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三節 二人だけになりました。

011 出来栄えは、完璧だった。

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「広海―! できたよー!」

 いやはや、楽しみで仕方ない時間というものはあっという間に過ぎ去っていくものだ。幸紀の手料理が何かとイマジネーションを膨らませている内に、もう完成してしまった。

 幸紀の声につられて階段を降りると、食卓には豚肉の生姜焼きが二皿並んでいた。オマケ程度に添えられたサラダは、見覚えがあるのできっと即席のものだろうが。

 あまりにも完成されているもので、ついまじまじと粗探しをしてしまった。見た目も盛り付けも、完璧と言ってよい。

「……おいしそう」
「でしょ、でしょ? どうだ、私の料理力、思い知ったか!」

 怪訝な目を向けていた自分をぶちのめして白旗をあげたくなったが、また味という重要な項目が残っている。

 ……これだけおいしそうなら、中身も美味しいと思うけど。

 広海は、幸紀を疑う心をもう捨てている。

「それでは、いただきます」

 手を合わせるのは、小さなころからの習慣である。毎回感謝の思いを持って食事に臨んでいるわけではないが、ふとそう思うことはある。

 薄い生姜焼きを箸にとって、口元へと運ぶ。滴り落ちた汁も、油とタレを含んでいてべっとり付けるとうま味が増しそうである。

 咀嚼して口の中全体に広がってきた、その味は。

 ……おいしい……

 リポーターの仕事に就いているのならば怒られそうな感想だ。それくらい、幸紀の作った生姜焼きはよく味付けのバランスが取れていた。

「……どうかな?」

 幸紀のやや不安そうな声に、グッジョブと満足顔を返した。

 ……幸紀って、料理上手かったんだな……。

 一年も無いブランクでは、腕が劣ることはないという事か。広海など、記憶の断片を繋ぎ合わせて焦げ焦げの肉塊が皿に乗っかっているので精一杯だと言うのに。

「……良かったー。……実は、レシピの通りに作っただけなんだけどね」

 そう幸紀は謙遜しているが、お手本通りに作ってその通りのものを仕上げることの出来る人は少ない。

「……広海、分かってる? 今広海が食べてるのは、女の子の手料理ってこと。……こんなに料理のおいしい子、他にいないと思うけどなぁー……」

 思わせぶりに、余韻が残る。

 ……そもそも、女子の手料理なんて今の今まで食べたことすらないな……。

 広海が引き気味な性格だったからなのか、それとも特に目に留まらなくて異性の友達が作れなかっただけなのか、どちらにせよ手作りのものを貰ったことが無い。クラスの女子がバレンタインの義理チョコを配っているのをもらったものが唯一だが、店頭に並んでいる小さめのチョコだった。

 幸紀の作ってくれた、およそ外にうずくまっていたとは思えないスキルの高さの生姜焼き。理屈抜きで、うま味が引き出されている。

 これを、幸せ者と言って何が違うのだろうか。家の台所に立ってもらうことなど、普通ならば付き合ってでもいない限りはないはずだ。サラダが手抜きだとか言う性悪は、きっとどの料理にも満足することはないだろう。

 ……また作ってもらうっていうのは、わがまま、だよな……。

 幸紀が食卓に並ぶことが夢のまた夢と言うのならば、彼女が毎日食事を作るというのも同じだ。かなえたくても、叶えられない。それに、自分のエゴに彼女を巻き込んではいけない。

「……そうだな。レストランで出されたやつよりもおいしいくらいで、とっても良かった」
「……ほら、言ったじゃん。私の料理スキルは、世界にも通用するって!」

 ……いや、それはどうかと思うんだけどな……。

 星のついている料亭のシェフに、完膚なきまでに打ちのめされそうである。

「……幸紀、どこでこんなに上手く……?」

 ……幸紀は、まともに働けて無かったはず。どこで上達したんだろう……?

 また明かされていない秘密を暴露すべく疑問を飛ばした。

 レストランでバイトをしていたならば納得できるが、固定されていた住所の無かった幸紀には定職を享受することは叶わなかったはずである。

 となると、やはりこの技術力は中学生時代かそれ以前に培われたものなのだろう。料理教室に毎週通っていたのか、それとも家事の手伝いをしていたのか……。

 ……幸紀の家に、習い事をさせる財力なんかあったのか?

 一家散り散りにならなければならないほど家計が火の車であった宮形家。子供には無理をしてでも他の家と同じにさせようとする親の習性があるので一概には言えないが、幸紀を利になりづらい習い事に通わせることはないのではないだろうか。

「……中学校に入ってから、三年間家の晩御飯作ってただけだよ? 毎日は流石に多すぎだと思うけど、広海もたまには作るでしょ?」

 家の台所で包丁を持つ機会は、趣味でやっているという人以外は極端に少ない。男女平等が叫ばれている世の中ではあるが、男子は特に台所に立った回数が数えるほどしかないのだ。

 それはどうでもいいとしても、幸紀の言う『三年間』がどういった意味なのかが気にかかる。家族を手伝うという意味でたまに親と二人で並ぶのならばよいのだが、家事を完全に一人で担っていたのなら大問題だ。

「三年間って、どういう……?」
「どういうって、毎日私がみんなのご飯を作ってただけだよ……?」

 ……娘に家事を全部任せるとか、どこのブラック家庭だよ。

 『毎日』、『幸紀一人が』、『家族全員の』飯をこしらえていた。超が付くほどの重労働だったことは想像に難くない。

 借金の関係で家を失ったことは聞いていたが、それ以前が上手くやりくりされていた様子でもないことには驚きを隠せない。なりたてほやほやの高校生を追い出すこと自体が異常なのだが、そんなことが霞んでしまうほどだ。

「……お父さんとか、お母さんとかは……?」
「……小学校までは、お母さんが全部作ってくれてたけど、『中学生になったんなら自立しなさい』って」

 なんという放任主義なのだろう。中学校は、まだ義務教育である。鉄道会社などでは大人に区分されるものの、精神面では未熟だ。

 ……何でもなさそうな顔をしてるけど、過去を知れば知るほどかなしくなってくるな……。

 最も恐ろしいことは、肝心の幸紀が平然と語っていることである。死にかけた記憶などは体の震えが止まっていなかったことを考えると、当たり前だと思っているのだろう。

 中学生が、家族の役割を担っている。これ自体は正常なものである。ゴミ捨てや配膳など、社会的な貢献の第一歩を踏み出るのに重要なことを親がさせるのは、何ら問題はない。

 ところが、これが学業に支障をきたすようになってくるとまた別だ。『部活に入っていなかった』と幸紀がやや物足りなさそうに口走っていたが、それは家事に時間を取られた結果なのではなかろうか。

「……他の子に、いつもの生活どうしてるか聞いたことは?」
「無かったよ? 確かに、どうやってみんな部活出来てるんだろう、って思ったことはあったかも」

 それは、毎日家事をするなどといった重労働を控えていなかったからだ。

 ……幸紀も、遊びたいのは同じだったんだよな……。

 彼女が入りたいと言っていたのは、テニス部。中学校から続けていれば、青春真っ盛りのスポーツ少女に育ったに違いない。

「……広海、どうかした? ……そうか、そんなに幸紀さまの出来栄えが良かったか!」

 頬の下あたりをこすると、薄い水の流れができていた。これが、悲し涙というものなのだろうか。

 ロマンチックな映画のラストシーンで感動して涙を流してしまうのは、俗に言う嬉し涙というものである。体を障害物にぶつけたり、悲劇が起こった時に出てくる光の粒とは、性質の違うものだ。

 広海は、どちらもほとんど流した事は無い。なぜドラマを見終わって家族が泣いているのかが小さい頃から不思議でならず、また感情移入が出来ずにヒロインが失踪するシーンで涙が出なかった。

 それもこれも、『現実は儚い』と諦めていた男の感情がそうさせていたのである。

 ……小説の中やドラマは、しょせん架空の物語であって現実にはなり得ない。だから、どうでもいい……。そう考えてた。

 人のヒューマンドラマを見せられても、胸の奥で震えるものがなかった。その人の道はその人の道で、自分とは関係ないと割り切っていた。客観的に物事を捉えて数値化することはできても、ぼんやりとした言葉で表すのが苦手だった。

 ……でも、俺よりはるか下の地獄から這い上がって来た幸紀は、こうやって笑ってる。確実に、充実した今を過ごしてる。

「……おーい、ひろみー?」
「なんでもない。ほっとして、眠くなってきた……」

 つらつらと制御の効かない水門を誤魔化そうと、わざとらしくあくびをした。

「……食事中に眠くなるなんて……。うん、でも今日は結構歩いたし、しょうがないよ」

 それで納得してしまったらしい幸紀は、大きくうなずいた。

 彼女の過去には、濃霧どころではないほど見通しが悪い箇所がいくつもある。そこを片っ端から照らしていったとして、一体誰の得になるというのだろうか。

 ……詮索するのも、自己満足。

 利益にならないことを優先してやることは、ポリシーに反する。もう何かと彼女に探りを入れるのはやめよう。広海は、固く誓った。

「……箸が進んでないみたいだけど、お腹いっぱい?」
「もしそうだったとしたら?」
「その時は、もったいないからわた……。冷蔵庫に入れて、また夜に食べてね」

 素が出てしまったようであわててテーブルの下に隠れたが、もう遅い。

 ……でも、本当にもったいないからだったのかもしれないしな……。

 ノーマル女子高生がそのセリフを言ったとしたのならば、半分以上は気があるという事である。根っこから嫌いな人に『私が食べてあげる』とは咄嗟に飛び出したりはしない。

 だが、相手は飢えをしのぐために残飯にでも食らいつこうとした(できなかった)幸紀だ。食品ロス問題の解決に身を捧げそうな彼女なら、純粋に食べ残しが惜しくなったとしても特に矛盾はない。

 ……高校で一緒に通えなくて、俺のすぐ横を歩いて行くのかも分からない。幸紀についていっても、分岐がきたら別れなくちゃならない。

 それに、広海自身の保険と言うものがあった。

 広海と幸紀は、確かに二人で自炊昼食を食しているのではあるが、将来どうなるかは不透明だ。

 広海は、冬休みが明ければ高校に通い、授業を受け、部活にいそしむ。サプライズなどはありやしないが、落とし穴にはまることも無い。良くも悪くも、平凡な男子高校生のスケジュールである。

 命からがらピースとピースを繋いで生き延びてきた人懐っこい少女は、そうではない。明日追い出されるかもしれず、仮に年が明けたとしても学校に通うことが出来ない。保護者も、制服も、教材も足りないのだ。

 幸紀を受け止められるだけの時間が、約束されていない。そのことが、彼女を『LOVE』の対象から外させようとしているのだ。

「……なんだ、ちっとも満腹じゃないじゃん。結局、全部完食してくれたんだね」

 幸紀が用意してくれたものをゴミとして破棄するなど、出来るはずがない。そして腐っても運動部の胃袋は、ポリバケツほどではなくとも家の食事くらいなら平らげられる。

「……そりゃ、幸紀が頑張ってくれたから」
「それは、レシピだって……。褒めるのがうまいなぁ、広海は」

 もう食べ終わっているが、幸紀は立ち上がらない。広海が黙々と喉にかきこんでいくのをずっと見守ってくれていたのだ。

「……ほんっとに、久しぶりだよ……」

 電灯の光が反射して歯の表面がキラキラしていて、抜けてよだれが垂れた寝顔のような笑顔を見せている幸紀。本人としては広海との時間が満足いくものだったようで、なによりだ。

「……一人じゃない食事って、こんなに暖かいんだなぁ……」

 耳を疑った。平和そうにのほほんと幸紀はしているが、裏を返せばホームレス時代はもちろん、その前の中学生時代も孤食であったことがうかがえるのである。

 ……もう、幸紀の過去を掘り出すのはやめたいんだよ!

 脳がそう命令していても、好奇心を持った解析班が勝手にロックを解除してしまう。

 暖かいというのは、窓から差し込む日光のことだろうか。そんなわけがない。冬は日差しにやる気が感じられないというクレームはお引き取り願おう。

「……そっか、あの夜もそうだったかな。それじゃ、三日ぶりだねー」

 顔色が変化したのを知ってか知らずか(たぶん知らない)、事実を訂正してきた。が、問題はそういうところではない。

 ……幸紀は、ひとりぼっち……?

 幸紀の家族は、もう家族の体を成していなかったのではないだろうか。個々が好き勝手に行動し、必要最低限の生活費だけを親が折半していれる、そういった感じだったのではなかろうか。

 親ガチャ、という働き盛りの世代には耳障りな言葉がある。これは、生まれ育った家庭環境の良し悪しを比較し、最悪と言っていいほどの底辺だった人たちが自虐的に生み出したものである。

 子供は、生まれる親を決められない。環境は、どうしても自分の力が及ばない。育児を完全放棄する母親の下に生を受けても、すぐにビデオテープが切れてしまう。どんな天才でも、元々の長さを引き延ばすことは出来ない。

 ……こんなこと、幸紀は言うことを望まないだろうけど。言葉にするとすれば、はずれだ。

 大きな危機に遭遇したことも無く、のうのうとコタツにくるまって過ごし、ネットを見て有名人を批評している自分が憎たらしく思えてきた。『生産性のないことをするな』、と。

 ……幸紀は、ポジティブだ。身に起こったことを考慮したら、どこか頭のネジが飛んでないかと心配したくなるほどポジティブシンキングだ。

 彼女に『もし』はない。あったとしても、後ろめたさを引きずってはいないのだ。

「……広海、洗うから皿かしてね」

 カウンターに自身の食器をスタンバイさせている幸紀が、空っぽになった広海の食器をも流し台に下げようとした。

「……一人で洗うの、時間かかるだろ? スポンジ二つあるから、二人で洗おう」

 日頃ほとんど皿洗いをしない広海だが、幸紀の過去を知ってしまうといてもたってもいられなくなった。偽善でもいい、同情心からくる熱意でもいい。

 ……出来る限り、幸紀に近づきたい。

 将来どうなるかは、神のみぞ知るところだ。しかし、今はそんなことどうなっていたっていい。広海には、そう思えた。

「……ありがたく、やってもらうよ?」

 フリじゃないかとカマをかけてきたが、広海の本心である。そのまま、広海と幸紀は台所へと入っていった。

 水に浸された二人分の食器が、流しに置かれていた。水を嫌っているドレッシングの油がぷかぷかと表面に浮き沈みしている。

「……洗剤は、これくらいでいいかな……」

 幸紀が濡らしたスポンジにしみ込ませた洗剤の量は、規定量を大幅に下回るものだった。無理やり数字に直すと、一滴の二分の一ほどだ。

 当然それくらいの量で油汚れが全て落ちるかと言われれば、そんなことはない。環境問題に熱心な人でも、次回の使用に悪影響を与えるだけの効果の無い使い方はしないだろう。

「それじゃ、汚れ落ちないぞ? たくさんつけすぎるのも良くないけど、汚れが落ちなかったらもっと意味が無い」

 節約癖を矯正する必要があるかと問われれば答えに窮してしまうが、逆効果になってしまうものを肯定することは出来ない。

「……そこまで広海が言うなら、もう少しだけ」

 遠慮気味に、幸紀は洗剤ボトルの中腹に手を伸ばした。

 昔からの習慣は中々正すことは出来ない。追加補充してもなお、適正量には達していなかった。

 ……これくらいなら、まあ大丈夫だろ。

 幸紀の挙動の所々に、負の遺産が見え隠れする。重い物を乗せるとすぐ凹んでしまいそうな両肩に、重圧がのしかかっていたのが素人でも感じられる。

「……幸紀は左半分をお願いな。俺は、右の方に固まってるサラダ入れをやるから」

 広海がそう言って溜まっている水を流したところで、

「待った! ……自分の食器が混ざってる……」

 幸紀に手を止められ、やむなく手放した。

「……何とも思わないの?」
「考えて無い訳じゃないけど……」

 こんなことでわざわざ中断してしまうと、時間がかかるのではないだろうか。もちろん、幸紀に一言確認を取るべきだったのは認める。

「……なーんちゃって、気にしてないよ。どっちがどっちか分からないし、水につけてあるものに綺麗も汚いもないもんね」
「また冗談ですか……」

 彼女の冗談は、複雑でわかりづらい。一見本当の気持ちを話しているように聞こえるからタチが悪い。

「……でも、食べ終わった直後のを舐めるとかされたら、嫌にはなるかな……」

 ……そりゃそうだろ。

 常識的に考えれば声に出さなくても分かることをいちいち例に出してくるのも、幸紀の特徴と言えなくも無い、

 思いのほか後片付けはスムーズに事が運び、あっという間にすべての使用済み食器が水切り台の上に並んだ。

「……今まで、誰かが手伝ってくれたこと、無かったから」

 キッチンを出る直前、前を行く幸紀に手を握られた。

「……ありがとう」

 優しく投げかけられたその言葉が、広海の奥底まで共鳴した。
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