インペリアル・トワイライト

望月来夢

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互い違いの歯車

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(……あれは、何だったんだろう……)
 いつものように出勤して、いつものように書類仕事を片付けている途中。カーリの思考は先日の出来事へと飛んでいた。
 そうしている間にも、手は勝手にキーボードの上を這い回り、次から次へと報告書を作成していく。この仕事も、随分と慣れたものだ。最初の頃は、この世界で上手くやっていけるか、不安でしかなかったくせに。今ではすっかり落ち着いて、だからこそ自由になった思考が、好きな方向へと飛躍することを許してしまう。
 あの時、地下室にて目覚めた、謎の力。あれは、魔法だったのだろうか。
 カーリには分からない。長年人間界にいた彼女の肉体は、魔力の補給出来ない環境でも生き抜けるよう、”変化”してしまった。あるいは、”退化”と呼べるかも知れないが。
 ともかく、魔法を使ったことのない彼女には、自らの力が魔法かどうかなのかさえ、判断することが出来なかった。
 ただ、一つ分かることがあるとすれば。
 人の形をした異形の影。自分が呼び出したあれは、間違いなく、この世ならざる存在だということだ。闇と悪意、恨み辛みが具現化したもの。
 証拠はない。客観的に証明することも出来やしない。もう一度試そうと、夜な夜な練習は重ねているものの、実はあの日以来一度も成功していなかった。まるで幻覚ででもあったかのように、忽然と姿を隠してしまっている。
(でも……やっぱり、あれは幻覚じゃない)
 だって今も、感覚は残っていた。薄い皮膚と繊細な神経を通して、何か良からぬものと繋がっていた感覚が。
 しかしそれはやはり、ただの個人的な意見に過ぎない。だが、分かるのだ。頭ではなく感情で、第六感と呼ぶべきところで、理解してしまう。自分が何か怪しげな存在と交信する、不気味な力を会得してしまったことを。
 こんなことは初めてだった。謎を抱えたこともそうだが、理屈じゃなく直感で、物事を理解するだなんて。考え過ぎる癖のある彼女には、難しい行為だった。だからたまに、正気のような状態に戻ってしまう。きっとそのことが、力を上手く使えない原因になっているのだろう。けれども習慣というのは、そう簡単に変えられない。生きていくために、必死になって身につけた術を、易々と手放せるはずがなかった。
(分からない……何が分からないのかも、分からない)
 要するに彼女は、出口の見えない迷路の奥深くにまで、迷い込んでしまったのだ。ぐるぐると、堂々巡りをする思考が重荷となって、彼女の上にのしかかる。それが気分にまで蓋をして、元々暗い性根を尚更陰鬱とさせていた。
 誰かに相談出来れば、あるいは違ったのかも知れない。だが彼女には、秘密を打ち明けられる相手はいなかった。トワイライトは素晴らしい上司だし、エンヴィスは頼れる先輩だ。レディやレオナルドだって、一緒にご飯を食べたり、他愛もない話をするには格好の友人だけれど、深刻な問題を解決する力はないだろう。ボール・アイも同様だ。カーリの硬い心の殻を破れるのは、結局のところ、誰もいないのだった。いや、研究所で出会った、あのドラゴンの悪魔は別かも知れないが。どこに行けば彼に会えるのかも分からないし、第一正体も知れない。関わり合いになることには、まだ躊躇いがあった。
(それに、多分……この力は……)
 確証はないけれど、彼女には分かる。己の力が、万人に歓迎されるものではないと。不用意に他人に明かせば、まずいことになる。何故かは分からないけれど、分かっていた。だから、言えなかったのだ。もしも彼らに拒絶されたら。カーリはきっと、二度と癒えることのない傷を負うことになるだろう。それだけは、絶対に駄目だ。
「……ん?」
 突然、真横から声が届いた。
「!」
 思考の沼に没頭していたカーリは、唐突なその音に驚いて、飛び上がらんばかりに反応する。
 声の主は、エンヴィスだった。
 眼鏡の縁に手をかけて、じっとカーリを見つめている。その眉は顰められ、まるで彼女を疑っているような表情だった。
「あ、あの……?エンヴィスさん……?」
 まさか、気付かれたのか。
 内心恐々としながら、彼を見返す。服の下でじっとりと、汗が滲み出てくるのが分かった。
「あー……いや、何でもない」
 彼はまだしばらく彼女を凝視してから、ふいに顔を逸らした。一体何事だろう。カーリはバクバクと跳ねる心臓を宥めながら、彼の方に探るような目を向けた。
 秘密を見抜かれて叱責されるか、もしくは気色悪いと罵られるか。嫌な想像ばかりがどんどんと膨らんで、何も言えない。
「一瞬、お前から妙な気を感じたと思ったんだが……気のせいだったみたいだ」
 彼女の視線に気が付いたのか、エンヴィスは言い訳めいた声色で答えた。眼鏡の奥の瞳は、自分のパソコンに釘付けになっている。
「み、妙って……?」
 カーリの背中に、一筋冷たいものが走った。咄嗟に笑みを形作ろうとして、失敗する。ともすれば強張りそうな表情筋を、押さえ付けるので精一杯だった。
「な~に~?エンちゃん、もしかして”見える”タイプなの?カーリに何か憑いてるってこと?」
 向かいの席で、書類をホチキス留めしていたレディが、手を止めて口を挟む。わずかに座席から腰を浮かせて、わざわざ彼の顔を覗き込もうとした。
 ”憑いてる”という言葉に、カーリはドキッとした。あの影が、もしも”憑く”ことの出来る存在なのだとしたら、正体は明白だ。幽霊、ゴースト、怨念。言い方は何だって構わないが、要は”そういう”ものだということだ。生命を恨み、生物を憎み、呪い殺すことの出来るもの。
「そんなんじゃねぇっつの。ホラ、手止まってるぞ」
 エンヴィスは呆れた顔つきで、彼女の軽口を一蹴する。仕事の続きを促されて、レディは退屈そうに頬を膨らませるが、エンヴィスに睨まれると折れた。渋々と作業に戻っていく彼女の姿を、カーリはそっと観察する。他人が聞けば馬鹿げた妄想だと捉えるだろうが、カーリにとってはあながち冗談でもなかった。レディは稀に、純心さ故の優れた直感で、真理を言い当てる。そのようにして、自分のことも全て看破しているのではないか。そんな疑心暗鬼に駆られた。
(駄目だ……レディちゃんまで疑ってちゃ、もう何もいいところないよ、私……)
 唯一無二の友人さえ敵に回していたら、本当に人格の破綻した異常者になってしまう。いくら自分の身が心配だからといっても、それは反則だ。
「あっ、お昼だ!」
 自己嫌悪に苛まれているカーリの耳に、レディの明るげな声が飛び込んできた。
「やぁっとお昼だー!あー疲れた~!カーリ、お昼行こ!」
 凝り固まった体をほぐすように伸びをしながら、大袈裟に捲し立てる。椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったレディは、カーリの隣に立つと、彼女の腕を引いた。
「あっ、待ってよレディちゃん……」
 カーリは慌ててパソコンを閉じ、財布を引っ掴む。やりかけの仕事にわずかな心残りを感じて、振り返りかけたが、レディの強い力には敵わなかった。
「僕も行く!」
 彼女の隣で、退屈そうに文庫本を読んでいたボール・アイが、触手を伸ばしカーリに触れる。そのまま体重を移すようにして、彼女の腕に巻き付くと、ついていった。
「ったく……騒がしい奴らめ」
 バタバタと忙しなげに出て行った彼女たちを見送って、エンヴィスがわざとらしく顔を顰める。実際は口で言うほど、不満に思ってもいなさそうな表情だ。それから、おもむろに席を立つと、プリントアウトした書類を束にし、トワイライトに提出する。
「エンヴィスくん、大丈夫かね?」
 トワイライトはそれを受け取りながら、何気ない口調で彼を呼び止めた。
「……大丈夫です。ちょうど三週間前にも、診てもらったばかりですから」
 尋ねられたエンヴィスは、廊下へと向きかけた足をぴたりと止める。レディが開けっ放しにしていったドアを閉めてから、トワイライトに振り返った。
「そうか……気を付けたまえよ」
 意味深に告げられた言葉の意味を、トワイライトはすぐに理解する。そして、何とは言わない曖昧な相槌を打った。
「大方の雑魚はコレでシャットアウト出来るんですけどねぇ……強いやつは中々」
 エンヴィスは茶目っ気のある笑顔を作ると、フレームレスの眼鏡の縁を、指でピンと弾いた。
「霊視体質……と言ったか?皆、君と同じような苦労をするものなのかね」
 彼から以前教えられた単語を、トワイライトは思い出す。
 霊視体質とはその名の通り、霊を見ることが出来る者のことだ。人間界ではしばしば、こういった能力がエンタメとして形作られ、夏の風物詩として楽しまれる。しかし、彼らは知らないだけ、見えていないだけなのだ。本当の霊が、どのような存在なのかを。
 生物、特に思考能力を持った人間や天使、悪魔から”それ”は生まれる。ここ魔界では、”怨念マリス”と呼称されるものだ。それは決して死者の魂や、生前の未練のために生じた亡霊などではない。死霊系魔法によって作り出される、幽霊ゴースト上級幽霊レイスとも違う。怨念は、生者の肉体からしか生まれない。悪意、殺意、憎悪、悔恨。そうした醜いドロドロとした感情が、何かの拍子に体外に排出され、集約する。それらは互いに惹かれ合い、特定の条件を満たした土地に溜まっていくのだ。要は、暗い感情や闇に満ちた思念、生物が持ち得るありとあらゆる邪悪を、極限まで煮詰めて凝縮させたような存在である。
 怨念は魔界中のどこにでもいて、ありとあらゆる場所を漂っている。だが、誰の目にも映るわけではない。魔界においては、霊視体質の悪魔だけが、怨念を目視出来る。しかし、だからこそ、一度見てしまえば簡単には振り払えない。結果として、精神や身体をおかしくする者が後を立たないのだ。
 対策が、ないわけではない。たとえガラス一枚でも隔てさえすれば、見える怨念の数は格段に減る。だから多くの霊視体質の悪魔たちが、視力に問題はなくても、眼鏡をかけているのだった。エンヴィスも、その一人だ。
「私はかなり”見える”方なんです。月に一度は憑かれるなんて、家族の中でもレアケースですよ。除霊師にもこの前、常連だなんだと揶揄われました。全く笑えません」
 彼は疲れたような顔をして、片手をひらひらと振った。望まずに得た力に、かなり迷惑しているらしい。
 霊視体質には、個人差がある。気配をかろうじて察知出来るだけの者もいれば、レンズで隔てていても、多くの怨念を見てしまう者もいる。エンヴィスは後者の典型例だ。ふとした瞬間に目撃し、そのまま取り憑かれてしまう。意思の力で跳ね返せないこともないが、それだって容易ではない。だから彼は、頻繁に取り憑かれ、かかりつけの除霊師のもとに通う羽目になっていた。かかりつけがいる時点で、異常極まりないと除霊師本人から軽口を叩かれることもしばしばだ。しかし放っておけば、体調を崩したり精神を病んだりするのだから、対応しないわけにもいかない。トワイライトが案じた通り、霊視体質の悪魔は、そうではない悪魔と比べて、苦労する場合が多いのである。
「それより、トワイライトさん、気が付かれましたか?」
 同情されていると思ったのだろう。エンヴィスは気まずげに、さりげなく話題を変えた。
「カーリくんのことか」
 別段憐れんでいるつもりはなかったのだが、彼の意を汲んで、トワイライトは調子を合わせる。察してくれると分かっていたエンヴィスは、一つだけ頷いて、続けた。
「この前から何か、嫌な気を感じるんです……あいつの、手から」
 比較的過敏な霊視体質を持つエンヴィスでも、それをはっきりと見ることは出来なかった。気が付けたのは、本当にただの偶然によるところが大きい。だが、確かに感じたのだ。彼女の周囲から漂ってくる、わずかに、ほんのわずかに不気味な、嫌悪感を抱かせる気配を。
 危険を承知で眼鏡を外しても、何も見えなかった。むしろ気のせいであったかのように、かき消えてしまった。しかしながらどこか、胸の奥深くで、危機感がざわざわとさざめくのだ。
「ほう。それは、いつからだ?」
 実はエンヴィスは、この話を切り出すのに少々以上の勇気を必要としていた。トワイライトはみだりに部下を疑うような悪魔ではない。軽率に不信を口にしようものなら、自分自身が信用を失ってしまうかも知れないと、恐れていた。
 しかし彼は冷静に、尋ねかけてきた。机に両肘を乗せ、何事かを思案するような唇を突き出した表情で、エンヴィスを見上げる。
「恐らく……二週間ほど前からかと」
 ごくかすかな気配だから、辿るのはとても難しい。エンヴィスはしばし目を瞑って、自らの記憶を掘り起こすのに集中しなくてはならなかった。
「ボール・アイくんと出会った辺りからか……」
 引っ張り出した答えを聞くなり、トワイライトは組んだ両手に口元を埋めて、考え込み始めた。
「気のせいだといいんですが」
 あえて軽薄そうな口調で、エンヴィスは嘯く。あくまで自分の思い過ごしであってほしい。誰かにそう言ってほしいと、身勝手な願いが脳内を渦巻いていた。
 だが、トワイライトは何も言わなかった。唇を引き結んだまま、押し黙っている。
「……トワイライトさん?」
「あぁ、失礼。少し考え事をしていた」
 エンヴィスが名を呼ぶと、彼はハッとしたように目を見開いて、それから笑みを浮かべる。取り繕っているのが丸分かりだ。もしかして、彼も似たような疑惑を抱いていたのではないだろうか。エンヴィスは、直感した。
「何か、引っかかることでも?」
「そうだな……君以外の悪魔からも、言われたことがあるんだ。カーリくんに注意しろ、と」
「何ですって!?」
 予想は的中した。しかし彼と自分以外にも、異常に気が付いていた悪魔がいたというのは、驚きだ。一体何者なのだろうか。
「いつ、誰から言われたんです?」
「シュハウゼンさんだ」
 動揺して、まるで尋問のような口調になってしまった。無礼を働かれても、トワイライトは気分を害した様子も見せない。平然と、相手の名前を口にした。
「……シュハウゼン刑事部長ですか……」
 エンヴィスはあからさまに顔を顰めて、苦々しげな声を出す。ペスト遺伝子研究センターでの出来事が、ありありと瞼の裏に浮かんできた。確かに手腕は見事だが、信じられないほど強引な、トワイライトの元上司。エンヴィスの苦手なタイプだ。
「はは、疑わしいだろ?」
 揶揄いを含んだ声で問いかけられ、エンヴィスは慌てた。
「申し訳ありません。侮辱するつもりは」
「気にしないでくれ。私だって信じてはいないからな」
 急いで頭を下げるが、トワイライトの対応はおざなりだ。彼だって、エンヴィスと同感だからである。
「しかし、君までもが言い出すとなると……本当に注意した方がいいのかも知れないなぁ」
「お、お待ちください!」
 部外者であるシュハウゼンはともかく、身近で彼女を見ているエンヴィスの意見は、無視してしかるべきものではない。
 頭の後ろで腕を組んで、呟くトワイライトを、エンヴィスは焦って制止する。ともすれば、チームの崩壊に繋がりかねないことなのだ。判断は慎重にした方がいいに決まっている。
「私の、単なる勘違いの可能性も」
「安心したまえ。結論を急ぐ気はない。だが……他ならぬ君がおかしいと感じたのなら、それはきちんと取り合うべきだと思ってね」
 彼の考えなど、トワイライトには筒抜けだったらしい。長い付き合いのエンヴィスのことは、把握しているし、信用しているということだろう。何だか嬉しいような、むず痒いような気になる。
「それに実を言うと、私も少し気にかかっていた……ほら、さっきの彼女、様子が変だっただろう」
「それは……」
 どう答えるべきか悩んで、エンヴィスの声が尻すぼみになる。
「何かを隠している気がした」
 彼の逡巡を打ち破るように、トワイライトはきっぱりとした調子で言い切った。無限の闇を宿した黒い瞳が、鷹のように鋭くなっている。真相を見抜こうと、本気になっている時の目だ。
「……本当ですか?」
 本当にカーリを疑っているのか。自分が言い出したこととはいえ、早くも後悔が募り始めている。エンヴィスは目を剥いて、トワイライトの顔を凝視した。
「だが、それだけじゃないような気がするんだ……彼女には何か……」
 トワイライトは真剣な瞳のまま、ぼんやりとした声音を発する。
「何か……と、仰いますと?」
 曖昧な表現を確定させようと、エンヴィスは水を向けたが、彼は無言のままだった。
「……分かりました。心に留めておきます。あいつがまた何か、危険に首を突っ込まないように」
 仕方がないので、一応了承をしておく。尤も、彼に言われるまでもなく、カーリを注視しておくことは決めていたのだが。
「……あぁ、すまない。よろしく頼むよ。引き留めてすまなかったね」
 ようやく我に返ったトワイライトは、黙考していたことを詫びる。だが、思考回路は未だ、カーリのところで留まっていた。
(違う……彼女自身が、危険な存在として周りに影響を及ぼすかも知れない……)
 馬鹿げた想像で終わるといいのだが。
 そんなことを思っているトワイライトを後に残し、エンヴィスも休憩を取ろうと廊下に出ていく。眼鏡の縁を押し上げ、ぐるりと肩を回した。心なしか、体が重い気がする。デスクワークによる疲労とは、確実に違った感覚だ。
「くそ……やっぱり憑かれてんのか?」
 またあの高慢な、心霊芸術家とやらの世話にならなければならないらしい。腹立たしいことだ。本当に、霊視体質は苦労しかしない。
 舌打ちしたい気分を何とか堪えながら、エンヴィスは階段を降りていった。

  *  *  *

 レディたちとのランチを終えたカーリは、一足先にオフィスに戻ってきた。
 珍しく閉じられたドアの向こうから、誰かの話し声が聞こえてくる。どうやら、相当大きな声で言い争っているらしい。いや、一方的に捲し立てていると言うべきか。
 そんなことをする相手は、一人しか思い浮かばなかった。ムーアホーンの角と、優美な外見を持った、中性の悪魔。レンキに違いない。何故だか知らないが、彼はトワイライトのことを敵視しているのだった。
 どうしてこういう時に限って、レディはトイレに行っているのだろう。扉の前で、カーリは溜め息をついた。
 彼女がいれば、あの明るい笑顔と無垢さで、険悪な空気をぶち壊してもらえるのに。ボール・アイと自分だけで、どうしろというのか。
「この声って……」
 遺伝子検査をする際、関わったことを覚えているのだろう。そしてやっぱり、苦手に思っているらしい。ボール・アイも彼女の腕の中で、顔を引き攣らせていた。
「どうしよっか……」
 後5分で、昼休憩は終わってしまう。部屋に入るべきか、否か。勇気を出せ。いや、出すな。余計なトラブルに巻き込まれる。
 頭の中で、様々な自分がせめぎ合う。カーリは躊躇って、しかし意を決して、ノブを握ろうとした。
「とにかく!そういうことだから!!」
 突然、ドアが開いた。何事かを叫んだレンキが、外へ飛び出そうとしたのだ。だが、目の前に立つカーリを見て、飛び上がるほどの勢いで驚く。
「ひやっ!!」
 ズザザッと後退りする彼を、カーリはまるで化け物になったような気分で眺めていた。
 それにしても、間抜けな叫び声だ。ひゃ、ではなく『ひや』と言った。
「な、何、アンタ!びっくりするじゃない!!」
 甲高い声で、カーリを詰るレンキ。しかし、すぐにボール・アイにじとっとした目を向けられる。
「それはこっちの台詞だよ~、レンキ」
 子供のように純真な精神を持つこのスライムは、特別な事情でもない限り、決して誰にも物怖じしないのだ。カーリとしては羨ましいの一言に尽きる。
「あ、アンタ……ぷるぷる」
 彼の姿を見て、多少は冷静さが戻ってきたのだろう。レンキはハッと我に返り、慌ててキリリとした表情をしてみせた。しかし残念ながら、取り繕うには大分手遅れだ。
「あっれー?どしたの?レンキさんじゃん」
 カーリの後ろから、レディが現れる。彼女の隣には、エンヴィスもいた。レンキを毛嫌いしている彼は、いつも通り、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「……こんなところまでわざわざ、一体何の用ですか?」
「まぁまぁエンヴィスくん、そう邪険にして差し上げるなよ。レンキさんも、色々と大変なんだから」
 向けられた敵意に応え、レンキも目つきを鋭くした時だった。トワイライトがオフィスから顔を出し、二人の間に割って入る。口元に貼り付けた笑みは、いつも以上にわざとらしく、仰々しかった。
「うるっさいな……アンタにフォローされる筋合いはないよ、腹黒」
 それが癪に触ったのだろう。レンキが柳眉を逆立てて、彼を睨む。しかしトワイライトは、相変わらずニコニコとしたままだ。
「ほーう?そう来ますか……では、よろしいのですかな?我々には、断る権利だってあるのですよ?」
「ぐっ……!」
 揶揄うように、あるいは挑発するように、片眉を持ち上げレンキを見遣る。レンキは呆気なく言い負かされ、声を詰まらせた。
「トワイライトさん、どういうことです?」
 何かを察したエンヴィスが、訝しげに尋ねかける。だが、彼が最後まで言い切るより早く、レンキが口を開いた。
「どうもこうもないよ。私はこの腹黒に、仕事を頼みに来ただけなんだから」
「このレンキさんは、我々単独脱界者対策室に、捜査協力をしてほしいらしいんだ」
 すかさずトワイライトが、彼を手で指して補足する。ニヤついた表情といい、大きめに張った声といい、どことなく恩着せがましい態度だった。レンキはまたもや嫌悪感を露わにして、眉を寄せている。
「捜査協力……?」
 話の流れが見えずに、カーリは小首を傾げて聞き返した。それは、エンヴィスも同じだったのだろう。皆がオフィスに戻るなり、開口一番質問を投げかけた。
「捜査協力とは、一体何のために?」
「そんなの決まってるでしょ。この前の脱界者のことだって」
 刺々しい口調で、レンキが答える。相手を小馬鹿にするような言い方だったが、エンヴィスは珍しく気に留めなかった。
「あぁ……あの糞ジジイか」
「エンヴィスくん」
 低めた声で憎々しげに悪態をつく部下を、トワイライトが穏やかな調子で窘める。レディはそんな二人を、黙って見つめていた。
「アンタでしょ?誘拐されたの」
「……そ、そうだけど」
 彼女の鼻先に、突如レンキの長い指が突きつけられる。いきなり問いかけられて戸惑ったレディは、特に真意を考えることもなく、首を縦に振って肯定した。
「気の強そうな見た目してる割に、案外弱っちいんだね」
 するとレンキは、勝ち誇ったような笑みで、彼女をこき下ろす。
「それとも、ご自慢のオツムに靄でもかかってた?」
「ちょっと、そんな言い方!」
 大事な友人を、目の前で嘲笑されては看過出来ない。カーリはレディの前に出て、レンキを睨む。懸命に仲間を庇おうとする彼女を、レンキは面白がるような瞳で覗き込んだ。
「ふぅ~ん……なるほどね」
「な、何ですか」
 ジロジロと不躾に全身を眺め回され、挙句に奇妙な感想をもらい、カーリの不快感は急速に上昇していく。トワイライトほどに上手く取り繕えない彼女は、自分の声が必要以上に険のあるものになったことに気付いた。
「もしかして気付いてないの?……ホント、どこまでもおめでたい奴らだこと」
 未熟な彼女を尚も挑発するように、レンキは口元に手を当て、嫌味っぽく失笑を漏らす。カーリの綺麗な眉が、ぎゅっと強く寄った。
「……どういう」
「そこまでにしていただきましょうか。サンドバッグにするなら、彼女たちより私の方が最適だ」
 また一段と低い声音で、詰問しようとした彼女を、トワイライトがやんわりと止める。そして自らの身をレンキの前に押し出し、いかにもな殊勝な顔を作ってみせた。
「二人を責めるのは、どうかご容赦を」
 真摯に頭を下げるようでいて、しかしその瞳は、彼のことを下から睨め上げるように捉えている。闇の深い、鋭い眼光に面食らったのか、レンキがかすかに息を飲んだ。
「……ヤダね。少し揶揄っただけなのに、ピリピリしちゃって」
 必死に平静を装っているが、声音は若干裏返っているし、頬の辺りの筋肉がヒクヒクと神経質に痙攣していた。
「そう言うレンキさんこそ、ストレスが溜まっていらっしゃるのではないですか?」
 トワイライトはその隙に滑り込むように、彼に一歩近付く。静かな、しかしこの場にいる全員に聞こえるほどの声で、彼に問いかけた。
「……どういう意味?」
 今度はレンキの方が、眉をぎゅっと顰める番だった。皆の前で弱みを晒されまいと、牽制しているらしい。
「はははっ、どうもこうもありませんよ。ドゥーマの取り調べ、難航していると伺ったものでねぇ」
 彼の警戒を、無用な心配だと言わんばかりに、トワイライトは腹から声を出して哄笑する。可笑しそうに体を揺らしながらも、相手の顔へ向けてちらちらと、油断なく視線を遣っていた。
「……どこのどいつ、アンタにそんな情報渡した奴は」
 レンキの顔色が、まるで毒を食らったかのように濁る。何事か答えようとしたトワイライトに指を一本突きつけ、黙らせてから、彼は続けた。
「いや、聞かなくても分かるわ。パルマでしょう。全くあの男ったら、口から出まかせで、あることないことベラベラベラベラと……!」
 言っている内に、怒りが増幅してきたのだろう。彼は頬を赤く染めて憤慨し始める。
「ですが、今回ばかりは的を射ていた。違いますか?」
 トワイライトは平然と、彼に向かって疑問をぶつける。情報源が誰かについては、答えるつもりなどないようだった。
「……アンタの言う通りだよ」
 彼の意図を読んだレンキは、苛立ったように睨んでいたが、やがて深く息をつき、白状する。今までにない意外な対応に、トワイライトは興味を引かれ、軽く目を見開いた。エンヴィスも意外そうに口を開けている。
「ドゥーマは逮捕されてからというもの、ほとんど口を効いてない。このままじゃ、他の脱界者と同じように裁くしかなくなる……余罪を一つも挙げられないままで」
 彼らの驚きにも気付かない様子で、レンキは語り始めた。
 話を聞いて、カーリは驚く。ドゥーマがずっと黙秘を続けているというのは、知らなかった。そしてレンキが、そのことを非常に重く受け止めていることも。
 彼もまた、れっきとした警察部門職員だということだろう。罪を犯す者には罰を与えるべき。そう信じているようだ。
「何故そんなことを?」
「庇っているんだろう。自分が仕えていた、組織とやらを」
 エンヴィスが発した問いに、トワイライトが応じる。大きな瞳をぎょろりと回し、”組織”への反感を表す彼を見て、レディが気まずげに顔を伏せた。
「でも、自白がなくたって、証拠があるじゃないですか。二階に沢山、魔界で作られたアイテムがあったんでしょう?」
 自供を取ることに拘泥する必要はないのではないかと、カーリが口を挟む。しかしレンキは、首を横に振った。
「爆発で全て吹き飛んだんだよ。かろうじて回収出来た物品からは、ほとんど手がかりなんか掴めなかった」
 疲れた声で一息に言い切り、トワイライトを睨む。爆発を起こしたのは彼だから、全て彼のせいだと思っているらしかった。
「地下室は?あんなのどう考えたって、普通じゃないよ」
 停滞しかけた空気に耐えかね、ボール・アイまでもが高い声を上げる。
「人間たちが見たら、きっと驚くはずだ。そうでしょ?レンキ」
「地下室のことは、情報分析部と”チーム0”が協力して隠蔽した。人間たちは何も知らない。爆発も、事故として片付けられるでしょう……診療所を開いていた男がどうしたのかも、気に留めないはずだよ」
 さらりと話す彼だが、その労力が並大抵のものでなかったことくらいは、カーリにも分かった。いつもの彼ならもっと大袈裟に嘆き、愚痴をこぼし、トワイライトを責め立てていたはずだ。しかしそれ以上の懸念の存在のために、今は意識の外に追い出されているのだろう。
「私たちが手に入れたのは、ほんのわずかな証拠だけ。どうやら、連中よっぽど用心深い奴ららしくてね……正直なところ、捜査は暗礁に乗り上げてるってこと。刑事部捜査四課の悪魔たちだって、こんなんじゃ動かせないし」
「だから、どうしても自供が必要だった。しかし……彼は口を閉ざしたまま。何も喋ろうとしない、と」
「そういうこと」
 トワイライトの相槌にも、さして反論せずに、嘆息する。バックに裏の組織がいると分かっている悪魔を、脱界と公務執行妨害、要するにいつも通りの罪でしか送検出来ないのは、確かに不服だ。加えて、危険でもある。彼を手始めとして、組織ごと検挙出来たら。レンキがそう願うのも不思議ではなかった。
 しかし確固たる根拠もないのに、刑事部に要請を出すことは出来ない。思い通りにいかない事態に、レンキは苛立っていた。
「ほんっと腹立つ!」
 バン、と彼の手がデスクの片隅を強く叩く。部屋中に響いた大きな音に、カーリは目を丸くし、ボール・アイは体をぷるんっと震わせた。
「恐らくですが、ドゥーマは言わないのではなく、知らないのだと思いますよ」
 顎に手を当てて、思案を巡らせていたトワイライトが、唐突に話し出した。
「えっ?」
 意表を突かれたレンキは、勢いよく彼を振り返る。
「彼自身、自らの雇用主の実態を、ほぼ把握していないのでしょう。組織からしてみれば、使い捨ての駒も同然。正体を明かすほどの価値もない男だったのでしょう」
 彼からの注目を待っていたかのように、トワイライトは流暢に語り始めた。すらすらと述べられる推察に、レンキは感情的に言い返す。
「で、でもだってドゥーマは、組織に助けを求めたんでしょう?奴らが応じると分かっていたから、人質を取って時間稼ぎをしたって……」
 要するに、無条件の救援を提供するほど、ドゥーマは組織にとって重要な男だった。それがレンキの考えだ。
 しかし、その説明がどこかおかしいことに、カーリはすぐに気が付いた。そして、トワイライトがしたことに思い至る。彼はレディを庇って、報告をしていないのだと。
「何らかの脅迫をして、交渉したのでしょう。例えば、このまま捕まったら、組織について知っていることを全てぶちまける……とか何とか」
 ドゥーマがレディに何らかの価値を見出したこと、彼女が裏社会の悪魔たちに固執される存在であることは、トワイライトが握り潰してしまった。果たして問題にならないのだろうか。何食わぬ顔して嘘の考察を並べ立てている彼を、カーリはじっと見つめる。他の者たちも皆、気付いているのかいないのか、口を閉ざしたままだった。
「ハッタリもいいところだけど……奴はそれで相手が折れると思っていた。だから交渉したんじゃないの?」
 レンキだけがただ一人、真実を知らないで、間抜けな質問を投げかけている。
「成立しなかったからこそ、彼は逮捕されたのでしょう。加勢が来ていたら、我々だけで対処し切れたはずはありませんから」
「ダメもとだったということ……?」
 トワイライトはまたも平気で、彼を欺く。しかし流石に納得がいかなかったのか、レンキは釈然としない顔をしていた。
「その通りです。しかし彼はプライドの高い、傲慢な悪魔ですからね……」
 はぐらかすように、トワイライトはわざと挑戦的な視線を彼に向け、嫌味っぽい言葉を発する。案の定、レンキの思考は怒りに満たされ、細かいことを失念したようだった。
「自分の失態を恥じ、他人に話したがらないのでしょう……あるいは、意固地になっているだけかも知れません。そうであれば、口を割らせるのは中々困難ですね」
 ムッとした様子のレンキに、彼は更なる適当を浴びせかける。内心では、ドゥーマへ感謝の念すら抱きかけていた。もしも彼が開き直って洗いざらい全て白状していたら、もっとまずいことになっていたからだ。彼が黙っていてくれるおかげで、今もレディの秘密は守られている。
「無論、交渉の上手い悪魔であれば、誘導出来るかも知れませんが、私はそちらより、レンキさんの仰った捜査協力が気になりますねぇ……」
 それが白日のもとに晒されぬよう、トワイライトは尤もらしい顔をして話題を別の方向へと転がしていく。
 促されたレンキは、表情をより一層引き締めて、単刀直入に切り出した。
「”情報屋”への接触を試したい。直接会えば、動揺して何か漏らすかも知れないでしょ」
「情報屋……」
 彼の告げた言葉は、中々に衝撃的なものだった。エンヴィスは思わず、眉間に皺を刻み嫌悪感を露わにしてしまう。
「レンキさん……本気ですか?」
「私はいつだって本気だよ、エンヴィス」
 疑うような眼差しを向けるが、レンキはそれを真っ向から見返し、当たり前だと頷いた。エンヴィスの声音が、更に苦味のあるものになる。
「随分簡単に言ってくれますが……情報屋連中なんて、皆ロクでもない奴らばっかりですよ?ましてや、いきなり令状もない状態で挑んだって、追い払われるだけです。仮に何か得られたとしても、信用なんか出来たもんじゃない」
 情報屋とは、文字通り、情報を提供してくれる悪魔のことである。彼らはそれぞれ様々な知識やコミュニティーを有しており、そこから収集した情報を時折、警察部門に流してくれるのだ。中には、彼らの協力がなければ解決出来なかった事件も存在する。
 だが、彼らはただのボランティアではない。情報を与える時は、相応の見返りを要求する。また、彼らはその卓越した情報収集能力に見合った、高い交渉力を持っていた。場合によっては、こちらが丸め込まれ、利用される可能性もあるのだ。だからこそ、大半の警察部門職員が、彼らとの関わり合いを好まなかった。情報屋と上手く付き合えるのは、ごく少数の優秀な悪魔だけ。それでも何割かは、莫大な利益と成功に目が眩み、身の破滅を味わうことになる。要するに、ハイリスクハイリターンの危険なギャンブルということだ。味方に出来れば非常に頼もしいが、同時に非常に厄介でもある相手。情報屋と関わって失敗した悪魔たちの話は、エンヴィスの、そこそこだと自負する人脈と情報網にも舞い込んでくる。例えば、せっかく苦労して手に入れた情報が、真偽の怪しい噂程度のものや、あるいは完全なる嘘であったという場合だ。逆に捜査情報を漏らしたせいで、責任を問われた悪魔さえいる。エンヴィスが警戒するのも当然のことだった。
「大体、レンキさんだって情報屋には懐疑的だったでしょう」
「でも、他に方法はない。一か八か、ここは賭けに出たい」
 レンキも、元々はエンヴィスと同じく、情報屋に不信感を抱く口だった。その点ではエンヴィスも、彼に共感を抱いていたものだ。しかし、彼は意見を変えてしまった。
「何故、そこまでこの件に入れ込むんです。脱界者は逮捕出来たんですし、それでいいではありませんか」
 自説を覆してまで、拘泥するほどの案件には思えない。エンヴィスは棘のある口調で、レンキを詰問した。ドゥーマが関わっていたという裏組織について、彼も興味がないわけではなかったが、それにしてもレンキの熱の上げ方は異様だと思ったのだ。冷静さを失った相手と手を組めば、こちらにも火の粉が降りかかりかねない。エンヴィス自身が、時として我を忘れるタイプの悪魔だからこそ、危惧することだった。
「いいわけないでしょう!あのドゥーマって男は、間違いなく何らかの非合法的組織と繋がってる。もしかしたら、脱界にかかる費用だって、そいつらから手に入れたのかも知れない。実態を暴かないことには、この案件を終わらせられない」
 ところがレンキは、落ち着きを取り戻すどころか語調を強めて、捲し立ててきた。その瞳には激しい怒りが渦巻き、炎が燃えている。
「私は誓ったの。もう二度と、あの子みたいな目に遭う悪魔を増やさないって……!」
 一言一言、噛み締めるように発音する。まるで、自分自身に言い聞かせるようだった。
 一体何がそこまで彼を駆り立てるのか。カーリは彼の目の中に何か暗い感情がある気がして、訝しんだ。
「それはあんたの勝手な言い分だ!いい加減、過去を引きずるのは」
「止めたまえ、エンヴィスくん」
 とうとう、限界を迎えたらしいエンヴィスが、突然大声を上げて叫ぶ。頬を紅潮させ、活火山のように感情を噴出させる彼を、トワイライトが素早く窘めた。遮られた彼は、まだ不満げな顔をしながらも、一応は上司に従う。部下が口を閉ざしたのを見届けると、トワイライトはレンキに向き直り、一つ首を振った。
「お話は分かりました。レンキさん……いいでしょう。あなた方情報分析部の捜査に、微力ながら協力させていただきます」
「と、トワイライトさん!」
 エンヴィスが慌てて彼を止めようとするも、既に遅かった。
「いいんですか?っていうか、相手は……?」
 カーリは目を丸くして、彼に尋ねかける。彼女の質問に答えたのは、トワイライトではなく、レンキだった。
「地方領主ロザリオ……通称、”荒地の墓守”」
 懐から取り出した一枚の写真を、ポイと机に放る。裏返って落ちたそれを拾い上げ、カーリは写っている人物を眺めた。
 赤く染めた髪と、突き出た頬骨の形が特徴的な男だ。黒一色の服装と痩身は、どことなく死神めいた雰囲気を感じさせる。
「あ!!アタシ知ってる!!」
 彼女の横から写真を覗き込んだレディが、甲高い声を上げた。
「えっ?レディちゃん、この人知ってるの?」
「うん!ロザリオ伯爵!人気インフルエンサーだよ!!」
 驚いて聞き返すカーリに、彼女はにっこり笑って自身のスマートフォンを差し出してみせた。主に写真を投稿するためのSNSアプリの画面に、とあるアカウントのプロフィール欄が表示されている。
 アカウント名は『ロザリオ』。伯爵家の家督を継いだ死霊術師ネクロマンサーだ。

  *  *  *

「ふぅ……」
 凝った肩を回しながら、レンキは溜め息をつく。
 自身のデスクに向かって、書類仕事と格闘すること数時間。今やオフィス内には、自分以外誰もいなかった。こんな深夜帯では、皆既に眠ってしまっているかも知れない。別に、だからといって羨ましいわけではないが。
 特に急ぎでもない仕事に、随分と集中してしまった。やはり頭の中には少しだけ、現実から目を背けたい気持ちがあるらしい。昼間、エンヴィスに言われた言葉が引っかかる。
「……ふんっ、私としたことが、あんな男の言葉に惑わされるなんて」
 モヤモヤと淀みかけた思考を鼻息で吹き飛ばし、彼はパソコンに向き直った。あの軽蔑すべきトワイライトの部下に振り回されるなんて、自分らしくないにも程がある。
 パソコンの画面にはデカデカと、ロザリオのSNSのアカウントが映し出されていた。レンキは引き出しから紙の資料の束も取り出して、双方を見比べていく。
 ロザリオは、ハデスから少し離れた田舎に暮らす、地方領主だ。広大な土地を保有し、悪魔たちを住まわせ、彼らに農作物を生産させている。そしてそれらの売り上げを、一部徴収する形で生計を立てているようだ。部下が調べたところ、作物の売上金から得る収入はさほど大した額ではないらしかった。だが、先代が残した多額の遺産によって、豊かで恵まれた生活を維持出来ているとのこと。また、彼自身が死霊系魔法の使い手であることからも、差別されがちないくつかの魔法への理解を広める活動に注力し、多くの悪魔たちに支持されているようだった。
 マイノリティーに寄り添い、彼らのために声を上げる。いかにも金持ち連中の好みそうなことだ。馬鹿な民たちはそれでもあっさり誘導され、慕ってしまうのだから、救いようがない。
 こんな風に穿った見方をしてしまうのも、レンキはロザリオの輝かしい生活に、裏があることを知っているからであった。
 ロザリオは父の死後、家督を継いで以来、情報屋としての立場を築いた。彼は裏社会のいくつかのシンジケートとの繋がりを持ち、それらを駆使して、警察部門の捜査に貢献してきた。見返りとして、様々な特権を認めさせながら。
 しかし、上流社会に育った悪魔が、一体どうやって闇の者たちとのコネクションを得たのか。警察部門は次第に、彼を警戒するようになった。優秀な職員の何人かが、身辺を探ったこともあった。結局は何も出なかったものの、浮上した疑惑はいくつかあった。その一つが、彼は財産の一部を、ある違法組織が運営するファンドに流している、というものであった。ファンドが設立された目的は、貧しい者に人生をやり直すチャンスを与えるため。要するに、脱界を希望する者に、必要なだけの資金を提供するということである。
 魔界府が今、最も恐れる禁忌、脱界。ロザリオは、その大罪に加担している可能性がある。本来ならば、タキトゥス率いる<組織的脱界者対策室>が手がけるべき案件だ。だが、証拠が乏しく信憑性に欠ける疑惑であること。また、集団ではなく個人の犯行であることから、捜査は長年見送られてきた。そこへ、レンキが提案を持ってきたものだから、タキトゥスは随分喜んでいたらしい。トワイライトが、珍しく辟易した表情で言っていたのを思い出す。全く、いい気味だ。
 上司に託された以上、あの腹黒男も、この仕事を途中で投げ出すわけにはいかなくなったろう。何とも上手い具合に、話が転がったものである。レンキとしては、嬉しい限りだった。
(見てなさい、腹黒……アンタは絶対、何かを隠してる)
 パソコンの画面に向かって、レンキは険しい顔をしてみせる。彼とても、決して鈍い悪魔ではないのだ。むしろ、いざという時には異常なほど働く、第六感的感覚を有している。その彼には、分かっていた。トワイライトは、何か秘密を握っている。それが何なのかは分からないものの、彼には絶対に暴き出してやるという決意と自信があった。
(私はあの時のことを、決して許しはしない。もしもアンタも、奴らと繋がっているのなら……容赦しないからね、トワイライト)
 目を瞑れば、いつでも浮かんでくる、あの光景。過去になるなどあり得ない。何年経とうが未だに、昨日のことのように思い出せる。
 親友だった男が、凶弾に倒れ伏す姿。鮮血が舞い、硝煙が漂う。傷を負った彼に駆け寄るのは、自分ではなくトワイライト。彼は逡巡し、しかし、その場を離れる。残された男は一人、横たわったまま。救急隊の到着を待たずして、帰らぬ身と成り果てる。
 冷たくなった肉体。色の失せた顔。今でもハッキリと網膜に焼き付いている。
 レンキは肩を震わせ、両手で自らの頭を抱えた。
 あの時のことを、決して許しはしない。
 仲間と手柄を天秤にかけて、後者を取ったあの男のことなど。決して。
 怒りと失望と共に、決意を新たにする。そしてレンキは、席を立ちオフィスを後にするのだった。

  *  *  *

 ”荒地の墓守”ロザリオは、文字通り荒れた土地に暮らしていた。大地は乾いてひび割れ、緑色は少しもない。幽霊のような、曲がりくねった枯れ木が点在し、硬い岩や石がゴロゴロと転がっているだけである。これでは、農作物が育たないのも無理はなかった。
「何だか、不気味ですね……」
 荒廃した大地を見回しながら、カーリが首を竦め、自らの両腕をさする。辺りを吹き抜ける風はさほど冷たくはないが、漂っている空気は確かに、どことなく背筋を粟立たせるものがあった。
 彼女たちが現地に到着したのは数分前。レンキが事前に申請をしてくれていたおかげで、あっさりとテレポートに成功した。魔界府ではなく、公共用の転移施設を利用するのは、ほぼ初めての経験だ。
「たった一瞬で、大都会からこんなところに来られるなんて……!」
 ボール・アイも、興奮した声で呟いている。
「これは……壮観だな」
 目の前に聳え立つ建物を見上げて、トワイライトも思わずそうこぼした。
 切り立った断崖に、でんと佇む巨大な城。ゴシック様式の細やかな装飾と、洞窟の天井を突くような尖塔を持つそれは、まるで御伽噺に出てくる吸血鬼の住処を彷彿とさせた。
 ロザリオはここに、一人で住んでいる。といっても、この大きな屋敷をたった一人で、管理し続けられるわけがない。生きている住人は彼だけだが、代わりにそれ以外の種族が、城の雑多な用をこなしていた。いわゆる、生屍ゾンビと呼ばれる種族である。
 通常、魔力を持つ者が死亡すると、器を失った魔力は体外へと流れ出す。魔力には故人の生前の思考や感情、嗜好などが溶け込んでおり、それがいわば魂とでも呼ぶべき、非物理的なエネルギーを構成するのだ。そしてロザリオが専門とする死霊系魔法とは、彼らの魂に自らの力を継ぎ当て、増幅させる技術を指す。魔法で強化された魂は、現実に干渉する術を持ち、目に見えるかつての肉体に戻ることが可能となる。まるで死者が蘇ったかのように、生前と同じく立ち働くことが出来るのだった。
 彼らは既に死んでいるため、疲労や病気、怪我など一切の身体的不調を感じない。また、生前の性格を残す一方で、自分を作り出した君主への絶対的な忠誠心も抱いている。悪く言えば、あるところで思考が矛盾したまま停止しているというべきか。彼らはどんな命令にも服従し、生者のように悩みや疲れに振り回されることもない。だからかつての権力者たちは、ゾンビ等肉体を持つアンデッドを、労働力として重宝していた。しかし時代が進むにつれ、人間たちの価値観や倫理観を知り始めた悪魔たちは、次第に反発を抱くようになった。いくら理を覆すのが魔法の力といえど、死者を蘇生させるのはあまりに冒涜的だ。慎むべき行為だと、声高に叫ぶようになったのである。それ以来死霊系魔法は、長らく被差別対象として憎悪されてきた。死霊系を学ぼうという悪魔は減り続け、現在行使出来る者の数は数えられる程度だと語る学者もいる。ロザリオはそんな時代の中で、珍しくも死霊系魔法を習得し、更に自在に使いこなせるほどの才覚を発揮した。彼は世間からの目も気にすることなく、沢山のゾンビたちと、気楽な毎日を送っているのだった。
「ゾンビなんて、ゲームでしか見たことないですよ……本当に、大丈夫なんですか?」
 ゲームで描かれるゾンビは、完全に理性がなく、生物を片端から襲撃する危険な敵として扱われる。魔界におけるゾンビも同じなのではないかと、カーリは警戒を露わにして、城を凝視した。
「襲われないかってことか?まぁ、大丈夫だろ……多分」
 彼女の言わんとするところを察したエンヴィスが、眼鏡を押し上げながら答える。最後の方で言葉を濁したのは、やはり彼も自信がないからだ。今日日、アンデッドを目撃したことのある者は、いくばくも存在しない。
「もうー、二人とも怖がりなんだからー!」
 尻込みする二人を、レディはあっけらかんと笑い飛ばした。
「だーいじょうぶだって!だってあのロザリオ伯爵だよ?無闇に酷いことする悪魔じゃないよー」
 そう言われても、カーリもエンヴィスも彼を知らないため、何も返せなかった。レディ一人だけが、憧れのインフルエンサーに会えると、テンションを高くさせている。
「落ち着きなさい。また痛い目を見ても知らないからね」
 歓声を上げて飛び跳ねる彼女の様子が癪に触ったのか、レンキが冷たい瞳で、じろりと睨んだ。嫌味な口調で窘められたレディは、唇を尖らせて、頬を膨らませる。しかし言い返さないのは、ある程度彼の言葉に納得しているからだろう。
「まぁまぁレンキさん、あまりレディくんをいじめないでやってください」
 すかさずトワイライトが、穏やかな笑みを貼り付けて、二人の間に割って入った。どちらにも理解を示そうとする彼の態度が気に食わないレンキは、ふんっと鼻を鳴らし、そっぽを向く。迂闊な行動をすれば、トワイライトの笑みが深くなるだけだというのに、未だに学習しないようだった。
「さっさと行きましょう。こんな死んだ土地にいたら、私たちの寿命まで吸い取られそうじゃない」
 荒涼とした周囲を見渡し、彼は吐き捨てる。完全なる八つ当たりではあったが、言い得て妙でもあった。トワイライトはちょっと面白そうな顔をしてから、レンキに従う。エンヴィスたちも後に続いた。
 庭の門扉の前に立ったレンキが、ノッカーを取って後方を振り返った。追いついたトワイライトは、顎に手を当てて、その奇妙なデザインを見つめる。
 真鍮のような、光沢のない金属で出来た輪を、蝙蝠のような動物が咥えていた。その牙は異様に鋭く、瞳部分には赤い宝石が埋め込まれている。わずかな魔力反応があることから考えるに、監視機能を持っているらしい。
 彼の予想は的中して、レンキがノックをする直前に、閂が外され扉が開いた。
「あ……あの……どちら様ですか……?」
 数十センチ開いた扉の隙間から、青年がひょこりと顔を出す。襟足の長いボサボサした髪は白髪で、瞳は薄い赤だった。恐らく、アルビノの悪魔だろう。よく見ると、首に縫い目がある。肌も、生者にしては異様なほど白い。ゾンビ使用人の一人のようだ。
「突然失礼します。魔界府警察部門です。ロザリオさんはご在宅でしょうか。少し伺いたいことがありまして」
 閉められないよう、扉に手をかけて、レンキが話し出す。いかにも捜査員らしい、ハキハキとした明瞭な話し方に、カーリはやや面食らった。陰険でヒステリックないつもの彼からは、想像もつかない姿だったからだ。
「あ……主ですか……」
 アルビノゾンビはぼそぼそと、尋ねられたことを繰り返した。主というのが、彼がロザリオを呼ぶ時の名前のようだ。まさしく、忠誠心に満ちている。
「しょ、少々、お待ちください……」
 何事か悩むような間を開けてから、青年は緩慢な動作で踵を返し、屋敷に向かって歩き出そうとした。レンキはすかさず、重たい扉を体で押し開け、無理矢理足をねじ込む。
「お邪魔しても?」
 有無を言わせぬ口調だった。青年は気圧された様子で、こくりと一つだけ頷く。了承が取れたのをいいことに、レンキはさっと体を滑り込ませると、歩き出してしまった。青年のゆっくりとした歩みを、早速追い越しそうな勢いだ。遅れを取らぬよう、トワイライトたちも静かに、敷地内に足を踏み入れる。
 扉の奥には、荒れ果てた庭が広がっていた。池の水は汚く濁り、生垣は枯れ枝だけになってしまっている。植えられている木は、林檎だろうか。腐って潰れた果実が、根本に落ちて、悪臭を放っていた。
 一見すると、まるで手入れなどされていないように思えるが、どこか作為的な、整然とした印象を受ける。もしかするとロザリオは意図的に、この荒れた庭を保っているのかも知れなかった。そこに何の目的があるのかは不明だが。
 我が物顔で、堂々と進んでいくレンキの背中を、カーリはさりげなく見遣る。彼があんな風に、他人の家でいけしゃあしゃあと振る舞えるタイプだとは思わなかった。そういえば、彼だって情報分析部のエリートなのだったと、カーリは今更思い出す。普段は、トワイライトとの険悪なやり取りしか見ていないから、失念しがちなのだ。
 屋敷の玄関口に着いた途端、青年は落ち着かなさそうに、足踏みをしたり咳払いをしたりし始めた。やがて意を決したのか、一つ息を吸って、ドアをノックする。今度はノッカーのついていない、薄紫色をしたシンプルなドアだった。
「ハイ」
 中から、きびきびとした男の声がして、ドアが開けられる。この広い屋敷に暮らしている割には、驚くほどにレスポンスが早い。まるで、客が来るのを察知していたかのようだ。
「おや、これはこれは……お客人ではありませんか」
 現れたのは、またもや使用人らしい、ゾンビの男だった。アルビノの彼と違い、すぐにそれと分かるのは、左頬の目立つところに縫い目があるからである。黒髪はやや前髪が長いものの、きちんと整えられ、艶を放っていた。丁寧な口調と、黒ずくめのスーツをきちんと着こなしていることから考えるに、執事のような役割を与えられているのだろう。アスコットタイを留める、緑色のピンが、瞳とよく合っていた。襟首の伸びたTシャツと、泥のついたカーゴパンツという格好のアルビノとは大違いだ。
「しかし、今宵の客人はお一方だけであったはず……ノア、どういうことです?」
 アルビノのゾンビ、ノアは、執事の切れ長の瞳に見据えられると、びくりと背筋を引き攣らせた。まるで蛇に睨まれた蛙だ。確かによく考えれば、執事の緑色の瞳は、蛇のような狡猾な雰囲気を放っている。だが、トワイライトが見たところでは、彼は相手の外見のみに怯えているわけではなさそうだった。
「まぁ、いいでしょう……ようこそおいでくださいました、皆様方。どうぞ、お入りください」
 一人勝手に何かを納得した様子の執事は、にこやかな仕事用スマイルを貼り付け、ドアを開け放つ。促されるまま、トワイライトたちは屋敷の中へと入った。
「ノア、お前の持ち場はどこですか?」
「あっ……」
 後についていこうとしたノアを、執事がすかさず呼び止めた。暗に出て行けと命じられたノアは、若干躊躇うように視線を彷徨わせてから、大人しく外へ出る。その顔にどことなく寂しそうな表情が浮かんでいるのを、執事は見ることもなく無慈悲に扉を閉めた。
「失礼致しました。さぁ、こちらへ……」
 一行は執事の案内に従い、屋敷内を移動した。
 流石は貴族の邸宅というべきか、室内はどこもかしこも荘厳で美しいデザインに溢れていた。天井は高く、吊り下がったシャンデリアからは煌びやかな光が落ちて、辺りの部屋を照らしている。ダマスク模様の壁紙は、落ち着いた色調で格式高い。飾られた絵画の中には、カーリにも作者が分かるほど有名なものもあった。それ以外にも、宝石の嵌められた壺や金で出来た鳥の置物など、いかにも高価そうな芸術品が多数並べられている。
 誰しもがしばらくその光景に見惚れていたが、やがてエンヴィスは、ある違和感を覚え、立ち止まった。
「……ん?」
 ぐるりと首を巡らし、辺りを見回す。
「どうしたの?」
 訝しんだレンキが、足を止め振り返った。
「……何か、おかしくないか?」
「え?」
 彼の言葉を聞き、カーリまでもが怪訝そうな反応を示した。背後を見遣って驚きを覚える。
「……え、何これ」
 彼女の後ろに伸びる、廊下。せいぜい十数メートルもないはずのそれが、果てしないほどに長く見えていた。エンヴィスの姿が、豆粒のように遠い。それだけではなく、頭上にあるはずの天井も、かなり高い位置に変わっていた。左右の壁は亭々と聳え立ち、吊るされたシャンデリアは漆黒の闇に包まれて、目視出来ない。まるで、トリックアートを体験しているかのようだった。いや、というよりもむしろ、視界そのものが歪んでいる気がしてくる。カーリは慌てて、自身の目を擦った。
「どうなってんの~?」
 どうやら、レディにも同じものが見えているらしい。分かりやすく狼狽する彼女のおかげで、カーリは安堵した。皆が同様のものを見ているのならば、自分の視覚に問題があるわけではないだろう。やはり、トリックアートか魔法の類に違いない。
「これは……?」
「当主の意向にございます。ここを訪れる皆様方が、出来るだけ楽しめるように、と」
「なるほど」
 トワイライトが尋ねると、執事はにっこり微笑んだまま、静かな口調で解説した。その趣向は全く理解出来ないが、否定するほどのことではない。トワイライトは端的に頷き、さっさと先へ進もうとした。執事は機敏にそれを察し、皆を導く。
「応接間はこの先でございます」
 片手で示した次の部屋は、これまで以上に変わっていた。
 第一に、暗い。人工の霧のようなものが部屋中に立ち込めて、非常に見通しが悪かった。壁に取り付けられた燭台の明かりさえ、霞んでいるほどだ。やはり高い天井からは、細い細い釣り糸のようなもので括り付けられた、グランドピアノがいくつも吊り下がっていた。その巨体を支えるには、釣り糸ではやや力不足に感じられる。実際、室内を通り抜ける微風に煽られる度、ピアノはくるくると回転して、埃を落としていた。衝撃を受けた天井からは、ギィギィと軋んだ音が響いている。
(怖っ……)
 もしも糸が切れたら、ピアノが頭上に落ちてくることになろう。あの楽器がいくらの重さを持っているのかは知らないが、押し潰されたら間違いなく怪我をするはずだ。カーリは恐ろしくなり、自分の肩を抱いた。どこからか入り込んでくる隙間風のせいで、室温も他の場所よりいくらか低く感じられる。それとも、恐怖のせいで錯覚しているのだろうか。
 トワイライトは、油断なく辺りに目を配りながら、先頭を歩いていた。先程から何やら、誰かに見られている気がしていた。といっても感じられる気配はほんのわずか、あるかないかという程度なので、勘違いかも知れないが。
「こちらです」
 ピアノの部屋を通り過ぎると、その先はごく普通の応接間だった。暖炉には炎が灯り、パチパチと火の粉が爆ぜている。一人がけ用のソファが半円状に並べられ、隣にはペット用と思しきクッションも置かれていた。最奥には巨大な窓が設けられ、左手に次の部屋へ続く扉が付けられている。
 決して広くはないが、快適そうな部屋だ。トワイライトを含め皆がそれに気を取られ、気が付くことはなかった。通ったばかりの部屋にある、グランドピアノの内の一つに、少女が一人腰かけてこちらを見つめていたことを。
「すぐに、当主が参ります。ラディア」
 扉を閉じた執事が、柔らかい声で告げ、パンパンと手を叩く。
「はいはーい!」
 突然、上から女が降ってきた。ほっそりとした肢体に、黒と白を基調とした、メイド服を纏っている。しかし、その頭にはブリムはなく、スカートの丈はやや短い。靴下は何故かルーズソックスで、厚底のショートブーツにはやたらとスタッズがついていた。肩より少し長いくらいの髪は、派手なオレンジ色に染められ、傷んだ毛先が外向きにはねている。前髪を留めるピンには、奇妙な紫色の熊の顔が飾られていた。地雷系、とカーリは思った。
 濃い化粧を施しているようだが、その肌は土気色で、ところどころカビたような緑色が付着していた。何より、大きく開いたメイド服の胸元からは、×の形をした長い縫い目が覗いている。
「皆様にお茶をお出しして」
「はぁ~い」
 ゾンビメイド、ラディアに執事が指示を出した。命を受けたラディアは、気の抜けた返事をして、眠たげに瞬きをする。つけまつ毛のついた重そうな瞼から、金色のラメがこぼれ落ちた。
「返事は簡潔にお願いしますよ」
 使用人としてはあるまじき態度だが、執事は意外にもそれを咎めなかった。先刻、ノアという男には随分と冷たく当たっていた時とは大違いだ。一体何故なのだろう。
「では、少々お待ちください」
 執事は優雅に一礼をすると、最後にその言葉だけを残して、背を向けてしまった。ラディアがあくびをしながら、後を追う。二人の姿が扉の奥へと消えていくのを見届けてから、レンキが深く息を吐いた。
「ふぅーっ……覚悟はしてたけど、やっぱり目の当たりにすると違うね、アンデッドって」
「えっ?」
「こればっかりは同感ですね。生命の気配がしないってだけで、これほど不気味に感じるとは」
「えっ、えっ?」
 肩を揉みつつ、疲れた口調で呟く彼に、エンヴィスも同意している。二人の会話を聞きながら、カーリは戸惑った声を上げた。
 彼女はゾンビたちに対して、さほど恐怖心や嫌悪感を抱いていなかった。死者でありながら生きているかのように振る舞い、喋り、考える彼らを、むしろ感動的な思いで見ていたのだ。他の者と同じ感想を持てない自分に、彼女は焦りを覚える。
「カーリは怖くなかったの?ここに来るまで、あんなにビビってたのに」
 レディが驚いたような顔をして、彼女を見遣った。ということはレディも、レンキたちと似た思いをしていたのだろうか。ふと横を見ると、ボール・アイまでも、こくこくと首を振って頷いている。彼が喋らないのは、事前にトワイライトと相談して決めたことだった。正体を知る者は出来るだけ少ない方が、狙われないで済むと判断を下した。
「えぇ……?」
 カーリは絶句して、目を見開く。どうして自分だけ、皆と違うのか。何故自分には、彼らと同じ気持ちが湧いてこないのか。訳が分からなくなって、トワイライトに視線を送った。
「トワイライトさんは?」
「正直、私もエンヴィスくんやレンキさんと同意見だよ。アンデッドは本質的に、生きている我々とは調和し得ない。お互い、言語化出来ない感情を抱くものさ」
「そ、そうなんですか……」
 生物は生物である限り、時の理を覆すアンデッドに、拒否感を抱くことが多い。全くもって何も感じないというのは、明らかな異常だ。トワイライトの胸に、懸念の炎が燻る。
(カーリくんは、やはり……)
 彼の思考を中断するように、異音が響いた。
 蝶番が軋み、閉ざされていた扉が開く。と同時に、外で轟音が鳴り、すぐ近くに雷が落ちた。
「わっ、開いた……!」
 レディがぴょこんと立って、扉の方へ近付く。執事や誰かが呼びに来る気配はない。勝手に来いということなのだろう。
「いよいよか……」
 レンキが、ソファから腰を上げて、自分に言い聞かせるように呟いた。緊張の面持ちを浮かべ、そわついた雰囲気を漂わせている。
 反対にトワイライトは、落ち着き払ったままだった。特に何の感情も見せずに、緩慢な動作で歩き出す。エンヴィスも吸い寄せられるように、自然と彼の後ろについた。
 この先に、何があるのだろう。ロザリオ伯爵とやらは、どんな人物なのだろうか。カーリは不安から逃れるように、抱えたボール・アイのことをぎゅっと強く抱き締める。
 静かに、短い通路を抜けて辿り着いた先は、広い食堂だった。横に長いテーブルには真っ白なクロスがかけられ、優美な装飾の施された椅子が、等間隔に並んでいる。正面奥の椅子が一際大きく、背もたれも高かった。
「ようこそ、おいでくださったな。客人たち……」
 暗がりから、低い男の声が響いてきた。地の底から這い上がってくるような、重厚感のある声音だ。カーリは一瞬、臓腑が震えるような感覚を覚えかけ、しかし、突如全く違う種類の音を耳にした。
 ピコピコと、緊張感の欠片もない電子音。ゲームの操作音らしい。それも、かなりレトロな。
「……ボルン」
「はい」
 男が命じると、隣に立っていた執事が応じた。スーツのポケットからマッチを取り出し、燭台に置かれた蝋燭に火を灯していく。やがて、室内に十分な光量が提供され、様子がよく見えるようになった。
 待ち受けていた人物の数を目の当たりにし、トワイライトはかすかに瞠目する。椅子に腰かけた男を含めて、計八名。主である彼を支えるようにして、他の者が並んでいる。彼らからは生物の放つ、独特の気配をまるで感じなかった。だからこそ、そこにいたことが分からなかったのだ。
「少し、待ってくれるか?今いいところなんでな」
 男は何も説明しないまま、ぽちぽちとゲーム機を操作している。よほど集中しているのだろう。その目は常にゲーム機に釘付けだった。
 貴族の当主とは到底思えない言動である。聞きしに勝る奔放っぷりだ。レンキが呆れた表情を隠しもせずに晒しているのを、トワイライトは横目に見た。
「あっ」
 突如、カーリが何かに気付いた様子で、口を開ける。エンヴィスが怪訝そうな顔をして、彼女を一瞥した。
「それってもしかして……『新世界叙列章』ですか?」
「おぉ!?まさか、同志か!」
 かすかに興奮した調子で、彼女は尋ねる。男はそれを聞くなり、バッと顔を上げて、嬉しそうな笑みを見せた。同好の士に会えた喜びで、瞳が煌めいている。
「お前、若いのによく知ってるな!」
「昔のゲームとは思えない魅力がありますよね。作品ごとに主人公が変わるのも面白いし」
 カーリも少し照れくさそうに微笑んで、相槌を打った。男も同じだったのだろう。彼はよほど感激した様子で、腕を組んで頷いていた。置かれたゲーム機は、執事ボルンがさりげなく片付けている。
「騎士、宗教家、暗殺者、仕立て屋……立場が違うからこそ、価値観や意見に差異が生まれるのが、興味深い。同じ時代、同じ世界を生きている者同士なのにな」
「分かります。今プレイされているのは、何番ですか?」
「4だ!俺はこれが一番好きでな」
「それまでのシンジョの雰囲気とは少し違いますけど、それもまた面白いところですよね。主人公の成長過程を見れるっていうか……」
 実に楽しそうに会話を繰り広げる二人だが、彼ら以外の誰しもが、話題についていけずに困惑していた。
「カーリくん」
 流石に見かねたトワイライトが、彼女の名を呼び、窘める。カーリはハッとした様子で、慌てて口をつぐんだ。
「す、すみません……っ」
 同じゲームを愛する者に会えたことが嬉しくて、つい舞い上がってしまった。今は仕事中だというのに、無駄話に興じてしまうとは。カーリは恥入って、顔を俯かせる。
「ロザリオ様」
「あぁ……そうだったな」
 ボルンもトワイライトと似たような気持ちだったのか、潜めた声で主人に耳打ちしていた。しかし肝心の主人の方は、決して悪びれることなく、非常にゆっくりとした調子で臣下の忠言に応える。まるで、今ようやく客人の存在を思い出したかのように、気怠そうに椅子から立ち上がった。
「さて、待たせて悪かったな」
 口では謝罪の言葉を紡いでいるが、その声色には全く心がこもっていない。どこまでもふてぶてしく、図々しい姿だ。まさに、貴族の息子というべきか。
「まずは、自己紹介でもしておこう。俺が、ロザリオだ」
 一言一言、噛んで含めるように彼が放った直後。雷鳴が轟き、背後にある窓から、眩い稲光が飛び込んできた。逆光を浴びて、一瞬ロザリオの姿が見えなくなり、窓に嵌った格子の影が、床に長く伸びる。
「……っ」
 カーリは驚きに目を瞬かせてから、軽く頭を振ってロザリオの方へと視線を戻した。そして、息を飲む。
 そこに立っていたのは、見上げるほど長身の大男だった。2メートルはゆうに超えているだろう。頬骨の突き出した痩せた顔立ちは、事前に写真で見た通りだが、実際目の当たりにしてみると、また違った印象を受ける。常人よりも大きく尖った犬歯や、黒い四白眼の瞳はギラギラとした輝きを放っていて、まるで獰猛な獣を思わせた。血と殺戮に飢えていて、争いの時を今か今かと待ち侘びているようだ。額から突き出す二本の角は白く、小さなラッキョウのような形をしている。細身の体躯を覆うのは、派手なフリルのついたシャツに、長いコート、革製のブーツ。色はどれも黒で、チェーンや飾りボタンが目立つデザインになっている。いわゆる、ゴシックパンクというものだろう。服装に合わせるためか、暗い赤色をした髪は逆立てられ、重力に争っていた。
(何て言うんだっけ……あの漫画)
 カーリはふと、人間界で見た漫画のキャラクターを思い浮かべていた。今目の前にいるこの男と同じように、痩せて不気味な体格をした、死神の男。そう、ロザリオは死神そっくりなのだ。人間たちがイメージし、漫画や絵に描く、死神に。
「ここにいるのは、俺の部下たちだ。皆もう息はしていないが、大事な家族には変わりがない」
 死神は手を広げ、左右に並ぶ使用人たちを示した。袖口についたベルトが、彼の動作に合わせかちゃりと音を立てる。
「シガーレット。ウチの金庫番だ」
 一番最初に紹介された男が、一歩前に出た。葉巻を加えた、小太りの紳士だ。ピンストライプのスーツは上等だが少々派手過ぎて、ビジネスマンや貴族というより、ギャングの親玉に見える。弛んだ頬と濁った目は、老練の猟犬を思わせた。
「デルタ」
 次に呼ばれたのは、シガーレットの隣に立つ中年女性。疲れているのか顔色が悪く、淡い紫に染められた髪の毛も、傷んでパサついていた。纏っているのは、やたらと裾と袖が長い、ネグリジェのような服。生地が薄いのか、下着の肩紐が透けてしまっていた。
「ボルンにラディア、それにノア」
 優雅に一礼するボルンと、彼の真似をしながらも若干よろけているラディア。横ではノアが、戸惑ったように視線を彷徨わせ、ぴょこんとお辞儀する。
「チッ、邪魔だ」
「あっ……」
 ノアを押し退けて、若い男が現れた。短く整えられた赤髪には、派手な刷り込みが入れられ、伸びたTシャツの隙間からはタトゥーが覗いている。
「メッキだ」
 ロザリオに紹介されても、彼はまるで聞こえていないかのように無視をしていた。手に持ったマチェットを振り回し、刃の輝きを確かめている。
 とことこと、物陰から少女が出てきた。彼女は真っ直ぐロザリオのもとへ向かうと、彼の長い足にしがみつき、隠れようとする。
「こら、ペコル」
 ロザリオが窘めるような声を上げて、少女を抱え上げた。少女は大人しく、されるがままになっる。その美しさに、レンキは驚愕した。
 日焼けを知らない、きめ細やかな白い肌。あどけない顔立ちを彩る、藍色の瞳の中には、無数の星が瞬いている。プラチナの豊かな髪は艶やかで、綺麗に巻かれた毛先の形は完璧だった。切り揃えられた前髪も、子供らしくて可愛らしい。瞳と同じ色を基調としたドレスは、典型的なゴスロリ系で、スカートは大きく膨らんでいる。磨き抜かれた編み上げブーツには、カーリでさえ知っている、有名ブランドのロゴが刺繍されていた。外見から察するに、彼女がロザリオからの寵愛を一身に受けているアンデッドらしい。
「これが、俺の家族たちさ」
 全員を一通り見回してから、ロザリオは椅子に腰を下ろした。当たり前のような顔をして、膝にペコルという少女を乗せる。
「それで、お前たちは何をしに来たんだったっけ?」
「警察部門情報分析部のレンキです」
 自慢するだけしてしまったからか、彼は退屈そうに頬杖をついて、相手を睥睨した。彼の態度に苛立ったのか、レンキがずいと前に出て、刺々しさのある硬い声で名乗る。
「私たちは」
「いやぁ~、素晴らしいご家族ですなぁ」
 すぐさま本題を切り出そうとする彼の言葉に、トワイライトの呑気な感嘆が被さった。彼はニコニコと他意のなさそうな笑顔を浮かべ、ロザリオの家臣たちを眺めている。さりげなく生命の気配を探知してみたが、やはり生きている者はロザリオ一人きりだった。後は皆ゾンビなのだろう。注意して見れば、体のどこかに縫い目を見つけられるに違いない。
「ふん、だろう?世辞だとしても、ありがたく受け取っておくよ……お前は?」
 彼の視線に気が付いているのかいないのか、ロザリオは平然と首を振り、得意げに微笑んだ。言動の端々から、彼は本当にアンデッドたちを愛しているのだと分かる。
「おっと、これは申し遅れました。脱界者取締部単独脱界者対策室のトワイライトと申します。こちらは私の部下のエンヴィスくんとレディくん、カーリくん」 
 問いかけられ、トワイライトは思い出したように口を開いた。名前を呼ばれたエンヴィスが、静かに一礼する。レディとカーリも彼に倣って、頭を下げた。ボール・アイはただのスライムのフリをして、カーリの腕の中で黙っている。
「ちょっと、腹黒!」
 邪魔をするなと言わんばかりの、苛烈な眼差しがトワイライトの横面を射抜いた。レンキの眉間には深く皺が寄り、頬は怒りで紅潮している。
「本日お伺いしたのは、ただほんのちょっとした、質問に答えていただきたいからでして」
 トワイライトはまるで気にせず、ロザリオに向かってにこやかな笑顔を見せ続けていた。死神のような大男は、しばし彼の顔を凝視した後、ニヒルな調子で口角を上げた。
「事情聴取、というやつか?」
「いやいや、それほど大袈裟なものではないのですよ。あくまで形式的なもので、もちろん任意です。ご気分を害されたようでしたら、拒否していただいて構いません」
 小馬鹿にするような眼差しで睨まれても、トワイライトは動じない。捜査に来ているとは思えない、穏やかでへりくだった態度を保っていた。ともすれば、相手に舐められてしまいそうだが、それこそが彼の狙いなのだとカーリは気付いた。
「その必要はない。疑われて困るようなことは、何もないからな」
 ロザリオも彼の意図を察しているのか、決して油断した様子は見せず、淡々と応じている。あるいは、看破しているのかも知れなかった。彼の温厚な面の奥で、鋭い観察眼が絶えず働いていることに。
「そうでしょうとも。いやはや、我々も分かってはいるのですが、上の命令にはどうしても逆らえなくてねぇ……古い体制に縛られた野暮ったい組織なのですよ。どうぞ笑ってやってください」
 わざとらしく嘆き、腕を組む彼を見て、ロザリオは口元の笑みを更に深める。
「……お前、随分口が上手いな」
「ははは、これはまたご冗談を……」
 トワイライトも応戦するように、片手で顔の下半分を覆って、肩を揺らしていた。
 二人はそのまま、しばし無言で対峙する。表向きは笑顔でも、両者の間には容赦のない対立がばちばちと火花を鳴らしているようだ。ボール・アイは心の中で、そんなイメージを思い描いた。
「それで?何が聞きたいんだ?」
 先に沈黙を破ったのはロザリオの方だった。根負けしたかのように、背を仰け反らせ、顎を上げる。彼の体重を受けて、椅子がかすかに軋み音を立てた。
「……ご存知かどうかは分かりませんが、先日、とある研究施設が刑事部により検挙されました。というのも、違法な実験を繰り返し、モンスターに虐待を働いているということで」
 ようやく相手が協力的になったというのに、トワイライトは何故か急に緊張感を失っている。ぼんやりと返事をする彼に、レンキは苛立ちを覚え歯を剥き出した。だがその直後、彼が始めた話を聞くなり、目を見開く。
(どうして今、その話を……)
「あぁ、知っている。ペスト遺伝子研究センター、だろ?」
「ご存知でしたか。それなら話が早い。実はその施設にはですね……魔界府職員の何者かが関係している可能性があると、睨んでいる者がいるんです」
 トワイライトは何食わぬ顔で話し続け、剰え貴重な情報までもを打ち明けてしまった。捜査関係者の中でも限られた悪魔しか知らぬ事実を、何故重要参考人に漏らすのか。レンキは困惑し、憤怒さえ覚える。
「ほう?」
 彼の反応から、告げられたことの重要性を見抜いたのだろう。ロザリオは身を乗り出し、俄然興味を持った様子を見せた。
「ロザリオ伯爵。何かご存知ありませんかな?あなたは魔界のセレブリティの間に広くコネクションを持っている……情報の集約率もかなりのものだとお見受けしますが」
 驚いたことにトワイライトは、彼に対して正面切って、情報の提供を求めた。これには流石のエンヴィスも目を剥き、口を半開きにする。
 情報屋相手に正攻法など、馬鹿げているにも程がある。通じるはずがない。確かに、意表を突く策であることは間違いないが、それだけだ。
「なるほど。魔界府の上役連中の一人が容疑者ってことか……」
「明言はしておりませんが……お好きに解釈なさってください」
 案の定、ロザリオはニヤニヤと、揶揄うような調子ではぐらかした。一方的に情報を吸われてしまったというのに、トワイライトは平然としている。
「ふんっ。残念だが、知らないな。俺は確かに遊び人だが、そういった後ろ暗いところには首を突っ込んでいないのでね」
 意外な反応を示す彼に、ロザリオは一瞬瞠目し、それから鼻を鳴らした。予測不可能な彼の言動が、気に食わなかったのかも知れない。撥ねつけるような冷淡な声音で言い放ち、明後日の法学へ首を向ける。それを見たトワイライトは、情けない萎れた調子で、言葉を発した。
「そうでしたか……では、こちらはどうでしょう?脱界者に資金提供を行なっている悪魔の存在について」
 まるで、ダメ元だと言わんばかりの口調だ。本人も期待を抱いていなさそうな、しょぼくれた声である。
 彼の問いを耳にした途端、ロザリオの瞳の色ががらりと変わった。
「……何だと?」
 意識的に低められた声色には、荒れ狂う感情を必死で抑えていることが分かりやすく滲み出ている。
(……かかった)
 エンヴィスは内心で、ガッツポーズをしたい気分に駆られた。
 これこそがトワイライトの真骨頂。相手の油断を誘ってから、急所を突き、一撃で仕留める。巧妙で、陰険なやり口というわけだ。
「脱界を希望する大抵の悪魔は、金銭的な理由から断念せざるを得ません……脱界には、大変金がかかるのでね」
 獲物を捉えたという達成感を、しかしトワイライトは微塵も表さない。平坦に、事実のみを語り続けていた。
「ですが、近年目立ち始めているのが、脱界者に資金援助をするファンドです。実態は現在も調査中ですが、そんなところに金を注ぎ込める人物は、自ずと限られてくるでしょう」
「犯罪を応援してやるほど、裕福な悪魔ということだな……俺のように」
 動揺を悟られていないと思ったのか、ロザリオの顔にふてぶてしさが戻った。まだ、逃げ切れると考えているのだろうか。
「その通りです」
 見くびられているにも関わらず、トワイライトは全く態度を変えない。
「貴様、ロザリオ様を疑っているのか!?」
 あっさりと頷く彼に、突然控えていたゾンビの一人が食ってかかった。派手な赤い髪の、タトゥーのある男だ。
「やめろメッキ……あちらさんも仕事なんだ。大目に見てやれ」
 主を侮辱されたと憤る男を、ロザリオは穏やかな声で宥める。だが内心は、好機を提供してくれた従僕に、感謝の念すら抱いているようだった。あえて寛容さを演じ、恥じることなど皆無だと証明をするための、小芝居が出来たのだから。
「確かに俺は、金を持っている。だが、俺がそれを脱界者支援に使ったという証拠はあるのか?ファンドの利用者を、魔界府は把握しているのか?」
 疑うのは勝手だが、客観的な根拠を提示しろと迫る。こちらが掴んでいるのは単なる疑惑程度であると、彼はとっくに見抜いているのだ。
「残念ながら、現状はそこまでは手が及んでいません……」
 流石に口の上手いトワイライトでも、それを誤魔化す術はなかったのか、ボソボソと小さな声でぼやいている。ロザリオの表情が、勝利に輝いた。
 ところが、トワイライトは突然顔を上げ、歪んだ笑みを浮かべるロザリオを真っ直ぐに見据える。
「ですが、あなたの返答如何では、今この場で、捜査を進展させることも出来る」
「俺の返答如何では……?」
 挑発的な言い方に、ロザリオの眉間の皺が深くなった。
「個人情報とは厄介なものでねぇ。いくら裏ファンドの利用者といえども、むやみに口座情報などを暴けば、訴訟に発展しかねない。だから捜査のためには、様々な人物からの許可が必要なんですよ」
 トワイライトは打って変わって饒舌に、彼に向かってペラペラと喋り出す。まるで言葉という鈍器で、彼の頭を殴り飛ばそうとするかのように。
「ですが、この件を重く捉える悪魔は存外に多いようですぞ?面倒な手続きでも、皆惜しまずに進めてくれましてねぇ……残り一人が許可を出しさえすれば、というところまで来ているのですよ」
 その最後の一人が、彼であることは瞭然だ。ロザリオは小難しい顔をして、何事かを考え込む。恐らく、彼の言い分が真実かどうか、計りかねているのだろう。実際は、完全なるハッタリなのだが、トワイライトにかかれば、嘘を本当らしく語ることなど容易なのである。
「さて、どうします?私としては、脱界者を支援する者どもを逮捕したいのも山々ですが……伯爵とは、今度とも長いお付き合いをさせていただきたくてねぇ」
 彼は、ロザリオを試すように眺め、平然と嘯いた。
「な……っ!?」
 レンキがわずかに、ごくわずかな声で、驚きを露わにしたことにカーリは気が付く。だが、心の中では彼女も同じ気持ちだった。
 トワイライトは、彼を見逃そうとしている。取引しようとしているのだ。脱界者への資金提供疑惑を忘れてやる代わりに、情報を出せと言っている。そんなことが、許されるのだろうか。
「知っていることを全て話していただければいいのです。こちらの質問に、包み隠さず答えていただければ、捜査の件は私が上手く……処理しておきますから」
 カーリたちの不安や怒りなど目にも入っていない様子で、トワイライトは両手を広げ、ロザリオに一歩近付く。
「……ほう。そういうことか」
 ロザリオはそれによって、全てを察した。相手に求められていること、己のすべきことを。彼はそのどちらもを、期待以上にこなす自信があった。だからこそ、怯えもせず、堂々としていられるのだ。
「そうですねぇ……教えていただきたいのは、二つ」
 上手いこと意図が伝わったと、トワイライトは内心で賀ぐ。そして落ち着き払った態度で、指を二本立てた手を、ロザリオに向けた。黒い四白眼が、フッと侮蔑に歪む。
「二つもか?それは流石に過ぎた望みだろうが……商売はギブアンドテイクで成り立つものだ。どちらか一方が多く差し出せば、たちまち破綻する」
 ロザリオにはもう分かっていた。
 トワイライトの言葉がハッタリだということを。
 何しろ、もしも本当に彼を逮捕するつもりがあったのなら、取引など持ちかけず、ただ仕事をしていればいいのだから。そうしなかったということは、彼はロザリオに何らかの価値を見出したということ。そして欲深い悪魔という生き物は、一度価値を知ったものを容易く手放しはしない。どうにかして、利益を貪ろうとするはずなのだ。
 それにしては相手が提示した交渉材料は、弱い。完全に売り手市場を作り出してしまう条件となっている。とてもじゃないが、二つ分の情報など与えられるものではない。この男は、取引の何たるかを分かっていないのだと、ロザリオは嘲笑った。
「やれやれ……先ほどお話ししたではありませんか……ここだけの話を」
 しかしながらトワイライトが、易々と主導権を渡すはずがなかった。彼は呆れたような息を吐きながら、のんびりとした足取りで部屋を闊歩し、ロザリオをチラと見遣る。低めた声で囁き落とされた単語が、ロザリオの鋭敏な聴覚を刺激した。
 最初に彼が告げたのは、何だったか。
 トワイライトの声音が、録音を再生するように耳に流れ込んでくる。
 噂程度の、真偽の怪しい話。だが、彼は好きに解釈していいと言った。インペラトルの陰謀と捉えることもありだと。
 間違いなく、重要な情報だ。自分たちを守り、導き、治めるはずのインペラトルが、市民に危害を加えかねないなんて。
 だが、いかんせん真実かどうかは分からないのだ。価値があると言えばあるのだが、欠点がないとも言えない。
 しかし、なんと上手いやり方だろう。始めから計画の内だったに違いない。
 手始めに重大な情報をぶちまけ、軽率さを演出した後で、鋭く切り込み交渉を持ちかける。そして、渋られた際はもう一つのネタとして使い回すのだ。あらゆる可能性、あらゆる場合を考えていなくては成立しない言動。
「ぐぅ……」
 その欠点を持ち出して、突っぱねるか、否か。ロザリオは迷う。躊躇する。因循する。
「まぁ、それならそれで良いのです。諾否を決めるのは私ではありませんからねぇ。ご自由にどうぞ?ただし、否であった場合は、今この場で一本電話をかけさせていただきますがね」
 トワイライトはそこへ、無慈悲に追い討ちをかけてきた。あっけらかんとした声音を冷水のように浴びせられ、ロザリオは生唾を飲み込む。
 もしかしたら、ハッタリではないかも知れない。周りの連中に伝えていないだけで、彼は本当に捜査を進めているのではないか?
 そんな予感が脳裏を過ぎる。
 これほど交渉事に長けた悪魔だ。ロザリオが疑うことすら視野に入れて、作戦を練っているのかも知れない。あるいは、彼との取引自体が、ほんの気まぐれめいた適当なもので、別に成立してもしなくても興味のないものなのか。だとすれば、もはや完全に買い手市場。ロザリオは彼に生殺与奪権を握られていることになる。
 ここで抗うことに、意味はない。
「……分かった。聞こう」
 自分で想像していたより、苦い声が出た。ロザリオの心情を読み取ったのか、トワイライトの邪悪な笑みが深くなる。だが彼はすぐさまそれを消すと、両手を広げ天を仰いだ。
「ありがとうございます……いやぁしかし、流石は伯爵家の邸宅ですなぁ。どこもかしこも、美しいものに溢れている。出来れば、見て回りたいくらいですよ」
 ぐるりと室内を一周見渡す仕草をする。それから再びチラリと寄越された視線が、真意を物語っていた。
「……ボルン」
「はっ」
 ロザリオは更に苦々しい声色で、執事を呼ぶ。ボルンは礼儀正しくお辞儀をし、主の内心になど気が付いていないふりを貫いた。流石は、一級品の執事ゾンビだ。
「客人を案内してやれ」
「かしこまりました」
「……えっ?」
 淡々とした指示に、同じく淡々とした返答をするボルン。カーリは彼らのやり取りを聞いて、耳を疑う。周りの者たちも皆、困惑した表情をしていた。
 まさか、ここから追い出されてしまうのか。
「よろしいのですか?お心遣い、感謝します……君たち、私の分までゆっくり見てきてくれたまえよ」
「えっ?えっ?」
 戸惑いの声を上げる彼らをよそに、トワイライトは仰々しいくらいの恭しさでロザリオに礼をする。
「ちょっと腹黒!」
「さぁ、行きましょう」
「ご案内致しまーす!」
 抗議しようとしたレンキの前に、ボルンとラディアが立ちはだかった。やや強引に導かれるまま、彼らは食堂から排撃され、廊下へと吐き出される。逃亡を阻止するためなのか、背後には他のゾンビたちが一列に並んだ。
「と、トワイライトさんっ!」
 追い縋るように振り返った直後。
 カーリの目の前で、分厚い扉は閉ざされた。
「……これでいいのか?」
 皆がいなくなるのを待ってから、ロザリオはトワイライトに問いかける。
「えぇ。十分過ぎるくらいですよ。ロザリオ伯爵」
 トワイライトは真面目くさった顔つきになって、尤もらしく頷いた。あくまで、人払いは自分の要求でなく、ロザリオの好意であることにするつもりなのだ。取引に応じたことでさえも。そうして責任を負わせるのである。
(本当に油断のならない男だ……聞いていたよりも)
 彼の巧みな弁舌に舌を巻く一方で、どう扱ったものかと、ロザリオは思い悩んだ。
「厄介な男だな、お前は」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
 せめてもの皮肉として放った一言も、彼の前では意味を為さない。笑顔で返されて、言葉を失った。だが彼は気に留めずに、本題を切り出す。
「それで、お尋ねしたいことなのですが」
「一つは分かる。あの女のことだろう?」
 己の本分においてまで、彼に我が物顔で仕切られるわけにいかない。ロザリオは気を取り直し、会話の主導権を奪い取りにかかった。
「ほう。どちらのことで?」
 話を遮られたトワイライトは、さして不快感を表すこともなく、むしろ面白がるようにロザリオを見上げた。
 彼と一緒にいた、そして今し方追い出した、二人の女の顔をロザリオは思い浮かべた。
 一人は勝ち気そうな瞳と、いかにもな若者らしいファッションが印象的だった。元気溌剌とした、健康的な肉体は十中八九戦闘員だろうと思わせる。
 もう一人は比較的大人びていて、清楚な雰囲気を纏っていた。黒髪を長く伸ばした姿は、大人しいというよりも暗く見えたが、しかし顔にはまだあどけなさが残っており、物好きを引き寄せそうなところがある。
 実際、彼女には”ある種のもの”を惹きつける才覚があった。本人が自覚しているかは不明だが、あれはかなり面倒な代物だろう。まだ成長しきっていないから、脅威は覚えておらず、周りも気が付いていない。死霊系魔法という、似た領域を使うロザリオであってもなお、かろうじて気配を感じ取った程度だった。しかし、もしも完熟したらどうなるのか。期待と畏怖が同時に押し寄せてくる。
「金髪の方さ。黒髪も中々見込みのある奴だったが……あの金髪には、見覚えがある」
 けれども、今ここで取り上げるべきは、彼女の方ではない。ロザリオは素早く思考を断ち切って、もう一人の姿を思い浮かべた。
 実のところ、ロザリオは彼女を知っていた。彼女の正体も、誰に追われているのかも。
「彼女は何らかの裏組織と繋がっているようです。しかし、一向に打ち明けてくれなくてねぇ……」
 その口ぶりからすると、トワイライトもまた、見当くらいはついているらしかった。だが、まだ核心部分には辿り着いていない。だから、ロザリオのところに来たのだ。彼なら全てを知っていると睨んだ。
「なら、待てばいいじゃないか。仲間なんだろう?」
 真実を打ち明けることは容易い。しかしながら、ロザリオには躊躇いがあった。だから、まずは話さなくてもいい方法を探ることにする。
「もう待てなくなったから、こちらに伺ったのですよ」
 トワイライトは肩を竦め、ロザリオの考えを笑い飛ばした。まるで、下らぬ馬鹿話を聞いたという風に。
「彼女を狙う何者かがいる……放っておけば、我々も無事では済まないでしょう。時間がないのです。手は早い内に打たなくては」
 彼の言い分は尤もだった。他に策があるのなら、それを実行すればいいだけ。ここに来る必要はないはずだ。だが、彼は来た。答えは自明である。
「だが……知ってどうする?」
 しかし、ロザリオには確認しておくべきことがあった。
 現実は、時として想定を容易く超えてくるものだ。そのような事態に直面した場合、この男はどのような行動を取るのか。事実を話す前に知っておかなければならなかった。
「手に負えない問題だと分かったら、どうするつもりなんだ?放り出すのか?」
「それこそ、知ってどうするのです?私がどうしようと、あなたには関係のない話ではありませんか」
 質問の意図を図りかねて、トワイライトは怪訝な顔をした。しかし、それほど単純な話でもないのだと、ロザリオは疲れた顔でテーブルに肘をつく。鋭い牙が、カチッと鳴った。
「それがそうでもないんだよ」
「ほう……と、言いますと?」
 何故か面倒くさそうに頬杖をつく彼を、トワイライトは面白そうに見上げる。
「俺は”あの男”が嫌いだ。奴の思い通りにはしたくないんだよ。分かるだろ?」
「……?」
 同意を求められても、そもそも相手を知らないため頷くことが出来ない。小首を傾げるトワイライトの耳に、カタンっとかすかな音が届いた。
「!!」

  *  *  *

 薄暗い廊下を、カーリたちは一列になって歩いていた。
「全く……!何なのあの腹黒男!勝手にも程があるでしょ!」
 前に立つレンキは、ぶつぶつと呪詛のように何事かを呟いている。どうやら、トワイライトへの恨み辛みのようだ。
「この私を追い出して、しかも勝手に取引するなんて……!あり得ない!後できっちり問い詰めてやる!本当に……どうしようもない男なんだから!!」
 彼のこの件への入れ込みようは、側から見ていても少々度が過ぎるほどだった。だからこそ、トワイライトも危険視したのかも知れない。けれども、流石に今回ばかりは、皆レンキと同じ気持ちだった。それまでは当事者のつもりだったのに、土壇場になって閉め出されるなんて、あまりにも酷い。また、彼がロザリオを黙認するつもりだということにも、不満が募っていた。
「容疑者を見て見ぬふりだなんて……いいんでしょうか?」
 カーリは首を伸ばして、前にいるエンヴィスに問う。トワイライトの行動が許されるものかどうか、気にかかったのだ。
「別に証拠があるわけじゃないからなぁ……見逃したって、それはそれで、と言えないこともない」
 彼はやや間延びした声で、のんびりと答える。
 事実、ロザリオの罪を立証するような手がかりは何もなかった。容疑者として確定していない悪魔とどう付き合おうが、理屈の上では個人の自由。あくまで理屈の上では、だ。
「ま、職務怠慢と言えなくもないけど」
 エンヴィスは一瞬だけ振り返り、真面目くさった調子で付け足した。本気か冗談か判断しかねて、カーリは戸惑う。
「これは立派な怠慢でしょ!告発されたって当然!むしろ私がしてやりたいくらいだよ!!」
 レンキが苛立った声音で、エンヴィスに噛み付いた。
「立証出来ないからって野放しにしてたら、今に取り返しのつかないことになる!そうなってからじゃ遅い!何もかもが!!」
 彼の言い分は理解出来るが、しかしその剣幕は異常だった。髪を振り乱して、ヒステリックに捲し立てる彼を、カーリとボール・アイは引き気味に見つめる。一体何がそれほど彼を駆り立てるのだろう。
「大体ね、証拠がなくても、疑惑があるってだけで十分怪しいでしょう!そんな連中と、私たち警察部門の職員が関わるべきじゃない!それが職業倫理ってものでしょ!?」
 火のないところに煙は立たない。要するに、そういうことが言いたいのだろう。少しでも疑わしいところのある人物と、法を破る者を取り締まる仕事をする者が付き合うのは、確かに問題があると言わざるを得ない。レディは暗い気持ちになって、顔を俯かせた。
「レンキさん、少し落ち着いてください」
「落ち着けですって!?これが落ち着いていられると思う!?エンヴィス!」
 振り返ったエンヴィスが宥めようとするが、レンキは止まらない。
「私は許せないの!罪を犯しているくせに、何食わぬ顔して日常生活を送る奴も!それを知りながら、見逃す奴のこともね!!」
 彼はつかつかとエンヴィスに詰め寄り、至近距離から見下ろした。美しい顔立ちが、怒りの形相に歪んでいる。
 再び、レディは胸が締め付けられるような感情を覚えた。強い罪悪感で、視線が一層下を向く。
「放っておいたら、また誰かが命を落とすことになる……!言ったでしょう、エンヴィス。私はもう二度と、あんな思いしたくないんだよ!あんな目に遭う悪魔を増やしたくない……!」
「気持ちは分かるが、今のあなたは異常だ!」
 彼の言葉は、切々と、相手の心に訴えかけてくるようだった。思わず聞き入りかけた自分を振り払って、エンヴィスはもどかしげな声を発する。レンキの瞳が、一瞬虚をつかれたように見開かれた。
「異常……?あぁ、そっか。あんたはあいつの味方だもんね、エンヴィス……私のことなんか、邪魔にしか思えないか」
 かと思えばフッと口角を上げて、エンヴィスを嘲笑う。度を過ぎた愚弄に、とうとうエンヴィスも堪忍袋の尾が切れたようだった。眼鏡の奥の小さな瞳孔に、チロチロと怒りの炎が見え隠れする。
「何言ってんだ、あんた……!俺だって、あの時のことは後悔してる!いや、俺だけじゃない。トワイライトさんも、きっと同じことを」
「いいやそんなわけない!あの男が後悔なんてするはずないでしょう!?あいつには、心なんかないんだから!!」
 だが彼の言葉を遮って、レンキは激しく首を振る。
「てめぇ……っ!」
 エンヴィスの頬が憤怒に紅潮した。レンキの胸ぐらを掴んで引き寄せ、鋭く睨み付ける。
「いい加減にしろよ……!それ以上言ったら許さねぇぞ」
「好きにすれば?アンタなんか怖くも何ともないから」
 低い声で恫喝する彼を、レンキは平然と見返した。エンヴィスの手首を掴み外そうと試みるが、そう容易くは引き剥がせない。二人の間で、ギリギリと力が拮抗する。
「二人ともやめようよ……こんなところで喧嘩なんて駄目だよ」
「そ、そうですよ!」
 見かねたボール・アイが口を挟み、ここぞとばかりにカーリも加勢した。
「うるさいっ!」
「子供は黙ってなさい!」
 しかし案の定、両者は聞く耳を持たない。にべもなく撥ねつけられ、カーリたちは困り顔を浮かべた。
「危ないっ!」
 突如、絹を引き裂くようなレディの声音が響き渡る。
「!!」
 先に反応したのは、エンヴィスだった。彼は素早くレンキを突き飛ばして、自分との間に距離を設ける。直後、振り下ろされた刃が、生まれた空間を真っ二つに断ち切った。
「な……っ!?」
「え……っ!?」
 レンキとカーリが同時に驚愕する。よろめきつつも体勢を立て直したレンキは、後ろに下がり彼女たちを守る位置に立った。
「あ~あ、外しちまった……ちぇっ!」
 間の抜けた声色で不満そうにぼやいた男が、マチェットを下ろした。刃のぶつかった壁には、見事な傷がつき、木屑がこぼれている。
「なぁんか揉めてるっぽかったから、その隙に乗じて殺ろうと思ったのに」
「アンタ……!」
 マチェットを振り回し、唇を尖らせる男に指を突きつけ、レンキが瞠目する。彼ほど無礼な振る舞いをする気はなかったが、カーリも内心同じ思いだった。彼女は自分の目の前にいる、派手な赤い髪と剃り込みの目立つゾンビを凝視する。ロザリオの使用人であるはずの彼が、何故自分たちを襲うのか、まるで理解が追いつかなかった。
「やれやれ、一人も仕留められないとは……見損ないましたよ、メッキ」
「んだとぉ!?」
 執事ボルンが呆れたような表情で、彼を叱責した。侮辱されたことに憤り、メッキは目尻を吊り上げる。
「ノア、お願いします」
 ところがボルンは意に介さず、手を二回叩くと、背後に控えていたノアを呼びつけた。
「は、はい……」
 指示された青年は、長い金髪の襟足を指でくるくると巻きながら、ヨタヨタと覚束ない足取りで前に出る。若干丸まっていた背を正すと、すぅっと息を吸い込み、エンヴィスたちを見据えた。
「え、えっと、では……皆さんには、我らが主ロザリオ様からの、最高のおもてなしを提供させていただきます……そ、その名も」
血塗られた殺戮劇ブラッディ・エンドーーーっ!!!」
 両の人差し指を突き合わせながら、辿々しく語る彼を遮り、メイドのラディアが明るい声で叫んだ。二人の態度はどちらも、話している内容に全く合っていない。
「……ハァ!?」
 彼らの言葉の意味を、当然理解しかねて、エンヴィスが目を剥いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!一体どういう」
「ご意見、感想はお楽しみいただいた後にお申し付けください」
 ボルンがサッと歩み出て、それを封じる。脇に立つメッキが再び、マチェットを振り上げた。周りのゾンビたちも皆、いつでも飛びかかれるよう身構えている。これでは流石に分が悪い。エンヴィスは口を閉ざすしかなかった。
(な、何が起こってるの……っ!?)
 カーリは困惑し、後退りする。腕の中で、ボール・アイが身を硬くしているのが分かった。
「それでは……始めさせていただきます」
「は、始めさせていただき……ますっ」
 一様に押し黙った皆を順番に見ると、ボルンは再び口を開き、どこか恭しい調子で宣言する。同じ言葉をノアが繰り返し、両手をかざした。
 突然、強い眠気が襲ってくる。エンヴィスはよろめき、額に手を当てた。
「う……っ、何だ、これ……!」
 催眠魔法の類だろうか。耐性のおかげで昏倒せずには済んだものの、数秒間は意識が混濁し、周りの状況を確認していられなかった。思わずその場に片膝をつき、蹲ってしまう。
「エンヴィス、起きて!起きなさいよっ!」
 やがて、レンキのキンキンと耳に響く声で叩き起こされるまで、彼はしばらくの間放心してしまっていた。
「ッ!!」
 覚醒すると同時に、慌てて立ち上がり、辺りを見回す。
 そこは、広大な庭園だった。
 だが、豊かな緑や美しい池などはない。あるのは茶色と灰色ばかりに埋め尽くされた、荒廃した土地だけだ。木や生垣は全て枯れて、枝の先端に数枚葉が残るだけとなっている。奥に見える噴水には、淀んだ水が溜まり、悪臭がこちらまで流れてきていた。
「何だここは……!?」
 屋敷に入る前、これと似たような光景を目にしたが、今現在彼らがいるそこは、記憶にある庭園より遥かに大きく、広い場所だった。いつの間にこんなところへ移動したのだろう。転移魔法をかけられたような感覚もなかったはずだが。
 エンヴィスは絶句して、その場に立ち尽くす。
「それだけじゃない。アンタの部下たちもいないみたいだよ」
 レンキに言われるまでもなく、気付いていた。カーリとレディ、ボール・アイの姿が、どこにもない。いや、それだけではなかった。ゾンビたちの何人かも、ここにはおらずどこかへと消えている。
「くっふふふ……」
 そばにいたボルンが、何やら意味ありげな含み笑いを漏らした。
「期待以上の反応、ありがとうございます……用意した甲斐がありました」
 胸に手を当て、恭しくお辞儀をする彼を見て、レンキは不満げに鼻を鳴らす。感謝を述べる姿勢の中に、どことなく侮蔑の色があるのを悟ったのだ。
「とんだサプライズだね。ちっとも嬉しくないのだけど?」
「お前たち、俺の仲間をどこへやった……!」
 嫌味たっぷりに言い返すレンキを遮り、エンヴィスが怒声を発する。
「ここではない別の場所で、もてなさせていただいておりますよ。楽しんでいただければ、幸いです」
 ボルンは礼儀正しい微笑を絶やさぬまま、平然と答えた。艶やかな黒い前髪が、彼の動きに合わせて揺れる。
「あんたら、一体何が目的なんだ!?何故こんなことをする!!」
 あくまで執事然とした態度を崩さぬ彼に向かって、エンヴィスは声を荒げた。彼らの行動は、あまりにも突飛過ぎる。まるで意図が読めないと、混乱しかけた時だ。
「言ったではありませんか。これは、殺戮ショーなのです、と……」
 さらりと告げられた言葉を聞き、エンヴィスは身が強張るのが分かった。どうやら、先刻の話は冗談などではなかったらしい。彼らは本当に、殺し合いをするつもりなのだ。そしてそれは、彼らからしてみれば客人へのもてなしの一環でしかない。命を賭けたやり取りを、サービスとして提供するだなんて、あり得ないことだ。死を一度経験したアンデッドでなければ、到底実行出来ないもの。だからこそ、エンヴィスも彼らの本気を悟る。
「くっ……!」
(くそっ!だから嫌だったんだ!やっぱりアンデッドなんてろくなもんじゃねぇ!!)
 心の中でいくつもの罵倒を考えながら、錫杖を取り出し身構えた。
「ちょ、ちょっとエンヴィス、本気!?」
 レンキが慌てふためいた様子で、彼に囁きかけてくる。
「やるしかないでしょう……!戦わなきゃ、こっちが危ないんですから」
 文句を言いたいのは自分もだと憤りながら、平静を装って返事した。彼の一言で意を決したのか、レンキの表情も、真剣なものへと変わる。
「分かった……!」
 そうして彼は、懐から何か札のような紙片を取り出した。臨戦体勢を取る彼を見て、エンヴィスは驚く。
「え!?あんた、戦えるのか?」
「失礼だね。私だってエリートの端くれなんだから、ある程度の戦闘は出来る」
 不服そうに反論しつつ、レンキは取り出した紙を引き裂いて、地面に落とした。すると、紙の落ちた地点から眩い光が舞い上がり、彼の手元に巨大な弓を出現させる。いわゆる強弓と呼ばれるそれが、レンキの愛用の得物だった。黒色をベースに作られ、持ち手の部分にはギョロギョロとした、赤い目玉が不規則についている。瞬きをするそれらを潰さぬよう留意しながら、彼は弓を構え、紙を結びつけた矢をつがえた。
「そちらの準備もよろしいようですので、では……参ります」
 そのタイミングを待っていたのか、ボルンがすかさず声をかけてくる。彼が手を振るったのと同時に、エンヴィスの足元に鋭く何かが叩き付けられた。鞭だ。先端が三つに分かれており、無数の棘がつけられている。命中すれば間違いなく、流血するだろう。
「どうです?中々見事でしょう。ご満足いただけるよう、試行錯誤を重ねた結果でございます」
 鞭でパンパンと地面を叩きながら、ボルンがほくそ笑む。一々丁寧な物言いが、酷く癪に触った。
「相手が二人なら、俺たちも二人でいいよな?」
 今までどこに隠れていたのか、ボルンの後ろからメッキが進み出る。二対二の勝負に持ち込むつもりのようだ。エンヴィスは逡巡してから、ちらりとレンキに視線をやる。
 仕方がない。ここは彼と協力する他にないだろう。
「……レンキさん」
「今仕方ないって顔したでしょ、エンヴィス」
 胸の奥で呟いただけの言葉を、どうやって聞いたのか。相変わらず変なところで勘の鋭い男だと、エンヴィスは若干眉を顰める。
「しょうがないから、手を貸してあげる。でも、主力はアンタ。そのことだけは忘れないで」
 レンキは何食わぬ顔で、腕を組み顎をツンと上げて言い放った。本当は、ただ己の腕に不安があるだけだろうに、それを隠して高飛車な態度を貫いてみせるのには、流石だとしか言いようがない。
「分かってますよ……!」
 エンヴィスは苛立ちの混じる低い声で呻きながら、錫杖を構え魔法を発動させた。
「ヒヒヒ……アハハァッ!!」
 メッキが奇妙な笑い声を上げながら、こちらへ向かって突っ込んでくる。だが、突如噴き出した炎が、彼の行手を阻んだ。それはまるで大地から生命が芽吹くように、ごく自然に現れ、天を仰ぎ空を舐める。生き物であれば確実に、熱を恐れ足を止めるはずだった。しかし、相手はゾンビ。メッキは何事もなかったかのように、炎のカーテンの奥から飛び出し、歓声を上げる。
「っ!?」
 驚いたレンキは、素早く弓を構え、敵の頭部へと狙いを定めた。しかし、彼が矢を放つ直前、エンヴィスの手がスッと掲げられたかと思うと、伸ばされた指先から電撃が迸った。
「”雷槌テンペスト”」
 詠唱をかき消すように雷鳴が轟き、放たれた稲妻が、メッキを襲う。胸のど真ん中、既に動きを止めているはずの心臓のある場所へ的確に、莫大なエネルギーが命中した。
「あが……っ!!」
 痺れとも痛みともつかぬ感覚が、一瞬の内に全身を駆け巡り、彼は苦悶する。朽ちかけの腕や足が、衝撃に耐えきれずに崩壊を始めた。彼の肉体を持ってしても尚尽きぬ電流が、空気中に放出され、地面へと吸い込まれていく。
 どちゃりと、アンデッドの半壊した肉体が、無惨な状態で地に転がった。腐った肉が焼け焦げる異臭が、悪魔たちの鼻を付く。
「お見事!」
 ボルンが当たり前のように拍手して、エンヴィスを褒め称えた。仲間を屠られたにも関わらず、彼の表情はどこか晴れ晴れとしている。
「流石でございますね。これは私も気を抜いていられなくなりました……」
「お前……何とも思わないのか?」
「何がです?」
 疑いの眼差しを向けるエンヴィスに、彼はきょとんとして尋ね返す。何を言われているのか分からないとでも言いたげな、惚けた顔だった。
「あぁ、これのことですか」
 数秒の間を置いて、やっと彼は得心したという風に頷く。そして、地面に倒れたままの、メッキだったものを一瞥した。
「く……くそ……」
 驚いたことに、彼はまだアンデッドとしての状態を保っていた。失った腕を求めるように、身を捩らせながら、悪態をこぼしている。その背中からは、感電の名残を示すかすかな煙が、漂っていた。
「別に心を痛めてはいませんよ。むしろ邪魔者を排除出来て、清々しているくらいです」
「あ……?なん、だと……っ!?」
 ボルンは彼を見ながら、平然と呟く。邪魔者扱いされたメッキが、掠れた声音で憤りを表した。
「お恥ずかしい話ですが……私は彼が嫌いなのです。努力しても馬の合わない相手というのは、どこにでも必ずいるでしょう」
 照れたように後頭部をかきながら、ボルンは若干顔を俯かせる。彼の言葉は、もじもじしながら告げるものでは到底なく、見ている者に戦慄を抱かせた。
 しかしながら、彼の言い分に一理あるのも確かなことだ。エンヴィスとレンキならば身をもって理解出来てしまう。
「ご心配なく。我らが主であれば、この程度簡単に再生させられますから」
 反論を紡げない彼らに、ボルンは安心させるような微笑を見せた。彼が再び手にした鞭を振るうと、庭園のどこからか、シュルシュルという音が聞こえてくる。
「「!?」」 
 エンヴィスとレンキは同時に目を見開き、互いの顔を見合わせた。音の発生源は、どうやら一つではないようだ。無数の音が重なり合いながら、どんどんと大きくなって、こちらへと近付いてくる。
「何だ……っ?」
 エンヴィスが声を上げた瞬間だった。生い茂った雑草の中から、黒い紐のような物体が勢いよく飛び出す。それはシャーと威嚇音を発し、赤い目を光らせながら、エンヴィスの足首に巻き付いた。
「ぐっ!?」
 長い牙を突き立てられ、鋭い痛みが走る。痛みと同時に、血を吸われるような感覚がした。
「っ!この……っ!」
 エンヴィスは呻き、急いで足を振るって、絡みついた蛇を蹴り飛ばす。放り出された蛇は、空中で姿勢を立て直すと、素早く草むらに逃げ込んでしまった。
「いて~……」
 エンヴィスは眉を顰めてしゃがみ込み、傷の状態を確認する。ズボンの裾を捲り上げると、靴下に穴が空き、血が滲み出していた。
「エンヴィス、大丈夫なの?」
 レンキが身を屈めて、覗き込んでくる。彼は彼なりに、案じてくれているようだ。
「はい……痛みはありますが、それだけですね。すぐに治ります」
 意外にいいところもあるのだと、エンヴィスは彼を見直す。淡々と答えながら立ち上がる彼を見て、レンキはあからさまに安堵の息を漏らした。
「何だ……大したことないね」
 呟かれた言葉を聞くなり、エンヴィスはすぐさま彼への評価を修正する。やはり、鼻持ちならない男だ。大袈裟に騒いだだけかのような、非難を受ける謂れはない。
「ですが、噛まれると血を吸われますよ」
「何それ!?吸血蛇ってこと!?気持ち悪い!」
 苛立ちからチクリと刺すような忠告をかけると、レンキは途端に眉を寄せて、気味悪がった。
「蛇ではありません。蛭です」
 ボルンが心外だとでも言うような表情で、彼の間違いを訂正する。
「ヒル!?」
 答えを耳にしたレンキは、声を裏返らせて驚愕した。
「ヒルって目あるんだっけか……?」
「どうでもいいでしょそんなこと!あぁ嫌だ。何でヒルなんか……」
 ぼんやりとぼやくエンヴィスを鋭く一喝して、彼は自分で自分を抱き締めるような仕草をする。エンヴィスには絶対に言えないが、実はレンキは、虫や爬虫類などの生き物が苦手なのだ。名前を聞くだけでも、本能的な拒否感を抱いてしまう。実際今だって、悪寒や嫌悪感がひっきりなしに背筋を掠めて、身震いが止まらない。
「落ち着いてくださいよ……噛まれなきゃいいんですから」
 猛烈な反応をするレンキに、エンヴィスは呆れを含んだ視線を浴びせた。
「そういう問題じゃないの!!どうしてアンタはそう、無神経なわけ!?」
「レンキさんが繊細なだけじゃないですか」
 平然と言い返され、レンキは歯を剥き出して憤慨した。睨み合う彼らの間に割って入るように、再び蛭が飛びかかってくる。
「伏せろっ!」
「ヒッ!」
 エンヴィスが素早く、炎の球をぶつけて蛭を燃やした。しゃがみ込んで回避したレンキの茶髪も、少しだけ焦げ付く。
「ちょっとアンタ!私まで焼かれるところだったでしょうが!」
「別にいいでしょ。火傷したわけじゃないし」
 抗議を軽くあしらわれ、レンキの声音が更に高くなる。
「全然よくない!アンタ、いい加減にしなさいよ……!」
 今度は彼の方が、エンヴィスの襟首を掴み怒声を上げた。ところが、最後まで言い切るより早く、異変が起こる。
 エンヴィスが作り出した魔法の炎。ゾンビたちと、蛭を撃退するために展開されていたそれが、唐突に燃え尽きたのだ。まるで、何者かに水をかけられでもしたかのように。
「何!?」
 慌てて振り向くエンヴィスだったが、既に火は完全に消えていた。誰が何をした結果なのか、全く分からない。全ては、レンキに振り回されたせいだ。
「おい、あんたのせいだぞ!?」
「私のせいにするつもり!?アンタの怠慢が原因でしょ!」
 言い争う二人の間を引き裂くように、再び炎が舞い上がる。
「うぐ……っ!」
 熱い空気を吸い込んでしまいそうになって、レンキがむせ返った。エンヴィスもまた、灼熱に巻かれ、視界の自由を奪われている。
「何が起こってるんだ……!?」
「ゲホッ、ゴホ……今は、争ってる場合じゃないね、エンヴィス……」
 困惑した様子で辺りを見回す彼の耳に、レンキの苦しそうな声音が届いた。彼は何度も咳を繰り返しながら、手を顔の前で振って、どうにか新鮮な酸素を手に入れようとしていた。
「残念ながら、そのようですね……」
 このままでは、自分も彼も危ない。一時休戦もやむなしだと、二人は判断する。
 エンヴィスが錫杖を振るって、周囲に聳える炎の壁を打ち破った。それにより、熱の檻が消えてなくなり、周囲の状況を窺えるようになる。
「流石です、デルタ様」
「ロザリオ様のためだもの。致し方ないわ……」
 見ると、ボルンが一人の女性と会話をしていた。ネグリジェ姿の、疲れたような中年女だ。デルタという彼女の方が立場が上なのか、ボルンの態度は礼儀正しく恭しい。メッキやノアに対するそれとは、明確に異なっていた。
 どうやらデルタには、他人の術式に割って入る技術があるらしい。尤も、ある程度魔法の行使に長けた者なら、誰でも出来ることではあるが。エンヴィスとしては面倒極まりなかった。
「面倒な敵だな……!」
 下手に攻撃魔法を放っても、そっくりそのまま相手の手札になってしまうのでは、意味がないどころか逆効果だ。エンヴィスは顔を顰め、隣にいるレンキを窺う。やはり、彼と本格的に共闘する必要があると知って、がっくりと項垂れた。

  *  *  *

 薄暗い部屋のど真ん中に、ボール・アイは転がっていた。
「おーい!誰か~?いないのー?」
 ぴょんぴょんと跳ね回りながら呼びかけるが、応える者はいない。カーリも、レディも、エンヴィスも、誰一人とていなかった。
「どこなんだろう、ここ……」
 独り言ちて、室内を見渡す。そこは、広いホールだった。天井は高く、ドーム状になっている。天井や壁には、沢山の絵が描かれていた。人間の女性が、赤子を抱く絵。何人かの男たちが、集まって食事をしている絵。背中に翼の生えた子供、恐らくは天使だろうと思われる生物の絵もあった。
 床には木製の長いベンチが、一方向を向いて並べられている。奥にはステージが設けられ、演台やゴテゴテした巨大な十字架などが置かれていた。更にその奥に、壁に埋め込むようにして、複数の鍵盤を持つ見事な楽器が配置されている。真っ直ぐに天井近くまで伸びる、長さの違う無数のパイプを見れば、ボール・アイにも名前が分かった。パイプオルガンだ。
 そして、パイプオルガンを認識した途端、彼はこの部屋の目的を理解した。
 教会。あるいは、礼拝堂と呼ばれるのだったか。
 人間たちが好む、宗教とやらのため、神に祈るための施設だ。
「美しいだろう……」
 ステージの脇から、一人の男が出てきて、彼にそう言った。
「ロザリオ様は変わったお方でな。人間の、特に奴らが独自に持つ文化……”宗教”をこよなく愛している」
 姿を現したのは、ピンストライプのスーツを着込んだ、恰幅の良い中年男だった。確かロザリオに、シガーレットと紹介されたゾンビだ。その名の通り常に葉巻を咥えている。
「え、えっと……?」
 何と答えようか、ボール・アイは困窮した。マフィアのボスみたいな見た目のアンデッドと、どんな会話をするべきかなんて、想像したこともなかった。
「そんなに固くなるな。所詮ただの雑談だ」
 シガーレットは感情の読めない声色でそれだけ告げると、スタスタとステージの上を歩き、パイプオルガンの前に立つ。彼の長い指が、鍵盤の一つに触れた。発生した音が、パイプを流れて天井から注がれる。
「魔界は古くから、人間たちの良き隣人だった。そうあり続けようと努めてきた」
 彼は同じ鍵盤を、数回感覚を開けて押す。深みのある荘厳な音色が、部屋中に響いた。
「奴らから多くのものを吸収し、文化を築いていった。だが、宗教だけは別だった……何故だか分かるか?」
 椅子に座ったシガーレットが、おもむろにこちらを振り返る。傍聴者のリクエストを受け付ける、演奏者のように。
「簡単な話だ。人間たちは弱く、悪魔は強かった。それだけの話に過ぎない……連中は、現実に立ち向かえなかったのさ。どうにもならない不条理や理不尽に」
 彼の大きな手が、複数の鍵盤を同時に押す。美しい音が幾重にも重なった。
「だから存在しない神とやらを作り出し、そいつに縋ったんだ。いつか救世主が現れて、自分たちを救ってくれる。この現実から連れ出してくれると……だからそれまで頑張ろうと、己を騙した」
 結果的にそれは、前に進む活力となり、彼らの文明は大いに発達した。だが、結局根本のところは、他力本願であるということに他ならない。彼らは常に、他者にものを要求し、期待し、泣きついてきた。悪魔たちには到底理解出来ない考え方だ。
「自分の力で出来ないことは諦める。それが悪魔社会の常識だからな」
 出来ないということは、するべきではないということ。にも関わらず望みを抱く行為は、分不相応として疎まれる。生まれつきの実力で全てを決める魔界の掟は、どこまでも強き者に優しく、弱き者に厳しいものだった。
「だがロザリオ様は違う」
 ジャーンと、一際大きな音が流れた。両手の指を全て使った、完璧な和音。音楽の知識はないボール・アイでも、それが綺麗だということだけは分かる。
「ロザリオ様は、俺に新たな命をくれた。一度死を迎えた男に、再生のチャンスをくださったんだ」
 シガーレットはオルガンを奏でながら、ポツポツと語り出した。弾き語りというわけではないのに、その口調は音楽とマッチして流麗に響く。さして大声を出してもいなかったが、低い声は深い音と馴染んで心地よかった。
「俺は元々、ダーラという小さな街で、強盗を繰り返すだけの小悪党だった。今でもそうだと思うが……ダーラは劣悪な街だった。誰しもが、生きるためには犯罪に手を染めなければならなかった」
 ダーラという地名をボール・アイは知らなかったし、そこがどんな場所なのか想像も出来なかったが、何故か若い頃のシガーレットを思い浮かべることは出来た。まだ腹が出ていなくて、髪も帽子で隠さなくてよいほど、豊かだった彼の姿を。
「俺はやがて、仲間たちとつるんで、強盗よりももっとでかい悪事を働くようになった。強姦とか、依頼殺人とかな……そして俺たちは、いつしかギャングと呼ばれ、ダーラでも恐れられる存在になった」
 ギャングスター、シガーレット。彼の名は、子供でも知っていた。ダーラの住民たちは皆彼と彼の部下を恐れ、あるいは慕うようになった。それはシガーレットの心を何よりも満たす、甘美な毒薬だった。幼少期からずっと苦労を強いられてきた彼に、ようやく報われたと思わせる、危険な劇物だったのだ。
 彼は次第に、ギャングとしての己に満足感を抱くようになった。街を脱出するという子供の頃からの夢になど、見向きもしなくなった。悪事で得る利益に溺れ、毎日仲間たちと馬鹿騒ぎをした。まだ若く、愚かだった頃の罪深い過去だ。
「俺の自信が過剰なほどに膨らんだ時、ロザリオ様が現れた。あの方は自らの高貴な出自を恨んで、あえて辛い生活をしていたんだ」
 貴族の家系の嫡男でありながら、ロザリオはこそこそと家出を繰り返し、治安の悪い街に繰り出していた。そうしてギャンブルや酒、その他の害悪を知りながら、貧しい者たちに混ざって日々を謳歌していたのだ。だが、どんなに演技を重ねても、仕草や価値観からすぐに、彼の正体は露見した。シガーレットたちもその噂を聞きつけて、彼との接触を試みたのだった。
「近くの賭場に入り浸る、世間知らずのボンボン……獲物としては格好だろう?誘拐でもして、身代金を要求すれば、一生遊んで暮らせるほどの大金が手に入る。俺たちはこぞって、奴を狙った」
 しかし、計画は結論から言えば、失敗に終わった。何故なら、ターゲットを騙し、人気のない場所に連れてくる役目を担ったシガーレットが、彼を逃してしまったからだ。
「惚れちまったんだ、ロザリオ様に」
 彼をそそのかし、欺き、懐柔する役割を与えられたシガーレットだったが、実際に懐柔されたのは、彼の方だった。彼はロザリオと会話する内、その人柄や性格、断固とした意思に、強く惹かれていった。
「俺はあの方に、ついていきたいと思ったんだ。あの方が何を見て、この先何を為すのか、一番最初に知る相手でありたいと。あの方を支える悪魔になりたいと。だからそのためには、こんなところで時間を無駄にさせたくなかった」
 自分でも、説明出来ない衝動だった。ただの一過性のものかも知れなかった。それでもシガーレットは、ロザリオに手を貸し、彼を逃がすことを選んだ。そして、彼の部下になることを誓った。
「部下たちに問い詰められた俺は、事実をありのままに話した。だが……受け入れられなかった」
 当時のシガーレットは、ギャングたちにとって理想のリーダー、カリスマ的存在として扱われていた。誰もが彼を崇拝し、信じ、期待していた。彼なら自分たちを救ってくれると。それはまさに、人間たちが重んじる宗教と同じ行為だった。
「期待が裏切られたと感じた時、尊敬は恨みに変わる……俺は仲間の一人に背中を刺され、ぽっくり逝っちまったってわけさ。ロザリオ様を助けた翌日にな」
 カリスマだった男が、どこぞの金持ちの手下に成り下がることを決断した。自分たちは、見捨てられたのだ。彼らの失望が怒りに変わり、憎悪へと昇華していくのは時間の問題だった。シガーレットが予想していたより断然早く、その日は訪れた。
「俺は失意の中死んでいった……そして数日後、ロザリオ様に叩き起こされたんだ。魔法でな」
 命を賭けて助けた男の、未来を共に見ることは叶わなかった。シガーレットは最期に後悔を抱えながら、悪魔としての生命を終えた。
 しかしながら、彼はもう一度、目を開けることが出来た。逃げ道を教え、臣下にしてくれと懇願した男を案じて、ロザリオは再び街に戻ってきた。そうして彼に、二度目の人生を与えたのである。ただし、肉体の腐敗したゾンビとして。
「だが、構わなかった。アンデッドだろうが何だろうが、もう一度やり直すチャンスを得たことに変わりはない」
 たとえ生者に忌み嫌われる存在であっても、ロザリオの隣にいられるのなら、文句はなかった。むしろ、感謝する以外考えられなかった。
「ロザリオ様は俺にくださったんだ。命という絶対の、限られた時間を超越する方法を」
 自分一人の力では能わぬこと、魔界では分不相応とされる望みを、彼は叶えたのだ。叶えさせてもらったのだ。ロザリオの手によって。
「ロザリオ様の望みは、それだ。個の力では足りないことも、より強き者が助力すれば達成出来る。現行の、義務なんて強制的なものじゃない。強者が自ら進んで弱者に手を貸す。そういう世界の導き手になりたいと……だからこそロザリオ様は、宗教という概念を気に入っている」
 弱き者を自然淘汰する。そんな風に、個々の能力や実力に全てを委ねていたら、社会は発展しない。もっと積極的に協力し合い、共に歩んでいくことが重要なのだと、ロザリオは繰り返した。初めて会った時から、今に至るまでずっと。そうでなければいずれ破綻が起きると、彼は何度も言っていた。シガーレットはその意見に賛成し続け、ロザリオに尽くしてきた。彼の願いを叶えるために。
「本当は、ロザリオ様の命に従い、お前と戦わなくちゃいけない……」
 パイプオルガンを弾き終えたシガーレットは、両手を鍵盤から離し、余韻を楽しむような間を空けた。それから、ゆっくりと立ち上がって、低い声で告げる。
「だが、使用人たちの中でも最古参の俺には、相応の権限が与えられている。つまり、命令を拒むことも出来るんだ」
 判断は、シガーレットに委ねられている。そして今の彼は気が付いていた。ここでスライムと戦闘するよりも、ロザリオにとって利益のある道があることに。
「その前に一つ質問させてほしい。お前の正体は、何なんだ?」
 だが決断の前に彼は、ボール・アイに尋ねかけた。
「えっ?……あっ!」
 問われて、ボール・アイは気が付く。疑問を抱かれないための、普通のスライムのふり。喋らないという約束を、破ってしまっていた。
「いや、そんなことはどうでもいいか……ロザリオ様は寛大な方だ。信奉者の種族になど、構いはしない。たとえ未知の、言葉を喋るスライムであってもな」
 動揺するボール・アイを見ながら、シガーレットは首を振った。相手の正体など、些細な問題に過ぎない。ロザリオに共鳴し彼を信じる者が増えるのならば、それが何であれ誰であれ、関係のないことだ。
「新種の生物よ。もうすぐこの世界は大きく揺らぐことになる……その時お前はどうするか。全ては自由だ。お前が自分で決めればいいことだ」
 シガーレットは言いながら、ゆったりとした足取りで、ステージから降りてきた。ボール・アイは真剣に、彼の言葉を噛み締め、その意味を読み取ろうとする。
 スライムの思考を遮るかのように、右手の壁際に歩み寄ったシガーレットが、懐から銃を取り出し、発砲した。
「わっ!?」
 大きな音と共に、美しいステンドグラスが砕け散り、曇天の空の下へと消えていく。いきなりの破壊行為に、ボール・アイは驚き、悲鳴を漏らした。
「行け」
 銃を仕舞ったシガーレットが、指を差してボール・アイを促す。彼を信頼していいものか、ボール・アイは逡巡したが、結局従うことにした。何しろ相手は銃を持っている。ボール・アイに物理攻撃は効かないが、痛覚と無縁ではないのだ。逆らうのは危険だろう。
 指示された通りに、彼はぴょこぴょこと体を跳ねさせ、ガラスの割れた窓へと近付く。そして、小さく丸い粘液の体を、外へと投じた。
「……ありがとう」
 最後にそれだけを残して。
「だが、これだけは覚えておくといい。いずれ生まれる新しい社会の中心には、必ずロザリオ様が立つということを……」
 ボール・アイの姿が消えていくのを見送り、シガーレットは呟く。そして、小太りの体躯を揺らしながら、教会の奥へと引っ込んでいった。

 *  *  *

「うぅ~ん……あれ?カーリ?エンちゃん?どこ?」
 知らぬ間に横たわっていたことに気付き、レディは寝ぼけた声を上げる。目を擦り、立ち上がって服の埃を払いながら、彼女は辺りを見回した。
「うわぁ……!」
 そして、大きな瞳を輝かせ、歓声を上げる。
 目の前に広がるのは、派手で賑やかなサーカスであった。円形のテントに沿って、客席がぐるりと並び、観客の頭上を様々な垂れ幕や旗のくっついたロープが交差している。真ん中の空間で行われる出し物に合わせて、拍手の音や称賛の声が上がり、散らされた紙吹雪が断続的に舞っていた。
「ようこそー!ゾンビメイド・ラディアの見世物小屋サーカステントへ!!」
 胸元に傷のあるゾンビ少女が、髪と同じオレンジ色をした、大玉に乗って現れた。だが、名乗られなければ案外、彼女だと気が付かなかったかも知れない。何故ならその服装は、メイドのそれから随分と奇抜な格好へと、変貌していたからだ。
 紫と黒のボーダーの、オフショルダーニット。足には裾が少し膨らんだ、黒色のショートパンツを履いている。薄手のタイツも、ニットと同じくボーダーだ。ただし色は赤と紫。靴はゴテゴテしたショートブーツから、赤色のエナメルのヒールへと変わっている。髪を留めるピンも数が増え、耳にはピアスがぎっしりとついていた。目元にはラメのたっぷり入った紫色のアイシャドウが、これでもかと塗りたくられ、まるでパンダのようになっている。
「かーわいー……!」
 恐らく普通の者は引くだろうが、普通ではないレディからしてみれば、最高に魅力的な姿だった。彼女は目を輝かせて、ラディアを賛美する。
「ウフッ、でしょ!あなたなら分かってくれると思ってた!」
 ラディアは嬉しそうに微笑み、くるくると回ってみせた。ヒールを履いているのに、よく球体の上で安定して立っていられるものだと、レディは感心する。
「すっごいね!それ強化系魔法?どうやってるの?」
「そう。特に足の筋肉と体幹を強化してるの」
 その答えを聞いて、レディの瞳が更に輝いた。
「アタシにも出来る!?」
「んー……どうだろ。それよりあなたには、他にもっと気にすべきことがあるんじゃない?」
 ラディアはしばし躊躇った後、口を開き、彼女に問うた。
「えっ?」
 何のことかと、レディは困惑する。
 その直後だった。ラディアの囁くような、しかし強化された彼女の聴覚で十分聞き取れるほどの呟きが放たれたのは。
「……クイーン・オブ・ボルファンティア」
「!!」
 途端に、レディは全身を雷に打たれたように硬直させ、瞠目した。ぶわりと浮いた冷や汗が、背筋を伝ってTシャツを濡らす。
「ど、どうしてそれを……!」
 ここでその言葉を耳にするとは思いもしなかった。いや、ここだけでなく、他のどこででも。
 それは既に捨てたはず。彼女の存在と共に消し去られたはずの名前だ。
「ロザリオ様が知らないことなんか、あるはずないでしょ」
 彼女の驚きを否定するように、ラディアは平然と髪をかき上げ、自慢げに告げた。胸を張った態度からは、自らの主に対する絶対的な信頼を感じさせる。皮肉なことにそれは、レディがトワイライトに対して抱いているものと全く同様の感情であった。彼女は無論そんなこと、気付きもしなかったけれど。
「あなたの上司だって、そのことを聞くためにここへ来たんじゃないの?」
「え!?」
(どういうこと……!?トワさん、アタシのこと調べてたってこと!?)
 確認するように尋ねられても、レディには何も分からない。彼女はただ顔を強張らせて、直立しているしかなかった。
 トワイライトが何を考えているのか、理解出来なくなる。いや、考えてみれば彼のことも、他の誰のことも、彼女は理解しようとしなかった。あるいは自分のことでさえも。
 彼女は自分がどこの何者なのか、未だに誰にも打ち明けず、生きてきてしまった。無理して聞き出そうとする者に出会わなかったことを、幸運に思うばかりで、恩に報いようとはしなかった。甘えていたのだ。見つからなければ、それはなかったのと同じことになると決め付けて。
(そんなはずないのに……)
 馬鹿な自分に呆れてしまう。
「あなたはどうして戻らないの?」
 その時、ラディアからも疑問が投げかけられた。
「富も、地位も、名声も……大事なものは全て揃ってるのに」
「戻るわけないじゃん!!アタシにはそんなもの、全部必要ないし!」
 心底不思議に思っているような、怪訝な声色。こうしていると、彼女の方が少しだけ精神年齢が上のように感じられる。悩んでいたところに追い打ちをかけられて、”子供”のレディはついカッとなった。まるで叫ぶようにして言い返すと、再びラディアは首を傾げ、何とも中途半端な息を漏らす。
「ふぅん……酷いことするんだね。そんなに恵まれてるのに、持っていたものを手放すだなんて。世の不公平の代表みたい」
 ラディアは言いながら、後ろで手を組んで、視線を足下に向けた。爪先で大玉をつつくと、空気が反発する感触が伝わってくる。彼女の言動に、どこか嫌な雰囲気を感じ取ったレディは、眉を顰めて不快そうにしている。
「一体どれだけ大勢の悪魔が、あなたの持ってたもの、欲しがってると思う?」
「そんなの知らないよ!アタシはあんなもの、欲しいなんて言ったこともない!それなのに、勝手に色々決められて、嫌だったんだから!!」
 顔を上げたラディアに最後まで言わせず、レディは噛み付くようにして反論した。
「そう……」
 話を遮られたラディアは少しだけ悲しげに表情を曇らせた後、小さく息を吸い込んだ。それまで抱えていた矛盾や葛藤、逡巡を、吹っ切ろうとするかのように。
「だったらワタシがもらっちゃう」
 そうして宣言した彼女は、これまで以上に晴れやかな笑みを浮かべていた。若者らしい快活な調子で言い切り、膝を曲げて高く跳躍する。
 細足から放たれたとは思えないパワーが、彼女の乗っていた大玉を蹴り飛ばし、レディの方へ凄まじい速さで接近してきた。
「うわっ!」
 慌てて避けたレディのすぐ横を、巨大な球体が高速で通り過ぎる。風圧に金髪を靡かせながら、レディは身構えた。背後の大玉は、サーカステントに見事に衝突した後、空気を失って萎んでいる。
「さぁ、どんどんいくよ!」
 ラディアの勢いは衰えなかった。どこからか搬入されてくる大玉を、次々と乗りこなし、攻撃を続けてくる。レディはその一つ一つを、冷静に見切り回避していった。しかしながら、流石に数が多い。大して広くはないテントに転がるいくつもの大玉が、空間を圧迫し、彼女の移動範囲を狭めてくる。とうとう、どこから攻撃が飛んでくるのかもよく分からなくなり、レディは追い詰められた。
「うっ……!」
 頭上を通過する球体の巻き起こす風によって、視界が一瞬効かなくなる。何とか腕で顔を覆って庇ったものの、遅かった。
「アハハッ!」
 ラディアが哄笑と共に、今度は拳を振るう。その力によって、彼女の身長の半分ほどもある大玉は、易々と吹き飛んだ。そして、球は別の球体へと衝突し、他の物体にも干渉を及ぼしていく。まさに、ビリヤードのように。
「ぐ……っ!」
 突き動かされた客席用のベンチが、レディの腰骨の辺りを強く打った。思わず痛みに顔を顰め、彼女は呻く。そこへ、轟音を立てながら大玉が迫ってきた。逃げ道を探そうと視線を巡らせると、反対側からも同じものが、強過ぎる回転のために弾みながら転がってくるところだった。
(避けきれない……!)
 左右から襲いくる大玉に挟まれ、莫大な圧迫感を覚えたのも束の間。力のぶつかり合いに耐えきれず、彼女の体は真上へと押し上げられた。
 弾き飛ばされ、宙を舞う途中、彼女は空中に何本ものロープが渡されていることに気が付く。旗がついていたり、垂れ幕が下がっていたりする、ロープだ。恐らくは出し物の一つとしても使われるそれ。
「えいっ!」
 直感に任せ、レディは瞬時に判断を下した。体重を支えるには、何とも心許ないが、仕方ない。彼女は必死に手を伸ばし、ロープにぶら下がることで、落下のダメージから逃れた。
「案外、往生際が悪いんだねぇ~」
 揶揄うような声が聞こえて、ハッと視線を上げる。ラディアがニヤニヤと笑みを浮かべながら、細いロープの上に屹立していた。彼女の服装は再び変わっており、今度は水玉模様の派手なジャケットを着込んでいる。頭には小ぶりのシルクハットを乗せ、手には長い長いバトンを持っていた。
「ワタシだったらー、もうとっくに降参しちゃうけどな」
 両端に房のついたそれをくるくると器用に回して、彼女は言う。こちらを見ようともしない彼女に、レディはムッとして口を開いた。
「アタシは違うもん」
「ウフッ、そっか……それじゃあ仕方ない!」
 ラディアが噴き出したせいで、彼女の苛立ちは更に増していく。
「でもねぇ、ワタシだって諦めるつもりないよ?あなたを捕まえれば、ロザリオ様に喜んでいただけるんだもの」
 彼女の憤懣に気付いているのかいないのか、ラディアは尚も話を続けた。
「あなたを探している連中に、あなたを売り渡せば。そうしたら、ロザリオ様はそいつらに貸しを作れるでしょ?ワタシのことも、きっと褒めてくれる。助けてもらった恩を返せる」
 瞼の裏にその光景を思い描いてでもいるのか、ラディアは両手を組み合わせて、うっとりと溜め息を吐いた。恍惚とした表情を見ていると、胸の奥から沸々と不快感が込み上げてくる。
「そのために、アタシを利用するの?」
「別にいいじゃん。あなたはあなたのいるべき場所に戻るだけなんだから」
 怒りを抑えた低い声で問う。少しでも良識のある相手なら、躊躇を感じてくれるはずだった。しかしラディアは悪びれもしない。
「あそこはアタシのいるべき場所じゃない!アタシはあんなところにいたくないの!!」
 平然と答えられ、レディはついに感情を爆発させた。ロープを両手で掴んだまま、大声で叫ぶ。しかし、ラディアは納得しなかった。
「そんなの、あなたの勝手な言い分でしょ?」
 小首を傾げて、さも当然のように聞き返してくる。
「そっちこそ勝手だよ!アタシの意思を無視して、無理矢理連れてくなんて!!」
 レディも叫び返すと、勢いをつけて体を回転させ、ロープに足をかけた。ところが。
「あなたは分かっていないだけ」
 ラディアが素早く踏み出し、手にしたバトンを振るう。
「あっ!」
 足を思い切り払われ、レディは焦った。
(落ちる……!)
 咄嗟に別のロープを掴んだものの、ラディアはすぐに追いついてきて、バトンと脚撃で彼女を攻め立てる。レディは逃げ回り、縦横無尽に張り巡らされたロープの間を、次から次へとジャングルの猿のように飛び移った。
「誰かに必要としてもらえることが、どれだけ幸せなことか。あなたは何も分かってない」
 ラディアは淡々と呟きながら、執拗に彼女を追い回した。彼女の繰るバトンによって、レディは何度も足を掬われ、手を叩かれる。その度にかすかな呻きを上げ、安全な場所を探すのだが、中々上手くいかなかった。何しろ、ヒールを履いているせいで、細い紐状の足場の上になど立てないのだ。ラディアは一体どうやって自在に動けているのか、心底疑問に思う。
「必要とされてるんじゃない!アタシは……っ、アタシは、利用されてるだけだっ!」
 不利な状況にも関わらず、彼女は必死に己を鼓舞し、抵抗した。そしてようやくヒールを脱ぎ捨て、彼女と同じ土俵に立つことに成功する。だが、やはり姿勢が安定しない。慣れない行為に体がついていかないのだ。
「何それ……贅沢言わないでよっ!」
 バランスを取ろうとその場でもがいている内に、接近されていた。彼女の振り抜いたバトンが、レディの鳩尾を鋭く突く。
「う……っ!」
 激痛に息が詰まり、思わず腹を抱えて蹲ってた。落ちないように、どうにかロープを握り締めて耐える。
「ワタシは誰にも必要とされなかった。父さんも母さんも……ワタシを邪魔だと言って、殺したの」
 ラディアは早足で距離を詰めてくると、容赦なくバトンを振るい、レディを打ち据えた。
「うぁっ!!」
 強い衝撃につい手を離してしまい、体が大きく傾く。直後、脇腹に回し蹴りを食らい、彼女は吹き飛んだ。そのままテントのフレームに、背中から衝突する。あまりの勢いに、金属製のフレームがぼきりと音を立てて折れた。尖った先端がシートを切り裂き、破れた生地がレディを包む。視界が塞がれたせいで、上手く受け身を取ることも出来ない。レディは無様に地面へと落下し、砂っぽい埃に塗れた。
「うぐ……ごほっ!」
 咳き込みながら、右腕を押さえる。落下の際、体重がその一点にかかったらしい。他のどの場所よりも特に酷い痛みが生じ、骨が折れているのではないかと危機感を抱かせる。同じく脇腹も、ラディアの蹴りを受けたせいで、ズキズキと痛んでいた。やはり強化系魔法とは恐ろしいものだ。たった一撃で、相手を戦闘不能にすることも出来るのだから。
「二人はずっとお金に困ってた。だから一人娘のワタシを、口減らしに殺した」
 静かな声で話しながら、ラディアはロープから飛び降り、見事に衝撃を殺して着地する。そして、レディのそばにやってきた。
「でも、ロザリオ様がやってきて……ワタシを蘇らせてくれた」
 ラディアの両親は、彼女の死体を近隣の山に運び、穴を掘って埋めた。涙を流しもせず、罪悪感も感じずに、ただ淡々と作業した。たまたま通りかかった農民がそれを発見し、土地の所有者であった、ロザリオにまで報告が上げられた。
「何の面識もなかったワタシを、ロザリオ様は助けてくれた。ワタシがただ、あのお方の領地に埋められたって、ただそれだけの理由で」
 無論、”ただそれだけ”ということはない。自らの領土で不法に遺棄された死体が発見されれば、警察部門の捜査が行われるほどの重大な問題となる。それを防ぐことは重要であって、軽々には扱われない。だが、彼女にとっては些細なことだった。
「ワタシは新たなチャンスをもらった。誰にも必要とされず、無理矢理終わらせられた人生を、もう一度やり直すチャンスを。非業の死を塗り替えるチャンスを」
 ロザリオという素晴らしい人格者が、赤の他人である彼女を地中から掘り起こし、アンデッドとして復活させ、二度目の人生を与えた。ラディアにとってそれは、夢のような体験だった。ちょうど、人間たちが王子様を求めるのと同じように。彼女も希求していたのだ。自分を救ってくれる、強い誰かが現れることを。
「だからワタシはロザリオ様に従うと決めた。何があっても、ワタシが誰でも。忠実な家臣であり続けるって」
 彼女にとって、自らの肉体がどうなろうと、大した問題ではなかった。心臓の動かないアンデッドでも、ロザリオの元で働けるのなら、何だって構わなかった。
「でも、あなたは違うでしょ」
 ラディアの瞳の色が、一気に冷たいそれへと変わる。
「あなたは知らない。知ろうともしない。必要とされない苦痛を。自分の幸運を知らずに、呑気なことばかり言ってる……そんなあなたを、ワタシがロザリオ様への報いに使うことに、何の不満があるの?」
彼女は憤っていた。自身が生前に欲していたものの全てを、初めから手にしているレディに。嫉妬していたのだ。どうして自分には与えられなかったのかと。何故、それを拒絶する者にしか、運命は微笑まないのだろうと。
「全然……意味分かんない」
 相手のことが理解出来ないのは、しかしレディも同じだった。彼女にも分からなかったのだ。己の辛くて苦しい境遇を、欲しがる者がいることを。一体どんな理由で、求めるのかも。
「あんたは知らないんだよ。アタシがどんな目に遭ってきたか。アタシがどんなとこで生きてきたか……あいつが、どんなに恐ろしい奴か」
 沁みてくるような痛みに耐えつつ、上体を起こし、ラディアを見据える。まだ若干息が乱れていて、身体中が痛みで軋む。だがそれを押し殺して、彼女は立ち上がった。
「欲しがる奴がいるのなら、あげたいって思うくらい、最低の人生だった……」
 ラディアは訳が分からないとばかりに、眉を吊り上げて、今にも反論しようと口を開きかけた。
「でもね、分かってもらおうとは思わない。あんたは何も知らないから。アタシが何を言っても、納得しないんだろうなってことは分かるの。だから……もう、決着、つけようよ」
 レディは機先を制し、堂々と断言する。
 理解してもらわなくても、構わなかった。そんなことしてもらわなくとも、直接力で押さえつけ、従わせれば済む話だ。難しい会話を繰り広げるより、そちらの方がよほど性に合っているし、自信もある。
「どっちの言い分がどうだとか、アタシはそんなの分かんない。興味ない。勝った方の言うことを聞く。それでいいでしょ」
 果断にして果敢な性格の彼女には、ぴったりの答えだった。ラディアも特に異論はなかったのか、バトンを放り出すと腰を落とし、臨戦体勢を取る。レディも無言で、拳を構え相手を睨んだ。
「そう……分かった。なら、とどめを刺してあげる」
 もう二人の間に、言葉は要らなかった。
 必要なのは、たったの一撃。
 他には何も必要ない。
 目と目を合わせて、互いが合意していることを確認する。一瞬の沈黙の後、鋭く息を吐いて、両者は同時に動いた。
「「______!」」
 しばらくの間、無言の攻防が続いた。互いに、相手の蹴りや拳を受け止めては、反撃して防がれる。その繰り返し。
「はっ!」
 先制に成功したのは、ラディアの方だった。彼女の放った蹴りが、レディの両腕を強く打ち付ける。痛みと衝撃に耐えかね、防御姿勢を崩した彼女の懐に滑り込み、もう一度鳩尾に攻撃を叩き込もうとした。
 しかし、レディも負けてはいない。彼女の腕を押さえ込むと、関節の動きを封じ、反撃を試みる。ラディアはそれを素早く振り解き、レディを突き飛ばした。そして軽く跳躍し、まるで宙返りをするようにして、彼女を退ける。
「っ……!」
 腹と肩の二箇所を打たれたレディは、わずかに顔を歪めたものの、怯まずに立ち向かう。むしろより調子付いた様子で、ラディアに突進した。
 着地したばかりだったラディアは、多少慌てつつも冷静に相手の動きを見切り、回し蹴りを繰り出す。ところが、レディは彼女の足を掴み、攻撃を力づくで止めた。大玉に乗って鍛えた自慢の脚力を、まさか阻止されるとは思わず、ラディアは瞠目する。その隙を突くようにして、レディは掴んだままの足を引っ張り上げ、彼女を転倒させた。躊躇なく彼女の上にのしかかり、体重をかけて押さえ込む。
「うっ!」
 ラディアはもがくが、もう遅い。同じく強化系魔法を使う相手に馬乗りになられては、もはやなす術がなかった。
「もうアタシに……ボルファンティアに、構わないで」
 レディは、苦しそうに呻く彼女を見下ろしながら、静かな声で告げる。今更ながら、彼女の攻撃を受けた場所が痛んできた。裸足の指の間に、細かい砂が入り込んでむず痒い。
「ロザリオ伯爵を大事に思うなら、あの男には関わらない方がいいって言って。絶対に、絶対」
 哀願するように訴えかけられても、ラディアは返事をしなかった。悔しそうに口を端を曲げたまま、黙っている。レディは彼女の襟首を掴み上げ、顔を近付けて懇々と諭した。
「……あなたはそうしたくても、周りはきっと許さない。あなたはきっと連れ戻される」
 やがて口を開いたかと思えば、彼女はレディの決意に水を差すような言葉を口にした。
「そんなのっ!分かんないでしょ!」
 レディは逆上し、つい声を荒げた。
「アタシはそんな簡単に言いなりになったりしない!」
「大切な相手が危険に晒されても?」
 ラディアの無感情な瞳が、刺すように見返してくる。淡々とした声音が、レディの最も触れられたくないところを不躾に撫でた。
「ッ!!」
 レディの頭に、カッと血が昇る。次の瞬間には、ほとんど反射的に手が出ていた。
 拳を振り下ろした感触と、手に伝わるごっという音が、まるで他人事のように鼓膜の内に響く。幽体離脱でも起こしている気分だ。
 気が付くと彼女の尻の下には、唇から血を流し、意識を失った状態のラディアが倒れていた。頬には出来たばかりと思われる、赤いあざがくっきりと浮いている。ゾンビでも出血したりあざが出来たりするのかと知ったが、そんなことはどうでもよかった。
(アタシのせいで……トワさんやカーリが……?)
『危険に晒されても?』
 ラディアの声が、脳内でぐわんぐわんと木霊する。
 レディは呆然としながら立ち上がり、彼女に一瞥もくれることなく、歩き出す。途中で脱ぎ捨てた靴を見つけ履き直した後、ゆらゆらとした覚束ない足取りで、テントを後にした。

  *  *  *

「”大火球ウィリアム”!」
 荒れ果てた庭に、エンヴィスの詠唱の声と、爆発音が響き渡る。だが、ゾンビ女性デルタが手を翳すだけで、炎は燃え尽き、魔法は無効化されてしまった。
「くっ、これでも駄目か……」
「ちょっとエンヴィス、いつまでやってるの!?」
 悔しげに呻くエンヴィスの耳に、レンキの甲高い声が飛び込んでくる。助けてもらえるのが当然だと思い込んでいるような高飛車な調子に、エンヴィスの苛立ちが倍加した。
「またヒルが近付いてきてるんだけど!」
「あぁもう、それくらい自分で片付けてくださいよ!」
「無理!私虫とか大嫌いなんだから!」
「虫じゃねぇよヒルは!!」
 叫び返しながらも、再び魔法を放ち、辺り一体の草むらを焼き払う。二人を狙って身を潜めていた蛭たちは、次々に熱で屠られ、地面に転がることとなった。
「どうでもいいでしょそんなこと!っていうか、ウィリアムって誰よ!?」
 感謝も告げずに、レンキが尋ねてくる。エンヴィスはまたもや苛立ちつつ、大声で答えた。
ウィル・オ・ウィスプWilliam with the wispですよ!」
「ほんっとどうでもいいね……!あ、ほらまた来てる!何とかしてよ!」
「言われるまでもない!」
 軽くあしらわれたことに、疑問を抱いている暇もない。再び襲いかかってきた蛭の群れを、エンヴィスは炎で撃退した。だが、ボルンが鞭を振るう度に、蛭は無数に湧き出しており、まるで際限がない。直接ボルンを狙ってもデルタが妨害をしてくるため、倒すことが出来なかった。二人はかなり長いこと、膠着した戦況の中にいるのだ。
「ハァ、ハァ……ちくしょう、キリがない……!」
 エンヴィスは肩で息をして、頬を伝う汗を拭う。徐々に魔力がすり減っていく感覚と、打開策の見えない状況に、追い詰められていくのを感じていた。
「どうするの、エンヴィス!このままじゃジリ貧だよ!?」
 ただでさえストレスが強い状態に、尚も追い打ちをかけてくるのが、レンキの存在である。彼の中性的な声音がヒステリックに喚くのを聞いていると、どんどん精神が摩耗していくのが分かった。
「分かってますよっ!」
 早いところ勝負を終わらせて、彼の悲鳴から逃れたい。その一心で魔法を放つのだが、またもやデルタに無効化されてしまう。相も変わらず、決着がつかない攻防が続くばかりだ。
「なら私が」
「これでどうだ!?」
 見かねたレンキが、携えていた弓を構え、札を括った矢を放つ。しかしちょうどエンヴィスが、改良を重ねた魔法を繰り出したせいで、矢は燃え尽き敵に届く前に消えてしまった。
「ちょっと!私の矢まで燃やさないでよこのおバカ!!」
「はぁ!?そっちこそ勝手に、うっ!」
 頭ごなしに罵られ、反論するエンヴィスの目の前に、巨大な火球が着弾する。舞い上がった莫大な熱量に、二人とも思わず目を瞑って顔を伏せた。
「くそっ……もうそんな段階まで進んでるのか」 
「な、何!?何が起こってるの!?」
 腕で顔を庇いつつ独り言つエンヴィスに、レンキが慌てた調子で聞き返す。彼はもはや軽いパニックに陥っているようで、受ける刺激全てに過剰反応していた。
「術式に干渉されてるんですよ……!」
 エンヴィスは既に苛立ちを感じる余裕もない。逼迫した状況に、焦燥ばかりが募っていた。
「対抗してはいますが、このままでは多分逆効果だ。もう魔法は使わない方が無難です」
 彼の視線の先には、両手を空中に翳したまま、立ち尽くすデルタの姿がある。彼女の瞳は虚空を見つめ、色の失せた乾いた唇は、パクパクとかすかに開閉を繰り返していた。ここまでは聞こえてこないものの、恐らく呪文を呟いているのだろうと思われる。それによってエンヴィスの魔法は干渉を受け、無効化や支配権の強奪などをされているのだった。
 要は、ハッキングと同じである。ハッカーの手からシステムを守るプログラムがあるように、魔法にもハッキングの可能性は存在する。特に、デルタはよほど凄腕の魔導ハッカーらしい。今や彼女は、エンヴィスの魔法のほぼ全てを把握していると言っても過言ではなかった。これ以上学習の機会を提供して、彼女に更なる知識と自信とを抱かせるわけにはいかない。
「じゃあどうするつもり!?」
 とはいえ、魔法を使わずにどう戦うというのか。肉弾戦に持ち込もうにも、辺りには蛭がうじゃうじゃいる。ゾンビたちに近付く前に、奴らに噛み付かれてしまうだろう。遠くから物理的な手段で決着を付ける方法など、レンキには……
「まさか……!」
 そう。あるのだった。
 携えた弓を見下ろし、彼は顔面を蒼白にさせる。
「そうです。あんたにやってもらうしかない」
 エンヴィスは平然と、彼の疑念を肯定した。
「俺が囮になります。あなたは隙を突いて、その弓で奴らを狙撃してください。頭を狙えば、流石に倒れるはずです」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 淡々と指示され、自分でも意識する前に、反対の言葉が漏れていた。
「私は情報分析部の悪魔!戦闘は門外漢!私に、トドメを刺せって言うの!?」
 無論彼とて、この実力主義の悪魔社会で、エリートたる地位を築いた悪魔だ。魔導技術と魔力量にはそれなりの自信がある。しかしながら、戦闘行為が業務内容に含まれているエンヴィスたちと違い、彼はそのようなことを求められる部署にいない。これまでの人生においても、誰かと戦いをした経験などろくになかった。勝利を直接左右する重要な役割を、いきなりやれと言われても、簡単に受け入れられるはずがない。
「やるしかないんだ、レンキさん!じゃなきゃ、二人ともここで血を吸われ尽くして死にますよ!?」
 彼の戸惑いを打ち砕くように、エンヴィスは語気を強めて言い募る。眼鏡の奥の小さな瞳孔が、獣のように鋭く尖り、尋常ならざる気迫を放っていた。いかにも、戦い慣れた男の眼差しだ。そんな視線を正面からぶつけられて、非戦闘員のレンキが太刀打ち出来るわけがなかった。
「そっ、そうだけど……!この弓じゃ、同時に二体は倒せない。そこまでの貫通力はない」
 気圧され躊躇しながらも、どうにか反論する。剛弓をわずかに持ち上げて示すが、エンヴィスはちらりと一瞥をくれただけだった。
「二発続けて射ればいいでしょ。出来るだけ早くお願いしますよ」
「な……っ!」
 当たり前の定理を述べるかのように、抑揚のない声音で命じられ、レンキは頬が引き攣る感覚を覚える。
(何言ってるの、こいつ……!)
「あんた……ほんっとにあの腹黒の部下らしくなったね……!」
 気が付いた時には既に、低く彼を罵る声がこぼれ落ちていた。
「本当に傲慢で、不遜なんだから」
 脳裏に、トワイライトの平凡な顔立ちが過ぎる。映像があるわけでもないのに、彼の視線はあの男の、カラスのような真っ黒な瞳をしっかりと捉えていた。
「この私を侮ったこと、絶対に後悔させてあげるから、覚悟しなさいよ……!」
「はいはい。じゃ、頼みましたよ」
 想像の中の彼に告げたはずの言葉だったが、実際に返事を寄越したのはエンヴィスだった。その後ようやくレンキも、眼前に広がる光景へと意識を向ける。相手の無礼を咎めようと眉を吊り上げたが、その頃にはエンヴィスは既に、蛭の溢れる草むらの中へと潜っていた。ガサガサという音がして、身を低めた彼が移動していくのが分かる。
「よし……!やるしかないね」
 レンキも覚悟を決め、弓を構えて茂みの影へ入り込み、蹲った。
「ひっ!」
 すぐに蛭が現れて噛みつこうとしてくるが、どうにか靴の踵で踏み潰して事なきを得る。失敗したと思ったのは、悲鳴を上げてしまったことと、靴を買い替えねばならなくなったことだけだ。
「あぁもうエンヴィス……早くしなさいよ」
 ほとんど音にならないくらいの、小さな悪態を口の中で転がしつつ、身を縮こまらせてひたすら待つ。
 待つ。
 待つ。
 だが、いつまで経っても一向に変化は起こらなかった。むしろエンヴィスは忽然と消えてしまったかのように、一切の音沙汰がない。
 段々と、レンキは不安を覚え始めた。靴の底には既に、数え切れないほどの蛭だった成分がこびりついている。そしてまた新たに一匹。エンヴィスの身を案じて、注意を逸らした彼の意表を突くように、血に飢えた蛭が体をくねらせて接近してきた。
 それが今にも彼の足首に飛びかかろうと力を溜めた時。
 突然、遠くにある噴水の辺りから、業火が噴き上がった。
「!?」
 ボルンは驚いて、灰色の空を舐める真っ赤な炎を見つめる。デルタがすぐさま手を伸ばし、冷静に炎を収めようとした。だが彼女の干渉が及ぶ前に、炎は一気に衰え、潰えてしまう。当惑する彼女を弄ぶように、今度は別の場所から火の手が上がった。それもまた即座にかき消え、次々と新たな炎があちこちから噴出する。まるで、諸行無常。人間たちの古典に語られるように、繁栄の続くものは一つとしてない。目的の分からない行為に、デルタもボルンも振り回され、混乱するばかりだった。
 肺が焼け付くような熱気が漂う最中、レンキが一人すっくと立つ。彼は滑らかな動作で弓を構え、矢をつがえると、ギリギリと引き絞った。正面には、今まさに轟音を立てて燃え盛っている、太い火柱がある。だからこそ、攻撃の態勢を取っていることを、見抜かれずに済んでいるのだ。しかし、相手が見えないのはこちらも同じ。これでは狙いがつけられない。
(何これ、どういうつもり……!?)
 居場所も分からぬ彼の顔を思い浮かべながら、内心で歯噛みした瞬間だった。
 突如、火柱が途切れ、向こうの様子がよく分かるようになる。そこには、状況を把握出来ずに棒立ちになる、ボルンの姿があった。まさに、射抜くには格好の、最大限の隙を晒した状態だ。レンキは慌てず、だが出来るだけ急いで、狙いを定め矢を放った。
 ごく短い時間での決断と行動だったにも関わらず、矢はきっちりと、標的の頭部に命中する。いくらアンデッドであれども、頭にダメージを受けては動けないのだろう。ボルンはよろよろと数歩よろめき、ついにはどっと地面に倒れ込んだ。
「やっ……」
「よっしゃ!」
 自分で自分を称賛したくなり、レンキは小さく声を上げた。だがそれを遮るようにして、エンヴィスの、より大きな歓声が耳に飛び込んでくる。ふと視線を遣ると、全ての炎が消えた庭の真ん中で、彼がガッツポーズをしているのが目に入った。自らも利益を得たとはいえ、他人の功績をまるで我が事のように喜び、笑う彼に、レンキは何か連帯感のようなものを覚える。やはり、力を合わせて共に敵を打ち倒したという経験をすると、絆が芽生えるのだろうか。そんな月並みな自分を恥じて、レンキはパッと視線を逸らした。
「あぁ……」
 そこへ、掠れたような呻きとも悲鳴ともつかぬ声が風に乗って流れてくる。デルタが、血の気の悪い顔を更に曇らせて、口を半開きにしていた。
「主様、お助けください……」
「あっ!」
 レンキが気付いた時にはもう遅かった。彼女はそれだけ呟いて、身を翻し、脱兎のように駆け出す。薄紫のネグリジェが、細い体躯にカーテンのように巻き付いて、バタバタとはためいた。ここで逃げられたら堪らない。レンキは地を蹴って追いかける。
 長い裾に足を取られ、転びそうになりながらも、デルタは走っていた。
 遠い過去。もうとっくの昔に忘れ去ったと思っていた光景が、脳裏を掠める。
「捕まるわけには、いかないのよ……!」
 あの時と同じ苦痛を、また味わうなんてごめんだ。
 強い決意と共に、彼女は手を伸ばし、下草を焦がしていた炎の残り香を掠め取る。
 あの男の術式も、見かけ倒しの複雑ささえ理解してしまえば、簡単に使いこなせる。もはや拡大させるのに、さほどの手間も要さなかった。彼女は一瞬だけ振り向き、掌の中に作り出したそれを、後方へと投げ付ける。
「ぐ……っ!」
 足を止めた時には、もう遅かった。レンキの体に正面から、炎の塊が衝突する。小規模な爆発が生じ、彼は後ろに吹き飛んだ。追っ手を退けたことを確認したデルタは、忙しなく踵を返し、屋敷の中へ逃げ込もうとする。
「させるかっ!」
 だが、真横の暗がりからエンヴィスが飛び出してきた。日当たりが悪く、枯れ木と雑草が好き勝手に繁殖した庭の陰に、身を潜めていたのである。彼によって突き倒され、尻餅をついたデルタは、怯えた顔で後退りした。
「や、やめて、こないで……!」
 枝のように痩せ細った足で砂を蹴り、骨ばった蜘蛛のような手で地を掴む。なんと惨めで、情けないことだろう。ただ無力な己は、自らを貪り食らわんとする敵の前で、涙を流し慈悲を乞うしか出来ない。
「嫌ぁ……っ!!」
 己の腐りかけた脳みそに残る、最も古い記憶が、走馬灯のように駆け巡った。
 生きていた頃のデルタは、いわゆる奴隷だった。いつからだったのかは覚えていない。奴隷同士の間に生まれた子なのか、それとも金のために売られたのか。少なくとも、彼女の知る限り、両親と呼べる悪魔と対面したことはなかった。
 魔界では未だかつて、奴隷制が法的に認められたことはない。けれどもごく一部のインペラトルや権力者たちは、今でも定期的に裏の市場を通じて、悪魔を買っている。
 デルタの所有者は、そういった”顧客”たちの中でも、屈指の変態と呼ばれる男だった。彼はデルタに対しその異常な性癖の全てをぶち撒け、彼女がまだ幼児だった頃から何度も凌辱した。それからの日々は、地獄よりも地獄だった。彼女は何年も何年もたっぷり嬲り尽くされ、やがて死んだ。直接の死因は、性交中に何度も頭を殴られたこと。複数の性病や感染症にかかっていたことも、遠因となった。
 極め付けは、男が客人として招く悪魔たちにも、彼女を世話係として”レンタル”していたことだ。だが、彼女のことを唯一、想定されている”用途”の通りに扱わなかった人物がいた。彼はデルタの死後行われた、形ばかりの葬儀にも出席し、彼女の冥福を祈ってくれた。そして数日後、ある雨の日に、彼女は助け出されたのだった。魂を肉体に戻され、ゾンビとしての命を与えられた。その救世主こそが、ロザリオだ。
 彼はデルタを救ってくれた。誰にも所有されず、支配されることのない、新たな人生をくれた。アンデッドになったことなど、それに比べれば瑣末なことだった。彼は、奴隷根性の染み付いたデルタの心を拒むことなく、屋敷の中へと受け入れた。到底信じられなかった。しかし、他のゾンビたちとも過ごす内、彼女の胸に真の忠誠が生まれたのだ。
 やがてデルタは決意した。彼に与えられたこの新たな肉体。死者の冷たく臭い肉体が、炎に焼かれ、あるいは時の流れで風化して滅びるその時まで。関節の最後の一つが動かなくなるその日まで。いついかなる場合も決して忠誠を欠かさず、彼を支え尽くすと。
 だから。
 なのに。
 今の自分の姿を見て、忘れていた絶望が再び蘇ってくる。
 生きていた頃の自分は、いつもこうだった。他人に利用され、搾取され、痛めつけられて。自分の意思を持つことがまるで許されなかった。ただ圧倒的な暴力と、悪意とに蹂躙され、悲鳴を上げているしかなかった。
 ようやく抜け出せたと思ったのに。それは勘違いだったのか。彼女はただ、ロザリオという頼もしい君主に出会い守られていただけで、彼の庇護のないところでは、結局また無力な己に戻るしかないのか。
「あぁ……!」
 絶望と落胆に打ちひしがれ、彼女の瞳から涙が溢れる。その間もエンヴィスは、足を止めることなく、じりじりとにじり寄ってきた。
 嫌だ。
 嫌だ。嫌だ。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
「嫌っ!!」
 デルタの心がその思いで真っ黒に染まった時。彼女は自らの思考がショートするような感覚を覚える。直後、ぶつりと意識が途切れ、体から力が抜けた。
「ぐっ!?」
 ガキンッと硬質な音が響いて、エンヴィスは右手に焼け付くような痛みを覚えた。慌てて視線を痛みの発生源へと向けると、驚いたことに、彼の片手は氷の塊でがっちりと固定されていた。
「な……っ!」
 瞠目し、我に返って急いで魔法を使う。凍らされた手の中に炎を作り、熱で氷を内側から溶かした。ガシャンと落下したそれを凝視してから、彼は当惑の声を上げる。
「何だ……?」
 わずかに凍傷を負った手を庇いながら、デルタに目を遣り様子を窺った。先程まで、異様な怯え方をしていた彼女は、打って変わってすっかり沈黙してしまっている。地面に座り込み、がっくりと頭を項垂れさせているところを見ると、どうやら気絶でもしたらしい。では一体誰が、こんな魔法を使ったのだろう。
「……そこまでよ」
 唐突に、デルタが声を発した。失神していると思っていた彼女がいきなり喋ったことに、エンヴィスは少々面食らい、肩をわずかに跳ねさせる。
「な、何だ?お前……誰だ」
 思わずそう言ってしまったのは、彼女がまるで、デルタとは異なる全くの別人に感じられたからだった。
「わたしは……ヒスイ」
 馬鹿げた質問だと自分でも考えたが、しかしデルタは訝ることなく、平然と名乗った。それも、デルタではない名前を。
「デルタの姉よ」
 彼女が頭を上げた瞬間、煌めく鱗粉、もとい粉雪が舞い散って、彼女の姿を覆い隠した。
「……っ!」
 咄嗟にエンヴィスは腕で顔を庇い、目を瞑ってしまう。再び目を開けた時には、服装をガラリと変えたデルタが、その場に立ち尽くしていた。
「彼女を守るためだけに、わたしは存在するの」
 意味不明のことを宣いながら、デルタ(自称ヒスイ)は肩にかかった髪を払う。紫に染められていたはずの長い髪は、今や美しい白金に輝いていた。毛先にはところどころ雪がくっついていて、瞳は目の覚めるような鮮やかな水色に変わっている。黒いマーメイドドレスを身に纏い、手には甲の部分がくり抜かれたように空いた、いわゆるハーフスクープグローブをつけていた。
「どうしたんだ、お前……?」
 急に外見を変えた彼女を、エンヴィスは訝り、警戒心を露わにする。
「エンヴィス」
 そこへ、レンキが駆け寄ってきた。爆発に巻き込まれたはずの彼だが、存外に元気なようだ。肌や服に、多少焦げが付着しているものの、命に関わるほどの怪我はない。だが、エンヴィスに安堵している暇はなかった。
「エンヴィス……あいつはデルタじゃない」
「はぁっ?」
 レンキに耳打ちされた言葉を理解出来ず、頓狂な声を上げてしまう。
「どういうことだ?」
「正確には、デルタだけど、デルタじゃないの。要するに……」
「……別人格ってことか」
 彼の話を聞いている途中で、ピンときた。つまりデルタと、現在喋っているヒスイとやらは、同じ肉体を共有する、それぞれの独立した人格なのだ。そう考えれば、デルタの見た目や態度が急に変わったことにも納得がいく。
「そう。生体反応を調べる限り、間違いはない。ヒスイってのは恐らく、デルタにより作り出された、もう一人の彼女なんだよ」
 探知魔法のプロであるレンキの調査結果と考察ならば、疑う余地はなかった。エンヴィスは一つ頷き、彼に問いかける。
「で、奴を倒す方法は?」
「そんなの知るわけないでしょ!」
 予期していた答えなので、怒鳴られても驚かない。むしろ予想通りの反応を示した彼に、エンヴィスは笑いを堪えるので必死だった。
「……何」
「何でもありません?さぁ、ちゃっちゃとこのゾンビを倒しちゃいましょう」
 彼の表情に気が付いて、レンキはじとっと湿度のある視線を送った。エンヴィスは動じず、適当な誤魔化しで会話を済ませると、再び錫杖を構えヒスイを睨め付ける。レンキもそれ以上の追求はせず、手にした弓に矢をつがえる準備をした。
「お前も俺たちを襲うつもりなんだろ?ロザリオの命令を守って」
 エンヴィスがどこか辟易した声で、彼女に尋ねる。
「まさか。わたしは妹以外の何者にも縛られない。たとえ妹が忠誠を尽くすと決めた相手の命令でも、わたしは従わないわ」
 ところがヒスイには、他のゾンビたちのような忠誠心がないらしかった。エンヴィスも意外に思ったのか、若干眉を顰めている。
「なら何故、俺たちを攻撃する」
「言ったでしょう。わたしは妹を守るためにいると」
 彼の問いに、ヒスイは一切声色を変えることなく、淡々と答えた。その姿からは、感情というものが全く読み取れない。彼女の態度はどこまでも冷然としていて、表情は仮面を貼り付けたように動かなかった。まるで彼女のそのものが、氷で出来ているかのようだ。形容し難い不気味さを覚え、レンキは生唾を飲む。
「私たちが彼女を攻撃したから、復讐する……そういうこと?」
「いいえ、少し違う」
「……何だと?」
 戦慄を堪えながら、少し踏み込んだ質問を投げかける。すると、彼女の声がようやく少しだけ変化した。
「あなたたちは妹を傷付けた。やっと幸せを手に入れた妹に、かつてのトラウマを見せた。今まで散々味わってきた、苦痛。利用され、搾取され、男たちのいいように弄ばれて、奴隷のように扱われることへの無力感を……」
 ヒスイの口調は、明らかに怒りを含んだ硬いものになっていた。だがそれは、決して激しく燃える熱いものではない。静かに、気付かれぬ内に下から這い上がってくる、冷たい炎だった。
「到底許されざることだわ。あなたであれ、誰であれ」
 彼女が片手を翳した途端、地面から鋭い氷柱が突き出してきた。
「危ねぇ!」
 目を見開き硬直するレンキの襟首を、後ろからエンヴィスが掴んで下がらせる。彼の目の前に、く尖った氷の先端が突きつけられた。あと少しでも回避が遅れていたら、顔か首を貫かれていたことだろう。巨大な氷塊から漂ってくる冷気が、レンキの肌に鳥肌を立たせる。
「わたしの妹を苦しめるものを、わたしは絶対に認めない……たとえそれが、妹自身の過去であってもね」
 ヒスイは二人を見遣り、毅然とした口調で断言した。どうやら彼女は、彼女のもう一人の人格であるデルタの、心を傷付けた彼らのことを恨んでいるようだ。
「なるほど?見上げた精神だな……分からないことはないぜ。俺だって妹がいるからな」
 その視線を真っ直ぐに受け止めたエンヴィスは、平然とした調子で彼女に答える。命を狙われた直後だというのに、彼の声音には余裕が滲み、どこか揶揄いの色すら含んでいた。
「だが、お前は妹が利用されてきたと言ったが……それはお前だって同じだろ?」
 かと思えば、冷徹な瞳がキッとヒスイを睨め付ける。
「別人格、なんて……見方によっちゃ、辛い現実から逃れるための、スケープゴートにされてるだけだとも言える」
 自分では耐えられない苦痛を、代わりに受けてくれる人格を己の中に作り出す。それは、作られた方の人格からすれば、単なる搾取と捉えられるだろう。元の人格が楽しく生きるための、道具。デルタは利用される苦しみを、自分の別人格を利用することによって、紛らわしているのだ。
 そんな相手に、果たして同情出来るのか。傷付いていると言いながら他者を傷付ける人物を、助けたいと思うか。力になりたいと、守ってやりたいと、願うだろうか。
「だから何?」
 エンヴィスの、やや穿った見解を浴びせられても、ヒスイはピクリとも反応しなかった。それどころか、一歩前に踏み出して、挑発的な姿勢を取る。
「それでもいいの。それが妹のためになるのなら、いくらでもわたしのことなんか利用して構わない。それが姉というものだわ」
 彼女の言い分には、十分過ぎるほどの説得力があった。エンヴィスもまた、妹のためになることなら、どんなことだってしてやりたいと思うからだ。
「それに、辛い現実から目を背けてるのは、あなたたちだって同じでしょ?」
 沈黙の隙を突くように、今度はヒスイの方から質問が投げられる。
「どういうこと?」
 引き合いに出され、レンキは困惑して問い返した。ヒスイは片手で頬を撫で、自らの記憶を手繰り寄せる。
「あの子……何と言ったかしら。名前は知らないけれど、あの子の身に起こったこと。あなたたちは真実を隠してる。自分たちが、逃げるために」
 彼女の言葉が意味するところを理解するのに、レンキは少しだけ時間を要した。だが、隣で閉口しているエンヴィスを見て、すぐに察する。彼が何かを隠しているということを。
「エンヴィス……アンタ……!」
 それでもまだどこかで嘘だと思いたい自分がいて、疑うような声をかけてしまう。信じられない。信じたくない。彼の思考がその思いで埋め尽くされた時だった。
 パリン!とどこかで、ガラスのようなものが割れる音がする。
「「!」」
 エンヴィスとレンキは即座に口を引き結び、互いの顔を見合わせた。
 まさか、また敵が現れたのだろうか。ボルンたちの敗北を知って、他のゾンビが襲ってきたのかも知れない。
「わぁああー……っ!!」
 警戒する二人の耳に、子供の悲鳴のような声が流れ込んできた。
 音はどんどん大きくなり、こちらに近付いてきている。だが、一体どこから聞こえてくるのだろう。
「……何?」
 ヒスイも訝しんで、発生源を探し首を巡らした。彼女の視線が上空を向いた直後。
 彼女の顔面に、黒く柔らかい物体が、どちゃっと落ちてきた。
「いぎゃぁあああっ!!!」
 耳を劈く絶叫。
 ヒスイは完全にパニックになって、闇雲に両手を振り回し、顔に張り付く何かを退けようとしていた。
「今だ!レンキさんっ!」
 チャンスだと、エンヴィスが叫ぶ。彼が投げた錫杖がヒスイの足を取り、彼女は体勢を大きく崩した。ぐらりと傾きかけた彼女の胴を目がけて、レンキは狙いを定め弓を引く。放たれた矢が、ヒスイの胸の中央を、見事射抜いた。流石は剛弓というべきか、矢は彼女の体を貫通し、矢尻が背中側に突き出ている。そんな状態では、ゾンビといえども耐えられない。ヒスイはよろめき、やがて声もなく、地面に倒れ込んだ。黒いドレスの裾が、風を受けてふわりとはためく。それきし、彼女は完全に沈黙した。
「イタタ……」
 草むらの中から、何かが這い出てくる。黒い、ぷるぷるとした粘液の塊。
「ボール・アイっ!!」
 エンヴィスが急いで雑草を掻き分け、彼に駆け寄った。ボール・アイは、多少土で汚れているものの、平気そうにしていた。落下によるダメージもなく、ヒスイを貫いた矢に巻き込まれた様子もない。
「アンタ……ぷるぷる!」
「あぁ、良かった~。二人ともいた!」
 彼に抱えられたスライムを見て、レンキが驚いたように目を見開く。二人を認めたボール・アイは、シパシパと目を瞬かせた後、嬉しそうな声を上げた。
「お前……どうしてここに?」
 エンヴィスが驚愕を滲ませた声音で、彼に尋ねる。ボール・アイは二人の顔を交互に見つめ、簡単に答えた。
「僕、皆を探してたんだよ。お屋敷の中を色々歩き回ってたら、窓の外にエンヴィスたちを見つけて。だからここへ来たの」
 窓ガラスを破ったのは、単にその方が早いと判断したからだ。幸い、彼の柔らかい肉体は、ガラス片にも傷付かず、壁など垂直の場所にも貼り付くことが出来た。だから安全に下まで辿り着けると思ったのだが、実際にやってみると恐怖があり、声を漏らしてしまった。しかも、着地したのはあろうことか、彼らを襲っていたゾンビの顔の上だったというわけだ。
「このゾンビ、大丈夫なの……?」
 あれほど怖がられるとは思っていなかった。何だか申し訳ないような、悲しいような気持ちになり、ヒスイを見つめる。彼女は胸に矢が刺さったままの状態で、地面に仰向けに倒れていた。
「……まぁ……大丈夫だろ」
 本当にもう動かないのかどうか窺いながら、エンヴィスが適当に応じた。その反応を見て、ボール・アイは理解する。
「じゃあやっぱり、エンヴィスたちも戦ってたんだ?ゾンビと」
「そうだが。も、ってことは……」
 彼の言葉に頷いてから、エンヴィスはボール・アイを見返した。その目つきから、言わんとするところを察知したボール・アイが、こくりと首を振る。
「うん。実は僕も、そうだったんだ。教会でシガーレットってゾンビに出会って、特別だって、見逃してもらった。でも……エンヴィスたちは許してもらえなかったんだね」
 思い出すのは、あのゾンビの、物憂げな顔つきのことだ。彼は本当にロザリオを慕っていた。きっと他のゾンビたちも同じなのだろう。彼らは恐らくシガーレットと違って、より利益のある選択のために、命令に逆らったりはしない。仮にロザリオが、不遇な悪魔ばかりを手下にしているのだとすれば、彼らからの忠誠心は非常に厚いものであるはずだ。自らを苦境から助け出してくれた者のためならば、どんなことだってやってのけるに違いない。それこそ、殺人だって厭わないほどに。
「エンヴィスも僕も襲われたってことは、きっとカーリたちも同じ目に遭ってるんだよ!早く、助けてあげなきゃ!」
 一番大切な友人である彼女の身を案じて、焦った口調で捲し立てる。
「あぁ……そうだな」
 ボール・アイの言葉に、エンヴィスも同感して頷いたが。
「……ちょっと。待ちなさいよ」
 背後からかけられた声に、即座に反応して振り返った。
「説明しなさい。どういうことなのか……」
 彼らの背後には、かつてないほど剣呑な表情をしたレンキが、腕を組みその場に直立していた。
「え?えっ?レンキ、何の話?」
 急に態度を変えた彼に驚き、ボール・アイは戸惑う。
「ぷるぷる。アンタも知ってるんでしょう?こいつらは何か隠してる。レディって子が攫われた時のこと……何があったの。真実だけ話して」
 レンキは彼にも目を向けて、尋ねてきた。だが、ボール・アイは何を問われているのか、よく理解出来ない。それがレンキにも分かったのだろう。彼は再びエンヴィスへと視線を戻し、鼻を鳴らした。
「エンヴィス」
 名前を呼ばれた彼は、苦虫をダース単位で噛み潰したような、酷い顔色をしていた。次第に彼の腕から力が抜けて、ボール・アイはぽろりと地面にこぼれ落ちてしまう。
「あわわっ」
「レンキさん……」
 慌てるボール・アイをよそに、エンヴィスはかろうじて、返事の代わりに彼の名を口にした。その声音は苦渋に満ちており、一言発するのも難儀そうだ。
「エンヴィス、黙ってちゃ何も分からない。全て話して」
 だが、レンキも容赦するつもりはないようだった。今にも爆発しそうな怒りを必死で抑え込み、意識的に抑圧した声で、淡々と問いかける。
「ぐ……っ」
 エンヴィスの口から、とうとう苦悶の呻きが漏れた。よほど葛藤していたのか、眉間には深く皺が刻まれ、顎に力を入れ歯を食いしばっているのがよく分かる。
「エンヴィス……!」
 何だか知らないが、随分深刻な問題が起きているようだ。直感したボール・アイは、しばし迷ってから、エンヴィスを見上げた。彼は渋面を浮かべたまま、どう対応すべきか迷い続けている。
 彼とても、このままレンキが引き下がるとは思っていない。きっと何が何でも、全てを知るまで追求してくるだろう。下手な誤魔化しだって、通じないはずだ。むしろ余計に苦しむ羽目になる。ならば、何もかも話してしまった方がいいのか。それが最善の策なのか。
(……仕方ないか……)
 ボール・アイにまで悲哀と嘆願の混じったつぶらな瞳を向けられ、エンヴィスはようやく、重い口を開くことにした。
「あいつは……ただ運が悪かったわけじゃない。初めから、ドゥーマの目的はレディだったんだ」
 打ち明けるのはもちろん、あの日の誘拐事件の、真実。脱界者ドゥーマが何らかの組織に対して、彼女の身柄の代わりに逃亡を手助けするよう取引を持ちかけていたこと。そのために、彼女を誘拐し、地下室に監禁していたという事実である。要するに彼女には、組織にとって先のない脱界者一人を救う手間を惜しまないだけの、価値があるということだ。
 ぽつぽつと、時に言い淀み、時には早口で捲し立てながら、彼は順を追って、しかし最低限の単語数で告白した。
「まさか……そんな……!」
 それはレンキが想像していたよりも衝撃的で、憤りを抱かせるものだった。全てを聞いた彼は、顔を青褪めさせて、視線を左右に彷徨わせる。耳にした言葉に驚愕し、恐れ慄いているのかとボール・アイは思ったが、違った。
「ふざけないでよ……!」
 段々と、彼の頬に赤みが差してきて、かすかに震えた低い声を絞り出す。そこにはどう考えても、色濃い怒りが滲んでいた。
「アンタ、そんなこと報告書のどこにも書いてなかったじゃない!私に、魔界府に、虚偽の報告をしたってこと!?」
 我慢の限界が来たのか、レンキは両手を広げて、ヒステリックに叫ぶ。
「別に、嘘をついたわけでは」
「同じことでしょ!黙っているということは、それをなかったことにするってことなんだから!」
 言い訳がましく反論するエンヴィスに、彼はびしりと指を突きつけた。それから、髪の毛をかき回し、甲高く嘆く。
「アンタたち本当に……自分が何したか分かってるの!?」
「レディのためです!あいつはただの被害者だ。余計な噂だけ流して、周囲に誤解を与えるわけにはいきません」
「アンタまであの腹黒みたいなこと言わないでよ!!」
 思い切り非難の口調を向けられて、エンヴィスが抗議の声を上げた。しかし、レンキは尚も彼を制して、喚き続ける。
「誤解も何も、当然のことでしょう!得体の知れない、怪しげな組織に価値を見出されたって、それがどれだけのことか!アンタが分からないはずはない!」
 こればかりは、レンキの言う通りであった。
 魔界府職員が、何らかの非合法的組織に、何らかの理由をもって狙われた。しかも、警察部門の職員が、だ。社会の平穏を守るため働いている者が、実は裏で怪しげな悪魔たちと関わり合うなど、許されるはずがない。場合によっては、懲戒解雇もあり得た。仮にそれを免れたとしても、同僚たちから邪険に扱われることは明らか。だからトワイライトやエンヴィスは、真実を隠蔽し、レディを守ろうとしていた。気持ちは分からないでもないが、しかし、容認することは出来ない。裏で犯罪に手を染めているかも知れぬ者を、そうと知りながら置いておくなど、絶対に不可能だ。してはならないことだ。
「事実を隠して、何事もなかったように振る舞おうとしてただなんて……信じられない!アンタたちはまた、あの時の過ちを繰り返すつもりなの!?」
 特にレンキは、警察部門職員たる者としての行動に、一家言ある悪魔だった。彼の過去が、そうさせているのだ。
「や、やめてよ二人とも……どうしちゃったの?」
 これまでで最大の亀裂が、両者の間に走るのを見て、ボール・アイは当惑した。睨み合う彼らをどうにか宥めようと、二人の足を柔らかい触手で撫でてみるのだが、残念なことに効果は薄い。
「アンタは黙ってなさい!」
 むしろ、レンキにぴしゃりと怒鳴りつけられてしまった。ボール・アイは悲しみ、しょんぼりと項垂れる。
「もう耐えられない……!ぷるぷる、今すぐここから逃げましょう。私と一緒に」
 流石に良心が痛んだのか、レンキは呻きつつ乱暴に彼を抱え上げ、庭園から去ろうとした。連れて行かれそうになったボール・アイは、慌てて彼の腕を掴む。
「で、でも」
「エンヴィスなんか捨て置けばいい。あのトワイライトの部下なんて、ろくなもんじゃないからね」
 最後まで言い切らぬ内に、レンキがそれを遮った。彼は鼻を鳴らして、エンヴィスたちを小馬鹿にする。
「ど、どうしてそんなこと言うの?優しいよ、エンヴィスもトワイライトも」
「アンタはあいつらの本性を知らないだけだよ!」
 大切な友人たちの悪口を言われて、ボール・アイの心がずきりと傷んだ。悲愴を含む声で言い返すが、レンキは受け付けようとしない。悲鳴のような叫びで、彼の言葉を断ち切ってしまう。あまりの剣幕に、ボール・アイは気圧され、一瞬口を引き結んだ。
「レンキ……やめてよ。どうしてキミは、トワイライトたちのこと、そんなに嫌うの?」
 だが、しばらくして冷静さが戻ってくるにつれ、今度は次第に疑問が膨らんでいく
 彼はずっとトワイライトを、彼を慕うエンヴィスを敵視していた。口ぶりから察するに、かつてトワイライトによって酷い目に遭わされた経験があるようだったが、ボール・アイには分からない。あの紳士的で親切なトワイライトが、仲間を傷付けるようなことをするだろうか。そこまで強く、凶悪な憎しみを向けられる理由が、あるのだろうか。
「そっか……アンタには、話していなかったね」
 ボール・アイの気持ちを汲み取ったレンキは、疲れ果てたような顔で笑い、乾いた声を漏らした。そして、打って変わった低い低い、地の底から這ってくるような声音を出す。
「あの男……トワイライトはね。私の部下を殺して、一人で手柄を奪ったんだよ」
 そう言って語り始める彼の瞳は、闇深い、この世の全ての憎悪と嫌悪が詰まったような、濁った色に染まっていた。

  *  *  *

 レンキがトワイライトと出会ったのは、捜査一課がまだ二分される前のこと。小さな六つのチームがそれぞれ競い合い、協力しながら、共に脱界者逮捕に尽力していた。特に活躍を見せていたのが、タキトゥス班とトワイライト班の二つ。前者のリーダータキトゥスは、飛び抜けて優秀で、いずれユリウスの後任として課長の地位を引き継ぐだろうと囁かれていた。後者トワイライトは、軍政部門から転属してきた変わり種で、一課の中では珍種も珍種。だからなのかは分からないが、同じ班にいるのも、風変わりとされる人物ばかりだった。余談だが、エンヴィスもその一人に含まれている。
 彼らのチームの情報分析担当官は、ホウガという悪魔が担当していた。ユリウス班の担当官レンキが手塩にかけて育てた、将来有望な若手職員である。
 ある時、その二つの班は協力して、脱界提供組織を取り締まることとなった。突入をするのはタキトゥスのチーム。トワイライトたちは周辺地域を取り囲み、万が一の際の逃亡を阻止する役目を受けた。
 ところがどういうわけか、組織の悪魔たちは彼らの捜査計画を知悉していた。何者かに密告を受け、秘密の通用口から逃亡しようとしていた彼らを、トワイライト班が発見したのだ。現場は激しい銃撃戦となり、当日は中央庁舎での待機を命じられていたはずの、ホウガが犠牲となった。
 結論から言えば、彼の正体は”情報屋”であった。金のために、警察部門の捜査情報を犯罪組織に売っていた。トワイライトは直前でそれに気付き、ホウガを詰問したらしい。家族の治療費が必要だったホウガは、捜査中の混乱に乗じて、彼を口封じしようと考えた。トワイライトは抵抗し、結果相手の命を奪ってしまった。
 真実を知ったレンキは、悲嘆に暮れ、後悔に泣いた。後輩が金に困っていたことは、再三聞き及んでいたからだ。もしも、彼の話をもっと真剣に受け止めていたら、こんなことにはならなかったかも知れない。強い忸怩の念がレンキを苛んだ。
 だが、それよりもっとレンキの心を蝕んだのは、トワイライトたちの行動だった。彼は、重傷を負ったホウガを治療しようとせず、安全な場所に連れて行こうともしなかった。ホウガをその場に放置して、脱界者たちを追い、先へ進んだのである。何故、すぐに彼を助けなかったのか。レンキは一つの可能性を考えた。
 要は、邪魔だったに違いない。ホウガは金策に困り悪事に走りながらも、警察部門職員としての矜持を捨て切ってもいなかった。彼は捜査対象たちに虚偽の情報を売ることで、最終的には逮捕されるよう仕向けていたのだ。ホウガが全てを打ち明ければ、トワイライトたちの手柄は減る。当時、自分をリーダーとした新部署の解説を望んでいた彼にとって、それは避けたい結果だった。だから彼は、瀕死のホウガを見捨てたのではないか。自分がされそうになった、口封じを相手に施した。
 邪推だとは分かっている。いくら何でも、そこまでのことをするはずがないと。しかし、トワイライトはホウガの行いを知りながら、あえて見逃してきたようなのだ。そして最も危険な時期に、彼を問い詰め、精神的に追い込んだ。
 自らのために、他者を利用したトワイライトを、レンキはどうしても許すことが出来ない。もしも彼が、もっと早くホウガを止めていたら、彼は死ななかった。きっと今も、生きていたに違いないのだから。

  *  *  *

「違う!」
 感情を抑えたような声音で、淡々と語るレンキの言葉を、エンヴィスが遮った。
「俺もトワイライトさんも、あいつを見捨てる気はなかった。助けようとしたんだ!だがホウガは……断った。あくまで白を切り通した」
 エンヴィスはその時、トワイライトと共にいたのだ。ホウガが撃たれた時も、すぐに駆け寄り助けようとした。しかし、本人はそれを望まなかった。自分より、脱界提供組織を捕えることが先だと、彼らだけは逃してはならないと、掴みかかる勢いで訴えてきた。無論、初めは誰も彼に賛成しなかった。けれども、そのあまりの必死さに、段々と気圧され、最後には頷いてしまったのだ。でなければ、彼は重傷を負った体で一人ででも、捜査しようとしただろう。また彼の言い分に、納得の出来る要素が十分に含まれていたことも事実だった。
「全部片付けて戻った時には……もう、手遅れだったよ……」
 今でもその光景が、エンヴィスの網膜に強く焼き付いている。これから先も一生、忘れることはないだろう。結局のところ彼らは、容疑者たちを全員逮捕出来たものの、大切な仲間を一人失うことになってしまったのだから。
「そんな言い訳、信じられる!?後からどうにだって捻じ曲げられるはずだよ!」
 苦々しい声で語るエンヴィスに、レンキは物凄い剣幕で怒鳴る。彼も主張も尤もだった。ホウガの命が散った時点で、真実を証明する術が失われたことに変わりはない。
「大体、アンタの上司は、彼の正体を知っていたんでしょう!?知っていて、自分の利益のために見逃していた!それだけでも十分な証拠じゃない!」
「それは……!」
 レンキは続けて、的を射た反撃を繰り出してきた。エンヴィスは何も言えなくなり、沈黙してしまう。それによりレンキを、余計に増長させることとなった。
「ほらね!アンタだって、分からないんでしょう!アンタはただ認めたくないだけなんだよ!あいつの……あの男の本性を、知っていて見て見ぬふりしているだけ!!」
「馬鹿にするな!」
 尊敬する上司を貶められ、剰え彼を慕う自分ですら標的にされて、エンヴィスの忍耐力も限界に達した。
「俺だって、トワイライトさんの全てを理解してるとは思ってない。だが、これだけは確実だ!あの人は……少なくともホウガのことを助けようとしていた。だが、誰かが、邪魔をしたんだよ」
 レンキが見ている事実には、歪みがある。大切な部下を亡くした悲しみと、トワイライトへの憎悪によって作り出された、盛大な歪みが。それは仕方のないことだ。しかしこれ以上、容認しておくわけにもいかなかった。これ以上、トワイライトが謂れのない非難を受けるのは、我慢ならなかったのだ。
「……何それ。責任転嫁?自分たちも被害者の一人だとか言うつもりなの?」
 だが、レンキの偏向は根強く、そう容易く修正出来そうになかった。彼は冷淡な目つきと、酷く無関心な口調で、エンヴィスをあしらう。まるでいかにも、嘲りと呆れとが詰まっているような、冷たい表情だった。現行犯で逮捕された囚人が、下手くそな弁明を紡ぐのを、黙って見ているかのような。
「そうじゃない!けど……責任を感じているのは確かだ」
 エンヴィスは口調を荒げかけ、途中で思い留まると、自分で自分を落ち着かせるべく、深く息を吐く。そして、しばし言葉に悩むような間を見せた。
「どうして」
 彼を急かすように、レンキがぴしゃりと追及をぶつける。
「黙ってろって言われてたが……もう我慢ならねぇ」
 エンヴィスは独り言ちるようにぼそりと呟いてから、俯き加減だった顔を上げ、レンキと目を合わせる。
「レンキさん、あんた今まで、トワイライトさんに散々好き放題言ってきたよな?でもあの人は、絶対に一度も反論しなかった。過去のことをあんたに咎められても、言い訳一つ口にしなかった。そうだろ?何故か分かるか?」
 瞳を真っ直ぐ覗き込まれ、レンキはまるで自分の心の奥底までを見透かされた気がして、怯む。
「……そんなの、分かりたくもないね」
「ふざけるなっ!」
 臆したのを気取られまいと、必死に強がる彼を、エンヴィスが弾けるような勢いで罵倒した。
「あんたいつまでそうやって、いもしない悪役を仕立て上げとくつもりだよ!?」
 エンヴィスにはもう、分かっているのだった。レンキは本当は、既に何もかもを理解しているのだということを。だが、心がそれを受け入れられないでいるために、あえてトワイライトたちを憎んでいる。
「気持ちは分かるが、いい加減に認めてくれよ。あれは不幸な事故だったんだ。誰もあいつを殺そうだとか、処分しようだとか企んじゃいない!そりゃ、俺たちは責められても何も言えない立場だが……でももう、トワイライトさんを解放してやってくれよ」
 非がないといえば嘘になろう。犯罪者と警察部門、両方から利益を得ようとしたホウガにも、彼の孕む危険性を知りながら手をこまねいていたトワイライトにも。そしてそんな彼らの関係を、黙って見ていたエンヴィスにも。
 ホウガはどうだか知らないが、少なくとも後者二人はそのことを自覚している。だからこそ、レンキの誹りをトワイライトは受け入れたのだ。
「何なのアンタ……どうしてそんなことを……!」
 彼の真摯な言葉を真っ向から浴びせられたレンキは、顔面を蒼白にさせ、混乱に呻いていた。
「あなたは目を逸らしているだけです。でなければ、己の内に湧き上がる恨みや怒りを、どうしていいか分からないから……」
 取り乱す彼に追い打ちをかけるように、エンヴィスが静かな調子で語りかける。
「うるさいっ!」
 しかし、レンキは受け入れられないようで、声を荒げて絶叫を轟かせた。
「大体、だったら何なの?ホウガに免じて、見逃せって言うの?トワイライトのことも、アンタのことも!」
 開き直ったように冷徹な問いを繰り返し、苛烈な視線でエンヴィスたちを睨む。
「そんなこと出来るわけないでしょう!私は警察部門の職員。虚偽の報告があったことを、黙っているなんてこと出来ない!それに何より……私の過去のことと、今回のことには一切関係がない!違う!?」
 正論だった。たとえ彼のトワイライトへの憎しみが不当なものであったとして、彼がそれを認め罪悪感を抱いたとしても、だからといって現在発生している問題を見逃してやる理由にはならない。彼らが嘘をついていたのは確かな事実であり、それを黙認することはレンキの職業倫理に反している。そもそも、その二つを繋げること自体が、論点を悪戯にずらすだけの行為であった。
「そもそも、アンタたちに文句なんか言われる筋合いないよ!アンタたちだって、本当はただ現実を見るのが嫌なだけだったんでしょう!?守るためだなんて嘘!あの子の本性を知りたくないから、もしくは、あんな危険な子を招き入れた自分たちの愚かさを直視したくないから、目を逸らしていただけ!」
「違うっ!」
「違わないねっ!!」
 囂々と捲し立てるレンキに、エンヴィスは懸命に言い返そうとする。だが、彼の剣幕に押され、すぐに口を閉ざしてしまった。それはある種、図星でもあったからだ。レンキの言う通りとまではいかないが、目を背けていたのは本当である。
 エンヴィスたちは、レディを守りたかった。彼女を放り出してしまいたくないがために、彼女が潜在的に持つ危険性を無視していたのだ。彼女により引き起こされた問題が迫ってきても、原因は別にあると言い聞かせてきた。
「私はアンタたちを許さない。徹底的に追及させてもらうから」
 黙り込み、敗北とも取れる姿を晒すエンヴィスに、レンキはごく事務的に、淡々と告げた。どうやらもう完全に、心を閉ざしてしまったらしい。硬く腕を組んだ姿勢からも、その内心は透けて見えた。
「レンキさん……!」
「レンキ……!」
 エンヴィスが食い下がるように、ボール・アイが追い縋るように、彼の名前をそれぞれ呼ぶ。けれどもレンキは一顧だにせず、そのまま二人に背を向けると、一人で館の中へ戻って行こうとした。
「レンキさん、話を聞いてくれ!」
「そうだよ、待ってレンキ!」
 彼を追って、エンヴィスとボール・アイも、再び屋敷内へと足を踏み入れる。早足に歩いて行く彼らと、外の庭とを繋ぐ空間を、重たい木製のドアが軋みと共に断ち切った。

  *  *  *

「……どうやら、今宵の客は我々だけではなかったようだ」
 トワイライトの独り言が、広々とした食堂の中に響く。ロザリオはテーブルに頬杖をついたまま、つまらなさげに黙り込んでいた。
「どなたです?盗み聞きとは、中々に高尚なご趣味をお持ちですなぁ」
 主が答えないのをいいことに、トワイライトはわざとらしく大きな声で、聞こえよがしに嘯く。
 ロザリオの背後にある窓の外を、太い稲妻が駆け抜け、眩い光が室内を照らした。一瞬辺りの様子が見えなくなったタイミングで、誰かが身動ぎする。トワイライトは鋭い聴覚と第六感的察知能力によって、機敏にそれを捉えた。彼の視線が自らに向いたことを確認して、闖入者はほくそ笑む。
「いやはや、流石ですね!感服致しましたよ、トワイライト”先輩”」
 窓の両脇にまとめられた、ワイン色をした分厚いドレープカーテンの奥から、男が歩み出てきた。口元に蓄えられた立派なカイゼル髭と、小脇に挟んだ長杖ロッド。かつて遠目に見た、軍政部門対天使対策部都市防衛課長、リングォーラがそこにいた。
「今日は隠密系の魔法の調子がいい日なんですがねぇ……まさか、看破されてしまうとは」
 男はどこか嬉しそうに語りながら、白手袋に包まれた手で、仰々しい拍手を紡ぐ。金に輝く杖の先端に設られた、大きな紫水晶の球が妖しげに光るのを見ながら、トワイライトは驚嘆の滲む声を発した。
「まさか、はこちらの台詞ですよ。よもやこのような場所で出会うとは。軍政部門都市防衛課長、リングォーラ殿」
「初めまして。ナイス・トゥー・ミー・チュー、ですな。くふふふふ……」
 リングォーラは平然と、肩を揺らして楽しそうに笑っていた。それからおもむろに白手袋を外し、奇怪な形状の手を露わにしてみせる。掌部分と爪のある位置には黒い穴が開き、異様に細く長い指には、関節が四つもあった。握手をすると、巨大な虫に這い回られているような感触を覚える。
(なるほど……苦肉の策にしては、随分といい手を打つ)
「すまないなぁ。少々スケジュールの調整を誤っていたようだ……だが、結果的には幸運だったろう?お前はこの男に、話があるようだったからな」
 心の中で呟くトワイライトの耳に、ロザリオの下手くそな弁解が流れ込んでくる。明らかに、ニヤついていることが分かる声音だ。どうやら彼は、トワイライトのもう一つの目的を見抜いていたらしい。そして話している間に、通信魔法を飛ばし、この男を呼んだのだろう。
「おっと。そうなのですかな?」
 リングォーラまでもが瞳を悪戯っぽく輝かせながら、こちらを覗き込んでくる。口元を飾る髭が、得意そうにピクピクと動いていた。
「紹介しよう!リングォーラ、こちらはトワイライト。警察部門の室長だ。トワイライト、こいつはリングォーラ。軍政部門の有力者で、占星術師」
 勢いよく立ち上がったロザリオが、長いコートの裾をはためかせ、二人の間を取り持つ。随分と略式の、簡単な紹介を受けて、トワイライトとリングォーラは互いに目礼した。
「お会い出来て光栄ですよ。”先輩”」
 リングォーラの巨大な角が、蝋燭の灯りに照らされて艶めく。香り付きのクリームかワックスを塗っているのか、トワイライトの鼻腔にかすかな甘い匂いが広がった。
「……まずは一つお願いしたい。私のことを”先輩”と呼ぶのはやめていただけないだろうか」
「おや、お気に召しませんか?私(わたくし)としては、あなた以上に尊敬の出来る軍人など、いないと思っているのですがねぇ」
 出来るだけ感情を悟られぬよう、ごく抑えた口調で申し立てる。すると、リングォーラは悲しそうに眉を下げ、嘆かわしげにぼやいた。
「あなたはかの戦線において数々の栄光を打ち立てた、英雄じゃありませんか!まさに、生きる伝説!私の部下で、あなたの名を知らぬ者はいませんよ」
「戦争での武勲が褒め称えられる世界など、私は好みませんので」
 杖を振り回し、扇動政治家のように演説を始める彼に、トワイライトはぴしゃりと言い放つ。命を奪った数が重んじられる猟奇的な価値観など、受け入れたくはなかった。
「それは残念だ。ザッツ・ア・ピティ……」
 リングォーラは何故か憐れむような顔をして、トワイライトを見つめ返す。まるで、自らの考え方こそが適切で、それを理解しない人物を愚か者だとでも思っているかのようだ。
 いや、実際にそうなのだろう。トワイライトは彼の持つ杖の、金と紫の輝きに目を留める。
 星々の位置と巡りによって、使える魔法の種類と効果が左右される占星術は、占術系魔法の中でも取り分けて扱いが難しい。星の周期はそれぞれ異なるために、組み合わせはほぼ無限大。そこから引き出される魔法の力も、多様かつ複雑だ。何百年に一度しか、同じ結果が現れないこともザラである。おまけに、洞窟の中に存在する魔界からは、直接星座を視認することは叶わない。人間界で観測される星の配置を、魔界府気象管理部門が再現し、洞窟の天板に魔導的映像として映し出して初めて、悪魔たちも夜空を楽しめる。あるいは、自ら天文学を学習し、日々宇宙について研究を重ねなければならない。そうしてやっと、いつどのような魔法を行使出来るのか、把握が可能になるというわけだ。
 リングォーラはそのような煩雑かつ難解な占星術学会において、”貴公子”と称されるほどの見識と手腕を有していた。彼は長年の研究により博士号を取得し、すぐにでも魔導大学で働ける資格を入手している。
 にも関わらず、いや、だからこそだろうか。彼は学術的な探究心よりも、戦いにおける勝利に固執しており、故に軍人という生き方を選択した。彼は今もトワイライトに対する憧れと、彼を超えたいという野望に燃えている。
「では、畏敬の念を込めて、トワイライト室長と呼ばせていただきましょう。私のことは、リングォーラと。いや、もっと気軽に、リンゴちゃんでも構いませんよ?」
「遠慮させていただきます。リングォーラ課長」
 砕けた調子で冗談を飛ばしてくる彼に、冷然とした拒絶を投げる。実を言うと、トワイライトの脳内警戒レベルは、ほとんど最大値近くまで上昇しているのだった。
 戦いにおける勝利に囚われた、野心的で好戦的な男。平穏を好むトワイライトにとって、彼以上に対極に位置する悪魔はいないだろう。だからずっと、警戒心を抱いてきた。彼の影が見え始めた辺りから、慎重に、しかし迅速に、対抗策を模索してきたのだ。だが。
 残念なことに、それは相手も同じだったようだ。彼もまた、好敵手と認めたトワイライトの打倒を求めて、密かに動き続けていた。そして遂に、水面下で企まれていた計画が露出し、トワイライトはその内部に取り込まれてしまったのである。
「お二人はどういったお知り合いで?」
 苦々しい思いを堪えながら、表向きは落ち着いた様子を保って、ロザリオに問いかける。その間も、彼の視線はリングォーラを捉えたまま、離れなかった。
「ふんっ、どうせ聞きたがるだろうと思っていたさ……奴とはある”ビジネス”を通じて繋がっている。とはいえ、あまり詳しくは話せないがな」
 ロザリオはそんな彼を顧みず、自身の爪の先を見ながら、つっけんどんに語った。思わせぶりな口調に、自然と注意が惹きつけられる。情報屋としての取引ならまだしも、裏社会の商売に対する出資や投資、という意味合いで使われているのであれば、それは違法行為の自供となるからだ。
「……ほう?」
 意味深な発言の真意は何なのか。トワイライトは無意識の内に、探るような目を向けていた。
「おやおや、トワイライト室長。どうやらあなたはまだ刑事部にいた頃の癖が抜けていないようだ……これは尋問ではありませんよ?」
 ところがそこへ、渦中の人物リングォーラが口を挟んだ。牽制するような物言いに、トワイライトは一層警戒心を強める。
「ロザリオ伯爵によれば、あなたの方こそ、私に話したいことがあるのだとか」
 リングォーラは杖をテーブルに置き、椅子を引いてゆったりとした動作で腰かける。長い指が、コツコツと肘かけを叩いていた。
「……お聞かせ願えますかな?」
 そのまま挑戦的な目で、トワイライトを見上げてくる。彼の行為の意図は、非常に分かりやすかった。しかし、流石に知略に富んだ悪魔二人に迫られれば、トワイライトも太刀打ち出来ない。彼らはそれを見越していたからこそ、このような形での襲撃を目論んだに違いない。つまり、主導権は完全に奪われてしまったということだ。
「ふむ……では、単刀直入にお伺いしましょう」
 これからどうやって挽回すべきか。トワイライトは熟考する。けれど思考の回転を気取られぬよう、平然と話し出した。リングォーラが片手を差し出して、悠長な態度を見せる。どんな攻撃が来ても、即座にそつなく切り返す用意があるというアピールだろう。
 ならば、ここはむしろストレートに。直球をぶつけてみれば面白いかも知れない。
「タキトゥス課長を洗脳しましたか?」
何だってホワット?いきなり何の話です?」
 思い切って質問をぶつけると、リングォーラの眉が意外そうに持ち上がった。だが、口調の上では完全にとぼけたふりで、怪訝そうにしている。
「あなた方は、天使の粛清を望んでいたのではありませんか?だから、タキトゥス課長を操り、強引に捜査を進めさせた。追い詰められた脱界提供組織に、天使の加護印を取り出させるために。そして、それによって天使を、この魔界へと誘き寄せた」
 恐らく彼らは、加護印が投下された時から、粛清が起こることを悟っていたはずだ。しかし、阻止する気はなく、放置していた。だが、肝心の天使が現れる前に、位置情報を発信するツールである加護印が、何者かによって回収されてしまった。その人物を突き止めた彼らだったが、天使と戦う立場にある自分たちが、大っぴらに動くことは許されない。だからリングォーラたちは、タキトゥスを使い、天使を呼び寄せた。そう考えれば、全ての辻褄が合うのである。
「目的は、そうですな……例えば、天使を生きたまま捕獲し、実験に用いるため」
 これはトワイライトが、リングォーラを警戒するもう一つの理由でもある。彼にまつわる恐ろしい噂。天使を生きたまま解剖し、あるいは実験の道具に使用しているという疑惑。たとえ単なる噂には過ぎなくとも、火のないところに煙は立たないとも言うのだ。
「違いますか?」
 畳みかけながら、鋭い視線で相手の反応を観察する。
「随分壮大な作り話ですねぇ……」
 リングォーラは案の定、白を切るつもりのようだった。妄想に取り憑かれた男に向けるような、哀れみの混じる苦笑を見せている。
「それが真実だという証拠はおありですかな?」
 かと思えば、傲慢な自信の滲む挑戦的な目つきで、トワイライトを見上げてきた。
「いいえ全く」
 トワイライトは即座に、正直に頭を振って否定を示す。
「ですが実際にタキトゥス課長には、精神支配を受けた形跡がありました。より精密な検査を行えば、術者の特定くらいは出来るでしょう」
 魔法による精神支配であれば、わざわざ病院になど行かずとも、鑑識部がすぐに調べてくれる。リングォーラたちの所業を、証明することは容易い。
「仮に私の部下の仕業だと分かっても、私自身の関与は調べられないはずです。部下が勝手にやったことだと言い逃れられる」
 だが、リングォーラも負けてはいなかった。彼の言い分は至極尤もで、聞いているトワイライトですら頷きたくなるようなものだ。
「でしょうな。私も、あなたを告発することに意義を見出しているわけではないのですよ」
「では目的は?」
 リングォーラは、相手の心情を計りかねて、怪訝そうに眉を寄せた。彼はてっきりトワイライトの目的を、自分の排除だと思い込んでいたのだ。だが、流れはそちらへ向かわなかった。一体彼の目指すところはどこなのか、紳士ぶった笑顔の裏で、必死に思索を巡らせる。
「それこそ、私がお尋ねしたいことです」
 計画通りに、相手に困惑を与えられたことを確かめたトワイライトは、たっぷり間を空けてから続けた。
「あなた方の目的は、何です?天使を捕まえて、一体何に使うつもりなのか……そして、一連の騒動に、私を巻き込んだ理由。それらをお聞かせ願いたい」
 次々投げかけた疑問の中で、最も大きなのは、三番目だ。何故彼らが、タキトゥスを選んだのか。その理由は恐らく、トワイライトを渦中に引きずり込むためだろう。だが、それによって彼らが何の利益を得るのか。単に敵視する相手の、実力を確かめたいだけなのか。そもそも何故、敵と定めるのか。
 彼だけではない。他にも多くの悪魔たちが、自らを邪魔な存在と見なし、襲ってくる。トワイライトには訳が分からなかった。どうして、ただ平穏に暮らしたいだけの自分が、巻き込まれなくてはならないのか。
「……意味が分からないな」
 トワイライトの問いを受け、リングォーラは呆れ返った様子で、肩を竦めた。異形の長い指先が、テーブルに置いたロッドを弄んでいる。腰の辺りまで湾曲しながら伸びた角が、白いテーブルクロスを引っかけていた。
「あなたの話は推測に過ぎない。どれ一つとっても、仮定の域を出ていません。私には、全てを否定し、この場を去ることも可能なのですよ?」
 上等な革靴を履いた足を組み替えながら、リングォーラは億劫そうに呻く。その動作を最後まで見届けてから、トワイライトは口を開いた。
「えぇ。ですが、その方があなたにとっても都合がいいはずだ」
 本人は隠そうとしたようだが、彼は見逃さなかった。リングォーラの亜麻色の瞳が、何かに気付いたように光るのを。
「それとも、全てを明確な事実にして差し上げましょうか?」
 トワイライトはすかさず、一歩踏み出し挑発的に尋ねかける。あくまでも、その気になれば実行出来るという前提を崩さない聞き方を貫いた。
「……どうやって?」
 怯えを誤魔化すためか、リングォーラの返答が、今までより一層慎重を期したものになる。
「先日、我々はとある遺伝子研究施設を検挙致しました。彼らはモンスターたちを用い、残虐かつ非道な実験を繰り返していた……禁忌とされる、キメラ創造の方法を確立しようとしていたのです」
 彼とは対照的に、トワイライトはやおら活気付いて、滑らかに語り始めた。いきなり話が転換したことに、リングォーラは戸惑っている。だが、それもすぐに終わることだおる。
「あなた方も、大きく括れば同類だ。他種族を利用した違法行為……魔界には幾多の悪魔がいるとはいえ、そんなことに手を染める人物は限られているはずです。両者の間に、共通点があってもおかしくはない。例えば、首謀者や出資者が、同一人物である可能性ですな」
 リングォーラの実験は、彼一人の力で進められるようなものではない。インペラトルや、裏の社会の悪魔からの協力を得なければ難しいはずだ。そして、そのような人物であれば、自らの権力を駆使し、他にも複数の試みに手を貸していても不自然ではない。どちらか片方でも調べることが出来れば、後は芋蔓式に発覚するだろう。
 トワイライトの意図を理解したのか、リングォーラとロザリオが、同時に戦慄するのが分かった。何しろ後者は、脱界者への資金提供も行なっていた男だ。剰え彼は、リングォーラともビジネスで繋がっていると明言したばかりである。
「本格的に捜査を進めれば、いずれ分かることでしょう……ですが、それには時間も金もかかります。私としては、もっと手っ取り早く利益を得る方法があるのなら、そちらを選びたいのですがねぇ」
 ペストのような首謀者、インペラトルである悪魔まで辿り着くのは困難でも、ロザリオのような人物であれば比較的簡単に調べられる。彼の関わった全ての悪事を、白日のもとに晒すことは、決して難しくはない。二人ともそれを察しているから、これほどまでに動揺しているのだ。
「さぁ……質問に答えていただきましょうか。もちろん、本当に関わりがないのなら、この場で退出していただいて結構ですよ?」
 これは、取引だ。相手には、了承を示すことしか許されていない、悪質な取引。
 もしも彼らが本当に無実なのであれば、まだ選択肢はある。ここで何も答えず、帰るという道が。無論そうすれば捜査は始まるだろうが、関係がないのだから影響もないだろう。しかし、実際にはそうでない。彼らは結局、差し出された提案に、乗るしかないのだった。
「ふぅ……なるほど?お話は分かりました……いいでしょう。お答えします」
 負けを認めたのか、リングォーラが溜め息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
「ほーう?いいんですかな?」
 その行為の意味を、分からぬ彼ではないはずだ。トワイライトはそれを理解していて、わざと揶揄うような嫌な笑みを向ける。
「しかし、一つ目の質問には答えられません。私には権限がないんですよ」
 意地の悪い問いかけでも、リングォーラは全く意に介した様子を見せず、はっきりと断言した。結果としては何も語っていないものの、しかし彼の言葉は重要な事実を示している。つまり、天使を使用した実験は本当のことであり、しかもそれは、彼の独断で行われているものではない。軍政部門からの指示で進められている事業なのだ。でなければ、権限などという特殊な単語を用いるはずがない。
「ついでに答えておくと、モンスター実験施設とやらのことも、全く知りません」
「関与はないと?」
その通りザッツ・ライト
 もはや観念したのか、それとも他に狙いがあるのか。リングォーラは淀みなく、淡々と話していく。
「調べるのなら、ご自由にどうぞ?私には関わりがありませんから。たとえ上の者が繋がっているにしろ、私は判断出来ません」
 どこか投げやりな口調だが、それこそが彼の言説に嘘偽りがないことを証明していた。トワイライトのいう施設と、自分たちの試みに関係があるのかどうか、彼は本当に知らないらしい。しかし、随分と他人事な言い方にトワイライトは疑問を抱いた。
「こっちのロザリオさんはともかくね」
「おい……」
 話を振られたロザリオが、迷惑そうな顔をして眉を顰めている。
 ともかく、とはどういう意味だろう。ロザリオならば、彼とペストたちとを繋ぐ糸が見えているのだろうか。それとも、両方と繋がっているということか。
「三つ目の質問は簡単ですよ。トワイライト室長、あなただってお分かりのはずだ。私が何故、あなたを巻き込んだのか」
 トワイライトに思考の暇を奪うように、リングォーラはニコニコと笑いながら続ける。明らかに仮面であると分かる、軽薄かつ不自然な表情だ。トワイライトは自らのことを棚に上げて、不気味に思いたくなった。
「ですがもう、手を引くことにしましょう。その代わり、これ以上我々の行いについて詮索しないでいただきたい」
 リングォーラは立ち上がり、驚くことに、手を差し伸べてきた。どうやら、握手を求める気のようだ。挨拶や礼儀としてではなく、和解のためのそれとして。
「もしも追求すれば、私だけでなく、軍政部門全体を敵に回すことになる。あなたもかつていたのですから、事情はご存知ですよね?」
 尋ねられるまでもなく、理解していた。機密情報、特に軍政部門が管理する重要情報は、魔界の悪魔たちの中でもごく少数の人物にしか知らされない。それほどまでに危険で、重大で、論争を呼び起こすものだから。だからこそ、意図しない者が情報を得ることを、軍政部門は非常に警戒している。リングォーラはそのことを逆手に取った。つまり、あえて機密情報を渡すことで、彼に危険を植え付けたのである。彼が事実を知ったと、軍政部門が把握すれば。ただちに捜査が進められ、彼は命が尽きるまで、確実に追い回されることとなろう。死にたくなければ、要求を飲むしかない。
 無論、この計画では情報を漏らしたリングォーラ本人にも、莫大な被害が及ぶことになる。だが裏を返せば、彼とトワイライトとは同じ弱点を共有する、いわば仲間。一蓮托生の関係を築く必要性に駆られることとなったわけだ。
(それでも罠を仕組む必要があった、ということか……)
 先ほどの応答が、トワイライトの脳裏を過ぎる。もしも彼の言葉を額面通りに受け取ってよいなら、トワイライトの想像が当たっているとするならば。やはり彼は、トワイライトを敵視しているということだ。それも並々ならぬ熱意を持って。だからこんな諸刃の剣のようなやり方でも使って、トワイライトを狙うのだろう。
 どうあっても彼とは、敵対しなければならないらしい。
「構いませんよ。私はただ、平穏に暮らしたいだけなのでねぇ……」
 内心で気を引き締めつつ、そうとは悟られぬよう、トワイライトはわざとのんびりとした声を発した。だが、告げているのは確かな本心だ。身の安全が保障されるのならば、それ以上望むことはない。別段、実験の詳細になど、興味はないのだから。
「だといいんですがね……おっと」
 呑気に話すトワイライトを、リングォーラはどこか剣呑な目つきで眺めた後、突然弾かれたように背筋を伸ばす。何らかの通信魔法が飛んできたようだ。
「上からの呼び出しだ。緊急の会議が入りましてね」
 そう端的に告げると、彼は素早く身を翻し、杖を掴むと扉の方へと足を向ける。
「それでは。皆様ご機嫌よう。チャオ!」
 大仰に一礼して、杖を持った手を軽く振ったかと思うと、先端に取り付けられた紫水晶が眩い光を放った。そしてリングォーラの姿は球体の中に飲み込まれ、一瞬の内に消えてしまった。
「何だか訳の分からない方でしたねぇ……いえ、侮辱しているつもりはありませんよ」
「ふんっ、分かっているさ……リンゴの奴め、何を考えているんだか」
 まるで、嵐のような男だった。思わせぶりなことばかりを口にして、しかして特段重要な何かを提供するわけでもなく、ただ警戒ばかりを煽っては去る。一部は真剣に捉えねばならないこともあったものの、大体はただ闇雲にかき乱されただけに過ぎない。困惑を滲ませながら、トワイライトはぼやき、ロザリオを見遣って慌てて訂正した。だが、ロザリオも同じ気持ちだったのか、苦々しい声音で不満げにぼやいている。そこには論争に敗北したことへの悔しさを紛らわすためだけでなく、真の憤りが見え隠れしていた。
「……まぁいいさ。それより、お前が奴との取引を飲むとは、意外だったな」
 とはいえ、彼も過ぎたことに長々と縛られるタイプではないらしい。ロザリオは即座に思考を切り替えると、椅子に座り直し、テーブルの上で両手を組んだ。
「ほう?何故です?」
 その感想の理由が分からず、トワイライトは興味深そうに眉を上げる。するとロザリオの細面が、皮肉を含んだ様子で歪んだ。
「分からないか?お前の要求は、過ぎた望みなんだよ」
 組んだ両手を解き、肩を竦めてみせるロザリオ。トワイライトはそんな彼を、険しさの覗く瞳で見据え、低く尋ねかけた。
「……どういう意味ですか?」

  *  *  *

 薄暗い室内を、窓から差し込む雷光が断続的に照らす。明暗のコントラストに戸惑って、カーリは数度パチパチと瞬きをした。
「あの……ここは、どこ?」
 黒髪を手で押さえ、かすかに身を屈めて、問いかける。彼女の視線の先には、ゴスロリ衣装を纏った、人形のような少女がいた。正確には、ゾンビの少女が。
「子供部屋みたいだけど……あなたの部屋?」
 ゾンビ少女に話しかけつつ、カーリは首を巡らし、辺りを見回す。部屋に置かれているのは、黒いレースの天蓋がかけられたベッドや、いかにも量販店で売っていそうな勉強机。本棚には絵本や童話を中心とした、可愛らしい装丁の本がぎっしり詰まっている。カーペットの敷かれた床には、ぬいぐるみやおもちゃなどが適当に散乱していた。
 どう考えても、まだ幼い子供のために作られた部屋だ。そしてその子供というのは、この少女のことを指しているのだろう。名前は、ペコル。肌が白く表情に乏しいため、本当に人形のように見える子供だった。
「どうして私をここに連れてきたの?」
 カーリがここへやってきたのは、彼女に手を引かれ、誘われたからであった。しかしながら、ペコルは何も喋らない上、意思表示さえしようとしない。何故連れてきたのか、目的は何なのか、分からないままだった。
「あ、あの……ペコルちゃん……?」
 自分一人ばかりが困惑し、話し続けている状況に、カーリは若干の羞恥を覚える。気まずさを誤魔化すため、今度は膝を折り、本格的に少女と目線を合わせようとした。
 急に、足が動かなくなった。
「え……っ!?」
 傾ぐ体を支えることが出来ず、カーリはその場に横向きに倒れる。床に打ちつけた肩が、鈍く痛んだ。呻き声を上げながら、咄嗟に手を伸ばし、何が起きたのか確かめようとする。見ると、両の足首が、黒い革紐のようなもので縛られていた。誰の仕業であるか、考える必要もない。
「お姉ちゃん……遊んで?」
 子供っぽく小首を傾けたペコルが、強請ってきた。だが、その片手には、小さな果物ナイフを握られている。
「ひ……っ!」
 カーリは思わず、情けない悲鳴を漏らし、後ずさった。殺される。そう直感が働いたのだ。
「逃げないで」
 しかし、ペコルの腕が素早く伸びてきて、彼女の足首を掴んだ。
「あぁああ!!」
 子供とは思えぬ強い力。アンデッドだからか、それとも何らかの魔法の影響か。そのまま骨ごとへし折られるような予感がして、カーリは絶叫する。
(何なのこの子!怖い……っ!!)
 暴力により生み出された恐怖が、彼女の精神を追い詰めた。
(そうだ!!)
 突然、彼女は思い出す。己はもはや、ただの弱者ではないことを。
(お願い!お願い、お願い!!)
 指先に意識を集中させ、必死になって影を呼び出そうとした。あれをもう一度作り出すことが出来れば、この状況も打開出来ると考えたのだ。
 けれど、たった一回偶然に使えただけの力を、そう容易くコントロール出来るはずはない。焦れば焦るほど、思考がペコルに集約されてしまい、全く考えがまとまらなくなる。
(早く逃げなきゃ!早く、戦わなきゃ!早く早く!!)
 カーリはひたすら、指の曲げ伸ばしを繰り返し、影の召喚に躍起になっていた。
 だからこそ、気付くのが遅れたのだ。
 ナイフを持ったペコルが、既に眼前まで迫っていたことを。
「……何?その遊び」
 ザクッと残虐な音がして、カーリの体に激痛が走る。少女がナイフを振り下ろし、カーリの左肩を突き刺したのだ。
「っ!?」
「ペコルもやる。どうすればいいの?」
 反射的に身を引いたものの、その程度では抵抗にもならない。ペコルはただ足を一歩踏み出して距離を詰めると、ナイフを抜き取りもう一度刺してきた。
「あぐっ!」
 出来たばかりの傷口を再び抉られ、カーリの瞳に涙が浮かび上がる。噛み締めた唇が切れ、鉄の味が口内に広がった。出血のせいか、刃に神経を断ち切られたのか、既に左手の感覚はほぼなくない。
「お姉ちゃん……楽しい?」
 カーリの体にナイフを突き立てたまま、ペコルは無邪気な口調で尋ねてきた。白磁のような頬にも、フリルのついた黒いドレスにも、カーリの血がべっとりと付着し、赤く汚れている。だが、その表情は先ほどから全く動いておらず、まるで本当に蝋で固められた、人形を彷彿とさせた。一切感情の見えない姿と、いかにも子供らしい無垢な態度の不整合性に、カーリは戦慄する。何よりペコルの、光のない真っ暗な闇を持つ瞳は、彼女にある確信を与えた。
 もう、自分に逃げ道はないのだと。
 否、初めから選択権などなかったのだ。無力で愚かな彼女には、自分で自分の人生を切り拓くことなど不可能だった。ただこれまで、トワイライトやエンヴィスという心優しく頼もしい仲間たちに守られ、導かれてきたおかげで、そのことに気が付かずに済んでいただけで。本当は何もなかった。
 強くなりたいとか、役に立ちたいとか、そんなもの。本物の暴力と殺意、意識さえせずに虐殺を行える人物の前では、塵芥に過ぎない。結局はただ、弄ばれ無様に潰える命。
(そう。私には何もない……何も……)
 完結なる無。それこそがカーリ。人間として生きた悪魔の全て。
 期待も夢も、憧れも。彼女には到底所持を許可され得ぬもの。
 彼女には絶望し、ただ泣くことしか、許されていない。
(そっか……そういうことだったんだ)
 謎のドラゴンのような男に告げられた言葉が、鮮明に蘇ってくる。まるで今この場で、全く同じ声を聞いているかのように。
『お前には何もない。絶望しろ』
 その音がカーリの頭の中に浸潤し、確固たる形となって、根付いた時。
 影が、動いた。
 稲妻に照らされて生まれた、幾多の影。部屋を満たす漆黒の海が、さざなみを打ち、蠢く。
 まるで何かに引っ張られたかのように、カーリの指が屈折し、その動作に呼応するようにして、立ち上がった。波のように盛り上がり、怒涛の勢いとなって、襲い来る。
「え……」
 輝きのない瞳を見開かせ、ペコルは小さな声を上げた。彼女の視線が影に奪われ、こちらから逸れたのを、カーリは見逃さない。
「うぁあっ!」
 渾身の力を込めて少女を突き飛ばし、忙しげに辺りを見回す。そして手近にあった、飾り用の椅子の背を強く掴んだ。載せられていた、くまのぬいぐるみが滑り落ちるのも構わず、それを持ち上げ、振り回す。驚いているのか、恐怖しているのか、ペコルは立ち尽くしたまま、逃げようともしない。直後、遠心力の乗った攻撃を思い切り叩きつけられ、彼女は吹き飛んだ。
 ゴッという重たい音と手応えを感じ、カーリは我に返る。気が付くと、少し離れたところに、小柄な少女の体が倒れ伏していた。
「うぅ……っ!」
 罪悪感を覚える間もなく、傷の痛みが蘇って、カーリは膝をつく。力を入れたからか、傷口が引き攣れ、更に広がったような気がした。出血は未だ止まらないようで、左腕が真っ赤に染まっている。指先どころか肘の辺りまで、痺れの感覚が伝播していた。血を失ったせいで体温が下がっているのか、どこか肌寒い。おまけに倦怠感まで襲ってきて、彼女は肩で息をしながら、必死に耐えなければならなかった。
「はぁ……ふぅ……」
 瞼を硬く閉ざし、冷や汗が目に入らないようにして、深く呼吸する。体の奥底から、どうにか気合を絞り出すと、両足を踏ん張って立った。
「っ……」
 途端に眩暈と吐き気に襲われ、再びその場に崩れ落ちそうになる。だが、スッと伸びてきた黒い腕が、彼女を支えた。
「へ……?」
 そこには影がいて、主である彼女をしっかりと抱き止めてくれていた。カーリはすぐには目の前の光景を信じられず、疑いの気持ちを抱く。
 しかし、これは紛れもなく自分の影だ。自分の、というと語弊があるが。彼女が何らかの方法により呼び出して、使役をしている、影。きちんと質量を持ち、物体としてそこに存在する。間違いなく、あの時作り出した影と、同一のものだ。相変わらず、どうやっているのかは自分でも分からないが。
「あ……」
 じっと見入っていると、隣からもう一体の影が顔を覗かせた。細長い手が伸びてきて、カーリの傷口を押さえる。痛みと共に、触られているという事実が、実感となって伝わってきた。実体がないように見える彼らだが、実は物質に影響を与えることも可能らしい。
「助けて、くれたの……?」
 カーリが尋ねると、影は両手を体の前で組んで、礼儀正しいお辞儀をする。人によっては形式ばっていて余所余所しく思える動作だが、カーリにはきちんと、そこに真心がこもっていることを理解出来た。
「あ、ありがとう……」
 彼らからすれば自分は使役者で、仕えるべき君主であるというのに、その事実を中々受け止められない。というよりも、他者を率いる経験が全くといっていいほど皆無のカーリには、どうしたらいいかが分からなかった。だからこそ、どきまぎとした対応しか出来ずに、新たな汗を滲ませる羽目となる。
 だが、影たちはそれすらも容認し、受け入れてくれるようだった。片方の影が滑らかに腕を差し出し、出口を示す。ここから出て、安全な場所へと導いてくれるようだ。カーリは安堵し、影に身を任せようとして、ふとペコルの存在を思い出す。
 重たい頑丈な椅子で殴られた彼女は、完全に意識を失い、床の上にうつ伏せで伸びていた。今のところは、覚醒の兆しも見えない。だが、もしも背中を向けた瞬間に目を覚まして、背後から襲ってきたら。そう考えるとカーリは、臆して足を前に踏み出せなくなってしまった。
 怯える彼女の様子を見かねたのか、影の一人が颯爽と歩み出る。少女の髪や服からリボンやベルトをあるだけ引き抜き、彼女の手足を拘束した。それはものの数秒で終わり、床には両手足をぐるぐるに縛られた、ゾンビの体が転がることとなった。流石に、ここまで自由を奪われた状態で、尚も襲ってくることはないだろう。万が一の場合にしても、さほどの脅威には感じられないに違いない。カーリはようやく息をつき、ドアを開けると子供部屋を後にした。
 とはいえ、部屋を出たところで、そこから先はどうしたらいいのだろうか。見事な調度品で飾り立てられた薄暗い廊下で、カーリは影たちと共に呆然とする。誰かが出口を知っていればいいのだが、影二人にも心当たりはなさそうだった。カーリは仕方なく、手当たり次第に足を進めることにする。
 長い廊下をひたすら歩き、時折目についたドアを引き開けては、室内の様子を観察する。けれどもどの部屋にも、出口に関する情報などなく、彼女たちはひたすらに迷い続けた。そこから一体、どれほどの時間が経っただろうか。何時間も彷徨っていたような気もするし、あるいはたったの15分かそこらかも知れなかった。カーリにはその判別がつかなくなっていたのだ。
 何気なく後ろを振り返ると、指先から伝い落ちた血が、点々と床に染みを作っている。これでは誰かに跡をつけられていても、文句は言えない。早く安全な場所を見つけて、怪我を手当てしなければ。カーリは貧血と体力の消耗で、フラフラになっていた。
「ハァ……ハァ……ッ」
 荒い息を吐きながら、先へ進み続ける。もはや体は限界だったが、それでも足を止めたくなかった。止めるわけにはいかなかった。一度立ち止まったら、もう二度と目が覚めないのではないかと思っていた。こんな訳の分からぬ場所で失神することなど、絶対に嫌だ。だからカーリは辛くとも、壁に体を押し付け体重を支えながらでも、前進を続けていたのである。
 幾度目かも分からぬ角を曲がり、新たな廊下へと体を向ける。その時、後ろにぴったりと付き従っていた影たちが、唐突に前に出た。まるで主人を、外敵から守ろうとするかのように。
「ひぃっ!?」
 彼らに驚いた何者かが、引き攣った悲鳴を漏らす。その人物の姿を、カーリは影の隙間から覗き、声を上げた。
「レンキさん!?」
「え!?あ、アンタ!」
 名を呼ばれたレンキが、カーリを認め何かを言おうとした。
「カーリッ!?」
 そんな彼を突き飛ばすようにして、エンヴィスが現れ口を開いた。心底心配してくれていたのか、随分慌てふためいている。だが、カーリの前に立つ影たちの姿を目にした直後、彼は石になったように身を硬くした。
「な……ッ!?」
 瞠目し、息を飲むエンヴィス。レンキも異変を察知していたようで、戸惑いの表情を浮かべている。要するに、カーリに近付くべきか、決めかねているようだった。
「エン、ヴィス……さん……っ」
 しかしながらカーリには、二人の様子になど気を配っている余裕はない。彼らの姿を見ただけで、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのだ。思考が散漫になり、体から力が抜け、姿勢が前屈みになる。そのまま崩れ落ちそうになる彼女を、レンキが躊躇いつつも、一応受け止めてくれた。
「エンヴィス……この子、凄い出血!」
 血塗られた細腕を目にし、レンキは焦った声でエンヴィスを呼ぶ。カーリが作り出した影二体は、彼女が意識を失うと同時に、溶けたように形をなくし、完全に消えてしまっていた。どろどろとした気配が、綺麗さっぱりと失せていることを確かめてから、エンヴィスも彼の近くへと駆け寄る。
「カーリッ!!」
 その時、近くのドアが思い切り開いて、廊下にボール・アイが飛び出してきた。
「ぷるぷる、来ちゃ駄目」
 今にもこちらへ突進してきそうな彼を、レンキが片手で制する。
「どうして……っ!?」
「カーリちゃんは無事だよ。でも、酷い怪我をしてるの。これから手当てするから、しばらく離れてて」
「わ、分かった……!」
 本当は不安で堪らないだろうに、ボール・アイは聞き分けよく頷いた。彼はきっとレンキの言葉を、カーリのために邪魔をするなという意味で受け取ったのだろう。無論その目的もあるのだが、実際は違った。
「酷い怪我……何度か同じところを刺されてる」
「おまけに、一つ一つがかなり深くまで達してます。これは神経までいってるかもな……」
 ボール・アイに聞かれぬよう、二人は潜めた声で会話する。
 カーリの傷は、相当に深刻なものだった。鋭い刃物を複数回突き立てられたようで、傷口がぐちゃぐちゃになっている。こんな酷い怪我を、あのスライムに見せられるわけがなかった。もしも見てしまったら、大切な友人を傷付けられた怒りで、暴走とやらが起こるかも知れない。
「本当に、危険な連中ばっかりだね……アンタたちの周りは」
 封じ込めていた憎悪が再び湧き出してきて、レンキは眉を顰める。だがエンヴィスは、治療に集中しているようで、こちらに反応しなかった。
「この子、どうして応急処置をしなかったの?ポーションぐらいは持ってるはずでしょ?」
 ごく一般的な治癒のポーションでも、使っていればここまで出血をせずに済んだかも知れない。何故彼女がそれをしなかったのか、レンキはふと浮かんだ疑問を口にした。
「持たせてはいますが……そこまで意識が回らなかったんでしょう。どれだけ努力を重ねても、こいつの根源を作ってるのは人間界での経験だ。追い詰められれば、後付けの知識なんて簡単に抜け落ちますよ」
 エンヴィスはとっくにそのことに気が付いていたのだろう。酷く苦々しげな声で、レンキの質問に答える。
 人間でも悪魔でも、人格形成期は非常に重要な期間だ。その時期に何を経験し、何を得たかによって、どのような人物となるかが決定される。それを覆すことは、至難の業。悪魔としての生き方に順応しつつあるカーリでも、逼迫した状況においては、ただの人間だった頃の己に戻ってしまう。悪魔であれば、魔法の存在を知っていれば解決出来たはずの問題にも、対処出来なくなってしまうのだ。
「……やっぱり、こんな子供を働かせるべきじゃないよ。危険過ぎる」
「レンキさん、またその話ですか」
 ぽつりとこぼされたレンキの声音を、エンヴィスは耳聡く拾い上げた。そして、疲れたような呆れ返ったような視線を向ける。
 実際、辟易しているのだ。彼とはもう何度も同じテーマで意見を戦わせているし、その度に議論は平行線を辿る。レンキの主張にも共感出来なくはないが、やはりエンヴィスとしては、理解し得なかった。
「でも、アンタだって見たでしょう!?この子は、何か怪しげな力に目覚めてる!」
 それが不満だったのか、レンキがばっと顔を上げ、彼を睨み付けた。
「それは……」
 エンヴィスも今度ばかりは、言い返す術を失った。何故なら彼にはレンキ以上に、この状況の危険さが伝わっていたからである。
(あの影は、何だ……?怨念マリスのようでいて、そうじゃない……)
 他者の悪感情の集合体である怨念は、魔法を用いたとしてもコントロールの叶わぬ存在だ。真に衝動的で、凶暴で、行動を予測することが出来ない。また、怨念を見たり関わったりした者は取り憑かれ、最悪の場合生命を落とす。
 だが、カーリはその怨念を、使役し操っているようだった。あるいは、怨念の方が意思を持ち、彼女を庇護しようとしていたのか。どちらにせよ、あれはエンヴィスがこれまで知る怨念とは、似て非なる存在ということ。警戒しないわけがなかった。
「放っておけば、アンタたちだって」
「シッ!!」
 レンキが焦れた様子で、捲し立ててくる。彼の大きな声がボール・アイの耳にも届いてしまいそうで、エンヴィスは慌てて黙らせた。
「そんなこと、言われなくても分かってますよ……!」
 込み上げてくる苛立ちを抑えつつ、呻くような声で早口に言った。
「そんなこと、分かってたんだ……!!」

  *  *  *

「この世は一握りの権力者だけで回ってる。生まれつきの魔力量によって、全てが決まる社会。俺はそんな魔界の現状に、うんざりしてんだよ」
 ロザリオの声が、食堂の高い天井に反響した。
「それは、どういうことですか?」
 トワイライトは首を傾げ、鋭い視線を相手に投げかける。相手の様子を見る限り、こちらに攻撃を仕掛けるつもりはまるでなさそうだったが、それでも油断は禁物だ。
「どうもこうも、言葉通りさ。他意なんかない……俺は、心底この時代に、嫌気が差してるんだ」
 組んだ両手に尖った顎を乗せて、ロザリオはつまらなさそうに話し出した。脱力しきって全体重をテーブルに預けた体勢からは、彼の心底の退屈が伝わってくる。
「強き者同士で馴れ合う時代はもう終いだ。これからは、強者と弱者が手を取り合って、共に歩む必要がある。義務なんて形式上のものじゃない。もっと主体的に、互いと関わり合うようにならなきゃな……」
 それは、貴族階級にある悪魔の言としては、全くもって信じられないような内容だった。つまりは、時代の先駆者への淡い憧れめいた感情だ。現在の社会を批判し、新たな時代の到来を告げる。そして自らがその担い手となることに、心惹かれているだけ。若者が、個性を探し求めた挙句、風変わりなファッションや思想に首を突っ込むのと同じようなものだ。あるいは貴族でありながら、弱者を思い遣る優しさを演じることに、酔っているのかも知れない。
 無論、これが単に穿った見方に帰結する可能性も、なくはないのだが。トワイライトはほとんど確信していた。
「要するに、革命を起こしたいと?市民の主導者になるおつもりですか?」
「ふんっ、まさか。俺がそんな危険なことを望むわけがないだろう」
 どことなく皮肉を含ませながらも、珍しく直球で問いかける。ところがロザリオは、軽く鼻を鳴らしただけで、彼の質問を適当にあしらってしまった。
「だが……そうだな。スポンサーになら、なってやっても悪くはないな」
 ガリガリと、黒く塗った長い爪で頬を引っ掻きながら、彼は楽しそうに笑う。
「そうすりゃ、時代を意のままに操り、悪魔どもを動かすことが出来るだろうからなぁ」
 やや上へと向けられた視線の先は、彼が脳内で思い描いている理想の光景に繋がっているらしい。しかしながら、理想は結局のところ理想に過ぎないのだ。事実として起こってはいない。
「……夢のような話ですね」
 実現出来たらどれだけいいことか、とトワイライトは嘯いた。
「夢だと?ふんっ、いいや、違うさ。これは現実だ。今はまださざなみ程度だが、いずれもっと大きな波となって、お前たちを襲う……現実だ」
 トワイライトの不信を嘲笑うような態度を取り、挑発をしてくるロザリオだが、彼は気付いていなかった。トワイライトが発言に込めた、密かな二つの意図。彼はその一つ目しか見抜いておらず、あっさりと罠にかかっているということに。
 軽率な伯爵のおかげでトワイライトは、少なくとも現時点では、ロザリオは革命を確信しているということを知った。否、確信など生ぬるいものではなく、自分自身も運動に加わっているのかも知れない。裏社会の投資家の一面を使い、どこかに存在する革命軍とやらに資金援助をしているのかも。
 ということであれば、先ほどの彼の言葉の意味も、自ずと明らかになってくる。
「だから私に、望みは叶わないと仰ったのですね?」
 もしも本当に革命が起こるのならば。それは相当の混乱をもたらすはずだ。既存の体制、組織構造は崩壊し、全く新しい別物が誕生することになる。トワイライトの働く魔界府などは、真っ先に変革を余儀なくされるだろう。そうなれば、彼の希求する平穏な生活は、更に一層遠のく。
「その通りさ!だが、それも仕方ないだろう」
 ロザリオは彼の見解を、力強く頷くことで肯定した。それからまた頬杖をついて、片手を広げ尤もらしく述べる。
「安定は何も生み出さない。幾多の血を流し、労力を注いでこそ、時代は発展するものだ。お前の願いは、ただの停滞でしかないんだぞ?」
 歴史は、争いの最中で作られる。新しいことを始めようとすれば、必ず犠牲が伴う。それは受け入れねばならぬ痛みだ。犠牲を厭い平和を保ち続ければ、世界は先に進まなくなる。ロザリオにはそちらの方が、よほど危険に思えるのだった。
「だから、どうだ?お前もそろそろ考えを改めて、俺に協力するってのは?そうすれば、変わりゆく時代の最先端からの景色を、この目で見ることが出来るぞ?」
 伯爵は長身を乗り出し、テーブルに覆い被さる勢いで、トワイライトに尋ねる。よほど執心なのか、その瞳には並々ならぬ熱意が宿っていた。
「お断りします。私には必要ありませんし……関係もありませんから」
 そんな彼とは対照的に、トワイライトは冷淡な態度を崩さなかった。上唇を突き出した無表情で、静かに拒否を告げる。その口調は平坦で、抑揚がまるでなかった。彼の心を閉ざす堅牢な鉄の絶壁が、二人の間を隔てているようだ。
「……まぁ、今はそれでも構わないさ」
 ロザリオはしばし沈黙し、思考を巡らせた後、溜め息と共にそう吐き出す。不本意であるという気持ちが、ありありと表れている表情であった。彼は後頭部で両手を組み合わせ、背を仰け反らす。
「だが、革命は近い内に必ず起こる。覚悟をしておくんだな」
 話しながら、彼は後頭部で両手を組み合わせ、背を軽く仰け反らせた。爪先で床を蹴ると、椅子の前足が宙に浮き上がり、ロザリオの体がグラグラと前後に揺れる。
「そんなことより、ロザリオ伯爵」
 一段落ついたところを見計らい、トワイライトは会話の流れを元に戻そうとした。しかし、ロザリオは素早く立ち上がり、彼の言葉を遮ってしまう。
「話は終いだ。いつでも連絡、待ってるぞ」
「お待ちください!」
 椅子をガタンと鳴らしながら、彼は席を立ち、屋敷の奥へと続く扉の方へと歩いていく。トワイライトは慌てて、その背中を呼び止めた。
「シガーレット!」
 だがロザリオは応じることなく、大声で部下のゾンビの名を叫ぶ。数秒の間も空けず、重たい扉がゆっくりと開いた。
「……お呼びでしょうか」
 シガーレットが、小太りの体を震わしながら、姿を見せる。ロザリオは彼に長い指を突きつけ、端的に命じた。
「客人がお帰りだ。ノアに見送りをさせろ」
 有無を言わさぬ口調だった。もはや完全に、これ以上話すつもりはないらしい。
「かしこまりました」
 シガーレットは恭しく一礼すると、再扉の前から退き、ロザリオのために道を開けた。ロザリオは颯爽と、大股で食堂を出て行った。
「ロザリオさん!」
「黙れ。無礼者」
 巨大な扉に彼の後ろ姿が隠されていく。トワイライトは居ても立ってもいられず、追い縋ろうとした。そこへ、シガーレットが立ち塞がる。
「ロザリオ様の命だ。先へ進ませるわけにはいかない」
 彼はいつの間にか、懐から取り出した銃を構えており、その銃口はトワイライトの胸を狙っていた。軍人の彼には分かる。もしも引き金を引かれたら、確実に心臓を貫かれる位置だということを。
「じゃあな」
 そしてシガーレットは、容赦なく引き金を引いた。飛び出した銃弾が胴に命中し、トワイライトの体は衝撃で後ろに倒れる。それと同時に、周囲の光景が突然変化し始めた。
 辺りが、まるで絵の具を溶かしたように不鮮明になり、移り変わっていく。撃たれた際のダメージや、衝撃のせいではなかった。意識ははっきりとしているし、そもそも痛みを感じてもいない。一体何が起こっているのか。困惑と疑問が最大限にまで膨らんだ時。
 眩いばかりの光が爆発し、彼の視界を埋め尽くした。
「っ……!」
 トワイライトは思わず目を瞑り、顔を背ける。直後、数人の聞き覚えのある声が、耳に飛び込んできた。
「あれ!?」
「何、ここ……!!」
 目を開けると、ボール・アイやレンキたちが驚きの表情でキョロキョロと首を巡らせていた。
「……トワイライトさん!」
 エンヴィスが慌てた様子で、こちらに駆け寄ってくる。トワイライトは、視界に残った閃光の残像を数回の瞬きで蹴散らし、彼を見上げた。
「エンヴィスくん……」
 彼らがいるのは、全く何もない、ただの大地だった。大きめの石が転がり、乾いた地面には枯れた雑草がしぶとく粘っている。数メートル先にある断崖の向こうには、深い渓谷が広がっていた。反対側には小規模な畑と、生気のないいくつかの民家が点在している。
 それらの光景は、ここへ来る途中で目にしたものと同一であった。しかし決定的に違うのは、ロザリオ伯爵の邸宅。まるで城のように巨大で豪華にデザインされた建造物が、綺麗さっぱりなくなっていることだ。
「これは……」
 何が起きているのか。トワイライトは注意深く周囲を見回して、小さく呟く。
「何が、どうなってるんでしょう……俺たちは一体……」
 応じるエンヴィスも、状況を把握出来ていないようだった。
 本当に、自分たちの身には何があったのだろう。場所は同じなのに、存在したはずのものが消えているなんて、あり得るはずがない。それとも、初めから全て、幻覚だったのだろうか。ロザリオ伯と会ったことも、ゾンビの使用人たちも、リングォーラでさえも。
 半ば本気で、そんな可能性を信じかけたところで。
「あっれー?トワさんだー!やっほー!!」
 レディの元気溌剌とした声が、空虚な大地に響き渡った。
「レディ……!?お前、どこ行ってたんだ!」
 エンヴィスが立ち上がり、驚愕と怒声とをぶつける。彼の態度から察するに、どうやら随分と捜索をしていたらしい。
「ごめ~ん。あのお城広くってさ~。適当に窓破って外に出てみたんだけど、どうしたらいいか分かんなくて。近くの小屋のおじさんに聞いてたの!」
 叱られたレディは両手を合わせて、形だけの謝罪をする。それでも笑顔を絶やさない彼女に、エンヴィスは更なる憤懣を表した。
「それならそれで連絡の一つぐらい入れろ!心配しただろうが!!」
「ごめんってばぁ~」
 怒涛の勢いで怒鳴られても、彼女は顔色一つ変えない。のんびりと、にこやかに彼の怒りをかわしていた。その態度に、トワイライトはどこか違和感を覚える。
「っていうか、見た!?ロザリオ様のお城!消えたんだよ!?パッて!!エンちゃん見てた!?」
 だが、続く彼女の言葉を聞くと、そんな考えはどこかへ行ってしまった。
「城が、消えただと!?」
 エンヴィスは信じられないと言わんばかりに、顔を歪めている。しかしトワイライトには、心当たりがあった。
「城ごと転移したということか……」
 彼らが常日頃体験している転移魔法は、悪魔だけでなく物体も移動させる力を持つ。無論、範囲には制限があるが、それは術式の含み持つ魔力量に応じて変化する。つまり、莫大な魔力を用いれば、建物ごと別の地点へ移動することも、理屈上では可能ということだ。
「信じられない話ですね……」
 エンヴィスの呟きも当然である。
 ロザリオはどうやって、それほど大量の魔力を獲得したのだろう。あるいは、何か他の手段を使ったのだろうか。どちらにせよ、彼らにはもはや事実を確認する術はなかった。ロザリオもゾンビ使用人たちも、彼らの前から忽然と姿を消してしまったのだから。
「ともかく、全員無事に合流出来て良かったよ。さぁ、ハデスに戻ろう」
 これ以上、ここに留まる必要はない。というより、留まっても何も得られないだろう。魔界府に帰る時だ。
「病院に行く必要のある者は?」
「カーリが」
「あっ、私大丈夫です!」
 トワイライトの呼びかけに、エンヴィスが答えようとして、カーリ本人の声に遮られる。地面に横たわり、眠っていたはずの彼女が、覚醒し上体を起こしていた。
「もう、平気ですから!」
「何言ってんの。アンタ大量に出血してたでしょう」
 迷惑をかけるまいとしたのか、健康なふりを装おうとする彼女を、見かねたレンキが窘める。
「えぇ!?そうなの、カーリ!!」
 呆れたような彼の声を聞きつけ、レディが目を見開いて驚愕していた。
「そうなんだ、レディ。カーリ、ゾンビたちに襲われたみたいで……」
「実は……」
 説明しようとするボール・アイを横目に見ながら、エンヴィスはトワイライトに向き直り、小声で囁いた。
「ふむ。まぁ何があったかは道々聞くとしよう……」
 ゆっくりと首を振り、トワイライトは歩き出す。彼は背中にひしひしと、レンキの苛烈な視線が注がれていることを感じたが、反応はしないでおいた。皆はトワイライトの後に続いて、ハデスに続く転移地点を目指し、縦列で進み始める。
「……アタシだって……平気じゃないのに……」
 彼らからわずか数メートルほど距離を空けて、レディは後ろで呟いていた。
 今のところは、誰も気が付いていないらしい。
 彼女が暗い本心を隠して無理に明るく振る舞っていることも、彼女の背後に何がいるのかも。
彼女を飲み込む深い深い闇が、着実に接近してきて、もはやすぐそこにまで迫っているということを。
 意図的に秘匿しているのだから、当たり前のことかも知れない。むしろ、望み通りになっていることを喜ぶべきだ。だが彼女の矛盾した心は、今すぐ誰かが助けてくれることを、期待してもいた。
 しかし、それは所詮甘い夢だったのだ。
 天真爛漫な笑顔を貼り付けた顔が、憂鬱に染まる。
 そして、その日の夜、彼女は姿を消した。
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