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おまけ

アウエルンハンマー・ソナタ

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 ヨゼフィーネ・フォン・アウエルンハンマー(ヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー)は一七五八年九月二五日に生まれ、一七八一年にモーツァルトの弟子となった貴族の令嬢である。彼女の父ヨハン・ミヒャエル・アウエルンハンマーはオーストリアの実業家であり、経済顧問官として認められた人物だった。

「経済顧問官アウエルンハンマー殿のご令嬢だな。私が見たところ音楽の才能にあふれた女性だ。きっと君も気に入るだろう」

 サリエーリは彼女を教える事になったモーツァルトに簡単な説明をする。モーツァルトはサリエーリに負けず劣らず、音楽の才能がある人物を好むのだ。彼が熱烈に好意を寄せていたアロイージアも、女性としてではなく歌手として愛していたフシがあり、それが彼女に振られた最大の原因であったとも考えられる。

「経済顧問官のご令嬢! ああ、きっと美人なんだろうなー。彼女に贈るソナタを作って、共演なんかもしちゃおう」

 モーツァルトはヴィーンで念願の弟子を取れたので浮かれていた。この当時既にコンスタンツェとの仲が囁かれていた(噂を流したのはコンスタンツェの母親だが)事もあり、サリエーリは頭を抱える。

「せっかくの仕事を不祥事でご破算にするのはやめてくれよ。アルコ伯爵から尻を蹴飛ばされたばかりだろう」

 コロレード大司教の側近から怒りと共に解雇を通達されたのはこの年の六月だ。この出来事からフリーランスとなったモーツァルトは、ヴィーンで注目の作曲家になっていた。上流階級の弟子を得たモーツァルトは意気揚々とヴィーンのパッサウアーホフにあるアウエルンハンマー邸に向かうのだった。

「ようこそいらっしゃいました、モーツァルトさん」

 そこで待っていたのは、モーツァルトの好みではない外見の女性であった。彼は『悪魔のような見た目』と語っているが、彼女の肖像画からすると確かに美しくはないがそこまで不細工ではない。だが、期待が大きすぎたようだ。他の誰にもするように愛想よく相手しながらも、彼の中では少なくとも女性としては興味を失っていた。それなのにアウエルンハンマー嬢はグイグイと近づいてくるのだ。二時間のレッスンでは物足りないのか、更に引きとめようとする彼女をぶっきらぼうに振り切って帰るのだった。

「どういう事ですか、サリエーリさん!」

「どうした? アウエルンハンマー邸で何か酷い扱いをされたのか?」

「みんないい人ですよ。でもアウエルンハンマー嬢はとんでもない容姿で、しかも僕の事が好きだって言うんですよ!」

「……行く前の君はそれを期待していたように見えたが」

 宮廷の楽譜を見せてもらいに来たついでに行き場の無い怒りをサリエーリにぶつけるモーツァルト。確かにサリエーリが言うように音楽の才能はあった。だが、女性として興味がないのにあちらはかなり強い好意を向けてくるのだ。なんと彼女も町で自分とモーツァルトが結婚するのだという噂を流しているらしい。この頃のヴィーンでは意中の相手との噂を流して既成事実化する事が流行っていたのだろうか?

「それで、アウエルンハンマー嬢に献呈する曲を選ぼうと思うんですけど、どれがいいと思います?」

 モーツァルトはこの頃自身の作った曲をまとめて出版する予定だった。そのまとめた曲、六つのヴァイオリン・ソナタをアウエルンハンマー嬢に献呈するのである。これはまとめて《アウエルンハンマー・ソナタ》と呼ばれている。

「曲は贈るのか……しかしどれもヴァイオリン・ソナタばかりじゃないか、ピアノの曲も必要だろう。ほら、これなんかどうだ? 技量の高い君とアウエルンハンマー嬢の二人で弾くのに丁度いい」

 モーツァルトが作曲したケッヘル番号三六五、《ピアノ協奏曲第一〇番 変ホ長調(二台のピアノのための)》を示す。

「うーん……これも良いけど、彼女の実力を見せるにはもっと迫力のある、それでいて明るい曲も欲しいな」

 二人で弾くと聞いて、モーツァルトは真剣に彼女の技量を考え始めた。近いうちにアウエルンハンマー邸で共演する事になっているのだ。その様子を見たサリエーリは内心ホッと胸をなでおろす。

(口では悪く言っていても、彼女を弟子として大切に思っているのだろう)

 モーツァルトは自分が好意を持っている相手について悪く言う(手紙で書く)事がある。その最たるものがサリエーリに関する手紙なのだが、モーツァルトの性格について理解が進んできたサリエーリにとっては、それも微笑ましく見えるのだった。


 そして一七八一年一一月二三日、モーツァルトとアウエルンハンマー嬢はアウエルンハンマー邸でピアノの共演をする。演目は《ピアノ協奏曲第一〇番 変ホ長調(二台のピアノのための)》と、ケッヘル番号四四八《二台のピアノのためのソナタ ニ長調》である。《二台のピアノのためのソナタ》はモーツァルトがこのために作曲した作品だ。

 モーツァルトはアウエルンハンマー嬢の演奏技術について、こう語っている。

『とてもうっとりとするような弾き方をします。ただし、カンタービレの本当のこまやかな、歌うような味わいに欠けています。何でもかんでもつまむように弾いてしまうのです』

 これは六月二七日付けの父への手紙で語っている内容である。アルコ伯爵に解雇され、彼女を弟子に取ってすぐに『うっとりする』とまで評している彼女と共に弾くピアノの曲。それを聞いたサリエーリは彼の本心を見抜くのだった。

(モーツァルトはこの曲を彼女と共に弾くために書いている。本当に一緒に演奏して楽しいと感じているのだろう……女性に対する態度と音楽に対する態度で、ここまで切り分けられるのはやはり天才だからなのだろうか。アウエルンハンマー嬢には少々気の毒ではあるが)

 このアウエルンハンマー嬢は巨匠ハイドンにも絶賛され、ピアニストとして活躍するが一七八六年に将校ヨハン・ベッセニヒと結婚して四児をもうけるのである。
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