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第77話 『やだなぁ〜』の言葉の向こう側

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 母と一緒に夕食を食べて、そのあと今日の出来事を聞く。デイサービスの報告書に目を通して申し送り事項を書き込む。

 このあとが母と子の戦いである。

 我が子、勇太が実家に残していった一冊の本がある。本といっても幼児向けの物で縦横ともに15センチくらいの絵本である。表紙には『わんちゃん』のイラストがある。1ページ目を開くと右側には『わんちゃん』の絵があり、左側のページには平仮名で『いぬ』と大きく印刷されている。

2ページ目にも同じ様式で猫が描かれていて、平仮名で『ねこ』と書いてある。3ページ目は何故かペンギンになる。ここには『うさぎ』がくるべきであろうと思うのだが、幼児が言葉を覚えるためのいわゆる教材だから、こだわりがあるのかもしれない。

 「かあちゃん、始めようか。」

 母はこの言葉にいつも嫌そうな顔をして応じた、シカメッツラと言うものだろう。

 「かあちゃん、いくよ、これは、いぬ、いぬ、いぬ、ね、わんちゃんだ。いぬ、いぬ」

 「い・・・ぬ」と母は長い合間をあけて『ぬ』の文字を頭のどこからか引っ張り出してくる。

 「そう、いぬだね。じゃあ、次はねこ、ねこ」を繰り返す。

 「ね・・・・こ、ねこ、ねこ」

 母は目を細めて口早に『ねこ』を連呼した。思い出すための反復練習である。

 「じゃあ、もう1度いくよ。いぬ、いぬ、いぬ」

最初のページに戻ってみる。「い~ぬ?」

文字で表現するならこうなるだろうが、実際には物凄い葛藤がある。いや格闘かもしれない。

 「じゃあ、これは?」と、ねこのページを開く。まだ1分も経っていない。

 「わかんない。」

 母はこの「わかんない」だけは的確に使うことができるのである。

 「わかんない、い・・・・ぬ?」こうなるのである。

 3ページ目のペンギンにたどり着く日はなかった。

 母はもうひとつだけ的確に使える言葉があった。それは『やだなぁ~』である。

「やだなぁ~」という母の言葉の指さす向こうにあるものはウイスキーの小瓶だった。

 『介護』という言葉が定着した昨今、介護は介護職の資格者に頼むものだと思われているが、年老いた親の面倒を看るのは子の責務であった時代がある。親と一緒に過ごせる最後の時間を持てるというのは幸せな事なのかもしれない。

その時間が長期にわたらなければという前提は付くだろう。

 母と共に戦ってきた。

一生懸命に戦ったかどうかを尋ねられたら「はい、必死でした。」とは言い切れないが、母と子が同じ空間に共存して、同じ目的を持てた時間は今、思い出してもかけがえのない、私から母へ短すぎる償いの時間だったように思う。
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