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1巻
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しおりを挟む1 素顔は秘密の意外な出会い
(ここで合ってる、よね?)
手元のスマホが示した位置情報を再チェックして、紗奈は小洒落たデザインの暖簾を思い切って潜った。柔らかな照明に照らされた居酒屋に、足を一歩踏み入れてみる。
「あ、こっち、こっち!」
(よかった、合ってた……)
妹の親友の優香は笑いながら、手を振って招き、横の席を指差した。見ると、隣の席が紗奈のためにわざわざ確保してある。
それを見て覚悟を決めた紗奈は、そちらに向かってゆっくりと歩み始めた。
客の間を、すみません、と言いながら進む店は、さすがに評判がいいだけはある。木の天井からはお洒落でレトロなライトがぶら下がり、大勢の客が照らされていた。陽気な客があちこちで、笑い声をあげている。
紗奈の向かう先でも、もうすでに結構な数の若い男女が楽しそうに談笑中だ。
そこへ、紗奈はドキドキしたまま近づいていった。
「こちらは、えっと、杉野さんです」
「よろしく……です」
幹事の女性に紹介されると、すかさず条件反射でニッコリと笑えた。
だがさすがに緊張気味だからか、声が少し掠れる。それでも今すぐ逃げ出したい胸の内は心の底に、ギュウウと押し込んだ。そして自分のために空けてあった席に、丁寧に礼をしてから腰掛ける。
(ふう、久々に緊張するわ、これ……)
左右の席には、若い女性たちがずらりと並んでいた。
そんな、どう見ても社会人になりたての出席者に囲まれていても、紗奈はまわりにしっかりと溶け込んでいる。
それどころか、今日の飲み会参加者の中では、一番若く見えてしまっていた。
「結奈、何飲む?」
「じゃあビールで」
紗奈の名前はもちろん、優香に呼ばれた〝結奈〟ではない。
フルネームは杉野紗奈。工作機械メーカー、QNCテックス社の秘書室に勤務してもう五年になる。
つまり、紗奈は新卒どころか、今年二十八歳になるのである。
けれど今夜はわけあって、紗奈は今年新卒である妹の結奈のフリをして、飲み会に参加している。
「本当にごめんなさい、ちょっと道に迷っちゃって……」
紗奈は努めて自然に振る舞い、周りに笑いかけながらも、心の中で諦めの溜息をついた。
(はぁ、何やってんだろ、私……今日こそはドラマの続き、観ようと思ってたのに……)
予定では、今夜も家でまったりドラマを観る、お一人様時間を満喫するはずだった。それがなぜだか今現在、都内の居酒屋でピカピカの新卒お嬢様たちに囲まれている……
「唐揚げ追加、頼むね!」
「こっち! ビール一本足りないよ」
などと元気な声が店内を飛び交い、狭い通路を店の人たちがせわしなく通り過ぎていく。
そんな中、熱気のある若い男女に取り囲まれつつ、茶色い木椅子にチョコンと座っていると、どうしようもなく居心地が悪くなってくる。
それもそのはず、今日の飲み会の趣旨は新しく社会人になった妹の同級生、某お嬢様大学出身の女性たちと社会人の男性たちの集まり――つまりは飲み会とは名目で、要は合コンであった。
普段の紗奈は、会社の付き合い以外はこんなところに出向かない。勤務中はともかく、私生活は割とのんびりである紗奈は、飲みに出ることなど滅多になかったのだ。
そしてただ今彼氏イナイ歴をドンドン更新中なのだが、三十手前のこの歳でもいたって気にしていなかった。だがそんな紗奈と違って、妹の結奈は切実に恋人を欲しがっており、今日の飲み会も、昨日から張り切って念入りに支度をしていたらしい。
昼頃、電話がかかって来た時には、熱を出して寝込んでいる結奈に一時間以上も愚痴られてしまった……
『……というわけでお姉ちゃん、ちょっと私の振りして代わりに合コンに出てきて。今日もどうせ暇よね?』
「は? いや、ちょっと、今日の飲み会って同級生なんでしょ? 出てきてって……いくら何でも無理がない?」
『何言ってるの、ノーメイクのお姉ちゃんなら私とクリソツだし、大丈夫に決まってるでしょ。知らない人ばっかりだし、優香にフォローしてもらえば誰も気が付かないわよ』
「だからってなぜに、私が?」
『今日のメンバーは、ツテでいいトコの人ばかりが集まってるのよ。出会いの場は大切にしなきゃ。でもってついでにカッコいい人がいたら、名刺とか携番とかゲットしてきて。お・ね・が・い!』
「ええぇ……?」
結奈がこの話を持ちかけてきた時は、そんな無茶を優等生の優香が承知するわけがない、と思った。だからうっかり『分かった、優香ちゃんが賛成してくれるなら、出てあげてもいいよ』と返事をしてしまったのだ。
ところが優香から返ってきたのは、まさに想定外の返答だった。
日程調整が大変だった今日のメンバーに、欠員は出せないから……と、優香の真面目な性格が思いっ切り裏目に出た。『お姉さん、どんと任せてっ!』とあっさりフォロー役を引き受けられてしまったのだ。
そして悲しいことに、妹に指摘された通り、紗奈は思いっ切りベビーフェイスだ。
少し長めの髪は、今は妹に似せてふんわり緩くウェーブをつけてはいるが、本当はストレートで幼く見えるし、どことなく甘い顔立ちは、若々しい、と言えば聞こえはいいが、やはりこれも実際年齢より幼く見える。
おまけに体形も小柄で、ヒールのあるミュールやパンプスを履いていないと通勤ラッシュ時などは人に埋もれてしまう。
紗奈自身は、ここに来るまでも電車に揺られながら、いやいくら何でも新卒は無理があるんじゃないの? と思いながら出向いたのだが……
(……なんで誰も気が付かないわけ? 私って化粧してないと、そんなに若く見えるのかな……)
周りの自分よりうんと若い女性たちを何気なく見渡すと、やはり場違いな気がする。
(でも……気にしない、気にしない。えっと、さすが今話題の居酒屋ね、内装も凝ってるし)
ここまで来たからには、と覚悟を決め、無理やり気持ちを持ち直してみた。すると、目の前のテーブルに美味しそうな料理の数々が、次々と運ばれてくるではないか。旨味のある肉汁がジュワと焼ける匂いや、お酒の芳醇な香りなど、食欲をそそられる音や香りが、こちらまでフワ~ンと漂ってくる。
(……ここはせめて、しっかり食べてから帰ろうっと。こんな飲み屋街までわざわざ出向いた労力は、無駄にはできないわ……)
紗奈は、ようし、と周りに合わせてお箸を取り、突き出しを味わった。おいし~い、と見た目を裏切らないその味に目を輝かせる。とりあえずは目の前の料理を楽しむことに決めた。
しばらくしてお腹が美味しいもので満たされてくると、最初はコチコチだった緊張感がかなり薄れる。何とはなしに壁に陳列するお酒を眺めていたら、隣の優香に、お姉さん、ほら、グラスグラス、と目で合図されてしまった。
え? と意識を現実に戻せば、いつの間にか向かいの男性がこちらに笑いかけている。そしてその手には、ビールの瓶が握られていた。
あ、いっけない、と慌てて向かいの男性にグラスを差し出す。
「それじゃあ、新しい出会いに、カンパーイ」
「カンパーイ」
「カ、カンパーイ……」
(コンパなんて滅多に出なかったけど、こんなノリなの……)
合わせるのに必死で、背中に冷や汗が流れる。
でも、自分は一応れっきとした大人の女性なのだ。社会人五年目スキルをフルに発揮して、ニッコリ笑って周りに合わせる。
(はあ~、妹よ、急に熱が出たのは可哀想だけども……)
人数合わせに引っ張ってこられた姉は、もっと悲惨な心境だ……
そうは思いながらも、ようやく気持ちに余裕が出てくる。遅ればせながら、今度はテーブルの向かいに並んだ男性陣をチェックしてみた。みんな結構、良さそうな人たちだなぁ、と今日の集まりのレベルの高さにひたすら感心する。
だが、向かいの席を順々に追っていた目線は、一人の男性の顔まで来ると、ピタ、と止まった。
(……って、あれ?)
紗奈のガラスの心臓の鼓動が、大きくドキンと跳ね上がった。
テーブルの一番奥に、見覚えのある顔を発見したのだ。
(うそっ! あれってサイファコンマ社の方じゃ……? 名前は確か、羽泉さん、だっけ……?)
紗奈は少し遅れて来たために紹介はされていないが、間違いない。
艶々のサラッとした黒髪に、涼しげな切れ長の目、端麗で精悍なイケメン顔。
服の上からでも分かる、均整の取れた逞しくすらっとした体躯と、堂々としたその態度は威圧的なほど迫力がある。
つい先週、紗奈の会社のIT会議に出席していた彼は、顔のいい男が少し苦手な紗奈が珍しく気に入った取引相手だった。彼は愛想はないものの、ものすごく頭のいい人だ。紗奈が羽泉をしっかりと覚えていたのも、会議中の彼の姿がひどく印象的だったからだった。
(確か、エンジニアチーフ? だったっけ?)
それは紗奈の会社で会議前に提出された、専門用語だらけの新システム導入報告書がきっかけだった。システム部の部長を呼んで説明させても要領を得ないことに閉口した社長から、『次の会議には秘書室の誰かが出席して、要点を報告してくれ』と要望された。
それに応えるべく白羽の矢が立ったのが、紗奈だったのだ。
そういうわけで先週は、チンプンカンプンな分野の会議に放り込まれてしまった。
そして当日、資料と出席者たちを必死で照らし合わせて臨んだ会議は、思いもよらずスムーズに進んだ。
それは、テーブルの向かいで黙ってグラスを傾けている男、羽泉の力量によるものだった。
彼は、新システム導入の指揮を取るサイファコンマ社の席で、白熱する会議の要所要所で発言し、会議を見事に動かしていた。気が付けば出席者全員が彼の言葉に耳を傾けており、議題がみるみるまとまっていった。それゆえ紗奈を大いに驚かせたのだ。
『こんな若いのに、すごい! うちの部長、タジタジじゃない?』
彼の年齢はどう見積もっても三十前後。会議出席者の中では若手にもかかわらず堂々と中央の席に座っていた。
そんな彼も今日はプライベートだからか、前髪をサラッと自然に下ろしてある。グラスを持つ手の爪は綺麗に切ってあり、その男らしい骨張った長い指に、思わずドキッとしてしまった。
心臓はそのまま、ドキ、ドキ、ドキと少し速めに鳴り出す。
(落ち着いて、紗奈、幸いあっちはまだ私に気付いていない……と思いたい……)
世間って狭過ぎると、目をチラチラやってしまいそうになるのを、無理矢理とどめる。
そして何気なく優香たちとの会話に混じって、そちらを意識しないように努めてみるのだが……
――こんな賑やかな場なのに無愛想なのは変わらないんだと、いつの間にか目の端に映る彼に、どうしようもなく惹かれてしまう。
そのうち、向かいの女性が恐る恐る彼に話しかけた。だが彼は、相変わらず愛想笑いもせず、簡潔な返事を淡々としているようだった。
見るからに緊張している若い女性は、そんな彼の態度に戸惑っている。
今夜の彼は先日のスーツ姿とはガラッと変わり、黒いジーンズにラフなシャツ姿だ。袖をまくったシャツからは健康そうな逞しい腕が覗いていた。
居酒屋の狭いテーブルの下で窮屈そうに手足を伸ばしているその姿は欠伸こそしないものの、時々遠くを見る目が、早くこんなところから解放されたいと語っているようだった。
どうやら彼は、合コンに興味はないようだ。
先程から、隣の茶髪の友人らしき人と熱心に話し込んでいる。
二人ともすこぶるいい男なので極めて目立って、そこだけ異世界のようだ。
(やっぱり、私に気付いてない……よね?)
新卒に混じって出席している自分に気付かれたとして、その後、会社でまた顔を合わせるのは勘弁して欲しい……
飲み会がくだけた雰囲気になってきたのをこれ幸いと、紗奈はわざと席を何度か移動した。
奥の席から動かない彼らから、さり気なく遠ざかっていく。
(もうそろそろ、抜けてもいいかな……)
これ以上の長居は、ガラスの心臓に悪過ぎる……
みんなほろ酔いになってきた頃、優香にそっと「帰るね」と断って、トイレに行くフリをして店の外に出た。
(ハア~、どっと疲れたー。さあ、妹よ、義理は果たしたわ。姉はここでおさらばよ!)
解放感に浮かれて夜の飲み屋街に漂う美味しそうな匂いを、スーと吸い込むと、最寄駅の方向にクルッと身体を向ける。
「帰るのか? 駅まで送ろう」
「え?」
低い声が、耳のすぐ側で聞こえたので驚いた。あ、とうっかり身体のバランスを崩しそうになる。
途端に、ガシッと逞しい腕に後ろから肩を支えられ、いつの間にか広い胸に寄りかかっていた。
「っ、ごめんなさい」
「いい。駅はこっちだな」
聞き覚えのある深みのある声と、紗奈好みの惚れ惚れする男らしい横顔が、鮮やかな電灯に照らされて浮かび上がった。すると胸がドキンと跳ねて、顔が熱くなってきた。けれど赤くなった頬は、赤や黄色の明るい電灯看板のおかげでカモフラージュされたようだ。
慌てて姿勢を正すと、彼は目で、付いて来い、と合図してくる。
「この辺は酔っ払いが多いから、女性の一人歩きは危ない」
「あ……」
繁華街は明るく大勢の人が行き来しているが、確かに飲み屋から千鳥足で出てくる人たちも少なくない。
相変わらず会議中と変わらない無愛想な顔だし、言葉は簡潔だ。
けれども、紗奈を気遣ってくれているに違いなかった。
(もう少し愛想良くしたら、すっごくモテると思うんだけど……)
さっきの店でも、何人もの女性にチラチラと見られていたし、少数だが勇気ある女性たちに声も掛けられていた。
それでいて、どことなく声を掛けにくい雰囲気を、この男は醸し出している。
(……まあ、一応勤めてる会社も知ってるし、送ってもらっても大丈夫かな?)
よく知らない男性に送ってもらうなんて、本来なら絶対にお断り、だ。
けれども、羽泉に他意はないと思えたし、好みの男性と話ができるかも、と珍しく下心も少し働いた。
駅までならすぐだし、彼は多分自分に気付いていない。
(一回会社で会っただけだし、直接話したこともないし……大丈夫。ここはお言葉に甘えよう)
「ありがとうございます」
「ああ」
軽く頭を下げて礼を言ったら、彼は簡潔に頷いた。そしてそのまま、ゆっくりと歩き出す。
(……やっぱり、思った通り背が高い……)
会社でもさっきの居酒屋でも彼の座った姿を見て、何となくそうかな、と想像していた。
低いヒールのミュールを履いた小柄な紗奈の隣に並ぶと、その腰骨の高さにびっくりだ。
わざとゆっくり歩いて、彼の後ろから、その長い脚と形のいいヒップを確認してしまう。
思わず憧れの溜息が、ホウッと口から漏れた。
一方彼は、紗奈が遅れがちなのにすぐに気付くと、こちらの歩幅に合わせてゆっくりと隣を歩き出した。
(歩幅合わせてくれている? 照れてる感じはないから、これは元々の性格なのね……)
そんなことを考えながらのんびり隣を歩いていると、気が付くとそこは駅前だった。
(あれ、もう着いちゃった……)
「あの、ありがとうございました」
改札口でもう一度お礼を言ったら、彼がじっと見つめてくる。え? と思う間もなく、彼は短く頷くとそのまま雑踏に消えていった。
無口な背中を見送った後、ちょっとほっこりした気分になる。
自然と微笑んで改札を潜り、その晩は上機嫌で帰路に着いた。
「失礼します。社長、そろそろお時間です」
「ああ、もうそんな時間か。じゃあちょっと行ってくる」
スケジュール通り専務と出掛ける社長を見送ると、紗奈は自分の机に向かった。
頼まれていた英訳、報告書のまとめ、書類の整理など、目の前には仕事が山のように積もっている。
「秘書室の杉野です。あの稟議書の件でメールを送りました」と、大事な用件はメールだけでなく口頭でも伝えてから、うーんと大きく伸びをする。
(はあ、そろそろお昼かな? 今日はなんか、がっつり食べたい気分だわ)
とっさに、カツ丼が頭に浮かんだ紗奈は同僚に一言声を掛けてから、ズレそうになったメガネの縁を押し上げつつ立ち上がった。
(さあてと、昨日は給料日だったし、今週末はドライブに出掛けよう! 明日の天気とかも、お昼を食べながらチェックして……)
などと考えながら会社を出て、お気に入りの定食屋に向かって足取りも軽く歩く。
すると突然、後ろから声を掛けられた。
「杉野さん! ちょうどよかった。今日こそ昼一緒にどうですか?」
「……ごめんなさい、ちょっと目を通さなきゃならない書類があって。また今度にでも」
書類らしきものが覗いて膨れたバッグを認めた男性社員は、残念そうな顔をして、じゃあまた今度、と去っていく。
A4書類がスッポリ入る手提げバッグは、こういう時に使える便利な小道具だ。
何度も誘ってもらって悪いとは思う。
だが、営業の彼は残念ながら好みのタイプではない。なので、誘いを全てやんわりと断っている。
それに彼は、会社での紗奈しか知らない。
紺のピンストライプのすらっとしたスーツ姿に結い上げた髪形、ハーフリムの上品な眼鏡をかけた紗奈は、誰が見ても「できる女」だ。
メイクもバッチリ、肌も輝いて、一見優等生タイプの美女である。
今、先週末に会った飲み会の若者の集団に紛れたら絶対浮くだろう。
素顔はベビーフェイスだが、実は紗奈はものすごく化粧映えのする顔だ。
この姿でいると店員の愛想が途端に良くなり、女性陣からはなぜか敬語で話しかけられてしまう。
(……いいんだけどね、どっちも私だし……)
紗奈の視力は、眼鏡をかけなくてもいいのだが、仕事柄、こっちの方が箔が付いてちょうどいい。
会社用の顔は、月曜から金曜まで。土日は素顔で過ごしているのだが、最近はドライブに出掛けるのを楽しみにしている。
(今週末のドライブは、どこに寄ろうかな?)
お気に入りのサイトで目ぼしいところをチェックして、「週末の天気、土曜晴れ」の予報に、ニマニマしながら昼食を食べ終える。そうして上機嫌で週末のプランを練りながらオフィスの廊下を歩く。
すると、見覚えのある一団がちょうど会議室に入って行くところに行き合った。
(ああ、午後一番の会議ね。今日こそ仕様書の草案、まとまるといいけど……)
そんなことを考えながら彼らを見送っていると、ひときわ背の高い、スラリとした男性が紗奈に気付いた。目が合うと軽く、顎を引いて挨拶をしてくる。
(えっ? 今のって私に……だよね?)
彼は週末に居酒屋で会ったばかりの男性――羽泉だった。確か先週の会議では名前を紹介されただけだ。会社で会うのはまだ二回目のはず。なのに、あれだけの人数の出席者の中、発言もしなかった自分を覚えていたのだろうか?
(うそっ! まさか、あの居酒屋で気付いた、ってことはないよね……?)
トンデモない予感が、頭をよぎる。
(ないっ、絶対ないっ、きっと偶然よ! ぐうぜん……多分……きっと……)
急いで否定したものの、自信のない心の声は最後は消えそうになる。
スーツのよく似合う彼にかろうじて会釈を返したものの、まだパニックはおさまらない。
彼が気付いていませんように……と心の中で祈る紗奈であった。
◇ ◇ ◇
(あ~、疲れた時の一杯は、身体に染みるわぁ)
その週の金曜日の午後。紗奈は会社を出る前に、梅昆布茶を片手に書類チェックに励んでいた。
定時で上がる前に何としてもこれだけは、と処理すべきメールがゼロになった時、タイミング良くスマホのアラームが、ブーッと鳴った。
(やった、今日も持ち越しなし。さあ、帰ろう)
「お疲れ様です」
「杉野さん、お疲れ様です」
同僚たちの元気な声を後に会社を出ると、脇目も振らず金曜の夕方ラッシュの中を足早に進んでいく。
紗奈の会社は自社ビルだが、製品デモセンターも兼ねているので車を停める駐車場が完備されている。ギリギリ都内ではあるが、神奈川県の駅が最寄り駅だ。
駅のホームでプルルルー、とドアが閉まる合図の音が鳴り響く中、小走りで電車に飛び乗った。
ヘッドフォンで音楽を聴いている学生たちやサラリーマンの群れに、割と小柄な紗奈の身体がギュウギュウと埋まる。人々の隙間から見える車窓には、自分の澄まし顔が映っていた。
――のだが、内心ではこれから始まる週末への期待感で、ニマニマである。
(ふう、今週も無事終わった~。さあ、早く帰って明日のドライブの準備をしなくっちゃ)
週末ドライブに憧れていた紗奈は、熱心にお金を貯めて何年か前に念願だった新車を購入した。
そして、愛車のために駐車場が近くにあるマンションにわざわざ引っ越したのだ。
それ以来、天気の良い給料日の週末は、一日中ドライブするのが紗奈の楽しみだった。
(今月は昼食代が結構浮いたから、お小遣いもあるし……)
夕食の残りをお弁当にして貯めたお金で、ドライブのついでに名物料理店などにも寄ることもあった。
車の維持のために、住むところはマンションとは名ばかりの年季の入った小さな建物にしたし、かつかつの生活だけど、それでもドライブはやめられない。
(芝桜ちゃん、待っててね。ふふふ……)
不気味な笑いを浮かべながら通い慣れた家路を、足取りも軽くコツコツと歩いていく。
今週末は、芝桜を見に行く、と紗奈は決めていた。
目的の芝桜のある公園は、去年初めて立ち寄ったスポットだ。一面に咲き誇る芝桜は、少し離れて見るとまるで丘に花の絨毯を広げたようで、その幻想的な景色に心まで春の桜色に染まった。思いがけない贈り物を受け取ったような気持ちになれたのだ。
その日は、一日中ウキウキした気分で過ごしたのを今でも覚えている。
だから今年も花見を、何ヶ月も前から楽しみにしていた。
(ゴールデンウイークにかかると道が混雑するし、早めに観に行こう。今にも開花しそうな感じの、微妙に綻んだ蕾も可愛らしいし……)
春が来た来た、と心の中で歌いながら、マンションの玄関ドアをガチャリと開けた。
チェーンロックをしっかり掛け、靴を脱いでバッグを小さな折りたたみ机の上に置くと、ほっと一息つく。
今日も幸いなことに、問題のあるお隣さんには、遭遇しなかった。
紗奈の隣人は、何ヶ月か前に越してきたサラリーマンの中年男性だ。
いつだったか、平日の仕事帰りに初めて挨拶をされ、そのままマンションの廊下で延々と身の上話を語られた。初対面であるにもかかわらず、だ。
離婚したばかりで食事に困っているとボヤかれ、前の奥さんの愚痴を散々聞かされるともう早く解放されたくて、紗奈は丁寧に断って退散しようとした。すると、今度は、僕も杉野さんみたいな人に夕食作って欲しいなあ、とか言い出したのだ。寒気を感じ、挨拶もそこそこにドアを閉めて退散したのだが、男はそれ以来、醤油がないなどと言っては紗奈の部屋のドアを叩いてくる。
今時醤油なんて隣人にもらうだろうかと思いつつも、毎週繰り返されるパターンに辟易して、三週目からは用意した醤油をすぐに渡すようにしている。
(なくなった下着も、全部ベランダに干してあった物だしっ)
下着が数枚見当たらなくなっても、最初は自分の勘違いかな? と大して気にしていなかった。
……が、さすがに同じことが続くと、これはもしかして? とようやく気付いた。外から見えないよう、物干しをベランダの端に置いていたのだが、建物が古い造りのため隣との防火壁に隙間があって、手を伸ばせば取れないことはなかった。
今は家の中で洗濯物を干しているので、それ以降の被害はない。
だがさすがにこれは気味が悪いと思い、駐車場代が上がることもあって、引っ越しを検討し始めたのだ。
この頃隣人に会わないことに内心ホッとしつつも、今日こそはネットで賃貸情報をチェックしようと思っている。
(ひとまずお腹も減ったし、ご飯にしよう)
コンビニ弁当を食べ、お風呂の後に毎日チェックしている経済番組を熱心に観ていると、ふあぁ~、とつい大きな欠伸が漏れてしまう。
(今週も忙しかったし、明日は早起き。さあ、今日はもう寝ましょ……)
真っ暗な天井を眺めながら瞼が重くなった頃、小さな忘れ物がひょっこりと頭に浮かんだ。
(あっ、浮かれ過ぎて賃貸情報チェックするの忘れてた。ま、いっか、明日明日……今更、スマホいじるのもめんどくさいし……)
閉じていく瞼の重みに逆らえず、紗奈は久し振りにいい気分でぐっすりと眠った。
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