極上エリートは溺愛がお好き

藤谷藍

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1巻

1-2

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   ◇ ◇ ◇


 そして待望の週末。
 インターチェンジから高速に乗ると、紗奈は車の音楽のボリュームを上げた。今日の目的地はカーナビが要らないので、好きな曲をアナウンスに邪魔されずに楽しめる。

(はー、お天気もいいし、最っ高!)

 久しぶりの遠乗りに胸が弾んで、流れる曲につられてうろ覚えなサビ部分を、ラリラ~、と適当に歌い出す。
 こうしたドライブに紗奈がハマったのは、大学時代だ。
 初めてできた彼氏が車好きで、時々ドライブデートをしたからだった。
 大学のサークルが一緒だった元カレは、紗奈がお化粧するようになってからしばらくして、しつこいほど猛アタックしてきた男だ。それまで紗奈に興味など全然なかったくせに、見かけが変わった途端の強引な誘いに、初めはご冗談を、ぐらいにしか思っていなかった。
 だが当初はうんざりしていた紗奈も、彼の情熱しつこさにほだされ、一回ぐらいならデートしてみても――と流されたのが運の尽きだった。
 元カレは、パッと見は好青年だったが、男としては最低な人間だったのだ。けれども、初めてのお付き合いで舞い上がってしまった紗奈は、彼の短所や嫌なことに目をつぶってしまった。一年が過ぎた頃には、デートには色々なところに連れて行ってくれるまめな人だ、とさえ思うようになっていた。だけど普通の彼氏彼女の関係だと思っていたのは紗奈だけで、元カレには実は本命として狙っている子が別にいたのだ。
 彼の就職が決まると、さっさとそちらに乗り換えられてしまい、気が付けば何と紗奈の方がその彼女から浮気相手扱いされていた。大学の帰り道で彼女に待ち伏せをされ、彼は迷惑してるから察しろだの、連絡するなだのいきなり言われた紗奈は、まさかの展開に混乱した。

『えっ、でも私、一年前から智樹ともきと付き合って……』
『何言ってるのよ。私と智樹は入学直後からの仲なのよ。ずっと付き合ってくれって言われてたし、智樹が一流企業に就職できたって言うから、正式に付き合ってあげることにしたの』
『うそっ……そんなコトって……』

 同じ学科だった彼女とは元カレも含めて共通の知り合いが多く、紗奈は大学時代の知り合いとはそれ以来一切連絡を取っていない。
 それに結局元カレは、紗奈のお化粧をした時の見た目が気に入っていただけだった。紗奈自身はどうでもよかった、というか本音は素顔じゃ連れて歩くのはちょっと、だったらしい。

『講義のノート助かったし、課題手伝ってくれたし、紗奈はまあ嫌いじゃないけど』

 初めてを捧げた相手は二人が過ごした一年を、あっさりとこの一言で片付けた。
 まあ、よく考えてみたら、浮気相手扱いされたからも他のからも、彼宛ての電話やメールがしょっちゅうあった。友達と言うから信じていたけど、実は紗奈の方がメール一文で切られる立場だった――というよくある話だ。
 当時は割とのんびりした性格の紗奈も、初めてできた彼にこんな振られ方をして、信じられないと傷つき、ドーンと落ち込んだ。
 だけど幸か不幸か、その当時ちょうど紗奈は就職の時期を迎えていた。いつまでも引きずって、こんな男のために人生を棒に振るわけにはいかない。悔しい気持ちと理性を総動員して、これは経験値を積んだのよ、世の中あんな男だけじゃない、と思うことにしたのだ。

(失恋ぐらいみんな経験してる。タイミングはちょっと良くなかったけど、きっとリセットできるわ!)

 泣きはらした目を誤魔化すために、ますますお化粧の腕に磨きがかかった。そして元カレからアプローチされた最初の頃に、どこか違うと感じていた心の声を無視したことを、猛省した。

(同じ失敗は繰り返さない。次の恋は絶対後悔しないように、感じたことは素直に信じよう……)

 それに、化粧をほどこすようになってからの周りの反応を見て、自分の見かけを変えることは武器になるとも悟ったのだ。こうして、紗奈は見事今の会社に就職できた。
 その当時は一人暮らしを始めたばかりで、本当に余裕がなかった。学ぶことがいっぱいあったので、悲しかったことは忘れてしまえ、と仕事に打ち込めたのは幸いだった。
 だんだんと仕事に慣れていき、彼氏なんて気を使う存在がいなくてかえってよかったかも、と思うまでになってしまったのだ。
 そうして紗奈は多忙ながらもコツコツ努力を続け、鬱憤うっぷんはせっせとお金を貯めることでまぎらわした。そして二年前、あこがれだったこの愛車をついに手に入れたのだ。

(元カレとのことは痛かったけど、ドライブの魅力を知ることができたし)

 お出掛けデートは本命との予行練習だったらしいが、車一つで今まで遠いと思っていた名所に気軽に行けるドライブに、紗奈はたまらなく魅了された。
 過去は過去、と割り切れた今は、随分恋愛については慎重になったし、社内恋愛は絶対しないと決めている。こうして、ちょっぴり自分は強くなった、と過去を振り返った紗奈は、新芽がまばゆい山道を上機嫌に登っていく。

(あ、スポーツタイプNの赤だ。いいなぁ、お金があったら次は、絶対あんな車よね……)

 見事なハンドルさばきでカーブを曲がって下りてくるあこがれの車に、一瞬気を取られるものの、すぐに意識を目の前の道に集中する。こんな風にスポーツカーやサンルーフを開けたクーペなど、色々なタイプの車をドライブ中に見かけるのもお楽しみの一つだ。
 一体この都会のどこに隠れていたのか、と見ているだけでも楽しくなってくる。
 同じドライブサイトを参考にしているのか、たまに一日何度か同じ車を見かけることもある。袖振り合うも多生たしょうの縁ではないが、親切なおばさんからドライブに快適なルートを教えてもらったこともある。
 この芝桜もおすすめされて、フラリと立ち寄ったスポットの一つだった。

(うわぁ、なんか去年より、綺麗さが増しているような……)

 陽気な春の日差しに包まれて、自然の美しさを存分に堪能すると、高揚した気分のまま駐車場に戻って来た。帰りはどこかに寄ろうかな? など考えながら車に向かって歩いていると、見覚えのある赤い車が目に留まる。

(あれ? 人気なんだなぁ、この車、最近随分見かけるよね……)

 ドライブでいろんなところを回っていると、自然と人気の車種が目に付くようになる。この高級スポーツカーも最近人気のようだ。前面のフォルムも後面のスポイラーもカッコイイ、と足を止めてじっくり眺めてしまう。
 スポーツカーは見ているだけでも眼福だわ……と見事なカーブを描く車体に見惚れていた紗奈は、運転席に人が乗っていることに、やっと気が付いた。

(あっ、まずい、ちょっと不審だったかな)

 すっかり夢中になって、口を開けて見惚れてしまっていた。
 運転席から人が出て来る気配がして、ジロジロ見ていて気を悪くさせたのなら大変と、慌てて自分の車の方向に歩き出す。

「おい、アンタ、一人なのか?」
「えっ?」

 何となく聞き覚えのある、バリトンより心持ち低い声。思わず振り向けば、赤のスポーツカーに寄りかかり、シャツとジーンズをモデルのように着こなした黒髪の男性がじっとこちらを見つめていた。

(えっ⁉ 見間違いじゃないよね? どうしてこのひとが、こんなところに……?)
「……羽泉、さん?」
「名前覚えてたんだな。下の名前は、しょうだ。杉野さん、アンタの下の名前は?」
「へ? 名前? 私の名前は紗奈、ですけど」
「ああ、やっぱり。居酒屋にいたの、アンタだよな? 後で名前確認したら、会社で紹介された名前と違ったから驚いたんだが」
(あーっ、これはマズイ! 新卒にまぎれて飲み会に参加する、変な女だと思われたかも……)

 会社の取引相手に、不信感を与えてしまったのかもしれない。

「あの! あの時は急病の妹の代わりで……」
「そうか、身内の代わりだったか。名字が一緒だったからそうじゃないかと思った」
(ふぅ、よかった、セーフ、セーフ。不審者扱いはされてないみたい……それにしても……)
「よく、あの時、私だって分かりましたね。妹の同級生は誰一人気が付かなかったんですけど」
「俺は一度顔を見れば分かる。妹さんの顔も知らない」
「あの、あんなこと、毎回しているわけではなくてですね……」

 誤解を解こうと早口になってしまった紗奈に、彼は面白そうに笑って答える。

「ああ、ずいぶん緊張してたな。居心地悪そうだった」
(えっ、嘘、笑った! すごい、かっわいい!)

 笑顔が想像していたよりもずっとさわやかで、おそらく年上なのに可愛いと思ってしまう。
 つられて紗奈も、彼にニッコリ笑いかけた。

「そんなに分かりやすく態度に出てました? 自分では上手く隠してたつもりなんですけど……」
「ああ、他に気付いた人はいない。アンタ、上手く笑顔で誤魔化してたな」
「よかった。結奈に知られたらまた怒られちゃう。それでなくても名刺の一つももらってこないなんて、ってねられたのに……」
「ははは、面白い妹さんだな」
(わあ、笑顔全開だ……)

 思ってもみなかった羽泉の気さくな態度と笑顔に、紗奈の胸は高鳴った。

(ほんっと、イケメンだわ、この人。こんな風に笑って話しかけられたら、ドキドキしちゃう)

 モデルばりの容姿に思わず見惚れる紗奈を、彼は笑顔で誘ってきた。

「なあ、アンタ、一人なのか? この後暇なら俺に付き合わないか?」
「えっ?」
「ドライブが好きなんだろ? 美味おいしいコーヒーとケーキおごるから、ちょっと付き合え」
「ケーキ……」

 イケメンと二人で美味おいしいケーキ。
 普段は警戒心バリバリの紗奈だが、今はスッピンに近いし、会社の取引相手だし、第一、彼から変な電波はまるで感じられない。
 彼の会議中の姿に惹かれていたこともあって、素直に頷いた。
 もちろんケーキは美味おいしいボーナスだ。

「よし、アンタの車、これだよな。カーナビにこの住所入れられるか? 多分ここからだと二十分ぐらいだ。その店で落ち合おう」

 そう言って、紗奈の車まで歩いて送ってくれた彼は、紗奈がカーナビをセットしたのを確かめると、念のためとスマホの番号交換をして「じゃあ後で」と頷いて自分の車に向かった。
 カーナビが示した行き先はカフェである。何だか思っていたのと随分違うドライブになってきたが、これもまあ、ドライブの醍醐味だいごみだ。
 彼とこうして偶然出会うのは、これで二度目。
 不思議な巡り合わせが、吉と出るか凶と出るか。
 気持ちは自然と弾んでいて、自分はこの思い掛けない出会いをラッキーだと感じているんだ、と自覚してしまった。そんな心を勇気付けるように、流れている曲のメロディーを口ずさむ。そしてカーナビのお姉さんの指示通りに車を走らせると、美味おいしいコーヒーあります、と書かれた看板が見えてきた。

(あらまあ、可愛いカフェ。緑が綺麗……)

 緑の渓谷に羽泉の赤い車が映えて、綺麗なコントラストを生み出している。
 車に寄りかかって待っていた彼は、車から降りてきた紗奈を見ると、上半身を起こして、ふっと笑った。

「迷子にならなかったか?」
「カーナビがあるのに、なぜ迷子に?」

 彼の気さくな態度と笑顔につられて、思わず言い返してしまう。

「そうだな。俺はコーヒーが飲みたいんだが、約束通り、何でも注文していいぞ」

 そんな紗奈の態度に、なぜか彼は嬉しそうに答える。

(あ、やっぱり素敵な笑顔……)

 最初に声を掛けられた時も、車に寄りかかる彼を見て、雑誌に載っているモデルのようだと思った。
 こうしてじっくり見ていると、男らしく精悍せいかんな顔を無性にカメラに収めたくなってくる。紗奈は思わず一歩下がり、「ねえねえ、ちょっと」と言いながらスマホを取り出した。
 初めは驚いたように目を見張った彼も、紗奈の目的を察すると面白そうに、ニヤッと笑いかけてくる。

「なんだ? 俺の写真が欲しいのか? 高くつくぞ」
「何言ってるのよ。もうちょっと、車に寄りかかって、そうそう、はい笑って」
(嫌がってない。よかった……)

 なぜ急に、こんな強引なことを思いついたのか? 自分でも不思議に思いながらも、パシャ、と撮った画面を一緒に確かめる。

「わあ、あなたって、ホント綺麗に写るのね。まるでモデルみたい……」
「俺だけ撮ってもしょうがないだろ、ほらこっちに来い」
「へっ?」

 肩に大きな手が回ったと思うと、二人の目の前に彼のスマホが。
 ……そのまま、パシャ、と二人の写真を撮られていた。

(びっくりした、急に接近するから。あ、でもタイミング的に……)
「ちょっと、今の絶対、私、変顔してた!」
「おあいこだ。どれどれ……別に普通に可愛いが?」
「え⁉ ……なんか恥ずかしい、ねえ、これは消去!」

 スマホ画面をのぞくと、彼は笑っているのに自分は目を見開いたびっくり顔になっていた。どうしても納得がいかないと、彼の手からスマホをもぎ取ろうと試みたが、悲しいかな身長差……いくら背伸びしても全然届かない。

「だめだ、俺はこれがいいんだ」

 ほら、行くぞ、とうながされて紗奈はう~と低くうなってから、ハッとした。

(私、取引先の人に何じゃれてるの? っていうか敬語、敬語忘れてる!)
「あの、羽泉さん、先程は失礼しました」

 焦りまくってつくろった紗奈に、羽泉は思いっ切り不満顔だ。

「なんだ、いきなり改まって。翔でいい。それにここは会社じゃないんだ、さっきみたいなタメ口がいい」
(えっ? いくら何でも年上の男性を、それも会社つながりの人を呼び捨てするのは、今更だけど、無理な気が……)

 オンオフが結構激しい紗奈ではあったが、いくら会社ではないとはいえ、考え込んでしまう。

「俺はコーヒー、紗奈は何にする?」
「へっ、えっ? あの、私はここの手作り紅茶と、今日のおすすめチーズケーキにしていいですか?」
「却下、やり直し。敬語なし」
「ええっ!」
「やり直し」
「えっと、羽泉さん、あの……」
「翔、だ」
「……翔、紅茶とケーキお願いします」
「五十点」

 紗奈が渋々言うと、羽泉――翔はまだちょっと不満げながらも店員を呼んでくれる。

「すみません、オリジナルブレンドコーヒーと、手作り紅茶のケーキセット、チーズケーキで」
「はい、かしこまりました」
(……呼び捨てにしろって、本当に?)

 穏やかな目で自分を眺めるこの男性は、会議中も飲み屋でも無愛想の一言に尽きた男と、本当に同一人物なのだろうか?

(この人、プライベートは、会社とまったく違うんじゃ……)

 でもきっと、これもこの人の素なんだな、と何となく嬉しく思った。
 紗奈だって、今の自分は会社にいる時の自分と全然違う。
 作っているわけではなく、あっちの紗奈は会社バージョンというだけだ。
 だけど理性的に考えてしまう紗奈は、仕事関係と私生活をミックスした交遊など、今まではなかった。勢いで付いてきてしまったものの、ボーダーラインがあやふやなこの状況に、どうしていいか分からない。
 胸はドキドキするし、気持ちはそわそわするし、態度はマゴマゴしてしまう。
 何だか落ち着かないなあ、と周りをぐるっと見渡すと、そこで初めて自分たちがテラスの端にある、渓谷の絶景を見下ろす眺めの良いテーブルに着いたことに気付いた。

「わぁ、すごい! 綺麗……」

 空気も幾分いくぶんヒンヤリしており、涼しいそよ風が首筋を撫でていく。

「後で沢まで下りてみるか?」
「えっ、下りて行けるんですか?」
「……却下、やり直し」
「へ? ……あの、下りていいの?」
「駐車場からぐるっと回れる」
「ぜひ、ぜひ行ってみたいです」
「……その、言葉遣いを改めるなら、連れてってやる」
「えぇ⁉ ……分かった。翔、沢に下りてみたい」
「よし、靴は大丈夫か?」
「大丈夫、ドライブにヒールのある靴なんか履いてこないわ」
「そうか」

 彼は注文したコーヒーを美味おいしそうに飲みながら、リラックスした様子で長い脚を組み、目を見つめて答えてくれる。
 相変わらず返事は簡潔だが、ぶっきらぼうな感じはしない。
 会社や飲み屋で見た時とは違って、長い手足を気持ち良さそうに伸ばした姿は、とても落ち着いて見える。綺麗な指が組まれた手は男らしいのにどこか優美で、形のいいあごを手の甲にのせて、のんびり外の絶景を楽しんでいる。
 艶々つやつやの髪や長い睫毛まつげは、午後の柔らかい日差しに照らされて透き通って見えた。
 彼の整った顔をこんな間近で見ていると、さらに胸の鼓動が高まってくる。コーヒーカップに目を落とす姿もうれいを帯びたように見えて、その優雅な姿に、なんて綺麗なひとなんだろう、と見惚れてしまう。
 こうして向かい合って座っていると、〝彼は会社関係者〟という意識がだんだん薄れてきた。
 代わりに、長い間ほこりを被っていたはずのトキメキが、鮮明によみがえってくる。

(うわあ、こんな感覚、久しぶり……)

 胸がトクン、トクンとしながらも、じきに普通の口調でしゃべれるようになった。

「そういえば、紗奈はこの間の会議には、どうして出なかったんだ?」
「ああ、私は秘書室勤務なのよ。前に出席した時は、報告のために臨時で拝聴させてもらったの」
「なるほど、随分熱心にノートを取ってるから、てっきり若手の育成かと思った」
「残念ながら、専門外よ」
「まあ、俺もそれほど詳しいわけではないがな」
「えっ、そうなの? てっきりガチガチのエンジニアだと思った……」
「はは、そうか。なら俺のハッタリも効果があったわけだ」
(確かに、専門のエンジニアの意見を聞いてはいたけど、どちらかと言うと会議が脱線するたびに軌道修正してるほうが多かったっけ……)

 そして、双方の妥協点を上手く探り、最後は方針をきちっとまとめていた。

(つまりは管理職ってこと? エンジニアチーフってそういう意味なのかな?)

 こんなに若いのに、やはりすごい人だ。
 こうして初めて二人きりで話をしてみて、それが分かるような気がした。何だか上手い具合に乗せられてるし、いつの間にか名前呼びを許している。
 無愛想な人かな? と思っていたが、無駄な話はしないだけで、決して無口ではないらしい。必要なことは全て丁寧に答えてくれるし、彼からもどんどん質問してくる。

(なるほど、意味のないおしゃべりや、興味のないことへは寡黙かもくになるのね)

 こうして二人でしゃべっていると、彼の人となりが垣間見えてきた。
 黙っていても堂々としているので、気が弱い人は威圧感を覚えるかもしれないが、味方であれば、彼に任せておけば大丈夫――そんな信頼感を抱くだろう。
 そして、仕事に関しては妥協を許さない厳しい目。
 この間の報告書の疑問点をさりげなく質問してみると、しっかり答えが返って来た。
「ああ、それは製品番号での検索から……」と、紗奈にも分かるように、専門用語を使わずに噛み砕いて説明してくれる。彼の説明を聞いて、自分の解釈が合っていたことに安心した。
 緑の渓谷をのんびりと眺めながら、景色にそぐわないビジネス談話が弾む。

(やっぱり、ビシネスに関してはすごく詳しい……何だか楽しいな)

 気がゆるんだ紗奈がケーキを食べ終わると、気さくに「行くか?」と沢への散歩に誘われた。

「今日の芝桜、綺麗だったな」
「はあ、もう最っ高だった。ほころびかけのつぼみと、ちょうど咲いたばかりの桜でピンクに染まって……早めに来てよかったわ」
「初めてか?」
「今日で二回目。ちょっと時間はかかるけど首都高で朝早く来れば、そんなに混まないし」
「そうか。ドライブ、好きなんだな」
「ええ、結構驚かれるんだけど、運転は苦にならないの。いろんなところに行けるし」
「そうだな。紗奈、こっちだ、足元気を付けろよ」

 さりげなく手を差し出されたが、慣れていないので一瞬躊躇ちゅうちょしてしまった。
 だが、「ほら、ぼうっとすると危ないぞ」と注意をうながされた隙に、さっと手を掴まれる。

(きゃあ、手が!)

 もう何年も前のことなのに、元カレにひどい扱いをされたせいで、少々男性不信気味なのだ。
 だけど、翔に手を取られても、いつも男性に触れられると身体を走る悪寒は感じない。

(あれ? 私、このひとのこと、警戒してないんだ。こんなイケメンなのに……)

 顔のいい男性はたいていの場合、いやに女性を軽く扱うか、れしい人が多いと思うことがしょっちゅうだったのに、彼はそんな様子がまったくない。
 それに彼は、紗奈が薄化粧でも全然態度が変わらない。元カレとは大違いだ。
 比べてはいけない、と思いつつも、翔の態度は気取らず誠実だと紗奈には思えた。
 このひととは、沈黙も気にならないくらい、一緒にいて安心できる……
 翔とは今日初めてまともな会話を交わしたはずなのに、ずっと前からの知り合いのように、隣にいてとても居心地がいい。
 心からリラックスできる雰囲気に、気軽なおしゃべり、そして二人の間に時々流れる心地よい沈黙をも楽しんで、都内とは思えない静かな森林を歩く。
 沢に下りて清流をバックに写真を撮ってもらうと、ますます打ち解けた気分になり、一緒に駐車場に帰って来た。

「紗奈、来週暇か? 海にドライブに行こうと思ってたんだが、一緒に来るか? 近場だがな」
「えっ、いいの? あの、本当に?」

 翔にまた誘われた!
 その事実に内心の驚きを隠せない。

「ああ、多分午後からになるが、来週土曜でいいか?」
「うん。ええと、誘ってくれてありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、また来週な」

 翔は優しく微笑み、「詳しい時間はまた連絡する」と相変わらず簡潔な言葉を残して、車に戻っていく。
 そのまま車に乗り込むと、ゆっくりバックをしながら車を出す翔を、紗奈は軽く手を振って見送った。翔の車が見えなくなると、唇から溜息が漏れる。

(ふう、男の人と二人きりでこんな風に過ごしたのって何年ぶりだろ? ドキドキしたけど、なんか思ったより嫌じゃなかったな)

 ほんの少しだけど、自分の男性に対する見方も変わったような気がする。
 帰りの運転中も、素晴らしかった芝桜より、翔と過ごした短い時間の、その楽しかった記憶だけがふわふわと頭に浮かんでくる。
 自然と口元がゆるんで、ニマニマ笑いが止まらないまま紗奈は帰路に就いた。


 ふわふわした気分はその日の晩まで続いていた。

(来週かあ、晴れるといいなぁ)

 落ち着かない気持ちのままシャワーを浴びて、パジャマに着替える。

(あ! そうだ、今日こそは忘れないうちにっと)

 浮かれるあまり、また忘れるところだった。今週のおすすめ物件は……と、ゴロンと寝転んだベッドの中で、賃貸情報をスマホでチェックしていく。
 次はセキュリティーがしっかりしたところがいいな、と条件を頭の中で整理してみる。

(幸い会社は都心から外れているし、同じ路線ならもうちょっと遠くても大丈夫かな? ちょうどいい物件、なかなかないよね……)

 熟考しているとだんだん眠たくなってきた。寝落ちする前に手を伸ばしてスマホを戻すと、馴染んだシャンプーの匂いのするベッドに滑り込む。
 半開きのまぶたで天井を見つめていると、来週末、晴れるといいな……とつい考えてしまう。
 今までになく今日の出会いに浮かれて、ウキウキと楽しみにしている自分がいる。
 翔に掴まれた手を何気なく眺めていると、何だかまたドキドキしてきた。
 咄嗟とっさにベッド脇からスマホを取り、翔の笑顔が写った写真をじっくりと眺めてしまう。


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