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第四幕 彼の後悔と突然囁かれる噂

音楽への感謝、そして入院

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 サリエーリはロッシーニの新しいイタリア・オペラに触れて、音楽の更なる可能性に思い至った。そして、これまで新しい音楽を支援し、音楽界をけん引してきたと思っていた自分が、いかに頭が固く、時代遅れになっていたのかを理解したのである。

 それを自覚した時にサリエーリの心から生まれた感情は、感謝だった。

「なんという音楽の多様性。これこそまさに神の恵みだ!」

 サリエーリは一八二二年五月二二日、芸術への感謝を述べる言葉を書いた。


『私が職業とする芸術への感謝
 音楽! 自然の神々しき模倣よ。おまえと過ごした幸福な時に、私はどれほど感謝すれば良いのだろう!
 神の恵みしものは、すべてがなんという喜び!
 単声の教会音楽にあっても、あるいは全音階の歌の素朴さにあっても、なんと純粋で、敬虔で、神々しい心地よさ!
 慎重に楽器で伴奏された華麗な多声音楽の荘厳さ、そのなんと崇高で、神聖で、気高い喜び!
 アカデミーの名手たちの奏でる音楽、芸術の豊饒さから生まれる、なんという多彩さと心地よさ!
 劇作品の六つのジャンル、その悲劇において人間を教化し、慈悲の心を起こさせることの喜び!
 英雄劇における、なんと力強い心地よさ! それはどれほどヒロイズムを呼び覚ますことか! 善なるもののために、自分を犠牲にしようと思わせてくれることか!
 牧歌劇のジャンルのなんと愛すべき、羨むべき、無垢、安らぎ、静寂、上質な平凡さ!
 中間的ジャンルの自然な上品さ、愛情と無邪気な冗談の混ざり合う、なんという心地よさ!
 喜劇的あるいは滑稽なジャンルの、なんと心を陽気にさせてくれることか! 健康的で道徳的な笑いを起こさせてくれることか!
 器楽のジャンルにおいても、バレエやパントマイムなどどいわれるそれは、言葉であらざる言葉の模倣への注意を、私たちにどれほど喚起させてくれることか! 器楽は、統合されたほとんどすべてのジャンルを抱合することができる。
 それゆえ私は尊敬を捧げる。音楽! 自然の神々しき模倣よ! おまえと過ごした幸福な時へ、私はどれほど感謝すれば良いのだろう!
 [一]八二二年五月二二日 サリエーリ』(水谷彰良『サリエーリ 生涯と作品』 復刊ドットコム 2019年 pp.295-296)


 サリエーリは自分の音楽が時代遅れになった事を嘆くのではなく、次々と新たなタイプの音楽が生まれる事を『喜ばしき多様性』と表現して、心からの喜びをもって受け入れたのだった。

 ロッシーニがヴィーンを去る直前、サリエーリは最後の弟子となるフランツ・リストと出会う。まだ一〇歳のリストが演奏するピアノの曲を聴いたサリエーリは、あまりの才能に驚いてすぐに自分の弟子としたのだ。短期間のレッスンだったが、後にリストはサリエーリへの深い感謝の念を述べている。



 七月二二日にロッシーニがヴィーンを去ると、サリエーリは言いようのない淋しさに襲われる。ヴィーンに暮らすイタリア人は自分一人になってしまった。町中でサリエーリのスキャンダラスな噂が語られている。

「まったく事実無根の噂だが……それでも、私がモーツァルトを殺したと責められるのは辛いな。確かに、私が彼の死に一切責任がないとは言い切れないのだから」

 そして翌一八二三年には体の衰えが顕著になり、自宅療養をするようになる。湯治にも出向いたが一向に良くならない。一〇月には両足の麻痺が悪化し、ついに娘たちの希望でヴィーン総合病院へ入院させられてしまうのだった。

「もう私も長くない……先に天に召されたモーツァルトは、私を笑顔で迎えてくれるだろうか?」

 モーツァルト毒殺の噂がますます人々の口に上り、サリエーリも頻繁にかつての親友を想うようになっていた。そんな時に、昔の弟子の一人、モシェレスがヴィーンを訪れ彼を見舞った。

「これが私の最後の病になるだろう。モシェレスさん、どうかあの馬鹿げた噂が悪意ある中傷であると世間の人たちに言って欲しい」

 モシェレスは、サリエーリが身の潔白を訴えた事に涙した。だがこれが逆効果となり、モシェレスの心の中にあるモーツァルト毒殺の疑いを強める結果となる。彼は師に言われた通り、世間の人たちにこの事を話すのだが、それはサリエーリの意図と反する結果になった。

「やはり、サリエーリ氏はモーツァルトに毒を盛っていたに違いありません。彼は死を目前にして精神を病み、己の罪を告白して許しを請うたのです」

 同時期に、イタリア派閥とドイツ派閥の争いが再燃し、イタリア派の勝利が確定する。それがますます国粋主義者たちの心に憎しみの炎を燃え上がらせ、サリエーリを中傷する噂を拡大させていくのだった。

 彼等はサリエーリがナイフで自分の喉を切り裂き、自殺を図ったという妄想のでっち上げを加えた。当時サリエーリに会えたのは医師や看護婦と、面会に来たモシェレスだけであり、病室内での出来事を外部の人間が知るはずもないのだが、だからこそ、その噂を嘘だと否定できる者もいなかったのである。
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