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第18話 ニンジンとアルコール

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 「アルコール依存病棟の人たちってなんでそんなに無気になるのだろう?不思議だよ。それでいて瞬間湯沸かし器と同じくらい短期ときているから手に負えないよ。」

 リハビリテーション担当医療者の言葉である。みんなは『先生』と呼んでいるが、真にそう思っている者などいない。アルコール依存症者は全くもって『先生』の言う通り、争い事が大好きでなんでも競技にしてしまう。

 「看護師さん、俺の方から始めてくれよ。パッパッパッとね。」

 入院して最初の2週間でおこなわれる治療は毒抜きと言われている点滴である。500ccが2パック、体内に投与される。内容物はおそらくビタミン類と生理食塩だと思う。10時ちょうどに投与が始められてもお昼ご飯の時間には間に合わない。 入院中の唯一の楽しみはメシである。

 アルコールの連続飲酒中はまったく固形物を摂取できていないから、胃袋は入院初期には食物を受け付けないし、食欲もない。禁酒が三日も続けば「ハラヘッタ!」になり「飯、まだか!」に変わる。

 点滴を「よーい、ドン!」ではスタートできないから液体を落とすスピードを自分で早めてしまう。看護師が血管を探って見つけ出し『ブスッ』と刺す。隣で待っているアル中に向かって背を向けたら即、行動を開始する。

『ポタポタ』と落ちる点滴の液体を『ジャー』と血管に流すようにダイヤルを全開にする。危険な行為である認識はあるが二日目になると「それほどたいして危なくない。」に変わる。ただ、腕が冷たくなっていき心臓の脈打つスピードが早くなるくらいであった。

 小一時間もしないで「イッチバーン!」が決まる。次々と点滴専門部屋からひとり、またひとりと出て行き、飯にありつくのである。時間差は埋めようがないから新参者が一番最後に飯を食う事が出来るのだが、この順番は1週間も経たないうちに変わる。 なにしろ世間は師走のムードに浸りきっている季節だから、急性アルコール中毒者が次々に運ばれてきては解毒の点滴を打ちに現れるのだった。

 私が入院する前日、この病棟の住人になった者に松田という独身男性がいた。おそらく30歳代だろう。
二週間の点滴期間中に彼の頭にあった事は「食事に出されるニンジンに農薬が混入されていないかどうか。」であって「こんなヤバいもの食えるか!」と怒鳴り散らし脱走してしまった。

 ところが、わずか5日後の深夜、施錠されている正面玄関を突破して、病棟の入り口まで舞い戻ってきた。

 「おーい、だれか、開けてくれ!」

 その声に「あの声って松田だよな。やっぱり酒、止まんなかったか。」と薄ら笑いを浮かべて皆が勝ち誇った気分になった。

 松田は脱走後、フィリピン・パブのお姉ちゃんと呑み明かし、そのまま連続飲酒に落ち入り、底が見えない沼に滑り落ちていた。顔は赤く腫れ上がり瞼の上も下も塞がりそうなくらい厚ぼったくなっていて、まるでボクシングの選手が打たれ負けしたような顔で現れたのである。

 「呑んで来る所ではありません。出直しなさい。」

 鍵の掛かったドアを挟んで看護師が松田を追い払っていた。

 「アルコール依存病棟はアルコールを断つ者だけが来られるところです。松田さんのようなお考えの人が、その場しのぎに来る場所ではありません。」

 階段を落ちていく松田の靴音が遠く消えていく。ニンジンとアルコール、どちらに執着すべきだったろうか。

 松田とはこのあとも私が入院中に三鷹の街で2度ほど会っている。『断酒会』とか『AA』といわれる自助会に参加していたのである。 AAはアルコホーリックス・アノニマスの略で神を崇高するものである。
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