるが、レディは答えない。悲しそうな顔をして、一歩一歩と着実に近付いてくる。膝上丈のドレスの裾が、ひらりとはためいた。
「……おい……レディ」
ここまで来れば、流石のエンヴィスも気が付く。彼女の様子が、明らかにおかしいということに。
「お前……何考えてる?」
鋭い目つきで彼女を見据え、低く問うた時だ。突然、レディが歩みを止め、その場に屹立した。顔を俯かせ、肩を震わせて、しばらく考え込んでいたかと思うと。
「エンちゃん……ごめんね」
泣き笑いのような、中途半端な笑顔を形作って、そんなことを言う。そして、ダッと勢いよく、こちらへ駆け出してきた。思わせぶりな謝罪に、意識を割いている暇はなかった。彼女の手には、何か光る物が握られていたからである。ナイフだ。
「うぉっ!?危ねぇっ!」
咄嗟に避けたものの、鋭利な刃の切先が、スーツの袖口付近を引っかいた。ボタンが弾け飛び、糸がほつれる。エンヴィスはちらりとそこを一瞥して、顔を顰めた。
「レディ!お前っ、何しやがる!」
困惑と怒りのままに怒鳴りつけるが、レディはまるで聞いていない。攻撃をかわされた反動で数歩よろめいたが、すぐに体勢を立て直し、再び襲ってきた。
「うぁああ!」
「くっ……」
エンヴィスは歯噛みして、応戦することを決意した。とはいえ、あまり結果は期待出来ないだろう。エンヴィスとて体術は会得しているが、強化系魔法の使い手たるレディからすれば、相手にもならぬはずだ。あっさりと隙を突かれて、刺されてしまう。そう思ったのだが。
意外なことに彼女の動きは、存外に鈍かった。一つ一つの動作がやたらと大振りで、予測しやすいために、簡単に回避出来てしまうのだ。恐らくは、魔法も使っていないのだろう。これでもかというほどに、躊躇いが多分に漏れた動きだった。
「はぁっ!やぁっ!うぅうぅっ!」
にも関わらず、果敢に挑み続ける彼女を、エンヴィスは半ば憐憫の入り混じった瞳で眺めた。
「お前……もうやめとけ」
数歩後退し、十分な距離が空いたことを確認してから、静かに語りかける。彼の口調は、まるで聞き分けのない子供を諭す時のような、呆れとも同情ともつかぬ気配をふんだんに含んでいた。
「何があったか知らねぇが、今回だけは大目に見てやるから、大人しく」
「駄目っ!」
懸命に宥めようとしたが、しかしレディは受け入れなかった。甲高い声で、エンヴィスの言い分を拒絶する。そして、震える両手で握ったナイフを、わざとらしく顔の横に掲げた。凶器を視界に入れることによって、自らの気持ちを奮い立たせるかのように。自分自身を鼓舞するような独り言を、大声で叫ぶ。
「アタシが、アタシがやらないといけないの……っ!アタシじゃなきゃ……」
「そんなこと言ったって、手震えてんじゃねーか」
「っ!」
エンヴィスからの指摘にビクッと肩を跳ねさせて、おどおどと一歩後ろに下がる。彼女の表情は一層凍りついており、今にも気を失いそうに思えた。
「なぁ、本当はお前だってこんなことしたくないだろう?何か事情があって、無理矢理やらされてる。違うか?」
その反応を見れば、彼女が置かれている状況など容易く推察出来る。エンヴィスは穏やかな調子で、しかし細心の注意を払って問いかけた。レディの瞳が、分かりやすく左右に揺れる。どうやら、図星らしい。
「大丈夫だ。お前に何があっても、俺たちが力になる。だから……とにかく、それ捨てろ」
ならば、説得の余地はあるだろう。エンヴィスは慎重に言動を選択しながら、話しかけ続けた。
「っ!!」
彼が前へと歩み出ると、レディは頬を引き攣らせ、大袈裟に飛び退く。勢い余ってたたらを踏んだ足が、カツカツッと不規則な音を立てた。よほど怯えているのだろう。キョドキョドと目だけを動かし、必要以上に周囲を気にかける様子は、臆病な小動物のようである。いつもの快活とした彼女の姿とは、似ても似つかなかった。
「怖がらなくていい。俺たちはお前の味方だ」
一体何が彼女を豹変させたのか。誰が彼女を苦しめているのか。エンヴィスはふつふつと込み上げてくる怒りを必死に抑えながら、ゆっくりと彼女に近付いていく。レディは相変わらず、萎縮したまま、返す言葉を探していた。
「で、でも……っ」
「いいから」
まとまらない思考をどうにか声に出そうと、口を開きかける彼女を、にべもなく黙らせる。遮られ、戸惑う彼女に反論を紡がせる間を与えず、エンヴィスは畳みかけた。
「ナイフ置いて。こっちに来い」
優しげな、だが有無を言わさぬ口調で命じると、とうとう彼女も観念したらしかった。ナイフを握る手から徐々に力が抜けていき、今にも柄がこぼれ落ちそうになる。その隙を見逃さず、エンヴィスは素早く彼女に接近すると、凶器を奪い取ろうとした。
「ぃやッ!!」
だが、読み違えた。
どんなに平静を装っていても、やはり気が急いていたのだろう。手を出すタイミングがわずかに早かったようだ。
咄嗟に我に返ったレディが、慌てて腕を引く。そのせいでエンヴィスの掌は、鋭利な刃によってスッパリと撫で切られた。
「ぐっ……!」
痛みを自覚すると同時に、口を開けた傷口から、鮮血が滴る。
「いってぇ……」
思わず呻き声を漏らしながらも、彼は動きを止めなかった。出血を目にするなり、驚いて棒立ちになっていたレディの手首を、傷ついていない方の手で思い切り掴み上げる。
「あ……っ!」
力任せにナイフを奪い取ろうとしたが、レディの抵抗は存外に強かった。彼らはそのまま揉み合いになり、人気のない駐車場で格闘を繰り広げる。一本の刃物を巡って、一組の男女が争う様は、側から見れば滑稽でさえあったかも知れないが、当人たちにとっては至って真剣な、命のかかったやり取りであった。
やがて、何がどうなったのだろうか。二人とも必死だったので詳しいことは分からない。だが、それは一瞬のことだった。
レディに強い力で突き飛ばされたエンヴィスは、コンクリートの壁に背中を打ち付ける。角が壁に当たって、ガツッという不快な音と振動をもたらした。彼に腕を掴まれたままだったレディも、引っ張られてバランスを崩し、こちらに向かって倒れかかってくる。その時だった。
ずぶり。
何かが、嫌な音を立ててエンヴィスの腹に沈み込んでくる。冷たく、硬い無機質な何かが。
直後、焼けるような痛みが熱さとなって襲いかかってきて、苦悶の声が迸った。
「ぐぁあ……っ!!」
初めは、気が付かなかった。意識せずとも勝手に押し出された声音は、まるで獣じみていて、とても自分のものだとは思えなかったのだ。
「え、エンちゃん……!」
刺されたのだということを理解出来たのは、レディの声を聞いたからだ。彼女の顔は蒼白になっていて、呆然としたような、酷い形に固まっている。彼女の視線を無意識に辿ったエンヴィスは、自身の腹部に、ナイフが深々と突き刺さっているのを確認した。
「っう……」
途端に、膝から力が抜けた。怪我をしていると知覚したことで、一気に体が不調を訴え始めたようだ。同時に、レディも恐怖してしまったのか、咄嗟に手を引いてしまった。
彼女の動きに付随して、握り締められたままだったナイフがずるりと引き抜かれ、栓を失った傷口から大量に血が溢れ出す。急速な失血に耐えられず、エンヴィスはその場に片膝をついた。腹部を押さえた手が一瞬で真っ赤に染まり、床にも血溜まりを作っていく。
「あ……ぁ……」
じわじわと拡大し、自分の靴裏までもを赤く濡らすエンヴィスの血液を見て、レディは声にならない声をこぼした。からんっと、彼女が取り落としたナイフが、床に当たって音を立てる。エンヴィスがすかさずそれを払い飛ばすと、ナイフはくるくると弧を描きながら、遠くへ滑っていった。
「っ……!」
その音が、彼女の意識を現実へと引き戻したのか。あるいは、彼女を脅している人物からの連絡でも受けたのだろうか。彼女は突然背筋を伸ばすと、踵を返し、急いでその場を離れようとした。
「待て……っ!」
エンヴィスは必死に追いかけようとするが、出血が酷く、立つこともままならない。
「はーっ……はーっ……」
彼は額にびっしりと冷や汗を浮かべて、肩で息をした。血に濡れたシャツが、肌に張り付く感覚が不快感をもたらす。ヒールの走り去る音がかすかに鼓膜を刺激するけれど、意識を保つのに精一杯で、目を開けることさえ出来なかった。
「きゃー!?」
突如、誰かの悲鳴が響き渡る。聞き覚えのない声だ。恐らく、退勤した他の職員だろう。
「大丈夫ですかー!?」
「救急車呼んで!早く!!」
たちまち、何人もの悪魔たちが群がってきて、エンヴィスの周りを取り囲んだ。
「レディ……っ、ごほっ」
エンヴィスは未だ諦めきれずに、彼女のいた方向へと手を伸ばす。込み上げてくる吐き気を堪えきれずに咽せ返ると、どす黒い血が唇を割って吹きこぼれた。体から力が抜け、ぬるつく掌が床を滑る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「しっかりしてください!!」
驚いた悪魔たちの騒ぐ声がするが、まるで水の中にいるようにくぐもっていて、上手く聞き取れない。はっきり耳に届くのは、自分自身の、異様に荒い呼吸音だけだった。
やがて、次第に意識が薄くなり、瞼が重くのしかかってくる。限界に達した彼は、そのままどっと昏倒した。
数分後、彼を乗せた救急車が、けたたましいサイレンと共に中央庁舎を飛び出した。赤いテールランプが夜の街へと消えていくのを、残された悪魔たちは呆然と見送る。レディの姿は既になく、唯一の名残と呼べるのは、乾き始めて変色した赤黒い血溜まりだけだった。
* * *
薄暗い室内で、トワイライトは一人物思いに耽っていた。咥えた羽煙草から、黒煙が漂う。
他に誰もいないオフィスは電気が全て消され、暗闇に包まれていた。唯一の光と呼べるのは、窓の外から流れ込んでくる、街灯と他所のビルの明かりだけだ。夜の闇にも負けない、漆黒の瞳に、そのわずかな明るさが映る。だが、彼はそれを見ているようで、全く知覚していなかった。
彼の意識が向いているのは、過去。先ほど交わした、会話についてだった。
「それで、どうするつもりなんだ?トワイライト室長」
タキトゥスの冷酷な詰問が、鋭く飛んでくる。まるでたった今浴びせられたかのように、その声音は現実感をもって響いた。
彼のいるのは、脱界者取締部部長の執務室。ユリウスの居城だ。当然、そこには城主たるユリウスの姿もある。そしてトワイライトは、彼らと対面する形で、磨き抜かれた床の上に立っているのだった。
「君のせいで、職員が一人、救急搬送されたんだぞ。この件、どう説明をつける」
至極真面目な表情で、尤もらしい言葉を並べ立てるタキトゥス。普段はトワイライトに弄ばれてばかりで、まるで抗えないくせに、いや、だからこそ意趣返しをしたいのかも知れないが。いざ相手の弱みを見つけた途端、鬼の首を取ったように責め立ててくる彼は、いかにも俗物的だ。きっと優越感と勝利の快感で、たっぷり満たされているはずの胸中を想像すると、トワイライトは半ば呆れ、半ば笑いを堪えるのに必死だった。
「さぁ……どうしようもないでしょう。起きてしまったことは、もはや取り返しがつかないのですから」
はぐらかすように肩を竦めれば、タキトゥスの上司然とした仮面にかすかな亀裂が生じた。
「……開き直る気か?」
「他にどうしろと?」
こめかみの辺りをピクピクと引き攣らせ、目つきを険しくする彼を、トワイライトも大胆に見返す。そして口を開いた。
「タキトゥス課長こそ、何か解決策がおありなら、是非ともご教授いただきたい」
「貴様……!」
平然と言い返され、タキトゥスはプライドが大きく傷付けられたことへの怒りを覚える。だが、それを言語化などし、醜態を晒してしまう前に、ユリウスからの制止が入った。
「まぁ待て、タキトゥス課長」
彼は飲んでいた紅茶をテーブルに置くと、のんびりと足を組み替え、トワイライトを見上げた。
「トワイライト室長。君が今、退っ引きならない状況にいることは、理解しているだろう?」
「……えぇ」
もったいぶって告げられたのは、確認という名の牽制だった。要するに、大人しくしていろということだ。窮地に陥っている現状では、立場が弱く、彼の言葉に逆らうことも出来ない。トワイライトは仕方なく、服従を選択した。ユリウスは、心持ち得意げになって続ける。
「君が雇用した非正規職員が、裏で反社会的勢力と繋がっており、剰え、同僚を刺して逃げた……正規の職員を、だ。これは大変な事態だ。流石の私と言えども、全てを穏便に済ませることは出来かねる。分かるね?」
表向きは平然としているが、どこか愉悦を滲ませた口調で、彼は語る。そこに含まれた意図を察するのは、さほど難しいことではなかった。
「誰かが責任を取らねばならない。例えば……私とか」
「君は問題となっている悪魔の、直属の上司にあたる。彼女を雇用するよう提案してきたのも、君だ。理屈は十分に通る」
トワイライトの直截な言葉を、ユリウスは鷹揚な頷きで肯定した。しかし、自身はあえて遠回しな言い方しかしないのが、嫌らしいところだ。尤も、この件ばかりは、率直に告げられても嬉しくはないが。
「しかし、私とて独断で決定したわけではありません。最終的な許可をしたのは……」
「我々に責任を転嫁するつもりか?トワイライト」
ユリウスの言い分も当然のものだが、当事者としては、容易く受け入れることなど出来ない。トワイライトは一先ず反論を試みようとするが、タキトゥスの冷徹な声音に一蹴された。トワイライトの反応を予測し、あらかじめ対応を練っていたのだろう。彼の妨害工作はいとも巧みで、容赦がなかった。
「そんなことは言っていませんよ」
だが、トワイライトとてもただ黙って、してやられているわけではない。呆れたような半笑いを浮かべ、まるでタキトゥスの考え過ぎだとでも言うように、受け流す。
「ですが、一つ言わせていただくとすれば、そのやり方は少々外聞が悪いのではないかと愚考します。事情をよく知らない第三者の目には、誰か一人だけに全責任を押し付け、切り捨てたようにも見えることでしょう。これは重大な問題なのではありませんかな?それに、彼女が真にマフィアと繋がりを持っていたかは明らかになっておりません。全ては先走ったレンキさんの、情報分析部の誤解ということもあり得る」
まだ何もかもが疑惑の段階であり、真実は一つとして暴かれていないのだ。レディがエンヴィスを刺したことは事実だが、もしかすれば酌量の余地があるかも知れない。にも関わらず勝手に罪と決め付け、剰えトワイライトのみを犠牲にしたと解釈されれば、市民の反感を買う。タキトゥスは想像し、眉を顰めた。
トワイライトにも、彼の思考の辿り着く先が読めたのだろう。心底胸を痛めているとでも言いたげな、泣き笑いめいた表情を作って、続けてきた。
「私としても、魔界府警察部門の優秀なお二方が、そのような浅ましい真似をする人物だと叩かれる様を見るのは」
「っはははは!」
ところが、彼が最後まで言い切るより先に、ユリウスの哄笑が響き渡った。
これには流石のトワイライトも驚いたのか、目を丸くして、彼を凝視している。いかにも作り物らしい感情は、その顔から綺麗さっぱり消え去っている。
「何を言い出すかと思えば……君はまだ、勘違いをしているのか」
彼だけでなく、タキトゥスからの注視にも気が付きながら、ユリウスは落ち着き払った態度で足を組み替える。革張りのソファが、彼の体重の移動に伴い小さく音を立てた。
「君は、ミスをした。この魔界府では、たった一つのミスが致命的な欠点になり得る……大事なのは、それだけだ。真実など、どうあったって構いはしない」
テーブルに置かれたティーカップからは、彼の好むハーブティーの香りがわずかに漂ってくる。ゆったりと薫る湯気と、くつろぎきった調子の彼の姿は、この会話の内容に全く合致していなかった。
タキトゥスは横目でちらりとだけトワイライトを見遣る。彼は、ユリウスの問いかけに肯定も否定も示さず、何の感情も載っていない顔をしていた。
「終わりだよ、トワイライトくん。君はもう、我々と言葉を交わせるような悪魔じゃないんだ」
左側の角の付け根を撫でさすりながら、ユリウスは淡々と畳みかけていく。眼鏡の奥の灰色の瞳には、享楽の光が宿っていた。
「交渉も、探り合いも、全て意味を為さない。階段を転がり落ちていくだけの君には、もはや何の価値もないからね」
一度失態を冒した悪魔が生き残れるほど、魔界府は甘い組織ではない。順風満帆に生きてきた悪魔が、呆気なく砕け散る姿を、トワイライトはこれまでに幾度も見てきた。今度は、自分の番といことなのだろう。信用を失い、将来も見込めなくなった自分では、ユリウスたちに対し提供出来るものなど何もない。そして利益をもたらさない者を、いつまでも隣に置いておくほど、彼らも優しい悪魔ではない。つまり、彼らからしてみればトワイライトなど、今やまるで役に立たない道具、ゴミと同然の存在なのだ。
「騒ぎたければ騒ぐといい。訴訟を起こしても構わないよ。それで君の憤懣が解消されるのなら、いくらでも抵抗するといい……だが、我々の社会的地位と権力は、絶対的なものだ。君如きには、決して脅かせない。むしろ、君の方が危険な目に遭うだろう……インペラトルの周りを飛び交うハエは、即刻叩き潰されるのが決まりだからね」
自分だけを切り捨てれば、悪評が立つ。トワイライトの言葉はほとんど脅しじみたものだったが、ユリウスの反撃も全く同じやり方だった。
彼の口調は終始穏やかだったが、だからこそ、無慈悲で冷酷な印象を与えた。
「さて、話は以上だ。君の処遇は改めて評議の上、決定する。無論、それより早く、君が自主的に謝意を示すというのなら、拒絶はしないが」
言いたいことは全て吐き出したとばかりに、ユリウスはすっきりとした表情で、ソファの肘掛けをぽんと叩く。興味関心が尽きたことが明白な、抑揚のない声音でもって、トワイライトに退出を促した。当たり障りのないフレーズに包んだ、さっさと辞めろという圧力のおまけ付きだ。残念ながら、トワイライトに逆らう術はなかった。平凡な一市民に過ぎない彼が、インペラトルと戦えるはずがないのだ。結局、大人しく従うのが、一番マシな選択肢なのだった。
「さぁ、もう用は済んだだろう。出て行きたまえ」
そのまましばし無言でいると、あからさまに嫌そうな顔をしたタキトゥスによって、彼はあっさりと部屋を追い出された。せめて最後に一言くらい言ってやろうと、振り向きかけたが、その眼前で扉が閉まる。半開きにした唇から、吐息だけがかすかに漏れた。
というのが、思い返した記憶の全てだ。回想を終えたトワイライトは、煙草を揉み消し、疲れた様子で眉間を指圧する。
実際、疲れていた。疲労が濃く体にべっとりとへばりついて、重怠さを与えてくる。体力を消耗するようなことはしていないから、これは精神的なものだ。
携帯を取り出して、新たな連絡がないかを確認する。エンヴィスから、無事を知らせるメールが届いていた。治療は済んだが、念の為、搬送先の病院に数日間入院することになったようだ。とりあえず、安堵した。しかし、それによって止まっていた思考の流れが、再び始まってしまう。
迂闊だった。
自らの力を買い被り過ぎた。でなければ、こんなことにはならなかっただろう。
レディの背後にある危険性を、確かに彼は知っていた。だが、自分ならばそれすらも糧に変えられると信じた。過信だった。その過ちの炎が引火して、とうとう大災害を起こしたのだ。自分自身を中心に取り込んだ、大火事を。
(どうすればいい……どうすれば、収束させられる?)
過ぎてしまったことは、もはやどうにもならない。彼に出来ることがあるとすれば、事態を少しでも早く収める。それに尽きるだろう。でなければ、自分はここで、消し炭と化してしまう。そんな結末は、絶対にごめんだった。だが、思案したところで、そう容易に解決策が浮かぶわけでもない。否、正確にはアイディアこそないわけではなかったが、それは無謀で、到底実現し得ないものだった。トワイライトは黙したまま、二枚目の羽煙草を咥える。
無造作に机の上へと放り出されたスマートフォンが、眩い光を周囲に投げかけた。暗い室内をわずかに明るく照らしたその中に、一抹の違和感を覚える。
「!」
トワイライトはほとんど反射的に、室内にさっと視線を走らせた。しかし、そこには何もない。ただ暗闇と、静寂とが広がっているだけである。
気のせいだったのだろうか。思いかけて、すぐに考え直す。
(いや、違う……誰かが、いる?)
目には見えない何者かが、確かにいる。
たった一瞬、かすかな気配を感じただけだが、どうしても気のせいだとは思えなかった。そして最も訝ったのは、抱いた感覚の中にほんの少し、懐かしさが混じっていたことだ。
これほど高度な隠密系魔法を使用する相手に、知り合いなどいない。だからやはり勘違いか、あるいは途轍もなく複雑で面倒臭い欺瞞の術式をかけられているかだ。どちらにせよ、油断の出来る状況ではないだろう。
己の直感を信じ、そっと身を屈める。指先だけで机の引き出しを探りながら、一番下の鍵のかかった段を魔法で開け、麻酔銃を取り出した。いざという時のための、いつもの得物だ。
グリップ部分を握り締めると、硬い感触が掌に伝わってくる。それを確かめてから、ゆっくりと腕を上げた。音を立ててしまわぬよう、慎重に立ち上がり、手にした拳銃を構える。
いつの間にか、背後に人影があった。さっきまでは誰もいなかったはずの場所に、誰かが立っている。
「!?」
トワイライトは驚き、急いで振り返った。眼前に、男の腕が伸びてきている。まるで、首を絞めようとしているかのようだ。
捕まっては堪らないと、慌てて飛び退く。直後、右の手首に強い衝撃が走った。蹴られたのだ。
「っ……!」
痛みで握力が緩み、手から銃がこぼれ落ちる。硬い物体が床にぶつかる、乾いた音が鳴った。
「……幻術か」
幻を見せて撹乱した隙に、相手を無力化する作戦だったのだろう。余程の訓練を積まない限りは、悪魔というものはどうしても視覚的情報を重視してしまいがちだ。心理の穴を逆手に取られ、利用されたのである。
「流石だな。こうも容易く見抜かれるとは。慧眼、恐れ入るよ」
ほぼ無意識的にこぼした独り言に、男は律儀に答えた。見覚えのあるその姿に、トワイライトは自身の第六感が間違っていなかったことを知る。だが、確信をより強めるために、大胆にも背を向けて部屋の電灯を付けた。パッと降り注ぐ光を受けて、男は眩しそうに目を細める。暗闇の方が、かえって快適だったとでも言いたげに。
「……お久しぶりです。ジキルさん」
明るくなった室内で、トワイライトは再び男と向き直る。
「いきなり無礼ではないですか。それとも、突然背後から襲撃するのが、あなた方の世界の”礼儀”なのですかな?」
「フッ……いやこれは、大変な失礼をした。申し訳ない」
いきなり嫌味をぶつけてやると、男は微苦笑と共に軽く頭を下げた。本当は謝意など微塵も抱いていないのだろう、おざなりな動作だ。
「そちらが早くから気が付いた様子だったので、少々好奇心に駆られてね……」
要は試したということか。旧知とはいえ、さほど親しくもないこの男に、そんなことをされる謂れはなかった。ただでさえ、厄介なトラブルを抱えているというのに。
「それで、何の用です?公安部長殿」
トワイライトは眉を顰め、不快感を露わにした表情で再度問いかける。肩書きを呼ばれた瞬間男は、態度を改めた。ようやくまともな話をする気になったようだ。
「まぁまずは、再会を祝して」
靴音をわざと立てて、こちらへと体を向け、手を差し出してくる。低く掠れた声で求められるままに、トワイライトも彼の手を握り返した。
ジキルは、スラリとした背の高い中年悪魔だ。ブルーグレーのスーツを身に纏い、太めの斜めストライプが入った、いわゆるレジメンタルタイを締めている。センターパートに整えられた短髪は、半分が銀色で半分が金色に輝いていた。栗色の角は、額の中心から二本、左右に分かれ頭をぐるりと取り囲むように、後方へと伸びている。そして後頭部の辺りで絡み合い、複雑に伸びた蔦植物のような形を作っていた。瞳はトワイライトと同じ漆黒。だからなのだろうか。初対面から、彼の態度には親しみのようなものが宿っている気がしてならなかった。だがその黒さは、以前見えた時よりも更に、闇を孕んでいる。就いている仕事や立場のせいでもあるのだろう。
公安部は名目上、テロリズム等大多数の市民や魔界府を脅かしかねない事案に対応する、精鋭揃いの組織と謳われている。与えられている権限も、業務の内容上大きくなりがちだ。しかし、その実情は驚くほど不透明で、曖昧。内部の悪魔ですら、全貌を知ることは難しいと言われている。何が真実で何が虚偽なのか、把握しているのはほんの一部の上役のみだ。場合によっては他部署の仕事に口を挟み、法的に問題のある行動もする。詰まるところ、強くて怪しい謎の集団というわけだ。だから多くの職員が公安部を嫌い、疎み、邪険にする。人間界と同様に、ドラマの材料に仕立てたりも。
「今更ではありますが、昇進おめでとうございます」
トワイライトがこのジキルと出会ったのは、まだ刑事部にいた時分のことだ。当時の彼はまだ一課長に過ぎず、部長の男に追従して働く身だった。それが様々の事情で、部長に就任したのであった。知り合いとしては、形だけでも挨拶をしておくべき事柄だ。
「君のおかげだよ。あの時の”配慮”には感謝している」
ジキルは微笑みを浮かべたまま、トワイライトに応じた。言葉選びの厳しさを讃えるべきか、事実を隠蔽され手柄を横取りされた過去の因縁を嘆くべきか、難しいところだ。にも関わらずジキルの表情は、儀礼的というよりむしろ、親近感を覚えている者のそれだった。
「いえいえ、大したことではございませんよ……しかし、何分印象的な出来事でしたのでね」
当時の記憶が蘇ってきて、同時に苦い思いをも去来させる。トワイライトは笑顔の裏に敵意を隠して、言い放った。
「寛大かつ忙しいあなたのことだ。我らのことなど瑣末な問題とされているかと思ったが……存外、神経質気味らしい」
大したことじゃないと強がり、一方で決して忘れてはいないと牽制するトワイライトに、形式上は褒めつつも、そんな小さなことを一々覚えているなんてみみっちいと嘲るジキル。両者はしばし睨み合い、やがてトワイライトの方が、ふっと視線を逸らす。
「はぁ……馬鹿らしい。こんなもの、止めにしましょう」
「おや。珍しいな。君ともあろうものが、先に降参とは」
「棄権と言っていただきたい。一度は友人として語らった仲ですぞ?過去は水に流せぬとしても、出会った途端に争う必要もなし。でしょう?」
意外そうに眉を上げるジキルに、わざとらしい溜め息を聞かせて呟く。
「それに、個人的なことを申し上げるならば……私はメンツや縄張りというものにあまり頓着がない。興味のない勝負で出し抜かれたとしても、さほど恨みはしませんよ。不利益を被ったのでもない限りはね」
「ほう……ならばここにいるのは納得ずくだと?」
「無論、側から見れば左遷に変わりないのでしょうがね」
苦笑いと共に打ち明けると、ジキルは肩を竦めた。まるで、会話の方向を誘導しようとしているかのようだ。
「では、ここから更に流れることも望んでいるかね?」
「……どういう意味ですか?」
いきなり踏み込まれて、トワイライトの目が光った。声色を変え、突き刺すような眼差しでジキルを見遣る。
「少し耳に挟んだだけだ。何やら、問題を抱えているらしいな」
彼は案外あっさりと、トワイライトの言外の質問に肯定を返した。つまり、彼らの事情を知っているということだ。
「流石は公安部……諜報力には自信があるようで」
「たまたまだよ。君ほど優秀な悪魔の噂なら、出回るのも早いからな」
「はははは、ご冗談を。私はしがない室長職ですよ」
その程度の人物の情報を、これだけ短時間で得るなどあり得ない。仮にあったとしたら、それは意図的に情報網を張り巡らせていたからだ。彼は恐らく、トワイライト、ひいては単独脱界者対策室の周りを探っていたのだろう。
「しかし問題と言われましても、我々はこの通り小さな部署でねぇ……些細なアクシデントならほぼ毎日」
「隠さなくていい」
ならば何か目的があるはずであり、警戒して然るべきだ。トワイライトはにこやかな笑みで、誤魔化そうと試みる。だがジキルは容赦なく、彼の話を遮った。
「君は今、困った状況にいると聞いた。部下に離反され、そのせいで上から詰められている、と」
正直に言えば、図星だ。しかし、まだ悪あがきの余地はある。ジキルが全て知っているとは限らないからだ。途中から、推測を交えている可能性もある。自分もよく使う手口だからこそ、そこには細心の注意を払い、見分ける必要があった。
「ふむ……あまり、警戒はしないでほしいのだけどね」
信用されていないことを感じ取ったのだろう。ジキルは顎に手を当てて、困窮した様子で眉を顰める。
「つまり、私が申し出たいのは、過去の借りを返したいということなんだ。君には随分助けられた。だから今度は、我々が君の手助けをしようかと考えているんだよ」
「……見返りは?」
言い分としては立派だが、信頼を置けるかと聞かれたら、答えは否だ。悪魔の世界では、善意など存在しない。多少はあるにしても、大半が羊の皮を被った狼。食われないためには、裏にある罠を暴かなければならない。
「フッ、察しが良くて助かるよ」
彼の声音に込められた、わずかな敵意を認めなかったのか、それとも無視したのか。ジキルは満足そうな雰囲気さえ漂わせて、頷く。
「君の考えは読めている。そして、我々ならそれを叶えてやれる。そういうことだ」
「……と、言いますと?」
淡々と発するジキルに、トワイライトも同じく平坦に聞き返す。彼が真にこちらの考えを読んでいるのか、見抜くために。
「どんなに優れた電子機器も、プラグを抜かれたら終いだ」
対するジキルの答えは、まごうことなき満点だった。トワイライトは咄嗟に、リスクとリターンとを天秤にかける。
自分の立場、仲間の今後、ジキルの立場、成功したら得られるもの、反対に失うものまで。
けれど、選択肢はないに等しいのだった。
他に頼れるところは皆無。そもそもトワイライト本人に責任の一端がある以上、逃れる術はない。そこに差し込んだ一筋の光。たとえ危険でも、試すしかないのでは?このまま何もせずにいれば、ただ押し潰され失墜してしまうだけだろう。ならばせめて、先に何が待っているか分からぬ道でも、突き進んだ方がまだマシではないのか。
トワイライトは迷う。果たして、目の前にいるこの男ジキルを、信じていいものか。自分たちが生き残る方法は、彼に縋る以外ないのか。
葛藤し、煩悶し、懊悩し、やがて彼は一つの結論に達した。
* * *
(エンヴィスさん……!)
まだ早朝の、人気のない病院内を、カーリは出来る限りの速度で進んでいく。走ってはいけないと、必死に抑えてはいるのだが、にも関わらず足がもつれそうになった。気持ちばかりが逸って、肉体が全然ついていかないのだ。ドクンドクンという鼓動が、耳のすぐそばで聞こえる。
「カーリ~……」
「静かにしてて」
リュックに隠したボール・アイが、眠たげな声を発する。しかし喋ってしまっては、意味がない。誰かに気付かれ、新種の生物だと知られてしまえば、大事になる。カーリは小さく囁き返し、注意した。それ以上、彼に言葉をかけている余裕もなかった。焦燥と、懸命な祈りが彼女を包む。彼も分かっているのか、大人しく沈黙を守っていた。
どうか無事でいてほしい。
カーリが願うのはただそれだけだった。
「エンヴィスさん、大丈夫ですか!?」
目当ての病室に辿り着くなり、ノックもせずに扉を引き開ける。彼女の眼前に、衝撃的な光景が広がった。
「……ん?おー、カーリ。来てくれたのか」
昨夜、帰宅途中に腹部を刺され、救急搬送されたはずのエンヴィス。一時は出血多量で意識不明にまで陥ったと聞いていたが、今ここにいる彼は、随分と元気そうだ。ベッドに座って、のんびりとテレビなんか見ている。重傷を負った気配など、微塵も感じられなかった。
カーリはポカンとして、口を開ける。肩にかけたリュックの紐が、ずるりと滑り落ちた。
「……え?……あれ?」
「にしてもお前、ちょっと早過ぎじゃねーか?別に無理しなくても……って、どうした?」
混乱したまま、病室の入り口に立ち尽くす彼女を、エンヴィスは不思議そうに見上げる。その時だった。
「兄さん……!」
彼女の横をすり抜けて、誰かが室内へと入ってくる。長く美しい金髪が、さらりと靡いた。
「無事だったのね!良かった……!!本当に、良かった!!」
エンヴィスのもとに駆け寄ると、半ば倒れ込むようにして、彼の膝に縋り付く。そして、彼の手を握った。
「もう、心配したんだから!どうして兄さんはいつもいつも、無茶をするの……!」
大声で捲し立てる彼女を、エンヴィスは困り顔をして、何も言わずに眺めていた。というより、何と声をかけるべきか、迷っているかのようだ。
「あの……えぇっと」
一人だけ取り残されたカーリは、状況をまるで理解出来ず、困惑を見せる。そんな彼女を見かねてか、エンヴィスがようやく口を開いた。
「あー……悪いな、カーリ。こいつはセリア。俺の妹だ」
彼に名を呼ばれた途端、女性はハッとしたように体を起こして、カーリの方に向き直った。白磁の頬についた涙の跡を、細い指先で拭っている。
「初めまして。セリアと申します」
澄んだ声音が、涼やかに挨拶を紡ぐ。両手でワンピースの裾を持ち上げ、貴族の令嬢風のお辞儀をすると、白い生地がふわりと膨らんだ。にこりと微笑みを浮かべ、瞼を開けた彼女の瞳は、まるで夜空のように美しく、魅惑的だった。濃い紺色をした目の中に、無数の星々の煌めきが宿っている。瞳孔は焦点を結んでおらず、どこを見ているのか分からなかったが、だからこそ謎めいた誘惑を醸し出している。頭部を飾るサークレットが抱える、色とりどりの宝石も、瞳の輝きを強め、一層美麗に見せている。カーリはその美しさについ見惚れ、思わず呟きを漏らしていた。
「綺麗……」
「えっ?」
セリアは驚いたのか、高い声を発した。それによって、カーリも冷静さを取り戻し、自らの失態に気が付く。
「あっ……す、すみません!!」
初対面の相手に綺麗だなどと言われては、誰だって不審に思って当然だ。羞恥が込み上げてくるままに、カーリは勢いよく頭を下げる。
「ほ、本当にそんなつもりじゃなくて!ただ綺麗だなって……!あ、いや他意はなく!」
カーリは完全にパニックになり、しどろもどろで言い訳をしようとする。だが、結局それもただ墓穴を深くするだけとなった。
「ふふっ、くすくすくす……」
慌てふためく彼女の様子が可笑しかったのか、セリアは堪えきれないという風に吹き出し、口元に手を当てて肩を揺らした。ピンクのネイルアートが施された爪は小さく、唇は朝摘みの苺のように瑞々しい。どこまでも、完璧なまでに美しい女性だ。
「うぅ……っ」
比較すると尚更、自身の愚かさが際立って、恥ずかしくなる。汗を滲ませ、赤面する彼女に、セリアは首を振って応えた。金糸のように細く真っ直ぐな金髪が、さらさらと音を立てる。
「いいんです。よくあることですから。こちらこそ、笑ってしまってすみません」
親しみを込めてカーリの肩に触れると、ノースリーブの服から剥き出しになった腕の、細さと白さが一層強調された。カーリは返すべき言葉を見失い、口だけを忙しなく開閉させてしまう。
「ふわぁ、寝ちゃった……!あれ?カーリ、その人、誰?」
彼女の背負ったリュックの中から、突如緊張感のない間抜けな声が聞こえてきた。わずかな隙間から染み出したきた粘液が、触手の形態を取り、ジッパーを内側から開ける。円な瞳でセリアを捉えると、こてんとない首を傾げた。
「きゃっ!」
「ぼ、ボール・アイ!」
スライムと思しき生物が喋ったことに、セリアは驚き小さく悲鳴を上げる。彼女を怖がらせてしまったこと、また秘匿すべき秘密が彼自身によって暴かれてしまったことに、カーリは焦った。
「何だ、ボール・アイも連れてきたのか?」
エンヴィスだけが一人、悠長に構えながら、カーリに尋ねかけていた。
「……まさか、エンヴィスに妹がいるなんて知らなかったよー」
かくかくしかじか、と互いの事情を端的に説明した後。やはり、その精神年齢の幼さが影響しているのだろうか。最も早く事態を飲み込んだのは、ボール・アイだった。彼はエンヴィスの膝の上で、丸い体を転がし、触手をうねうねと蠢かせている。
「言ってなかったからな」
セリアに差し入れられたカステラ(好物らしい)を頬張りながら、エンヴィスは平然と答えた。
「ど、どうして言ってくれなかったんですか!」
「別に話すことじゃないだろ。業務には直接関係のないことだ」
まだ混乱の抜け切らないカーリは、やや強めの口調で彼を非難する。しかし、彼の態度は変わらなかった。
「それは……そうですけど」
ごく当たり前のように告げられ、カーリは反論の術を失う。確かに、自分だってもし家族がいたとしても、職場の者にそれを伝えはしないはずだ。伝えたとしても、利益などないのだから。機会があれば、話題にする程度のことであろう。
「流されちゃ駄目よ、カーリさん。兄は口が上手いの。誰から学んだのかしら、昔はこんなんじゃなかったのに」
「うるさいよ」
ところが、セリアは慣れている風に、エンヴィスの正論を咎めた。指摘された彼は、痛いところを突かれたとばかりに、顔を顰める。そして、苦し紛れに妹の肩を軽くはたくジェスチャーをした。セリアはクスリと微笑んでから、再び真面目な表情を作る。
「共に仕事をする仲間なんだから、自分のことも相手のことも、少しくらい共有しておかないと。いざって時きっと困るわ。そうでしょ?」
何気なく発したのかも知れないが、彼女の言葉は鋭く、彼の胸に刺さった。とっくに塞がったはずの腹の傷が、ジクリと痛む。
セリアの言う通りだ。もっと早くから、情報を共有しておくべきだった。たとえそれがどんなものであったとしても。下手に心情を慮り、無理をさせまいとして、本当はただ逃げていただけではないのか。彼女が抱えた巨大な闇、その実態を目の当たりにしたくなくて。優しさに包んだ自分たちの怠慢が、結果彼女を追い詰めた。
「……そうだな」
捻くれた妄想だと分かっている。肉体的に傷付いたせいで、思考がネガティブな方向に走っているのだと。しかしそんな衝動として片付けてしまうには、重過ぎる話で、エンヴィスの口調は自然と淀んだ。セリアは機敏にそれを察知したのか、訝しむように、案ずるように瞳を曇らせて、兄を見つめてくる。妹に心配をかけるまいと、エンヴィスは慌てて己を取り繕った。
「っていうか、何でわざわざこんなもの持ってきたんだ?どうせ明日には退院するんだから、必要ないのに」
片手を広げて、ベッド側のスツールに乗せられたスポーツバッグを指す。そこには、セリアによって準備された、数日分の着替えやら暇潰し用の娯楽やら、様々な物品が雑多に詰め込まれていた。今日の午後にでも退院出来ると聞いたエンヴィスには、不要なものばかりだ。
「だって、そんなの分からなかったもの。仕方ないじゃない」
彼の声音に含まれた、わずかな批判の色を汲み取ったのだろう。セリアは頬を膨らませ、不当な仕打ちに憤る。子供じみたそんな仕草すら、端正な顔立ちの彼女がやると可愛らしく見えるのが不思議だ。
「トワイライトおじさまから電話で、兄さんが刺されたって聞かされて……なのに明日の面会時間まで待てって言うんだから!私も伯母様も、気が気じゃなかったわ」
彼女の話は、昨日の出来事へと飛んでいる。だが、それはカーリも同感だった。
昨晩、ボール・アイと共に帰宅したカーリは、トワイライトから電話を受けた。こんな時間に、彼が連絡をしてくるなど珍しい。今までなかったことだ。その時既に、彼女の中では嫌な予感が湧き起こり、サイレンのように鳴り響いていた。恐る恐る通話ボタンをタップして、スマホを耳に当てる。
『エンヴィスくんが刺された。地下の駐車場で、腹から血を流して倒れていたと。ハデス内の病院に搬送され、現在も治療中だ』
「えっ……」
挨拶も抜きの一言目が、カーリの頭を思い切り殴打した。反響がぐわりぐわりと頭の中に残っていて、内容を全く理解出来ない。音だけが脳内を滑っていくようだ。しかし当然彼はそんなこと気が付かず、一方的に話を続けてくる。
『今のところ、犯人は不明。だが、防犯カメラの映像と、目撃者の証言によれば、レディくんによく似た姿の悪魔が、逃げていったらしい……』
「……!」
カーリはもはや声を出すことさえ出来ずにいた。顔を驚愕に硬直させ、ただ彼の言葉に意識を集中させているしかない。
『今は自宅か?』
問いかけられて、ようやく思考が働きを再開した。質問されたのだから答えなければという、半ば強迫観念じみた思いが、カーリを突き動かす。
「……はい」
どうにか応じた途端、ぐるぐると視界が回るような感覚を覚えた。カーリは堪えきれず、近くにあった椅子に、倒れ込むようにして座る。
「あの……エンヴィスさんの、病院に行っても?」
尋ねる声が、自分でも呆れるほど掠れて、低くなっていることに気付いた。だが、どうしようもない。幸い、トワイライトはそのことに関して、何も言わないでいてくれた。
『悪いが、今日は駄目だ。下手に外に出たら、君も襲われるかも知れない。ボール・アイくんと、大人しくしていなさい』
「でも!」
代わりに、にべもない口調で命じられる。彼の言い分は尤もだ。仲間の一人を襲撃され、皆が動揺したところを立て続けに狙う。それこそが、敵の目的なのかも知れないのだから。
しかし、理屈では納得出来ても、感情は受け入れられない。カーリは反射的な反発心を抱き、トワイライトに噛みついていた。
『全ては明日だ。明日、面会可能な時間になったら、見舞いに行ってやるといい。有休にしておくから』
けれども、トワイライトも譲らなかった。上司として、部下を守らねばならない立場にいるのだ。いくら共感は出来ても、わざわざ彼女に危険な橋を渡させるつもりはなかった。カーリも彼の気持ちを理解したために、他に行き場のない、やるせない思いを抱えることとなる。
「エンヴィスさんは……無事なんですか?」
我ながら、間抜けな質問だと思った。腹を刺されて、無事でいられるはずがない。返ってくるトワイライトの声色も、いつになく暗い調子だった。
『今はまだ治療中だ。詳しいことは分からない。しかし……救急隊が到着した時には、既に意識はなく、出血多量で危うい状態だったそうだ』
「助かるんですよね!?」
思わず、そう叫んでいた。縁起でもないとは分かっているが、残酷な想像が瞼の裏を離れないのだ。カーリの悲鳴じみた問いに、トワイライトは逡巡してから答える。
『……そう、願っている』
やはりいつもの彼とは違って、重々しく躊躇いのある口調だった。唯一無二の部下で、優秀なチームの副リーダーである男が、重傷を負い、命の危機に瀕している。そんな時に、平常心を保っていられる方がおかしいだろう。
「また連絡ください。トワイライトさんなら、病院からの情報も、分かるんでしょう?」
『もちろんだ。君に知らせるべきことがあった場合は、直ちに連絡しよう』
早口に告げると、彼は即座に了承してくれた。電話の向こうでも、深く首を振って頷いてくれているのを察する。
『無論、そんなことにならないよう祈っているが……』
「私もです。知らせてくださって、ありがとうございます。はい、失礼します……」
最後の言葉は、冗談めかそうとして失敗したのを誤魔化すように、曖昧にフェードアウトしていった。カーリも淡々と同意しつつ、形だけの礼を述べる。通話が切れたのを確かめると、体を震わせてベッドに突っ伏した。こちらを心配そうに見上げている、ボール・アイに事態を説明してやる余裕もなかった。
「本当に、無事で良かったです……!」
そして現在。彼の前でカーリは、両手を握り締めて歓喜していた。胸の中に広がる深い安堵が、涙を湧き上がらせ彼女の視界を滲ませる。
「カーリも僕も、心配してたんだよ。エンヴィスが死んじゃうかも知れないって……」
瞳を潤ませるばかりで、それ以上は言葉にならない彼女の気持ちを、ボール・アイが代弁した。彼までもに詰め寄られたエンヴィスは、気まずげに頬を引き攣らせ、視線を逸らす。まるで、不必要なものを押し付けられて困っているように。
「……別に、あれぐらいじゃ死なないよ。傷だって、病院に着く前にあらかた回復してたんだから」
「でも、意識を失ったって!」
今度はセリアが口を挟んだ。甲高い声で叫び、エンヴィスの腕を掴む。彼は妹の手を煩わしそうに見遣ったが、振り払うのは流石に躊躇したらしい。中途半端な位置に腕を浮かせていた。
「あれは、一度に大量に血が出たからで……一時的なものだよ。だから手術もしなかったんだ。増血ポーションだけですぐに」
「兄さん!!」
相変わらず目を合わせないままで、自分勝手に喋り続ける彼を、セリアがとうとう一喝した。
「っ!?な、何だよ……」
普段は静かで大人しい彼女が、いきなり声を荒げたことに、エンヴィスは驚き肩を跳ねさせる。セリアは反対に、頬を紅潮させ目尻を吊り上げていた。まるで、これまで再三我慢して押し殺してきた感情が、全て決壊したかのように。
「兄さんは、私たちにどれだけ心配をかければ気が済むの!?この前だって、大したことないって言って、酷い怪我したじゃない!!」
凄まじい剣幕で捲し立てる妹に、エンヴィスはただ圧倒され、次々とぶつけられる愚痴や怒りを、ひたすら受け止めていた。
「わ、悪かったよ……もうしないって」
やっとのことで割り込んで、必死に弁解をするが、効果はなかった。
「その言葉も何度も聞いたわ!もう沢山!!兄さんは、いっつも同じこと言うばっかりで、絶対に守らないんだから!!」
むしろより激しい爆発が生じてしまい、彼は尚更慌てふためく。
彼らの様子を、カーリとボール・アイは黙って眺めていた。
まるで、心配性な母親と、彼女の過干渉を嫌う子供だ。もちろん、セリアが前者でエンヴィスが後者。兄と妹が逆転したような力関係に、何とも言えない滑稽さを覚える。常にしっかりとしていて、頼れる兄貴肌な人物を装っている彼に、こんな一面があったとは。家族の前でしか見せないその姿は、まさに意外としか喩えようがない。
「仕方ないだろう……誰かが、戦わなくちゃいけない時があるんだ」
妹に叱られるのが不服だったのだろうか。エンヴィスは憮然とした表情で、彼女に言い返す。
「でも無茶し過ぎよ!!」
彼の意見も、続くセリアの叫びも、どちらも納得のいくものだった。
エンヴィスほどに高い戦闘能力を持つ悪魔は、魔界府中央庁舎にもそうはいない。強い敵が現れたら、どうしても強い悪魔、つまり彼に出張ってもらう必要があるのだ。さりとて、ここ最近のエンヴィスは、確かに危険を顧みない行動を多く取っていた。妹が案じるのも当然だ。自分が働き始めたばかりの頃は、ここまで無鉄砲ではなかったはずだ。何か心境の変化でもあったのだろかと、カーリは思う。
「私と伯母様のことも考えて……エヴィーリャ兄さんのことも」
セリアはその間にも、エンヴィスに向き合い、懇々と諭していた。しかし彼は依然として、妹の忠告に耳を傾ける様子はない。プイッと顔を逸らして、拗ねたように呟く。
「エヴィーリャは……あいつは関係ない」
「どうしてそんなこと言うの!」
「あ、あの!」
流石に、二人の言い争いを聞き続けるのにも耐えかねて、カーリは声を上げた。
「ちょっと……落ち着きましょう?」
激昂するセリアを宥め、彼らの間に割り入って、仲裁を試みる。慣れないことをする緊張のためなのか、彼女の顔色は白く、声音は硬かった。
「セリアさん、あなたの気持ちも分かります。だけど今は、エンヴィスさんの話を聞きたいんです」
初対面の相手に、こんな風に思い切って自らの希望を伝えるなど、初めてのことだ。エンヴィスも意外そうに目を丸くしている。しかし、カーリは躊躇わなかった。躊躇っていられなかった。それほどに、今回の事件の真相について、心を砕いていたのである。
「そうね……その通りだわ」
幸いにもセリアは、兄妹間の問題に首を突っ込まれたことを憤るでもなく、静かに彼女の提案を受け入れた。
「私も、何があったかは気になっていたもの……兄さん、話してくださる?」
妹に尋ねられたエンヴィスは、膨れ面のまま、反抗的な眼差しを彼女に注いでいた。だが、いつまでも意地を張っていられないと悟ったのか、ふっと息を吐く。そして、重い口を開いた。
「……お前は、聞いたんだろ?トワイライトさんから」
本当はずっと黙っていたかったとでも言いたげに、苦々しげな声を出す。問われたカーリは、かろうじて判別出来る程度の、わずかな動作で首を振った。エンヴィスはそれに気付いたはずだが、何も言わない。待っているのだ。カーリが、自分の知っていることを述べるのを。
「……エンヴィスさんを刺したのは、レディちゃんによく似た悪魔だったって……」
仕方なしに、カーリも話し出した。そうしてやっと、エンヴィスの心情を理解する。彼女が犯人だと口にすれば、裏切り者扱いしていることになる。それがたとえ事実だったとしても、到底認めたくないことだった。
「嘘……!」
彼女の言葉を聞くなり、セリアは取り乱した様子で喚く。
「本当なんだ、セリア」
感情的に否定した彼女に、エンヴィスは困り果てた顔をして懇願した。
「頼むから落ち着いてくれ……」
「でも……っ」
セリアはまだ納得出来ていなさそうだったが、兄の願いに従い、渋々押し黙る。すっかり静かになった彼女の横で、カーリは暗い表情を浮かべていた。
「じゃあ、やっぱり、レディちゃんなんですね……」
「そうだ」
端的に頷かれ、カーリはまるで、自分の周囲の時が止まったかのような感覚を覚える。最後の支えとなっていたものが、とうとう崩壊した。その衝撃に膝が震え、地面がぐらつく。
「カーリ!」
ボール・アイとエンヴィスが同時に手を伸ばし、倒れかけた彼女を近くのスツールに座らせた。カーリは一言も発さずに、両手で顔を覆って俯いている。彼女の背中は、小刻みに震えていた。振動が伝達したのか、長い黒髪の毛先まで、細かく揺れている。
ショックだった。
言語化すればただそれだけの、簡単な思いだ。しかし、何よりも重く、苦しいもの。
「どうして……っ!!」
気が付けば、勝手に声が出ていた。否、それは掠れていて、声にもなっていない。吐息と引き攣ったような音しかない、惨めな叫びだった。
「どうしてレディちゃんが……っ!」
喉の奥から、勝手に思いが溢れてきて、勝手に迸る。受け止めきれない現実の理不尽に、心が壊れてしまいそうだ。
「どうして……っ!?」
蹲ったまま嗚咽するカーリの背を、何者かがそっと撫でさすった。細い指先の感触から、ボール・アイではないと分かる。無論、エンヴィスでもない。セリアだった。
彼女もまた、兄を傷付けたのが顔見知り、よりによって彼の同僚であったという事実に、動揺していた。だが、自分以上に打ちひしがれているカーリの姿を見て、冷静な思考を取り戻したのだ。茫然自失とし、憔悴している状態の彼女に、寄り添いたいと思ったのだ。
背中に触れる彼女の温もりに、カーリはハッと顔を上げる。穏やかに自分を見下ろす彼女の瞳は、涙で潤んで赤くなっていた。カーリは咄嗟に、強い罪悪感に駆られた。
「ごめんなさい……」
泣きたいのは彼女の方であるはずなのに、自分のせいでそれを奪ってしまった。申し訳なさと居た堪れなさが、つい口をつく。
「あら。どうして謝るの?」
ところがセリアは、きょとんとして首を傾げていた。
「あなたの方が、辛いはずなのに……家族なんだから」
「辛い気持ちに、どちらが上も下もないわ。一番苦しむのは家族、なんて、そんなの偏見よ」
涙声で弁解するカーリに、からりとした調子で応じる。あっさりと謝罪を拒否されて、驚いた。
「私はレディさんをあまり知らない。数回会って、お話しただけだわ。でも、あなたたちは違う。共に働いて、危機を乗り越えた。時には命をかけた戦いも、一緒に生き延びてきたのよね?そうでしょ?」
淡々と語るセリアからは、先ほどまでの激情などまるで感じられない。非常に落ち着いていて、泰然自若とした態度を保っていた。自らの力だけで家を守ることを決意した、女当主のように。
問いかけられるままに、カーリはコクコクと首肯する。セリアはバッグから白いレースのハンカチを取り出し、彼女の濡れた頬を拭ってくれた。
「そんな悪魔が、仲間を傷付けただなんて、信じられなくて当然だわ。簡単に憎めないのも当然。仲間なんですもの」
「……っ」
こちらの気持ちを全て理解し、尊重した彼女の言葉と、子供を甘やかす親のような対応とが相俟って、カーリの瞳からはもっと多くの涙が溢れる。耐えきれなくなって、思わずセリアの手を握り、しゃくりあげてしまった。
「ひっ……うぅうぅ」
ここまで必死に我慢を重ね、抑えに抑えてきたはずの感情が、とうとう決壊した。
本当は、怖かったのだ。エンヴィスの安否だけではない、レディのことだ。もしも彼女が犯人ならば、彼女を憎まなければならなくなる。エンヴィスを傷付け自分たちを裏切った、許されざる敵だと。そんなことは出来なかった。事情がどうであれ、唯一の親友を恨むなど、到底不可能だ。叶うならば味方となり、彼女の罪が少しでも軽くなるよう、手助けしたいくらいであった。しかし、無闇にレディを庇えば、エンヴィスに追い討ちをかけることになる。彼は被害者なのだ。加害者を憎み、嫌っていてもおかしくはない。しかしそんなこと、想像もしたくなかった。大切な仲間である彼が、同じ仲間のレディを、酷くこき下ろす姿なんて。そして自分にも同意を求めるなんて。絶対に受け入れられないと思った。だが、エンヴィスを拒絶することも、決断出来そうになかった。二つの相反する心に板挟みになり、カーリは胸の詰まるような思いをしていたのである。
「カーリ……大丈夫だよ。僕たちがついてるからね」
ジレンマに苦しみ、落涙する彼女を、ボール・アイが優しく慰めた。
「そうだぞ、カーリ。俺は別に、あいつを恨んじゃいない。だから……泣くなよ」
エンヴィスもぎこちなく、セクハラにならない加減を探りながら、彼女の肩をぽんぽんと叩く。不器用な兄貴肌の温かさと、レディを許すという確約をもらった安堵に、カーリは一層号泣してしまった。
「……とはいえ、このまま放置しておくわけにもいかん。レディくんの所在を早急に突き止めねばな」
突如背後から響いた低音に、その場にいた誰もが飛び上がった。
「とっ、トワイライトさん!?」
「いつからここに!?」
エンヴィスとカーリが目を見開いて驚愕する中、セリアだけが自然な動作で立ち上がり、彼に向かって微笑む。まるで考えなくても、染み付いた礼儀作法が勝手に身体を動かしているかのようだ。
「トワイライトおじさま、お久しぶりです」
「あぁ、セリア嬢。ご挨拶が遅れて申し訳ない。何分私も、今回の件で色々と忙しくてね」
優雅にお辞儀をする彼女に応え、トワイライトも恭しく挨拶をする。驚かせたことを弁解するように、苦笑いめいた表情を浮かべていた。
「トワイライトさん!レディちゃんは、どうなるんですか!?」
彼の言葉に、セリアは何か反応を返そうとするが、それより早くカーリが口を開く。トワイライトに歩み寄り、高い声で詰問した。普段の慎み深い姿など、面影もない焦燥ぶりだ。
「それは分からんよ。しかし……あまり良い結果は期待出来なさそうだ」
「そんな……!」
彼女の気持ちも分かるが、だからといって現実が変わるわけでもない。トワイライトが淡々と告げると、カーリは絶望した顔をして、再びスツールの硬い座面に沈み込んでしまった。
「あいつを見つければ、何か変わるんですか?」
カーリには気付けなかった、裏の意味を嗅ぎ取り、今度はエンヴィスが質問する。するとトワイライトは、満足げに首を一つ振った。
「察しがいいね、エンヴィスくん。その通りだ……と、いうよりも、現状それしか選択肢がない」
「どういうこと?」
その後に重々しく付け加えられた一言を、ボール・アイが耳聡く聞き咎め、追求する。ふと考え込んだ様子のエンヴィスが、顎に手を当てて呟いた。
「昨日のあいつは、どう考えても様子がおかしかった……俺を襲ったのだって、まるで自分の意思じゃないみたいだった。多分、誰かに脅されていたか、操られていたんだろう」
彼の見解は的を射ていて、トワイライトが確認した犯行時の映像を見ても、同じ結論に行き着いた。レディの足元は覚束なく、ナイフを握る手も震えている。実際、エンヴィスが負傷したのだって、半ば事故のようなものだった。彼女に刺す気はなかったのだ。あるいはあったにしろ、それは殺意によるものではない。他にどうしようもなく、選ぶしかなかった行動の内の一つなのだ。
「じゃあ、その犯人を見つけて捕まえれば、レディは助かるの?」
「……恐らくは」
とはいえ、これはあくまで当事者の意見でしかない。しかも、彼女と共に長く働いてきた悪魔たちの感想だ。信憑性など、他者から見れば皆無だろう。だからこそ、ボール・アイの無邪気な問いに対する返答は、随分と躊躇いの滲む、熟慮の必要なものだった。
「……セリア」
腕組みをして思案したエンヴィスが、唐突に妹の名を呼ぶ。たったそれだけの行為でも、彼女は兄の意図を全て察したようだ。凛とした眼差しには、どんなことでも完遂するという責任感が宿っている。
「カーリを風に当たらせてやれ」
「分かった」
一瞬で備えたからか、彼女はエンヴィスの無遠慮な命令を、いとも容易く受け入れた。
「それと、こいつも連れてけ」
「駄目よ。病院内は魔物厳禁だわ」
ぐっと差し出されたボール・アイを、片手を振って拒む。わざとらしく廊下の方を気にする素振りまで見せられれば、エンヴィスも折れるしかなかった。諦めてベッドの上に戻されたスライムは、エンヴィスに掴まれた時の形を一瞬だけ記憶していたが、すぐに元通りになった。
「カーリさん、行きましょう?」
セリアに伴われて、カーリがとぼとぼと歩き出す。その背中は酷く落胆し、猫のように丸まっていた。トワイライトたちが達した希望的な観測には、気が付いてもいない様子だ。
「珍しいな……彼女がここまで、周囲を顧みないとは」
「随分ショックを受けてましたよ。まぁ、当たり前のことでしょうが」
彼女たちの跡を追うように、閉じたドアの奥へと視線を投げかけるトワイライト。応じるエンヴィスの声も憂いを含んでいた。
「カーリ……大丈夫かな」
追いかけたいという衝動に駆られるも、こっそり侵入している状態のボール・アイには、出来ることがなかった。
「コホン。さて、ボール・アイくん……君、耳はどこだね?」
芝居がかった咳をしたトワイライトが、おもむろに尋ねてくる。何故そんなことを聞かれるのだろうと、ボール・アイは困惑しつつ答えた。
「えっ?えぇっと、この辺!」
と、発声した瞬間、分厚い掌がぎゅっと押し付けられ、聴覚が鋭敏さを失う。彼らが何か話していることは分かるのだけれど、その音は全て低くこもっていて、内容を把握出来ない。彼はただ、きょとんとして二人の顔を見比べていた。
「トワイライトさん、上の連中に何か言われましたか」
ボール・アイの耳らしき部分が、上司の手で塞がれたのを確認してから、エンヴィスは切り出す。
「全く、君は本当に鋭いね……その通りだよ」
別段隠すつもりはなかったが、こうも見事に図星を突かれると、感心するより嘆きたくなる。さっきまでカーリが座っていた椅子に鈍い動作で腰を下ろし、トワイライトは言った。
「実を言うと、我々の立場は……いや、私の立場は、想像以上に危ういようだ」
ポツポツと、非常に簡潔な表現でユリウスらとの会話を伝える。エンヴィスの拳が、抑えきれない怒りにわなわなと震えていた。
「っくそ、今まで散々利用してきたくせに……!こっちの立場が弱くなった途端に掌返しかっ!舐めやがって!!」
ボスッと枕を殴りつけて、彼はここにいない二人の悪魔へと罵声を浴びせる。病院で大声を出すことも、上司たちをあからさまに批判することも。普段のトワイライトであればさりげなく咎めたことだろう。しかし、今日だけは彼も、気力が萎えていた。
「残念ながら、そのようだね……口惜しいが、彼らの対応はインペラトルとして当然のものだよ。付け入られる隙を作った私の落ち度だ」
どっかりとスツールに体重を乗せたまま、茫洋に呻く。だが、それも無意味なことだ。何を口にしたところで、状況が変わるわけでもない。
「しかし、どうするんです!まさかこのまま、大人しくやられているつもりじゃないでしょう!?」
黙ってしまったトワイライトに、エンヴィスは焦りをぶつけるようにして、詰め寄る。しかし、トワイライトは答えなかった。ボール・アイの耳を押さえたまま、天井の方に視線を伸ばして、呆けた面を晒している。
「トワイライトさん!!」
苛立ちを混じらせた調子で、強く彼の名を呼んだ。
「そこまでだ」
壁際から、何者かの声がかかった。
* * *
「はぁ……やっちゃったな」
病院内に設置された自動販売機の前で、カーリは佇んでいた。知らずの内に、そんな独り言が漏れる。転がり出てきた紅茶のペットボトルは、温かな熱を宿していた。
酩酊してもいないのに、あんな風に誰かの前で取り乱すなんて。自分の行動を思い出しては、恥ずかしさに胸が閉塞する。泣き腫らした目元が、ぽってりと膨らんでいるのが分かった。
「はぁっ……」
もう一度溜め息を吐いて、辺りを見回す。売店のウィンドウ越しに、セリアが何かを真剣に選んでいるのが見えた。兄に渡すお菓子でも探しているのだろうか。気にすまいとは思っていても、視線は無意識にチラチラと彼女を窺っていた。
同僚であり先輩である男の妹。彼女はまるで人形のように美しい顔立ちをしていた。所作も優雅で、それなりの家でそれなりにマナーを教え込まれて育ったのだと察せられる。誰に対しても優しく、気遣いを忘れない。だからこそ、引け目を感じてならないのに。まさか初対面の彼女に、泣きついてしまうなんて。
まだ心を許していない相手に、弱みを握られたような気分になる。尤も、この程度の弱みでは、交渉材料にはとてもならないだろう。セリアはそんなことをする悪魔ではないはずだ。にも関わらずどこかで、鬱屈した気持ちになってしまうのも確かだった。
(気まずいな……もう一人で行っちゃおうかな)
まさか、重要な話のために追い出されたのだとは思ってもいないカーリは、彼女を残して先に戻ろうかと思案する。正直、これ以上セリアと共にいるのは精神的に辛いものがある。そもそも内向的なカーリは、会ったばかりの相手と打ち解けた会話なんて出来ない。心の扉を固く閉ざして、ぎこちない愛想笑いを作るので精一杯である。失態を目撃されたダメージがある今の状態では、それすらも難しかった。
結局彼女は、さして深く考えることもなく、ふらりとその場を離れてしまう。エンヴィスの病室を目指して、エスカレーターを上がり、見舞客の行き交う廊下をとぼとぼと進んだ。
「!!」
目の前に、見慣れた金髪が現れたのはその時だった。
思わず目を見張り、足を止めてしまう。小さく息を飲んだ、そのかすかな音が聞こえたのか、女が振り向いた。
「えっ……」
カーリの顔を見た彼女が、驚愕に表情を強張らせる。開かれた唇の間からこぼれた声は、紛れもなく彼女のものだった。
「レディ……ちゃん……?」
自分自身が信じられなくなって、カーリはつと手を伸ばす。視界の状態を確かめるための動作だったが、捕まえようとしている風に捉えたのだろう。レディが背を向けて、ダッと駆け出した。
「待って!」
カーリも慌てて走り出す。強化系魔法を使う彼女に、追いつけるのか不安だったが、意外に引き離されはしなかった。
「待って、待ってよレディちゃん!行かないでっ!!」
すれ違う悪魔たちを押し退けながら、必死に呼びかける。あともう少し距離が縮まれば触れるはずなのに。足の回転速度がこれ以上上がらないのが、もどかしい。
眼前で、赤いドレスの裾がはためく。
見舞いにしては不自然過ぎる格好だが、どうして誰も奇異の眼差しを注がなかったのだろう。カーリが気付いた時の彼女は、まるで突如として眼前に出現したようだった。
(何がどうなってるの……!?)
困惑を隠しきれず、心の中で叫ぶ。大胆に露出させた、彼女の肌の白が眩しい。魔法は使っていないようだが、よくもまぁあの高さのピンヒールで走れるものだ。
「はぁっ、はぁっ……」
カーリを撒くためにか、レディは非常用の金属ドアに飛び付くと、重たい扉を力づくで引き開けた。そして、奥に聳える階段を駆け上がっていく。何とか閉じていく扉の隙間に体を滑り込ませたカーリは、手すりにもたれかかって荒い息をついた。
しかし、休んではいられない。こうしている間もレディは、どこかへと逃げ行こうとしているのだ。止めなくては。止めて、話を聞くのだ。攫われた後、何があったのか。どうしてエンヴィスを刺したのか。何故、逃げるのか。
今はただ、走るしかない。
全ての答えを聞くためには、彼女を追いかけ、捕まえるしか。
「レディちゃんっ!」
「来ないで!!」
パンプスを脱ぎ捨て、懸命に階段を上がっていく。間髪を容れず、レディの甲高い声が拒絶を突きつけてきた。
「来ないでカーリ!巻き込みたくないのっ!」
見ると、彼女は踊り場に立ち止まり、こちらを見下ろしていた。疾走のためか、息切れを起こしている。カーリも同じく苦しかったが、チャンスを逃すべきじゃないと、自らを叱咤して足を動かした。
「はぁ……はぁ……な、何を言ってるの、レディちゃん……」
最後の数段をやっとのことで上りきり、膝に手をついて息を荒げる。乱れた黒髪が額に張り付いて鬱陶しい。本当はその場に座り込んでしまいたいくらいだったが、何とか堪えて口を開いた。
「落ち着いて……大丈夫。エンヴィスさんは、無事だよ……私も、誰も、怒ってない……ただ、説明してほしいだけだから……何であんなことをしたのか……」
切れ切れになりながらも、必死に語りかける。レディは、屋上へと通じる扉に背をつけたまま、彼女を見つめていた。青い瞳は震え、怯えを宿していることが分かる。
「レディちゃん、待って!話を、聞かせて……」
ここで背を向けられたら、逃げられてしまう。追いかける力も残っていない。ならば後は、言葉で説得するより他になかった。カーリは焦って、しかしそれを表に出さぬよう留意しつつ、彼女に問いかけ続ける。
「何があったの……?レディちゃんは、大丈夫なの?」
言い終わるか否かというタイミングで、どこか下の階から物音がした。二人は肩を跳ねさせて、音のした方を見る。やがてカーリが視線を戻すと、レディの顔色は大きく変わっていた。
「レ」
「来ちゃダメっ!!」
悲鳴のような声が耳を劈く。彼女の手は後ろに回って、銀色のドアノブを探し求めていた。だが、気が急いているためか中々掴めない。
「理由なんかないよ!あ、アタシがエンちゃんを刺したのは、ただ……っ、ただ、アイツが邪魔だっただけなんだから!!」
とはいえ、油断していたらカーリに近付かれてしまう。レディは、彼女の接近を避けるべく、咄嗟に叫んだ。
「ずっと前から邪魔だったの!殺したかったの!!だから刺した!それだけ!!分かったら、さっさと帰ってよ!これ以上アタシに、関わんないでよっ!!」
勢いだけで、思ってもいないことを次々と発する。そんな己が嫌で、また自分自身の言説に傷付いてしまって、目線がつい下に落ちた。その隙を突いて、カーリは密かに、足音を殺して一歩を踏み出す。そして、レディに歩み寄っていた。
「レディちゃん……」
「っ!!」
気が付いた時には、カーリの顔が目の前にあった。レディは驚いて、腕に触れた彼女の手を振り払う。しかし、カーリは手を離さなかった。危機を悟った時には、もう遅い。
ほとんど反射的に魔法が発動し、レディの肉体は超自然的な力に満ち溢れる。それは、自分に掴まる女一人を、軽々と吹き飛ばしてしまえるほどに。
「あ……」
どちらかの口から漏れた声が、空虚な空間にこぼれ落ちる。
圧倒的な力に振り回されたカーリは、咄嗟にレディの腕を離してしまっていた。足が浮き上がり、彼女の体は残るエネルギーに押されて、奥へ奥へと飛んでいく。やがて自由落下が始まったが、彼女の下に床はない。ただ薄暗い階段が待ち構えているだけだ。それは、獲物を飲み込む獣の口に生える、大きく鋭い歯のようだった。
「誰……あんたら」
レディはバッグの紐を握り締め、警戒を露わに彼らを睨み付ける。男の一人が、大股に歩み出た。
「レディさんですね?」
「……だったら何」
「お父上の使いです。お迎えに参りました」
鋭い眼差しを受けても、男は動じない。ずいと更に近付いてくると、黒服に包まれた太い腕を差し伸べてきた。レディは咄嗟に跳躍し、何メートルも後方にまで距離を取る。魔法により強化された、特別な身体能力の成せる業だ。
彼女の動きを見るなり、男たちはサングラス越しに目配せを交わした。
「ご不満のようですが、我らも命を受けておりますので、引き下がるわけにはいきません。どうか、一緒に来ていただきたい」
再び前に出た方が、口を開いた。
「嫌だ」
間髪容れずにレディは答える。彼らの願いなど、絶対に聞き入れたくなかった。
「あいつのところにはもう戻らない。そう決めたの。だからもう関わらないで」
彼女としては、何が何でも自分の意見を変えるつもりはなかった。あの男のもとで体験した日常は、到底我慢の出来ないものだったからだ。他人に支配され、いいように扱われる毎日に、一体誰が幸福を見出すだろう。
「そう仰るだろうと、お父上からも伺っております」
男の次の言葉を聞いて、彼女はゾッと戦慄した。あの男は自分の反応なんて、とっくに予測済みだったのだ。猛烈な恐怖感と嫌悪に、鳥肌が立つ。
「ですので、力づくでもお連れするようにと」
男たちは淡々と宣言し、レディの方へ詰め寄ってきた。朧げに分かってはいたことだが、彼らは彼女の意思を尊重するつもりなど、毛頭ないらしい。何をしてでも、彼女を無理矢理連れて行く気なのだ。あの、残虐な父親のところへ。
「触らないでっ!」
それだけは避けなければ。レディは反射的に拳を振るい、男の一方の鳩尾を強く殴り付けた。急所を打たれた彼は、低い呻き声を漏らし、その場に崩れ落ちる。レディは即座にもう一人へと体を向け、黒い革靴の爪先を思い切り踏みつけてやった。再び男の情けない苦悶が響き、彼女は隙を突いて駆け出す。少しでも身軽になるため、鞄を放り捨て階段を一気に駆け降りた。だがそこへ、立ち塞がるように別の黒服が現れる。あらかじめこうなることを想定して、どこかに潜んでいたのだろう。レディは苛立ち、手すりを掴むと自分の両足を持ち上げた。階段を登ってくる男の顔面目掛けて、飛び蹴りを食らわせる。男は口を開け、驚愕の表情を浮かべたまま、転倒した。同じくレディも地面に転がるが、上手く受け身を取って、ダメージを軽減する。急いで体を起こし、逃げ出そうと足を踏み出した。
その時だ。
背中に何か、小さな金属製の物体が二つ、命中する。BB弾のようなそれに接触した瞬間、凄まじい電流が彼女の肉体を貫いた。
「っ……!!」
あまりの衝撃に、声も出ない。全身に麻痺が広がり、筋肉が弛緩する。彼女はそのまま、乾いた埃っぽい砂の地面へうつ伏せに昏倒した。
彼女の背後には、四人目の男が佇んでいる。手にしたテーザー銃で、レディを感電させたのだ。電極に繋げられたワイヤーが、伸び切って風に吹かれ、間抜けに揺れている。
「……行くぞ」
男は銃を仕舞うと、気絶したレディの体をひょいと持ち上げた。まるで、重さなんて感じていないかのように。
促された他の男たちが、めいめい攻撃を受けた箇所を押さえつつ、彼に従う。彼らは連れ立ってアパートの敷地を出ると、車のキーを押した。
それまで何もなかったはずの空間から、突如黒色のワゴン車が姿を見せる。窓は完璧なスモークガラスになっていて、内部の様子は全く分からない。男の一人が後部のドアを開け、ぐったりとしたレディをシートに座らせた。そして自分たちも素早く乗り込み、車を発進させる。後には、レディが手放したお気に入りのバッグだけが、中身の散らばった状態で残されていた。
* * *
「ってのが~、おいらの見立て。どーだった?」
再生していた映像を止めてから、女が無邪気な声で尋ねる。トワイライトのデスクの周りに集まって、画面を凝視していた一同は、緊張の解けた吐息を漏らした。
「かな~り詳しく再現してると思うけどなー。その場に残存した魔力反応から、各者の動きを算出して映像にしたの」
女はふざけた口調で、忙しない動作と共に訴える。
「うむ、助かるよ、ミモザ」
実際、彼女の作成した映像は、とても精巧に出来ており非の打ち所がなかった。トワイライトは重々しく頷いて、彼女の仕事ぶりを賞賛する。
「ん、どういたしまして!お礼は倍でいいよ、トワぽんっ」
「ははは、容赦がないな……」
ミモザは嬉しそうに笑って、さらりと遠慮のない要求を突き付けてきた。慎みという概念を忘れてきたかのような言動に、トワイライトは苦笑する。
「「トワぽん……」」
エンヴィスとレンキは彼のあだ名の珍妙さに戸惑って、呆然と繰り返した。ミモザの放つ気さくで親しげな空気に、どこか置いて行かれたような感覚だったのだ。
「あの、この方は誰なんですか……?ミモザ、さん?」
「あー、そういう堅苦しいの嫌いだから、おいら」
カーリもまた、彼女との接し方が分からず、困惑していた。二人にひそひそと問うた途端、ミモザ本人がくるりと振り返り、話しかけてくる。囁き声しか出していなかったにも関わらず、敏感に聞き取られて、カーリは仰天した。
「え?そういうのって……」
「だーから!名前だよ、名前!」
意味がよく理解出来ずにいると、ミモザは両手を広げ、焦ったそうに喚く。
「ミモザは敬称をつけられるのが嫌いなようでね。分かってやってくれないか」
あまりの剣幕にカーリが萎縮しているのを見兼ね、トワイライトが口を挟んだ。
「あ、はい……よろしくお願いします、ミモザ……」
彼から説明されたことで、カーリも多少は落ち着きを取り戻す。いきなり呼び捨てにする違和感を堪えながら、おずおずと頭を下げた。
「うんうん、よっろしくねー、カーリちん!」
ミモザはもう既に笑顔に戻っている。
「か、カーリちん……」
早速珍妙なあだ名を付けられたことに、カーリは愕然と呟きを漏らした。
「彼女は鑑識部の悪魔でね。私が刑事部にいた頃からの知り合いなんだ。今回無理を言って、捜査資料を一部共有してもらっている」
トワイライトの紹介を受けて、ミモザは得意げに唇の端を上げた。糸目が薄く開き、金色の瞳が姿を覗かせる。豊かな長い髪は、紫がかった艶を放っている。玉ねぎヘアと三つ編みを組み合わせた、複雑な髪型をまとめる組紐には、小さな鈴がついていた。纏っているのは、グレーのチェック柄のベストと、黒いタイトスカート。レトロなデザインのリボンブラウスも同じ黒色だ。ありきたりなOL風の装いだが、上から白衣を重ねることで、自らの所属を表していた。
「聞こえのいい言い方しないでよ。そんなの、ただ横流しを強要してるだけじゃない!」
レンキが険悪な表情で、トワイライトに噛み付く。
「まーまー、落ち着いてよ。えっとぉ……誰だっけ?」
甲高い声で喚き立てるレンキに、ミモザは両の掌を向けて宥めた。ニコニコと口角を上げ続けている彼女は、まるで物語に出てくる笑う猫のようだ。
「レンキです!情報分析部のレンキ!!」
話を遮られたレンキは、苛立ちの滲む口調で名乗る。どっと突風が吹いたような勢いに、ミモザも一瞬だけ気圧されたような反応を取った。
「おぉう……すっごい剣幕。よろしくね、レン兄」
「レン兄!?」
だが、即座に笑顔を取り戻すと、親しげにレンキの肩を叩く。一方的に距離を詰められて、彼は驚愕に目を見開いた。
「あのさ、レン兄。おいらは別に、トワぽんに何かを強要させられてるわけじゃないんだよねー。おいらが自主的にやってることというかー」
風変わりな一人称を駆使しながら、レンキの非難は的外れだと指摘する。彼女の突飛な行動に飲まれかけていたレンキは、慌てて我に返り反駁した。
「信じられるわけないでしょ!」
「信じてもらわなくってもいいよー。おいらはただ、親友のレディっちのことが心配なだけだからさ」
ところがミモザも平然と、彼に言い返していた。頭の後ろに手を回した軽薄な振る舞いとは裏腹に、声音は真剣で真面目な色を含んでいる。どうやら彼女は彼女なりに、友人の身を案じているらしかった。当然のことだ。
レディが行方不明になってから、今日で一週間が経つ。ちょうど、ロザリオとの一件があった日のことだ。
最初は誰も、事件だとは思わなかった。だが、彼女はこれまで一度も欠勤をしたことがないし、連絡一つ寄越さないのも不審である。念のためにと、トワイライトが彼女の自宅に赴いた結果、そもそも帰宅すらしていないことが判明した。おまけに、玄関前には彼女のバッグが落ちており、明らかな事件性を漂わせていた。そうして刑事部による捜査が開始され、今に至るというわけだ。
「それで、進捗はどうなんだ?」
エンヴィスが腕を組んだ姿勢で、ぶっきらぼうに質問する。ミモザはくるっと彼の方に向き直り、疲れたように嘆息した。
「まーだ全然なんだよねー、それが。手がかりゼロ。この映像が出来たのだって、ついさっきのことだし」
腰に手を当て、反対の手で肩を揉みながら、彼女は空いていた椅子にどっかりと座る。徹夜で作業していたのか、よく見ると目の下には濃いくまが出来ていた。
「この男たちだが、随分と動きに無駄がないな。手慣れているように見える」
しばらく黙り、映像を見返していたトワイライトが、おもむろに口を開いた。確かに、言われてみればその通りかも知れないと、カーリも考える。彼らの動作には、何度も同じことを繰り返したからこそ生まれる、滑らかさのようなものがある気がした。
「あ、おいらも思ったよー。もしかして、そのスジの悪魔たちの仕業なのかなー?」
ミモザも同意し、首を傾げて誰にともなく疑問を投げかけた。そのスジというのはつまり、いわゆる裏社会の、非合法的な活動を生業とする悪魔たちのことだろうか。何故そんな連中に、レディが狙われるのか。カーリの胸に、一層の恐怖と混乱とが走る。
「バルドーなら、もう少し詳しい見解を示すだろう。捜査本部が今後どのような方針を取るのか、分かり次第教えてくれたまえ」
トワイライトが机の上で手を組み合わせ、思案げな調子で告げた。バルドーというのは、確か今回の捜査本部の指揮者だったはずだ。トワイライトにとっては、かつての同僚でもあるらしい。
「りょーかい!そんじゃ、おいらは一眠りしてくるよー。まったね~、トワぽん!」
ふざけた敬礼と共に、ミモザはあっさり彼の頼みを承諾した。颯爽と歩み去る足取りは、眠気に駆られているとは思えぬ軽快なものだ。
「……個性的な方、でしたね……ミモザさん」
白衣の背が見えなくなった頃、カーリは無理矢理、愛想に近い感想を絞り出した。
「レディの友達って感じだったね」
維持していた沈黙を破り、ボール・アイも共感した。端的だが、これ以上ないほどに明快で納得のいく言葉だった。本人に意図はなかっただろうが、結果的に助け舟を出してくれた彼のことを、カーリは感謝の気持ちで抱き締めた。
「ねぇ、腹黒」
二人のやり取りなど聞こえていなかったという風に、唐突にレンキが切り出す。呼びかけられたトワイライトは、訝しげな瞳を彼に向けた。
「……アンタ、まだ黙っているつもり?」
レンキは彼に、苛烈で容赦のない質問を浴びせかける。直截な尋ね方に、そばにいるカーリたちの方が思わず驚くほどだった。
「……何のことでしょう」
「とぼけないで!!」
トワイライトはたっぷり数秒、考え込む間を空けてから、不思議そうに問い返す。直後、レンキの悲鳴じみた絶叫が上がった。
「アンタ、いい加減にしなさいよ……!本当は全て知っているんでしょう!?あの子に何があったのかも、あの子が何者なのかも!」
「え!?」
彼の言い分を耳にするなり、カーリは反射的に声を発する。
「れ、レンキさん!」
「この男から聞いたよ……アンタたち、一体どういうつもりなの?こんなの、どう考えたっておかしい。まともじゃないでしょうが!」
エンヴィスが止めに入るが、レンキは意に介さない。トワイライトに指を突きつけ、彼を糾弾し続けている。ロザリオ邸で、うっかり打ち明けてしまった自分の過ちを、エンヴィスは呪った。
「信っじられない!!真実を隠して、虚偽の報告を上げるなんて!!」
「……トワイライトさん……」
一息に捲し立て、肩を上下させるレンキの傍で、カーリは困惑に眉を寄せていた。何が起きているのか、まるで理解が追いつかない。
「全部知ってるって……レディの正体って、何なの?」
ボール・アイまでもが、呆然とした声色で、彼に問いかけていた。
皆の視線が集中するのを感じても、トワイライトは唇を引き結んだまま。彼が今何を考えているのか、誰にも分からなかった。
「お前たち……あのな」
張り詰めた空気を和らげるためにか、エンヴィスが代わりに口を開く。だが、それをトワイライトは片手で遮った。
「いいさ、エンヴィスくん。私から説明しよう」
「トワイライトさん……」
「どの道、いずれ話さねばならぬ時が来るとは分かっていた……今が、その時なのだよ」
不安げな眼差しを注ぐ彼に、トワイライトは淡々と応じる。独り言のようにぼやいた声は重々しく、彼の深い思慮が織り込まれていた。
「だが、少々ややこしい話でね。理解してもらうために、まずは最初から始めようと思う……」
彼が語り出したのは、レディという悪魔との出会いのエピソード。そして現在に至るまでの、時系列に沿った記憶だった。
* * *
その日は、単独脱界者対策室が発足してからちょうど一年が経過した、記念すべき日だった。仕事を終えたトワイライトは、唯一の部下であるエンヴィスと共に、ちょっとした祝いの席を設けていた。といっても、たった二人しかいないチームなのだから、行事とも言えない。結局、いつも通りに愚痴を交わし合いながら、ただ酒と料理とを楽しむだけの時間だった。
店を出た後、先に気が付いたのは、一体どちらだっただろうか。車道を挟んで反対側に、数人の男女が屯している。正確には、男二人と女一人だ。三人とも若者らしい、派手な服装をしていた。どうやら男たちは、数の有利を活かして女に迫っているらしい。傍目にも分かるほど強烈に、揉め事の雰囲気を漂わせていた。通行人たちは、誰も止めない。この辺りは治安も悪く、比較的暴力沙汰が起こりやすいため、皆見て見ぬふりをしているのだ。
「エンヴィスくん」
「はっ」
指示されるまでもなく、エンヴィスは動き出していた。車と車の隙間を見つけ、素早く体を潜り込ませる。トワイライトも後を追おうとした。その時だ。
男の一人が、女の腕を掴んだ。スキンシップのような、軽い接触ではない。明らかに力任せな、乱暴な動作だ。
「おい!何やってんだ!!」
エンヴィスが咄嗟に、大声を出して彼らを恫喝する。行き交う車のエンジン音にも負けない怒号は、はっきりと男たちの耳に届いたようだ。驚いた様子で、女に近付いていた男がこちらを振り返る。直後、女が足を振り上げ、ハイヒールの踵で思い切り彼の股間を蹴った。もう一人の男にも、鳩尾に拳を叩き込む。瞬く間に、大の男二人が路上に寝転ぶこととなった。
「な……っ!?」
「えぇ……」
ようやく辿り着いたトワイライトとエンヴィスは、崩れ落ちた男たちの姿を見て、引き気味の音吐を漏らす。
「何、オジサンたち」
一人屹立する女が、ギロリと鋭い目つきで二人を睨め上げた。その手が未だ拳を握っているのに気付き、エンヴィスは内心で警戒を強める。
「君を助けようと思ったんだよ。何やらお困りのようだったからね……だが、必要なかったかな」
トワイライトがすかさず前に出て、剣呑な空気を纏う部下を女の視線から隠した。ちらりと一瞥だけ向けられた瞳には、抑えろと書いてあるかのようだ。
「別に。こいつらぐらい、簡単に蹴散らせるし。お節介なんてしないでよ、オジサン」
女はぷいっと顔を背けて、腕を組んだ。容易く心を開くつもりはないと体中で示している。
「お前なぁ、そういう言い方……」
「何?あんたたちこそ、助けるふりしてアタシのことナンパしようとしてたんじゃないの?」
見かねたエンヴィスが口を挟むが、彼女はそれすらも拒絶し、一層睨みを利かせてきた。
「はぁ!?そんなわけないだろ!」
「ふんっ、どーだか」
ただの善意で、他意はなかったにも関わらず、言いがかりを付けられる筋合いはない。彼女の無礼に、エンヴィスは鼻白み、不快感を表した。だが女は軽く鼻を鳴らしただけで、彼に取り合おうともしない。
「じゃあ証明してみせてよ。あんたらがこいつらと違うって証拠!出してみてよ」
それどころか顎を上げた高慢な調子で、指を突き付けられた。
「お前……!」
「ふむ。これでいいのかい?」
挑発に乗せられ、エンヴィスの思考がじわじわと怒りに染まっていく。トワイライトは機転を効かせて、彼を軽く肘で押し退けた。懐から取り出した職員証を女に見せる。魔界府中央庁舎所属、警察部門の文字列が、きちんと読めるように。
「……!」
途端に、女の顔色が変わった。青褪めた、というより病的な白さへ。
「どうかしたのかい?」
豹変を機敏に察知して、トワイライトは尋ねかける。彼女は答えない。その余裕もないのだろう。
「嘘でしょ……そんなとこまで……」
息を詰まらせ、冷や汗をかいて、何事かを呟いている。
これはただ事ではない。トワイライトほどの観察眼を持たない者でも、気付くはずだ。
「何か、あったのかな」
相手の顔を覗き込むようにしながら、トワイライトは一歩踏み出す。片腕をさりげなく伸ばし、女の背後に回した。セクハラかも知れないが、逃亡を阻止するためなら致し方ない。
「話、聞かせてくれる?」
そのまま肘でも掴もうかと思った矢先。女がいきなり体勢を変え、彼の手を振り払った。あまりの強い力に、トワイライトはかすかにバランスを崩す。女はその隙に彼の体を突き飛ばし、一目散に逃げていった。
「うっ……!」
「トワイライトさん!」
不意打ちを受けた彼は、後方のビルの壁へと衝突する。後頭部をぶつけ、ゴンと鈍い音が鳴った。エンヴィスが駆け寄ってこようとするのを、何とか押し留める。
「彼女を……」
ところが、彼女の姿はもはやどこにもなかった。周囲には、夜の暗闇があるばかりだ。
「すみません……大丈夫ですか?」
エンヴィスは申し訳なさそうに謝罪を紡ぐ。
「あぁ……問題ない。少々面食らっただけだよ」
トワイライトは頭をさすりながらも、平気だと応じた。しかしこれは、防御系魔法に長けたトワイライトだからこそ出来たことだ。女は恐らく、強化系魔法のかなりの手練れだ。あの逃げ足の速さについていくことはほぼ不可能だろうし、仮に追いかけたとしても、返り討ちに遭う可能性が高い。むしろ諦めた方が賢明だった。地面に伸びている二人の男には、救急車を呼ぶべきだろう。
「あの女、何者だったんでしょうかね……」
彼女の消えていったと思しき方角を眺め、エンヴィスが呟く。表通りからの光がかろうじて届く路地には、何か尖った物を強く打ち付けた跡が点々と刻まれていた。トワイライトの脳内には、あのヒールの女が高速で、ごみごみしたビル群を掻い潜っていく映像が生成される。
「さぁねぇ……だが案外、またどこかで出くわすかも知れないね」
ぼんやりとこぼした彼の言葉が実現したのは、早いことに翌日だった。
* * *
いつも通り出勤すると、トワイライトの耳に刑事部の悪魔たちの噂話が流れ込んできた。どうやら、昨日深夜に補導された少女が、ここ中央庁舎にまで回されてきたらしい。たかが通行人と喧嘩をしたくらいで、交番から案件が上がってくるなど、前代未聞の珍事だ。
興味を惹かれたトワイライトは、かつての職場、刑事部捜査一課に足を運んだ。部長になったシュハウゼンは、昔と変わらぬ態度で彼を迎えた。詳しい事情を聞いたトワイライトは、その少女とは、昨夜出会った悪魔であることを知る。
「じゃあさ、トワちゃん、取り調べやってみる?」
「……はいっ?」
彼の告白を聞いたシュハウゼンは、さも名案とばかりに目を輝かせて、提案した。トワイライトの驚きにも構わず、楽しそうに話し続ける。
「知り合いなんでしょ?あの子、名前も言わないんだよねー」
彼はともかく、基本的に悪魔というのは、自分たちのテリトリーに部外者が侵入することを嫌う傾向がある。既に刑事部を去って久しい自分が、今更取調室に立ち入るなど、まさしく逆鱗に触れる行為となるだろう。余計なトラブルを抱えたくないトワイライトは、どうにかして危機を回避しようとした。
「いえ、昨晩少し話しただけですし、知り合いというほどでは……」
「まぁま、そんなこと言わずにさ。助けてよ。トワちゃん、取り調べ得意だったもんね?」
だが、シュハウゼンがこちらの言い分に耳を傾けた試しはない。
「あの子さー、何聞いてもずっと黙秘ばっかりだし、突然キレて殴りかかってくるしで、厄介なんだよねー。正直、猫の手も借りたいくらい……優秀なトワちゃんだったら、何か聞き出せると思うんだよね!」
「あの、シュハウゼンさん」
「はいはい!そうと決まったら早速行動~!」
強引に肩を掴まれ、バシバシと叩かれる。横暴なシュハウゼンは彼に反論の時間を与えないどころか、その沈黙を肯定と見做した。トワイライトは彼に引き立てられて、無理矢理に取調室へと連れて行かれる。
取り調べ用の部屋が並ぶ廊下には、数人の悪魔たちが待機していた。彼らの視線が集中しているドアを通して、男の話し声が聞こえてくる。かと思えば、誰かが争っているような、騒々しい音が鳴り響いた。どうやら、突然キレるというのは本当のようだ。そしてそれは、かなりの頻度で起きているらしい。
「君たちどいたどいたー。選手交代するから、このトワちゃんに」
騒音の具合から、加勢しようかどうか図っている男たちを、シュハウゼンは鶴の一声で退けた。たちまちに、彼らの間にどよめきが広がり、無数の好奇の視線がトワイライトを貫く。彼は首を竦め、その場を立ち去りたい衝動に駆られた。しかし、肩に置かれたシュハウゼンの手が、邪魔をしていて動けない。どう言い訳すべきか思案している内に、彼は金属製の扉の向こうに放り込まれていた。
「じゃ、僕隣にいるから。頑張ってね~」
「シュハウゼンさん!」
慌てて振り返った時には、もう遅い。扉は外側から施錠され、トワイライトは閉じ込められてしまっていた。
「はぁ……」
相変わらず、話を聞かない悪魔だ。トワイライトは一つ溜め息をつき、改めて室内を見回した。
といっても、さして特別なところはない。普通の取調室である。奥の壁には格子の嵌まった小窓があり、左手の壁には巨大なマジックミラーが取り付けられている。シュハウゼンと他数人の悪魔たちが、今もこちらを窺っているはずだ。右手の壁には、記録係の座る椅子と机が置かれているが、二人きりでは使う機会もないだろう。部屋の中央には真四角のテーブルと、パイプ椅子が向かい合わせに配置されていた。窓側の席に、だらけた姿勢で少女が座っている。やはり、昨日見かけた悪魔だ。露出の多い派手な服装も変わっていない。あまりに抵抗するからだろうか。容疑者でもないはずなのに、彼女の手首には手錠がかけられていた。魔法の行使を封じるだけのアイテムで、拘束力には欠ける代物だ。逮捕状のない相手は拘束出来ないという法律があるから、皆苦戦しているのだろう。
「あんた……!」
トワイライトの顔を認めると、少女は驚愕した様子で目を見張った。天板の上に投げ出されていた腕が動き、取り付けられた手錠がかちゃりと音を立てた。
「やぁ……覚えていてくれたとは。光栄だね」
警戒を抱かせぬよう、トワイライトはあえてゆっくりとした歩みで進む。空いている方のパイプ椅子に、慎重に腰を下ろした。
「別に。昨日会ったばっかだし、忘れる方がおかしいでしょ。そのだっさい服も目立つし」
接近されたことに嫌悪を覚えたのか、女は椅子の背もたれに深く体重を預け、仰け反るような姿勢を取る。あからさまに視線を外す仕草は、昨夜と同じく、心を開くまいと躍起になっているようだった。新調したばかりのスーツを酷評されて、トワイライトは苦笑する。確かに、軍政部時代の栄光をこれ見よがしに飾った服は、自己顕示的ではあるだろう。
「ははは、それもそうだね……私も、まさかここまで早く再会出来るとは、思わなかったよ。偶然とは不思議なものだ」
罵倒を軽くあしらって、おもむろに足を組み替える。何気ない風を装いつつ、油断のない眼差しで相手を観察した。
一見するとごく凡庸な、いわゆるギャル的格好だ。肩より少し長いくらいの金髪に、謎の英字がプリントされた白いTシャツと、半袖の赤いパーカー。ベージュ色のホットパンツからはすらりとした長い足が伸び、赤いハイヒールを引き立てている。だが、そのどれもが泥や埃で汚れ、髪も酷く傷んでいた。素肌の部分には、かすり傷がついているところもある。もしや長い間、野宿生活でも送っていたのだろうか。
「……何」
存外に勘がいいらしい。見られていることを感じ取ったのか、少女が昨夜と同じ目つきで睨み付けてきた。視線から身を隠すように腕を組んだ際、パーカーが彼女の薄い肩を滑り落ち、上腕部を露わにさせる。襟ぐりの伸びたTシャツからは、下着のストラップがはみ出ていた。トワイライトは実に紳士的に、さりげなく目を逸らす。
「……オジサン、もしかしてアタシの体に興味あんの?」
ところが、この少女は本当は聡い悪魔だったようだ。機敏にトワイライトの行動の変化を察して、挑発するような声を投げかけてくる。それどころか、腕を体の前で交差させ、胸元を強調するポーズまで取って、腰をくねらせ始めた。
「勘弁してくれ……」
トワイライトは今度こそ体ごと向きを変え、深く息を吐き出した。
「あれ?どしたの?ホントに嫌そうじゃん」
がっくりと項垂れる彼を見て、レディは意外そうに首を傾げる。男を侮蔑したような物言いに、不快感を抱かないでもなかったが、彼は大人だ。感情をありのままに表に出すような、幼稚な行いは出来なかった。
「当たり前だろう?君はまだ子供だ。取り調べるべき相手でもある。そんな相手に、一体誰が愚かしい真似をすると?」
「ちょっと。アタシもう子供じゃないし。成人してるよ」
苦い声音で返すと、女は頬を膨らませ、文句をつけてくる。
悪魔たちの法では、50歳を超えたら成人であることが定められている。だがトワイライトには、眼前にいるこの少女が50歳以上だとは、とても思えないのだった。
「はっはっは、嘘はやめたまえ」
「嘘じゃないってば!」
あえて仰々しく笑い飛ばせば、彼女は声を荒げて言い返してきた。子供扱いされたことが、よほど癪だったらしい。彼女の眉間には皺が刻まれ、目尻は吊り上がっていた。
「ならば証明してくれ。君が成人であると示す証拠を出せばいい。身分証か何か、持っていないのかね?」
「むっ……」
トワイライトは片手を広げて、彼女に問う。少女は促されるままに、膝に乗せていた小さなバッグを取り出し、中身をゴソゴソと漁った。トワイライトは微笑ましさを堪えながら、彼女の動きを見守る。
突然、女がハッとした様子で手を止めた。
「オジサン……もしかして、アタシを誘導した?」
こちらを睨む瞳には、怒りの色が滲んでいる。トワイライトは何食わぬ顔で、肩を竦めた。
「おや。気が付かれてしまったか。残念だ」
その通りだ。わざと疑い、不満を煽れば、自ら身元を明かしてくれると踏んでいた。実に自然に導いたつもりだったが、頭のいい彼女には通用しなかったようだ。
「なっ!?」
罠を看破されても尚、ふてぶてしい態度を貫く彼に、少女は非難の視線をぶつける。
「馬鹿にしないでよ、オジサンのくせに!!」
彼女が勢いよく立ち上がると、その膝裏に押されたパイプ椅子が、けたたましい音を立てて倒れた。マジックミラー越しに、刑事部の悪魔たちがどよめいている気配が感じられる。しかしトワイライトはあくまでも冷静に、腰を下ろしたまま少女を見上げていた。
「……一つ言っておくが、私の名前はオジサンじゃない。トワイライトだ」
「そんなのどうでもいい。アタシをここから出して」
淡々とした訂正を、少女は簡単に一蹴する。彼女の声には意図した抑えが働いており、自制しようと必死になっていることが分かった。
「残念だが、それは無理だ」
「っ!どうして!?」
トワイライトの方は本心からの落ち着きで、彼女の要求を拒絶する。案の定、少女は即座に噛み付いてきた。
「相手の言い分も聞かないで、自分の望みだけ叶えようだなんて、都合が良過ぎるだろう?頭のいい君なら、分かるはずさ」
全てはギブアンドテイク、取引だということを、聡明な彼女が理解していないわけはない。そう言いたげに、信頼と評価を提示する形で呼びかける。これで宥められればと願ったが、作戦は失敗した。
「うるさい!いいから放っておいてよ!アタシに構わないで!!」
むしろ一層焦った調子で、金切り声を響かせる。
「アタシは、こんなとこにいられないの!早く行かなきゃ……!」
まるで自分の姿を隠そうとしているかのように、少女は自身の腕で頭を覆った。
「……ふむ」
トワイライトはテーブルに片肘をついたまま、じっと彼女を観察していた。
「な、何……」
興味深そうな呻きを漏らす彼に、少女は訝りの眼差しを向ける。空色の瞳が自分を捉えるのを待って、トワイライトは口を開く。
「君は、怯えているな?いや、怖がっていると言うべきか」
「!!」
びくりと、少女の体が震えた。というよりも、雷に打たれたかのように激しく痙攣する。
「な、何言ってんの、オジサン……」
慌てて普段通りに振る舞おうとしているが、上手くいっていない。取り繕っていることが、あまりにも明らかだ。
「何が君を脅かす?狙われているのか?誰かに命を……それとも、身柄か?」
動揺を表した相手に、トワイライトが慈悲をかけるはずがない。彼は更に鋭く切り込み、少女の最も触れられたくない話題に踏み込んだ。彼の口から短い問いかけが連続して放たれる。その度に彼女は、全身を強張らせて恐怖していた。
「……っ」
「君はどこかから逃げてきた。理由は分からないが、そこにいると君にとって良くないことがあるのだろう……そして、相手の目を掻い潜るため、何日もホームレス同然の生活を送っていた」
彼はゆっくりと立ち上がると、弧を描きながら室内を歩き回る。そうして自身の見解を述べつつ、少女の反応を窺った。
「……違うかな?」
確認という形での、とどめの一撃。少女の目を真っ直ぐに見据えて、最後の一手を指す。ここまで見事に図星を突かれ続けた後で、全てを否定する演技を保つというのは、案外難しいものだ。実際に少女も、視線を忙しなく左右に彷徨わせ、頬に冷や汗を伝わせていた。もう何もかもを話してしまおうかと、心の内で葛藤しているようだった。
「ち、違うっ!全然違うから!!」
しかし、ギリギリのところで誘惑を跳ね退け、首を打ち振った。彼女はやはり、相当の精神力の持ち主のようだ。
「勝手なこと言わないでよ!そんなの、全部ただの推測じゃん!!」
金髪を振り乱して叫び、握り締めた拳を強く叩き付ける。どんっと重い音と共に、トワイライトの胸部に衝撃が走った。だが、昨日のように、痛みに顔を歪めるほどではない。踵に多少重心を移すだけで、簡単に踏み留まることが出来た。あらかじめ彼女に手錠をかけておいてくれた、刑事部の悪魔たちに感謝する。
「あぁ、そうさ。真実は、君が語るまで分からない」
思ったよりトワイライトが平気そうにしているからか、少女は自らの拳を信じられないとでも言いたげに凝視している。そこに、トワイライトの沈着な声が投げかけられた。
「だが、無理に聞き出そうとも思わない。私は真実を知るために、ここにいるわけではないからね」
「えっ……」
優しく丁寧に語りかけると、少女は意外そうに目を丸くした。この部屋に来る悪魔たちは、皆無理矢理話をさせたいものと思い込んでいたらしい。事実、その考えも間違ってはいないのだが。
「私は、君を助けたいんだ。お嬢さん」
トワイライトは彼女に向かって、滑らかな仕草で手を差し伸べる。完全なる打算というわけではなかったが、今回は味方であることのアピールが得策だと判断した。
「君が何者であれ、困った状況に置かれているのなら、そこからの脱却を手助けしてやりたいと思っている。もちろん、君を追っている者たちに、君の情報を売るようなことは決してしない。君が望むなら、しかるべき施設での保護を手配することも出来る。我々警察部門とは、君たち市民を守るためにいるものだからね」
流暢に喋り続ける彼を、少女は口を半開きにしたまま見上げている。差し出されたこの手を取るべきか、否か、必死に悩んでいるようだ。相手を信じたいという思いと、疑心暗鬼とが脳内でぶつかり合い、拮抗していることが伝わってくる。
「無論、断りたければそれでも結構。全ては君次第だよ」
彼女の内心を見透かしたトワイライトは、次の段階に移行することにした。簡潔に言えば、飴と鞭。親身に寄り添う姿を見せた後、打って変わって突き放すのだ。圧力をかけることで、相手を焦燥させ決断を促すのである。
「我々と共にいれば、いつか必ず真実に向き合わねばならない時が来るだろう。それが嫌なら、大人しく家に帰るがいい。引き留めはしないよ。まぁ……その場合は、後で君の身に何が起ころうと、助けてやることも出来ないがね」
彼女は己の自由意志で決めなければならないのだと、表向きは親切に、しかし裏には狡猾な狙いを含ませる。ここで断り、彼らとの関係を絶ったら、彼女は一人だ。もしも彼女の想定する最悪の事態が起こった時、彼女は独力のみで対処することを迫られる。果たして、それだけの自信があるか。何にも信用を置けず、情緒の安定性を失っているこの少女に。
トワイライトは密かに、値踏みするような眼差しを彼女に注ぐ。少女は唇を噛んで俯き、その場に立ち尽くしていた。バサバサに傷んだ金髪が、前に垂れて彼女の汚れた顔を隠している。トワイライトは強いて追い打ちをかけることもなく、少女の決断をただ待っていた。
「……帰る家、なんて……もう……とっくにないよ……」
やがて、彼女の薄い唇がわずかに開く。大して機能していない空調機の駆動音にさえかき消されそうな、ごく小さな声が、こぼれ落ちる。
「そうか。なら、どうする?」
それを耳聡く拾ったトワイライトは、真顔を維持しつつ相槌を打った。腕組みをして、下を向いたままの彼女を覗き込もうとした途端。少女がばっと顔を上げる。
「助けて、オジサン!アタシを匿ってよ、あいつらから!」
彼女の眦には涙が浮かび、手はここではないどこかの誰かを誹るように指している。どうやら彼女は、誰をも信じず一人で戦い抜く道より、頼れる誰かに助けを求める方を選んだようだ。トワイライトは何も言わず、胸に縋り付き濡れた頬を押し付けてくる子供を、そうっと引き剥がす。彼女の姿からは、もはや警戒心も猜疑心も、一切感じられなかった。
「……分かったよ。そういうことなら、お任せあれ、だ。お嬢さん」
セクハラと誤解されないかヒヤヒヤしつつ、彼女の肩に手を置いて一つ頷く。見る者を安心させるような穏やかな笑みと、優しげな声音に、少女は心底安堵して息を吐いた。目元を乱暴に擦り涙を拭き取ってから、鼻声混じりの掠れ声で呟く。
「レディ」
「ん?」
「アタシはレディ!お嬢さんじゃないから」
小首を傾げ聞き返したトワイライトに、レディは胸を張って宣言する。堂々とした不遜な態度を取り戻し、さも当然のように手を伸ばしてきた。
「覚えておいて、トワイライト”オジサン”」
それはまるで大人同士の交流を見様見真似で再現しているような、滑稽さのある動作だった。さっきまで涙を落としていた割に、今は何事もなかった風に眉を吊り上げ勝気に笑っている。その子供じみた大胆さと挑戦的な表情に、トワイライトは思わず吹き出した。
「ふっ……よろしく頼むよ、レディくん」
好意の印とばかりに、胡散臭いと評判の笑顔を作り、応じる。硬い握手を交わす二人のもとに、ドアを開けて数人の刑事たちがやって来た。彼らはレディの手首から手錠を外し、彼女は晴れて自由の身となったのだった。
シュハウゼンに経緯を報告したトワイライトは、その足で彼女を警察部門の提携している病院へと送り届けた。保護など何らかの手続きを取るためには、まずは健康状態を確認しておかねばならないのだ。
エンヴィスに魔法で通信を飛ばし、現地で会うことを伝えてから、中央庁舎を出てタクシーを拾う。レディは窓に張り付いて、過ぎ行く景色や他の車の流れに、じっと見入っていた。
「しかしまぁ、良かった」
「何が?」
唐突に話しかけると、彼女は素早く振り向いて尋ねる。きょとんとした丸い瞳は、社会の暗闇を何も知らない無垢な少女そのものだ。トワイライトは窓枠に肘をついて、同じように周囲を眺めながら、答える。
「君が残ってくれて幸いだという意味だよ。あそこで帰ると言われていたら、私は君を勾留しなければならないところだったからねぇ……そんなの、面倒じゃないか」
「なっ!?」
彼のとんでもない自白を聞いたレディは、即座に目を見開き愕然とした。頭で考えるよりも先に、口から勝手に声が飛び出す。
「じゃあオジサン、最初からアタシを帰すつもりなんてなかったってこと!?」
「当然じゃないか。何も話そうとしない相手を、警察部門がタダで開放すると思ったかい?」
糾弾されても、トワイライトはまるで意に介さない。痛くも痒くもないと言うように、こちらを見つめ続けている。
「サイッテー!!」
「結果的にはそうならなかったんだから、いいじゃないか。君はここに残るんだろう?」
「そういう問題じゃないっ!!」
心からの罵倒をぶつけられても尚、適当な弁解を繰り返す彼に、レディは金切り声を上げた。そのままの勢いで再び窓の方を向き、不貞腐れる。
「騙すなんて酷いよ……オジサンのこと、少しは信じてあげようと思ったのに……!」
景色に気を取られているふりをして、顔を背けた状態で呟く。本当はただ、見られたくなかっただけだ。打ちひしがれ、悲しみに歪んでいるこの表情を。
裏切られたと感じ、強く心を痛めている彼女を、トワイライトはどこか穏やかさのある瞳で見遣る。
「そう簡単に、他人を信用する者ではないよ。特に、私のようなオジサンが相手なら、尚更ね」
口から飛び出した声音は想像より優しく、言い含めるようなニュアンスを持っていた。自身の意外な一面に驚くトワイライトだったが、当然レディには分からない。
「ハァ?何それ、嫌味?」
「ははははは!」
情け容赦なく睨みつけてくる彼女の気概に、彼は何故か胸を打たれ、タクシーの中で大きな笑い声を弾けさせた。
* * *
「はぁ、はぁっ……全く、何がどうなってんだ!」
魔法一つでいきなり呼び出されたエンヴィスは、走っていると認識されない速度で病院内を移動していた。事態をまるで把握出来ないことに対する苛立ちが、無意識に口からこぼれ落ちる。
エスカレーターを駆け上がり、受付係に指示された通りの道順を辿ると、曲がり角の先にトワイライトが立っていた。壁にもたれかかって腕組みをし、目の前のスライドドアを見つめている。室内には恐らく、例の少女がいるのだろう。
「トワイライトさんっ!」
エンヴィスが名を呼ぶと、彼はすぐに顔を上げ、片手を上げて合図を送ってきた。彼のもとに辿り着いたエンヴィスは、息を整えることもせず、単刀直入に尋ねる。
「どういうことですかっ。刑事部の連中と手を組んで、何をするつもりなんです?」
「おや、酷い言い草だねぇ、エンヴィスくん……まるで私が、何かを企んでいるようじゃないか」
詰問の色を機敏に感じ取ったトワイライトは、不敵な笑みを浮かべ、わざとらしくはぐらかした。いつもの、語りたがらない時の彼のやり口だ。意図的に相手への疑いを言葉にして射抜き、もったいつけた否定を乗せて突き返す。だが、もう何度もやられたその手段に、もう一度土をつけられるエンヴィスではない。
彼は肯定も否定もせず、じっとトワイライトを見据えた。この男と共に働く内、無言ことが何よりの返答になることも、圧力になることも学んでいる。舌戦になったら、絶対に自分が負けるだろうことも。
「……分かったよ。正直に話そう」
彼からの追及を逃れる術はないと気付いたのか、トワイライトは一度ぐるりと目を回し、肩を竦めて降参のポーズをする。そして、指を一本立てて、彼に向かって頷いた。
「ま、実際のところ、君の見解の半分程度は、当たりだ」
「どういうことですか?」
「彼女は何者かに狙われている。それも……かなり面倒な相手に」
再び問い返すエンヴィスに、低めた声音で端的に告げる。特に、間を置いてから放たれた一言に、彼は驚愕した。
「何ですって!?」
思わず大声を出してしまった直後、周囲から咎めるような眼差しが飛んでくる。エンヴィスは慌てて声量を落とし、だが決して語調は変えずに、トワイライトを非難した。
「ならどうして、そんな女を保護したんです!確かに、放っておくのは可哀想かも知れないが……だからって、私たちがガードマンを買って出る必要はないでしょう!」
仮にトワイライトの話が本当だとすれば、彼女に関わることは自分たちの危険にもなる。その面倒な相手とやらに目をつけられることとなるのだ。それが分かっていて、飛び込む理由はないと、エンヴィスは拒絶した。
「だがね、エンヴィスくん」
彼をどう説得したものかと、トワイライトは思案する。その時、レディのいる病室のドアが開き、中から医師と看護師が数人出てきた。エンヴィスが素早く彼らに歩み寄り、話を聞き出す。本心では反対しているくせに、こういうところでは率先して動いてくれるのだから、よく出来た部下である。
「健康状態は、全く問題ありませんでしたよ。怪我も通常の医療用ポーションで治癒出来ましたし。ただ、少し栄養が足りていないので、食事には気を遣っておきます」
「彼女に会って、話を聞くことは可能ですか?」
「えぇ、もちろんです。ですが、レディさんは強化系魔法にお強いようでして……力加減を上手く出来ないことがあります。近付く際は十分に注意なさってください」
主治医と思しき男は、口調こそ静かだったが、表情は引き攣っており、怯えの念が浮き出ていた。まるで彼女を、猛獣か何かだと捉えているように。
「分かりました。ありがとうございます……トワイライトさん、行きましょう」
無礼な態度に、エンヴィスは一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに平常を取り戻し、トワイライトに視線を遣った。
「何?まだ何かあんの?……って、オジサンじゃん!!」
彼と共に病室に入ると、即座にレディの声音が耳に飛び込んでくる。彼女はベッドに足を伸ばして座って、雑誌を読んでいた。薄青い入院着の上から、例の赤いパーカーを重ねている。医師たちが戻ってきたものと勘違いしたのか、初めは不満だったが、相手の姿を確認すると嬉しそうに破顔した。
「さっきぶりだね、レディくん」
トワイライトは彼女のそばまで歩み寄り、にこやかな笑顔で語りかけた。
「オジサンって……」
隣に立つエンヴィスは、対照的に不愉快そうにしている。昨夜のこともあって、元々レディに好印象は抱いていないのだろう。それに加えて遠慮のない呼び方をされたことが、一層苛立ちを煽っているようだった。
「オジサン、誰?こっちのオジサンは」
ところがレディは、エンヴィスの纏う険悪な雰囲気も気にせず、あっけらかんと尋ねかけた。
「オジサンって……!」
エンヴィスがまたもや、先ほどより若干強い調子で呟く。彼の瞳は怒りに揺らいでいた。
「紹介するよ。私の部下の、エンヴィスくんだ。君も、昨夜会っただろう?」
トワイライトは素早く片手を上げ彼を制してから、何食わぬ顔で口を開いた。
「へー、あん時のうっさいオジサンか……ってゆーか、意外。トワイライトオジサン、部下とかいたんだ」
レディは彼の言葉をさも興味なさそうに聞き流し、じろじろと二人を眺め回した。礼儀というものを全く知らない不躾な言動に、エンヴィスの我慢もとうとう限界を迎える。
「あのなぁ……!お前、いくら何でも失礼過ぎるぞ。大体、俺はまだオジサンって歳じゃ」
「お前じゃない」
「ない……って、はぁ?」
彼女に詰め寄り、説教を始めようとしたところで、レディの呟きが割り込んできた。エンヴィスは話を途切れさせて、彼女の顔を見つめる。
「アタシの名前はお前じゃない!オジサン、話聞いてなかったの?」
彼が口ごもったのをいいことに、レディは勢いよく目線を上げ、エンヴィスを睨み据えた。断固とした口調には、強い決意と憤懣とが込められている。
「な……っ!?」
ついでとばかりに、小馬鹿にするような質問を添えられ、エンヴィスは衝撃を受けた。まさかこんな少女に、罵倒されるとは思わなかったのだ。理不尽な現実に憤りが芽生えてきて、頭が煮え立ちそうだ。
「まぁまぁ、その辺にしておいてくれ、レディくん。彼も悪意があるわけじゃないんだ」
エンヴィスが何かを言う前に、トワイライトは実に滑らかな動作で、するりと二人の間に割って入る。両手を下に下ろすような仕草で宥めようとしたが、残念なことにあまり効果は生まれない。
「嫌だ。アタシ、このオジサン嫌い」
と言うのも、レディが無慈悲にエンヴィスを指差し、はっきり拒絶したからだ。
「何だとぉ!?」
当然、エンヴィスも応じて眉をキツく吊り上げる。
「は、はは……」
仲裁に失敗したトワイライトは、ただ苦笑いを浮かべて、傍観していることしか出来なかった。そうしている最中にも両者は、バチバチと火花が散って見えるほど、互いを敵視し合っている。
「やっほー、トワちゃーん」
己の限界を、半ば諦観でもって受け入れていたトワイライトのもとに、かつての上司からの間延びした合図が投げ込まれる。振り向くと、スライドドアの隙間に巨体を差し込み、シュハウゼンが手招きをしていた。普段は鬱陶しくてならない相手だが、今回ばかりは救世主のようにも感じられる。トワイライトはさっさと、廊下に滑り出た。
「助かりましたよ、シュハウゼン部長。あなたが来てくださらなければどうなっていたことか……」
人気のない場所を探し、非常階段にまで移動してから、トワイライトは話し始める。
「何だか凄いムードだったねー。あの二人、相性悪いんだ?」
シュハウゼンは階段の手すりに腕を乗せて、長い足を遊ばせながら、楽しげに問いかけてくる。トワイライトは呆れたように首を打ち振り、答えた。
「そのようですね……レディくんは物怖じしませんし、エンヴィスくんも似たところがある。それでいて二人は正反対なのですよ」
「だからこそ、なんじゃない?きっと……っていうかさ、二人っきりにしといちゃっても良かったわけ?」
「そこはまぁ、彼も賢明な悪魔です。過ちを犯すようなことはないかと」
多少感情的な部分はあるにしろ、エンヴィスは十分常識的で、理性的な悪魔だ。たとえ子供同然の女に生意気を言われ嘲笑されたとしても、暴力的な手段を取るとは思えなかった。その程度の判断もつかぬ男なら、わざわざトワイライトが部下にするわけもない。自らの上司としての力量を疑われたように感じて、トワイライトは密かに不服だった。
「違う違ーう。そっちじゃなくて。あの女の子の方が、彼を殴ったりとかは?ってこと」
だが、シュハウゼンは軽く手を振って、それを否定する。
「それは……確かに……あり得るかも知れませんね」
彼の懸念は、今度こそトワイライトを閉口させた。実際、考えられることだ。エンヴィスに対して信用は置けても、レディに同等のものを覚えるわけにはいかない。つまり、彼女が何らかの理由で逆上し、エンヴィスを攻撃する可能性はあるのだった。無論、エンヴィスならば少しくらいは持ち堪えてくれるだろうが。
「大変だね。それじゃ、手短にいこうか。まず初めにだけど……」
トワイライトがかすかに顔を強張らせたことに気が付いたのか、シュハウゼンは本題を切り出す。とはいえ彼の口ぶりからは未だ、自分には関係ないことだという空気が漏れ続けていた。
「レディという名前の悪魔は、この魔界に存在しない」
彼の言葉は端的で、それ故の驚愕をトワイライトにもたらした。彼は弾かれたように顔を上げ、高い位置にある緑の瞳を凝視する。
「どういうことですか?」
「戸籍がないんだ。魔界府が管理している戸籍データベースに、レディという女悪魔は登録されていない。少なくとも、生きている状態では」
質問に答えるシュハウゼンの語り口は、いつになく明瞭さを欠いていた。何とも言えない微妙な顔つきで、額の角の生え際を掻いている。その仕草からは、困惑がはっきりと伝わってきた。もちろん、トワイライトも同感だ。
「彼女は、無戸籍児だと?」
出生届が提出されなかったことにより、戸籍を持たずに生きる悪魔は、一定数存在する。虐待やその他何らかの事情によって、魔界府の手からこぼれ落ちた彼らは、その後公的なサービスを一切享受せずに暮らすことを余儀なくされる。しかしながら、現在では法的な救済が整備されており、戸籍を得ることも可能になったはずだ。レディほどの年齢になるまで、無戸籍のままでいる悪魔など、ほぼ実在しない。少なくとも、魔界府の発表する統計の上では、そうなっていた。
だが、例外がいたということなのだろうか。トワイライトもシュハウゼンも、信じ難い思いだった。
「恐らくね……もしかしたら、既に死亡扱いされてるのかも知れないけど。その辺は鋭意調査中だよ」
口ではそう発しつつ、シュハウゼンはまるで希望を抱いていないようだった。
「あるいは、彼女が偽名を名乗っている可能性もありますが……」
「それだったら、データから調べるのは無理だね。流石のボクもお手上げだよ」
「でしょうね……」
トワイライトは苦し紛れに別の仮説を提示するが、シュハウゼンは両手を広げ、首を左右に振るばかりだ。
「それにさ、トワちゃん。どの説が当たりだったとしても、生じる問題は変わらないでしょ?」
まさしく、その通りだった。
戸籍がない、または名前か生死を偽っている。そのどちらも、彼女がまず普通の悪魔ではないということの証明にしかならない。理由が何であれ、彼女は警察部門に正体を知られまいとしているのだ。真っ当な生き方をしている悪魔ならば、そのようなことはしないはずである。
「分かりました。後で探りを入れておきましょう……」
軽率に、随分と深い泥沼に突っ込んでしまったものだと、トワイライトは落胆する。調べるべき事柄の多さと煩雑さを思うと、気力がどんどんと削がれていくのを感じた。
「それと、さっき主治医から面白い話を聞いた」
追い打ちをかけるように、シュハウゼンが新たな話題を振ってくる。嫌な予感がふんだんにしていたが、聞かないという選択肢はなかった。トワイライトは渋々耳を傾ける。
「と、言いますと?」
「彼女は、突然変異個体だ」
”突然変異個体”とは、その名の通り突然変異を起こした悪魔の総称である。ここ近年盛んに確認されており、”星の異常”の発露ではないかと噂されている。だが、問題が長引き過ぎて、もはや異常こそが日常と捉えられるようになり、突然変異個体もさほど驚きなく受容される存在となった。だからトワイライトも、ただ興味を惹かれるだけであった。先程の話が爆弾だとしたら、これはほんの微風に過ぎないことだった。
「ほう。具体的にはどのような?」
「彼女の魔力量は、平均的な低級悪魔の基準値と変わりない。でも、特定の魔法、強化系魔法を使用した際、その出力エネルギーは平均を大きく上回る。計算式で導ける数値の、およそ二倍にまで膨れ上がるんだ。凄いことだよね」
シュハウゼンも彼の内心を理解していたのか、もったいつけることなく伝える。淡々とした調子を心がけているようだったが、その声色にはどこか興奮が含まれていた。
本来魔法を使う際には、組み上げた術式に応じて、消費する魔力量とそれに伴う効果の程度、つまり威力が決定される。それはそれぞれにおいて固有であり、固定のものだ。同一の術式は、別の人物が使用しても同一の結果が出る。そしてその結果は計算式で導き出せる。しかしレディの場合は、強化系魔法に限定されるものの、計算式に当てはまらない結果を出力することが出来た。一足す一が、二になるというわけだ。既存の理論を凌駕した、あるいは新たな理屈の礎となる力。あまりにも特異で、注目を集める力である。
「もしや彼女は、その力のせいで……?」
「かも知れないね」
従来より格段に効率のいい手法が編み出されれば、当然新技術を狙う者が現れる。仕組みを解明しようと意気込む研究団体。あるいは、彼女の力を犯罪に悪用しようと企む非合法組織。レディはそのような悪魔たちに、追い回されていたのかも知れない。戸籍が存在しない、もしくは偽名を名乗っているという説も、彼らの目を欺くためと考えれば納得出来る。帰る場所がないというのも、既に彼らに手によって味方を屠られているからかも知れなかった。
「でもトワちゃん、どうしてあの子をあんなに気にかけたの?」
突然、シュハウゼンが思い出したように問いかけてきた。体の向きを変え、手すりに背をもたれさせた姿勢は無気力だが、目つきは鋭い。
「君なら情報だけ抜き取って、追い返すことも出来たでしょ?っていうか、正直ボクはそうすると思ってた」
取り調べを完了させたと言えるだけの話を聞いて、それで追い返せば、済んだ話だ。仮に、彼女が何か隠していることに気付いたとしても、見て見ぬふりをすればいい。助ける理由もなければ、得られるメリットもないからだ。だが、トワイライトはそうしなかった。それが、シュハウゼンには疑問なのだ。
「あんなの、ただの家出少女だって、それで片付けられた。でしょ?なのにどうしてわざわざ、厄介事を抱え込むような真似を?」
トワイライトは、冷徹な悪魔だ。単なる同情や欲望に惑わされることはなく、常に利益を重んじる。彼の行動には全て何らかの目的があり、従って今回の一件にも、彼なりにメリットを見出しているはずだ。それはシュハウゼンにも看破出来ず、だからこそ好奇心を煽られるのだった。
「誰にも言わないからさ。教えてよ、トワちゃん。ボクと君との仲でしょ?」
「うーん……そうですねぇ……」
本心を見透かすような、緑色の輝きを見て、トワイライトは腕組みをして渋るような唸り声を発した。逡巡の後、話しても構わないと判断したのか、小さい嘆息と共に打ち明ける。
「別に、大したことではないのですよ。ただ少し、興味があるだけです。彼女の背後には、何があるのか……」
隠すほどのことではない些細な問題だと言うように、つまらなさそうに語っていたが、付き合いの長いシュハウゼンは気付いていた。いつもは漆黒に塗り潰され、決して感情を表さない彼の瞳に、妖しく危険な光がギラついていたことを。
* * *
「はぁ~~~……サイッアク!何であんたみたいなうるさいオジサンなんかと一緒にいなきゃなんないわけ!?」
トワイライトの後ろ姿を見送った後、レディはわざとらしく溜め息をついて、エンヴィスを詰った。ぼすんと勢いよく座ったせいで、ベッドのスプリングが軋んだ音を立てる。
「ハァ!?最悪はこっちの台詞だっての!何で俺が、お前みたいな無礼で軽薄な女のお守りをしなきゃなんねーんだよ!」
ストレートな暴言に、エンヴィスも眉間に皺を寄せて憤慨した。
「せめて敬語くらい使え!指を差すな!あと俺はおじさんじゃない!!」
「うっさい黙れ!アタシはお前じゃないって、何回も言ってんじゃん。まだ分かんないの?オジサンって耳遠いの?それともバカ?」
色々と論い、文句をぶつけても、レディは全く聞く耳を持たない。むしろエンヴィスの怒りを馬鹿にするように、冷ややかな蔑みを向けてくる。
「テメェ……!いい加減にしろよ。大人しく聞いてりゃ好き勝手言いやがって!」
当時はまだ若く、激しやすかったエンヴィスの忍耐力は、あっさりと途切れた。
「よくもそんな舐めた真似ばっか出来るな!?まともに口も効けねぇのか!?どういう教育受けてきてんだ!」
「小学校も卒業してないよ!父親に、あんな下らないところ行くなって、止められてたんだもん……!」
強い感情の爆発と共に、レディを見下ろし糾弾する。すると彼女も負けじと、立ち上がって抗弁してきた。
告げられた言葉は衝撃的なもので、エンヴィスは思わず息を飲み、口を閉じた。実の親に学校へ通うことを止められていただなんて、彼女も中々に複雑な環境を生き抜いていたようだ。無論、平穏な家庭で育ったのならば、今日こんなところにいるはずもないのだから、当たり前のことでもある。そのことに考えの及ばなかった自分への恥と罪悪感が、エンヴィスを襲った。
「でもそれが何!?勉強が出来るって、そんなに重要なこと!?いい学校に通って、いいところで働いて、高いお給料もらって……世間が羨ましがるエリートとしての生活?それってそんなに大事!?それが幸せなの!?」
しかしレディは未だ満足せず、エンヴィスを至近距離から睨み付けたまま、息せき切って捲し立てる。当てつけのような言い分は、彼女なりに自らの境遇を受け入れるための方便だ。そうやって、思い通りに生きることの出来なかった人生について、自分なりに納得のいく思考法を探していたのである。しかしかといって、全くの嘘偽りかと問われると、答えは否だった。
「アタシはあんたみたいに頭良くないよ。働いてないし、スーツも持ってない。でもね、心は絶対アタシの方がマシだって言える。だってあんたは、言葉遣いとかそんな下らないことでアタシを判断して、見下して罵るタイプのバカだけど、アタシは違うから!あんたみたいなエリートにならなくて、ホントに良かったって思ってる!」
学業でいい成績を残し、仕事において目覚ましい功績を挙げていても、人格の崩壊している悪魔は大勢いる。輝かしいキャリアを誇るにも関わらず、いやだからこそ、配慮を忘れる者たち。他者を貶めることでしか、生の喜びを感じられない者たちが。レディはそんな悪魔を心底軽蔑していた。自分も彼らと同じ存在になってしまうくらいならば、頭など良くなくとも構わない。自分の望む自分でいられるのならば、その他のことは二の次でよかった。
「あんたなんかには、アタシの気持ちは一生分からない。分かられたくもない!だからさっさと出てってよ、”エリートのオジサン”!!」
そして彼女からしてみればこのエンヴィスも、陰険で下らないエリート悪魔たちと変わらないように思えた。だから彼女は、彼を罵倒し、拒絶した。最後にエアクォーツをつけて思い切り皮肉めいた呼びかけをした後、彼の肩を突き飛ばし廊下へと追い出す。
「あっ、おい!」
エンヴィスが不満げな様子で何か話しかけてくるが、須く無視をしてドアを閉めた。スライド式のドアに指を挟まれそうになって、彼は慌てて手を引く。その隙に完全に締め出されてしまい、エンヴィスは苛立った。
「くそっ!なんて生意気な奴だ……!」
悔し紛れに、拳で壁を叩くものの、室内からは全く応答がない。舌の先に苦いものを感じたような気がして、エンヴィスは顔を歪めた。だが、もはやどうしようもない。レディが心を閉ざしてしまった以上、もうなす術はなかった。せめてトワイライトが来てくれさえすれば、この状況も変わるかも知れない。彼に残された選択肢は、祈りつつ待つという、それだけだった。
* * *
その夜のこと。レディは病室のベッドに寝転び、眠れぬ時を過ごしていた。
結局あの後エンヴィスとは、一言も口を効いていない。本人は気にしていたようだが、彼女が対話を拒絶したのだ。トワイライトとは少しだけ話したが、事務的な連絡事項ばかりで終わってしまった。あのそっけない態度が、彼女とエンヴィスとの間のことを察してのことなのか、それ以外の理由によるのかは分からない。だが、レディとしてはどことなく、期待を裏切られたような心持ちがしていた。あの男ならば、漂う険悪な雰囲気をすぐに察知して、取りなしてくれると思っていたのに。おかげで、関係修復の機会を失ってしまったではないか。尤も、そんな他力本願なやり方でなく、自分で歩み寄れば済むのだが。幼く未熟なままのレディには、難しい決断だった。
「ふぅ……ほんと、むっかつく」
寝返りを打ち、枕の下に手を差し込みながら、呟く。
あんな男のせいで、未だにモヤモヤし続けているだなんて、本当に腹立たしい。明日また会ったら、開口一番にでも文句を言ってやらねば気が済まない。そして上手いこと流れを作って、すっぱり謝ってしまうのだ。そうだ、そうしよう。
決意を固めたレディは、再び息を吐き、体勢を変える。掛け布団を握り締め、仰向けになると、ぐるりと首を回らし室内を見回した。
警察部門の病院といえど、内装は案外普通だ。一般の病院が警察部門に協力しているだけなのだから、当然のことではあるが。
一体、いつまでここにいることになるのだろう。
個室をあてがわれたのは嬉しいが、こんな風に何もない、殺風景な部屋でずっと何もしないでいると、ついネガティブなことを考えてしまう。
トワイライトは、絶対力になると言ってくれた。数日中に、もっと安全な別の場所へ移動することになるだろうとも。しかし、そんなところが本当にあるのだろうか?
追手はまだ潜んでいるはずだ。あの男が、そう簡単に諦めるわけがない。きっとどこまでも追いかけてくるし、邪魔者は排除しようとするに違いない。果たしてこの世界のどこかに、彼らの手の及ばない地があるのだろうか。警察部門は、どの程度助けになってくれるのだろう。それに、もし仮に安全な場所が見つかったとしても、そこは彼女にとって安らげる地ではないかも知れない。例えば今みたいに、扉の外に監視がつき、四六時中見張られている生活になるのかも。スライドドアのすりガラス越しに、パイプ椅子に座り見張りを務めている悪魔の、後ろ姿が透けて見える。縛られた人生から逃げ出しても、結局閉じ込められた不自由な暮らしを手に入れるだなんて、笑えない話だ。
考えれば考えるほど、不安は尽きないどころか大きくなっていく。
悶々とした気持ちを吹き飛ばせずにいる内に、気が付けば時刻は深夜を回っていた。
待ち望んでいた眠気がようやく訪れて、瞼が徐々に重くなっていく。うとうとと微睡み始めたレディだったが、それから少しも経たない間に、突如何か鈍い音が響いた。
「!!」
驚いて飛び起き、ドキドキと跳ねる心臓を宥めようとする。
(聞き間違いじゃ、ないよね……?)
夢の中の音かと一瞬思ったが、絶対にそうではないという確信がすぐに疑心を吹き消した。彼女はそっとベッドを降り、出来るだけ足音を殺して、閉ざされたスライドドアに忍び寄る。銀色の取手を掴み、廊下の様子を探ろうと試みたが、ドアはびくともしなかった。そういえば、消灯の際に外側から鍵をかけられていたことを思い出す。万が一の場合の逃走を防ぐためだろう。しかし反対に、外側から敵が襲ってきて警備の者を排除した時は、彼女は袋の鼠となる。
(どうしよう……どうすればいい……?どうにかしないと……!)
レディは必死で、寝起きの頭を働かせる。そして、思いついた。
窓がある。
ドアから見て正面の壁に取り付けられた窓。少し小さいが、レディならば十分に通り抜けられる。今の内にこっそりと脱出してしまおう。
彼女は決断し、身を屈めたまま、ゆっくりと踵を返す。
突然、ドアのすぐ近くで音が鳴った。金属が擦れ合うような、かすかな音だ。鍵が鍵穴に挿入され、回転する音。限りない慎重な動作で、ドアが開かれる。
レディは弾かれたように駆け出すと、ベッドに飛び乗り窓枠に手をかけた。下を見、飛び降りられる高さかを確認する。
ここは五階だ。もしも着地に失敗すれば、大きなダメージを受けるだろう。逃げるどころか、重傷を負った状態で捕まる。あるいは、最悪の場合死に至る。本来ならば、諦めるべきところだ。だが、もはやこの状況では迷っている暇もなかった。
ハンマーを携えた屈強な男が、室内に踏み入ってきた。黒いスーツは、もう何度も見かけたそれと同じだ。レディは躊躇を捨てた。
拳を振るい、窓ガラスを叩き割る。破片で指が傷付いたが、気にしてはいられない。ベッドのスプリングを利用して、勢いよく窓の外へ身を踊らせた。
夜風が頬に吹き付けてくる。その冷たさを知覚した直後、彼女の体は深緑に包まれた。植え込みに生えていた、小さくも沢山の葉を持った低木に突っ込んだのだ。尖った葉の縁に肌を引っ掻かれつつも、それらがクッションとなって落下の衝撃を吸収していく。
「あっ……うぅ……!」
バキボキと枝をへし折りながら、彼女はアスファルトの地面へと転がり出た。痛みを堪え、息を整えながら立ち上がる。体にはあちこち擦り傷がついていたが、所詮その程度だ。骨折も、起き上がれないほどの傷もない。
見上げると、男が割れた窓から顔を覗かせて、彼女を探していた。目が合うなり、男の顔に驚愕が浮かび、やがてその頭が引っ込む。すぐにここへ来ようとしているのだろう。追いつかれる前に、さっさと逃げ出すべきだ。
レディは裸足のまま、ゆっくりと歩き出した。着地の際に足首を捻ったようで、一歩進むごとにズキズキと沁みてくるような痛みが走ったが、しかし歩みを止めるわけにはいかない。彼女は足を引きずりながらも、出来るだけ早足で先を急いだ。剥き出しの足がアスファルトに擦れ、皮膚が剥けて血が流れ出しても、構わずに。
(ごめんね、オジサン……)
去り際に、彼女は一度だけ振り返り、背後に佇む病院へと視線を投げかけた。脳内はトワイライトへの罪悪感と、呵責で一杯だ。だが、あまり悠長にしていては、どちらの方角に向かったのか悟られてしまう。レディは決して足を止めることなく、夜の闇の中へと姿を消した。
* * *
「いなくなった!?あいつがですか!?」
明朝、エンヴィスが出勤するや否や、内線電話がけたたましく鳴った。受話器を取った彼は間もなく、頓狂な声をオフィス中に響き渡らせる。といっても、室内はさして広くもなく、彼の大声を聞くのもトワイライト一人だったが。
「えぇ……はい。はい……承知しました。すぐ向かいます」
唯一の上司が眼差しだけで問うてくるのを感じながら、彼は相手と数言交わし、通話を切る。そして、もったいつけずに告げた。
「トワイライトさん。レディが失踪したそうです。昨夜遅くに、何者かが病室に侵入したのだとか」
電話をかけてきたのは、エンヴィスたちとも面識のある刑事部職員だった。彼によると、レディの警護に当たっていた警察部門の職員が、鈍器のような物で殴られ昏倒させられていたらしい。室内にレディの姿はなく、現在でも行方は分かっていない。
「つまり、攫われたということか?」
衝撃的な報告を受けても、トワイライトは冷静だった。視線はデスク上のパソコンに据えられ、指は絶えずキーを叩いている。一瞥もくれようとしない彼を、エンヴィスは不審に思いつつも続けた。
「いえ、それが……自分で逃げ出したようです。ドアは外側から開けられており、室内は荒らされていたと。病室の真下の植え込みに、誰かが落下したような跡があったとも報告されています」
「なるほど。つまり、侵入者に気付き逃走を図ったと……」
「はい。恐らくですが」
「それで?彼女は今どこに?」
トワイライトの問いに、エンヴィスは首を振って答える。
「まだ判明していません。一応、交番の職員たちには捜索の命が出されているようですが……正直なところ、まともに探す悪魔がどれだけいるか」
レディはまだ、正式な保護対象ではない。分類上は、ただの一市民と同じということだ。発見しようがしまいが、責任を問われることもなく、手柄も得られない存在。そんな人物を、本気で捜索する職員は稀だろう。当然、刑事部とて本気で動くつもりはないようだった。連絡をくれた悪魔とて、取り立てて義務感や憂慮に駆られている様子はなかった。二人と知り合いだからというただの好意で、一報を入れてくれただけだ。
「ふむ……仕方のないことだな。現状、レディくんの身柄に関する責任の所在は、どこにもない。中途半端な状態なのだから」
彼の返事は淡々としていて、簡潔なものだった。平然として、顔色一つ変えない上司に、エンヴィスはまたもや引っかかりを覚える。というよりも、苛立っていたのだ。昨日あれだけ派手に喧嘩したにも関わらず、エンヴィスは彼女に対して情のようなものを抱き始めていた。
「私はとりあえず、現場に行ってきます。トワイライトさんはどうしますか?」
「君に任せる」
予想通りとはいえ、やはりあまりにも薄情だ。エンヴィスは手早く荷物を纏めながら、トワイライトを見遣る。心の中の憤懣が、伝わってしまわぬよう努めつつ。
「彼女が自分で決めたことなら、他にどうしようもないだろう。我々のもとに戻ってくるか、それとも捕まるか……どちらにせよ、現段階で我々に出来るのは、待つことだけだ」
「……承知しました」
椅子の背もたれに体重を預け、ぼんやりとしているトワイライトには、心配の思いなど微塵もないようだった。
無論、彼の言い分も尤もだ。自分たちの力だけでは、為せることにも限界がある。彼女の意思を尊重すべきだとも。もしも心底助けを必要としているなら、また現れるだろうとも。
トワイライトの理屈には、全て納得がいく。だが、だからこそ、時々不満を抑えきれない。
エンヴィスはムッとしながら、オフィスを後にする。彼の頭には混乱が、嵐のように荒れ狂い渦巻いていた。
(どういうことなんだ……?トワイライトさん、昨日とまるで態度が違う……意味が分からない)
あれだけ親身に寄り添って、不要なほど丁寧な対応をした彼が、何故今日になった途端、一切の興味を失ったような振る舞いをするのか。エンヴィスには理解出来ない。けれども何か嫌な予感らしきものが、胸の奥でざわついていることは確かだった。
* * *
「ひっく……ぐすっ」
誰もいない工場の片隅に、少女が一人蹲っている。薄汚れた入院着にパーカーを羽織って、裸足の足を抱えて泣いている。山と積まれた木箱の隙間から、啜り泣きが漏れる。
一体どれだけ、ここにいただろう。
少女は顔を上げ、辺りを見渡した。
つい先刻までは、夕暮れ時のオレンジ色が差し込んでいた気がするが、今となっては影も形もない。どこかの店の看板の、人工的なネオンサインが遠くで瞬くだけとなっている。繁華街の裏手に建つこの建物は、何年も前から放棄されており、誰かが立ち入った形跡はまるでない。だからこそ、彼女はここを隠れ家に選んだのだ。少しずつ蓄えたスナック菓子やインスタント食品を持ち込み、簡易的だがベッドも作った。だが、病院の環境と比べれば天と地の差だ。
しかし、仕方ない。多くの悪魔の目に触れる場所は、見つかる可能性も高くなる。安全性という面で言えば、広大で寂れた工場に一人隠れている方が、よほどマシなのだ。だから我慢するしかない。
彼女はまた一度鼻を啜り、抱えた膝の間に顔を埋める。
今回のことで分かったのは、追手は実に慈悲のない冷酷な連中だということだ。まさか、警察部門の職員を殴り倒してまで、迫ってくるとは思わなかった。あの職員は無事だろうか。ハンマーで殴られていたようだけれど。
彼らはきっと、他者の命を奪うことになっても、微塵も動じないのだろう。目的達成のためなら、どんな犠牲も厭わない、恐ろしい悪魔たちだ。
(一人で戦うしかないんだ……一人で、何とかしないと)
彼女に手を貸し、歯向かう者は悉く始末されてしまう。あの穏やかで優しいトワイライトなんか、すぐに殺されてしまうだろう。誰も危険に晒さないためには、自分で何もかも片付けるしかないのだ。
「ッ!!」
カツン、と何者かの足音が耳に飛び込んできた。レディは即座に姿勢を低め、木箱の陰に身を隠す。やってきた人物はゆったりと、余裕ある足取りで周囲を歩き回っていた。誰かを血眼で探しているようには思われないリズムだ。ただの散歩者か、それとも酔っ払って紛れ込んだのか。彼女を騙して誘い出すために、演技をしている可能性もある。レディはひたすら息を飲んで、相手の動向を窺うしかなかった。
そっと手を伸ばし、毛布の下に隠していた得物を指で引き寄せる。伝わってくるのは、冷たく硬い金属の感触。片方の先が曲がり、二股に分かれた巨大な釘抜きのような形状。バールだ。
レディはそれを握り締め、耳を澄ました。彼女の優れた魔法の力は、身体能力だけでなく五感をも強化させる。研ぎ澄まされた聴覚によって、靴の反響音を辿り相手の位置を割り出すことも可能だ。そうして狙いを定め、彼女は物陰から飛び出した。
「うぁあーーっ!」
「!おっと」
甲高い叫びを発しつつ、バールを振りかざして踊りかかる。視界に、黒いジャケットを着込んだ男の姿が映った。胸元に飾られたいくつかのメダルが、煌めきを放っている。
彼は素早く身を翻すと、彼女の攻撃を回避した。標的を失ったバールが、コンクリートの床をガツンと叩いた。衝撃でレディの腕は痺れ、一瞬動きが止まる。彼はその隙に、彼女の腕を掴み、関節を捻りあげるようにして固定した。レディは堪らず、痛みに顔を歪め悲鳴を上げる。
「いった!いたたた!何すんのオジサン、離してよっ!!」
彼の手をぺちぺち叩いて降参を表すと、すんなりと腕が解かれた。
「これはすまない。つい反射でね」
わざとらしい謝罪をする男を、レディは軽く睨み付けた。額の黒い角が、ネオンの青白い光を受けて輝いている。
「どうして分かったの?トワイライトオジサン」
「うん?あぁいや、気配で何となく、居場所を把握していたからね。もしかしたら、私だと察して出てきてくれるんじゃないかと期待したんだが……まさか、いきなり殴りかかられるとはね。流石に驚いた」
彼は何やら苦笑しながら、独り言ちるように喋っているが、その答えはレディの求めているものではなかった。
「そうじゃなくて!どうしてアタシがここにいるって分かったの!?」
今度は意味を勘違いされぬよう、大きな声で一語一語はっきり発音する。詰め寄られた彼は何故か行天した様子で、パチパチと目を瞬かせていた。
「なんだ、そんなことかい?君も案外鈍いところがあるんだな」
「何それ、どういう意味!?」
可笑しそうに、ふっと口角を持ち上げる彼に、無性に苛立ちレディは眉を吊り上げる。ところがトワイライトは意に介さず、おもむろに彼女の背後に回った。
「これだよ。君のパーカーに付けていた」
彼が指を伸ばし、レディの羽織っていたパーカーのフード部分を探る。まもなくその手が引っ込んだかと思うと、彼の指先には何かが摘まれていた。小さな赤いランプのついた、黒いボタンのような物体だ。
「もしかして、これって……!」
「そう。発信機だよ」
レディは顔を青褪めさせて、呆然とする。トワイライトは何でもないことのように、平然と頷いた。
「ここから発せられる微弱電波を携帯で受信して、地図と照合するという寸法さ。ほら」
ポケットから自身のスマートフォンを取り出して、何かのアプリを開く。画面中央に、ランプと同じタイミングで明滅する、赤い点が表示されていた。線で描かれた地図を見れば、ここが点の示す場所だとすぐに分かる。
まさか、病院から逃げ出して今に至るまで、ずっと彼には把握されていたのか。自分がどこにいて、何をしているのか。正確にとは言わないまでも、大雑把には見透かされていたわけだ。
レディはゾッとし、肌が粟立つような感覚を覚えた。
「魔導探知よりも、こうしたアナログ的やり方の方が、かえって安全だったりするのさ。もちろん、時と場合によるけどね」
しかしながら彼本人は、全くと言っていいほど彼女の心情を鑑みず、飄々と話し続けていた。そこにはかすかに、相手を出し抜いてやったという優越感と誇りのようなものが滲んでいるような気がする。
魔導技術の発達した悪魔社会では、必要とするもの全てを魔法で解決しようという、ある種の束縛された考え方が広がっている。だからこそ、盲点が生まれる。要するに、現代において魔法的手段を用いずに行動を起こす者がいようとは、誰も考えないのである。だからトワイライトは、魔力を使わずに扱える発信機をレディに仕掛けた。警察部門の他の悪魔たちにも、追手たちにも気付かれることなく、彼女と合流出来るように。
「しかし、君も随分と厄介な連中に気に入られているねぇ。まさか正面切って警護を排除されるとは……あぁ、安心したまえ。彼は無事だよ」
呑気な調子を保つ彼だが、その言葉は決して軽んじてはならないものだった。自分のせいで、誰かが傷付いたのだから。レディは罪悪感を覚え、胸が苦しくなって俯く。警護の悪魔が無事だったということが、せめてもの救いだ。
「だが、私には君が分からなくなった。君は、どうしたいんだ?」
直後、トワイライトの声音が変貌した。レディはびくりとして、身を竦ませる。どうしたい、だなんて自分が一番知りたいことだった。
「君が自主的に逃げ出したのだとしたら、深追いする必要はないかとも思った。我々の助けなどなくとも、自力で解決する気になったのだろうとね。しかし、一日待っても君は、精力的に移動しようとはしなかった。あるいは、途中で捕まりここに囚われているのかと来てみたが……どうやら違ったようだ」
彼の黒い瞳は、レディの本心を看破して、貫いているようだった。まるで体そのものが射抜かれたみたいに、硬直して動けない。
「それは……っ、だって」
「君の目的は、何だ?この薄汚い廃墟に篭って、一生使い潰すつもりか?」
下手なりにも言い訳をしようとしたら、機先を制された。レディは一度声を詰まらせ、それからまた口を開く。
「違う……!」
けれどその続きは言えなかった。
彼女だって、どうしたらいいのか分からないのだ。支配されたくはないけれど、一人で戦う勇気も出ない。矛盾している。自分の望みと現実とがぶつかって、雑音が鳴っている。
トワイライトが言葉を次いだ。
「君は、助けを求めた。我々に、人生を変えたいと、変わりたいと訴えたんだ。得体の知れない何者かに、追い回される生き方から脱却したいと……それは、偽りだったのかね?」
「違う!アタシは、もうこんなの嫌なの!誰かに支配されるのも、こそこそ隠れてるのも嫌!」
嘘なんかじゃないと、彼女は今度こそ勢い込んで反発する。
「だけど、じゃあ、どうすればいいの!?」
助けて欲しいのは、本心だった。どれだけ強がっても、平静を装っても、心の底では救いを願っている。しかし、そんなの幻想だ。叶うわけもない、夢幻。何故なら敵は強大で、それと戦ってくれるほど強く、頼もしい悪魔なんていないから。仮に助けてくれる者が現れたとしても、父に恐れをなして逃げられるか、無惨に殺されるだけ。そんな悲しみには、到底耐えられない。相手を大切に思うからこそ、危険に巻き込みたくない。だから、諦めてきた。自分しかいないと思い込んできた。そうして、自分をも守ってきたのだ。
「迷惑、ねぇ……」
ポツポツとレディが語るのを聞くと、トワイライトはのんびりと顎をさすり、遠くを見るような眼差しを投げかけた。半笑いに似た、奇妙な表情をしている。レディは怪訝に思い、彼を見上げた。その時。
「!!」
轟音と共に、爆風が彼女を襲った。軽い体は呆気なく宙を舞い、即座に床に叩き付けられる。痛みと衝撃とが、呼吸を奪った。
「ゴホッ!ゲホ……ッ!う、ぐ……っ!?」
あまりのダメージに、声も出ない。精一杯状況を把握しようと努めるのだが、視界を埋めるのは黒煙ばかりで、何も分からなかった。かろうじて認識出来るのは、恐らく爆発が起こったということだ。発生した炎がそこかしこに置かれた木箱に伝播して、今や工場の内部全体が火の手に包まれている。
「トワイライトオジサン……ッ!!」
呻きながらもどうにか起き上がり、彼を探そうとする。しかし熱風のせいで、上手く動けない。おまけに、飛散した何かの破片で切ってしまったのか、足の裏からは血が流れ出ていた。
「トワイライトオジサン!どこっ!?返事して……!」
息苦しさに耐えかね、レディは蹲ってしまう。何度も咳き込みながらも、懸命に彼の名前を呼び続けた。
と、消火器を噴射するような音がして、彼女を囲む炎が少しだけ力を弱める。舞い散った白い粉を蹴散らして、黒いスラックスの足が現れた。それは全く迷いのない足取りで、彼女に近付いてくる。
「トワイライトオジサン……?」
反射的に口にしてしまってから、気付いた。彼ではない。彼女を狙っている悪魔たちの一人だ。男は小脇に、誰かの両足のようなものを、まとめて掴んでいた。
「ッ!!オジサン……!」
考えるまでもなく、分かった。彼は気を失っているようで、男に引きずられていても微動だにしない。服は焦げ跡だらけで、髪は一部濡れたように固まり、束になっている。それが出血によるものであると、想像することは容易かった。
「お迎えに上がりました。レディ嬢……いえ、女王」
意外にも恭しい口調で、男が頭を下げる。レディはそれに応えることなく、苛烈な視線で男を睨んだ。
「あんた……!そのオジサンに、何をしたの!」
「具体的なことなど、女王は何一つ知らなくていいのです。瑣末な事柄は、全て我々が処理します故……」
男は怯まず、ゆっくりを首を横に振るばかりだ。
「うるさいっ!とにかく、オジサンをこれ以上傷付けないで!」
「いいえ。この男は、あなたを惑わし責務から逃れるよう唆した張本人。厳罰に処せと王から申しつかっております。残念ながら女王の命であっても、承服することは出来ません」
「アタシは唆されてなんかない!」
彼の淡々とした言説を、レディは甲高い叫びで遮る。思わず立ち上がって、両の拳を握り締め、男に詰め寄った。
「アタシは、自分の意思で逃げたの!だって、もうあんな男に支配されるのは耐えられないから……!」
「いいえ。唆されたのです。あるいは魔法によって、精神を操られていた……そういうことにしていただきたい」
けれどもやはり男は動じない。置き物のようにその場に突っ立ったまま、彼女の言葉を否定し続けている。そこには何の感情も、意図も見えなかった。瞳を隠すサングラスの黒いレンズに、辺りを這い回る炎の赤が映り込んでいる。
「我らが王は、冷酷です。あなたが一番よくご存知でしょう。裏切ったとあらば、たとえ実の娘であっても慈悲をかけぬはず……我々は、あなたにそんな目に遭ってほしくないのです、女王」
彼は、忠実な構成員として、彼女を相応に大切に思っている。君主の娘であり、いずれは未来の主人になる人物として、敬愛している。だからこそ、彼女の振る舞いにある種の同情に似た思いを抱き、彼女に寛大な対応をするよう、王に期待しているのだ。そのためには、今回の騒動は彼女自らの意思ではなく、何者かに指示されたことだと弁解することが必要だ。だから、手間をかけて彼女を捜索し、全てを穏便に済ませる方策を求め続けた。彼とても、善意とは言わぬが好意的な感情に基づいて行動しているのである。
「そんな、こと……!」
(出来るわけ、ないよ……)
男の提案は尤もらしく、何よりその必死さが、レディの心を強く揺さぶった。しかしながら、彼の意見を受け入れることは不可能だった。何故ならそれに従うということは、トワイライトを犠牲にするということなのだから。自分を助け、守ると約束してくれた男を、自身のために差し出すだなんて、彼女には到底決断出来ないことであった。
レディが躊躇うかすかな間に、業火に焼かれた倉庫の屋根がバランスを失い、轟音を立てて崩れ落ちた。もうあまり猶予がない。このまま建物全体が燃え尽きてしまうのも、時間の問題だ。男は焦った様子で、彼女に手を差し伸べてくる。
「さぁ、行きましょう。もうすぐここは焼け落ちます。早く逃げなければ」
「い、嫌だ!アタシは絶対戻らない!絶対に!!」
「心配ありません。この炎が、あなたがここにいたという痕跡を全て焼き尽くしてくれるでしょう」
「そんなことどうだって……!!」
「この男がどうなっても良いのですか?」
咄嗟に抵抗するレディだったが、男の行動を見るなり、すぐに息を飲み押し黙った。彼の手には銃が握られ、銃口がトワイライトの方に向けられている。未だ気絶している彼が、それを察知して逃げられるはずもない。引き金を引かれれば、きっと助からないだろう。嫌な想像が頭を駆け巡り、レディは冷や汗を浮かべてたじろいだ。
「っ……!!」
舞い上がった熱風が、周囲を吹き荒らし、彼女の金髪をはためかせる。限界が近いことを悟ったのか、男の手が素早く伸びてきて、腕を掴もうとした。
魔法を使いさえすれば簡単に逃げられるのに、もはや彼女に抗う気力は残されていなかった。囚われるという恐怖と、強引に力で押さえ付けられる行為へのトラウマ。そして人質を取られた状態への怯えが、一気に膨れ上がって彼女の胸を締め付ける。レディは、まるで身動きすることが出来ず、凍り付いたように固まってしまった。
「さぁ女王、こちらへ……ぐぅっ!?」
体を硬直させる彼女を、男は無理矢理引きずって行こうとする。だが、彼女を誘う声音は、途中で苦悶の呻きにすり替わった。
レディはハッと驚いて、何が起こったのかを確かめようとする。見ると、男の黒いスーツに包まれた肩に、銀のナイフが深々と突き立てられていた。
「なっ……何が……!?おぐぅ!」
痛みに顔を歪めながら、状況を把握しようとする男の脇腹に、黒い革靴が蹴りを入れる。バランスを崩した彼の片足を巻き込むようにして、床に引き倒した。レディはその隙を見逃さず、反撃を仕掛ける。男の鳩尾を殴り付け、彼を昏倒させた。
「いたたた……大丈夫かい?レディくん……」
彼に半分下敷きにされたトワイライトが、呻きながらもがいている。
「オジサンっ!大丈夫!?」
「あぁ……何とかね……」
レディは急いで男をどけると、彼を助け起こした。彼女の手を借りて、その場に座り込んだトワイライトは、疲れ果てた様子で嘆息する。体勢が変わったからか、額の傷口から血が一筋落ちてきて、彼の顔を汚した。
「オジサン、血が……!」
「ん?……あぁ、これか。別に、大したことじゃないよ。それより、これを切ってくれるかい?」
思わずレディが悲鳴じみた声を漏らすと、彼は指摘されて初めて思い出したとばかりに、目を丸くした。そして、体の向きを変え、後ろ手に拘束された両手首を差し出してくる。
「わ、分かった!」
慌てて辺りを見回し、使えそうな物を探す。気絶した男の肩に刺さったままのナイフを見つけると、引き抜いた。
「ふぅ……助かったよ。これで自由だ」
戒めを解かれたトワイライトは、少し赤くなってしまった手首をさすりながら、独り言のように漏らした。半ば無意識的な動作で立ち上がりかけて、ふらりとよろめく。
「っ……」
「オジサン」
レディは反射的に、彼の肘を掴み支えていた。トワイライトは眩暈を堪えているような表情で、首を左右に振っている。
「全く……やられたよ。ほぼ直撃を受けてね……流石に堪えた。防御殻も消し飛んだしね。やっぱり歳かな」
彼らを襲ったのは、特殊な魔法を込められた魔導弾だった。直前で察知した彼は、防御系魔法を展開したが、弾丸の威力は予想以上に高く、術式ごと吹き飛ばされてしまったのだ。そして頭を強く打ち付け、今の今まで朦朧とした状態にあったという。どうにか立ち上がれるまでには回復したらしいが、やはりその顔色は悪く、辛そうにしていた。
「オジサン……もしかして、アタシを庇ったの?だから代わりに……」
「はて、何のことかな?さぁ、早く行こう」
「う、うん、そうだね!ここはもうすぐ崩れるって言ってたし!」
ふとした思いつきをレディは口にするが、案の定というべきか、彼は認めない。彼の言葉で焦燥を思い出し、彼女はやたらと早口で一息に捲し立てた。よたよたと歩くトワイライトを引っ張り、出口へ向かっていく。
瞼の上から頬までを伝う血の滴の生ぬるさや、肌に張り付くような感覚が不快で、トワイライトはかすかに顔を顰めた。傷口に指で触れると、ピリリとした痛みが走り抜ける。垂れた血がコンクリートの床に、点々と染みを作る。
「もう少しだよ!しっかりして!」
「……あぁ、分かっている」
覚束ない足取りで進む彼を励まし、レディはどうにか倉庫からの脱出に成功した。炎に巻かれ、熱を帯びていた肢体に、涼やかな外の風が吹きつけてくる。緊張が解け、体の強張りが緩んでいく。彼女は思わず目を瞑り、深く息を吸った。パチパチと火が爆ぜる音と、外気の唸りだけが耳に届く。危機的な状況から間一髪で逃げ出したという安堵が、胸を満たした。
静寂を破るように、パンッと乾いた音が空気を切り裂く。重たい肉が倒れるような、くぐもった衝撃が響いた。精神の安寧をあっさりと打ち砕かれて、レディは振り向く。眼前に、血を流したトワイライトが倒れていた。
「トっ、トワイライトオジサン!!」
飛ぶように彼のもとへ駆け寄り、力をなくした体を仰向きに返す。銃弾は背中から彼の肉体を貫いていて、胸元の穴からポロリとこぼれ落ちた。血に濡れた小さな金属塊を指で摘み、レディは戦慄する。
「オジサン……!オジサンっ!」
肩を掴んで必死に揺さぶっても、先ほどとは違い、彼の目が開くことはなかった。だが、半開きになった唇の隙間からは、わずかな空気の出入りを感じ取ることが出来、それだけが彼女の不安を少しだけ慰める。
「女王……どうか観念していただきたい」
背後で、数人の足が下生えを踏む音がした。レディはそちらに目を遣ることもなく、淡々と答える。
「嫌だ……!アタシは絶対、帰らないから」
告げるのは、もう幾度となく繰り返し続けたそれ。断固とした決意が、細い背中から滲み出しているようだった。
「お父上から逃れることは不可能です。早く諦めてくださった方が、あなたも苦しまずに済むはず」
しかし、男たちも簡単に引き下がるつもりはないらしい。考えてみれば、分かることだ。彼らはあの父の手先で、王の命令を絶対的に信じている者たち。何があっても失敗を持ち帰らぬよう、万全を期しているはずだった。一人退けたくらいで、安心してはならなかったのだ。
「黙ってっ!アタシの居場所は、あんなところじゃない!ここなの!見つけたの!!だから絶対、絶対に……戻らないっ!!」
愚かな自分を反省しつつ、彼女は金切り声で叫ぶ。握り締めた拳が土を抉り、爪の間に細かな砂が入り込んだ。それでも彼女は言葉を止めず、考えを改めることもしない。
「な……っ!?」
その時だった。追手たちの内、一人が声を上げて崩れ落ちる。周りの男たちの顔中に、恐怖と怯えが走った。レディは訝しみ、後方に目を向けて眉を寄せた。
どこからか、メリメリと、怖気立つような音が聞こえてくる。聞く者の神経を掻き回し、パニックの底に突き落とすような、嫌な波長だ。
「あ……ぁ……!」
何かに気付いた様子で、周りの男たちがじりじりと後退りを始める。やがて何人かがその場に尻餅をついた。昏倒した男が取り落とした携帯電話が、爆風のせいで埃っぽくなった地面に落ちている。一体何をそれほど恐れているのだろう。疑問の正体は即座に判明した。
地に落ちた携帯端末。液晶部分を上にして転がったそれから、謎の物体が飛び出してくる。黒光りする硬い殻に包まれた、細く長い足のようなものだ。関節部分は節くれだって、先端は鋭く尖っている。それはまるでスマートフォンに足が生え、怪物と化したように見えた。
「ひぃ……っ!」
いよいよ恐怖が限界に達したのだろう。男たちの口から、声にならない悲鳴が漏れる。その音を聞きつけたのか、蜘蛛の足が瞬時に動き、彼らを襲った。鋭い刃のような爪に、体を切り付けられ突き刺されて、一人また一人と倒れていく。魔法によって強化された聴力を持つレディは、否が応でも全てを聞き取ってしまう。悲鳴と、肉が断たれる音、血が吹き出して溢れる音が、一つ一つ丁寧に鼓膜を刺激し、吐き気を催させる。あまりの恐ろしさに目を剥き、その場に立ち竦んでいるしか出来なかった。
数分も経たない間に、意識のある者はレディだけになった。トワイライトは死にかけていて、かろうじて呼気を感じ取れる程度だ。画面から突出した異形の足が、ぶらぶらと惰性に揺れている。未だ機能を果たしているスピーカーから、誰かの話し声のようなものが漏れ聞こえた。しかし、距離があるためかくぐもっていてよく分からない。ふと、怪物がこちらを認識して、一本足で器用に近付いてくる。
「オジサンっ!!」
レディはほとんど無意識的に、トワイライトを庇おうとした。だが、間に合わない。ほんの一瞬の差で、先を越されそうになる。
「駄目っ!!」
勝手に口から悲鳴が迸った。
迫る怪物の攻撃が、いよいよ彼の肉体を掠めようとした寸前。
「大丈夫か!?」
飛んできた火の球が、スマートフォンに直撃した。端末は勢いよく弾かれて、少し離れた地面に落下する。
何事かと瞠目するレディのそばに、眼鏡をかけた長い角の男が駆けてきた。長い杖のような物体を携えていて、恐らくそれで火を操ったようだった。
「っ!エンヴィスオジサン!」
何故だか涙が湧き上がってきて、レディは視界を滲ませながら彼の名を呼ぶ。バタンと音を立てて、彼が乗ってきたのだろうバイクが倒れた。
「トワイライトさん!!無事ですか!?」
おじさん扱いされることをあれだけ嫌がっていたというのに、今回ばかりは流石の彼も何も言わない。焦りからか頬に汗を浮かべて、倒れているトワイライトの横に膝をつく。
「ねぇ助けて!オジサンが……っ!トワイライトさんが危ないの!!」
「分かってる……!」
レディも彼の隣にしゃがみ込み、傷付いたトワイライトの姿を見下ろした。背中から胸にかけてを貫通した傷口は、未だに出血が続いている。彼の黒いスーツは血に濡れて、一層暗く染まっていた。
「まずいな……!」
どこか苛立ちを滲ませた調子で、エンヴィスが呟く。彼は懐から小さな小瓶を取り出すと、中に入っていた謎の液体を、トワイライトめがけてぶちまけた。
「うぇっ!?」
いきなり何をするのだろうと、レディは驚いて思わず奇妙な声を上げてしまう。ところがそこで、不思議なことが起こった。不気味な色をしたその液体を浴びた途端、トワイライトの胸の傷が見る間に塞がり始めたのだ。それと同時に、流れ続ける血の量も減っていき、苦痛に強張っていた彼の表情も、少しだけ和らいだものになる。
「回復用のポーションだ。といっても……ここまで重傷だと、大して効かねぇだろうがな」
エンヴィスに解説されるまでもなく、レディにも今行われた奇跡の正体が分かっていた。しかし、実際に目の当たりにするのはほとんど初めてで、驚嘆が消えない。けれどもそれ以上に、彼は助かるのだろうかという不安が立ち込めていた。
遠くから、救急車のサイレン音が近付いてくる。同時に、草むらの陰から再び蜘蛛足が覗いた。エンヴィスは舌打ち一つで魔法を使い、今度は三つの火の玉が一気にそれを襲う。バキッと何かが割れるような音がして、化け物の気配は消えた。
猛スピードで突っ込んできた救急車が、エンヴィスのバイクのすぐ近くで停止する。後部のハッチが開いて、ヘルメットを被った救急隊員たちが一斉に降りてきた。彼らは素早く、手にしていた担架にトワイライトを乗せる。レディとエンヴィスも追い立てられるようにして、同じ車両に詰め込まれた。入れ替わりとばかりに到着した警察部門の車両が、転がった男たちを収容していく。中にはまだ生きている者もいるらしく、新たに到着した隊員たちが救助していた。レディは救急車の荒い運転に振り回されながら、一心にトワイライトの無事を祈っていた。
* * *
耳元で、誰かが呼んでいる。
これは、誰だろうか。
一度として会ったのことのない実の両親。大学時代の恩師、あるいは友人。魔界府の上司や同僚。調停を終えたばかりの、かつての妻かも知れない。
頭の中で様々な人物の顔が像を結び、季節のように移り変わっていく。尤もこの魔界での四季など、人間界のそれとは違って、魔法で作られた人工的なものだが。
しかし現在聞こえているのは、候補の中の誰とも異なる声だった。鼻を啜り、堪えきれない涙をこぼす、少女の悲痛な音吐。
「う~……ん」
意識がゆっくりと浮上する。久々に長く眠った気分だ。どこか快ささえ覚えながら、彼はベッドに肘をついて起き上がった。
たったそれだけの動作でも、寝起きの体は負担を訴え、節々がばきりと嫌な音を立てる。ずっと同じ姿勢で固まっていたためか、凝りも酷い。いや、これは先刻散々な目に遭ったからか。あるいは、単に歳のせいだろうか。
「いてて……」
頭に鈍痛が走って、思わず呻いた。掌に、包帯のザラついた感触が伝わってくる。彼は上体を起こした姿勢で、しばし静止し痛みの過ぎ去るのを待った。
何というか、凄い苦痛だ。頭痛以外の痛みはないのだが、全身が重怠く、疲労が溜まっている。目を覚ましたばかりだというのに、早く自宅に帰って眠りたいと思った。
まるで、爆発か何かに巻き込まれ、吹き飛ばされた後のようだ。いや、実際そんな体験をしたのだった。まだ寝ぼけている思考は曖昧で、現実と夢との区別をつけられていないらしい。記憶もどことなく不鮮明で、さっきまで聞こえていたはずの泣き声がいつの、誰のものなのか、今一つ思い出せなかった。
「っ!?トワイライトさん!!」
突然、ドアがガラリと勢いよく開いた。同時に誰かが、驚いた調子で自分の名前を呼ぶ。トワイライトはぼんやりと、声のする方に視線を向けた。
「オジサンっ!!」
金髪の少女が飛んできて、彼のベッドに縋り付く。トワイライトはパチパチと瞬きを繰り返して、彼女の顔を確かめようとした。が、やはりまだ覚醒しきっていないのか、上手く焦点を結べず、視界が霞がかったようにぼやけている。
「ふー……っ」
彼は一つ、息を吐いて、ゆるゆると首を横に振った。そして、未だ残る眠気の残滓と、疲労感とを排出してしまう。軽く痒みを覚えた鼻頭を少し掻いて、それから顔を上げた。
「レディくん……無事で良かったよ」
再び頭痛が起きないよう、慎重な動きで彼女を見、微笑む。声音から判断はついていたから、迷うことはなかった。しばらく眠っていたため、掠れ気味の声しか出なかったが、仕方のないことだろう。
「トワさん……っ!!」
レディはそんなこと気にせず、目尻に涙をいっぱい溜めた表情で、彼に抱きついてきた。不意のことだったので咄嗟に避けられず、トワイライトはそのまま接触を許してしまう。いくら仕草は子供っぽくとも、彼女とて立派な女性だ。他者から見ればセクハラにしか思えない状況。かといって無理矢理に離れさせようとしても、結局触れることにはなってしまう。自分ではどうしようもない事態に、トワイライトは珍しく戸惑いの顔を晒し、体を硬直させた。変なあだ名で呼ばれたことなど、気が付きもしなかった。
「おい、レディ……やめてやれ」
見兼ねたエンヴィスが、後ろから割って入る。頃合いを見て、レディの肩を掴み、さりげなく引き剥がしてやると、トワイライトは若干恥ずかしそうに首の後ろを手で撫でた。
「すまない、エンヴィスくん……手間をかけたね」
その謝罪は、今の紳士らしからぬ振る舞いを指すのか、あるいはもっと以前の、ここに運ばれることになった経緯そのものに対してなのか。エンヴィスには分からなかった。一つ確かなのは、彼が無事だったということだ。
「全く……本当ですよ」
だが目の前のトワイライトは平然と、微笑みすら浮かべている。エンヴィスも自然と調子を合わせ、わざとらしく嘆いてみせた。
「弾が貫通していたからいいものの、体内に残っていたら、今頃はまだ集中治療室でしたよ、きっと」
彼の声音にかすかに含まれた感情を読み取り、こんな風にふざけた小芝居を繰り広げることが出来るのも、それなりに長い時間を共に過ごしているからだ。だからこそエンヴィスは、胸を撫で下ろしたいような気持ちを覚えた。
扉を開けてすぐに見えた彼の顔は、起きたばかりで寝ぼけていたからか、一切の感情というものを宿していないようだった。非常にのっぺりとしていて、不気味な様相を湛えていたのだ。だが、疲れた様子で俯いた彼が、再び頭を上げた時にはもう、それは消えていた。いつもの彼らしい、胡散臭く芝居がかった顔つきに、戻っていた。そんな姿が平常であること自体が、おかしくはあるのだけれど。
しかし、一度仮面に慣れてしまうと、それが剥がれ素顔が垣間見えた際に、何故かやたらとドキリとしてしまうのだ。
あの能面のような無表情が、真実の彼なのか?
偽りの奥の本当の彼という者を、知りたいようでいて、知りたくないような。自分でも割り切れぬ複雑で曖昧な感情を抱いてしまう。エンヴィスはまさにそんな思いに駆られたのだった。
同時に、驚きもした。
あのトワイライトがこんなにも、表情を取り繕い演技を保つことも出来ぬほどにも、追い詰められているのかと。それほどまでに、背中から胸にかけてを貫いた弾丸に、消耗させられたのかと。無論これもまた、当然の話ではあった。だがやはり相手がトワイライトとなると、エンヴィスの判断力は鈍ってしまうのだ。
だから今まで通り何ら変わりのない姿を見せる彼に、安堵してしまうのだ。エンヴィスのその気持ちを分かっているからこそ、トワイライトも自らを欺き続けているのだが。それは誰も知る由のないことであった。
「どうしてっ!」
しばらくの間、室内を包んでいた静寂を、女の甲高い声が引き裂く。エンヴィスに宥めすかされ、ベッド脇のスツールに押し込められていたレディが、突如立ち上がったのだ。彼女の膝裏に押された椅子の座面の縁が、近くに立っていたエンヴィスの向こう脛に思い切り衝突する。
「ぃっ……!!」
「どうしてアタシを庇ったの!?そんなことしなければっ……!そんなことしなければ、こんなことにならなかったじゃん!!」
レディはまるで気にすることなく、そもそも気が付いていない様子で、トワイライトを責め立ててきた。彼は視線だけでエンヴィスを案じるが、大丈夫そうなことを確認して、彼女に目を戻す。レディは再び目の端に涙を浮かび上がらせて、しかし拳を握り締めて怒ったような顔をしていた。
「他人を庇って、自分が死にかけるなんて馬鹿みたい!!」
「な……っ、お前!」
流石に不適切過ぎる言い分だ。エンヴィスは急所をぶつけた痛みも忘れ、彼女に食ってかかろうとする。ところがトワイライトは、さっと手を出して彼を制した。
「いいんだ、エンヴィスくん……彼女の気持ちも分かるからね」
「嘘だっ!分かるわけない!あんたなんかにアタシの気持ちがっ」
「聞いてくれ、レディくん」
「嫌だっ!聞きたくない!言い訳なんか……っ、もう沢山!」
トワイライトの眼差しは優しげで、口調は冷静だったが、しかしレディは全く聞き耳を持たない。むしろ彼を拒絶するように、耳を手で覆い隠して、床面に視線を落とした。
わざわざ危険を冒してまで自分を助けてくれた相手に、感謝するどころか非難をし、宥めすかすような言葉も受け入れない。
「言い訳だとっ!?お前、トワイライトさんがどういうつもりで」
「エンヴィスくん」
子供っぽいという表現では許容しきれない無礼な振る舞いに、エンヴィスは激怒し、再び彼女を怒鳴り付けようとする。トワイライトは今度は、少しだけ語調をきつくして、彼を黙らせた。ほんのわずか、一瞬だけ鋭い目つきで睨み付けられ、エンヴィスはたじろぎ口をつぐむ。彼が沈黙したのを見届けると、トワイライトはかすかに頷き、静かに話し出した。
「……すまなかった、レディくん」
「え!?」
「は!?」
流れるような動作で頭を下げられ、図らずもレディとエンヴィスは同時に驚きの声を発してしまう。
何故トワイライトが謝らねばならないのか。むしろ、彼は謝罪を要求していい立場のはずなのに。逆転が起こっていることに、二人とも動転し、反射的に罪悪感を抱いた。
「あれだけ大口を叩いておきながら、君を守り切れなかった。不安を抱かせてしまったな。それは、私の落ち度だ。本当にすまなかった」
「ち、違うよ、トワさん。元はと言えばアタシが……っ、アタシが、トワさんを巻き込んだの。危険な目に遭わせた。アタシに関わったから……っ!」
彼らの戸惑いを無視して、トワイライトは真摯に語り続ける。レディは懸命に否定したが、途中で言葉を詰まらせ、俯いてしまった。
本当に、その通りだ。彼女が助けを求めたから、彼は傷付いた。こんなことなら、自分一人だけが犠牲になれば良かったのに。
自分のしたことの責任が、彼女の背中に重くのしかかる。
沈黙する彼女の顔を覗き込み、トワイライトは唐突に言い放った。
「ならば一人で戦うか?」
「!」
レディがハッと目を見開いた。トワイライトは畳みかける。
「我々を巻き込むのが嫌なら、迷惑をかけたくないのなら、ここから出ていけばいい。全て一人で、解決すれば済む話だろう」
反論出来なかった。
まさに、その通りだったから。
レディは瞳を暗く閉ざし、下を見つめる。
「だが私は……君の独力には限界があると思うがね」
それもまた、図星であった。
組織から逃げ、父と戦い。全部を一人で解決出来るのなら、とっくにそうしていた。出来なかったのだ。父は強く、恐怖の対象だった。共に立ち向かう誰かがいなければ、敵わないと思った。けれどその誰かを作り、大事に感じるほど、傷付けたくないと思うのも事実だったのだ。
「じゃあ……じゃあ、どうすればいいの……っ?」
矛盾している。自分でも分かるくらいに、はっきりと。でも、どうすればいいのだろう。彼女はまだ、子供だ。大人に守られ、導かれ、成長することを必要とする、子供。二つのことに板挟みになると、頭の中が真っ白になって、これからどうすべきなのかが全く分からなくなってしまう、子供なのだ。
「分かんない……もう、分かんないよ……アタシ……どうすればいいの……?」
「!?」
ポロリと、涙がこぼれた。今後への不安、恐怖、言語化出来ない漠然とした思いが、彼女を飲み込み、押し潰す。
落涙するレディを見て、エンヴィスはぎょっとした。煩わしいほど賑やかで、気丈だった彼女がこんな一面を見せるとは。驚きと狼狽が込み上げて、彼は何も言えなくなった。トワイライトは反対に、穏やかな表情を保っている。
「君は優し過ぎる。誰かを頼ることに、罪悪感なんて覚えなくていいんだよ」
滲む視界の中で、誰かがスッと手を差し出した。レディは数度瞬きをして、目の前の光景を確かめる。
「君の居場所はここなんだろう?」
告げられた一言に、衝撃を受けた。
「……オジサン、聞いてたの……?」
たっぷり数十秒は時間を空けた後、おずおずと質問する。彼は何の反応も返さなかったけれど、その態度こそが、明確に答えを伝えていた。
『アタシの居場所は、あんなところじゃない!ここなの!』
あの時、追手たちに向けて自分が放った声が、鮮明に耳の奥に響いてくる。あれを、トワイライトも聞いていたのか。銃で撃たれ、瀕死の怪我を負いながらも、朦朧とした意識の中で聞くともなく聞いていた。彼女が心底、彼らを信頼し、慕っていることを。そばにいたいと強く願っていることを。
その思いを、彼は受け入れてくれたのか。
「レディくん、君を、我々警察部門の保護対象として認可する。受け入れ先は私、単独脱界者室長トワイライトだ」
彼女の疑念を、淡い期待を肯定するように、トワイライトは静かな調子で頷いた。
「同僚として、上司として。君を支え、導く……君が君らしく生きるための力と、場所を提供すると約束しよう。無論、また敵が来るのなら、共に戦い、守ってやる。これからはもっと安全な場所で、自由に暮らせるよ。私が保証する」
彼の言葉がまるで水のように、レディの脳に染み込み広がっていく。だがその意味を、彼女は即座に理解出来なかった。告げられた提案の素晴らしさに、己の幸運と彼らの好意への感謝に、思考がフリーズし体が固まった。
「と、トワイライトさん……!」
「すまないね、勝手なことをして。だが、彼女を放ってはおけないだろう?」
「ぐ……そりゃ、そうですが……」
事前の相談もなく、いきなりそんなことを言い始める彼を、エンヴィスは堪らず咎める。レディが返事どころか、身動ぎ一つせずに押し黙っていることなど、眼中にも入っていなかった。彼に険しい声を向けられたトワイライトは、しかし悪びれもせずに平然と答える。謝罪など形ばかりで、相手の意見をまるで気にかけない横暴さは、彼のかつての上司によく似ていた。
とはいえ、彼の言い分を否定するつもりがないことは、確かであった。他に行き場もない少女を簡単に放り出せるほど、エンヴィスは冷酷ではない。むしろ涙さえ見せた彼女のことを、不憫に思っていたのだ。自分たちのところに残ることで彼女が救われるのなら、拒絶する理由はない。トワイライトも彼の考えを読んでいたからこそ、大して詫びることもなかったのである。
「さて、そういうことだが……レディくん、どうする?」
後は全て彼女自身の意思次第だと、エンヴィスから視線を移して、トワイライトは問うた。レディは未だ唇を引き結んだまま、小難しい顔をして、じっと考え込んでいた。
「いい、の……?」
やがて、彼女はポツリと呟いた。かろうじて聞き取れる程度の、掠れた声を漏らして、おずおずと控え目にトワイライトを見上げる。相手を信じるべきか否か、葛藤している子供のような表情をしていた。そんな様子に、トワイライトはふっと微笑ましい感情を覚える。
「もちろんだとも。君がいてくれたら、我々としても非常に助かるからね」
柔らかい笑みを意識して形作って、滑らかな動作で手を差し出す。彼の骨ばった手の甲に目線を落として、レディは逡巡した。
彼らが本当にあの男に対抗出来るのか。それは分からないことだ。彼らを巻き込みたくないという気持ちも確かにある。けれども、今はただ、甘えていたかった。子供のままで、彼らに導いてほしかった。優しくしてくれ、守ってくれる彼らを、信じていたかった。彼らの好意と誓いを、受け止めたかった。
何より、嬉しかったのだ。こんな自分にも、居場所が与えられたことが。そしてそれは、自分自身の力で得たもの。もちろん、彼らが迎え入れてくれなければ不可能なことではあった。感謝もしている。しかし出会いの機会を掴み取ったのは、他ならぬ自らの努力の結果だ。あの男のもとから逃げ出して、街を彷徨わなければ叶わなかったことである。そのことが心底、嬉しかったのだ。
「……ありがとう!!トワさん!エンちゃん!!」
だから、彼女は自分でも知らずの内に、声を発していた。満面の笑みで、目尻には少しだけ涙を浮かべて、彼の手を握り返す。歓喜に膨れ上がった胸中を包み隠すことなく、堂々とぶちまける。つい口をついて出たのは、心の中だけで勝手につけていた、彼らへのあだ名だった。
「っハァ!?」
エンヴィスがすかさず、ふざけた呼び方をするなと眉を吊り上げる。だがレディは構わなかった。
もはや過去のことに囚われたくはなかった。いつか終わりが来ようとも、この時が幸せならばいいと思えた。彼らの仲間になれた今だけは、現実と向き合うことから逃れて、自由でいたかった。それがただの逃避や、怠慢であったとしても。彼女は全てを容認した。現在のこの瞬間だけを、刹那的に過ぎる時の中の一瞬のみに、傾注した。自分らしく、ただ楽しく、全力で。
そのツケがいずれ必ず回ってくるだろうことからも、目を逸らして。
* * *
「彼女は要するに、何者かから逃れて我々のもとにやってきたんだ。それを私が助け、半ば匿う形で、この部署に迎え入れた……そうすれば、守れると思った。実際、これまではそれなりに平穏だったわけだしね……」
トワイライトは椅子の上で背を軽く仰け反らし、天井の方へ視線をやりながら呟く。それは、過ぎ去った時への憐憫なのか、懐かしんでいるように思えた。
「だけど、今になって敵が動き出した……そういうことですか?」
その言わんとするところを察し、カーリは口を開く。トワイライトは未だ遠くを見つめたまま、ぼんやりと首肯した。
「あぁ、多分ね……」
「多分って……!アンタ、まだ隠すつもりなの!?」
緊迫感のまるでない彼の態度に、とうとう忍耐の限界が来たのだろう。レンキが声を荒げて詰問した。
「本当のことを言いなさいよ!アンタは全部知ってるんでしょう!?あの子の正体も、連れ去った連中が誰なのかも!知ってて黙ってるんでしょう!?いい加減にしてよ!包み隠さずに、全部話して!!」
彼からしてみれば、トワイライトの言動は、いかにも秘密主義で真実をはぐらかそうとしているものにしか見えなかった。だから、こんな風に問い詰めたのだ。頑なに口を閉ざす彼を、怒鳴り付けて喋らせようとした。
「単刀直入に言おう。レンキさん、私も、ほとんど何も知らないのですよ」
ところがそれは、彼の思い込みに過ぎない。反論するトワイライトの声音は、珍しく少しだけ感情が滲み出ているかのように、硬質だった。
「彼女は自分自身のことについて、全く話そうとしませんでした。だから私も聞かなかった。無理強いをしてまで吐かせるなんて、したくなかったのでね……」
一緒に働き出してからも、レディは相変わらず、自らの過去について何も語ろうとしなかった。トワイライトが探ろうとしても、聡い彼女はいつも機敏に察知して、巧みに逃げてしまっていた。あるいは、あからさまに顔を曇らせ、話したくないという気配を全面に押し出すのだ。だからトワイライトは、追及を止め、彼女が自分から打ち明けてくれる日を待つことにした。告白を強要して、彼女との関係を壊すことの方が、当時の彼にとっては危険なことに思えたのだ。結局、そのせいで現在このようなトラブルに巻き込まれているわけだが。
「彼女が何者なのかも、誰に追われているのかも、私には皆目見当もつかないんですよ」
「嘘!」
「嘘ではありません。だからこそ、私はあなたに協力し、ロザリオ邸にまで出向いたんだ」
反射のように叫ぶレンキを遮り、淡々と話し続ける。
ドゥーマの一件以来、彼女に危機が迫っていることには、気が付いていた。残された時間がいくらあるかも分からない状況で、ただ彼女が語り出すのを待っているだけというのは危険過ぎる。だから彼は、自分の手でも情報を集めようとしたのだ。つまり、より詳しい事情を知っていそうな人物から、話を聞くことにした。そして、ロザリオの”商売”に目をつけたのである。彼から情報を買えば、レディが語らなかった真実も分かるかも知れない。そう期待していた。しかし、ロザリオは取引に応じようとせず、ひたすらはぐらかして時を無駄にさせた。トワイライトとのやり取り以上に、見返りのある何かを握っていたのか、単に気が乗らなかったのか。何にせよ、彼は何一つとして有益なものをもたらしてくれなかった。その結果、間に合わなかった。ということだ。
「じゃあ……誰があいつを攫ったのか、何があったのかは全く分からないままだと?」
一通り話を聞き終えたエンヴィスが、苛立った調子で問いかけた。彼の眉間には深い皺が刻まれていて、その心中を如実に語っている。
「一つだけ……心当たりがないこともない」
トワイライトは、ゆっくりと首を左右に打ち振って、彼の疑問をやんわりと否定した。
「!?」
これには彼だけでなく、その場にいた全員が目を見開き、驚愕する。
「ど、どういうことなの、トワイライト!?」
「レディちゃんを誘拐した悪魔たちのこと、知ってるんですか!?」
「トワイライトさん、ご存知のことがあるのなら話してください!」
ほぼ同時に、ボール・アイ、カーリ、エンヴィスの声が響き渡った。彼ら三人に詰め寄られては、流石のトワイライトもたじたじとなって、焦燥の汗を伝わせる。
「いやっ、これはただの仮説で、私の勝手な憶測に過ぎないものだ……」
「いいから言いなさい!!」
珍しく歯切れの悪い物言いをする彼を、レンキが甲高く一喝した。今回ばかりはカーリたちもレンキに同意して、一斉に首を縦に振る。
「はぁ……分かったよ。降参だ」
コクコクと深く頷く彼らの圧力に耐えかねたのか、トワイライトは諸手を上げて負けを認めた。そしてもう一度息を吐くと、周囲を見回し、慎重に口を開く。どこからどう見ても、躊躇いの色が濃い仕草だった。
「……ボルファンティアグループ」
彼の発した声を耳にするなり、レンキとエンヴィスが息を飲み、戦慄するのが分かる。カーリとボール・アイはきょとんとした様子で、彼らとトワイライトを見比べていた。
「聞いたことがあるだろう?魔界で最も大きいと言われる、グループ企業だよ。専ら力を注いでいるのは、創薬事業らしいけどね」
説明されるまでもなく、その程度の知識は一般常識として頭に入っている。
魔界は、他の世界と異なり、政府の力が非常に強い世界として知られている。事実、魔界に生きる悪魔の半数以上が、魔界府に関係した仕事に就いているという統計すらあるほどだ。だがもちろん、そこに当てはまらない者たちも一定数はいるわけで。
要するに彼らは、魔界府とは一切関係を持たない、私企業に勤める悪魔たちだ。ボルファンティアグループは、そういった悪魔たちの就職先の代表例だった。
親会社である製薬会社、ボルファンティアホールディングスは、現社長でありCEOのボルファンティアが一代にして作り上げた、魔界に名だたる大企業の一つである。そしてその傘下には、無数の子会社、関連会社が連なっている。ボルファンティアは、その経営手腕や先を見通す慧眼、何より社員を引っ張るカリスマ性から、多くの悪魔たちに支持され、慕われている有名人だ。成功者、成り上がり者のセレブとして、メディアでも複数回取り上げられ、一躍その名を轟かせた。起業を望む者たちの間では、半ば神のように扱われさえしているという。彼に憧れる者たちの流入によって、最初期に会社の本拠地があった片田舎の小さな町は、再開発が為され名称まで変更された。社長にあやかって付けられた、ボルヘルムスというその名前は、今では最も多くの製薬会社が並ぶ都市として、市民に広く浸透している。
「あ、テレビで見たことあります。今時珍しく、一族経営なんですってね」
カーリがそこまで知っているのは、以前たまたまテレビで、彼のことを見かけたからである。ベンチャーから大手へと、一気に会社を飛躍させた優秀な経営者、起業家として、特集が組まれていた。インタビューに答える社長の、人工的に見えるほど鮮やかな金髪の彩りが、今も記憶に残っている。先天性の色素障害を患っているらしいが、ハンデとは思っていないと朗らかに語っていた。その時の笑顔の、清々しいまでの作り物っぽさにある種の感動さえ覚えたものだ。
的確に編集された映像の中で、最も鮮烈だったのが、インタビュアーから繰り出された一つの質問。今し方声に出して確認したことである。
親会社ボルファンティアホールディングスは、幹部陣が皆ボルファンティアの身内で構成されている。つまり、取締役員以上の肩書を持つ者は、全員血縁者、生物的な繋がりを持つ者同士ということだ。人間界においてはさして特異ではないが、魔界ではとても珍しい体制であると、インタビュアーは述べていた。事実、カーリもそれまで、魔界に一族経営の組織があるとは知らなかったために、驚いたものである。
そもそも悪魔たちは、束縛されることを好まない。血縁など、自らの選択の範疇外の要素に影響されるなんて、もってのほかだというのだろう。だから、完全な実力主義の社会システムを構築した。尤も、その実力は血筋に起因するもの故、彼らの世界は矛盾を孕んでもいるのだけれど。しかしだとしても、一族経営が疎まれがちな体制であることに変わりはない。人間界から流れてくる情報を鑑みれば、その性質に、互いの不正を庇い合ったり馴れ合ったりと、危険な面が含まれていることは明らかだった。人間よりも理性的で、冷徹な悪魔たちは、それらの面倒を避けられる形での企業運営を望んだのである。
彼らの考え方に背く、例外的な体制を誇示するボルファンティアグループが、悪魔たちからの注目を集めるのは必然だったというわけだ。
「いや、正確には少し違うな……あそこの連中は、ちょっと特殊なんだ」
と、テレビ番組を通して得た知識を披露するカーリだったが、エンヴィスは首を横に振って訂正した。
「グループ総帥、CEOのボルファンティアは、自分の養子にしか幹部の座を渡さない。だがそれは、子供に地位を与えてやりたいってことじゃないのさ。要は、養子となることが出世の条件なんだ」
つまり、厳密に言えば、一族経営ではないのだ。赤の他人を、養子として迎え入れているに過ぎない。そうやって、彼らを統率しているのだろう。あるいは、支配か。反乱を起こされないためなのだろうが、どうもやり口が奇妙である。テレビなどでは絶対に語れぬ話だ。とはいえ、エンヴィスのように少し事情に通じる者なら、誰でも知っていることではあるのだが。
「何だか、変な会社だね……」
「ちょっと、気持ち悪いですね……」
その異様さが理解出来たのだろう。ボール・アイとカーリの顔は、わずかながら引き攣っていた。法律上の子供に固執するボルファンティアにも、他人の養子になってまで、地位や権力を欲する経営陣にも、得体の知れない不気味な感情を覚える。一体何故そんなことを、と問いたい気持ちで一杯だった。
「そのせいかは知らんが、ボルファンティアには黒い噂が絶えない。例えば、実の娘を縊り殺した、とかな……」
「え!?」
どんな人物であれ、その栄光の背後には必ず陰がある。巷でよく囁かれる話だが、案外間違ってもいない理屈だ。むしろ一定数の真実を孕むからこそ、多くの者の間で共有されてきたのだろう。もちろん、例外も存在するが。
しかしながらボルファンティアは、彼らの言う”摂理”にしっかりと当てはまる男だった。多くの悪魔に、カリスマ的指導者として知られる彼だが、実はその周囲に、無数の恐ろしい評判を抱えているのである。
不当な解雇、書類の改竄、パワハラセクハラなどは序の口。脅迫や、非合法的な組織を利用した地上げ、中には殺人の容疑などを尤もらしく書き立てる記事もある。恐らくは大半が、ただの妬みや、やっかみから生まれたデマだろう。だが、警察部門の目を通して見れば、そこにはいくらかの真実も含まれているということが、理解出来るのだった。
そうとは知らなかったカーリは、目を見開き声を裏返らせて、エンヴィスを凝視する。
「正確には、行方不明なのだよ」
トワイライトが口を挟み、より正確性のある情報を伝えた。
「その証拠に、ほら。これが当時警察部門に提出された、捜索願だ」
彼がデスクトップパソコンの画面をこちらに向けると、そこには一枚の紙をスキャンした画像が映し出されていた。いかにも複雑そうな書類に、随分と綺麗な字体が、びっしりと書き込まれている。
「その愛娘殿が生きているとするならば……年は大体レディくんと同じくらいのはずだ」
「生きてればって……!生死も分かってないんですか?」
淡々と告げられた言葉に戦慄し、カーリは顔を引き攣らせる。まるで感情を見せない彼を、冷酷だと責めるような口調だった。
「ボルファンティアグループは、本当に黒い組織なの。今も、警察部門や検察部門の、複数のチームが張り付いてるはずだよ……娘の失踪だって、本当のことだか分からない」
珍しくレンキが割って入り、やんわりと彼女を宥めようとする。結果としてトワイライトを庇うことになってでも、事実を教えたかったのだ。ボルファンティアには簡単に触れてはならないという、暗黙の事実を。
「ど、どういうこと?」
「殺害を誤魔化すために、捜索願を出したんじゃないかってこと」
今度はボール・アイが、困惑した様子で問いかける。レンキは冷静なまま、鳥肌の立つような仮説を述べてきた。
「父親のボルファンティアは、もう何年も娘のことなんて口にしてない。そもそも当時だって、あまり話題にならなかったし……一応は、私財を注ぎ込んで探し出すって言ってたみたいだけど、まともに探したことなんて、あるのかどうかって感じ」
CEOの娘が行方不明になったというニュースは、一応は報じられ、市民たちに知らされた。しかし、あくまでも形式的な報道に過ぎず、ボルファンティアほどの大人物の身内の絡む事件にしては、随分と扱いが軽かったことを、当時のレンキは訝しんだものだ。ボルファンティア自身もさほど大事とは捉えていないらしく、記者からの問いかけに適当にしか応じていなかった。やがて時が経つと共に、事件は忘れ去られていく。今となっては、彼に娘がいたことさえ、覚えていない悪魔もいるだろう。
だがこれは、単に未解決事件が忘却されたという、悲劇的な話では終わらない。ボルファンティアの抱える闇の、一端が大きく露出した契機かも知れないのだ。
彼が娘を本気で案じていないことは、過去や現在の態度を見れば明らか。そこから考えられる答えは二つ。本当に娘に関心がないか、もしくは彼女の行方を知っているか。だが仮に後者だとすれば、わざわざ警察部門に捜索を頼む必要がなくなってくる。家出や夜逃げならば、自分たちだけで探せばいいだろう。行方不明という事実を公表し、世間に周知する理由は何か。最も嫌な可能性は、レンキの言った通り、殺人を秘匿するためだ。娘が失踪したのにも関わらず、何の手立ても打たないでいれば、誰かに必ず不審がられる。それを避けるための、小細工というわけである。
無論、所詮は予想に過ぎない話だ。少々穿った見方でもある。だが、彼に付き纏う種々の悪評、警察部門だからこそ一部事実と認められるそれを勘案すると、あながち偏見とも言えなくなる。
世間では噂に過ぎないけれど、彼らは知っているのだ。ボルファンティアの裏の顔、成功者の仮面の陰に隠した、恐るべき本性を。
「ボルファンティアはね、マフィアの親玉なんだよ」
裏社会を牛耳る、いくつかの非合法的組織の内、最も勢力が強いとされるグループの一つ。その支配者が、ボルファンティアなのである。
主たる商売は、違法薬物の開発と売買。製薬会社の片隅で行えるからなのかも知れないし、あるいは反対に、そういったスキルがあったからこそ会社を興せたのかも知れなかった。どちらが先なのかは分からない。確かなのは、彼は犯罪の世界と根強い結びつきを持っているということだけ。現在も、彼と彼の手がける闇の事業は、魔界府の多くの部門が関わって捜査を続けている。
「警察部門も、下手に彼らに関わって、泥沼に引き摺り込まれることを恐れた。裏の社会の存在は、知ってはいてもある程度黙認するという慣習が、根付いてしまっているからね……」
しかし、相手がそれなりに力のあるマフィアとなると、迂闊な行動は許されない。たった一つの失敗が、大々的な抗争を巻き起こすかも知れないのだ。そうなれば、多くの市民にも被害が及ぶ。街を平和に保つためには、見て見ぬふりも必要だった。恐らく、ボルファンティアもその結末が分かっていたから、大胆にも捜索願を提出したのだろう。職員たちは渋々と、この件から手を引いた。いつか未来の捜査員たちが、彼らに制裁を下し、全てを明るみに出すことを期待して。
「えっと、じゃあ……つまり、レディちゃんがそのボルファンティアさんの娘で、行方不明とされてる悪魔、ってことですか……?」
カーリはポカンとしたまま、確認の問いを投げかける。トワイライトの締め括った話は壮大過ぎて、今一つ自分のこととして受け止めきれていなかった。当たり前だろう。誰もが知る大企業のリーダーが実はマフィアで、友人がその娘だなんて。まるで映画そのものの展開だ。到底信じられるはずがない。
「その可能性は、なくはない」
「ですが、流石に根拠が乏し過ぎますよ。年齢が同じくらいというだけでは……本当に、ただ偶然なのでは?金のある連中なら、依頼して誘拐を仕掛けることも可能でしょう。何らかの目的のために、無差別に選んだのが奴だった」
鷹揚に頷くトワイライトに、今度はエンヴィスが反駁した。まさに同感だと、カーリも強く首を振る。
ボルファンティアの正体などは、この際どうでもいい。警察部門の彼らが言うことならば多分事実なのだろうが、今はさして重要なことではなかった。問題は、レディだ。行方不明になっている悪魔と同年代の娘なんて、広い魔界にいくらでもいる。その中で彼女こそがボルファンティアの実子であるという証拠は、何一つなかった。同様に、レディの誘拐事件と彼女の出自に関係があるのかも、不明だ。
「その通りだ。だが、関係がないとも言い切れないだろう?それに、いくら金があったとしても、その筋の者たちと繋がりを得ることは相応に困難だ。特に、相手の腕がいいのなら尚更」
彼らの意見にトワイライトは一旦は理解を示したものの、再び自説を持ち出してくる。しかし次は、容易に反論の出来る話題ではなかった。むしろ、納得すらし得るものだ。再現映像に映っていた悪魔たちは、明らかに経験豊富な玄人だった。たとえ大金を積んでも、容易には知り合えないだろう。
「彼らのような悪魔と関わりを持つことが出来、彼女と同じ年頃の女性を執拗に付け狙う理由のある人物……果たして、魔界に何人いるかな?」
彼らが雇われのプロフェッショナルなのか、直属の手下なのかは分からない。だが、ああいう手合いと接触出来る者は、限られてくるものだ。そしてレディを襲い続けた、幾多のトラブル。あれは偏執の域を超えている。そうまでして彼女に固執するからには、よほどの根拠がなければ理屈が通らない。つまり、全てを総合的に鑑み、可能性の高い人物から順に並べていくと、最上に来るのがボルファンティア、というわけである。
「……トワイライトさんは本当に、彼が本命だと……?」
「さてね。それはまだ分からない。あくまで予想だと言っただろう?」
彼の考えを疑うように、エンヴィスが控えめな声を上げたが、トワイライトはまともに答えず、首を傾けてはぐらかしてしまう。しかし恐らくこれは本気だろうと、長い付き合いのエンヴィスには察せられた。
「だけど……私は協力出来ない」
同じ結論に達した様子のレンキが、暗い顔をしてそんなことを呟いた。
「危険過ぎる。ボルファンティアはそこらの脱界者とは違う。本物のマフィアなんだよ!?迂闊に関われば、どんな目に遭うか知れたもんじゃない……アンタだって分かってるでしょう!?」
ボルファンティアの経営手腕は、表の事業だけでなく、マフィアとしての活動においても素晴らしい実力を発揮した。彼らは既に、違法薬物の製造販売以外にも、多数の裏の商売で成功を収めている。人身売買や闇の医療技術、脱界の提供。殺人や拷問の依頼を請け負ったり、残酷な賭けの出来る賭場を所有していたりもするそうだ。無論、全てが事実というわけではないかも知れないが、それでも危険なことには変わりがない。探りを入れるだけでも、相当の注意を払わねば、かえってこちらの安全が脅かされることだろう。
「えぇ、分かっていますよ」
レンキの懸念を、トワイライトは平然と笑顔で受け止めた。その上で、彼を靡かせるための演技を始める。
「だが、このまま手を拱いているだけというのも、許容し難くてねぇ……」
レディのことが心配で心配でならないのだと、憔悴した様子で、どこか焦りを滲ませながら喋る。これならばレンキも、少しくらい絆されてくれるのではないかと期待したが。
「そんなこと、どうしようもないでしょ!?」
彼はぴしゃりと、甲高い声で跳ねつけた。
「私だって、あの子のことは心配してる!でも、今回ばかりは私たちが手を出していい相手じゃない……少なくとも私は、関われないから」
彼とて、守るべき部下や同僚のいる身だ。誰かを助けるためとはいえ、おいそれと危険に踏み込むことは許されない。万が一、周囲を巻き込んでしまったら、取り返しのつかないことになる。慎重に判断を下す必要があるのだ。
「レンキさん……」
「レンキ……」
手を貸すことは出来ないと、にべもなく拒絶した彼を、カーリとボール・アイが追い縋るような眼差しで凝視する。すると、良心が痛んだのか、レンキは一瞬顔をくしゃりと歪めて葛藤を見せたが、理性の力で振り払った。
「大体、初めからアンタが……っ」
やり場のない憤りをぶつけるためか、再びトワイライトに向かって文句をぶつけようとして、思い留まる。流石に、いくら何でも酷過ぎる言だと気が付いたからだ。
「彼女の正体を推測しておきながら、長々とそばに居させた私にも責任がある、と?」
しかしながらトワイライトは容赦なく、彼が飲み込んだ言葉を予測して、自ら口にした。
レディがどんな悪魔と関わりがあったか判明した時点で、見捨てていれば。あるいは、そもそも最初から手を差し伸べなければ。今このようなトラブルに見舞われることはなかったのではないか。そういうことだ。
自身の考えの残酷さに、レンキは頬が引き攣るのを感じる。
「そんなこと言ってないでしょ!!!」
冷たい己を否定するように、彼は今日一番の大声を迸らせた。トワイライトは落ち着き払って、絶叫する彼の姿を眺めている。いつものように、何の感情も読み取れない顔つきで。
「っもういい!勝手にしなさい!!私は本当に、何も知らないからね!!」
彼の視線に耐えきれなくなったレンキは、捨て台詞を吐くと、逃げるように出口へと向かった。ドアを勢いよく引き開けて、ズンズンと大股に廊下を突き進む。
(私は悪くない……仕方なかったんだ……!)
彼の脳内には、薄情なことをする自分自身を、どうにかして正当化しようと試みるエゴイスティックな感情が渦巻いていた。
* * *
レンキが出ていってしまった後、残された面々はしばしポカンとしていた。彼の剣幕に気圧されたというよりも、ただ驚いて、圧倒されていたのである。
彼がいなくなったことで、これからのことに関する話し合いは、なし崩し的に終息した。依然として、レディのことは気がかりだったし、何か行動したいという思いは尽きなかったけれど、結局どうすべきかはまるで分からないままだった。答えを見つけるための機会を喪失した今となっては、通常業務に精を出すくらいしか、することがなかったのだ。
そして、無事一日の仕事を終えたエンヴィスは、帰宅すべく地下に向かっていた。魔界府中央庁舎の地下には、地上と同じくらい広大な、駐車場が作られている。その一角に、黒光りするバイクが停められていた。エンヴィスがいつも通勤に使っている、お気に入りだ。実家に立ち寄る時など、長距離移動の際は車を使うが、今日は予定していなかった。他に行くべきところもないから、さっさと帰ってしまおうと、彼は足早に愛車に歩み寄る。
小ぶりのリアバッグに、鞄を無造作に仕舞い込み、ヘルメットを手に取って、シートに跨ろうとした。
「!」
どこかで、かすかな、ほんのかすかな音がした。何か硬いものが、コンクリートの床を叩いたような、そんな音。
誰かいる。
エンヴィスは素早く顔を上げ、辺りを見回した。発生源は随分近いようだったが、どこからだろうかと、首を巡らしかけて、気が付く。
数メートル前方。緩衝材の取り付けられた、コンクリートの柱の影から、何者かが姿を覗かせる。カツンと、ハイヒールの踵が床を叩いた。明るい色の金髪を肩まで伸ばした、見覚えのある少女が、現れた。
「っ!?お前……レディ!?」
エンヴィスの体がびくりと跳ねる。驚愕に、声が裏返った。
そこにいるのは、間違いなくレディだった。だが、誰だかを理解するのに、一瞬の間が空いたのも事実だ。
今の彼女は、胸元の大きく開いた、赤いドレスを身に纏っている。いつもの軽快な服装とは随分雰囲気のことなる、セミフォーマルな装いだ。また、メイクもいつもと変えているのか、顔立ちも少し違って見えた。いや、それは表情の差だろうか。今の彼女はいつになく、思い詰めた様子の硬い顔をしていた。だからこそ、まるで別人に思えたのである。
しかし、まさか、こんなところで再開するとは。
驚きと混乱が頭の中で飛び交って、エンヴィスは中々平静を保てなかった。
「エンちゃん……」
瞠目したまま硬直している彼の名を、レディはおもむろに呼んだ。足を踏み出すと、履いた靴が硬質な足音を立てる。それによって我に返ったエンヴィスは、慌てて口を開いた。
「おっ、お前!今までどこ行ってたんだ!?無事なのか!?トワイライトさんも俺も、皆心配してたんだぞ!?」
矢継ぎ早に言いたいことをぶちまけるが、レディは答えない。悲しそうな顔をして、一歩一歩と着実に近付いてくる。膝上丈のドレスの裾が、ひらりとはためいた。
「……おい……レディ」
ここまで来れば、流石のエンヴィスも気が付く。彼女の様子が、明らかにおかしいということに。
「お前……何考えてる?」
鋭い目つきで彼女を見据え、低く問うた時だ。突然、レディが歩みを止め、その場に屹立した。顔を俯かせ、肩を震わせて、しばらく考え込んでいたかと思うと。
「エンちゃん……ごめんね」
泣き笑いのような、中途半端な笑顔を形作って、そんなことを言う。そして、ダッと勢いよく、こちらへ駆け出してきた。思わせぶりな謝罪に、意識を割いている暇はなかった。彼女の手には、何か光る物が握られていたからである。ナイフだ。
「うぉっ!?危ねぇっ!」
咄嗟に避けたものの、鋭利な刃の切先が、スーツの袖口付近を引っかいた。ボタンが弾け飛び、糸がほつれる。エンヴィスはちらりとそこを一瞥して、顔を顰めた。
「レディ!お前っ、何しやがる!」
困惑と怒りのままに怒鳴りつけるが、レディはまるで聞いていない。攻撃をかわされた反動で数歩よろめいたが、すぐに体勢を立て直し、再び襲ってきた。
「うぁああ!」
「くっ……」
エンヴィスは歯噛みして、応戦することを決意した。とはいえ、あまり結果は期待出来ないだろう。エンヴィスとて体術は会得しているが、強化系魔法の使い手たるレディからすれば、相手にもならぬはずだ。あっさりと隙を突かれて、刺されてしまう。そう思ったのだが。
意外なことに彼女の動きは、存外に鈍かった。一つ一つの動作がやたらと大振りで、予測しやすいために、簡単に回避出来てしまうのだ。恐らくは、魔法も使っていないのだろう。これでもかというほどに、躊躇いが多分に漏れた動きだった。
「はぁっ!やぁっ!うぅうぅっ!」
にも関わらず、果敢に挑み続ける彼女を、エンヴィスは半ば憐憫の入り混じった瞳で眺めた。
「お前……もうやめとけ」
数歩後退し、十分な距離が空いたことを確認してから、静かに語りかける。彼の口調は、まるで聞き分けのない子供を諭す時のような、呆れとも同情ともつかぬ気配をふんだんに含んでいた。
「何があったか知らねぇが、今回だけは大目に見てやるから、大人しく」
「駄目っ!」
懸命に宥めようとしたが、しかしレディは受け入れなかった。甲高い声で、エンヴィスの言い分を拒絶する。そして、震える両手で握ったナイフを、わざとらしく顔の横に掲げた。凶器を視界に入れることによって、自らの気持ちを奮い立たせるかのように。自分自身を鼓舞するような独り言を、大声で叫ぶ。
「アタシが、アタシがやらないといけないの……っ!アタシじゃなきゃ……」
「そんなこと言ったって、手震えてんじゃねーか」
「っ!」
エンヴィスからの指摘にビクッと肩を跳ねさせて、おどおどと一歩後ろに下がる。彼女の表情は一層凍りついており、今にも気を失いそうに思えた。
「なぁ、本当はお前だってこんなことしたくないだろう?何か事情があって、無理矢理やらされてる。違うか?」
その反応を見れば、彼女が置かれている状況など容易く推察出来る。エンヴィスは穏やかな調子で、しかし細心の注意を払って問いかけた。レディの瞳が、分かりやすく左右に揺れる。どうやら、図星らしい。
「大丈夫だ。お前に何があっても、俺たちが力になる。だから……とにかく、それ捨てろ」
ならば、説得の余地はあるだろう。エンヴィスは慎重に言動を選択しながら、話しかけ続けた。
「っ!!」
彼が前へと歩み出ると、レディは頬を引き攣らせ、大袈裟に飛び退く。勢い余ってたたらを踏んだ足が、カツカツッと不規則な音を立てた。よほど怯えているのだろう。キョドキョドと目だけを動かし、必要以上に周囲を気にかける様子は、臆病な小動物のようである。いつもの快活とした彼女の姿とは、似ても似つかなかった。
「怖がらなくていい。俺たちはお前の味方だ」
一体何が彼女を豹変させたのか。誰が彼女を苦しめているのか。エンヴィスはふつふつと込み上げてくる怒りを必死に抑えながら、ゆっくりと彼女に近付いていく。レディは相変わらず、萎縮したまま、返す言葉を探していた。
「で、でも……っ」
「いいから」
まとまらない思考をどうにか声に出そうと、口を開きかける彼女を、にべもなく黙らせる。遮られ、戸惑う彼女に反論を紡がせる間を与えず、エンヴィスは畳みかけた。
「ナイフ置いて。こっちに来い」
優しげな、だが有無を言わさぬ口調で命じると、とうとう彼女も観念したらしかった。ナイフを握る手から徐々に力が抜けていき、今にも柄がこぼれ落ちそうになる。その隙を見逃さず、エンヴィスは素早く彼女に接近すると、凶器を奪い取ろうとした。
「ぃやッ!!」
だが、読み違えた。
どんなに平静を装っていても、やはり気が急いていたのだろう。手を出すタイミングがわずかに早かったようだ。
咄嗟に我に返ったレディが、慌てて腕を引く。そのせいでエンヴィスの掌は、鋭利な刃によってスッパリと撫で切られた。
「ぐっ……!」
痛みを自覚すると同時に、口を開けた傷口から、鮮血が滴る。
「いってぇ……」
思わず呻き声を漏らしながらも、彼は動きを止めなかった。出血を目にするなり、驚いて棒立ちになっていたレディの手首を、傷ついていない方の手で思い切り掴み上げる。
「あ……っ!」
力任せにナイフを奪い取ろうとしたが、レディの抵抗は存外に強かった。彼らはそのまま揉み合いになり、人気のない駐車場で格闘を繰り広げる。一本の刃物を巡って、一組の男女が争う様は、側から見れば滑稽でさえあったかも知れないが、当人たちにとっては至って真剣な、命のかかったやり取りであった。
やがて、何がどうなったのだろうか。二人とも必死だったので詳しいことは分からない。だが、それは一瞬のことだった。
レディに強い力で突き飛ばされたエンヴィスは、コンクリートの壁に背中を打ち付ける。角が壁に当たって、ガツッという不快な音と振動をもたらした。彼に腕を掴まれたままだったレディも、引っ張られてバランスを崩し、こちらに向かって倒れかかってくる。その時だった。
ずぶり。
何かが、嫌な音を立ててエンヴィスの腹に沈み込んでくる。冷たく、硬い無機質な何かが。
直後、焼けるような痛みが熱さとなって襲いかかってきて、苦悶の声が迸った。
「ぐぁあ……っ!!」
初めは、気が付かなかった。意識せずとも勝手に押し出された声音は、まるで獣じみていて、とても自分のものだとは思えなかったのだ。
「え、エンちゃん……!」
刺されたのだということを理解出来たのは、レディの声を聞いたからだ。彼女の顔は蒼白になっていて、呆然としたような、酷い形に固まっている。彼女の視線を無意識に辿ったエンヴィスは、自身の腹部に、ナイフが深々と突き刺さっているのを確認した。
「っう……」
途端に、膝から力が抜けた。怪我をしていると知覚したことで、一気に体が不調を訴え始めたようだ。同時に、レディも恐怖してしまったのか、咄嗟に手を引いてしまった。
彼女の動きに付随して、握り締められたままだったナイフがずるりと引き抜かれ、栓を失った傷口から大量に血が溢れ出す。急速な失血に耐えられず、エンヴィスはその場に片膝をついた。腹部を押さえた手が一瞬で真っ赤に染まり、床にも血溜まりを作っていく。
「あ……ぁ……」
じわじわと拡大し、自分の靴裏までもを赤く濡らすエンヴィスの血液を見て、レディは声にならない声をこぼした。からんっと、彼女が取り落としたナイフが、床に当たって音を立てる。エンヴィスがすかさずそれを払い飛ばすと、ナイフはくるくると弧を描きながら、遠くへ滑っていった。
「っ……!」
その音が、彼女の意識を現実へと引き戻したのか。あるいは、彼女を脅している人物からの連絡でも受けたのだろうか。彼女は突然背筋を伸ばすと、踵を返し、急いでその場を離れようとした。
「待て……っ!」
エンヴィスは必死に追いかけようとするが、出血が酷く、立つこともままならない。
「はーっ……はーっ……」
彼は額にびっしりと冷や汗を浮かべて、肩で息をした。血に濡れたシャツが、肌に張り付く感覚が不快感をもたらす。ヒールの走り去る音がかすかに鼓膜を刺激するけれど、意識を保つのに精一杯で、目を開けることさえ出来なかった。
「きゃー!?」
突如、誰かの悲鳴が響き渡る。聞き覚えのない声だ。恐らく、退勤した他の職員だろう。
「大丈夫ですかー!?」
「救急車呼んで!早く!!」
たちまち、何人もの悪魔たちが群がってきて、エンヴィスの周りを取り囲んだ。
「レディ……っ、ごほっ」
エンヴィスは未だ諦めきれずに、彼女のいた方向へと手を伸ばす。込み上げてくる吐き気を堪えきれずに咽せ返ると、どす黒い血が唇を割って吹きこぼれた。体から力が抜け、ぬるつく掌が床を滑る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「しっかりしてください!!」
驚いた悪魔たちの騒ぐ声がするが、まるで水の中にいるようにくぐもっていて、上手く聞き取れない。はっきり耳に届くのは、自分自身の、異様に荒い呼吸音だけだった。
やがて、次第に意識が薄くなり、瞼が重くのしかかってくる。限界に達した彼は、そのままどっと昏倒した。
数分後、彼を乗せた救急車が、けたたましいサイレンと共に中央庁舎を飛び出した。赤いテールランプが夜の街へと消えていくのを、残された悪魔たちは呆然と見送る。レディの姿は既になく、唯一の名残と呼べるのは、乾き始めて変色した赤黒い血溜まりだけだった。
* * *
薄暗い室内で、トワイライトは一人物思いに耽っていた。咥えた羽煙草から、黒煙が漂う。
他に誰もいないオフィスは電気が全て消され、暗闇に包まれていた。唯一の光と呼べるのは、窓の外から流れ込んでくる、街灯と他所のビルの明かりだけだ。夜の闇にも負けない、漆黒の瞳に、そのわずかな明るさが映る。だが、彼はそれを見ているようで、全く知覚していなかった。
彼の意識が向いているのは、過去。先ほど交わした、会話についてだった。
「それで、どうするつもりなんだ?トワイライト室長」
タキトゥスの冷酷な詰問が、鋭く飛んでくる。まるでたった今浴びせられたかのように、その声音は現実感をもって響いた。
彼のいるのは、脱界者取締部部長の執務室。ユリウスの居城だ。当然、そこには城主たるユリウスの姿もある。そしてトワイライトは、彼らと対面する形で、磨き抜かれた床の上に立っているのだった。
「君のせいで、職員が一人、救急搬送されたんだぞ。この件、どう説明をつける」
至極真面目な表情で、尤もらしい言葉を並べ立てるタキトゥス。普段はトワイライトに弄ばれてばかりで、まるで抗えないくせに、いや、だからこそ意趣返しをしたいのかも知れないが。いざ相手の弱みを見つけた途端、鬼の首を取ったように責め立ててくる彼は、いかにも俗物的だ。きっと優越感と勝利の快感で、たっぷり満たされているはずの胸中を想像すると、トワイライトは半ば呆れ、半ば笑いを堪えるのに必死だった。
「さぁ……どうしようもないでしょう。起きてしまったことは、もはや取り返しがつかないのですから」
はぐらかすように肩を竦めれば、タキトゥスの上司然とした仮面にかすかな亀裂が生じた。
「……開き直る気か?」
「他にどうしろと?」
こめかみの辺りをピクピクと引き攣らせ、目つきを険しくする彼を、トワイライトも大胆に見返す。そして口を開いた。
「タキトゥス課長こそ、何か解決策がおありなら、是非ともご教授いただきたい」
「貴様……!」
平然と言い返され、タキトゥスはプライドが大きく傷付けられたことへの怒りを覚える。だが、それを言語化などし、醜態を晒してしまう前に、ユリウスからの制止が入った。
「まぁ待て、タキトゥス課長」
彼は飲んでいた紅茶をテーブルに置くと、のんびりと足を組み替え、トワイライトを見上げた。
「トワイライト室長。君が今、退っ引きならない状況にいることは、理解しているだろう?」
「……えぇ」
もったいぶって告げられたのは、確認という名の牽制だった。要するに、大人しくしていろということだ。窮地に陥っている現状では、立場が弱く、彼の言葉に逆らうことも出来ない。トワイライトは仕方なく、服従を選択した。ユリウスは、心持ち得意げになって続ける。
「君が雇用した非正規職員が、裏で反社会的勢力と繋がっており、剰え、同僚を刺して逃げた……正規の職員を、だ。これは大変な事態だ。流石の私と言えども、全てを穏便に済ませることは出来かねる。分かるね?」
表向きは平然としているが、どこか愉悦を滲ませた口調で、彼は語る。そこに含まれた意図を察するのは、さほど難しいことではなかった。
「誰かが責任を取らねばならない。例えば……私とか」
「君は問題となっている悪魔の、直属の上司にあたる。彼女を雇用するよう提案してきたのも、君だ。理屈は十分に通る」
トワイライトの直截な言葉を、ユリウスは鷹揚な頷きで肯定した。しかし、自身はあえて遠回しな言い方しかしないのが、嫌らしいところだ。尤も、この件ばかりは、率直に告げられても嬉しくはないが。
「しかし、私とて独断で決定したわけではありません。最終的な許可をしたのは……」
「我々に責任を転嫁するつもりか?トワイライト」
ユリウスの言い分も当然のものだが、当事者としては、容易く受け入れることなど出来ない。トワイライトは一先ず反論を試みようとするが、タキトゥスの冷徹な声音に一蹴された。トワイライトの反応を予測し、あらかじめ対応を練っていたのだろう。彼の妨害工作はいとも巧みで、容赦がなかった。
「そんなことは言っていませんよ」
だが、トワイライトとてもただ黙って、してやられているわけではない。呆れたような半笑いを浮かべ、まるでタキトゥスの考え過ぎだとでも言うように、受け流す。
「ですが、一つ言わせていただくとすれば、そのやり方は少々外聞が悪いのではないかと愚考します。事情をよく知らない第三者の目には、誰か一人だけに全責任を押し付け、切り捨てたようにも見えることでしょう。これは重大な問題なのではありませんかな?それに、彼女が真にマフィアと繋がりを持っていたかは明らかになっておりません。全ては先走ったレンキさんの、情報分析部の誤解ということもあり得る」
まだ何もかもが疑惑の段階であり、真実は一つとして暴かれていないのだ。レディがエンヴィスを刺したことは事実だが、もしかすれば酌量の余地があるかも知れない。にも関わらず勝手に罪と決め付け、剰えトワイライトのみを犠牲にしたと解釈されれば、市民の反感を買う。タキトゥスは想像し、眉を顰めた。
トワイライトにも、彼の思考の辿り着く先が読めたのだろう。心底胸を痛めているとでも言いたげな、泣き笑いめいた表情を作って、続けてきた。
「私としても、魔界府警察部門の優秀なお二方が、そのような浅ましい真似をする人物だと叩かれる様を見るのは」
「っはははは!」
ところが、彼が最後まで言い切るより先に、ユリウスの哄笑が響き渡った。
これには流石のトワイライトも驚いたのか、目を丸くして、彼を凝視している。いかにも作り物らしい感情は、その顔から綺麗さっぱり消え去っている。
「何を言い出すかと思えば……君はまだ、勘違いをしているのか」
彼だけでなく、タキトゥスからの注視にも気が付きながら、ユリウスは落ち着き払った態度で足を組み替える。革張りのソファが、彼の体重の移動に伴い小さく音を立てた。
「君は、ミスをした。この魔界府では、たった一つのミスが致命的な欠点になり得る……大事なのは、それだけだ。真実など、どうあったって構いはしない」
テーブルに置かれたティーカップからは、彼の好むハーブティーの香りがわずかに漂ってくる。ゆったりと薫る湯気と、くつろぎきった調子の彼の姿は、この会話の内容に全く合致していなかった。
タキトゥスは横目でちらりとだけトワイライトを見遣る。彼は、ユリウスの問いかけに肯定も否定も示さず、何の感情も載っていない顔をしていた。
「終わりだよ、トワイライトくん。君はもう、我々と言葉を交わせるような悪魔じゃないんだ」
左側の角の付け根を撫でさすりながら、ユリウスは淡々と畳みかけていく。眼鏡の奥の灰色の瞳には、享楽の光が宿っていた。
「交渉も、探り合いも、全て意味を為さない。階段を転がり落ちていくだけの君には、もはや何の価値もないからね」
一度失態を冒した悪魔が生き残れるほど、魔界府は甘い組織ではない。順風満帆に生きてきた悪魔が、呆気なく砕け散る姿を、トワイライトはこれまでに幾度も見てきた。今度は、自分の番といことなのだろう。信用を失い、将来も見込めなくなった自分では、ユリウスたちに対し提供出来るものなど何もない。そして利益をもたらさない者を、いつまでも隣に置いておくほど、彼らも優しい悪魔ではない。つまり、彼らからしてみればトワイライトなど、今やまるで役に立たない道具、ゴミと同然の存在なのだ。
「騒ぎたければ騒ぐといい。訴訟を起こしても構わないよ。それで君の憤懣が解消されるのなら、いくらでも抵抗するといい……だが、我々の社会的地位と権力は、絶対的なものだ。君如きには、決して脅かせない。むしろ、君の方が危険な目に遭うだろう……インペラトルの周りを飛び交うハエは、即刻叩き潰されるのが決まりだからね」
自分だけを切り捨てれば、悪評が立つ。トワイライトの言葉はほとんど脅しじみたものだったが、ユリウスの反撃も全く同じやり方だった。
彼の口調は終始穏やかだったが、だからこそ、無慈悲で冷酷な印象を与えた。
「さて、話は以上だ。君の処遇は改めて評議の上、決定する。無論、それより早く、君が自主的に謝意を示すというのなら、拒絶はしないが」
言いたいことは全て吐き出したとばかりに、ユリウスはすっきりとした表情で、ソファの肘掛けをぽんと叩く。興味関心が尽きたことが明白な、抑揚のない声音でもって、トワイライトに退出を促した。当たり障りのないフレーズに包んだ、さっさと辞めろという圧力のおまけ付きだ。残念ながら、トワイライトに逆らう術はなかった。平凡な一市民に過ぎない彼が、インペラトルと戦えるはずがないのだ。結局、大人しく従うのが、一番マシな選択肢なのだった。
「さぁ、もう用は済んだだろう。出て行きたまえ」
そのまましばし無言でいると、あからさまに嫌そうな顔をしたタキトゥスによって、彼はあっさりと部屋を追い出された。せめて最後に一言くらい言ってやろうと、振り向きかけたが、その眼前で扉が閉まる。半開きにした唇から、吐息だけがかすかに漏れた。
というのが、思い返した記憶の全てだ。回想を終えたトワイライトは、煙草を揉み消し、疲れた様子で眉間を指圧する。
実際、疲れていた。疲労が濃く体にべっとりとへばりついて、重怠さを与えてくる。体力を消耗するようなことはしていないから、これは精神的なものだ。
携帯を取り出して、新たな連絡がないかを確認する。エンヴィスから、無事を知らせるメールが届いていた。治療は済んだが、念の為、搬送先の病院に数日間入院することになったようだ。とりあえず、安堵した。しかし、それによって止まっていた思考の流れが、再び始まってしまう。
迂闊だった。
自らの力を買い被り過ぎた。でなければ、こんなことにはならなかっただろう。
レディの背後にある危険性を、確かに彼は知っていた。だが、自分ならばそれすらも糧に変えられると信じた。過信だった。その過ちの炎が引火して、とうとう大災害を起こしたのだ。自分自身を中心に取り込んだ、大火事を。
(どうすればいい……どうすれば、収束させられる?)
過ぎてしまったことは、もはやどうにもならない。彼に出来ることがあるとすれば、事態を少しでも早く収める。それに尽きるだろう。でなければ、自分はここで、消し炭と化してしまう。そんな結末は、絶対にごめんだった。だが、思案したところで、そう容易に解決策が浮かぶわけでもない。否、正確にはアイディアこそないわけではなかったが、それは無謀で、到底実現し得ないものだった。トワイライトは黙したまま、二枚目の羽煙草を咥える。
無造作に机の上へと放り出されたスマートフォンが、眩い光を周囲に投げかけた。暗い室内をわずかに明るく照らしたその中に、一抹の違和感を覚える。
「!」
トワイライトはほとんど反射的に、室内にさっと視線を走らせた。しかし、そこには何もない。ただ暗闇と、静寂とが広がっているだけである。
気のせいだったのだろうか。思いかけて、すぐに考え直す。
(いや、違う……誰かが、いる?)
目には見えない何者かが、確かにいる。
たった一瞬、かすかな気配を感じただけだが、どうしても気のせいだとは思えなかった。そして最も訝ったのは、抱いた感覚の中にほんの少し、懐かしさが混じっていたことだ。
これほど高度な隠密系魔法を使用する相手に、知り合いなどいない。だからやはり勘違いか、あるいは途轍もなく複雑で面倒臭い欺瞞の術式をかけられているかだ。どちらにせよ、油断の出来る状況ではないだろう。
己の直感を信じ、そっと身を屈める。指先だけで机の引き出しを探りながら、一番下の鍵のかかった段を魔法で開け、麻酔銃を取り出した。いざという時のための、いつもの得物だ。
グリップ部分を握り締めると、硬い感触が掌に伝わってくる。それを確かめてから、ゆっくりと腕を上げた。音を立ててしまわぬよう、慎重に立ち上がり、手にした拳銃を構える。
いつの間にか、背後に人影があった。さっきまでは誰もいなかったはずの場所に、誰かが立っている。
「!?」
トワイライトは驚き、急いで振り返った。眼前に、男の腕が伸びてきている。まるで、首を絞めようとしているかのようだ。
捕まっては堪らないと、慌てて飛び退く。直後、右の手首に強い衝撃が走った。蹴られたのだ。
「っ……!」
痛みで握力が緩み、手から銃がこぼれ落ちる。硬い物体が床にぶつかる、乾いた音が鳴った。
「……幻術か」
幻を見せて撹乱した隙に、相手を無力化する作戦だったのだろう。余程の訓練を積まない限りは、悪魔というものはどうしても視覚的情報を重視してしまいがちだ。心理の穴を逆手に取られ、利用されたのである。
「流石だな。こうも容易く見抜かれるとは。慧眼、恐れ入るよ」
ほぼ無意識的にこぼした独り言に、男は律儀に答えた。見覚えのあるその姿に、トワイライトは自身の第六感が間違っていなかったことを知る。だが、確信をより強めるために、大胆にも背を向けて部屋の電灯を付けた。パッと降り注ぐ光を受けて、男は眩しそうに目を細める。暗闇の方が、かえって快適だったとでも言いたげに。
「……お久しぶりです。ジキルさん」
明るくなった室内で、トワイライトは再び男と向き直る。
「いきなり無礼ではないですか。それとも、突然背後から襲撃するのが、あなた方の世界の”礼儀”なのですかな?」
「フッ……いやこれは、大変な失礼をした。申し訳ない」
いきなり嫌味をぶつけてやると、男は微苦笑と共に軽く頭を下げた。本当は謝意など微塵も抱いていないのだろう、おざなりな動作だ。
「そちらが早くから気が付いた様子だったので、少々好奇心に駆られてね……」
要は試したということか。旧知とはいえ、さほど親しくもないこの男に、そんなことをされる謂れはなかった。ただでさえ、厄介なトラブルを抱えているというのに。
「それで、何の用です?公安部長殿」
トワイライトは眉を顰め、不快感を露わにした表情で再度問いかける。肩書きを呼ばれた瞬間男は、態度を改めた。ようやくまともな話をする気になったようだ。
「まぁまずは、再会を祝して」
靴音をわざと立てて、こちらへと体を向け、手を差し出してくる。低く掠れた声で求められるままに、トワイライトも彼の手を握り返した。
ジキルは、スラリとした背の高い中年悪魔だ。ブルーグレーのスーツを身に纏い、太めの斜めストライプが入った、いわゆるレジメンタルタイを締めている。センターパートに整えられた短髪は、半分が銀色で半分が金色に輝いていた。栗色の角は、額の中心から二本、左右に分かれ頭をぐるりと取り囲むように、後方へと伸びている。そして後頭部の辺りで絡み合い、複雑に伸びた蔦植物のような形を作っていた。瞳はトワイライトと同じ漆黒。だからなのだろうか。初対面から、彼の態度には親しみのようなものが宿っている気がしてならなかった。だがその黒さは、以前見えた時よりも更に、闇を孕んでいる。就いている仕事や立場のせいでもあるのだろう。
公安部は名目上、テロリズム等大多数の市民や魔界府を脅かしかねない事案に対応する、精鋭揃いの組織と謳われている。与えられている権限も、業務の内容上大きくなりがちだ。しかし、その実情は驚くほど不透明で、曖昧。内部の悪魔ですら、全貌を知ることは難しいと言われている。何が真実で何が虚偽なのか、把握しているのはほんの一部の上役のみだ。場合によっては他部署の仕事に口を挟み、法的に問題のある行動もする。詰まるところ、強くて怪しい謎の集団というわけだ。だから多くの職員が公安部を嫌い、疎み、邪険にする。人間界と同様に、ドラマの材料に仕立てたりも。
「今更ではありますが、昇進おめでとうございます」
トワイライトがこのジキルと出会ったのは、まだ刑事部にいた時分のことだ。当時の彼はまだ一課長に過ぎず、部長の男に追従して働く身だった。それが様々の事情で、部長に就任したのであった。知り合いとしては、形だけでも挨拶をしておくべき事柄だ。
「君のおかげだよ。あの時の”配慮”には感謝している」
ジキルは微笑みを浮かべたまま、トワイライトに応じた。言葉選びの厳しさを讃えるべきか、事実を隠蔽され手柄を横取りされた過去の因縁を嘆くべきか、難しいところだ。にも関わらずジキルの表情は、儀礼的というよりむしろ、親近感を覚えている者のそれだった。
「いえいえ、大したことではございませんよ……しかし、何分印象的な出来事でしたのでね」
当時の記憶が蘇ってきて、同時に苦い思いをも去来させる。トワイライトは笑顔の裏に敵意を隠して、言い放った。
「寛大かつ忙しいあなたのことだ。我らのことなど瑣末な問題とされているかと思ったが……存外、神経質気味らしい」
大したことじゃないと強がり、一方で決して忘れてはいないと牽制するトワイライトに、形式上は褒めつつも、そんな小さなことを一々覚えているなんてみみっちいと嘲るジキル。両者はしばし睨み合い、やがてトワイライトの方が、ふっと視線を逸らす。
「はぁ……馬鹿らしい。こんなもの、止めにしましょう」
「おや。珍しいな。君ともあろうものが、先に降参とは」
「棄権と言っていただきたい。一度は友人として語らった仲ですぞ?過去は水に流せぬとしても、出会った途端に争う必要もなし。でしょう?」
意外そうに眉を上げるジキルに、わざとらしい溜め息を聞かせて呟く。
「それに、個人的なことを申し上げるならば……私はメンツや縄張りというものにあまり頓着がない。興味のない勝負で出し抜かれたとしても、さほど恨みはしませんよ。不利益を被ったのでもない限りはね」
「ほう……ならばここにいるのは納得ずくだと?」
「無論、側から見れば左遷に変わりないのでしょうがね」
苦笑いと共に打ち明けると、ジキルは肩を竦めた。まるで、会話の方向を誘導しようとしているかのようだ。
「では、ここから更に流れることも望んでいるかね?」
「……どういう意味ですか?」
いきなり踏み込まれて、トワイライトの目が光った。声色を変え、突き刺すような眼差しでジキルを見遣る。
「少し耳に挟んだだけだ。何やら、問題を抱えているらしいな」
彼は案外あっさりと、トワイライトの言外の質問に肯定を返した。つまり、彼らの事情を知っているということだ。
「流石は公安部……諜報力には自信があるようで」
「たまたまだよ。君ほど優秀な悪魔の噂なら、出回るのも早いからな」
「はははは、ご冗談を。私はしがない室長職ですよ」
その程度の人物の情報を、これだけ短時間で得るなどあり得ない。仮にあったとしたら、それは意図的に情報網を張り巡らせていたからだ。彼は恐らく、トワイライト、ひいては単独脱界者対策室の周りを探っていたのだろう。
「しかし問題と言われましても、我々はこの通り小さな部署でねぇ……些細なアクシデントならほぼ毎日」
「隠さなくていい」
ならば何か目的があるはずであり、警戒して然るべきだ。トワイライトはにこやかな笑みで、誤魔化そうと試みる。だがジキルは容赦なく、彼の話を遮った。
「君は今、困った状況にいると聞いた。部下に離反され、そのせいで上から詰められている、と」
正直に言えば、図星だ。しかし、まだ悪あがきの余地はある。ジキルが全て知っているとは限らないからだ。途中から、推測を交えている可能性もある。自分もよく使う手口だからこそ、そこには細心の注意を払い、見分ける必要があった。
「ふむ……あまり、警戒はしないでほしいのだけどね」
信用されていないことを感じ取ったのだろう。ジキルは顎に手を当てて、困窮した様子で眉を顰める。
「つまり、私が申し出たいのは、過去の借りを返したいということなんだ。君には随分助けられた。だから今度は、我々が君の手助けをしようかと考えているんだよ」
「……見返りは?」
言い分としては立派だが、信頼を置けるかと聞かれたら、答えは否だ。悪魔の世界では、善意など存在しない。多少はあるにしても、大半が羊の皮を被った狼。食われないためには、裏にある罠を暴かなければならない。
「フッ、察しが良くて助かるよ」
彼の声音に込められた、わずかな敵意を認めなかったのか、それとも無視したのか。ジキルは満足そうな雰囲気さえ漂わせて、頷く。
「君の考えは読めている。そして、我々ならそれを叶えてやれる。そういうことだ」
「……と、言いますと?」
淡々と発するジキルに、トワイライトも同じく平坦に聞き返す。彼が真にこちらの考えを読んでいるのか、見抜くために。
「どんなに優れた電子機器も、プラグを抜かれたら終いだ」
対するジキルの答えは、まごうことなき満点だった。トワイライトは咄嗟に、リスクとリターンとを天秤にかける。
自分の立場、仲間の今後、ジキルの立場、成功したら得られるもの、反対に失うものまで。
けれど、選択肢はないに等しいのだった。
他に頼れるところは皆無。そもそもトワイライト本人に責任の一端がある以上、逃れる術はない。そこに差し込んだ一筋の光。たとえ危険でも、試すしかないのでは?このまま何もせずにいれば、ただ押し潰され失墜してしまうだけだろう。ならばせめて、先に何が待っているか分からぬ道でも、突き進んだ方がまだマシではないのか。
トワイライトは迷う。果たして、目の前にいるこの男ジキルを、信じていいものか。自分たちが生き残る方法は、彼に縋る以外ないのか。
葛藤し、煩悶し、懊悩し、やがて彼は一つの結論に達した。
* * *
(エンヴィスさん……!)
まだ早朝の、人気のない病院内を、カーリは出来る限りの速度で進んでいく。走ってはいけないと、必死に抑えてはいるのだが、にも関わらず足がもつれそうになった。気持ちばかりが逸って、肉体が全然ついていかないのだ。ドクンドクンという鼓動が、耳のすぐそばで聞こえる。
「カーリ~……」
「静かにしてて」
リュックに隠したボール・アイが、眠たげな声を発する。しかし喋ってしまっては、意味がない。誰かに気付かれ、新種の生物だと知られてしまえば、大事になる。カーリは小さく囁き返し、注意した。それ以上、彼に言葉をかけている余裕もなかった。焦燥と、懸命な祈りが彼女を包む。彼も分かっているのか、大人しく沈黙を守っていた。
どうか無事でいてほしい。
カーリが願うのはただそれだけだった。
「エンヴィスさん、大丈夫ですか!?」
目当ての病室に辿り着くなり、ノックもせずに扉を引き開ける。彼女の眼前に、衝撃的な光景が広がった。
「……ん?おー、カーリ。来てくれたのか」
昨夜、帰宅途中に腹部を刺され、救急搬送されたはずのエンヴィス。一時は出血多量で意識不明にまで陥ったと聞いていたが、今ここにいる彼は、随分と元気そうだ。ベッドに座って、のんびりとテレビなんか見ている。重傷を負った気配など、微塵も感じられなかった。
カーリはポカンとして、口を開ける。肩にかけたリュックの紐が、ずるりと滑り落ちた。
「……え?……あれ?」
「にしてもお前、ちょっと早過ぎじゃねーか?別に無理しなくても……って、どうした?」
混乱したまま、病室の入り口に立ち尽くす彼女を、エンヴィスは不思議そうに見上げる。その時だった。
「兄さん……!」
彼女の横をすり抜けて、誰かが室内へと入ってくる。長く美しい金髪が、さらりと靡いた。
「無事だったのね!良かった……!!本当に、良かった!!」
エンヴィスのもとに駆け寄ると、半ば倒れ込むようにして、彼の膝に縋り付く。そして、彼の手を握った。
「もう、心配したんだから!どうして兄さんはいつもいつも、無茶をするの……!」
大声で捲し立てる彼女を、エンヴィスは困り顔をして、何も言わずに眺めていた。というより、何と声をかけるべきか、迷っているかのようだ。
「あの……えぇっと」
一人だけ取り残されたカーリは、状況をまるで理解出来ず、困惑を見せる。そんな彼女を見かねてか、エンヴィスがようやく口を開いた。
「あー……悪いな、カーリ。こいつはセリア。俺の妹だ」
彼に名を呼ばれた途端、女性はハッとしたように体を起こして、カーリの方に向き直った。白磁の頬についた涙の跡を、細い指先で拭っている。
「初めまして。セリアと申します」
澄んだ声音が、涼やかに挨拶を紡ぐ。両手でワンピースの裾を持ち上げ、貴族の令嬢風のお辞儀をすると、白い生地がふわりと膨らんだ。にこりと微笑みを浮かべ、瞼を開けた彼女の瞳は、まるで夜空のように美しく、魅惑的だった。濃い紺色をした目の中に、無数の星々の煌めきが宿っている。瞳孔は焦点を結んでおらず、どこを見ているのか分からなかったが、だからこそ謎めいた誘惑を醸し出している。頭部を飾るサークレットが抱える、色とりどりの宝石も、瞳の輝きを強め、一層美麗に見せている。カーリはその美しさについ見惚れ、思わず呟きを漏らしていた。
「綺麗……」
「えっ?」
セリアは驚いたのか、高い声を発した。それによって、カーリも冷静さを取り戻し、自らの失態に気が付く。
「あっ……す、すみません!!」
初対面の相手に綺麗だなどと言われては、誰だって不審に思って当然だ。羞恥が込み上げてくるままに、カーリは勢いよく頭を下げる。
「ほ、本当にそんなつもりじゃなくて!ただ綺麗だなって……!あ、いや他意はなく!」
カーリは完全にパニックになり、しどろもどろで言い訳をしようとする。だが、結局それもただ墓穴を深くするだけとなった。
「ふふっ、くすくすくす……」
慌てふためく彼女の様子が可笑しかったのか、セリアは堪えきれないという風に吹き出し、口元に手を当てて肩を揺らした。ピンクのネイルアートが施された爪は小さく、唇は朝摘みの苺のように瑞々しい。どこまでも、完璧なまでに美しい女性だ。
「うぅ……っ」
比較すると尚更、自身の愚かさが際立って、恥ずかしくなる。汗を滲ませ、赤面する彼女に、セリアは首を振って応えた。金糸のように細く真っ直ぐな金髪が、さらさらと音を立てる。
「いいんです。よくあることですから。こちらこそ、笑ってしまってすみません」
親しみを込めてカーリの肩に触れると、ノースリーブの服から剥き出しになった腕の、細さと白さが一層強調された。カーリは返すべき言葉を見失い、口だけを忙しなく開閉させてしまう。
「ふわぁ、寝ちゃった……!あれ?カーリ、その人、誰?」
彼女の背負ったリュックの中から、突如緊張感のない間抜けな声が聞こえてきた。わずかな隙間から染み出したきた粘液が、触手の形態を取り、ジッパーを内側から開ける。円な瞳でセリアを捉えると、こてんとない首を傾げた。
「きゃっ!」
「ぼ、ボール・アイ!」
スライムと思しき生物が喋ったことに、セリアは驚き小さく悲鳴を上げる。彼女を怖がらせてしまったこと、また秘匿すべき秘密が彼自身によって暴かれてしまったことに、カーリは焦った。
「何だ、ボール・アイも連れてきたのか?」
エンヴィスだけが一人、悠長に構えながら、カーリに尋ねかけていた。
「……まさか、エンヴィスに妹がいるなんて知らなかったよー」
かくかくしかじか、と互いの事情を端的に説明した後。やはり、その精神年齢の幼さが影響しているのだろうか。最も早く事態を飲み込んだのは、ボール・アイだった。彼はエンヴィスの膝の上で、丸い体を転がし、触手をうねうねと蠢かせている。
「言ってなかったからな」
セリアに差し入れられたカステラ(好物らしい)を頬張りながら、エンヴィスは平然と答えた。
「ど、どうして言ってくれなかったんですか!」
「別に話すことじゃないだろ。業務には直接関係のないことだ」
まだ混乱の抜け切らないカーリは、やや強めの口調で彼を非難する。しかし、彼の態度は変わらなかった。
「それは……そうですけど」
ごく当たり前のように告げられ、カーリは反論の術を失う。確かに、自分だってもし家族がいたとしても、職場の者にそれを伝えはしないはずだ。伝えたとしても、利益などないのだから。機会があれば、話題にする程度のことであろう。
「流されちゃ駄目よ、カーリさん。兄は口が上手いの。誰から学んだのかしら、昔はこんなんじゃなかったのに」
「うるさいよ」
ところが、セリアは慣れている風に、エンヴィスの正論を咎めた。指摘された彼は、痛いところを突かれたとばかりに、顔を顰める。そして、苦し紛れに妹の肩を軽くはたくジェスチャーをした。セリアはクスリと微笑んでから、再び真面目な表情を作る。
「共に仕事をする仲間なんだから、自分のことも相手のことも、少しくらい共有しておかないと。いざって時きっと困るわ。そうでしょ?」
何気なく発したのかも知れないが、彼女の言葉は鋭く、彼の胸に刺さった。とっくに塞がったはずの腹の傷が、ジクリと痛む。
セリアの言う通りだ。もっと早くから、情報を共有しておくべきだった。たとえそれがどんなものであったとしても。下手に心情を慮り、無理をさせまいとして、本当はただ逃げていただけではないのか。彼女が抱えた巨大な闇、その実態を目の当たりにしたくなくて。優しさに包んだ自分たちの怠慢が、結果彼女を追い詰めた。
「……そうだな」
捻くれた妄想だと分かっている。肉体的に傷付いたせいで、思考がネガティブな方向に走っているのだと。しかしそんな衝動として片付けてしまうには、重過ぎる話で、エンヴィスの口調は自然と淀んだ。セリアは機敏にそれを察知したのか、訝しむように、案ずるように瞳を曇らせて、兄を見つめてくる。妹に心配をかけるまいと、エンヴィスは慌てて己を取り繕った。
「っていうか、何でわざわざこんなもの持ってきたんだ?どうせ明日には退院するんだから、必要ないのに」
片手を広げて、ベッド側のスツールに乗せられたスポーツバッグを指す。そこには、セリアによって準備された、数日分の着替えやら暇潰し用の娯楽やら、様々な物品が雑多に詰め込まれていた。今日の午後にでも退院出来ると聞いたエンヴィスには、不要なものばかりだ。
「だって、そんなの分からなかったもの。仕方ないじゃない」
彼の声音に含まれた、わずかな批判の色を汲み取ったのだろう。セリアは頬を膨らませ、不当な仕打ちに憤る。子供じみたそんな仕草すら、端正な顔立ちの彼女がやると可愛らしく見えるのが不思議だ。
「トワイライトおじさまから電話で、兄さんが刺されたって聞かされて……なのに明日の面会時間まで待てって言うんだから!私も伯母様も、気が気じゃなかったわ」
彼女の話は、昨日の出来事へと飛んでいる。だが、それはカーリも同感だった。
昨晩、ボール・アイと共に帰宅したカーリは、トワイライトから電話を受けた。こんな時間に、彼が連絡をしてくるなど珍しい。今までなかったことだ。その時既に、彼女の中では嫌な予感が湧き起こり、サイレンのように鳴り響いていた。恐る恐る通話ボタンをタップして、スマホを耳に当てる。
『エンヴィスくんが刺された。地下の駐車場で、腹から血を流して倒れていたと。ハデス内の病院に搬送され、現在も治療中だ』
「えっ……」
挨拶も抜きの一言目が、カーリの頭を思い切り殴打した。反響がぐわりぐわりと頭の中に残っていて、内容を全く理解出来ない。音だけが脳内を滑っていくようだ。しかし当然彼はそんなこと気が付かず、一方的に話を続けてくる。
『今のところ、犯人は不明。だが、防犯カメラの映像と、目撃者の証言によれば、レディくんによく似た姿の悪魔が、逃げていったらしい……』
「……!」
カーリはもはや声を出すことさえ出来ずにいた。顔を驚愕に硬直させ、ただ彼の言葉に意識を集中させているしかない。
『今は自宅か?』
問いかけられて、ようやく思考が働きを再開した。質問されたのだから答えなければという、半ば強迫観念じみた思いが、カーリを突き動かす。
「……はい」
どうにか応じた途端、ぐるぐると視界が回るような感覚を覚えた。カーリは堪えきれず、近くにあった椅子に、倒れ込むようにして座る。
「あの……エンヴィスさんの、病院に行っても?」
尋ねる声が、自分でも呆れるほど掠れて、低くなっていることに気付いた。だが、どうしようもない。幸い、トワイライトはそのことに関して、何も言わないでいてくれた。
『悪いが、今日は駄目だ。下手に外に出たら、君も襲われるかも知れない。ボール・アイくんと、大人しくしていなさい』
「でも!」
代わりに、にべもない口調で命じられる。彼の言い分は尤もだ。仲間の一人を襲撃され、皆が動揺したところを立て続けに狙う。それこそが、敵の目的なのかも知れないのだから。
しかし、理屈では納得出来ても、感情は受け入れられない。カーリは反射的な反発心を抱き、トワイライトに噛みついていた。
『全ては明日だ。明日、面会可能な時間になったら、見舞いに行ってやるといい。有休にしておくから』
けれども、トワイライトも譲らなかった。上司として、部下を守らねばならない立場にいるのだ。いくら共感は出来ても、わざわざ彼女に危険な橋を渡させるつもりはなかった。カーリも彼の気持ちを理解したために、他に行き場のない、やるせない思いを抱えることとなる。
「エンヴィスさんは……無事なんですか?」
我ながら、間抜けな質問だと思った。腹を刺されて、無事でいられるはずがない。返ってくるトワイライトの声色も、いつになく暗い調子だった。
『今はまだ治療中だ。詳しいことは分からない。しかし……救急隊が到着した時には、既に意識はなく、出血多量で危うい状態だったそうだ』
「助かるんですよね!?」
思わず、そう叫んでいた。縁起でもないとは分かっているが、残酷な想像が瞼の裏を離れないのだ。カーリの悲鳴じみた問いに、トワイライトは逡巡してから答える。
『……そう、願っている』
やはりいつもの彼とは違って、重々しく躊躇いのある口調だった。唯一無二の部下で、優秀なチームの副リーダーである男が、重傷を負い、命の危機に瀕している。そんな時に、平常心を保っていられる方がおかしいだろう。
「また連絡ください。トワイライトさんなら、病院からの情報も、分かるんでしょう?」
『もちろんだ。君に知らせるべきことがあった場合は、直ちに連絡しよう』
早口に告げると、彼は即座に了承してくれた。電話の向こうでも、深く首を振って頷いてくれているのを察する。
『無論、そんなことにならないよう祈っているが……』
「私もです。知らせてくださって、ありがとうございます。はい、失礼します……」
最後の言葉は、冗談めかそうとして失敗したのを誤魔化すように、曖昧にフェードアウトしていった。カーリも淡々と同意しつつ、形だけの礼を述べる。通話が切れたのを確かめると、体を震わせてベッドに突っ伏した。こちらを心配そうに見上げている、ボール・アイに事態を説明してやる余裕もなかった。
「本当に、無事で良かったです……!」
そして現在。彼の前でカーリは、両手を握り締めて歓喜していた。胸の中に広がる深い安堵が、涙を湧き上がらせ彼女の視界を滲ませる。
「カーリも僕も、心配してたんだよ。エンヴィスが死んじゃうかも知れないって……」
瞳を潤ませるばかりで、それ以上は言葉にならない彼女の気持ちを、ボール・アイが代弁した。彼までもに詰め寄られたエンヴィスは、気まずげに頬を引き攣らせ、視線を逸らす。まるで、不必要なものを押し付けられて困っているように。
「……別に、あれぐらいじゃ死なないよ。傷だって、病院に着く前にあらかた回復してたんだから」
「でも、意識を失ったって!」
今度はセリアが口を挟んだ。甲高い声で叫び、エンヴィスの腕を掴む。彼は妹の手を煩わしそうに見遣ったが、振り払うのは流石に躊躇したらしい。中途半端な位置に腕を浮かせていた。
「あれは、一度に大量に血が出たからで……一時的なものだよ。だから手術もしなかったんだ。増血ポーションだけですぐに」
「兄さん!!」
相変わらず目を合わせないままで、自分勝手に喋り続ける彼を、セリアがとうとう一喝した。
「っ!?な、何だよ……」
普段は静かで大人しい彼女が、いきなり声を荒げたことに、エンヴィスは驚き肩を跳ねさせる。セリアは反対に、頬を紅潮させ目尻を吊り上げていた。まるで、これまで再三我慢して押し殺してきた感情が、全て決壊したかのように。
「兄さんは、私たちにどれだけ心配をかければ気が済むの!?この前だって、大したことないって言って、酷い怪我したじゃない!!」
凄まじい剣幕で捲し立てる妹に、エンヴィスはただ圧倒され、次々とぶつけられる愚痴や怒りを、ひたすら受け止めていた。
「わ、悪かったよ……もうしないって」
やっとのことで割り込んで、必死に弁解をするが、効果はなかった。
「その言葉も何度も聞いたわ!もう沢山!!兄さんは、いっつも同じこと言うばっかりで、絶対に守らないんだから!!」
むしろより激しい爆発が生じてしまい、彼は尚更慌てふためく。
彼らの様子を、カーリとボール・アイは黙って眺めていた。
まるで、心配性な母親と、彼女の過干渉を嫌う子供だ。もちろん、セリアが前者でエンヴィスが後者。兄と妹が逆転したような力関係に、何とも言えない滑稽さを覚える。常にしっかりとしていて、頼れる兄貴肌な人物を装っている彼に、こんな一面があったとは。家族の前でしか見せないその姿は、まさに意外としか喩えようがない。
「仕方ないだろう……誰かが、戦わなくちゃいけない時があるんだ」
妹に叱られるのが不服だったのだろうか。エンヴィスは憮然とした表情で、彼女に言い返す。
「でも無茶し過ぎよ!!」
彼の意見も、続くセリアの叫びも、どちらも納得のいくものだった。
エンヴィスほどに高い戦闘能力を持つ悪魔は、魔界府中央庁舎にもそうはいない。強い敵が現れたら、どうしても強い悪魔、つまり彼に出張ってもらう必要があるのだ。さりとて、ここ最近のエンヴィスは、確かに危険を顧みない行動を多く取っていた。妹が案じるのも当然だ。自分が働き始めたばかりの頃は、ここまで無鉄砲ではなかったはずだ。何か心境の変化でもあったのだろかと、カーリは思う。
「私と伯母様のことも考えて……エヴィーリャ兄さんのことも」
セリアはその間にも、エンヴィスに向き合い、懇々と諭していた。しかし彼は依然として、妹の忠告に耳を傾ける様子はない。プイッと顔を逸らして、拗ねたように呟く。
「エヴィーリャは……あいつは関係ない」
「どうしてそんなこと言うの!」
「あ、あの!」
流石に、二人の言い争いを聞き続けるのにも耐えかねて、カーリは声を上げた。
「ちょっと……落ち着きましょう?」
激昂するセリアを宥め、彼らの間に割り入って、仲裁を試みる。慣れないことをする緊張のためなのか、彼女の顔色は白く、声音は硬かった。
「セリアさん、あなたの気持ちも分かります。だけど今は、エンヴィスさんの話を聞きたいんです」
初対面の相手に、こんな風に思い切って自らの希望を伝えるなど、初めてのことだ。エンヴィスも意外そうに目を丸くしている。しかし、カーリは躊躇わなかった。躊躇っていられなかった。それほどに、今回の事件の真相について、心を砕いていたのである。
「そうね……その通りだわ」
幸いにもセリアは、兄妹間の問題に首を突っ込まれたことを憤るでもなく、静かに彼女の提案を受け入れた。
「私も、何があったかは気になっていたもの……兄さん、話してくださる?」
妹に尋ねられたエンヴィスは、膨れ面のまま、反抗的な眼差しを彼女に注いでいた。だが、いつまでも意地を張っていられないと悟ったのか、ふっと息を吐く。そして、重い口を開いた。
「……お前は、聞いたんだろ?トワイライトさんから」
本当はずっと黙っていたかったとでも言いたげに、苦々しげな声を出す。問われたカーリは、かろうじて判別出来る程度の、わずかな動作で首を振った。エンヴィスはそれに気付いたはずだが、何も言わない。待っているのだ。カーリが、自分の知っていることを述べるのを。
「……エンヴィスさんを刺したのは、レディちゃんによく似た悪魔だったって……」
仕方なしに、カーリも話し出した。そうしてやっと、エンヴィスの心情を理解する。彼女が犯人だと口にすれば、裏切り者扱いしていることになる。それがたとえ事実だったとしても、到底認めたくないことだった。
「嘘……!」
彼女の言葉を聞くなり、セリアは取り乱した様子で喚く。
「本当なんだ、セリア」
感情的に否定した彼女に、エンヴィスは困り果てた顔をして懇願した。
「頼むから落ち着いてくれ……」
「でも……っ」
セリアはまだ納得出来ていなさそうだったが、兄の願いに従い、渋々押し黙る。すっかり静かになった彼女の横で、カーリは暗い表情を浮かべていた。
「じゃあ、やっぱり、レディちゃんなんですね……」
「そうだ」
端的に頷かれ、カーリはまるで、自分の周囲の時が止まったかのような感覚を覚える。最後の支えとなっていたものが、とうとう崩壊した。その衝撃に膝が震え、地面がぐらつく。
「カーリ!」
ボール・アイとエンヴィスが同時に手を伸ばし、倒れかけた彼女を近くのスツールに座らせた。カーリは一言も発さずに、両手で顔を覆って俯いている。彼女の背中は、小刻みに震えていた。振動が伝達したのか、長い黒髪の毛先まで、細かく揺れている。
ショックだった。
言語化すればただそれだけの、簡単な思いだ。しかし、何よりも重く、苦しいもの。
「どうして……っ!!」
気が付けば、勝手に声が出ていた。否、それは掠れていて、声にもなっていない。吐息と引き攣ったような音しかない、惨めな叫びだった。
「どうしてレディちゃんが……っ!」
喉の奥から、勝手に思いが溢れてきて、勝手に迸る。受け止めきれない現実の理不尽に、心が壊れてしまいそうだ。
「どうして……っ!?」
蹲ったまま嗚咽するカーリの背を、何者かがそっと撫でさすった。細い指先の感触から、ボール・アイではないと分かる。無論、エンヴィスでもない。セリアだった。
彼女もまた、兄を傷付けたのが顔見知り、よりによって彼の同僚であったという事実に、動揺していた。だが、自分以上に打ちひしがれているカーリの姿を見て、冷静な思考を取り戻したのだ。茫然自失とし、憔悴している状態の彼女に、寄り添いたいと思ったのだ。
背中に触れる彼女の温もりに、カーリはハッと顔を上げる。穏やかに自分を見下ろす彼女の瞳は、涙で潤んで赤くなっていた。カーリは咄嗟に、強い罪悪感に駆られた。
「ごめんなさい……」
泣きたいのは彼女の方であるはずなのに、自分のせいでそれを奪ってしまった。申し訳なさと居た堪れなさが、つい口をつく。
「あら。どうして謝るの?」
ところがセリアは、きょとんとして首を傾げていた。
「あなたの方が、辛いはずなのに……家族なんだから」
「辛い気持ちに、どちらが上も下もないわ。一番苦しむのは家族、なんて、そんなの偏見よ」
涙声で弁解するカーリに、からりとした調子で応じる。あっさりと謝罪を拒否されて、驚いた。
「私はレディさんをあまり知らない。数回会って、お話しただけだわ。でも、あなたたちは違う。共に働いて、危機を乗り越えた。時には命をかけた戦いも、一緒に生き延びてきたのよね?そうでしょ?」
淡々と語るセリアからは、先ほどまでの激情などまるで感じられない。非常に落ち着いていて、泰然自若とした態度を保っていた。自らの力だけで家を守ることを決意した、女当主のように。
問いかけられるままに、カーリはコクコクと首肯する。セリアはバッグから白いレースのハンカチを取り出し、彼女の濡れた頬を拭ってくれた。
「そんな悪魔が、仲間を傷付けただなんて、信じられなくて当然だわ。簡単に憎めないのも当然。仲間なんですもの」
「……っ」
こちらの気持ちを全て理解し、尊重した彼女の言葉と、子供を甘やかす親のような対応とが相俟って、カーリの瞳からはもっと多くの涙が溢れる。耐えきれなくなって、思わずセリアの手を握り、しゃくりあげてしまった。
「ひっ……うぅうぅ」
ここまで必死に我慢を重ね、抑えに抑えてきたはずの感情が、とうとう決壊した。
本当は、怖かったのだ。エンヴィスの安否だけではない、レディのことだ。もしも彼女が犯人ならば、彼女を憎まなければならなくなる。エンヴィスを傷付け自分たちを裏切った、許されざる敵だと。そんなことは出来なかった。事情がどうであれ、唯一の親友を恨むなど、到底不可能だ。叶うならば味方となり、彼女の罪が少しでも軽くなるよう、手助けしたいくらいであった。しかし、無闇にレディを庇えば、エンヴィスに追い討ちをかけることになる。彼は被害者なのだ。加害者を憎み、嫌っていてもおかしくはない。しかしそんなこと、想像もしたくなかった。大切な仲間である彼が、同じ仲間のレディを、酷くこき下ろす姿なんて。そして自分にも同意を求めるなんて。絶対に受け入れられないと思った。だが、エンヴィスを拒絶することも、決断出来そうになかった。二つの相反する心に板挟みになり、カーリは胸の詰まるような思いをしていたのである。
「カーリ……大丈夫だよ。僕たちがついてるからね」
ジレンマに苦しみ、落涙する彼女を、ボール・アイが優しく慰めた。
「そうだぞ、カーリ。俺は別に、あいつを恨んじゃいない。だから……泣くなよ」
エンヴィスもぎこちなく、セクハラにならない加減を探りながら、彼女の肩をぽんぽんと叩く。不器用な兄貴肌の温かさと、レディを許すという確約をもらった安堵に、カーリは一層号泣してしまった。
「……とはいえ、このまま放置しておくわけにもいかん。レディくんの所在を早急に突き止めねばな」
突如背後から響いた低音に、その場にいた誰もが飛び上がった。
「とっ、トワイライトさん!?」
「いつからここに!?」
エンヴィスとカーリが目を見開いて驚愕する中、セリアだけが自然な動作で立ち上がり、彼に向かって微笑む。まるで考えなくても、染み付いた礼儀作法が勝手に身体を動かしているかのようだ。
「トワイライトおじさま、お久しぶりです」
「あぁ、セリア嬢。ご挨拶が遅れて申し訳ない。何分私も、今回の件で色々と忙しくてね」
優雅にお辞儀をする彼女に応え、トワイライトも恭しく挨拶をする。驚かせたことを弁解するように、苦笑いめいた表情を浮かべていた。
「トワイライトさん!レディちゃんは、どうなるんですか!?」
彼の言葉に、セリアは何か反応を返そうとするが、それより早くカーリが口を開く。トワイライトに歩み寄り、高い声で詰問した。普段の慎み深い姿など、面影もない焦燥ぶりだ。
「それは分からんよ。しかし……あまり良い結果は期待出来なさそうだ」
「そんな……!」
彼女の気持ちも分かるが、だからといって現実が変わるわけでもない。トワイライトが淡々と告げると、カーリは絶望した顔をして、再びスツールの硬い座面に沈み込んでしまった。
「あいつを見つければ、何か変わるんですか?」
カーリには気付けなかった、裏の意味を嗅ぎ取り、今度はエンヴィスが質問する。するとトワイライトは、満足げに首を一つ振った。
「察しがいいね、エンヴィスくん。その通りだ……と、いうよりも、現状それしか選択肢がない」
「どういうこと?」
その後に重々しく付け加えられた一言を、ボール・アイが耳聡く聞き咎め、追求する。ふと考え込んだ様子のエンヴィスが、顎に手を当てて呟いた。
「昨日のあいつは、どう考えても様子がおかしかった……俺を襲ったのだって、まるで自分の意思じゃないみたいだった。多分、誰かに脅されていたか、操られていたんだろう」
彼の見解は的を射ていて、トワイライトが確認した犯行時の映像を見ても、同じ結論に行き着いた。レディの足元は覚束なく、ナイフを握る手も震えている。実際、エンヴィスが負傷したのだって、半ば事故のようなものだった。彼女に刺す気はなかったのだ。あるいはあったにしろ、それは殺意によるものではない。他にどうしようもなく、選ぶしかなかった行動の内の一つなのだ。
「じゃあ、その犯人を見つけて捕まえれば、レディは助かるの?」
「……恐らくは」
とはいえ、これはあくまで当事者の意見でしかない。しかも、彼女と共に長く働いてきた悪魔たちの感想だ。信憑性など、他者から見れば皆無だろう。だからこそ、ボール・アイの無邪気な問いに対する返答は、随分と躊躇いの滲む、熟慮の必要なものだった。
「……セリア」
腕組みをして思案したエンヴィスが、唐突に妹の名を呼ぶ。たったそれだけの行為でも、彼女は兄の意図を全て察したようだ。凛とした眼差しには、どんなことでも完遂するという責任感が宿っている。
「カーリを風に当たらせてやれ」
「分かった」
一瞬で備えたからか、彼女はエンヴィスの無遠慮な命令を、いとも容易く受け入れた。
「それと、こいつも連れてけ」
「駄目よ。病院内は魔物厳禁だわ」
ぐっと差し出されたボール・アイを、片手を振って拒む。わざとらしく廊下の方を気にする素振りまで見せられれば、エンヴィスも折れるしかなかった。諦めてベッドの上に戻されたスライムは、エンヴィスに掴まれた時の形を一瞬だけ記憶していたが、すぐに元通りになった。
「カーリさん、行きましょう?」
セリアに伴われて、カーリがとぼとぼと歩き出す。その背中は酷く落胆し、猫のように丸まっていた。トワイライトたちが達した希望的な観測には、気が付いてもいない様子だ。
「珍しいな……彼女がここまで、周囲を顧みないとは」
「随分ショックを受けてましたよ。まぁ、当たり前のことでしょうが」
彼女たちの跡を追うように、閉じたドアの奥へと視線を投げかけるトワイライト。応じるエンヴィスの声も憂いを含んでいた。
「カーリ……大丈夫かな」
追いかけたいという衝動に駆られるも、こっそり侵入している状態のボール・アイには、出来ることがなかった。
「コホン。さて、ボール・アイくん……君、耳はどこだね?」
芝居がかった咳をしたトワイライトが、おもむろに尋ねてくる。何故そんなことを聞かれるのだろうと、ボール・アイは困惑しつつ答えた。
「えっ?えぇっと、この辺!」
と、発声した瞬間、分厚い掌がぎゅっと押し付けられ、聴覚が鋭敏さを失う。彼らが何か話していることは分かるのだけれど、その音は全て低くこもっていて、内容を把握出来ない。彼はただ、きょとんとして二人の顔を見比べていた。
「トワイライトさん、上の連中に何か言われましたか」
ボール・アイの耳らしき部分が、上司の手で塞がれたのを確認してから、エンヴィスは切り出す。
「全く、君は本当に鋭いね……その通りだよ」
別段隠すつもりはなかったが、こうも見事に図星を突かれると、感心するより嘆きたくなる。さっきまでカーリが座っていた椅子に鈍い動作で腰を下ろし、トワイライトは言った。
「実を言うと、我々の立場は……いや、私の立場は、想像以上に危ういようだ」
ポツポツと、非常に簡潔な表現でユリウスらとの会話を伝える。エンヴィスの拳が、抑えきれない怒りにわなわなと震えていた。
「っくそ、今まで散々利用してきたくせに……!こっちの立場が弱くなった途端に掌返しかっ!舐めやがって!!」
ボスッと枕を殴りつけて、彼はここにいない二人の悪魔へと罵声を浴びせる。病院で大声を出すことも、上司たちをあからさまに批判することも。普段のトワイライトであればさりげなく咎めたことだろう。しかし、今日だけは彼も、気力が萎えていた。
「残念ながら、そのようだね……口惜しいが、彼らの対応はインペラトルとして当然のものだよ。付け入られる隙を作った私の落ち度だ」
どっかりとスツールに体重を乗せたまま、茫洋に呻く。だが、それも無意味なことだ。何を口にしたところで、状況が変わるわけでもない。
「しかし、どうするんです!まさかこのまま、大人しくやられているつもりじゃないでしょう!?」
黙ってしまったトワイライトに、エンヴィスは焦りをぶつけるようにして、詰め寄る。しかし、トワイライトは答えなかった。ボール・アイの耳を押さえたまま、天井の方に視線を伸ばして、呆けた面を晒している。
「トワイライトさん!!」
苛立ちを混じらせた調子で、強く彼の名を呼んだ。
「そこまでだ」
壁際から、何者かの声がかかった。
* * *
「はぁ……やっちゃったな」
病院内に設置された自動販売機の前で、カーリは佇んでいた。知らずの内に、そんな独り言が漏れる。転がり出てきた紅茶のペットボトルは、温かな熱を宿していた。
酩酊してもいないのに、あんな風に誰かの前で取り乱すなんて。自分の行動を思い出しては、恥ずかしさに胸が閉塞する。泣き腫らした目元が、ぽってりと膨らんでいるのが分かった。
「はぁっ……」
もう一度溜め息を吐いて、辺りを見回す。売店のウィンドウ越しに、セリアが何かを真剣に選んでいるのが見えた。兄に渡すお菓子でも探しているのだろうか。気にすまいとは思っていても、視線は無意識にチラチラと彼女を窺っていた。
同僚であり先輩である男の妹。彼女はまるで人形のように美しい顔立ちをしていた。所作も優雅で、それなりの家でそれなりにマナーを教え込まれて育ったのだと察せられる。誰に対しても優しく、気遣いを忘れない。だからこそ、引け目を感じてならないのに。まさか初対面の彼女に、泣きついてしまうなんて。
まだ心を許していない相手に、弱みを握られたような気分になる。尤も、この程度の弱みでは、交渉材料にはとてもならないだろう。セリアはそんなことをする悪魔ではないはずだ。にも関わらずどこかで、鬱屈した気持ちになってしまうのも確かだった。
(気まずいな……もう一人で行っちゃおうかな)
まさか、重要な話のために追い出されたのだとは思ってもいないカーリは、彼女を残して先に戻ろうかと思案する。正直、これ以上セリアと共にいるのは精神的に辛いものがある。そもそも内向的なカーリは、会ったばかりの相手と打ち解けた会話なんて出来ない。心の扉を固く閉ざして、ぎこちない愛想笑いを作るので精一杯である。失態を目撃されたダメージがある今の状態では、それすらも難しかった。
結局彼女は、さして深く考えることもなく、ふらりとその場を離れてしまう。エンヴィスの病室を目指して、エスカレーターを上がり、見舞客の行き交う廊下をとぼとぼと進んだ。
「!!」
目の前に、見慣れた金髪が現れたのはその時だった。
思わず目を見張り、足を止めてしまう。小さく息を飲んだ、そのかすかな音が聞こえたのか、女が振り向いた。
「えっ……」
カーリの顔を見た彼女が、驚愕に表情を強張らせる。開かれた唇の間からこぼれた声は、紛れもなく彼女のものだった。
「レディ……ちゃん……?」
自分自身が信じられなくなって、カーリはつと手を伸ばす。視界の状態を確かめるための動作だったが、捕まえようとしている風に捉えたのだろう。レディが背を向けて、ダッと駆け出した。
「待って!」
カーリも慌てて走り出す。強化系魔法を使う彼女に、追いつけるのか不安だったが、意外に引き離されはしなかった。
「待って、待ってよレディちゃん!行かないでっ!!」
すれ違う悪魔たちを押し退けながら、必死に呼びかける。あともう少し距離が縮まれば触れるはずなのに。足の回転速度がこれ以上上がらないのが、もどかしい。
眼前で、赤いドレスの裾がはためく。
見舞いにしては不自然過ぎる格好だが、どうして誰も奇異の眼差しを注がなかったのだろう。カーリが気付いた時の彼女は、まるで突如として眼前に出現したようだった。
(何がどうなってるの……!?)
困惑を隠しきれず、心の中で叫ぶ。大胆に露出させた、彼女の肌の白が眩しい。魔法は使っていないようだが、よくもまぁあの高さのピンヒールで走れるものだ。
「はぁっ、はぁっ……」
カーリを撒くためにか、レディは非常用の金属ドアに飛び付くと、重たい扉を力づくで引き開けた。そして、奥に聳える階段を駆け上がっていく。何とか閉じていく扉の隙間に体を滑り込ませたカーリは、手すりにもたれかかって荒い息をついた。
しかし、休んではいられない。こうしている間もレディは、どこかへと逃げ行こうとしているのだ。止めなくては。止めて、話を聞くのだ。攫われた後、何があったのか。どうしてエンヴィスを刺したのか。何故、逃げるのか。
今はただ、走るしかない。
全ての答えを聞くためには、彼女を追いかけ、捕まえるしか。
「レディちゃんっ!」
「来ないで!!」
パンプスを脱ぎ捨て、懸命に階段を上がっていく。間髪を容れず、レディの甲高い声が拒絶を突きつけてきた。
「来ないでカーリ!巻き込みたくないのっ!」
見ると、彼女は踊り場に立ち止まり、こちらを見下ろしていた。疾走のためか、息切れを起こしている。カーリも同じく苦しかったが、チャンスを逃すべきじゃないと、自らを叱咤して足を動かした。
「はぁ……はぁ……な、何を言ってるの、レディちゃん……」
最後の数段をやっとのことで上りきり、膝に手をついて息を荒げる。乱れた黒髪が額に張り付いて鬱陶しい。本当はその場に座り込んでしまいたいくらいだったが、何とか堪えて口を開いた。
「落ち着いて……大丈夫。エンヴィスさんは、無事だよ……私も、誰も、怒ってない……ただ、説明してほしいだけだから……何であんなことをしたのか……」
切れ切れになりながらも、必死に語りかける。レディは、屋上へと通じる扉に背をつけたまま、彼女を見つめていた。青い瞳は震え、怯えを宿していることが分かる。
「レディちゃん、待って!話を、聞かせて……」
ここで背を向けられたら、逃げられてしまう。追いかける力も残っていない。ならば後は、言葉で説得するより他になかった。カーリは焦って、しかしそれを表に出さぬよう留意しつつ、彼女に問いかけ続ける。
「何があったの……?レディちゃんは、大丈夫なの?」
言い終わるか否かというタイミングで、どこか下の階から物音がした。二人は肩を跳ねさせて、音のした方を見る。やがてカーリが視線を戻すと、レディの顔色は大きく変わっていた。
「レ」
「来ちゃダメっ!!」
悲鳴のような声が耳を劈く。彼女の手は後ろに回って、銀色のドアノブを探し求めていた。だが、気が急いているためか中々掴めない。
「理由なんかないよ!あ、アタシがエンちゃんを刺したのは、ただ……っ、ただ、アイツが邪魔だっただけなんだから!!」
とはいえ、油断していたらカーリに近付かれてしまう。レディは、彼女の接近を避けるべく、咄嗟に叫んだ。
「ずっと前から邪魔だったの!殺したかったの!!だから刺した!それだけ!!分かったら、さっさと帰ってよ!これ以上アタシに、関わんないでよっ!!」
勢いだけで、思ってもいないことを次々と発する。そんな己が嫌で、また自分自身の言説に傷付いてしまって、目線がつい下に落ちた。その隙を突いて、カーリは密かに、足音を殺して一歩を踏み出す。そして、レディに歩み寄っていた。
「レディちゃん……」
「っ!!」
気が付いた時には、カーリの顔が目の前にあった。レディは驚いて、腕に触れた彼女の手を振り払う。しかし、カーリは手を離さなかった。危機を悟った時には、もう遅い。
ほとんど反射的に魔法が発動し、レディの肉体は超自然的な力に満ち溢れる。それは、自分に掴まる女一人を、軽々と吹き飛ばしてしまえるほどに。
「あ……」
どちらかの口から漏れた声が、空虚な空間にこぼれ落ちる。
圧倒的な力に振り回されたカーリは、咄嗟にレディの腕を離してしまっていた。足が浮き上がり、彼女の体は残るエネルギーに押されて、奥へ奥へと飛んでいく。やがて自由落下が始まったが、彼女の下に床はない。ただ薄暗い階段が待ち構えているだけだ。それは、獲物を飲み込む獣の口に生える、大きく鋭い歯のようだった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
book of the night, and down
まちか
ライト文芸
黒の大陸ノワールを分かつ〈ネロ大国〉と〈ビアンカ王国〉では悠久なる戦いが続いていた。
争い続ける二つの国。それぞれの国の兵士と兵士、二人の物語。


もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる