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第四幕 彼の後悔と突然囁かれる噂
ベートーヴェン
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ベートーヴェンはサリエーリに弟子入りする前に作曲家として既に自作品を出版していた。
そのため、彼の気位の高さを知る周囲の人間は少なからず驚きを見せた。
「あのベートーヴェンが弟子入りだって? 一体何日持つかな」
実際ベートーヴェンは頑固で、サリエーリが彼の作曲した楽譜にいくつか変更するよう助言をすると、サリエーリから離れて自分の作曲した通りに演奏しようとするなど、たびたび師匠を困らせた。
だが、温厚で辛抱強く、何よりベートーヴェンの才能を高く買っていたサリエーリは根気よく指導した。ベートーヴェンもサリエーリの指導力の高さを理解し、自分の事を認めてくれる師に心を開いていくのだった。
ある日、ベートーヴェンはイタリア語のテキストに歌詞と一致しない曲をつけてしまう。当然サリエーリは誤りを指摘した。
「これでは言葉と曲が合わないだろう。歌手が歌う事を考えて、歌詞に合わせるんだ」
さすがにベートーヴェンといえどもこれに反抗はできない。言われた通りに曲を作り直したのだが、数日後。サリエーリはベートーヴェンに会うとぼやいた。
「君の作った旋律が頭から離れなくて困るよ」
するとベートーヴェンは顔を輝かせてこう言う。
「先生、それなら私は良い曲を作ったのですね!」
このように、才能にあふれ頑固なベートーヴェンは、目下の者に対してもその才能を認め、素直に称えるサリエーリに懐いていったのである。
さて、サリエーリは《ファルスタッフ》で成功し、またオペラに意欲を見せる。翌年一八〇〇年には《ファルスタッフ》と同じ台本作家カルロ・プロスペロ・デフランチェスキによる《ファルマクーザのチェーザレ》と《アンジョリーナ》を初演した。
まず六月二日にケルントナートーア劇場で《ファルマクーザのチェーザレ》が初演される。これも成功を収めるが、《オルムスの王アクスール》との類似が見られるためにマンネリと受け取られた。
次に一〇月二二日にケルントナートーア劇場で《アンジョリーナ》が初演された。これは失敗とは言えないものの、あまり評判が良くなかった。特に翌年プラハで再演された時には『サリエーリのくだらない音楽を伴う性懲りもないどたばた劇。彼がこれまで書いた最も凡庸な作品であるのは疑いの余地がない』(『総合音楽新聞』一八〇一年四月一五日付)と酷評された。
「いえ、私は素晴らしいと思います」
失敗して残念そうにするサリエーリにベートーヴェンは声をかけた。
「君がそう言ってくれると自信がわいてくるよ」
この作品もまた、男性が女性に化けるという内容だった。現代においては復活される価値のある作品と研究者は言う。
いくらか時代を先取りするようなものを書くサリエーリだったが、それでも彼が作るオペラは徐々に時代遅れになっていく。この頃になってやっとモーツァルトの再評価が始まったのだ。彼の死から実に十年以上の月日が経っていた。
「先生はモーツァルトと仲が良かったんですよね? どんな人でしたか?」
ベートーヴェンはモーツァルトに興味を示す。彼はピアノの演奏を得意としたため、同じくピアノ演奏を得意としたモーツァルトの事を知りたがった。モーツァルトの生きた時代を知ってはいるが、彼の人となりについては詳しくないのでサリエーリに聞いたのだ。
「とても無邪気で素直で、素晴らしい天才だったよ。少々ふしだらな生き方をしてしまったけど」
「ふぅん……でも、才能は私の方が上でしょう?」
今は亡き大先輩に対抗意識を燃やすベートーヴェンの様子に、笑みがこぼれる。自分の性格がどう思われているかは自覚しているようだ。ベートーヴェン自身もかつてモーツァルトに憧れてヴィーンへやってきていたのだが、負けず嫌いな気性が音楽面でも師匠からの好意でも対抗心を生んだのだ。
(彼がまだ生きていたら……いや、むなしい仮定はやめよう)
サリエーリは自分のオペラが時代遅れになった事を自覚した時、それほど残念に思わなかった。それは自分の弟子や後輩たちが頭角を現してきた証拠でもあり、同時に時代を先取りしすぎた親友がやっと評価されつつあるためでもあったのである。
だが、それが新たな悪意の誕生を意味するとは、この時のサリエーリには予想もつかなかった。
ところで、ベートーヴェンとの師弟関係はなんと一八〇九年まで続いたという。それを証言するのは一八〇八年にサリエーリに弟子入りするイグナーツ・モシェレスである。
モシェレスが一八〇八年にサリエーリの家を訪ねた時、彼の家の前に書付けを見つけた。そこにはこう書かれていたという。
『弟子ベートーヴェンがここに来ました』
「ベートーヴェンってまだサリエーリの弟子だったんだ!」
ベートーヴェンに憧れる十四歳のモシェレスは驚きのあまりこの事を日記に書き記してしまうのだった。
その前後、ベートーヴェンはサリエーリとトラブルになり、一方的に絶縁を宣言するのだが、変わらず接するサリエーリにすぐ心を開いていたのだった。
そのため、彼の気位の高さを知る周囲の人間は少なからず驚きを見せた。
「あのベートーヴェンが弟子入りだって? 一体何日持つかな」
実際ベートーヴェンは頑固で、サリエーリが彼の作曲した楽譜にいくつか変更するよう助言をすると、サリエーリから離れて自分の作曲した通りに演奏しようとするなど、たびたび師匠を困らせた。
だが、温厚で辛抱強く、何よりベートーヴェンの才能を高く買っていたサリエーリは根気よく指導した。ベートーヴェンもサリエーリの指導力の高さを理解し、自分の事を認めてくれる師に心を開いていくのだった。
ある日、ベートーヴェンはイタリア語のテキストに歌詞と一致しない曲をつけてしまう。当然サリエーリは誤りを指摘した。
「これでは言葉と曲が合わないだろう。歌手が歌う事を考えて、歌詞に合わせるんだ」
さすがにベートーヴェンといえどもこれに反抗はできない。言われた通りに曲を作り直したのだが、数日後。サリエーリはベートーヴェンに会うとぼやいた。
「君の作った旋律が頭から離れなくて困るよ」
するとベートーヴェンは顔を輝かせてこう言う。
「先生、それなら私は良い曲を作ったのですね!」
このように、才能にあふれ頑固なベートーヴェンは、目下の者に対してもその才能を認め、素直に称えるサリエーリに懐いていったのである。
さて、サリエーリは《ファルスタッフ》で成功し、またオペラに意欲を見せる。翌年一八〇〇年には《ファルスタッフ》と同じ台本作家カルロ・プロスペロ・デフランチェスキによる《ファルマクーザのチェーザレ》と《アンジョリーナ》を初演した。
まず六月二日にケルントナートーア劇場で《ファルマクーザのチェーザレ》が初演される。これも成功を収めるが、《オルムスの王アクスール》との類似が見られるためにマンネリと受け取られた。
次に一〇月二二日にケルントナートーア劇場で《アンジョリーナ》が初演された。これは失敗とは言えないものの、あまり評判が良くなかった。特に翌年プラハで再演された時には『サリエーリのくだらない音楽を伴う性懲りもないどたばた劇。彼がこれまで書いた最も凡庸な作品であるのは疑いの余地がない』(『総合音楽新聞』一八〇一年四月一五日付)と酷評された。
「いえ、私は素晴らしいと思います」
失敗して残念そうにするサリエーリにベートーヴェンは声をかけた。
「君がそう言ってくれると自信がわいてくるよ」
この作品もまた、男性が女性に化けるという内容だった。現代においては復活される価値のある作品と研究者は言う。
いくらか時代を先取りするようなものを書くサリエーリだったが、それでも彼が作るオペラは徐々に時代遅れになっていく。この頃になってやっとモーツァルトの再評価が始まったのだ。彼の死から実に十年以上の月日が経っていた。
「先生はモーツァルトと仲が良かったんですよね? どんな人でしたか?」
ベートーヴェンはモーツァルトに興味を示す。彼はピアノの演奏を得意としたため、同じくピアノ演奏を得意としたモーツァルトの事を知りたがった。モーツァルトの生きた時代を知ってはいるが、彼の人となりについては詳しくないのでサリエーリに聞いたのだ。
「とても無邪気で素直で、素晴らしい天才だったよ。少々ふしだらな生き方をしてしまったけど」
「ふぅん……でも、才能は私の方が上でしょう?」
今は亡き大先輩に対抗意識を燃やすベートーヴェンの様子に、笑みがこぼれる。自分の性格がどう思われているかは自覚しているようだ。ベートーヴェン自身もかつてモーツァルトに憧れてヴィーンへやってきていたのだが、負けず嫌いな気性が音楽面でも師匠からの好意でも対抗心を生んだのだ。
(彼がまだ生きていたら……いや、むなしい仮定はやめよう)
サリエーリは自分のオペラが時代遅れになった事を自覚した時、それほど残念に思わなかった。それは自分の弟子や後輩たちが頭角を現してきた証拠でもあり、同時に時代を先取りしすぎた親友がやっと評価されつつあるためでもあったのである。
だが、それが新たな悪意の誕生を意味するとは、この時のサリエーリには予想もつかなかった。
ところで、ベートーヴェンとの師弟関係はなんと一八〇九年まで続いたという。それを証言するのは一八〇八年にサリエーリに弟子入りするイグナーツ・モシェレスである。
モシェレスが一八〇八年にサリエーリの家を訪ねた時、彼の家の前に書付けを見つけた。そこにはこう書かれていたという。
『弟子ベートーヴェンがここに来ました』
「ベートーヴェンってまだサリエーリの弟子だったんだ!」
ベートーヴェンに憧れる十四歳のモシェレスは驚きのあまりこの事を日記に書き記してしまうのだった。
その前後、ベートーヴェンはサリエーリとトラブルになり、一方的に絶縁を宣言するのだが、変わらず接するサリエーリにすぐ心を開いていたのだった。
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