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第五階層「古城エリア」①

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 薄暗い世界。
 空は常に暗雲に覆い尽くされ、空自体が本来の自身の色である「蒼」を忘れて久しい。
 ごろごろという雷の音がエリア全体に響き、次いでかっと閃光が迸る。同時に響いた轟音が私の鼓膜を痛めつける。
 ここはヘルヘイム荘、第五階層「古城エリア」。
 この階層は荒野が一面に広がっており、所々に巨大な岩や枯れ木などが散見される。そして、その名が示すようにエリアの各所には幾つかの古城がひっそりと建っている。
 この階層の住民たちの殆どは、この古城に暮らしている。
 その生活方式は様々だ。
 古城の、それもわざわざ地下に潜って自分の趣味に没頭する者。
 貴族のように──中には本当に貴族の場合もある──、たくさんの使用人にかしずかれて君臨する者。
 家族数人でごく普通に暮らす者、などなど。
 もちろん、家賃さえ払ってもらえれば、どのような生活を送ろうと私は関与するつもりはない。
 そして、今、私の目の前に聳える古城に暮らす店子もまた、僅かとはいえ使用人たちと共にここで暮らしている者の一人だ。
 彼の名前はヴァンさん。吸血鬼ヴァンパイアであり、この魔界ではかなり有名は俳優でもある。



 私は玄関の横に設置されている、ドアベルのスイッチを押し込んだ。
 りんごーん、という重々しい音が城の中から聞こえてくる。
 しばらくそのまま待っていると、玄関のドアがぎぃぃぃぃと軋みながら内側から開かれた。
 ちなみに、私はこんな立て付けの悪い物件を用意した覚えはない。この古城に住み着いたヴァンさんが、大家である私の許可を得てわざわざこんなドアに付け替えたのだ。
 なんでも、こちらの方が風情があっていいとのこと。
「どなた様でしょうか?」
「私だよ、ヴェルフさん」
「おや、これは大家様でしたか」
 城の中から現れたのは、黒の三つ揃えを隙なく着こなした初老の男性。この男性はこの城の執事のヴェルフさんだ。
「ようこそおいでくださいました、大家様。して、本日はどのような用件で?」
 相変わらず慇懃な態度を崩すことのないヴェルフさんに、私はここを訪れた目的を告げた。



 城の中の応接間に通されて、そのまま待つ。
 応接間を飾る調度品はどれも見事なものばかり。
 しかも、華美なだけでは決してなく、品の良さも感じられる。
 確か、ヴァンさんはここスペキュラーム帝国の貴族階級、それもかなり上位の貴族出身と聞いたことがある。やはり、上流階級の教育を受けた者は何かが違うのだろう。
 ただ、ヴァンさん自身は四男で、家を継ぐ必要はないので俳優を生業としているらしい。
 この城のメイドが入れてくれたお茶を飲んでいると、再びヴェルフさんが応接室に入ってきた。
「お待たせいたしました、大家様。我が主がお目覚めになられたようで、間もなくこちらへ参ります」
「いや、突然押しかけたのはこちらなのだ。気にしないでくれないかね?」
 それからまたしばらく待っていると、ようやくこの城の主であるヴァンさんが応接間に姿を見せた。
「やあ、大家さん。申しわけないね、遅くなってしまって。夕べは遅くまで撮影があったものだから、先程まで寝ていたんですよ」
「そうだったのか。それは悪いことをしてしまったね」
「いやいや、気にしないでください。どうせ、そろそろ起きなければならなかったんだ」
 と、ヴァンさんがにこやかに笑う。
 どうやら寝起きにシャワーでも浴びてきたらしく、彼のよく整えられたややクセのある漆黒の髪は僅かに水気を帯びていた。
 その水分多めの前髪の奥には、極めて整った容貌が覗いている。それは芸術家ならば誰もが彼のその姿を作品に留めたいと願望するだろう、恐ろしいまでの美貌だ。
 白い肌と均整の取れた肢体は、同性が見ても思わずどきりとしてしまうような、一種妖しい魅力に溢れている。
 その身体を簡素な白いシャツと黒いスラックスで包み込み、その全体にモノトーンの配色の中で、唯一彼の赤い瞳だけが、まるで宝石のような輝きを放っていた。
 ただ、そこにいるだけでその場を支配する圧倒的なカリスマ。
 そのカリスマとこの芸術品も裸足で逃げ出す美貌を合わせれば、世の女性たちが彼に夢中になるのも理解できると言うものだ。
「どうやらヴァンさんもお疲れのようだし、早速私がここを訪れた件について話そうか」
 私が話を切り出すと、ヴァンさんもその表情を引き締めて私の言葉に耳を傾けた。



「ふむ、ボウケンシャね……所詮はただのこそ泥に、人間たちは大仰な名前を付けるものですね」
「それに関しては全く同意だね。とは言え、だからこそ人間とは興味深い存在なのだとも言えるのだよ、ヴァンさん」
「なるほど、大家さんらしい。興味深いと言えば、人間たちは僕たち吸血鬼は夜しか活動していないと思い込んでいるそうですよ? 一体、どこからそんなデマが広まったのやら」
「ああ、それなら私も聞いたことがあるよ。何でも、吸血鬼は日の光を浴びると灰になってしまうと信じられているそうだ。いやはや、人間たちの想像力の豊かさには脱帽だね。そんなだから、この魔界に魔王が君臨しているなんて信じるのだろうな」
 過去、私のアパートに入り込んだボウケンシャの中に、私を見て「き、貴様が魔王なのかっ!?」と真顔で問いかけてきた者がいた。
 もちろん、その問いは完全に否定して、いつものように人間界へと放り出したのだが、どうしたら私が魔王に見えるのだろうか。
 私など、この魔界ではありふれた容姿のしがない老人でしかないと言うのに。
「さて、人間に対する論議は尽きないが、他の用件も片付けようか」
 私はいつものように、手近な空間を自室へと繋げる。そして、そこからガラス製の瓶に入った薬液を取り出した。
 私は瓶の中の薬液に、先程フロドラーくんからもらった血の結晶を一欠片放り込む。
 そして、を操作して結晶を薬液の中に溶け込ませていく。
 やがて血の結晶は完全に薬液に溶け込み、私はその薬液にさらに幾つかの素材を放り込んで同じように操作した。
「ふむ……相変わらず大家さんの手並は見事ですねぇ」
 私の手元を覗き込みながら、ヴァンさんが感嘆の声を上げた。
 その後もいくつかの手順を踏み、私はヴァンさんからの依頼の品である魔素回復薬を完成させる。
 私は完成した魔素回復薬を、瓶ごとヴァンさんへと手渡した。
「いや、助かりますよ。僕はこれがないと魔素が回復できませんからね」
 魔素回復薬を受け取ったヴァンさんは、にっこりと笑顔を浮かべた。



 我々魔界の住人──魔族にとって、魔素は生命活動に不可欠なエネルギーであり、同時に魔界に広く普及している各種の機械──機械マシンの動力源でもある。
 極論すると、我々魔族に食事は必要ない。魔素さえあれば生きていくことは可能なのだ。
 魔素は魔界のあちこちに溢れていると同時に、生物の身体にも宿る。
 魔界に棲息する殆どの生物は、身体に宿る魔素を用いて生きているのだ。
 しかし、身体の中の魔素は使用すれば当然減っていく。体内の魔素も自然回復はするが、その量はごく僅か。
 日々の生活に必要な魔素の量に比して、自然回復する魔素の量では圧倒的に足りないのだ。
 そのため、我々は食物を通じて不足する魔素を補給する。
 例えば、第一階層のゴブリン夫妻が育てる野菜には、驚くほど多量の魔素が含まれている。それが彼らの育てる作物が魔界でも人気を博している理由の一つだ。無論、単純に彼らの野菜が美味しいのも、人気の理由なのは間違いない。
 他にも、我々が進んで食事を摂るのは、その味を楽しむためでもある。
 だが、魔族の中には、特定のものからしか魔素を回復できない種族もいる。
 魔族の中でも特に強大な力を有する種族は、その大きすぎる力の反動なのか、魔素を回復する手段が限られている。
 中でも特に有名なのは、吸血鬼が異性の血からしか魔素を回復できないことだろう。
 ヴァンさんも吸血鬼である以上、異性の血を飲まねば魔素を回復できない。
 しかし、彼はいつの頃からか血が飲めなくなったそうなのだ。
 詳しい理由は私も聞いていないが、血が飲めない彼は魔素を回復させる手段がない。
 そのため、私が作った魔素回復薬に頼るしかないわけだ。
 無論魔界では様々な魔素回復薬が売られている。だが、ヴァンさんに言わせると、私が作った薬が一番効果的らしいのだ。
 ちなみに、この回復薬の原料の一部はドラゴンの血なのだが、薬に加工されていればヴァンさんでも飲めるらしい。
「本当に大家さんにはあれこれとお世話になってしまって。僕にできることがあれば、何でも言ってください」
「そう言ってもらえると助かるよ。実は、いつも薬の材料の血を分けてくれる若いドラゴンがいるのだが、彼が君の大ファンらしくてね。それでサインが欲しいそうなのだが、書いてあげてくれるだろうか?」
「ああ、第四階層にいるフロドラーくんですね? 彼にも世話になっていますからね、それぐらいのことは是非させてください」
 ヴァンさんはヴェルフさんを呼び寄せると、用紙とペンを取りに行かせた。
 ヴェルフさんはすぐにそれらを取ってくると、流れるような所作でヴァンさんに差し出す。
 そして、さらさらとペンを走らせるヴァンさん。
「では、これをフロドラーくんに渡してください」
「ありがとう、ヴァンさん。きっとフロドラーくんも喜ぶだろう」
 私はヴァンさんが書いてくれたサインを、空間を繋げた自室へと丁寧に送り込んだ。次にフロドラーくんに会った時に、これを渡してあげよう。
 きっとフロドラーくんも喜ぶに違いない、と私が考えていると、不意に目の前のヴァンさんが真面目な表情を浮かべた。
「実はですね、大家さん。お世話になりついでと言っては何ですが……ひとつ、相談したいことがありまして」
「私に相談? ふむ、私でできることなら何でも承るよ」
 大家と店子と言っても、所詮は他人だ。だが、こうして縁を結んだのも何かの運命。私は店子である彼らに、自分ができる限りのことをしてあげたいと常々思っている。
「……大家さんは、キュラーという名前の歌手をご存知ですか?」
 ヴァンさんの問いに、私は自分の眉毛がぴくりと揺れたのを自覚した。
「ヴァンさんの言うキュラーとは、あの《歌姫》キュラーのことかね?」
 《歌姫》キュラー。それはこの魔界でも指折りの歌手の名前だ。
 その歌声に魅了される者は老若男女問わない。誰もが一度聞いただけで、その歌声に耳を傾けずにはいられなくなると言う。
 かくいう私自身も、初めて彼女の歌声を聞いた時にすっかり魅了された一人なのである。
「ええ、その《歌姫》キュラーです。実は彼女……今、この城に来ているんですよ」
 ヴァンさんのその言葉に、私は年甲斐もなく胸の鼓動が激しくなったのを覚えた。
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